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講義と演習
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講義と演習
 2019年度の「(共)大学基礎論」で、コース長講話のようなものを講じてほしいという要請があったので、
古いノートをひっくり返して、恰好の題材かと思われる文章を発見しました。少し手を入れて、講義に供する
予定ですが、それに先行して、SOULSでも公開することにしました。もとより拙いエッセーですが、ご一読い
ただければ幸いです。なお、なんせ古いノートなので、参考文献等が明示されておりませんでした。その点、
ご寛恕戴きたいと存じます。
 その後、参考文献が判明しました。以下に記しておきます。

 〔参考文献〕

 『岩波 哲学・思想事典』、廣松渉 他 編、岩波書店、1998年。
 『人間の輪郭』、拙著、不二出版、2004年。

                                                 
  大学基礎論                               2019年度1学期
                                  2019年4月15日(月)・1限目
                                     担当者:武藤整司

 本日のテーマ:講義と演習

 はじめに

 人文社会科学部人文社会科学科人文科学コースに所属する武藤です。主な担当科目は倫理学です。倫理学
は哲学・思想系の学問分野に属しますが、本日は専門のお話ではなくて、ごく一般的なお話をします。テー
マは、「講義と演習」で、学生諸君が大学でどのように講義を聴き、どのように演習に参加すべきかについ
て、概略的なお話をさせていただきます。
 さて、諸君は、高校や予備校で、幾何や代数で代表される数学、英語を中心とする外国語、古典を含む国
語、地歴・公民などの社会、物理・化学・生物・地学などに分類される理科などを学んできたはずです。ま
た、それらの科目の教科書や参考書に載っている問題には、必ず「解答」なるものが存在したはずです。諸
君はこれらの科目を体系的・網羅的に学習し、「正解」と呼ばれるものを求めて勉強してきたはずです。し
たがって、その科目の正確な理解と応用力を十分に身につければ、あらゆる試験において高得点が期待でき
たはずです。もっとも、諸君が学習する範囲はきわめて広くかつ高度なので、高校の教科書をすべてマスタ
ーすることは不可能に近いでしょうし、またあまり意味もありません。高校では、諸君が大学で学んでいけ
る程度の勉強法と基礎知識が身についていればそれで十分なのです。
 ある程度の数学的思考法、ある程度の英語力、ある程度の国語力、そして、ある程度の一般的知識があれ
ば、大学で学んでゆくことができます。諸君が大学で学ぶことは膨大ですが、少しずつ積み上げてゆけばよ
いので、それほど恐れることはないでしょう。われわれ旧世代に属する者は、「一般教育」(かつては、
「パンキョウ」と呼ばれていました)という名前の「教養教育」を授かった後、専門に進むのが普通でした。
今日では「共通教育」と呼ばれている分野に相当します。われわれの頃は、いわゆる「パンキョウ」の科目
の単位を残していると、専門を学ぶ上で支障となると考えられていましたが、今日のカリキュラムの考え方
では、そのようなことは否定されて、共通教育も専門教育も並行して学ぶことが可能です。もっとも、早く
共通教育科目の単位を取ってしまって、専門教育科目に集中した方がよいという考え方は、依然として根強
いと思われます。ともあれ、少し性格の異なる科目群を、諸君はそれぞれ必要な単位数だけ修得することが
卒業の条件となっています。つまり、定められた科目群の中から、規定の単位(124単位)を修得しなけれ
ばならないのです。とくに、卒業論文には最も重きが置かれ、専門ゼミナールのV・VIを含むかたちで通年
に亙って履修しなければならず、そのために8単位が当てられています。普通の科目は半期30時間で2単位
ですから、その重みが十分に分かると思います。
 さて、共通教育にも、専門教育にも、一般的な講義と、外国語や専門演習などの科目のように、演習形式
のものがあります。どちらも大事なので、それぞれ別々にお話してゆきましょう。その前置きとして、簡単
に、大学の歴史についてお話しておきましょう。なお、大学の科目の中には、実習や実験のような少し性格
の異なる授業形式も存在しますが、ここではテーマから外れるので扱いません。それぞれの実習や実験に参
加されたときに、それらを担当なさる先生方が参加する際の心構えを授けてくださるでしょう。

 大学の歴史

 大学は、古代ギリシア以来の種々の学校(アカデメイア、リュケイオンなど)、あるいは、キリスト教の
修道院などの伝統に連なり、12世紀に起こった、いわゆる「カロリング・ルネサンス」の所産として、新た
な相貌のもとに成立した、西洋に特徴的な自治的教育組織であり、今日に至るまで人類の知的活動の中心的
役割を果たし続けています。
 大学という組織は、本来、学問に携わる人々の「組合(universitas)」や「共同体(commune)」を意味
し、対外的に権利を主張すると同時に、対内的には、構成員に規律を課す自治組織です。最初期の大学(パ
リ大学やボローニャ大学など)が自然発生的に成立したのは、12世紀末から13世紀初頭にかけてであると考
えられています。中世の大学の「学部」は、通常、共通的な基礎学問(自由学芸の伝統)としての、アリス
トテレースの体系を学ぶ学芸学部(教育内容から、「哲学部」と呼ばれることもあります)と、神学・法学・
医学の三つの上級学部から成ります。学長は、構成員によって選出され、学寮や学生の出身地別の組織であ
る国民団を含めた大学全体を統括しました。ここで、そのうちの自由学芸を少し説明しておきましょう。

 自由七科(septem artes liberares):ローマ末期から中世初期にかけて、カッシオドルスやイシド
     ルスらによって確立された神学以下の一般学芸の課程であり、三科(trivium)〔カロリング
     期の造語〕と四科(quadrivium)〔ボエティウスが使用〕に分かれていました。三科は、
     「文法(grammatica)」、「修辞学(rhetorica)」、「論理学(logica)」で構成されてい
     ました。また、四科は、「算術(arismetica)」、「幾何学(geometrica)」、「天文学    
     (astronomia)」、「音楽(musica)」で構成されていました。

 一種のギルドとしての中世の大学がもつ機能は、「教授資格」を与えることであり、そのために習得すべ
きカリキュラムの内容が標準化されていました。大学での授業は、大別して二つの形態がありました。ひと
つは、「講義(lectura)」と言われるもので、それぞれの学問の権威ある書物を教授が読み解釈するという
形態でした。たとえば、学芸学部(人文学部)では、アリストテレースの諸著作が、神学部では、聖書とペ
トルス・ロンバルドゥスの『命題集』が中心的なカリキュラムの内容でした。もうひとつの授業形態は「討
論(disputatio)」です。これは、現代の「演習」に当たると言っても構わないでしょう。特定の問題(た
とえば、神学においては「神は存在するか」)について、賛否の根拠を学生が示した後に、教授が解決を与
え、さらに学生の議論のそれぞれについてコメントを加えるという形式をとりました。このふたつの授業形
式は、スコラ学における権威と理性の両方のもつ意味を端的に示しております。
 その後、精神的領域での啓蒙主義と合理主義の普及、政治的領域での絶対主義国家の成立、社会的領域で
の市民階級の台頭によって、中世以来の大学にも変化が起こってきます。宗教改革で教会が新旧両派に分裂
し、領邦国家が乱立したドイツでそれが顕著でした。他宗派の隣国と張り合うためと、自国の官僚、聖職者
を自前で賄うために競って大学が設立されたからです。教会の庇護のもとにかなりの自立性をもっていた大
学は、領邦君主の監督する国家施設になります。しかし、大学の精神的偏狭さは強まり、過度の典礼儀式や
学位の売買などで大学は荒廃し、改革論議が盛んでした。1694年創設のハレ大学は、これまでのように確証
済みの真理を伝授し解釈するのではなく、「学問の自由(libertas philosophandi)」を原則に、自主的、
批判的に真理を探究しようとする近代的大学の嚆矢とされ、ドイツでのこうした大学の近代化の努力が、西
洋諸国にも影響を及ぼしてゆくことになりました。
 その後、各国の大学にも変遷がありましたが、それについては割愛しましょう。ともあれ、大学は、学問
に携わる特権的な自治団体であると同時に、国家ないし社会の要請に応じてその保護を受けて存立するとい
う二重の性格をもっております。言い換えれば、研究・教育の自由と、国家ないし社会の要請との間の相克
の歴史を歩んでいるとも言えます。また、大学の大衆化にともなう、人間形成のための「一般教養」と、職
業教育とをいかに両立させるかも、今日の大学の課題と言えるでしょう。

 参考:わが国では、1886年の「帝國大學令」によって「国家ノ須要(しゅよう)」に応ずる研究と教
    育が、東京、京都などの官立総合大学でドイツの大学を模範として行われましたが、1918年の
    「大學令」で公立、私立の大学が設置され、これを補完することになりました。第二次世界大
    戦後の学制改革での新制大学では、それにアメリカ流が接木されたというわけです。

 講義について

 さて、大学の歴史を最初にざっと見渡したので、講義についてのお話に移りましょう。中世の大学の授業
形態のひとつが「講義(lectura)」であったことはすでに話しました。講師が黒板を背にして学生に向か
い、ときどき板書しながら話し続けるという、ごく一般的な形式です。「トーク・アンド・チョーク」など
と言われることもあります。また、参考資料や、講義のレジュメが配布されることもあります。さらに、視
聴覚教材を用いてみることもあります。最近では、パワー・ポイントの使用などもだいぶ一般化してきまし
た。いずれにせよ、講師から学生諸君への「一方通行」になりがちな点が欠点と言える形態です。おそらく、
高校や予備校の講義形態も似たようなものだと推察します。そういう意味では、学生諸君も慣れている形式
なのですが、高校や予備校までと大学との相違をあえて述べるとすれば、高校や予備校までの講義が閉じら
れた系の範囲内で進められるのに対して、大学での講義は開かれた系で講義が進められるので、定説以外に、
講師の新説も盛り込まれている場合があるという点が異なります。つまり、大学での講義は、講師の個性が
はっきりと現れると言ってよいでしょう。高校や予備校までの講義は、いわば舗装道路を行くようなもので
すが、大学での講義は、大袈裟に言えば、道なき道を進むのです。もっとも、教科書を用いて、それに沿っ
て講義が進められる場合は、あまり講師自身の新説は期待できないかもしれませんが……。言い換えれば、
高校や予備校までの講義は、その科目における模範解答を解説してゆく形態をとりますが、大学での講義は、
講師自身の試行錯誤の道筋を示し、学生とともに問題を吟味してゆく形態をとります。もちろん、大学での
講義にも、その学問の概略を示すだけで、あえて講師自身の独自の考えを述べないという形態をとることも
あるでしょう。中世の大学の講義が、アリストテレースの権威に寄りかかっていたのは、あえて独自性を抑
えていた証左でしょう。一般に、「概論」や「概説」と呼ばれる講義はこの形式をとることが多いようです。
それに対して、今日ではその名称こそなくなりましたが、「特殊講義」と呼ばれる講義形態があります。そ
れは、主として講師自身の研究内容を披瀝するもので、その学問分野における、ある程度特殊な問題を扱う
講義です。それは、確証済みの真理を伝授し解釈する講義ではなくて、「学問の自由(libertas philosoph-
andi)」を原則に、自主的、批判的に真理を探究しようとする姿勢を示す講義形態です。近代の大学として、
あまり解説的な講義ばかりをしていては、高校や予備校と変わりないことになりますから、それは当然の措
置と言えるでしょう。もちろん、学問分野によって、その講義される内容も、方法も異なりますが、一般的
にどのような傾向があるでしょうか。
 さて、実際に講義を行ってきた側に属する者として、学生諸君に散見できる傾向を示してみましょう。こ
れは、演習で得た知見にも通じることです。小生の担当する科目は主に倫理学ですので、その倫理学を例に
とってお話を進めます。ご了承ください。なお、諸君らにとっては耳が痛い話かもしれませんが、虚心坦懐
にお聴きいただければ幸いです。

 (1)学生の多くは、学問としての「(とくに歴史に力点を置いた)倫理学」に対してそれほど興味
   を抱かない。それでいて、日常生活における具体的な倫理問題には比較的興味を示す。
 (2)学生の多くは、最初のうちは自分で考えるという態度に欠けるが、繰り返してその大切さを説
   くうちに、徐々にではあるが自分の考えを表現できるようになる。
 (3)学生の多くは、論理的・抽象的議論に弱い。問題に対して、より感覚的・具体的な反応を示す。
 (4)学生の多くは、講師の講義をまとめる能力はあるが、それに基づくさらなる思索が足りない。
 (5)学生の多くは、受動的な態度で講義や演習に臨んでおり、積極的な態度で質問や発言をするこ
   とはあまりない。

 他にもいろいろ気づく点はありますが、おおむね以上のような特徴にまとめることができるでしょう。小
生は、これら5点のあまり歓迎できない特徴を参考にして、次のような実験講義を摸索し、今から20年ほど
前に実際に実施してみました。なお、現在もその方法をとっている講義があります。要点はこうです。

 (1)学生の興味を引き出す。
 (2)学生に自分で考えることの大切さを喚起させる。
 (3)学生に論理的な思考を組み立てる訓練をさせる。
 (4)学生に粘り強く問題を追究する態度を身につけさせる。
 (5)学生に議論などに積極的に参加させる。

 これらの点に基づいて、以下の要領で講義形態を組み立ててみました。

 (1)既成の倫理説の紹介・検討を行わないでも可能な講義形態。具体的には、DVD観賞などを通して、
   倫理問題を発見させる。もちろん、関連する必要最低限の文献は提示する。
 (2)問題に対して自分で考える機会を与える講義形態。リポートと、それに対する講師・学生間の
   質疑応答、および講義中の議論など。
 (3)リポートをめぐる質疑応答のとりまとめは講師が行う。最後にレジュメを作成するもの講師の
   仕事。つまり、とりあえず学生自身が感じたことを表現できる講義形態。
 (4)リポートなどを通して、問題の発見、調査、考察させる講義形態。全員に、自分の問題意識を
   自覚させる。
 (5)学生の積極性を促すような講義形態。機会あるごとに、学生に発言を促す。また、必要があれ
   ば、学生同士のフリー・トークの時間を設ける。

 さらに、別な表現を用いてみよう。

 (1)オーディオ・ヴィジュアル(視聴覚的)な要素を採り入れる。
 (2)ライヴ(生)やアドリブ(即興)の要素を採り入れる。
 (3)講義ノートがあらかじめあるわけではなく、講義を進めるうちに問題点を絞ってゆき、レジ
   ュメ(要約)は最後にできる。
 (4)ワーキング(作業)の要素を採り入れる。
 (5)アクティヴ(能動的)な要素を採り入れる。

 以上、基本的には、学生が講義に臨む際の受動的な態度を払拭することが目的です。そのためには、「講
師の話を聴き、ノートを取ればそれでよし」といった従来型の講義を改革する必要があります。講義中、い
つ自分に発言を求められるか分からないので(実際には、発言できそうな学生を講師の方が物色するとして
も)、ある程度の緊張が要求され、受動的な態度を改めるための道が開ける、と考えました。もちろん、必
ずしも成功したわけではありません。しかし、このような実験的な講義を導入することも、今では大切なこ
とだと自負しております。もっとも、学生は、時間を与えてリポートを書かせるとよいものが書けるのに、
講義中に発言を求めると、なかなか自分の考えを表現できない、という傾向がありますが……。
 ところで、アンリ・ベルクソンというフランスの哲学者は、「快楽と苦痛」という題名のついたリセ講義
録の中で、興味深い発言をしています。すなわち、「どんな活動も、あるいはまた、数々の活動のどんな総
体も、この活動やこれらの活動から生じる情勢に対して快楽とも苦痛ともなりうる」という、活動に関わる
一般的記述をなした後で、「偉大な哲学者たちの書いているものを知ること以外の目的をもたずに読む場合
には、彼らの著作を読むことは快楽である。その場合には、展開させる活動は自由に展開されている。しか
し、合格しなければならない試験の準備で、これらの哲学者の著作を読むときには、快楽は著しく小さなも
のとなる。快楽が倦怠と化すこともありうる」と述べています。一般に、「自発的な読書」と「義務からの
読書」との間には大きな相違があります。ベルクソンによれば、一方は「快楽(plaisir)」であり、他方
は「苦痛(douleur)」なのだから、このことは誰の目にも明らかでしょう。
 また、ウィトゲンシュタインの講義(弟子のマルコムによる報告)も大いに参考になると思います。要点
をまとめるとこうなります。

 (1)下準備もノートもない講義である。
 (2)ノートを読み上げると、言葉は死骸のようになる。
 (3)講義のはじめに行うことは、前回の講義の回想である。
 (4)新しい思索をその場で組み立てる。
 (5)そのような思索には下地があるが、基本的には講義中に生まれる。

 この中で最も大事な点は、講義中に新しい思索が生まれる、ということです。ウィトゲンシュタインの講
義に参加した学生が、ウィトゲンシュタイン自身の思索にどれほどの影響を与えたかは知る由もありません
が、いろいろな点で参加学生にかなりの神経を使っていたらしいことを考慮すれば、講義が一方的なもので
はなかったことが分かるでしょう。
 以上のことから、講義に対する学生の姿勢をいかに「義務」から「権利」へと変貌させるかが大切である
ことが分かるでしょう。学生諸君自らがそれに気付くに越したことはないですが、とりあえずはそのように
促すことが講師の務めであることは、間違いないでしょう。

 演習について

 今度は、演習について考えてみましょう。多くの場合、講義中や講義が終わった後で、生産的な質問が出
ることは稀です。一度でも教壇に立ったことのある者ならば、それは誰でも経験済みの事柄でしょう。した
がって、講師と学生との「同時双方向性」を構築することは案外難しいことです。演習においては、その点
はさらに大事になります。なぜなら、演習においては、参加者同士の討論こそが生命線となるからです。中
世の大学のもう一本の柱の授業形態が「討論(disputatio)」だったことを思い出してみましょう。思想系
の学問の演習は、たいがいの場合、定評あるテキストを読み進めながら、そこで問題になっている事柄につ
いて、参加者全員で話し合うことになります。したがって、誰かが一方的に何かを発言して終わることはあ
りません。その発言が起爆剤となって、活発な議論が生まれることが要請されているのです。
 そもそも、「双方向性」は、なぜ大事なのでしょうか。まず第一に考えられることは、講師、参加者を問
わず、発言者の「発言」を受け手が理解したかどうかを即座に検証することができる、という点です。たと
えば、講師がある事柄を説明した後で、参加者の一人にその事柄について質問する方法が考えられます。理
解されたかどうかは、参加者の回答次第である程度判断することができるでしょう。理解が及んでいないと
判断した場合は、さらに説明を加えるという方法が次に採られます。そのような作業を繰り返すことによっ
て、講師の伝えたいことが参加者に徐々に伝わってゆくというわけです。また、反対に、参加者の質問に対
して、講師側が答えるという場合もあるでしょう。十分に答えられれば、参加者の理解が増すことは言うま
でもないでしょう。さらに、講師が答えられない場合でも、宿題にする手があります。いずれにしても、も
し「双方向性」が確保されていなければ、それらのことは実現が覚束ない事態と言えるでしょう。
 第二に、「双方向性」が大事であると考えられるのは、参加者が問題に向き合う際の「臨場感」が醸成で
きる、という点です。「双方向性」が確保されていない場合、演習に身体だけ参加して、「心ここにあらず」
を決め込むこともできます。そのような不毛を防ぐためには、参加者がいつ質問を受けるか分からないとい
う体制を敷く必要があります。これは、参加者の緊張を要請しますが、それに見合う演習が展開できれば、
けっしてその緊張は無駄にはならないでしょう。
 第三は、即興から偶然の産物を得ることができるという点です。一方通行の演習では、あらかじめ用意さ
れた内容しか生じようがありません。参加者にとっては未知の領域に踏み込めるかもしれないのですが、講
師にとっては通い慣れた道を往来するにすぎないのです。しかしながら、「双方向性」からは、問題の新た
な展開や、講師すら意識しなかった事柄に遭遇することが可能です。もちろん、それらが実現するためには、
講師・参加者双方の、問題に対する真剣な取り組みが不可欠であることは言うまでもないでしょう。
 第四に、参加者から受動的な態度を追い払い、積極的に演習に参加する意欲を掻き立てるという点です。
方法としては、ワーキング(作業)の要素や、アクティヴ(能動的)な要素を採り入れることが肝要です。
具体的には、参加者が、問題にしている対象について、参加する前にあらかじめある程度調査や考察をして
こなければ、生産的な意味で演習に参加できない、というわけです。この点の自覚を参加者に促すのは講師
の役目ですが、最終的に演習が実りあるものになるか否かは、かなりの割合で参加者自身の積極性にかかっ
ています。言い換えれば、演習を生かすも殺すも、参加者一人一人の自覚次第なのです。
 最後に、演習における「双方向性」を成功させる上で大事である思われる点をもうひとつ挙げておきまし
ょう。それは、演習のまとめを作成するということです。演習参加者のうち、あらかじめその日の担当者を
決めておき、その人が検討する箇所をリポートにまとめてくるという方策です。さらに、そのリポートに、
当日問題になった事柄をメモすれば、演習の覚書ができて、後で参考にできます。言い換えれば、「やりっ
ぱなし」を避けることが大事なのです。まとめられたものは、次の演習に供されて、新たなものを生み出す
源泉ともなりうるでしょう。

 おわりに

 小生の狭い経験から判断すると、講義には、解説型、演説型、説教型、一人相撲型、自己陶酔型、支離滅
裂型、これらの複合型など、講師の癖が強く出るものですが、そこに共通するものがあるとすれば、たいが
いの場合、講師が一人で語り続け、学生はその語りを筆記するという形式です。もちろん、板書したり、資
料を配布したり、ヴィデオなどの機器を用いたりすることも少なくありませんが、基本は講師の語りと学生
によるその筆記です。小生は、そのような陳腐な形式を打ち破るために、「劇場型」とも名付けるべきスタ
イルを狙いました。教室がひとつの劇場となって、講義、もしくは演習の参加者が、ときには観劇者、とき
には出演者という具合に、必要に応じて次々と役割を入れ替えてゆくような講義、あるいは演習です。講師
の役回りは「演出家」と言ってもよいでしょう。あるいは、オーケストラの「指揮者」に準えることもでき
るでしょう。たしかに、演出に失敗すれば、その講義や演習は惨憺たるものに成り果てるかもしれません。
その意味で、「実験」の域を出ないかもしれませんが、崩壊の危機を伴わない無難な講義や演習ばかりでは、
学生も退屈するでしょう。これからも、講義とか、演習とかの枠組にあまり拘らないで、学生とともにいろ
いろ摸索してゆきたいと思っています。

                                           (了)
                                                                                                   
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