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講義と演習
日日是労働セレクト159
2018年度版「男女共同参画社会を考える」資料
 以下に、2018年度版「男女共同参画社会を考える」資料等を掲げます。ご笑覧いただければ、幸いです。
なお、インターネット用に一部改変しました。ただし、内容にはほとんど変更はありません。

                                                  
 集中講義「男女共同参画社会を考える」(共通教育)第1日

                           2018年9月21日(金)第5時限(16:30-18:00)        

  「男女共同参画とジェンダーの考え方いろいろ」  担当:武藤整司


 はじめに

 当講義の5回目を担当する人文社会科学部の武藤です。集中講義の初日ですから、聴講されている諸君も
まだまだ余力があるでしょう。しかしながら、そろそろ中弛みを警戒する時期ですので、あまり固い話はし
ないことにして、ジェンダーとその周辺領域に関するとりとめのない話をすることにします。
 この集中講義の肝煎りをされている小島優子先生に「ジェンダー関係の集中講義をするから、あなたも一
枚かんでくれないか」とお声を掛けられました。この時期は2学期の準備をしなければならない時期なので、
少しばかり忙しいのですが、1コマということもあり、お引き受けしました。ちなみに、昨年度の2017年度
(平成29年度)にも同様の講義を開講しましたが、開講日が9月28日(木)だったので、今年度とほぼ同じ状
況でした。すなわち、昨年度とほとんど同じ内容ですので、その点では楽な部類です。
 さて、わたしは、学部の専門教育のひとつとして「倫理学演習 I-IV」を担当しているのですが、つい最近
まで“FRANC(セディーユ)OIS POULAIN DE LA BARRE, DE L'E(アクサン・テギュー)GALITE(アクサン・
テギュー) DES DEUX SEXES,1673.”を読んでいました。ただし、テクストは英訳(The Equality of the
Sexes.)を中心に用いて、仏語原文に関しては、フランス語を読める学生とともに英訳との異同を検討し
ました。おそらく、この『両性の平等について』というテクストを演習に用いていたので、当初この講義の
メンバーとして招聘されたのではないかと思います。なお、同書は4年前に読了しましたので、3年前から、
プラトーンの『饗宴』をテクストとして用いています。それでは、なぜ「ジェンダー論」の古典を演習のテ
クストに選んだのでしょうか。ひとつは、この本の著者がカルテジャンだからです。わたしは、大学生のこ
ろからデカルト研究に勤しんでまいりましたが、その一環としてデカルト以後彼の影響を受けた思想潮流を
調べることに関心があったからとも言えます。ふたつ目は、ジェンダー論そのものに興味があるからです。
「倫理学概論 I」においても、独立した項目を立てています。これについては、この講義を通じておいおい
分って戴けると思います。みっつ目は、社会が「ジェンダーの問題」に対する関心を高めているからです。
もっとも、「男女共同参画社会 *」という言葉自体は耳新しくなくなったのですが、まだまだ本格的に研究
されてはいない分野でもあります。

 * 男女共同参画社会(だんじょきょうどうさんかくしゃかい)とは、「男女が、社会の対等な構成員
  として、自らの意思によって社会のあらゆる分野における活動に参画する機会が確保され、もって
  男女が均等に政治的、経済的、社会的及び文化的利益を享受することができ、かつ、共に責任を担
  うべき社会」のこと。そしてこの理念を実現するために「男女共同参画社会基本法」が制定され、
  1999年(平成11年)6月23日に公布・施行された。 「男女共同参画」は英語で公式に"gender equality"
  と表記する。

 参考文献:『男女共同参画の時代』、鹿嶋敬 著、岩波新書、2003年。

 さて、そういう経緯でこの講義を担当するわけですが、本来ならば倫理学における理論的な講義を展開す
べきなのでしょうが、「男女共同参画とジェンダーの考え方いろいろ」というお題を頂戴している手前、そ
の「いろいろ」に関して、わたし自身これまでどんなことを考えてきたのか、整理してみることにしました。
そこで、目を付けたのが《SOULS》です。このウエブ上に、わたしは「日日是労働」という、実に野暮な名称
のブログを開設しているのですが、「ジェンダーとその周辺領域」に関する記事も若干ありますので、それ
を材料にして責を果たしたいと思います。

 以下、資料につづく。

                                                 
 受講生への配布資料

 集中講義「男女共同参画社会を考える」(共通教育)第1日

                          2018年9月21日(金)第5時限(16:30-18:00)

  「男女共同参画とジェンダーの考え方いろいろ」  担当:武藤整司

 〔ア・ラ・カルト〕

  はじめに

 ○ 何が問題なのか
 ○ ジェンダーをめぐる常套句
 ○ 女性というジェンダーの特徴

  家父長制とニュー・ファミリー
 
 ○ ニュー・ファミリーを描いた映画(1-3)
 ○ 昭和と平成(7)
 ○ 女は可愛くなければならないのか(7)
 ○ 同性愛は愚行か(11)
 ○ 恋愛事情の変容(11)(11)(15)(23)
 ○ 子育てをめぐって(24)

  女の武器

 ○ 「女」を使う(26)
 ○ いい女とは(29)
 ○ 壊れ物としての「女」(29)
 ○ なぜ少子化か(37)
 ○ 多様性の容認(40)

  愛の諸相

 ○ 愛と所有(52)
 ○ 恋愛至上主義(55)
 ○ 同性愛と異性愛(57)
 ○ 子どもへの愛情(57)

  新人類誕生

 ○ 腐女子の登場(73)
 ○ レンタル家族(82)

  女の解放

 ○ 「女中」という存在(84)
 ○ 自らを癒すために(87)

  強い女

 ◯ 戦前から存在したアプレ・ゲール(103)(124)(134)


 以上、《SOULS》「日日是労働セレクト」より。各項目のカッコ内の数字は、そのセレクト・ナンバー
である。

                                          (了)

                                                 
 集中講義「男女共同参画社会を考える」(共通教育)第1日

                           2018年9月21日(金)第5時限(16:30-18:00)

  「男女共同参画とジェンダーの考え方いろいろ」  担当:武藤整司

 〔資料〕

 学生のリポートより

 ○「お嬢さんをください」、「主人が許してくれた」という常套句。
 ○ 女性というジェンダーの特徴
  (1) 直接自分の欲求を出すことを抑圧され、自立したいという願望をどこかで抑制しており、その
     結果男性的な領域で成功していても、自己不全感を免れない。
  (2) 他人の世話をしたり、他人の欲求に応えたりする性別(母親)に同一化するため、自分の面倒
     をみてもらいたいという養育欲求はくじかれ、自分の欲求に確信がもてず、とくに男性に対して
     自己主張することが難しい。
  (3) 自己肯定感が男性より低く、自尊感情も男性より低い。
  (4) 第二次性徴や妊娠・授乳期における身体の変化が男性より劇的で、そのことで身体感覚が男性
     よりも敏感であるにもかかわらず、身体を「客体化」することを要請させるので、快楽も攻撃性
     も自他の身体に直接向けることを抑制され、売春(買春のことか)・殺人・自殺を実行する率が
     男性よりも低い。
  (5) 自分自身への不安は、自分の身体への不安へと置き換えられる。
  (6) 母娘関係における緊張や両価的感情は、思春期を経過した後も少しもよくならない。
  (7) 母親が息子より娘に同一化してしまう傾向が強いため、母親との分離が難しく、「分離不安」
     が男性よりも強い。

 なお、これらの特徴は社会的ジェンダー要請によって形成されたもので、生物学的な性差は関与していな
いと考えられる。ここでまとめれば、女性のジェンダー特徴とは、自己否定と自己の客体化であり、そこか
ら派生する不安である(福富)。

 注:どうやら、当該学生は、「福富」という人の文章から引用したらしい。その他、不詳。いずれにせよ、
   福富さんには感謝。


 日日是労働セレクト1-3

 某月某日

 「ニュー・ファミリー」(もはや死語か?)を描いた邦画には、次のような作品がある。

 『逆噴射家族』、『家族ゲーム』、『木村家の人々』、『ひき逃げファミリー』、『エバラ家の人々』
[筆者、未見]、『渋滞』、『ホーム・スイートホーム』、『カタクリ家の幸福』、『静かな生活』、『家
族シネマ』(正式には、韓国映画)、『茶の味』、『キッチン』、『ウホッホ探検隊』、『きらきらひかる』、
『お引越し』、『卓球温泉』、『折り梅』、『沙羅双樹』、『わたしのグランパ』、『珈琲時光』、『空中
庭園』、『ビジターQ』、『悲しくなるほど不実な夜空に』、『蛇イチゴ』、『ゆれる』、『ぐるりのこと。』、
『酒井家のしあわせ』、『歩いても歩いても』、『幸福な食卓』、『大阪ハムレット』、『東京タワー オカ
ンとボクと、時々、オトン』、『トウキョウソナタ』、『なくもんか』、『松ヶ根乱射事件』、『冷たい熱
帯魚』、等々。

 これらの邦画の一部に、奇妙な共通項を発見した。それは、『逆噴射家族』、『ひき逃げファミリー』、
『ホーム・スイートホーム』、『カタクリ家の幸福』、『茶の味』、『松ヶ根乱射事件』に共通する項目で、
いずれも同居の家族の中に鰥の祖父がいるということである。例外の一つは『折り梅』であり、寡婦の祖母
がいる。また、山田洋次が描いた『家族』(この邦画は「ニュー・ファミリーもの」とは言い難い)にも当
てはまる事項である。さらに、『わたしのグランパ』にも、鰥同然の祖父が出てくる。念のために、祖父役
(一部、祖母役)の役者名と寸評を添えておく。

 『逆噴射家族』
  植木等(やたらと元気がよい元軍人)
 『ひき逃げファミリー』
  仲谷昇(頼りないが、熔接にかけてはプロはだし)
 『ホーム・スイートホーム』
  神山繁(「認知症」気味の元オペラ歌手)
 『カタクリ家の幸福』
  丹波哲郎(前向きな性格で、くよくよしない)
 『茶の味』
  我修院達也(元アニメーターにして怪人)
 『松ヶ根乱射事件』
  榎木兵衛(認知症であることで存在感抜群)
 『折り梅』(祖母という点で、例外)
  吉行和子(アルツハイマーだが、絵の才能が発掘される)
 『家族』(ニューファミリーではないという点で、例外)
  笠智衆(こころ優しき大人)
 『わたしのグランパ』(実際には鰥ではないという点で、例外)
  菅原文太(昔風の任侠道を追求する時代の超越者)

 疑問点としては、「なぜ祖母ではないのか?」もしくは「なぜ祖母はいないのか?」が挙げられる。特長
としては、「普段は他の家族から浮いているが、肝心なときには光彩を放つ」が共通している。祖母だと家
事など使い勝手がよいために(潰しが効くために)家族に溶け込んでしまって、その分物語が平凡になって
しまうからか(ただし、『折り梅』の祖母は、作品の後半に至るまではかなり厄介な存在として描かれてい
る)。また、隠退の身なれど、昔取った杵柄が見え隠れするほど、物語に含みをもたせることができるから
か。大島渚の『儀式』に出てくる家父長(佐藤慶)とは、およそタイプの違う高齢者たちである。ともあれ、
夫婦のうち、男が生き残る方が悲劇性があるらしい。『息子』や『生きたい』(ともに、三國連太郎が主役)
の男鰥はうらぶれた感じを醸し出しているが、『阿弥陀堂だより』(北林谷栄)や『午後の遺言状』(杉村
春子)の寡婦役には、ともに逞しささえ感じる。この辺りに何か秘密がありそうである。


 日日是労働セレクト7

 某月某日

 『洗濯機は俺にまかせろ』(監督:篠原哲雄、ボノボ=スターポート、1999年)を観た(以下、大幅に省
略)。ところで、作品の流れとは直接の関係はないが、離婚寸前の夫婦の会話が面白かったので、下に記し
てみる。夫役は鶴見辰吾、妻役は平沢草である。

 妻:そもそも、あなたの一方的な押し付けが私には堪えられない。
 夫:僕はただ帰宅してレトルトのカレーを食べるのが嫌だっただけだ。
 妻:炊事をするのが女の役目だというのは昭和の考え方。
 夫:男がするのが平成の考え方だ、ということもない。
 妻:仕事で帰りが遅いというわりに、クラブ・ピンキーの名刺は持っている。
 夫:接待で貰ったんだから仕様がないよ。
 妻:技術系は接待がないから遅くならない、と結婚前に言ったのはあなた。
 夫:料理教室に通っているので、モンブラン以外は何でも作れますって言ったのは君。
 妻:休みの日は一緒にスーパーに買い物に行こうと言ったのはあなた。
 夫:車の免許を持っているから、毎日送り迎えをすると言ったのは君だ。

 節子がこのやりとりに呆れて勝手に離婚届に押捺するシーンがあるが、二つの判子を同時に朱肉に押し付
けるところは新鮮な映像であった(以下、省略)。


 某月某日

 寅さん映画を2本観たので、ご報告。『男はつらいよ・寅次郎相合い傘』(監督:山田洋次、松竹、1975
年)と、『男はつらいよ・葛飾立志篇』(監督:山田洋次、松竹、1975年)である。両作品の味わいは互い
にかなり異なるものであったが、どちらとも出来のよい方だと思う。前者のマドンナは2度目の登場の浅丘
ルリ子、後者のそれは樫山文枝である。また、マドンナもさることながら、前者には男のゲストとして船越
英二、後者には小林桂樹が出演している。また、後者には当時人気絶頂の桜田淳子も出演しており、配役も
楽しめるようになっている。
 さて、前者であるが、寅さんは、兵頭謙次郎(船越英二)という蒸発男と旅先で道連れとなり、さらに寿
司屋の亭主と別れてまた旅の歌姫をしているリリー松岡(浅丘ルリ子)も加わって、中年三人組の珍道中が
北海道を舞台に繰り広げられる、といった筋である。兵頭は人生に行き詰まってしまってふらっと旅に出る
のであるが、寅さんと出会って息を吹き返す。寅さんは寅さんで大好きなリリーと再会して心を和ませる。
二人は「喧嘩をするほど仲がよい」のであるが、結婚話になるととたんに話を混ぜっ返してしまい、今回も
一緒にはなれなかったのである。浅丘ルリ子はこの映画で「キネマ旬報主演女優賞」を受賞するが、寅さん
との台詞のやりとりが決め手になったのではないだろうか。以下に、その一場面を収録してみよう。正確で
はないし、ニュアンスも伝わりにくいと思うが、あえて記してみる。

 謙次郎の「女一人を幸せにしてやれない自分は情けない」という言葉を受けて、

  リリー:「幸せにしてやる……大きなお世話だ。女が幸せになるには男の力を借りなきゃいけないと
      でも思ってんのかい。笑わせないでよ」
  寅さん:「でもよ、女の幸せは男次第だって言うんじゃねえのか」
  リリー:「へェ、初耳だねェ。あたし、今までに一度だってそんな風に考えたことないね。もしあん
      た方がそゆ風に思ってんだったら、それは男の思い上がりってもんだよ」
  寅さん:「へェ、お前も何だか可愛みのない女だなァ、おい」
  リリー:「女がどうして可愛くなくちゃいけないんだい。寅さん、あんたそんな風だから、年がら年
      中女に振られてばっかりいるんだよ」
  寅さん:「おい、リリー、お前言っていいことと、悪いことあんだぞォ」
  リリー:「だって、本当だろう」
  寅さん:「じゃあ、俺も言ってやるよ。何だお前、寿司屋の亭主と別れてやったなんて体裁のいいこ
      と言って、本当はテメエ、捨てられたんだろう」
  リリー:「寅さん、あんたまでそんなこと。あんただけはそんな風に考えないと思ってたんだけどね」

 説明は要らないだろう。この後、二人の仲はますます深まるのであるが、どうしても男と女の仲にはなれ
ない。因果なものである。リリーがさくらとのやりとりによって寅さんとの結婚を承諾した後で、寅さんの
「冗談だろう」という台詞に対して、間をおいて放った「そうよ、冗談に決まっているじゃないの」という
言葉は実に重い。リリー松岡の素晴らしさがずっしりとこめられている。最近の恋愛はどんどん軽くなる傾
向にあるようだが、このようなどうしようもなく「鈍重な恋」もあることを忘れてはならない、と思った。
リリー松岡(浅丘ルリ子)は、この後2度寅さん映画に顔を出しているので、今から楽しみである(以下、
省略)。


 日日是労働セレクト11

 某月某日

 (前略)ところで、話は変わるが、『メゾン・ド・ヒミコ』(監督:犬童一心、アスミック・エース エン
タテインメント=IMJエンタ テインメント=日本テレビ放送網=S・D・P=カルチュア・パブリッシャーズ、
2005年)を観たので、簡単な感想を記しておこう。後半生をゲイとして生きた「卑弥呼」こと吉田照男(田
中泯)とその娘の吉田沙織(柴咲コウ)との交流を主旋律として、父親の若い恋人の岸本春彦(オダギリジ
ョー)などがそれに絡んでくるという展開である。1958年、東京の銀座にゲイバー「卑弥呼」が開店する。
なお、背景音楽として園まりの「逢いたくて逢いたくて」(作詞:岩谷時子、作曲:宮川泰)が流れるが、
これはもっと後の音曲なので(1965年の作品)、選曲が間違っていると思う。ともあれ、初代ママの才覚も
手伝って店は繁昌し、やがて「名店」とまで呼ばれるようになる。1985年、このママが肝硬変のために引退。
そこに突然彗星のごとく現れて店を継いだのが吉田照男というわけである。彼は、仕事を捨て、妻子も捨て
て、この道に飛び込んだという設定である。したがって、娘の沙織には恨まれている。2000年、突然引退。
店も閉めて、「メゾン・ド・ヒミコ」という名前のゲイのための老人ホームを開設、5年後に癌に冒される
という流れである。春彦は一計を案じて(借金で首の回らない沙織を金銭で釣って)、父と娘を対面させる。
死に直面した自分の恋人を励ますためである。やがて、父は穏やかな死を迎え、娘もこだわりから解放され
るという物語である。その他、さまざまな工夫(コスプレなど)が凝らされているので、飽きさせない展開
となっている。もっとも、ルビイ(歌澤寅右衛門)の老オカマぶりを除いて、さしてリアリティがあるとは
思えないが……。
 なお、ゲイに対する周囲の嫌がらせ(たとえば、壁に「変態死すべし!! ホモ全滅!!」という落書をする)
に関して、いろいろ考えさせられた。これらの行為は、英語の《rough music》やフランス語の《charivari》
に当たり、多数派が少数派に対して行う野蛮な振る舞いである。「鍋釜たたき」と訳されることもあるが、
要するに、気に入らない連中(イギリスではとくにホモを嫌う)に対する私的制裁のことである。鍋や釜を
たたきながら非難したことに因むらしい。J.S.ミルは、「不快(displeasure)」ということを理由にして人
の自由を奪うことの愚を非難している(『自由論』)。現在における「愚行権(the right to do what is
wrong)」に当たるだろう。しかし、ゲイは愚行だろうか。論の分かれるところである。沙織の台詞「操な
んて捨てるためにあるんだよ」が、考えるヒントになるのではないか。よく分らない場面(なぜ、ワルガキ
は心を入れ替えたのか、あるいは、なぜ沙織は細川専務〔西島秀俊〕に身を任せたのか、など)も多々あっ
たが、おおむね面白く鑑賞できた作品である(以下、省略)。


 某月某日

 いわゆる「青春映画」を2本観たので、感想を少々記そう。1本目は『もっとしなやかに もっとしたたか
に』(監督:藤田敏八、にっかつ、1979年)であり、2本目は『さよならみどりちゃん』(監督:古厩智之、
ビーエス・アイ=藤賀事務所=ハピネット・ピクチャーズ=ティー・ワイ・オー=祭=TBSサービス、2005年)
である。どちらも平仮名だけのタイトルであり、彷徨する若者の精神世界を描いているので、久しぶりに比
較してみよう。この試みは、『赤ちょうちん』(偶然かもしれないが、この作品も藤田敏八監督)と『下妻
物語』との比較以来である。なお、略号として、前者を「もっと」、後者を「さよなら」とする。

 〔主要登場人物〕

 「もっと」:高木勇一(奥田英二[現 瑛二])、高木君枝(高沢順子)、田口彩子(森下愛子)、海野
       (風間杜夫)、君枝の兄・義博(河原崎長一郎)、勇一の姉(赤座美代子)
 「さよなら」:ユウコ(星野真理)、ユタカ(西島秀俊)、タロウ(松尾敏伸)、マキ(岩佐真悠子)、
        スナック有楽のママ(佐々木すみ江)、ユタカの彼女ミドリ(役者不詳)

 〔人間関係〕

 「もっと」:勇一と君枝は夫婦(ただし、君枝は3年に亙って家出中)。彩子は勇一の居候(彩子も親元
       を離れて家出中。この二人には性的関係がある)。海野は勇一の友人でかつて君枝を争った
       ことがある(海野が君枝を犯す場面もある)。義博や勇一の姉は常識的人物。

 「さよなら」:ユウコとユタカ、ユウコとタロウ、ユタカとマキには、それぞれ性的関係がある。ただし、
        いずれも恋人同士というわけではない。ユウコとマキはユタカに好意を寄せているが、ユ
        タカはどちらに対しても醒めている。タロウはユウコに好意を寄せているが、ユウコの目
        にはユタカしか映らない。マキはユタカに実がないので早々と見切りをつけるが、ユウコ
        にはそれができないので、決定的な失恋を経験する。スナック有楽のママ(ユウコの雇い
        主)は気性のさっぱりした大人。ユタカの彼女ミドリは風俗嬢らしいが、よく分からない
        という設定。

 〔共通点と相違点〕

 共通点:「もっと」も「さよなら」も性的に奔放。ただし、前者には「ロマンポルノ」という映画製作上
の制約があるから仕方がないか。どちらも人間同士の絆が病んでいるが、基本的には皆それぞれの「優しさ」
をもっている。つまり、「酷薄」とまでは言えない。ただし、「もっと」の海野と「さよなら」のユタカは、
身勝手さにおいて張り合っていると言える。不思議なもので、海野もユタカも、女にだらしがないと同時に
金銭的にもいい加減である。しかも、両者ともどこか憎めないキャラクターである。おそらく、両者には
「男の色気」があり、しかもその効果が女に対してどれだけ働くものなのかを、二人とも自覚している節が
ある。したがって、おしなべて不実なのに、それでも女が彼らに靡くのである。「もっと」には父娘近親相
姦の話が出て来て、非常に強い禁忌の雰囲気を醸し出しているのに対して、「さよなら」では擬似近親相姦
(兄と妹の関係)の話が出て来るにも拘わらず、そこにタブーの気配はない。今寝ようとしている女が妹で
あるかどうかは関係なく、発情しているかどうかが問題なのである。したがって、近親相姦という点では共
通しているが、本質的にその観点は異なっている。

 相違点:「もっと」における海野の台詞「くたばれ! ニューファミリー」や「血のつながりなんか糞喰
らえ」が活き活きとしていたのは、それだけ「旧家族」(地縁血縁に縛られている)の勢力がまだまだ根強
かったからである。つまり「ニューファミリー」を創造しようとする夢があった時代だからである。もちろ
ん、海野の立場は、旧家族もニューファミリーも認めない立場である。これに対して、「さよなら」では、
すでにそのようなニューファミリーを構築するという夢は幻となっており、ユウコの思い(互いに好き同士
になること)はユタカにはまるで通じない。もっとも、ユタカのようなタイプは昔からいたし、今後もいな
くなるとは思えない。彼らは、遊び人、スケコマシ、女たらし、プレイボーイ、ジゴロ、ひもなどと呼称さ
れる男たちの類で、一生特定の女性を愛することなく過ごす人々である。海野にもその傾向があるが、ユタ
カほどニヒルではない。ただし、ユタカには何か新しいものを感じるので、そのような類の男たちとはまた
別の人格なのかもしれない。もう少し考える必要があるだろう。これに対して、海野の方は典型的人物像な
ので、とても分かり易いのである。これも、時代の違いだろうか。「もっと」にはまだあった旧社会のしが
らみは、「さよなら」ではさらに稀薄になっている。古代ローマや第一次世界大戦後のドイツを持ち出すま
でもなく、性的な自由の拡大は社会秩序の基盤を危うくする。すなわち、日本という国のこれからのさらな
る変化を暗示しているのである。「もっと」で揺さぶりをかけられた社会の地盤は、「さよなら」ではすで
に液状と化している。もう一度大きな揺り戻しが来れば、旧態依然の「家族幻想」はひとたまりもなく崩れ
去るだろう。ただし、社会の方も黙っているわけではないから、ここで強力な楔が入るかもしれない。大正
デモクラシー、エログロナンセンスと来て、軍国主義に至ったように。

 さて、1970年代の「閉塞感」は、21世紀を迎えて少し薄らいだのではなかろうか。最近、親子間の殺傷事
件が相継いでいるが、ひょっとするとそれは「過渡期」の徴候なのかもしれない。つまり、まだまだ人々に
「家族」というこだわりがあるのだ。このこだわりがなくなれば、親子同士で殺し合う「必要」もなくなる
はずである。淡々と生きるのに必要な関係に留めればそれで済むはずである。「家族はこうあらねばならな
い」とか、「セックスには愛が伴わなければならない」とかの幻想が薄らげば、人々はあまり苦しまなくな
るのでないだろうか。30年が経って、やっと新しい「人間関係」が兆しとして見え始めてきたのである。も
っとも、そのような考えに強い懸念を抱く人も多いだろう。しかし、小生としては、血のつながりを重視す
る人間関係よりも、考え方(生き方)の共通性を重視する人間関係の方が風通しがよいと思っているので、
人々がもっと大人になること(地縁血縁に頼らないこと)を願っている。「もっと」における16歳の彩子や、
「さよなら」におけるだいぶお年を召した有楽のママに、小生は一番の信頼感を抱く者である。彼女らには
妙な甘えが感じられず、孤高にさえ見えることがあるから(以下、省略)。


 某月某日

 (前略)2本目は『ハッシュ!』(監督:橋口亮輔、シグロ、2001年)である。上記の『松川事件』とは
質がまったく違うが、これも重たい映画である。基本的図式としては『きらきらひかる』(監督:松岡錠司、
フジテレビジョン、1992年)と同じく、男性の同性愛カップルに一人の女性が絡むという筋である。狛江市
に住む歯科技工士の藤倉朝子(片岡礼子)は、端から見ると「自堕落」と看做されかねない日々を送ってい
る。アパートの部屋は散らかし放題、男性関係も行き当たりばったりで、これまで二人の胎児を堕ろしてい
る。一方、何かよく分からない仕事(人工的な波を起こして、その水面に船を浮かべ、何かデータを取って
いるという仕事)の技師をしている勝裕(田辺誠一)と、犬の美容師をしている直也(高橋和也)との、同
性愛カップル(映画の中では「ゲイ」という言葉を遣っている)がいる。ときどきは喧嘩もするが、互いに
気を遣い合っておおむね仲がよい。この三人がそば屋で知り合い、やがて「家族」をつくろうとするまでの
物語である。
 子宮に異常が見つかった朝子は、急に自分の子どもを欲しがるようになるが、結婚によって縛られたくは
ない。そこに、女性には興味のないゲイ(勝裕)が現れたことをきっかけに、「この人の子どもを産みたい」
と思うようになったのである。現在、生殖技術の発達によって、配偶者間の人工授精は可能になった。した
がって、形式上婚姻すれば子どもをもつことは可能であろうが、朝子が考えている方法は、スポイトで精子
を採取し、それを膣に注入するという方法である。素人目にも無理なような気がするが、本人は案外真面目
である。しかし、当然のごとく、周囲はこのような発想を許すはずがない。勝裕の義姉(秋野暢子)や直也
の母(冨士眞奈美)などはその急先鋒である。また、勝裕に入れ上げているストーカー女性(つぐみ)など
も絡んで、なかなか困難な状況である。しかし、すべてが反対者ばかりではない。勝裕の兄(光石研)やそ
の娘(役者名不詳)はむしろ彼らの応援に廻っている。最後の方で、この兄は交通事故であっさり死ぬが、
義姉のその後の態度が批判される流れになっている。つまり、映画のメッセージとしては、新しい考え方の
方に軍配を上げていると言えよう。家族観の変遷をつぶさに描いた傑作であると思う。肌理の細かい演出の
できる橋口亮輔という監督に、今後とも注目したい(以下、省略)。


 日日是労働セレクト15

 某月某日

 『ナチュラル・ウーマン』(監督:佐々木浩久、ケイエスエス、1994年)を観た。若い女性同士の恋愛感
情をヴィヴィッドに描いた作品である。マイナー志向の漫画を描く25歳の村田容子(嶋村かおり)は、食べ
てゆくために清掃のアルバイトをしている。そこで知り合った同僚の由梨子(中島ひろ子)に恋愛対象とし
て興味をもたれるが、過去を引き摺っているために受け容れることができない。忘れられないのではなくて、
忘れないように努力している相手がいるからである。その人とは、諸凪花世(緒川たまき)である。彼女も
漫画を描いていたが、若くして自死している。独善から生まれる自己矛盾に悩んだ末の死であると思われる
が、容子は自分のせいではないかと少し疑っている。容子は「たまたま女に生まれてきちゃったから、つい
でに女をやっているだけだもの」という台詞を吐く女であるが、花世の精神世界とは所詮無縁の人なのであ
る。それが見えないところに、容子の迂闊さがある。登場人物の一人(女性)が、同性愛の相手に振られて
(男と結婚するため)、「女ってどうしてこう平凡に成り下がるのかしら」とこぼしているが、危うい時空
に生きているかぎり、花世のように死ななければならないからである。一方、容子に惹かれる由梨子は、女
子プロボクサーを目指しているしっかり者である。容子が由梨子の愛を受け容れるとは思えないが、それで
も由梨子は平気でやってゆけるだろう。花世を大胆に演じた緒川たまきの存在感が光る映画であるが、漫画
家が登場人物なのに、その肝心の漫画が画面のどこにも披露されないところや、三ヶ月で付き合っている男
を替えると言われている花世の男がまったく登場しないところに、映画としての致命的な欠陥を感じた。こ
れでは、観念のドラマに終わってしまうからである。素材(原作:松浦理英子)が素敵なだけに、惜しかっ
たと思う。なお、他に本田博太郎や石橋凌が出演していた。


 日日是労働セレクト23

 某月某日

 DVDで『エロス+虐殺<ロング・バージョン>』(監督:吉田喜重、現代映画社、1969年)を観た。アナーキ
スト大杉栄と三人の女たちの愛憎劇である。1970年に劇場公開されたときは167分の<カット版>だったが、最
近になって発売されたDVDは216分の<ロング・バージョン>で、限りなく<オリジナル版>に近いという(一部
フィルムが劣化しているらしい)。大正時代(5年‐12年)と昭和時代(44年頃)を行き来する構成は斬新だ
が、意味不明の場面も多く、鑑賞するのに骨が折れる。この手の前衛映画には解説が必要であるが、お誂え
向きの資料が二点あるので紹介しよう。一つは、内田櫓庵の『新編 思い出す人々』(岩波文庫)所収の「最
後の大杉」という随筆で、大杉栄がフランスで路上演説を敢行して官憲に捕縛された話や、当時のフランス
の監獄事情や、関東大震災当時の自警団の横暴ぶりや、大杉の空言癖が彼を花やかな役者にしたけれども、
同時に奇禍を買う原因の一つになったという櫓庵の分析や、大杉を懐柔するために警視庁が行なった高等政
策など、興味深い插話が散見される。
 また、もう一つの資料は、ナギィが発信しているブログ「放蕩娘の縞々ストッキング β」*で公開されて
いる当該映画に関する記事である。映画そのものへの批評というよりも、その周辺領域への言及、あるいは
関係者の消息、さらには「ツバメ」(年上の女性に愛される若い男を指す隠語)の由来など、小生にとって
面白いことが満載されており、大層感心した。興味のある人は覗いてみるとよいだろう。

 * 現在は、「放蕩娘の縞々ストッキング!」(井嶋ナギ)で、インターネット上に公開されている。

 さて、物語であるが、政治的アナーキズムよりも、恋愛的アナーキズム(フリー・セックス)が中心に描
かれており、大杉栄(細川俊之)と伊藤野枝(岡田茉莉子)との恋愛を中心に、野枝の夫辻潤(高橋悦史)、
大杉の恋人正岡逸子<神近市子がモデル。なお、本人が当該映画に対してプライバシーの侵害を訴えている>
(楠侑子)、大杉の内縁の妻である堀保子<堺利彦の義妹>(八木昌子)、平賀哀鳥<平塚雷鳥がモデル>(稲
野和子)、代千代子<辻の義妹>(新橋耐子)などが絡んでいる。なお、大杉の思想的な同志としては、堺利
彦(松枝錦治)や、荒谷来村<荒畑寒村がモデルだろう>(坂口芳貞)が登場している。さらに、上で挙げた
「ツバメ」の本家である画家の奥村博史<平賀哀鳥=平塚雷鳥の夫>(高木武彦)も顔を出している。もう少
し「青鞜社」を絡ませて、「女性解放(婦人解放)」を全面に押し出した話であってもよかったが、そうは
いかなかったようである。「日蔭茶屋事件」(東京日日新聞記者の神近市子が大杉栄を刺した事件)を引き
起こす一因となった、大杉の挙げる「自由恋愛の条件」を記しておこう。

 1.お互いに経済的独立を保つ。
 2.(大杉は)誰とも同棲しないで、各々別居の生活を送る。
 3.お互いの自由を尊重する。この自由には無論「性的自由」も含まれる。

 男にとっておよそ「虫のいい条件」であるが、これに同意する女性など存在するのだろうか。事実、糟糠
八年の内妻保子も、保子から大杉を奪った逸子も、表立って抵抗している。野枝も、家族制度、古い因習、
貧乏などに縛られている女性の解放を叫んではいるが、夫の辻潤を慰めようとした辻の義妹である代千代子
に対して激しい嫉妬の炎を燃やしているので、上記のような条件を呑むとは考えられないのである。大杉栄
の自由恋愛論は、「自由」一般への激しい渇望(政治的には実現困難)ゆえの方便とも取れるが、単に女に
だらしのない人間の自己正当化と取れないこともない。一般に、「嫉妬」という魔物を飼いならさない限り、
自由恋愛は不可能ではないだろうか。もし可能だとしても、それは「恋愛」の名に値する行為だろうか、人
によってさまざまに意見が分かれるところだろう。なお、現代劇もこの映画の一部を構成しているが、何の
ことだかさっぱり分からなかった。出演者だけでも記しておこう。原田大二郎(和田究)、伊井利子(束帯
永子)、玉井碧(打呂井恵)、川辺久造(畝間満)などである。なお、野枝が辻潤と代千代子の抱擁に嫉妬
した際にブランコを漕ぐシーンがあるが、『お葬式』(監督:伊丹十三、伊丹プロダクション=ニュー・セ
ンチュリー・プロデューサーズ、1984年)に応用されたのではなかろうか、と思った。山崎努(夫)と高瀬
春奈(夫の愛人)の関係に嫉妬する宮本信子(妻)がブランコに揺られるという場面である。小生の思い違
いだろうか。さらに、上記の「放蕩娘の縞々ストッキング β」によれば、大杉栄、伊藤野枝、橘宗一(大
杉の甥)を絞殺したとされる甘粕正彦憲兵大尉は、懲役10年の刑に処せられたそうである(実際は、軍の上
層部がやったことだと言われている)。その後、甘粕は2年で出所し、満州国での警察トップとなり、さら
には「満州映画協会」の理事長にまでなったそうである(『ラストエンペラー』で坂本龍一が演じていた)。
しかし、敗戦直後、青酸カリを飲んで自殺したそうである。辞世の句は、「大ばくち/身ぐるみ脱いで/す
ってんてん」だそうである。ナギィ同様、この句には、何とも言い難いものを感じる。「赤旗事件」で有罪
服役中に詠んだとされる、大杉の「春三月/縊り残され/花に舞う」と比べてみよう。


 日日是労働セレクト24

 某月某日

 DVDで邦画を3本観たので報告しよう。配役については、<goo 映画>を参照した。1本目は『私は二歳』
(監督:市川崑、大映東京、1962年)である。松田道雄の育児評論を映画化したもので、和田夏十の脚本は
平凡ながら勘所を押さえている。1歳8ヶ月の赤ちゃんが主役という画期的な映画でもある。3,240人から選
ばれた鈴木博雄という男の子で、太郎という役名である。たしかに、子どもらしい表情が絵になる子で、配
役としては満点に近い。母親の小川千代役は山本富士子、父親の小川五郎役は船越英二で、ともに熱演とい
ったところか。父方の祖母いのの役は浦辺粂子が演じている。太郎が最初に掛かる医者は大辻司郎、次に掛
かる医者は浜村純が演じており、小生が子どもの頃掛かった医者を思い出した。あんな感じだったと思う。
さて、子育てを巡って、夫婦の間で、その役割分担についての会話が取り交わされるが、例によって、夫の
方は家事・育児を軽く見る傾向がある。子どもの食事に一日4時間半も取られる妻に対して、夫は正味4時
間ぐらいしか働いてないのではないか、と妻が夫に抗議すると、夫は「労働の質が違う」と反論する。しか
し、どうにも夫の方が分が悪い印象を鑑賞者に与える。また、太郎が夫の不注意から死にかけると、妻や母
親から徹底的に攻撃されるので、夫はかたなしである。「女の仕事を手伝ってやるという気持がどこかにあ
るから、恩着せがましい気持で面倒臭りながらするから、ろくでもない結果しか生まれないんだわ」という
妻の言葉は手厳しい。たしかに、家事は手伝うという気持で行なうのではなくて、ある役割に対する責任が
伴わなければ、うまくはいかないだろう。家事や育児や家庭内介護は、たしかに実働も大事であるが、その
マネジメントもそれに劣らないくらい大事なのである。それを夫が妻任せにしては、二人の間に亀裂が入る
ことだった有り得るだろう。もちろん、夫にも言い分がある。妻の方からもう一人子どもが欲しいと言われ
たとき、こう答える。

  俺はご免だぜ。子どもなんか、もう。進んで苦労することないじゃないか。産むまでの苦労。産ん
 でからまた大変だ。お乳を飲まないの。やれ飲みすぎた、吐いたの。下痢をする。ちょっとのことで
 風邪を引く。予防注射だ。引付だ。湿疹ができる。離乳がうまくいかない。麻疹だ。そら、怪我だ。
 小児麻痺に罹るんじゃないかなんて、坊主が生まれて以来、まるで地震と雷と火事が一挙に押し寄せ
 たみたいなもんだぜ。気分が休めるってことがないんだから。

 結局、どうしても育児は母親中心にならざるを得なく、現在でも、この問題は未解決のままである。男性
の育児休暇が当たり前のことにならない限り、解決への道は険しいままだろう。もう10年くらい前のことで
あるが、ある国連の男性職員が退職する理由として「育児」を挙げていたが、そのときは違和感を覚えたも
のである。しかし、今では普通のこととして受け容れることができる。要するに、習慣の問題なのである。
夫役の船越英二はとくに不器用な人間として描かれているが、それも訓練によって改善されるはずである。
先ずは、習慣化された考え方を改めることが第一歩なのである。物語は、祖母の突然の死(脳卒中)と、太
郎の二歳の誕生日とで締め括られる。人間同士の無限の絆が象徴的に描かれているのである。夫の台詞であ
る「大人ばっかりだったら、随分つまらない世の中だぜ」や、妻の台詞である「あなたもやっと大人になっ
たのよ」という言葉がリアリティをもっていた。ところで、太郎がビニールの袋に顔を入れたために、その
まま窒息死しそうになるが、母親の機転で大事には至らなかった。題名は忘れたが、テレヴィ・ドラマに同
様の場面があった。そのドラマでは子どもが死ぬが、そのときの母親役は秋野暢子で、子どもを亡くした母
親を迫真の表情で演じていたことを思い出した。幼稚園にあがるまでは、一時でも目が離せない現実は、今
も昔も変わりないだろう。子どもを危険から守るためには、家の中に閉じ込めておくか、親が仕事を投げ出
して監視する以外にはない。これでは自由がないので、しまいには親も子どももノイローゼになってしまう。
根本的な解決策はないが、保育所などの充実によって、いくらか改善される事柄であろう。少子化を憂える
ならば、国家は抜本的な対策を採らなければ、うまくいかないのではないか。ただ、団地暮らしに対する感
想として、「金庫の中みたいなところによく住めたものだ」という台詞が出てくるが、そのような感想すら
遠い日のものとなれば、人間らしい暮らしはわれわれの元から遠のく一方であろう。現代の父母が観ても、
何か教えられるものがある映画だと思う。他に、渡辺美佐子(小川節子=五郎の姉)、京塚昌子(千代の姉)、
岸田今日子(アツシちゃんのおかあさん)、倉田マユミ(隣りの奥さん)、夏木章(注射好きの病院の医者)、
潮万太郎(クリーニング屋の店主)などが出演している(以下、省略)。


 日日是労働セレクト26

 某月某日

 『Wの悲劇』(監督:澤井信一郎、角川春樹事務所、1984年)を観た。薬師丸ひろ子が二十歳になってか
ら製作された映画。直前作の『メイン・テーマ』(監督:森田芳光、角川春樹事務所、1984年)よりも、さ
らに大人になった彼女が売りの映画である。「舞台女優として一人前になるためには、さまざまな人生経験
が必要である」という表向きのメッセージとともに、大人になった薬師丸ひろ子(三田静香)のお披露目に
もなっている映画である。物語の詳細は割愛するが、いわゆる「バック・ステージ・ムービー」として斬新
な構成になっていると思う。三田佳子(羽鳥翔)の役柄も薬師丸の役と遜色のない重みを課せられ、十分に
応えていたと思う。とくに、「女を使う」(「女の武器を使う」ではないところがミソである)という言葉
と、「誰かが上がれば誰かが落ちる」という言葉には、実感が籠っているような気がした。また、薬師丸の
相手役の一人である世良公則(森口昭夫)も熱演していたと思う。ただ、「演出の鬼」と言われている蜷川
幸雄(安部幸雄)の演技には少し遠慮があり、もっと激しくてもよかったのではないか。また、薬師丸のも
う一人の相手役の三田村邦彦(伍代淳)も、どこか中途半端な性格に見えた。つまり、もっと「女たらし」
風にした方がよかったのではないか。もっとも、薬師丸ひろ子のためにつくっているような映画だから、こ
れはこれでいいのかもしれない。その他、高木美保(菊地かおり)、清水紘治(嶺田秀夫)、仲谷昇(堂原
良造=羽鳥翔のパトロン)、志方亜紀子(宮下君子)、草薙幸二郎(木内嘉一)、南美江(安恵千恵子)、
西田健(城田公二)、香野百合子(小谷光枝)、堀越大史(水原健)、藤原釜足(昭夫の将棋相手)、梨本
勝(レポーターA)、福岡翼(レポーターB)、須藤甚一郎(レポーターC)、藤田佳子(レポーターD)
などが出演している。


 日日是労働セレクト29

 某月某日

 今日は、お馴染の井嶋ナギさんのブログに言及したい。題名は「【雑記】コウダクミ発言について考えて
みた 2008.02.18 Monday」である。倖田來未の「35ぐらいまわると、お母さんの羊水が腐ってくるんですね、
本当に」という発言についてのコメントが主たる話題であるが、小生はその方面にはあまり興味はない。若
いタレントが軽い気持で発言した内容の揚げ足を取るようなかたちでマスコミが騒ぐことはままあることで、
いずれにしても「商売」だから本格的な議論に発展させるつもりはなく、時が経てば忘れられてしまう事柄
だからである。発言した本人もきちんと謝罪をしているし、きっと「世の中には調子に乗りすぎると火傷す
ることがある」という事実を学習したことと思う。さて、問題はそのことではない。小生が興味を抱いたの
は、次の記事である。文脈を一切無視して引用するが、ご寛恕いただきたい。

  だから、日本だって、ヨーロッパのように「40代の女性はセクシーだ」なんていう感覚が特別じ
 ゃなくフツーにあるような、そんな大人の国になるかもしれませんよー。そうそう、以前、デザイ
 ナーでイラストレーターのたかぎスケッチさんから、卒倒するくらいイイ話を聞きました。彼女は
 以前N. Yで働いていたそうなのですが、かの地では、若いイイ男には何故かたいてい50代フラン
 ス女性の恋人がいたそうで。不思議に思って「どうして彼女を選んだの?」と尋ねると、「だって
 彼女はとても自由だから」と答えた、という話。あぁ。明らかな文化成熟度の差を感じてしまった
 のは、私だけでしょうか? まぁ、そういう国になるように私たち女性が頑張りましょ(笑)!

 この記事を読んで反感をもつ人もいるかもしれないが、小生はその正反対で、井嶋さん同様「卒倒するく
らい」イイ話だと思う。「だって彼女はとても自由だから」……これは、まさに「正答」である。少しだけ
ど、アメリカの若い力を信じる気になった。日本がそういう国になるように、女性ではない小生も頑張るつ
もりである。


 某月某日

 DVDで邦画の『嵐を呼ぶ十八人』(監督:吉田喜重、松竹京都、1963年)を観た。題名から、『嵐を呼ぶ男』
(監督、井上梅次、日活、1957年)を連想したが、まったく関係がないようである。『にあんちゃん』(監督:
今村昌平、日活、1959年)、『豚と軍艦』(監督:今村昌平、日活、1961年)、『キューポラのある街』(監
督:浦山桐郎、日活、1962年)、『下町の太陽』(監督:山田洋次、松竹大船、1963年)などと同系列に属す
る映画である。働く若者の現実への不満、将来への不安、生きることへのささやかな歓びなどを描いている。
呉市の造船所の社外工(製罐工)である島崎宗夫(早川保)は、給料の大半を酒に費やして悔いない生活を送
っている。そんな彼に、会社の厚生係長を務めている村田(殿山泰司)から、「寮監にならないか」という誘
いを受ける。食うことと住む所を確保できるから都合がよいじゃないか、というわけである。ただし、大阪か
らやって来る札付の不良〆て十八人の面倒を見なければならず、引き合うかどうかは微妙なところである。彼
らは、タコ師(手配師)の森山(芦屋雁之助)に引率されて来るが、社外工の一員として採用されたのである。
結局いやいやながら引き受けることになるが、金と自由に遊び回ることと女のことしか頭にない連中であるか
ら、問題が次から次へと持ち上がる。そんな彼を支える人物として、居酒屋の娘である石井ノブ(香山美子)
や、高校の教師をしている村田係長の妹である村田久子(根岸明美)がいた。彼らと女子高生との珍妙なバレ
ーボール大会などの場面もある。やがて、夏季手当闘争の季節になった。彼らのような社外工は組合にも入っ
ていないので、本工がストライキをしている間に仕事がいくらでもあった。残業に次ぐ残業で懐が暖かくなっ
た彼らは、夏祭の日に街に繰り出してそれぞれの歓楽に酔い痴れるのであった。その日、寮に宗夫を訪ねに来
たノブが、彼らの一人であるあきら(安川洋一)に犯されてしまう。宗夫が不在だった隙を突かれたのであっ
た。それに加えて、街のチンピラである和夫(平尾昌章)らと諍いを起こした精一(生島孝治)の刃傷事件も
あって、宗夫の周囲は慌しく変化する。娘を「傷物」(この言葉には、「商品」に関連する響きがある)にさ
れたと思った母親の石井スミ(三原葉子)は、一家を上げて広島に移住し、ノブの姉という触れ込みで二人し
て水商売を始めている。そこへ宗夫がわざわざ訪ねに来て、いきなりノブに結婚を申し込むのである。「そう
するのが一番自然なのだ」というふうに、この映画は訴えているかのようである。件の十八人も北九州に新し
い職場を得て旅立ってゆき、物語は静かに幕を閉じるのである。
 当時の風俗や、労働観、人生観なども窺えて、いろいろ考えさせられる映画であった。男に娘を犯されて
「傷物」になったという感覚は、もはや現代ではあまり見られなくなった感覚かもしれないが、1963年当時
としてはごく普通の感覚だったと思われる。もっとも、単なる交際の結果ではなく、この場合はレイプであ
るから、やはり「傷物」にされたという感覚は今でもあるのだろうか。上記の『下町の太陽』でも、婚約者
(この映画と同じ早川保が演じている)に迫られて拒絶する娘町子の役を倍賞千恵子が演じているが、普通
の娘は結婚前に男と性交渉を持つべきではない、というのが建前だったからである。したがって、結婚と関
係の薄い性交渉を持った娘を「傷物」と看做したのであろう。その際、和姦か強姦かはほとんど問題ではな
かったのである。やはりこの点で現代とは異なる、と考えておいた方が無難であろう。宗夫に真剣な態度で
求婚されてノブは号泣するが、話の流れから少しも不自然には感じられなかった。ノブはもうまともな結婚
はできないと覚悟を決めていたので、恋人の宗夫から求婚されてよほど嬉しかったのであろう。タコ焼きを
一緒に売っていた頃の二人とは明らかに別人の彼らであった。重ねて書くが、この流れは、「結婚」が普通
の娘にとって幸福への切符であった頃の話だから、ごく自然に見える。ただし、『下町の太陽』の町子は、
「結婚」を素直に娘の幸福とは捉えていない。同年の作品だけに、この点には注目すべきであろう。十八人
の若者も、今ではむしろ素直な青年に見えるほどの連中である。宗夫が、「いぎとのうて、こすうて、いや
らしい奴め、お前ら人間やない、虫ケラや」と彼らを罵倒する場面があるが、心の底から憎んでいるという
感じではなかった。弱い立場に置かれている彼らの気持が痛いほど分るからである。仕事が減ったとき、独
り者、腕のない者、流れ者が馘首の候補になるが、それは現在でも同じことだろう。この作品では、本工
(正規採用の工員)と社外工(下請けの大和田組に属している者)との間にコントラストがあるが、それは
現代の正社員と派遣社員との間に存在するコントラストに当るだろう。ただし、この映画ではその様子が十
分に描かれてはおらず、その点では奥行きの深さが足りないような気がした。他に、浪花千栄子(精一の母)、
浦辺粂子(石井ギン=ノブの祖母)、中村芳子(村田安江=村田係長の妻)、加藤和夫(産婦人科医)など
が出演している。


 日日是労働セレクト37

 某月某日

 今月は先月を上回る忙しさで、このブログを書くことも間遠になりがちであるが、今日は、つい少し前に
読み了えた本について書こうと思う。以前、読み物として、北尾トロが面白いと書いたことがあったが、こ
れからしばらくは、酒井順子を読もうと思っている。先ずは『少子』(講談社文庫)で、ある友人の感性を
直撃したとの由。その人に当該の本を借りて読んだ。一言で言えば、著者(30代半ば、独身の女性)が、何
故子どもを産む気にならないのかを、懇切丁寧にまとめた本である。ある程度中身は予想できたし、かなり
共感することもできた。その理由として、痛いから、結婚したくないから、うらやましくないから、愛せな
いかもしれないから、面倒臭いから、シャクだから、男が情けないから、が挙げられており、その対策とし
て、自分で育てない、有名人に産んでもらう、男にも産んでもらう、戦争をしてみる、宗教を信じてみる、
が提案されている。要するに、女性が気持よく、安全に、かつ喜んで子どもを産む体制が今の日本にはなく、
だから、何も無理をしてまで子どもを産む必要はない、という論旨である。小生には子どもがおらず、かつ
産ませるつもりも今後ないので、本を借りた友人同様、まったく同感だった。ただ、自分の子どもなど要ら
ない理由として、自分の遺伝子を残したくないから、現在の環境が子どもの成長にとってよいとは思えない
から、たぶん親バカになるに決まっているので、そんな情けない状況に陥りたくないから、などの理由が付
け加わる。人口爆発に目をやれば、人類滅亡は時間の問題のような気がする。急に増殖した種にとって、人
口爆発は絶滅の予兆を示しているからである。他の生物からすれば、地球上に存在する最悪の存在者である
人間の子どもなど金輪際要らないから、という理由を付け加えてもいい。ところで、政府はいろいろと少子
化対策を企画しているようだが、もっとドラスティックな政策(たとえば、子育てをしているカップルに多
額の助成金を出す、などの政策。財源がないのでやれそうもないが……)でなければ、成功しないだろう。
ともすれば、「どんなに画策したって、今の女性が子どもなんか産むもんか」という冷ややかな声がしきり
に聞こえてくる。まあ、小生のような人間は少数派だろうから、子どもを可愛がりたい人はそうは思わない
のだろうけれど。いずれにせよ、これをきっかけにして、著者である酒井順子の読み物を、いくつか読んで
みようと思っている。


 日日是労働セレクト40

 某月某日

 最近、KY(空気読めよ→空気読めない)という言葉が流行しているが、これは一種のファシズムである。
小生としては、読めなくていいし、読む必要もない、という極論を対峙させたいとまで考えている。だいい
ち、別の人格同士が、こころから理解し合えることは、ほとんど不可能だと思う。その分かり合えない者同
士が、何とかして分かり合おうとするためには、こころを尽くし、思いを尽くし、言葉を尽くして、はじめ
てスタートラインにつけるのではないだろうか。たしかに、小生は、言葉の行き違いから、とても大切な人
を喪った経験があるが、その貴重な経験すら、小生の人生の糧になったのかどうか、怪しいと思っている。
したがって、言葉が当てにならないという点に関しては、多くの人と同様の見解である。しかしながら、そ
の頼りない言葉に頼らないで、どんな途が展けるのだろうか。小生には疑問である。また、空気を読む行為
を、小生自身が企てていないわけではない。しかし、それは所詮、当て推量にすぎない。仮にそれが的を射
たとしても、僥倖の部類に属することだろう。「分らないということが、辛うじて分るのでは」という禅問
答のような答えが、今のところ言い得る唯一の言葉である。釈迦と迦葉の間に生まれた「拈華微笑」や、い
わゆる「阿吽の呼吸」が立ち現れるのは、凡人にとっては千載一遇のことである。しかも、それは、互いに
何度も傷つけ合った後のことではないだろうか。人と寄り添うためには、全人格を賭けなければならない。
それ以外の交流は、ただのおつきあいである。口幅ったいことを語ってしまった。しかも、熟考の末の言葉
ではもちろんない。あくまで、感想めいた戯言である。ただ、ある行為の意味を求めた場合、当の本人にも
よく分らない場合があるようだ。少なくとも、小生にはそういうことが稀ではない。もしかすると、すべて
が空回りの連続で成り立っているかもしれない。それでもいいと開き直るつもりはないが、分ったつもりに
なることだけは避けたいと思う。


 日日是労働セレクト52

 某月某日

 久しぶりにタイトル付のブログを披瀝してみよう。少し前に書いたものであるが、ちょっと感じるものが
あったので、ここに再録してみたい。考察の足りない稚拙な文章ではあるが、かなり「ホンネ」なので、で
きうれば、諸兄姉のご批判を賜りたい。

 「愛と所有」

 一度、「所有」の概念を徹底的に考えなければいけないと思っているが、今のところある程度見えている
ことは、(1)人類は共同体を形成することには肯定できても、究極的には共産主義的な考え方には同調で
きないのではないか、ということ。(2)人間が同じ人間を所有の対象にしてはいけない、ということ。こ
れは、奴隷などを指しているだけではなく、親子関係にも当て嵌まる。(3)人間が生きてゆく上で必要な
もの(衣食住、医療、宗教などの信仰を含む精神的な糧、芸術や娯楽)は、共同体がこれを保障する、とい
うこと。(4)得がたきもの(宝石などの貴重品、高い身分、臓器などの特殊なもの)に関しては、どんな
方法を用いても公平な分配は不可能なので、「所有」とは異なる概念を創出する、ということ。以上である。
 もちろん、動産や不動産の区別、土地所有の問題、金融の問題など、所有にまつわる事柄はこの世に無数
に存在するだろう。それらを一つ一つ考察してゆく必要があるが、ここではもっと気楽な問題を扱ってゆこ
う。さて、小生は、若い頃、「煙草と傘と女に関しては、おおむね共産主義がよろしかろう」などと嘯いて
いたが、今も基本路線は変わっていない。女に関しては、女性から見れば男ということになるだろうから、
異性と言い換えてもよい。もちろん、セクシャリティの問題はそんなに単純ではないから、男と女の二分法
が通じないことがあることを考慮しなければならないだろう。さて、問題を絞ろう。異性を所有するとはど
ういうことなのだろうか。
 しばしば、「おれの女」、「あたしの彼」、「わたくしどもの娘」、「僕たち兄弟の母」などという表現
を耳にするので、これらの表現はきわめてありふれたものであろう。ここで、所有について考えてみた場合、
いずれの言葉にも存在する「の」が焦点になる。たとえば、「おれの女」とは、一体どんな事態を指してい
るのだろうか。先ず、対象になっている女性が、この言葉に同意するか否かが問題になるだろう。「あたし
は、あんたの女じゃないよ」の一言で、男の思惑は崩れてしまう。つまり、男は対象の女を所有しているつ
もりかもしれないが、女の方ではそれを否定していることになる。
 そもそも、男が女を、あるいは、女が男を、所有することなど可能なのだろうか。一般的に言って、性的
な関係が生じた場合、この所有の意識が生まれることが多い。もちろん、それが錯覚であることを承知しな
がら、そう考えたいと思うのである。ある漫画で、ある男と性的な関係をもって浮かれている友人に対して、
「もうあの人を《彼》と決め付けているのはどうかなぁ。そういうのは、単に、一、二度、寝ただけの関係
って言うんじゃないの」と冷ややかに論評する女性が登場するが、小生としては、この女性を高く評価した
い。この冷静な女性は、人間関係に恒常性をもちこむことに根本的な懐疑の目を向けているが、その点でこ
の女性の鋭さが窺えると思うからだ。たまさか一度ぐらい性的な関係を結んだだけで、女房面や亭主面を発
揮することは、相手がそれを許容している場合を除いて、極力避けなければならない事項である。たしかに、
親密度の度合は増したかもしれないが、相手に自分のすべてを譲り渡したわけではないからである。まして
いわんや、相手の所有物になったなどと考える人は、男と女を問わず、よほどおめでたい人と言わなければ
ならないだろう。もちろん、過去の封建主義が主流の世の中にあっては、女が男と初めて同衾した後、「こ
れで、あたしはあんたの女になったのね」、「もう、あたしたちは他人じゃないのね」などという台詞に意
味があっただろうが、これらの台詞は、現在でも通用しているのだろうか。
 残念ながら、通用していると思う。人は、誰かを所有したいと思うと同時に、場合によっては誰かに所有
されたいと思うからだ。つまり、二人の関係に保障を持ち込みたいのである。金銭を代償にして何かのグッ
ズを購った場合、そのグッズの占有権が売り手から買い手に移行することは、この世の約束事である。この
考えを人間関係にまで及ぼしたいのである。しかし、この場合、対象が「物言わぬ物」ならばともかく、そ
のような存在ではない人間であること忘れている。たとえば、ある服が、ある人に着られることを拒んで、
ひらひらと逃げ出すことなどあり得ないだろう。しかし、人間は、ある人と交際することを拒んで、その人
の許からすたこら逃げ出すことは大いにあり得ることである。
 それが恐いから、保障を求める。たとえば、その最たる制度が婚姻制度である。もちろん、この制度は、
単に男女の性愛を恒常的に限定させるための制度ではない。むしろ、そこから生じる、財産とか、子どもと
か、個人の生活とかの「安定」が目論まれているのだ。だから、婚姻制度は、けっして男女間の愛を保障し
ない。つまり、法律によって互いに縛りあったとしても、愛はけっして保障されないのだ。それでは、何が
それを保障するのだろうか。小生は、愛そのものから所有の観念を追放することではないか、と思っている。
言い換えれば、「おれの女」とか、「あたしの彼」などの表現から、所有のニュアンスを抹殺することであ
る。人が人を所有することなどあり得ない。それは、血を分けた自分の子どもであっても同じことである。
「おれの」や「あたしの」の「の」には、さもしい欲望が潜んでいる。「の」の力で、相手を所有しようと
しているからだ。この所有の欲望から逃れることは難しいが、挑戦する価値は十分にあると思う。
 もちろん、これまでの考察はいわば「思考実験」であって、現実の世界から乖離しているとは思う。やは
り、人は、自分流の仕方で異性を所有したいのだ。しかも、それは占有のかたちで現れる。つまり、独占的
に所有したいのである。たとえば、「不倫」とか「浮気」とかの言葉が存在しているところから見ても、そ
う言えるだろう。しかし、徹底的に男女関係から所有の観念を追放すれば、そのような言葉は原理的にあり
得なくなるのではないか。つまり、相手が子どもでない限り、行動に制限を加える権利が消滅するからであ
る。相手の行動に制限が加えられないのだから、相手がたとえ他の異性と何らかの関係をもったとしても、
それは相手の自由であり、相手の責任の範囲内のことである。むしろ、相手の愛が拡散して、息苦しさから
解放される利点さえもつと言えるかもしれない。
 愛はおしなべて重いものである。それを他の人と分かち合えば軽くなる。しかし、人は、あえて自分独り
で担おうとする。自分のパートナーが、自分以外の他の異性に現を抜かすのは、自分に魅力が欠けているか
らだ、という風に反省的な思考をする人は少ない。自分が相手にとって最高度に魅力的な人間であったとし
ても、完璧とは言えないはずである。相手が求めているものを、すべて備えている人などあり得ないからだ。
だから、ときには、「他の異性のところに行っておいで」と本気で言える人は強い人である。たとえ、相手
が帰ってこなかったとしても、それはそれでよしとする。所有の観念がないから、そうすることができるの
である。しかし、愛が消えるわけではない。依然として、相手に対する愛は不動なのだ。
 もちろん、ここに書いたことは理想論である。小生に、このように実行しろと言われても、なかなかでき
ないだろう。しかし、「所有できるのなら愛しましょう。それが無理なら愛しません」。これでは、何か愛
に不純なものが混じっている感じがして仕方がない。愛は相手の出方を待って成立するものではない。愛は、
おのれの相手に対する無償の感情なのである。したがって、もし、愛に保障を求めるならば、愛から所有の
観念を追放すべきだろう。もしそれが可能になれば、きっと清々しい愛に恵まれると思う。その愛は、何も
のにも打ち勝ち、けっして滅びることはないだろう。

                                           (了)


 日日是労働セレクト55

 某月某日

 スウェーデンの社会思想家、教育学者、女性運動家として知られるエレン・ケイ(Ellen Karolina Sofia
Key, 1849-1926)の著作である『恋愛と結婚』(三部作『生命線』の第一部)という本を読み始めているが、
現代の女性解放運動やジェンダー論の文脈とどうつながっているのかは定かでない。ケイの著作は、大正デ
モクラシー期の日本にも、女性文芸誌『青鞜』などを通して紹介され、日本の婦人運動に絶大な影響をもた
らしたらしいが(ウィキペディアより)、紹介者の平塚雷鳥ほど有名ではない。森鴎外も彼女に注目したら
しいが、なかんずく、英文学者の厨川白村(1880-1923)はケイの影響を強く受けて『近代の恋愛観』という
書物を著し当時のベストセラーになった由である。もっとも、いまどき「恋愛至上主義」などを唱えても誰
も振り向きはしないだろう。そういう意味では、もはや時代遅れの思想家なのだろうが、歴史的な価値はま
だ失われてはいないと思う。女性の参政権すら確立されていなかった時代の困難を考慮しなければならない
からだ。何ごとでもそうだが、先鞭をつけることの勇気を讃えなければならない。順風を受けて船出するわ
けではないからだ。今読めば、ケイの思想はさほどの感慨をもたらさないだろう。しかし、そこに先駆者の
熱い思いを感じることができれば、それでよしとしよう。


 日日是労働セレクト57

 某月某日

 今日は本の紹介をしよう。『同性愛と異性愛』(風間孝/河口和也 著、岩波新書、2010年)である。小生
の研究にも直接的に関係するので、あまりこのブログで取り上げたくはないのであるが、この手の本として
はバランスよくまとまっていると思うので、敢えて言及してみた。
 小生自身はまったくの「ノンケ」であるが、同性愛に関しては小学校の頃から知的関心の対象になってい
る。三島由紀夫の短篇小説「煙草」、あるいは長篇小説の『仮面の告白』や『禁色』などは、すでに高校生
の頃には読んでいたはずだ。谷崎潤一郎の『卍』も高校生の頃興味深く読んだ覚えがある。また、母親から
S(シスター)について若干のレクチャーを受けていたので、同性愛に対する偏見は平均的日本人よりも少
ない方だと思う。カルーセル麻紀が芸能界にデビューしたとき、母親と二人して直ちにファンになったとこ
ろをみても、世間的には「変人」扱いされる人に母親と小生は健全な好奇心を示したともいえよう。もっと
も、今ではその手のタレントが多すぎて、とくに注目すべき存在がいるわけではない。ちなみに、母親はセ
クシャリティに関して、まったくオープンな人だったことを記しておこう。もちろん、小生にも「性」をタ
ブー視する傾向はない。
 さて、当該の本であるが、ホモフォビア(同性愛嫌い)の論理と、異性愛絶対主義に対する柔らかなアン
チ・テーゼを提唱するとともに、性的マイノリティに対しての人々の理解を促している。小生自身は、「同
性婚」の実現を早くから望んでいるので、まったく当然の論理だと思うが、<慣れていない人>には抵抗感が
強いのかもしれない。この本では、「多柱型社会」という言葉が遣われているが、さまざまな指向性を許容
する<柱の多い>社会が実現しない限り、いわれのない差別に苦しむ人は跡を絶たないと思う。人権をめぐっ
て、同性愛者、性同一性障害をもつ人、インターセックス(先天的に染色体や性器の形状などが典型的な男
や女ではない人)といった性的マイノリティへの配慮が強調されているが(同書、150-151頁)、それと関連
して人権施策を必要とする具体的な集団カテゴリーが言及されている。奇しくも、小生が「居場所」を問題
にする文脈で、「居場所を制限されている人々」として取り上げた集団とかなり重なり合う。小生が挙げた
のは、以下の十通りである。
 1病者、2受刑者、3在日外国人、4同和問題、5ホームレス、6家族(家庭内離島)、7ひきこもり、
8子ども、9ジェンダー、10高齢者。『人間の輪郭』(拙著、不二出版、2004年、325頁参照)。
 これに対して、この本で取り上げられているカテゴリーは、1女性、2子ども、3高齢者、4障害者、5
同和問題、6アイヌの人々、7外国人、8HIV感染者等、9刑を終えて出所した人、10その他とあり、表
現は少し異なるが、七割くらいの項目で一致している。小生が居場所問題を考え始めた頃、性的マイノリテ
ィも当然視野に入っていたが、それらの人々を厭う人々が世間には格段に多いということには考え及ばなか
ったことも事実である。おそらく、小生自身がとくに同性愛を嫌悪しているわけではなかったからであろう。
まして、同性愛に犯罪性や病理性があるとはどうしても思えない。したがって、「居場所を制限されている
人々」のカテゴリーに独立した項目として立てなかったのだが、これは改めなければならないだろう。《ラ
フ・ミュージック》や《シャリヴァリ》については、同性愛をテーマに掲げた『メゾン・ド・ヒミコ』(監
督:犬童一心、アスミック・エース エンタテインメント=IMJエンタ テインメント=日本テレビ放送網=S・
D・P=カルチュア・パブリッシャーズ、2005年)という映画に言及した際(『日日是労働セレクト11』)
触れた。なお、当該の本には映画ガイドがついているが、邦画作品がたった2本(いずれも橋口亮輔監督作
品)しか挙げられていないので、その2本も含めて以下に補足しておこう。

 『卍』、監督:増村保造、大映東京、1964年。
 『セックス・チェック/第二の性』、監督:増村保造、大映東京、1968年。
 『卍』、監督:横山博人、横山博人プロダクション、1983年。
 『キッチン』、監督:森田芳光、光和インターナショナル、1989年。
 『おこげ OKOGE』、監督:中島丈博、東京テアトル、1992年。
 『きらきらひかる』、監督:松岡錠司、フジテレビジョン、1992年。
 『TOPAZ<トパーズ>』、監督:村上龍、メルサット、1992年。
 『ナチュラル・ウーマン』、監督:佐々木浩久、ケイエスエス、1994年。
 『人でなしの恋』、監督:松浦雅子、松竹=バンダイビジュアル、1995年。
 『渚のシンドバッド』、監督:橋口亮輔、YES(Young Entertainment Square)、1995年。
 『ハッシュ!』、監督:橋口亮輔、シグロ、2001年。
 『卍』、監督:井口昇、アートポート、2005年。
 『ガールフレンド(Someone Please Stop The World)』、監督:廣木隆一、「ラブコレクション」製作
  委員会〔ヒューマックスコミュニケーションズ=ジャム・ティービー=カルチュア・パブリッシャーズ〕、
  2004年。
 『LOVE MY LIFE』、監督:川野浩司、LOVE MY LIFE Partners〔フェローピクチャーズ=日本出版販売=
  タキ・コーポレーション〕、2006年。

 「同性愛」や「性的マイノリティ」をテーマにした映画の数はさほど多くはないが、いずれも高水準の作
品だと思う。

 * 『あなたがすきです、だいすきです』(監督:大木裕之、ENKプロモーション、1994年)〔筆者、未見〕
  という作品がある由。いわゆる「薔薇族映画」である。機会があれば、観てみたい。


 某月某日

 最近、「子ども手当て」を始めてとして、さまざまな補助金制度や優遇制度が目に付くようになっている。
その一方で、「自己責任」重視や経済に特化した「新自由主義」などが当たり前のように機能し、共同体の
絆のあり方が変容しているようだ。人員を割くのは人件費高騰などの関係もあって困難である。手っ取り早
く、子育て支援はずばり現金で、という狙いのようだ。穿った見方をすれば、忙しくて面倒を見ていられな
い子どもに小遣い銭を渡して、あとは好きにしろと「放任主義」を決め込んでいるだけのように見える。し
かも、選挙絡みとあっては何をか言わんやである。お金で何とかしようとするのは、小生には最も愚策に見
えるがいかがなものだろうか。行政が手抜きを始めたらあとは右へ倣え、何でもお金に換算する考え方が子
どもの頃から脳髄に叩き込まれ、義侠心や心意気などの育つ余地はない。効率第一、利益第一の機械人間を
量産し、人間同士の利害を超えた関係は軽視される。それどころか、そういった採算や効率を度外視した行
動は非難の対象にされ、バカにされるか迷惑がられるかのどちらかに落ち着くだろう。そのうち、『老子』
の「学を為せば日々に益し、道を為せば日々に損す。これを損じて又た損じ、以て無為に至る」の精神を理
解できる人などいなくなるのではないか。とくに、有能だと自己判断している諸君は気をつけたほうがよい。
人間に有能な存在などいない。一部の人間のための、一部の事柄において「有能」なだけだ。先ずは「無為」
の意味に注意を向けること、これが大切。そして、お金ではなく、人の手を差し伸べて子育て支援をする方
策を考えること、これが具体的な支援策。それこそ有能で経験豊富、しかも比較的閑暇のあるご婦人(もち
ろん、男性でも可)は全国にいくらでもいるだろう。彼女らに、子育てのノウハウを教授してもらえばいい
のだ。それも、ヴォランティアから始めればいいのでは。自分の親だと鬱陶しいと感じる人も、赤の他人な
らば聞く耳をもつかもしれない。そこに世代を超えた交流が芽生えれば、一石二鳥ではないか。ともあれ、
お金をばら撒くのは直ちに止めてもらいたい。お金の掛からない方法を、ない頭を絞ってでも考え出して欲
しい。それが、政治というものだろう。それが、行政というものだろう。税金をただばら撒くだけならば、
花咲か爺さんと一緒だ。パフォーマンスとしては華があるが、財源の灰がどこにあるというのか。自分の懐
を痛めていないのだから、誰にでもできる。やることなすこと、子どもじみて見えるのは、小生の偏見か。
実現できないことをリップ・サーヴィスで語るのではなくて、国民に苦労を強いるのならば、正直に頭を下
げればいいではないか。選挙のときだけのいい顔は、もうたくさんである。


 日日是労働セレクト73

 某月某日

 DVDで邦画の『腐女子彼女。』(監督:兼重淳、「腐女子彼女。」フィルムパートナーズ〔角川映画=NTT
ドコモ=USEN=エンターブレイン=エスピーオー=ジー・モード=スモーク〕、2009年)を観た。今年度の
卒論で「オタク」をテーマに選んだ学生がいたので、参考にするために観たのだが、この手の映画としては
過不足のない出来だと思った。「腐女子」とは、「BL(ボーイズ・ラヴ)と呼ばれる男性キャラ同士の恋愛
に全力で燃えるオタクな女の子を指す言葉」の由。耳慣れない人も多いかと思うので、念のために<ウィキペ
ディア>から詳細な説明を引用させていただこう。ただし、意味を損なわない範囲で一部改変した。なお、註
の類は割愛させていただく。執筆者に深甚の感謝を捧げたい。

  腐女子(ふじょし)もしくは腐女(ふじょ)とは男性同士の恋愛を扱った小説や漫画などを好む
 女性のこと。「婦女子」(ふじょし)をもじった呼称である。ヤオラーともいう。年齢の高い腐女
 子をさす派生語として貴腐人(きふじん)もある。同様の趣味を持つ男性は、腐男子あるいは「父
 兄」をもじって腐兄(ふけい)などと呼ばれる(なお、当該映画では、「主腐(もちろん、「主婦」
 のもじり)」という言葉も登場している)。

 以下、割愛。


 日日是労働セレクト82

 某月某日

 DVDで邦画の『紀子の食卓』(監督:園子温、マザーアーク、2006年)を観た。つい先日鑑賞した『自殺サ
ークル』(監督:園子温、「自殺サークル」製作委員会〔オメガ・プロジェクト=ビッグビート=フォーピ
ース=フューズ〕、2002年)の続篇ともいうべき作品である。期待したほどの衝撃は受けなかった。それで
も、家族の在り方についていろいろ考えさせられた。もっとも、けっこう図式的なので、観終わってしまえ
ば、底の底まで突っ込んだ描かれ方がされているわけではないことに気付く。やはり、これらの作品の後に
公開された『愛のむきだし』(監督:園子温、オメガ・プロジェクト、2008年)や『冷たい熱帯魚』(監督:
園子温、日活、2010年)の方が抉り方が深いと思う。たぶん、監督の園子温は犯罪を含む社会問題をよく研
究していて、それを自分流の味付で料理することがとても上手なのではないか。たとえば、ある程度社会に
話題を提供した何らかの事件を素材のまま描けば平凡な作品で終わってしまうのだろうが、味付に一工夫さ
れているので、新鮮な感動を鑑賞者に与えてくれるのである。これは彼の才能以外の何ものでもない。この
物語も、分解すれば、さして新しい題材を選んでいるわけではない。親子の断絶、家出、自殺を厭わない若
者のアパシー、それがたとえ虚構でも構わないから癒しを求める現代人、ネット社会、カルト集団、ロール・
プレイング・ゲーム……。さらに、この映画でも重要な意味をもつ「レンタル家族」なども、もはや平凡な
ビジネスと化している。ただ、それらのカードの配置の仕方が興趣をそそるので、全体として成功している
のだろう。
 物語を確認しておこう。例によって〈goo 映画〉のお世話になる。執筆者に感謝したい。なお、一部改変
したが、ご寛恕を乞う。

  島原紀子(吹石一恵)は平凡な女子高生。妹のユカ(吉高由里子)、新聞記者である父の徹三(光
 石研)、母の妙子(宮田早苗)の4人家族。紀子は田舎でくすぶっている自分や、家族との人間関係
 に苛立ちを感じていた。そんな中、“廃墟ドットコム”という全国の女の子が集まるサイトを見つけ
 た紀子は、そこで「ミツコ」と名乗り、ハンドルネーム「上野駅54」や他の仲間たちと知り合う。彼
 女たちとなら何でも分かり合えると感じた紀子は、ある夜、家出して東京へ向かう。東京で紀子は、
 「上野54」ことクミコ(つぐみ)と知り合い、彼女が経営する<家族サークル>(I・Cコーポレーシ
 ョン)とも言えるレンタル家族の一員となる。そこで紀子は「ミツコ」として<娘>の役割を演じな
 がら、本物の<家族>との関係、本当の<自分>との関係を実感していく。2002年5月26日、新宿駅
 8番線プラットホームから女子高生54人が、ホームへと一斉に飛び込んだ。その謎を解く手がかりを、
 妹のユカは“廃墟ドットコム”の中に発見する。女子高生54人が集団で自殺した次の日、54の赤い丸
 が増えていたことから、姉の紀子が54人の中にいるのではと想ったユカは、“廃墟ドットコム”の秘
 密をもって東京へ消える。ユカの失踪から2ヵ月後、妙子は自殺してしまう。徹三は、紀子とユカの
 消息を追ううちに、“廃墟ドットコム”のことを突き止めていた。紀子もユカも彼らの組織<家族サ
 ークル>の一員だと知った徹三は、友人の池田(並樹史朗)に頼んでクミコを母親役、紀子とユカを
 娘役だとして指名し、クローゼットの中に隠れて彼らを見守る。彼らは、かつての幸せな家族団欒を
 取り戻すことができるのだろうか。

 他に、安藤玉恵(決壊ダム)、渡辺奈緒子(廃人5号)、あべちひろ(ろくろっ首)、小貫華子(深夜)、
三津谷葉子(みかん)、古屋兎丸(喫茶店の男)、手塚とおる(髭の男)、李鐘浩(サークルのメンバー)、
藤間宇宙(良=ユカのボーイ・フレンド)などが出演している。
 沙漠のような都会で生きることの意味は、この映画に留まらず、これから何度も問われ続けるだろう。そ
して、家族の在り方は、さらに変容してゆくだろう。皆が皆ライオンになりたがり、ウサギの役割を引き受
ける人がいなけば社会は成り立たなくなる。そんな状況の中、世の中はどう変わってゆくのだろうか……そ
んなことを考えさせてくれる映画だった。


 日日是労働セレクト84

 某月某日

 3本目は、『女中ッ子』(監督:田坂具隆、日活、1955年)である。「小夏の映画会」による自主上映会
で観た。「女中」(このブログでは、差別を目的に用いているのではないので、そのまま表記する)という
言葉について〈ウィキペディア〉に詳細が載っているので、以下に引用させていただく。執筆者に感謝した
い。なお、ほぼ原文通りである。

  女中(じょちゅう)とは、家庭・旅館・料亭などにおいて住み込みで働く女性の、日本国内におけ
 る歴史的呼称である。

  近世

  近世の日本では、宮中、武家屋敷や商家に住み込みの形で雇用され、接客や炊事などを行う女性の
 事を女中と呼んだ。特に接客や、雇用者夫妻の身の回りの世話に関わる女性が上女中(かみじょちゅ
 う)と呼ばれ、炊事や掃除などを行い、水回りを担当する下女中(しもじょちゅう、あるいは下女)
 とは明確に区別された。上女中は下女中よりも上級の職であり、待遇が全く異なっていた。
  商家や上層農家の娘などが、本家や豪商のもとへ数年間奉公に出る際に、上女中として仕える習わ
 し(行儀見習い)があり、結婚前の女性に対する礼儀作法や家事の見習いという位置づけがなされて
 いた。雇用者夫妻の身の回りの世話をはじめ、外出のお伴、子弟の養育、仏壇回りや上座敷の掃除な
 どを担い、使いに出る際、帰宅した際には雇用者夫妻に口上を述べた。また、雇用者宅を訪ねる客人
 への接待を通じて、物言いや挨拶の仕方を会得しつつ、人物を見る目を養ったとされる。並行して、
 裁縫、生け花、お茶などの女性としてのたしなみを身につけた。上女中を経験した女性の多くは、武
 家や商家の妻に納まっている。
  当時の日本では身分制度が確立されていたために、女中と雇用者夫妻との間には単なる契約関係を
 越えた主従関係も見られた。安政三年(1856年)に制定された、外村与左衛門家の家訓『作法記』に
 よると、「本家、上女中在留分、別宅の娘を召仕え申すべきこと、但し、納まり方も別家の内を見立
 て差配いたすべきこと」(本家では別家の娘を上女中として採用し、上女中を経た娘の嫁ぎ先は他の
 別家から世話するように)という記述があり、雇用者夫妻がその後の縁を取り持つこともあったとみ
 られる。

  近代

  明治時代以降、中流家庭の増加によって女中の雇用は広がり、それとともに上女中、下女中の区別
 は薄れて、家事全般を執り行う労働者を女中と呼ぶようになった。また、女中の位置づけについても
 家事見習いから、下層階級子女(主に小作人の娘など)の雇用先という性格が強まっていった。20世
 紀も1950年代後半頃に差し掛かると、女性の権利意識向上、就学率の上昇などに伴い、こうした奉公
 人的性格を持つ女中の担い手は徐々に減少していった。代わって明確な雇用契約に基づくお手伝いさ
 ん(家政婦)と呼ばれる類似の職業が一般的になっていった。

  現代

  女中という呼称は廃れる傾向にあるが、その後も和風旅館や料亭などにおいて接客を行う(必ずし
 も住み込みとは限らない)女性を、女中と称することがある。これらの職業に対しては、仲居という
 呼称がより一般的に用いられている。

 以上である。1950年代以前には、「女中」という言葉は普通に使われていたはずだし、実際にたくさんい
たと思われる。私事であるが、小生の父方の祖母(明治生まれ)も、若い頃「女中奉公」をしていたと聞い
ている。いつの間にか「差別用語(あるいは、放送禁止用語)」に組み入れられてしまったが、「お手伝い
さん」という言い替えの言葉は、何か日本語としてしっくりこない。そう思うのは小生だけだろうか。もち
ろん、差別目的でこの言葉を用いることは回避しなければならないが、「女中」という言葉が含まれている
ために当該作品が不当に評価されるとすれば、それこそ「差別」であろう。事実、この映画は優れているに
も拘らずDV化されておらず(ヴィデオはあるらしい)、『気違い部落』(監督:渋谷実、松竹大船、1957年)
〔筆者、未見〕などと同様、その名称を理由としてが忌避もしくは敬遠されるらしい(「小夏の映画会」代
表の田辺浩三氏による)。小生は戦後の日本人の倫理観の変遷を研究テーマの一つにしているので、むしろ
こういった映画をこそ観たいのだが、日本の過去を消し去ろうと目論んでいる人も大勢いるので難儀である。
ともあれ、今回この映画を鑑賞できたことを率直に喜びたい。実は、この作品を40年くらい前に鑑賞してい
ると思われる個所があった。したがって、たぶん二度目の鑑賞だと推測されるが、他の部分はまったく忘れ
ていたので、その意味でもありがたかった。ちなみに、覚えていたシーンは、初がひろ子と買い物をした際、
大根の値段がソーセージの値段の十分の一なので、「大根を作っているお百姓さんがかわいそうだ」と初が
憤慨するシーンである。それに応えて、ひろ子は「ソーセージはお金をかけた近代的な設備の下で衛生的に
製造されるのに対して、大根は畑からただ引っこ抜くだけじゃない」といったニュアンスで返している。さ
もありなんであるが、都会人と地方人の対比を狙ったシーンなのだろう。なお、「小夏の映画会」は多くの
理由から存続の危機を迎えているが、こういった映画の上映を企画する田辺浩三氏の仕事は称賛に値すると
思う。あえて、記しておきたい(以下、割愛)。

 以上である。両巨匠の批評を前にして小生が付け加えることはほとんどないが、二、三補足しておこう。
先ず、女中役が印象的な映画を3本ほど挙げてみよう。

 『お茶漬けの味』、監督:小津安二郎、松竹大船、1952年。
   女中役が誰かは分からないが、東京の中流階級の家にも女中を置く余裕があったのか……と鑑賞
  当時妙に印象に残ったことを覚えている。

 『流れる』、監督:成瀬巳喜男、東宝、1956年。
   田中絹代(梨花)が女中役を演じている。「梨花」という立派な名前があるのに、習慣上「ハル
  (女中によくある名前)」と呼ばれているのが印象的。この習慣は西洋にもある由。たとえば、た
   いていは「エミリー(Emily)」や「ジェーン(Jane)」と呼ばれる。これらはほぼ役職名みた
   いなもので、メイド頭といえばエミリー、その下のセカンド・メイドといえばジェーンというよ
   うに、そのメイドが属する部署やその中での地位によって「仮の名」がほぼ定着していたという
   (ネット記事〈執事たちの足音〉より)。

 『異母兄弟』、監督:家城巳代治、独立映画、1957年。
   田中絹代が利江という後妻役を演じているが、元々は鬼頭家の女中だった。彼女は後添えになっ
  た後でも女中部屋に彼女自身が産んだ二人の息子と一緒に女中部屋に住み、先妻の息子たちから差
  別されている。若いハルという女中(高千穂ひづる)は、四男の智秀(中村賀津雄〔現 嘉葎雄〕)
  と恋仲になるが、引き裂かれて南方に慰安婦として身売りされる。そのことを悲しげに智秀に伝え
  るマス(飯田蝶子)も鬼頭家の女中である。この映画の三人の女中は、皆印象深い。

 女中というと、地味な存在だが、ときには脚光を浴びることもある。当該映画はその典型であるが、しか
し悲しい役どころであることにあまり変わりはない。身分制度がはっきりしていた頃、女中は明らかに下積
みの仕事であった。もっとも、五、六年頑張れば、主家から嫁ぐことも可能だったようである。しかし、小
生の印象では、好色な主人や好奇心の旺盛なその家の子息に手籠めにされたあげく、なにがしかの手切れ金
を渡されて実家に帰される、といったイメージがある。どうしてこんなイメージが作られたのか判然としな
いが、昭和三〇年代以前の日本を舞台にした小説やTVドラマに、そんなシチュエーションが頻出したから
ではないかと睨んでいる。もっとも、具体的な例は直ぐには思いつかないが……。だいぶ以前には、英語圏
の国で、《Au pair girl》(英語習得のために住み込みで家事を手伝う外国人女性)と呼ばれた女性がいた
が、「安上がりな住み込み女中」というのが基本的な考えで、その手の女性が主人と仲良くなったとか、手
籠めにされたとかの事例もあったらしい(ニュージーランド在住の女性のネット記事より)。世の東西を問
わず、強い立場の男性は、その立場を利用して、弱い立場の女性の貞操を奪うことがある。現在では、強度
のセクシャル・ハラスメント(あるいは、パワー・ハラスメント)に当たるのだろうが、悲しい現実でもあ
る。「女中」という言葉が、差別用語になった背景には、こんな事情があったのかもしれない。幸いなこと
に、当該作品の初(実は、この名前も女中に多い名前である。たとえば、谷崎潤一郎の『台所太平記』に登
場する。この情報もネット記事〈執事たちの足音〉より)はそんな目には遭わなかったが、当家の夫人に盗
みの疑いをかけられ、その夫人の息子をかばって黙って身を引く。こころの痛手はいかばかりであっただろ
うか。


 日日是労働セレクト87

 某月某日

 DVDで邦画の『食堂かたつむり』(監督:富永まい、「食堂かたつむり」フィルムパートナーズ〔ミコット・
エンド・バサラ=東宝=アミューズ=キングレコード=TBS=博報堂DYメディアパートナーズ=ポプラ社=SME
Records=日本出版販売=毎日放送=大広=中部日本放送=RKB毎日放送=TSUTAYAグループ=Yahoo! JAPAN〕、
2010年)を観た。現金なもので、好きな女優が主演を張っているだけで素敵な映画に見えてしまう。柴咲コ
ウの映画は久し振りだが、やはり彼女は魅力的だ。さて、物語はこうだ。
 一人の少女がいる。倫子(柴咲コウ)という名前である。彼女を生んだ母親のルリコ(余貴美子)によれ
ば、不倫の子だから「倫子」なのだという。倫子が「オカン」と呼ぶこの母親を嫌って家出し、都会で10年
間も苦労してお金を貯め、さてインド人の彼氏(エフマッド・シブリ)と一緒に店を出すところまで来た。
ところが、ある日帰宅してみれば、彼氏とともに家財道具一切が消え、部屋がもぬけの殻になっていた。彼
氏は泥棒だったいうわけ。この辺りのシュチュエーションは、『ダンボールハウスガール』(監督:松浦雅
子、キューフロント=電通=シネカノン=クリーク・アンド・リバー社、サイブロ=ネットクリエイティブ=
東映ビデオ、2001年)に似ている。しかし、幸いなことに、倫子には帰るところがあった。実家のあるおっ
ぱい村である。10年ぶりに実家にたどり着いたはよかったが、愛もお金もお店の夢も失い、おまけに声まで
なくしていたのである。都会に出てきたときいろいろ助けてくれた祖母(草村礼子)の遺産である、魔法の
糠床だけが遺されたというわけ。しかし、倫子には料理の腕があった。これも祖母の遺産である。彼女は母
親のルリコに頼んで、実家の近くに建っている物置小屋を借り受ける。食堂を開くというのだ。ここで熊さ
ん(ブラザートム)が登場し、開店までいろいろ手伝ってくれる。さて、おしゃれな店が完成した。「食堂
かたつむり」である。お客さんの第一号は熊さんである。そこで供されたのがザクロ入りのカレー。ザクロ
の味を幼い倫子(佐々木麻緒)に教えてくれたのはまさに当の熊さんだったので、恩返しというわけ。カレ
ーを食べた熊さんは泣き出した。子どもを連れて逃げてしまった妻のシニョリータを思い出したのである。
その後、不思議なことに、シニョリータから熊さんのところに電話がかかって来たのである。もうよりを戻
すことは無理だが、とても嬉しかったと語る熊さん。さて、その熊さんが噂を広めた。「食堂かたつむり」
の料理を食べると願い事が叶うという噂である。その噂を聞きつけた桃(志田未来)が、料理の予約に来た
のである。片思いの相手を連れて来るというのだ。さて、当日、意中のサトル(桜田通)を伴って「食堂か
たつむり」にやって来る。そこで出てきたのが、ハート型の器に入ったカレースープ。さて、奇跡が起こっ
た。サトルは桃に恋心を抱いてしまうのである。こういうことは直ぐに広まる。このスープは「ジュテーム・
スープ」と呼ばれるようになり、次々と予約が入ることになる。しかし、倫子はあまりに丁寧に料理を作る
ので、一日一組しかお客を取らない。こんなメッセージが、お店の案内板に書かれている。

  おっぱい村のめぐみを/かたつむりのあゆみのように/ゆっくり時間をかけて/
  お届けしたいと思います/ご希望をお聞かせ下さい。

 繁盛し始めた「食堂かたつむり」であるが、それを妬む者もいる。倫子が中学生のとき美術部で一緒だっ
た同級生の白井ミドリ(満島ひかり)である。実家が「カフェレストラン SOHO」を開いているのだが、寂れ
る一方だったのである。ミドリは友人を連れて「食堂かたつむり」にやって来る。倫子はサンドイッチを作
って出した。悲鳴が上がる。虫が入っていたというのだ。実は、ミドリが入れたものである。「食堂かたつ
むり」なんか潰れればいいと思ったからである。倫子は失意に打ちひしがれるが、「人の噂も七十五日だ」
と母親が慰めてくれる。しかし、あまり嬉しくない倫子。数日後、熊さんがお店のためにシャンデリアを貰
ってきてくれたお妾さん(江波杏子)をお客に迎える。この人は旦那さんが亡くなってから、ずっと喪服で
過ごしてきた人である。そこで供された料理は、以下に記すようにバラバラではあるが、みな美味しそうで
ある。

  金柑のカクテルと林檎の糠漬け/帆立と甘鯛のカルパッチョ/参鶏湯(さむげたん)/
  カラスミのリゾット/子羊のローストと野性きのこのガーリックソテー/コーヒーとデザートのケーキ

 すると、このお妾さんは思わず「おいしい」と呟く。その夜、亡くなった旦那さんが夢に出て来たという。
今までけっして現れなかったのに。「そのうちまた逢えるから、それまでは人生を楽しみなさい」と声をか
けてくれたという。お妾さんは変わった。喪服を脱ぎ捨てたのである。
 さて、ルリコが癌になった。もう余命幾許もないという。ところが、主治医の谷口修一〔シュウ〕(三浦
友和)は、ルリコの初恋の人だという。二人は結ばれた。ルリコが可愛がっていた豚のエルメスが解体され
て披露宴に供させる。食べてあげるのがよいと判断したのである。ルリコが亡くなる。短い間だったが、一
緒にいて幸せだったとシュウが語る。亡くなってみると、嫌いだったオカンがいろいろ倫子のためにこころ
を砕いていたことが分かる。倫子の「倫」も、倫理を守ってほしいという思いから付けたものであることが
分かる。そんなある日、小鳥が「食堂かたつむり」のドアに激突して昇天する。それを料理して食べた倫子
が、思わす「おいしい」と呟く。倫子の声が戻ってきた瞬間である。
 他に、田中哲司(ネオコン=根本恒夫コンクリート建設の社長。ルリコに執心)、徳井優(雅子さん=ル
リコが経営する「スナック・アムール」の客のひとり)、諏訪太朗(山さん=同)、佐藤二朗(源さん=同)、
山崎一(ミドリの父)、上田耕一(ミドリの祖父)などが出演している。大人のファンタジーともいえる作
品で、とても楽しく鑑賞できた。実写とアニメの合成も程よく、食べ物を主題にした作品としても成功して
いると思う。古くは『タンポポ』(監督:伊丹十三、伊丹プロダクション、1985年)、最近の作品では『か
もめ食堂』(監督:荻上直子、かもめ商会〔日本テレビ=バップ=幻冬舎=シャシャ・コーポレーション=
パラダイス・カフェ=メディア・スーツ〕、2006年)を連想した。テイストとしては、『茶の味』(監督:
石井克人、『茶の味』製作委員会、2003年)、『アルゼンチンババア』(監督:長尾直樹、「アルゼンチン
ババア」製作委員会〔バップ=双日=キネティック=Yahoo! JAPAN=トムス・エンタテインメント=エフエ
ム東京=読売広告社=オーエルエム=WOWOW=読売新聞〕、2006年)、『キラー・ヴァージンロード』(監督:
岸谷五朗、「キラー・ヴァージンロード」製作委員会〔アミューズ=TBS=KDDI=博報堂=WOWOW=CJ Enter-
tainment=毎日放送=中部日本放送=RKB毎日放送〕、2009年)などに近いだろうか。


 日日是労働セレクト103

 某月某日

 DVDで邦画を2本観たのでご報告。1本目は『銀座二十四帖』(監督:川島雄三、日活、1955年)である。
昭和30年前後の東京・銀座を舞台にした物語である。小生は、その銀座にある幼稚園(泰明幼稚園)、小学
校(泰明小学校)、中学校(明石中学校→第一中学校→銀座中学校と名称変更や合併を経ている)を卒園、
卒業しているので、4歳から15歳までの都合11年間(昭和34年-45年)、銀座に通っていた。当時住んでいた
ところは主に晴海の団地で、中学校3年生のときに、横浜の磯子(やはり団地)に引っ越している。だから、
柳のある銀座はとても懐かしい。原作は井上友一郎で、筆者未読である。敗戦から10年しか経過していない
ので、何となく殺伐とした雰囲気がまだ残っているが、焼跡の風景は見当たらない。銀座と言えば、服部時
計店の時計台(当該の作品も、この時計台のシーンから始まる)、松屋、三越、松坂屋のデパート(小生は
小学生のとき、松坂屋が一番好きだった)、数寄屋橋に日劇、不二家や天賞堂やあづまなどの老舗、無数に
あるバーなどを思い出す。マクドナルドの一号店が出店したのも銀座で、1971(昭和46)年のことである。
小生はすでに高校生(上野高校)となっており、銀座とは縁が薄くなっていた。
 さて、物語の方はどうなっているのか。当時の銀座を描いた点では貴重なフィルムではあるが、物語その
ものは平凡で、謎解きのような筋書も、あまり嵌っていない。風俗映画としては平均的な作品と言ったとこ
ろか。その物語を確認しておこう。例によって<Movie Walker>を覗いてみよう。執筆者に感謝したい。なお、
一部改変したが、ご寛恕を乞う。

   〔解説〕

  『週刊朝日』連載の井上友一郎の小説を『うちのおばあちゃん』の柳沢類寿が脚色し、『あした来
 る人』の川島雄三が監督、『七つボタン』の横山実が撮影を担当した。主なる出演者は『志津野一平
 地獄の接吻』の河津清三郎、『おしゅん捕物帖 謎の尼御殿』の月丘夢路と北原三枝、『青空の仲間』
 の三橋達也、『緑はるかに』の浅丘ルリ子の他、日活入社第一回の大坂志郎など。

   〔あらすじ〕

  京極和歌子(月丘夢路)は少女時代、奉天で、今ではただ五郎としか記憶がない放浪画家に、
 “少女像”を描いてもらった。この絵にはGMとだけサインがある。画家との再会を夢見る彼女
 は、その絵を銀座の泰西画廊に持ちこむ。まもなく桃山豪(安部徹)という画家が名乗り出たが、
 やがて第二の男が名乗り現われ、桃山はニセであることがわかる。第二の男はプロ野球のスカウ
 ト業をしている三ツ星五郎(芦田伸介)であるが、彼も怪しい。一方、銀座の顔役で花屋を経営
 している三室戸完こと通称コニー(三橋達也)は、この事件の最初から和歌子に異常な関心を示
 していた。彼女は夫の克巳(河津清三郎)がヒロポン密造の事業に関係しているのを嫌って、一
 人娘珠代(江川美栄子)を鵠沼の自宅に残したまま別居しているが、そこへ突然大阪から姪の仲
 町雪乃(北原三枝)が上京して来た。ある日、コニーは弟分のジープの政(佐野浅夫)のことか
 ら、バー「キャロル」の連中と大乱闘を演じ留置場へ放りこまれるが、その中でバーのマスター
 (山田禪二)からGMという名は三室戸五郎のことで、大陸からの引揚者で年は四十才前後とい
 うことを聞き驚く。コニーの実兄だったのだ。翌朝釈放されたコニーは、やがて、和歌子に花屋
 を手伝ってもらうことになった。和歌子も彼の店で働くことに生き甲斐を感じた。ところが三ツ
 星から和歌子は三室戸五郎の妻だといわれ、コニーは二度吃驚し、果して兄か否かその男と対決
 しに行く。ところが、意外にもそれは三室戸五郎の昔の親友であり、現在和歌子の夫である克巳
 であった。兄の名をかたってポンやペイ(麻薬)を密売している憎い男と思った時、すでに克巳
 の背後に警官隊の包囲が迫り、克巳は拳銃で自らのこめかみを撃った。和歌子は、コニーと再会を
 約しながらも、銀座を去って行くのであった。

 他に、相馬幸子(京極みつ=姑)、小夜福子(鈴木とし=料亭「菊川」の女将)、大坂志郎(望月三太郎=
私服刑事)、岡田眞澄(赤石峰男=東京スネークスの新人投手)、長谷部健(湯川修=ファッションモデル
のマネージャー)、織田政雄(岩井=泰正画廊のオーナー)、菊野明子(双葉=バー「アンコール」のマダ
ム)、渡規子(初枝=同じくホステス)、関弘子(久子=同)、浅丘ルリ子(ルリちゃん=「FLORIST コニ
ーの店」の花売り娘)、柴田新(オート三輪の運転手のジュン公)、久場礼子(新田銀座のサロン「ひとみ」
のホステス)、星野晶子(デパートの店員)、河上信夫(老警官)、花村信輝(新聞記者)、衣笠一夫(同)、
峰三平(刑事らしい男)、雪岡純(刑事)、深江章喜(ハンモックの辰)、永島明(キャバレー「オペラ」
の男)、青木富夫(同)、美川洋一郎(憲=コニーにラーメンの汁をかける男)、小泉郁之介(初江の顧客)、
植村進(八重洲口の男)、三島謙(キャバレー「オペラ」のバーテン)、光澤でんすけ(バー「キャロル」
のデン公)、福田トヨ(とよ=料亭「菊川」の女中)、津田明子(きみ=同)、明石淳子(「バー「キャロ
ル」の女)、山下千枝子(同)、中村美津子(同)、三島保子(キャバレー「オペラ」の歌手)、中澤榮子
(芸者)、須田喜久代(同)、中山愛子(同)、滝川まゆみ(鵠沼海岸の先生)、石山喜子(バー「アンコー
ル」の流し)、矢野昌子(ミス横浜)、渥美延(ミス名古屋)、佐原英子(ファッション・モデル)、茅島
静江(みさちゃん=花売り娘)、加畑紀子(八重ちゃん=同)などが出演している。なお、森繁久彌が、物
語の進行係(ジョッキー)兼歌手に扮している。
 「東京は日本の植民地」という表現。当時、花々は、遠く九州、広島、長野、千葉などから東京の花市場
に運ばれて来たという話。散水車の運行。「一等(車)はなくなったが、偉い人は特急券なしでも乗れる」
と言われる特急「つばめ」号(大坂⇔東京、時速90キロ)の話。ミス平凡コンクール。全国にある画廊16軒
のうち、13軒は銀座にあるという話。「見たか戸締り/しめたか心」という、築地署に存在したスローガン。
ユプロクチスフラバという毒蛾に刺された雪乃。東京駅八重洲口に大丸、有楽町にそごう(建設中、現ビッ
クカメラ)の進出。当時年間4,000件の犯罪、1,300件の事故がある銀座。(初乗り)70円の国産車、80円の
外国車(タクシーのこと)。原子力の時代における「終戦十年原子力平和利用賛成署名運動」という立て看
板。「ポン窟」(おそらく「阿片窟」のもじりだと思われる。なお、ポンはヒロポンで、覚醒剤のこと)と
いう表現。「銀ブラ」(銀座を散歩すること)などの言葉。なお、和歌子がコニーの店から買った薔薇の花
束が170円、バー「キャロル」で望月が支払った代金が120円。北原三枝がとても素敵な若い女性を演じてい
たが、望月によれば「Wが30%、Mが70%(Wは女、Mは男)」だそうである。ちなみに、和歌子は、同じ
望月の見立てによれば、「W100%、プラスアルファ」の由。北原三枝の立居振舞や衣裳には、1953年(日本
では1954年)に公開された『ローマの休日』のアン王女(オードリー・ヘップバーン)の影響があるのかも
しれない。それくらい素敵だった。もっとも、森繁によれば、「アプレ(ゲール)の象徴」の由。後に悪役
専門になる安倍徹のキザな画家役もどこか奇妙だった。浅丘ルリ子が出演しているが、この当時15歳だった
由。最後に、題名の『銀座二十四帖』であるが、そこで使われている「帖(じょう)」は、『源氏物語』の
一巻一巻を「帖」と呼ぶ(全部で五十四帖)際の「帖」と同じような意味で用いられている。つまり、井上
友一郎が原作を週刊誌に連載した際、全部で24話あったが、その一話一話の数え方に「帖」を用いたのであ
る。たとえば、第一帖は「待ち合わせ」、第二十四帖は「待ちぼうけ」となっている(Webcat Plus より)。


 日日是労働セレクト124

 某月某日

 2本目は、『有りがたうさん』(監督:清水宏、松竹大船、1936年)である。以前から観たいと思ってい
た映画で、やっと念願が叶ったというわけ。時間の流れが独特で、人々の台詞もゆっくりとしている。ほん
の80年前のスケッチであるが、「だいぶ日本も変わったな」というのが、誰しも抱く感慨ではなかろうか。
原作は川端康成の掌篇「有難う」の由。伊豆を舞台にしているだけに、いやでも『伊豆の踊子』を連想した。
 物語を確認しておこう。DVDのパッケージにある記事を引用させていただく。執筆者に感謝したい。なお、
若干の改変を行ったが、ご寛容いただきたい。

  伊豆の村落を抜けて峠路を走る定期乗合いバス。山道で出会う人々が道端に避けてくれる度に「あ
 りがとう」と感謝のひと言をかける若い運転手(上原謙)は、天城街道の人々から「あるがとうさん」
 と呼ばれていた。道行く人のことづてや、町での買い物まで引き受けて慕われている彼のバスには、
 さまざまな人々が乗ってくる。今日も始発の町から乗り込んだのは、港から港へ旅する訳ありげな黒
 襟の女(桑野通子)、貧しさのために東京へ売られていく娘(築地まゆみ)とその母親(二葉かほる)、
 髭の頑固な紳士〔実は、インチキ無尽の勧誘員〕(石山高嗣)、金の発掘を夢みる男(如月輝夫)、
 行商人たちなど。人それぞれの悲哀や艱難辛苦を乗せて運行していた。

  全篇オール・ロケーションで昭和十一年に製作された画期的な作品。セット撮影を一切使わない作
 品創りに意欲を燃やした清水宏の実写精神がいかんなく発揮されたロード・ムービーの先駆け的名作。
 当時の映画界に大きな論議を投げかけた野心作だった。原作は川端康成の掌篇。ロケ地に多用した伊
 豆を舞台に、多様な登場人物で内容を膨らませ、清水監督特有のペーソスと詩情で綴った作品。

 他に、仲英之助(行商人)、河村黎吉(東京帰りの村人)、忍節子(その娘)、堺一二(行商人A)、山
田長正(同じくB)、河原侃二(狩猟帰りの男)、青野清(田舎の老人)、金井光義(村の老人)、谷麗光
(医者)、小倉繁(新婚の夫)、河井君枝(新婚の妻)、利根川彰(田舎のアンちゃん)、桂木志郎(祝言
に向かう夫)、水上清子(同じく妻)、縣秀介(お通夜に向かう人)、高松栄子(茶店の婆さん)、久原良
子(この土地を離れて信州に向かう朝鮮の女性)、浪花友子(旅役者)、三上文江(同)、小池政江(同)、
爆弾小僧(同)、小牧和子(村の娘)、雲井つる子(酌婦)、和田登志子(同)、長尾寛(旅芸人)、京谷
智恵子(同)、水戸光子(同)、末松孝行(同)、池部鶴彦(薬屋)、飯島善太郎(小学生)、藤松正太郎
(同)、葉山正雄(同)などが出演している。
 売られていく娘の母親と、隣り合わせた老人の会話を再録してみよう。

 母親:十七、八と言や、昔は嫁入り盛りだった。
 老人:鼻をかんでも笑いたい年頃だに。当節、娘さんの笑う顔を見たことがないよ。
 母親:豊年だ、豊年だとかけ声ばかり。みかんの相場が一円台では ── 晴れ着一枚買ってやれんでねぇ。
 老人:それでも、お前さんは娘さんを持って幸せだよ。男の子を持ってご覧なさい。働こうにも仕事なん
    かありゃしませんし、漁に出たってジャコ一匹 ── 取れんことがままあることでなあ。お前さん
    は娘さんを持ちなさって幸せですよなあ。

 しかし、娘は東京に売られていくのである。せっかく生まれた赤ん坊も、成長すると、男は「ルンペン」、
女は「一束いくら」の時代である。だから、赤ん坊が生まれても、「おめでとう」の代わりにお悔やみの言
葉を発した方がいいくらいである。もっとも、この遣り取りは映画特有の伏線で、最後にはシボレーのセコ
ハン〔second hand=中古車〕を買う代わりに(自分で開業するつもりだった)、この青年運転手がこの娘を
救う(嫁にもらう)ことになるのである。狭いバスの中で煙草を吸ったり、運転手にウイスキーを勧めたり、
バスの後部座席の外側に子どもが貼りついて乗っていたり、現在ではあり得ない場面がごく当たり前に描か
れている。牧歌的な時代と言えばそれまでだが、小生もかすかに覚えているかつての日本の姿を懐かしく思
った。朝鮮人労働者の道普請の挿話があるが、『二人で歩いた幾春秋』(監督:木下恵介、松竹大船、1962
年)〔「日日是労働セレクト101」、参照〕を連想した。現在のようにアスファルトで舗装されていない
道路はすぐに傷んだものである。それを修復する仕事が「道普請」と言われていたが、それも過去の遺物と
なってしまったのである。その他、ターキー(水の江瀧子)とトーキー(発声映画)の挿話、「蓄音機の種
板(=レコード)」という言葉や、「ハイキングは日蓮様が元祖かね、それとも弘法様? お経の中の言葉?」
といった会話が面白かった。黒襟の女の役を演じていた桑野通子は桑野みゆき(女優)の母親だそうだが、
滅法いい女だと思った。あるバーのマスターが当該映画の彼女を激賞していたが、小生も同感である。31歳
で亡くなったのは、いかにも惜しい。美人薄命の典型例である。


 日日是労働セレクト134

 某月某日

 You Tubeの方は『淑女は何を忘れたか』(監督:小津安二郎、松竹大船、1937年)である。小津監督の作
品は久し振りの鑑賞だったせいか、小津調にすっかり酔わされた。やはり小津は上手な監督であることを再
認識した。「どこがいいのか」を指摘するのは簡単だが、「何故いいのか」はなかなか示せない。本当に微
妙な部分で勝負していることが分る。言い換えれば、自然に流れる人間の動作や台詞が、すべて小津によっ
てしたたかに計算されているのである。晩年になればなるほどそれが巧妙になっていったのかもしれない。
当該作品では、意図的な場面がかなりはっきりとしており、その分小津がまだ若かった(当時、34歳)こと
を示している。話としては実に他愛のない物語なのだが、それを曲りなりにも映画にしてしまう力量は半端
ではない。ともあれ、小生のこれまでに鑑賞した小津作品を以下に掲げてみよう。都合25本ある。

 『大学は出たけれど』、監督:小津安二郎、松竹蒲田、1929年。
 『淑女と髯』、監督:小津安二郎、松竹鎌田、1931年。
 『東京の合唱』、監督:小津安二郎、松竹蒲田、1931年。
 『大人の見る繪本 生まれてはみたけれど』、監督:小津安二郎、松竹蒲田、1932年。
 『出来ごころ』、監督:小津安二郎、松竹蒲田、1933年。
 『浮草物語』、監督:小津安二郎、松竹蒲田、1934年。
 『一人息子』、監督:小津安二郎、松竹大船、1936年。
 『淑女は何を忘れたか』、監督:小津安二郎、松竹大船、1937年。
 『戸田家の兄妹』、監督:小津安二郎、松竹大船、1941年。
 『父ありき』、監督:小津安二郎、松竹大船、1942年。
 『長屋紳士録』、監督:小津安二郎、松竹大船、1947年。
 『風の中の牝鶏』、監督:小津安二郎、松竹大船、1948年。
 『晩春』、監督:小津安二郎、松竹大船、1949年。
 『宗方姉妹』、監督:小津安二郎、新東宝、1950年。
 『麦秋』、監督:小津安二郎、松竹大船、1951年。
 『お茶漬けの味』、監督:小津安二郎、松竹大船、1952年。
 『東京物語』、監督:小津安二郎、松竹大船、1953年。
 『早春』、監督:小津安二郎、松竹大船、1956年。
 『東京暮色』、監督:小津安二郎、松竹大船、1957年。
 『彼岸花』、監督:小津安二郎、松竹大船、1958年。
 『浮草』、監督:小津安二郎、大映東京、1959年。
 『お早よう』、監督:小津安二郎、松竹大船、1959年。
 『秋日和』、監督:小津安二郎、松竹大船、1960年。
 『小早川家の秋』、監督:小津安二郎、宝塚映画、1961年。
 『秋刀魚の味』、監督:小津安二郎、松竹大船、1962年。

 引退寸前の栗島すみ子が出演しており、19年ぶりに『流れる』(監督:成瀬巳喜男、東宝、1956年)に特
別出演するまで、銀幕とは縁がなかった由。その『流れる』では、山田五十鈴を初めスター揃いの女優陣に
あって、一歩も引けを取らない貫録には敬服したものである。
 さて、本作に戻るが、昭和12年にも拘らず「軍国調」はどこにもなく、上流家庭における微妙な人間関係
を題材にして、人間のささやかな成長を描いている。監督は誰かと問われれば、たとえ伏せられたとしても
小津の作品であることは一目瞭然である。
 物語を確認しておこう。今回は、<ウィキペディア>のお世話になる。執筆者に感謝したい。なお、一部改
変したが、ご寛恕を乞いたい。

   〔概要〕

  『一人息子』完成後、小津は『愉しき哉保吉君』というストーリーを構想していたが暗すぎると
 反対されて、日活の内田吐夢に譲り『限りなき前進』として映画化された。それで山の手の高級住
 宅地を舞台にした軽快なコメディの本作が作られたのだが、シナリオには久々に伏見晃を迎えて洗
 練されたコミカルタッチを出している。撮影カメラマンは、途中で茂原から厚田に交代して以後は
 小津と終生のコンビを組むことになる。また、本作は栗島すみ子の引退作品であり、上原謙が自分
 自身の役で登場している。

   〔あらすじ〕

  大学教授の小宮(斎藤達雄)のところに大阪から姪の節子(桑野通子)が泊まりにきた。節子は
 小宮の助手・岡田(佐野周二)と意気投合する。土曜の昼下がり、小宮の妻・時子(栗島すみ子)
 は無理やり小宮をゴルフに行かせて自分は芝居見物に行く。小宮は行く振りをして銀座へ向かい、
 そこで会った節子の頼みで芸者遊びに連れて行く。そうした一連の行動がバレて時子は激怒し小宮
 は逃げ出すが、節子に妻への弱腰を非難されて、家へと戻り時子に平手打ちを食らわす。呆然とす
 る時子だったが、節子の釈明や小宮の謝罪もあって、時子もまた自分の至らなさを詫びる。翌日、
 大阪に帰る節子は岡田とお茶を飲みながら将来について語り合うのだった。

 他に、坂本武(牛込の重役杉山)、飯田蝶子(千代子=杉山の妻)、吉川満子(光子=御殿山の未亡人)、
葉山正雄(藤雄=光子の息子)、突貫小僧(富夫=藤雄の友人の近所の小学生)、上原謙(本人=大船のス
ター)、鈴木歌子(料亭の女将)、出雲八重子(お文=小宮家の女中)、大山健二(大学の学生)、立花泰
子(バー・セルバンテスのマダム)、大塚君代(東京の芸者)、浪花友子(同)、水島光代(同)、久原良
子(同)、小牧和子(同)、東山光子(同)などが出演している。
 杉山がセルバンテスで飲んでいたウイスキーはディンプル、同じく節子が伯父に薦めていたウィスキーは
オールド・パーだった。両者ともに小生の好きなウイスキーで、とくにディンプルはその三角形のかたちと、
細い鎖で壜が縛られている意匠から、小生が女性限定で贈ることにしているウィスキーである。「笑窪」と
いう意味と「鎖」に特別の気持を込めているが、あまり相手に意識されたことはない。小宮は節子に「逆手」
を教えるが、すでに知っていたのではないか。この映画では、終始女性が風上に立っており、負けたふりぐ
らいはするが、しょせん男は敵わないことになっている。もちろん、逆手を取っても駄目で、そのさらに逆
手を取られるだけである。節子を演じた桑野通子は、まぎれもなく戦前の映画なのに、まるでアプレ・ゲー
ルかと見紛うごとき態度に終始している。思うに、『有りがたうさん』(監督:清水宏、松竹大船、1936年)
〔「日日是労働セレクト124」、参照〕で伝法肌の「黒襟の女」を演じた彼女とは一味違うが、どこか一
脈通じているようである。戦前、女は皆男に対して従順だったというのは大間違いで、女性の逞しさが滲み
出てくる映画である。また、『銀座二十四帖』(監督:川島雄三、日活、1955年)〔「日日是労働セレクト
103」、参照〕で北原三枝が演じた仲町雪乃を連想した。大阪からやって来る元気のいい若い娘だからで
あろう。

                                                  
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