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 月が替わりましたので、「日日是労働スペシャル」の続篇をお届けします。「日日是労働スペシャル
LXXVII (東日本大震災をめぐって)」が正式名称ですが、通称を用いることにしましたので、「驢鳴
犬吠1801」となります。そういうわけで通称を用いますが、内容に変わりはありません。主として、
今回の大災害(原発の過酷事故を含む)に関係する記事を掲げますが、特定の個人や団体を誹謗中傷す
る目的は一切ありません。どうぞ、ご理解ください。人によっては、多少ともショッキングな記事があ
るかもしれませんので、その点もご了承ください。なお、読み進めるほど記事が古くなります。日誌風
に記述しますが、後日訂正を載せるかもしれません。あらかじめ、ご了解をいただきたいと存じます。
 また、ご質問、ご意見等のおありの方は、muto@kochi-u.ac.jp 宛にメールをいただければ幸甚です。

                                                 
 2018年1月31日(水)

 6件ほど雑用を片付けましたが、まだまだ山ほどあります。卒論発表会のレジュメもまだ6人しか提出し
ておらず、残りは12人です。今日が締切ですが、了解しているのでしょうか。連絡を取りたい人にも連絡で
きず、少ししんどいです。そんなときの呪文を捻り出しました。「イラツキ、ムカツキ、キツネツキ、早う
退散されなはれ!」です。効きますかねぇ?
 やっと一段落したと思って一休みしようとしたところ、追加メールが6件ありました。上記の呪文、なか
なか効きませんね。
 今日は皆既月蝕だそうで、20時48分から始まり、0時12分には元に戻るそうですが、見ようか見るまいかで  
少し迷っています。たぶん5階のベランダに出て見に行くと思いますが、寒そうですね。
 現在、20時35分。やっと、ラッシュ・アワーが終了しました。もうすぐ月蝕が始まるようですが、残念な
がら曇っています。晴れてくれればいいのですが……。
 やはり、月蝕を見ることはできませんでした。まだ、23時前ですが、たぶん無理でしょう。残念です。

                                                 
 2018年1月30日(月)

 雑務を片付けていたら、あっという間に17時半を過ぎました。ここで休憩。夕食を摂りたいと思います。
 やっとラッシュ・アワーは終わったようです。時計を見ると、21時を過ぎています。もう、卒論の査読を
する元気はありません。

                                                 
 2018年1月29日(月)

 現在、8時5分。すでに戦闘を開始しております。45分後には、「学問基礎論」(面談)を行いますので、
1年生のアドヴァイジーの資料に目を通しました。おおむね順調に1年間を乗り切ったようなので、少し安  
心しました。初っ端の躓きは卒業まで響いて来ますので、「これからも油断しないように」というアドヴァ
イスを与えるつもりです。ちなみに、余計なお節介にならないことを祈ります。
 現在、20時ちょうどです。2時間ほど前に「倫理学演習 IV」が終了しました。今年度最後の授業(演習)
でした。夕食も終え、終盤戦に突入しています。さて、どれだけ仕事ができるでしょうか。
 現在、21時10分。次から次へと仕事が降って来て、まさにテトリス状態です。もう、笑っちゃいます!
 現在、22時ちょうどです。「面談票」を作成し、1年生のアドヴァイジーに配信しました。学生諸君の指
針に少しでも寄与すれば、いいのですが……。
 やっと、プレ答案の吟味と配信が終わりました。さらにメールが来ないうちに帰りましょう。切りがあり
ません。

                                                 
 2018年1月28日(日)

 昨日は大事な人が高知を訪れましたので、一緒に遊んでいました。久し振りの骨休みでした。
 今日は年度末ということもあって、やるべきことが山積しておりますので、大学に来ています。1件メー
ルが届かない案件があって心配していたのですが、無事届いておりました。その案件をクリヤーしただけで
も、出勤した甲斐がありました。現在18時10分。さて、これからどのくらいの仕事をこなせるでしょうか。
 現在、22時45分です。ブログの執筆1件、プレ答案の吟味19件、卒論レジュメの対応3件、面談関係の対
応2件、その他のメール対応2件……以上が、根を詰めて行った成果です。さすがに、これから卒論の査読
をする気力はありません。別の軽い仕事に移るか、帰宅するかのどちらかですね。明日は1限目の「学問基
礎論」(面談)がありますので、帰宅がベターでしょうか。

                                                
 2018年1月26日(金)

 今日は19時頃帰宅する予定なので、その前にやるべきことを片付けなければなりません。講義は16時半から
ですが、その準備はほぼできています。
 現在、18時45分。「基礎倫理学 I」の最終講義が終了して、雑用をこなしています。もうすぐ帰ります。

                                                
 2018年1月25日(木)

 今日の講義は終わっていますので、その整理をしてから、自由裁量の時間です。
 現在、20時30分。夕食も済ませたので、終盤戦に突入です。先ずは雑用を片付けます。
                                                                                                      
 2018年1月24日(水)

 朝からてんてこ舞いで、やっと少し休めます。ただし、30分後にラジオ出演の収録がありますので、けっこ
う気が重いです。
 無事に収録が終わって、会議も終了しましたので、残りの時間は自由裁量となりました。さて、何から手を
付けましょうか。
 現在18時30分。いよいよ終盤戦に突入ですが、卒論の査読にするか、映画鑑賞にするかで迷っています。

                                                 
 2018年1月23日(火)

 夕食も済んだので、これから終盤戦に突入です。プレ答案の吟味や卒論の査読など、盛り沢山です。さら
に、学生の面談の準備もありますので、しばらくは仕事に集中したいと思います。
 「倫理学概論 II」の受講生のプレ答案を吟味しているのですが、リポート・タイプ(何かを報告して済ま
せるタイプ)、演説タイプ(自己の主張を十分な根拠を挙げないで叫ぶタイプ)、エッセー・タイプ(論述
のかたちを取らず、何かよその出来事を遠くから眺めているようなタイプ)、感想文タイプ(問題に対して、
自分の感想を淡々と語るタイプ)は数多く見受けられるのですが、議論タイプ(きちんとした手続きを経て、
自己の主張を構築しているタイプ)のプレ答案は少数派のようです。一般に、議論するためには、その前提
とする事実関係を確認し、プロ(賛成論)とコン(反対論)を戦わせて、自分はどちらに就くのかの旗幟を
鮮明にし、十分な根拠を挙げながら自説を展開していくべきなのですが、その手続きが不足している答案が
多すぎます。思うに、小中高で、議論する習慣を身に着けていないことが遠因だと思われます。また、自ら
ことあげすると目立ってしまい、そのことがいじめにつながることを懼れており、誰かの意見に従っておい
た方が無難だと看做すためではないでしょうか。誰かが何か社会的な問題を口にすると、「うざったい」、
「お前は意識高い奴」と決めつけて、その人を馬鹿にする風潮が蔓延っていることなども、影響しているの
かもしれません。試験答案は匿名性が高い(たぶん、小生しか読まない)ので、もっとのびのびと書いてほ
しいのですが、なかなかといった按配です。しかし、中には素晴らしい答案も皆無ではないので、そこに期
待したいといつも思っています。
 さて、22時30分になりました。そろそろ店仕舞いしましょう。明日はラジオ番組の収録に立ち会わなけれ
ばならないので、かなり憂鬱の種となっています。引き受けた以上、逃げられないので、今日は早く就寝し
て、明日に備えたいと思うのですが、映画も1本観ておきたい誘惑もあり、悩んでいます。

                                                 
 2018年1月22日(月)

 昨日は友人の引越しの手伝いに出向いたので、大学には来ませんでした。久し振りの休息日でした。案の定、
今朝のメールは多数でした。先ずそれから対応するつもりです。
 「(共通専門・基礎科目)思想文化研究の基礎」(集中講義)の受講登録者は現在のところ13名です。小生
の見積もりでは20名くらいかなと考えていたので、ちょうどいい人数です。受講登録の締め切りまでまだ10日
近くありますので、たぶんそのくらいの数になるのではないかと踏んでいます。
 一時的にネットが使えなくなり、弁慶の立往生さながら、仕事ができない状態になっていましたが、回復し
ました。よかったです。

                                                
 2018年1月20日(土)

 ウィークデーとは異なり、のんびりと仕事をしています。休日は雑務に煩わされることがほとんどないので、
快調です。
 今日は、公私に亙って、懸案事項が3件あったのですが、いずれもクリヤーしました。この時期は、頭の中
にホールドしておかなければならない案件が多数あるので、少しでも懸案事項が減ると嬉しいです。このまま
減っていって、何の憂いもない状態になればいいのですが、それは見果てぬ夢ですね。

                                                    
 2018年1月19日(金)

 今日も朝から雑用の嵐です。要旨集原稿の方は、決定稿15本、改訂版作成済2本、未提出1本です。残り
は3本、やっとゴールが見えてきました。
 現在、15時30分。あと1時間後に「基礎倫理学 I」を開講します。こちらの方の準備は先ほど終えました。
卒論要旨集の原稿に関しては、決定稿17本、改訂版作成済1本、未提出0本ということで、残りあと1名で  
す。ところが、電話をかけても応答なし。こういうのが一番困ります。
 見込発車ですが、要旨集の決定稿18本を担当者に渡しました。ひとつ仕事にケリがつきました。
 現在、19時25分。「基礎倫理学 I」も終了し、食事をしたところです。卒論の査読をすべきなのですが、
金曜日の夜だし、頭も働かないので、久しぶりにDVDで映画を観ることにしました。もっとも、その前に、
来週配布予定の「基礎倫理学 I」の資料を作成しなければなりません。

                                                 
 2018年1月18日(木)

 10分後に「倫理学概論 II」を開講します。もちろん、準備はできています。本日の講義はこれ1本きりで
すが、各種業務は山のようにあります。どれだけのノルマを自分に課すかはまだ決めかねていますが、でき
るだけ進捗するように奮闘します。自分に、喝!
 お腹が空いたので、早い夕食をいただきました。現在、16時45分。今日の後半戦に突入です。
 卒論生に卒論要旨を小生宛に配信するように督促しているのですが、なかなか揃いません。電話をかけて
も通じません。現在のところ、卒論要旨集の決定稿12本、改訂版作成済4本、未提出2本です。「ホウレン
ソウ(報告・連絡・相談)」を徹底しているつもりですが、笛吹けど踊らずといった体たらく。社会人にな
ったら、これでは通用しませんよ。ちょっとだけ、疲れます。
 現在、21時45分。何とか自分に課したノルマを果たしました。進捗状況からすればお寒い限りですが、長
丁場を乗り切らなければならないので、そろそろ店仕舞いにします。

                                                 
 2018年1月17日(水)

 現在、8時10分。朝食を済ませ、いよいよ戦闘開始です。例年通りだと、3月上旬までノンストップで仕事
をこなさなければなりません。ランボーではありませんが、いわゆる「地獄の季節」を迎えたというわけです。
ヤンキーのノリで「上等やんかぁ、かかって来いやぁ!」でいこうと思います。
 早速、雑用を6件ほど片付けました。しばらくは雑用ともおさらばです。副査の論文を読んでから、その次
の仕事は何にしようかを考えます。なお、午後から3本の会議(1本は研修会)がありますので、少し焦って
います。
 現在19時。夕食をいただいたので、終盤戦に突入です。さて、何に着手しましょうか。
 現在22時55分。やっと、今日のノルマが終了しました。卒論要旨集の決定稿9本、改訂版作成済7本、未提
出2本というのが現況です。メールの不具合(戻って来る)もあり、難儀しています。卒論そのものの査読は
まだ副査の分1本といった按配で、溜息が出ます。その他、ラジオ出演の件、学外の仕事の件、集中講義の準
備、プレ答案の吟味、卒論発表会の準備、予算執行、入試関連の仕事、学生面談の準備、講義・演習の準備、
来年度の体制の構想を練ること、等々、次から次へと仕事が舞い降りて来ます。以前から、これを「テトリス
状態」と呼んでおりますが、もうパンクしそうです。ともあれ、気持は切れていませんので、今日はこのぐら
いで帰って、明日への英気を養いましょう。

                                                 
 2018年1月16日(火)

 今日は火曜日ですが、金曜日の授業日なので、16時半から「基礎倫理学 I」があります。それまでは卒論
関係の仕事か、集中講義の準備かのどちらかに着手しようと考えています。
 さて、集中講義(2月13日-16日)「思想文化研究の基礎」(共通専門・基礎科目)を開講する予定である
ことは、「武藤ゼミとはどんなゼミ?」で公表していますが、そこで用いる教科書のアバウトな引用が「日
日是労働セレクト28」と「同29」にあるので、それをひとつにまとめてみました。以下の通りです。

 ********************************************

 「日日是労働セレクト28」より

 某月某日

 現在、「シリーズ日本近現代史6」の『アジア・太平洋戦争』(吉田裕 著、岩波新書、2007年)を読んで
いるが、知らなかったことや誤解していたことが目白押しで大変面白い。もっとも、この時代を面白いと表
現すれば、苦労に苦労を重ねてきた上の世代の人々の顰蹙を買うかもしれないので、「大変興味深い」と言
い換えた方が賢明だろう。また、著者が小生と同い年(1954年生まれ)であることが興味の質を高めている
のだと思う。とりあえず、最初の方の20箇所ほど目に止った事柄を挙げてみよう。そのまま引用することは
避け、要点をまとめてみる。

 1.日本人の意識の中でも、戦後はまだ終わっていない。

 2.湾岸戦争の頃から、われわれの戦争への想像力が衰弱している。したがって、戦争は単なる「ウォー・
   ゲーム(War Game)」と成り果て、われわれの視野から、最前線の塹壕の中にはいつくばって死の恐
   怖と戦っている兵士の存在や、戦争にまきこまれた民間人犠牲者の存在は、すっぽり抜け落ちてしま
   った。

 3.第二次近衛内閣における大本営政府連絡会議(1940年7月27日)は、「世界情勢の推移に伴ふ時局処
  理要綱」を決定するが、それは(1)ドイツ・イタリアとの政治的結束の強化と、(2)東南アジアへ
  の武力南進を決めた重要国策だった。

 4.松岡洋右外相は、まず日独伊三国同盟を結び、これにソ連を引き入れて「四国協商」に発展させると
  いう構想をもっていた。しかし、ドイツの対ソ侵攻作戦の開始により、松岡の「四国協商」は絵に描い
  た餅になった。

 5.アジア・太平洋戦争には、帝国主義国家間における植民地再分割戦争といった側面がある。したがっ
  て、米英蘭に対して戦争責任を負ういわれはないという解釈が生じる。

 6.戦争前の日米交渉最大の争点は、対中国侵略戦争で日本が獲得した既得権益を放棄するか否か、ある
  いは、放棄するとすればどの程度か、であった。

 7.ハル・ノートの要点は、(1)日本軍の中国からの撤兵、(2)汪兆銘政権の否認、(3)三国同盟
  の空文化などであり、これを日本が受諾するとはとうてい考えられない内容であった。

 8.実質的な開戦決定の日は1941年11月5日(真珠湾攻撃の約一月前)である。

 9.ハル・ノートをアメリカの「最後通牒」と受け取り、戦争に突入していったところに日本外交の過誤
  があったという解釈もある。つまり、もう少し柔軟な対応策もあり得たはずである。

 10.日本政府や軍部は、敗戦前後の時期に重要な機密文書を徹底的に焼却した。

 11.東条英機や木戸幸一による秘匿戦術(11月5日の御前会議を隠蔽したこと)が功を奏したのは最初のう
  ちだけだった。

 12.第一次世界大戦以後、国際紛争を解決する手段として戦争という行為に訴えるという考え方自体が基
  本的に否定されるようになった。ただし、自衛のための戦争はこれに含まれない。

 13.第一次世界大戦後、植民地における民族自決という原理が漸進的に認められる方向に世界は動いたが、
  その具体的な取り決めは1922(大正11)年のワシントン会議で調印された九ヵ国(米・英・仏・日・伊・ 
  蘭・ベルギー・ポルトガル・中国)条約であるが、満州事変以降の日本の対中国侵略戦争は、この九ヵ
  国条約(関係各国は、中国の主権や領土の尊重を義務づけられるとともに、門戸開放・機会均等の原則
  を相互に確認)に対する明らかな違反行為であった。結局、日本は九ヵ国条約を事実上棚上げにしなが
  ら、アジア諸国への侵略を継続し拡大するという道を突き進むことになった。

 14.日本が米英に奇襲をかけたとき、陸海軍は「無警告攻撃」を重視した。外務省も軍の圧力に屈したと
  いうことになる。

 15.オランダに対して宣戦布告を行なわなかったのは、豊富な石油資源を有するオランダ領インドネシア
  を「無疵で手に入れたいとの意見」が強かったからである。

 16.開戦にともなって日本は数々の国際法違反(たとえば、中立国のタイに武力進駐している)を犯して
  いるが、それは軍事の論理だけが優越したこの戦争の性格を端的に物語っている。

 17.日本はフランスと協定を結んでおり(松岡=アンリ協定)、フランスと共同でインドシナを支配して
  いる日本がアジアの解放を主張することには、明らかな矛盾があった。

 18.人種戦争キャンペーンは日本にとって効果的なプロパガンダになり得たであろうが、実際には三国同
  盟が成立していたため、それが政治的な足枷になって、そのようなキャンペーンを張ることはできなか
  った。敵はアングロサクソンに限られたからである。

 19.大東亜戦争の目的は、「大東亜新秩序の建設」、すなわち、アジア諸民族の解放と日本を盟主とした
  新秩序の建設にあった。しかし、現地自活主義を取ったので、東南アジアにおける重要戦略資源の軍事
  力による獲得こそが、日本の明瞭な国家意思だったのである。

 20.「日本は、なぜ国力の面で圧倒的な格差のあるアメリカ合衆国との戦争を決意したのか」という問い
  の重要性。

 つづきは、またの機会に譲ろう。


 某月某日

 今日は、シリーズ日本近現代史6の『アジア・太平洋戦争』(吉田裕 著、岩波新書、2007年)の要点記載
のつづきを行なってみよう。

 21.経済的な指標でみれば、圧倒的な国力の差のあるアメリカ相手に戦争をすることは無謀以外の何もの
  でもないが、当時、臨時軍事費による軍備の充実という事態があって、それが軍部を戦争に駆り立てた
  要因のひとつになっている。なお、臨時軍事費は、議会はおろか政府のコントロールも完全には及ばな
  い特殊な軍事予算だった。

 22.開戦時の太平洋地域においてという限定を行なえば、日本の戦力はアメリカのそれを上回っていたの
  で、「短期決戦にもちこめば、米英を屈服させる見通しがある」という根拠の薄弱な幻想が生まれたの
  である。

 23.アジア・太平洋戦争期の臨軍費はすべて、日中戦争の臨軍費の追加予算として成立している。これは、
  法的根拠の乏しい措置であった。

 24.天皇の軍隊統率の権限(統帥権)の拡大として、1878(明治11)年の参謀本部の陸軍省からの独立、  
  1893(明治26)年の軍令部の海軍省からの独立、1900(明治33)年の陸海軍省官制の改正(軍部大臣現
  役武官制の実現)などが行なわれた。

 25.国務大臣としての陸軍大臣、海軍大臣は、閣議に列席してそれぞれが天皇を輔弼するという機能を担
  うが、参謀総長と軍令部総長は、陸海軍の最高司令官である「大元帥」としての天皇をそれぞれ補佐す
  る幕僚長である。この場合の補佐は、国務大臣による輔弼と区別して輔翼と呼ばれる。このため、参謀
  本部と軍令部は、陸軍省と海軍省から完全に分立していたのである。

 26.第一次世界大戦の勃発によって、「総力戦」という新しい戦争形態が出現すると、国務と統帥の分裂
  が戦争指導体制の欠陥として捉えられるようになり、ここからその分裂をどのようなかたちで克服する
  かという問題が大きな政治課題になる。

 27.内閣機能の強化として、1937(昭和12)年に「企画院」(戦時統制経済の調査・立案にあたる総合国
  策機関)、1940(昭和15)年に「情報局」(言論や報道の指導・統制、戦時プロパガンダなどを管掌)
  が設置された。

 28.大本営政府連絡会議の最初の開催は1937(昭和12)年11月であるが、出席者は、参謀総長、軍令部総
  長、首相、陸相、海相、外相などである。

 29.現役軍人が官界に進出する場合、その最大の進出先は企画院や情報局を擁する内閣であった。

 30.宣戦・講和は帝国憲法第十三条に定める広義の外交大権に属し、どのように考えても国務大臣の輔弼
  に専属する国務であるのに、開戦の決定も、終戦の決定も、参謀総長・軍令部総長が同意権・拒否権を
  行使する構成員として出席する御前会議でおこなわれた。

 31.国務大臣の輔弼責任の形骸化と、枢密院が事後承認の機関(諮詢の形式化)となったことは銘記すべ
  きである。これは、アジア・太平洋戦争の開戦決定に重大な法的瑕疵があったことを示しており、換言
  すれば、明治憲法体制が変質してゆく過程でもある。

 32.企画院が年度ごとに策定する石油や鉄鋼などの重要物資の需要計画である「物資動員計画(物動)」
  は、「カネの予算」に対して「モノの予算」と呼ばれ、この「モノの予算」に基づく重要物資の配分が
  なければ、軍備の拡充は不可能である。

 33.1940(昭和15)年12月開会の第76回議会で成立した第四次追加予算からは、陸軍費・海軍費・予備費
  の区分がなくなった。これは、明らかに、海軍の臨軍費の急増=対米戦準備の本格化を外部に漏れない
  ようにする隠蔽工作である。

 34.国策よりも自らの組織的利害を優先するという海軍の姿勢は、開戦決定に至る過程にも顕現している。
  軍備拡充に必要な予算と物資とを獲得するために武力南進政策を推進するが、同時に、十分な勝算のな
  い対米英戦はできれば回避したい、というのが海軍の矛盾に満ちた本音である。

 35.日本が実質的な開戦決定を下したのは、1941(昭和16)年11月5日の御前会議においてである。

 36.昭和天皇は、勝算のない開戦決意には大きな危惧を抱きつつも、統帥部の開戦の主張にも耳を傾け始
  めた。

 37.日米交渉に臨む日本政府の基本政策は、「戦争瀬戸際外交」(外交上の危機に際して、戦争をも辞さ
  ないという強い意志をあえて示すことによって、相手側の譲歩や妥協を引き出すこと)だった。

 38.内乱を避けるために戦争を決意せざるを得ないという転倒した論理が生じる。

 39.陸軍にとって「アジア・太平洋戦争」とは、何よりも「日英戦争」(マレー半島とシンガポール の陥
  落を重視)を意味していた。

 40.日本軍による真珠湾奇襲攻撃は、政治的には、アメリカ国民の結束を固めさせた。

 つづきは、またの機会に譲ろう。


 某月某日

 今日は、シリーズ日本近現代史6の『アジア・太平洋戦争』(吉田裕 著、岩波新書、2007年)の要点記載
のつづき(第三弾)を行なってみよう。

 41.マレー沖海戦は、海上を機動しながら対空戦闘を行なう戦艦を撃沈した最初の航空戦であり、大鑑巨
  砲主義時代の終焉と航空戦力が主役となる時代の到来をつげる画期的な戦闘だった。

 42.真珠湾攻撃における小型潜航艇(甲標的)の役割については、邦画の『海軍』(監督:村山新治、東
  映、1963年)、および、『人間魚雷 あゝ回天特別攻撃隊』(監督:小沢茂弘、東映、1968年)に詳しい。
  発進した10隻全部が未帰還となったが、少なくとも1隻が湾内に進入して米戦艦に魚雷一発を命中させ
  ていた由。しかし、真珠湾攻撃は潜水艦部隊による攻撃としては、完全な失敗に終わったと言ってよい。
  この失敗は、日本海軍潜水艦部隊の運命を暗示するものでもあった。

 43.ガダルカナル攻防戦(42年8月から)では、ソロモン海域は文字通り陸上攻撃機(陸攻機)の「墓場」
  であった。

 44.ウェーキ島攻防戦(41年12月から)では、制空権の掌握が決定的な意味をもつことを改めて明らかに
  したにも拘らず、日本軍は米軍の力を侮りその戦訓から何も学ばなかった。

 45.戦車戦の蹉跌も見逃せない。日本軍の主力戦車である九七式中戦車や九五式軽戦車は、米軍のM3軽
  戦車に苦戦を余儀なくされ、一層強力なM4中戦車を戦線に投入してくると、日本の戦車兵にとって九
  七式中戦車や九五式軽戦車は、「鉄の棺桶」にすぎなかった。

 46.華北の日本軍は、八路軍の支配下にある「敵性部落」に対する「燼滅作戦」〔中国側のいう「三光作
  戦」〕を繰り返し実施した。

 47.天皇は、「対米英蘭蒋戦争終末促進に関する腹案」に示されたような軍部による戦争終結構想を、ほ
  とんどそのまま受け入れたように見える。

 48.真珠湾攻撃に際して未帰還になった小型潜航艇の乗組員であった「九軍神」(将校4名、下士官5名)
  を讃えるキャンペーンの欺瞞性。なぜなら、1名の将校が米軍の捕虜となったが、その事実は伏せられ
  ていたからである。

 49.『細川日記』(細川護貞の記録)によれば、宮内省奥向に東条英機礼讃者がいるのは、「附け届け」
  が極めて巧妙だったからしい。例として、陸軍がジャワで押収したアメリカ製自動車の謹呈が挙がっ
  ている。精神主義の裏の物質主義と言える。

 50.42年4月に実施された翼賛選挙において、臨軍費を用いた露骨な選挙干渉にも拘らず、翼賛政治体制協
  議会の推薦を受けなかった候補が85名も当選している。これには、翼賛選挙に対する国民の批判がある
  程度反映されている。

 51.42年8月には、政府は、部落会・町内会に大政翼賛会の世話役を、隣組には世話人を置くことを決定し、
  実際の人選に際しては、部落会長・町内会長と世話役を、隣組長と世話人を、一致させる方針がとられ
  た。これによって、大政翼賛会を中心にした一元的な国民動員網が、組織上は完成されたのである。

 52.東条内閣の性格を知る上で忘れてはならないのが「憲兵」の存在である。本来の任務は軍事警察であ
  るが、一般人にも警察権を行使する場合があり、陸軍大臣に直属していたため、憲兵の存在しなかった
  海軍の軍人の取締りも陸軍の憲兵が担当した。そして、東条内閣の政敵の監視(石原莞爾には常に憲兵
  が張り付いていたらしい)や弾圧にも狂奔したため、東条の「私兵化」したと言える。

 53.総力戦遂行のためには、たとえ擬似的であれ、下からの自発的努力を喚起することが重要であるが、
  東条にはそのことがまったく理解できなかった、という見方もあるが、それは一面的である。東条は、
  ヒトラー同様、映像・音声メディアを意識的に利用した最初の政治家だったからである。要するに、国
  民の前に立ち、常に先頭で行動する姿を見せていたと言える。

 54.東条首相のこうしたパフォーマンスを端的に示しているのが、しばしば事前の予告なしに行なわれた
  官庁・配給機関などに対する現状視察であり、国民の実際の生活を知るための民情視察だった。しかし、
  これらの行動は演出として捉えられ、視察も度重なれば、識者の反撥と顰蹙を買うばかりだった。
   参考:『日本の軍隊』、飯塚浩二 著、岩波現代文庫、2003年。

 55.ミッドウェー海戦の日本大敗の原因を挙げれば、(1)初期作戦の大勝からくる驕り、(2)日本海
  軍の偵察能力の低さ、(3)暗号解読など情報戦での立ち遅れ、(4)ダメージ・コントロール(被弾
  した際の損害修復能力)の不備などが指摘できる。

 56.ガダルカナル島での戦死者(陸軍2万1千人)の約70%は、船舶による食糧や医薬品の補給が断たれ
  た状況下で生じた広義の餓死者(栄養失調症、熱帯性マラリア、下痢および脚気などを含む)だった。

 57.日本の軍隊では、軍隊以外の一般社会のことを侮蔑の意味をこめて「地方」と呼んだが、戦局が悪化
  するに連れて、その軍隊が「地方化」されつつあった。

 58.農村は頑健な兵士の供給源であり、都市部と比べて明らかにしわ寄せを食っていたにも拘らず、農業
  生産は辛うじて維持された。召集された男子に替わって、女性や高齢者が農業生産の主たる担い手とな
  ったからである。ちなみに、戦後の「三ちゃん農業」と構造は似ていると言えよう。

 59.兵士としての女性の動員には軍上層部に強い反対意見があり、一部で女子通信隊が編成されるにとど
  まった。

 60.連隊区司令部には、夫や息子の招集の取り消しを求める女たちの姿が常にあった。これは、すべての
  女性が男たちの出征を、抗うことのできない運命として受容していたわけではなかったことを示してい
  る。

 つづきは、またの機会に譲ろう。


 某月某日

 今日は、シリーズ日本近現代史6の『アジア・太平洋戦争』(吉田裕 著、岩波新書、2007年)の要点記載
のつづき(第四弾)を行なってみよう。

 61.「大東亜共栄圏」は、諸国家・諸民族間の平等な関係を原則とした国際秩序ではなく、日本を盟主と
  したピラミッド型の階層的な秩序が想定されていた。

 62.1942(昭和17)年2月、陥落直後のシンガポールでは、華僑に対する粛清工作が行なわれ、検問によっ
  て狩り出された5,000人をこえる華僑が日本軍の手で処刑されている。

 63.日本にとって南方領地行政に関する泣きどころとは、少なくとも1億を下らない南方原住民を養って
  いかなければならず、その生活必需物資を米英蘭に代わって給付する余力がなければならない点であった。

 64.アジア・太平洋戦争は、連合軍との間の資源争奪戦争という側面だけでなく、「日本という帝国内部
  での資源の争奪戦」という側面もあわせ持っていた。たとえば、船舶の喪失による輸送力の急速な低下
  が招いた、共栄圏内の「米不足=飢餓状態」などが挙げられるだろう。そうした意味でも、「共栄」は
  虚構の大義だった。

 65.大日本帝国の権益至上主義は根強く、フィリピンやビルマの独立準備を進めるとともに、マライ・ス
  マトラ・ジャワ・ボルネオ・セレベスを帝国領土に組み込み、重要国防資源の供給源として、極力これ
  らの地域の開発と民心の把握に努めるよう促している。つまり、日本にとって重要な地域は独立を認め
  ないという政策である。

 66.アメリカ合衆国は、戦時中に生活水準を向上させた唯一の国であり、その結果、アメリカの一般国民
  にとっても、戦争が十分に引き合うものだったことが分る。

 67.アジア・太平洋戦争の開戦前後から配給制は一層拡大し、1941(昭和16)年11月からは魚類が、翌年
  2月からは衣料品と味噌・醤油が、つづいて11月からは青果物が配給制に移行している。しかし配給品
  だけでは生きてゆくのが不可能だったから、多くの国民は公定価格制度違反の闇取引によって、米や野
  菜を購入するようになり、闇取引の常態化が起こった。

 68.軍隊への召集令状が「赤紙」と呼ばれたことは周知の事実であるが、これに対して、徴用令書は国民
  の間では「白紙」と呼ばれていた由。また、軍需会社の場合には、事業主と従業員を丸ごと徴用するこ
  とも可能になり、これを「現員徴用」と呼んだ。

 69.戦死者の遺骨が遺族の許に届けられることはむしろ稀で、実骨の代わりに「留魂砂」と呼ばれた海砂
  が収められていることもあった。1943(昭和18)年6月27日付の『朝日新聞』には、「凄壮苛烈な近代戦/
  時に遺骨還らず/軍当局/銃後の覚悟を要請」という記事が掲載されている。遺族にあきらめを説くよ
  うな記事が掲載されること自体、遺族の側に不満がたかまりつつあったことの証左である。「きのう召
  された蛸八が/弾にあたって名誉の戦死/タコの遺骨はいつ帰る/骨がないので帰らない/タコの親た
  ちゃかわいそう」などという戯歌なども歌われたようである。このような「不穏歌謡」は、国民の潜在
  意識を映し出す鏡のような役割を果たしていたのかもしれない。

 70.戦後のオーストラリア社会では、漂流中の無抵抗の日本兵を機銃掃射で殺害するのは、戦争犯罪にあ
  たるという批判の声があがり、大きな論争に発展している。

 71.「玉砕」という一見美しい表現は、両刃の剣であった。1943(昭和18)年12月20日付の大本営発表で
  は、タワラ島・マキン島の守備隊の全滅に対して「全員玉砕せり」の表現を使用しているが、クェゼリ
  ン島・ルオット島の守備隊の全滅を報じた翌1944(昭和19)年2月25日付の大本営発表では、「全員壮烈
  なる戦死を遂げたり」の表現に代わり、以後、「玉砕」の二文字は基本的に使われなくなる。この政策
  変更は、「玉砕」という表現が、逆に日本軍の無力さを国民に印象づける結果になるという判断に基づ
  いていると考えられる。

 72.サイパン島をめぐる攻防戦では、日本軍守備隊4万4千名の他に、日本の民間人1万2千人と、先住
  民のチャモロ人・カナカ人数百人が戦闘に巻き込まれて戦没している。日本の民間人の多くは、沖縄県
  からの移民であり、サイパン戦は、多数の民間人を巻き込んだ最初の地上戦となった。この事情は、
  『大日本帝国』(監督:舛田利雄、東映、1982年)に詳しい。なお、当該映画で、佳那晃子(国吉靖子)
  が沖縄出身の娘を好演している。さらに、サイパン島の戦闘で見逃すことができないのは、この頃から
  日本軍の戦意に明らかなかげりが見え始めるという事実である。その後、マリアナ諸島の失陥によって
  日本の敗戦はもはや決定的となり、戦局は見通しのない絶望的抗戦期に移行するのである。

 73.民間人戦没者の処遇をめぐって、彼らを軍属として取り扱い靖国神社に合祀するべきだという主張も
  あったが、結局、実現しなかった。靖国神社は、現在に至るまで、基本的には天皇のために戦い、天皇
  のために戦死した軍人・軍属だけを、慰霊し顕彰する施設にすぎないからである。

 74.陸軍中央が対米戦の重要性を認識するのには、かなりの時間がかかった。教育総監は、1943(昭和18)
  年9月になってから、「今後の教育、研究は主としてあ号作戦〔対米戦〕に転換する」と、陸軍隷下諸学
  校に指示しているが、遅きに失した感がある。

 75.1941(昭和16)年1月、東条英機陸相が布達した「戦陣訓」(日本軍の将兵が守るべき戦場道徳を説い
  たもの)は、「生きて虜囚の辱めを受けず」という形で、従来からの日本軍の中に根強かった捕虜にな
  ることを恥辱とする思想を公式に定式化し、投降を禁じていたのである。邦画の『バルトの楽園(がく
  えん)』(監督:出目昌伸、東映=シナノ企画=日本出版販売=TOKYO FM= テレビ朝日=加賀電子=読
  売新聞=福島民報社、2006年)で、多くの日本の軍人が降伏したドイツ人将校を詰ったのも、このよう
  な背景があったからと思われる。なお、最初の「玉砕」であるアッツ島の場合は、捕虜となった日本兵
  は29名で、これは全兵力の1%にすぎない。

 76.1944(昭和19)年2月には、東条英機陸相が参謀総長を、嶋田繁太郎海相が軍令部総長を兼任するとい
  う異例の措置がとられた。戦局の悪化にともなって、国務と統帥の分裂、統帥部内における陸海軍の対
  立が深刻化するなかで、陸海軍の内部からさまざまな改革構想がうまれてきていた。大本営陸軍部(参
  謀本部)と大本営海軍部(軍令部)を完全に統合し、大本営幕僚部総長を一名置く案、陸相と参謀総長、
  海相と軍令部総長の兼任案などである。特に陸軍は大本営の一元化に積極的だったが、陸軍に主導権を
  奪われることを恐れた海軍が消極的だったため実現せず、結局、陸海軍大臣がそれぞれ統帥部長を兼任
  するという上の措置に落ちついた。

 77.議会への請願書提出に警察が干渉する事実があるのは、「下情上通権の抹殺」であるとして、政府の
  姿勢を厳しく批判した坂東幸太郎委員の異例の質問は、請願委員会での東条首相の言明(国民の請願は
  憲法において与えられた重要な権利であり、また下意上達の一つの重点であると考える)が実質をとも
  なうものではないことを突いたものだった。

 78.東条英機首相の極端な精神主義への傾斜が周囲の顰蹙を買うまでになった事情は『日本の軍隊』(飯
  塚浩二 著、岩波現代文庫、2003年)に詳しい。「敵機は機関砲で堕とすのではなく、精神力で堕とすの
  である」という精神論は、徒に空回りしつつあった。

 79.東条と嶋田による参謀総長、軍令部総長兼任は、「統帥権干犯」という大義名分からの東条内閣批判
  を可能にした。1944(昭和19)年7月18日、米内光政の入閣拒否や岸信介の国務大臣辞任拒否を受けて、
  ついに東条内閣は総辞職した。「政治はやるものではない、孫子の末まで政治に関することはさせない」
  という東条の非公式発言もあったようである。

 80.農業生産物の増産が至上命令となるなかで、政府は直接生産者である小作農を保護する政策をとらざ
  るをえなくなり、結果として、寄生地主制は、戦時下において大きく後退することになった。

 つづきは、またの機会に譲ろう。


 「日日是労働セレクト29」より

 某月某日

 今日は、シリーズ日本近現代史6の『アジア・太平洋戦争』(吉田裕 著、岩波新書、2007年)の要点記載
のつづき(第五弾)を行なってみよう。

 81.戦争は女性の社会進出を加速させた。たとえば、「職業婦人」は縁遠くなるとして敬遠され、工場労
  働者を「女工」として卑賤視する風潮も根強かったが、戦局の悪化にともなう未婚女性の工場への勤労
  動員は、こうした伝統的な労働観に変容をせまるものとなり、学校を卒業した女性が結婚までの一定期
  間、「花嫁修業」をする代わりに職に就くという新たな慣行を定着させる契機となった。

 82.「戦争未亡人」の増大も多くの問題を生じさせた。たとえば、戦死者の遺族に対して与えられる一時
  賜金や遺族扶助料をめぐるトラブルなどである。民法上は戸主の権限が強かったため、戸主の居所指定
  権などを濫用して、戦死者の父が戦死者の妻を離婚して受給資格を奪おうとするケースなどがその典型
  例である。これでは、出征する男子が後顧の憂いなく安心して死ぬことができないため、政府がこのよ
  うなケースに積極的に介入した。こうして、「戦争未亡人」問題では、政府は女性の法的、社会的地位
  を強化する政策を採らざるを得ず、そのことによって、結果的とはいえ、伝統的な「イエ」制度の解体
  を促進させたのである。なお、弱みに付け込んで出征兵士の妻に性的関係を強いる卑劣漢の問題もあっ
  た。

 83.学徒兵は、将校の中の「消耗品」として取り扱われた。たとえば、陸軍の特攻隊員の場合、全戦死者
  の中で将校の搭乗員が占める割合は45%であるが、その将校の戦死者の71%が学徒兵出身者である。そ
  の結果、生き残った学徒兵たちは、軍隊や軍人に対する強い反感を身につけて戦後社会に復帰した。こ
  のことが戦後の日本の政治文化に与えた影響は甚大である。また、学徒兵は、当時の同世代の若者の中
  で、2-3%を占めるにすぎないエリート集団である。その彼らの軍隊経験は、日本の学問や文化のあり方
  にも大きな影響を及ぼしているはずである。

 84.俳優の徳川夢声は、1942(昭和17)年12月22日に、日本軍が押収したアメリカ映画『風と共に去りぬ』
  をシンガポールで観ているが、このような映画を製作し得る国と近代兵器による戦争をしてもとうてい
  勝てるわけがない、と思った由である。ハリウッドの映画製作が一種の国策であることは、戦前も戦後
  も同じことなのか、というのは小生の感想。

 85.新聞で「鬼畜米英」という言葉が使用されるようになったのは、1944(昭和19)年の後半頃からだそ
  うである。「敵に対する敵愾心の激成」を目論んだ宣伝文句であるが、いかにも品がない。

 86.アメリカ兵が日本兵を「ジャップ」と呼んだような蔑称は、日本兵のアメリカ兵に対する呼称として
  は存在しない。せいぜい「アメ公」くらいか。これは明治維新以来の「脱亜入欧」路線の流れから、欧
  米に対する尊敬の念がそうさせたと言える。

 87.台湾沖航空戦(1944年10月10日)に関する大本営発表の大嘘は、呆れてものも言えないほどである。
  巡洋艦2隻撃破を、空母11隻、戦艦2隻、巡洋艦など4隻を撃沈、空母など28隻を撃破にすり替えて報
  じたからである。

 88.沖縄戦の特徴の一つは、日本軍守備隊の戦死者数(沖縄県出身の軍人・軍属を含む)とほぼ同じ数の
  一般住民(準軍属を含む)が戦闘にまきこまれて死亡しているということである。もう一つの特徴は、
  日本軍によって、多数の沖縄県人が殺害されたということである。米軍のスパイと看做して処刑したり、
  住民を壕から追い立てて米軍の銃砲火に晒し、間接的に殺すことになったからである。あるいは、泣き
  叫ぶ赤ん坊を殺害したり、米軍に投降しようとした住民を射殺したりした。これらは、沖縄が本土から
  長い間差別の対象だったことに起因している。本土出身の日本軍将兵の沖縄に対する優越感や侮蔑感が、
  こうした残虐行為の引き金になったのである。また、「集団自決」の問題もある。日本軍将兵の強要
  (手榴弾の配給など)のせいで、亡くならなくてもよかった人々までが、亡くなることになったのであ
  る。このあたりの事情は、邦画の『ひめゆりの塔』(監督:今井正、東映東京、1953年)にも、いくぶ
  んかは描かれている。

 89.陸軍は、日中戦争中から、補給を担当する後方兵站部隊用の自衛兵器として「竹槍」を使用していた
  が、1942(昭和17)年に入ると、近接戦闘用の武器として竹槍を重視し始めている。小銃の絶対量の不
  足という事態と関連した措置であると考えられる。

 90.物資不足は、こんなところにも現れている。たとえば、1942(昭和17)年に徴収され、初年兵として
  華中に駐屯する歩兵連隊に送られた兵隊たちは、現地に到着すると同時に、新品の軍服、軍靴を取り上
  げられ、古着同然の服と見るも無惨に変形した軍靴を与えられた由。つまり、彼らが身をもって運んで
  きた新品の軍装品は、すべて下士官や古参兵用に回されたのである。

 91.アジア・太平洋戦争期の兵士の戦死のありようは、次ぎの三つの死によって特徴づけられる。(1)
  餓死、(2)海没死、(3)特攻死、である。ある本によれば、戦死者の餓死率は60%にも達するとい
  われる。

 92.特攻について最も饒舌に語り、特攻を美化してきたのは、特攻作戦を推進し、自らは生き残ったエリ
  ート将校であり、回想記などをまとめている元隊員のかなりの部分は、特攻隊員として訓練中あるいは
  待機中に敗戦を迎えた人々である。なお、特攻隊を描いた邦画の『雲ながるる果てに』(監督:家城巳
  代治、重宗プロ=新世紀映画、1953年)が、小生の鑑賞したこの種の映画の中で最もリアリティを感じ
  る傑作である。

 93.米軍は、十分な成果をあげていない軍需産業などを目標にした高々度からの精密爆撃にかえて、都市
  部に対する夜間の無差別絨毯爆撃に踏み切った。この結果、1945(昭和20)年3月 10日(当該新書では9
  日になっているが、一般には10日とされていると思う)の東京大空襲 を皮切りに、川崎・横浜・名古屋・
  大阪・神戸などの大都市が焼夷弾による無差別爆撃によって次々に焼き払われていった。なお、川崎市
  や那覇市など、大規模な空襲を受けているにも拘らず死亡者数の欄が空欄になっている都市が数市ある。

 94.闇の公然化は、多くの国民が生活上の必要にせまられて、いやおうなしに闇の世界の論理を受容する
  ようになっていったことを意味していた。つまり、一般の国民はホンネとタテマエを巧みに使いわける
  生活態度を身につけ、それを生活の中で実践することによって、国家的な原理や倫理から、しだいに離
  脱していったのである。それは、生活防衛のための個人の私的エゴイズムが国家の公的タテマエを下か
  ら掘り崩してゆく過程でもあった。

 95.近衛文麿は、戦争の終結を逸早く主張している。共産革命による天皇制の崩壊という最悪の事態を回
  避するためにも、ただちに戦争の終結に踏み切るべきだと結論づけたのである。国体護持=天皇制の存
  続が確保されれば、一先ずかたちができる(戦争目的が達成される)からである。
 96.軍隊への徴集と応召、軍需産業などへの徴用と勤労動員、そして、学童疎開は、日本の家族を切り裂
  いたのである。

 97.ポツダム宣言の受諾を実質的に決めたのは、二度の御前会議であって、閣議ではない。

 98.1946(昭和21)年3月の時点での調査によれば、「終戦後」に3,280名の日本兵が、中国戦線で戦死し
  ている。このあたりの事情は、『兵隊やくざ・強奪』(監督:田中徳三、大映、1968年)にも描かれて
  いる。なお、戦後3年半にわたって、約一万人の日本軍将兵が共産軍と戦闘を続けた例もある。

 99.シベリア抑留の際に亡くなった人も多数いる(『極光のかげに ──シベリア俘虜記』、高杉一郎 著、
  岩波文庫、参照)。しかし、いずれにせよ、日本が戦った戦争の最大の犠牲者はアジアの民衆であった。

 100.多くの遺族は、ひっそりと「無言の帰還」を受け入れるほかなかったのである。

 さて、5回にわたって、アジア・太平洋戦争に関する吉田裕氏の歴史記述を、小生の感想や蛇足の資料を
交えて抜書したが、頼りないと感じた人は是非原本を読んで欲しい。示唆に富んだ本であることが納得され
るだろう。「おわりに」の文章は、小生の深く同感するものである。戦争に対する不正確な理解は、再び戦
争を招く土壌になる。一人でも多くの若者が戦争の悲惨を正確に理解していれば、国防に関する短兵急な結
論を下す愚を避けることができるだろう。

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 以上のアバウトな引用をベースにして講義を組み立てる予定です。
 現在、16時。30分後に「基礎倫理学 I」を開講しますが、その準備は万全です。もっとも、今日も雑用の
嵐で、この講義が終わってから対応しなければならない案件がいくつかあります。雑用の質が多様なので、
頭がクラクラします。
 現在、18時25分。夕食をいただいてから、今日の終盤戦に突入します。若干の雑用が残っており、それを
片付けたら、自由裁量です。
 現在、21時45分。「基礎倫理学 I」の資料作りをしていますが、それが終わった後、雑務を2件片付けな
ければなりません。この時期は次から次へと仕事があって大変です。でも、仕方がないですね。

                                                 
 2018年1月15日(月)

 あまりに忙しくて、まるで雑用の嵐でした。やっと片づきましたので、演習の予習に着手できます。30分
後に始まるので、少し焦っています。
 演習を無事終了し、夕食をいただいてから、卒論要旨を吟味していたのですが、今日の分はあらかた片付
きました。しかしながら、まだ11人の未提出者がいますので、気が抜けません。他にもすることが山積して
おりますので、早く提出してほしいものです。
 現在、21時45分。そろそろ店仕舞いにします。……と思っていたら、メールが3件舞い込みました。それ
に対応していたら、いつの間にか1時間が経過しました。もう帰るぞう!

                                                  
 2018年1月14日(日)

 現在、6時50分。すでに戦闘は開始されています。4時半に起きたので、眠いけど……。
 現在、21時45分。卒論関係の仕事が一段落しましたので、店仕舞いにします。二日間の休日出勤でかなり疲
れました。今夜はゆっくり眠ろうと思います。

                                                 
 2018年1月13日(土)

 現在7時30分。すでに戦いの火蓋は切って落とされています。
 現在21時25分。今日の業務はそろそろ閉じようと思います。明日も早いので、肉体疲労を抜いておく必要
があります。

                                                  
 2018年1月12日(金)

 今日は、この後15時から少し用事がありますが、その他にはとくにないので、卒論の査読に着手しようかと
考えています。
 現在、15時10分。雑務を5件ほど片付けました。もう1件ありますが、担当者が来られるまで待機です。
 その後、雑用を2件こなしました。
 現在、22時55分。さすがに疲れましたので、帰って就寝します。

                                                  
 2018年1月11日(木)

 現在、12時50分。20分後に、今年初めての講義「倫理学概論 II」を開講します。その後はフリーなので、
溜まっている雑用を片付けたいと思います。
 何人かの方々から葉書やメールで新年のご挨拶をいただいておりますが、小生は2012年以来、年賀の慣習
を個人的に廃止しておりますので、真っ当なご返事はできません。一応、ここにそのことをご理解いただき
たく、書き留めておきます。
 今日は何となくやる気が起きません。原因は分かっていますが、今はどうしようもないことです。仕方が
ないので、そろそろ店仕舞いにして、明日にこころをつなぎましょう。

                                                 
 2018年1月10日(水)

 あと15分後に教授会等々が開催されます。夜までかかりそうなので、少し憂鬱です。
 夕食をいただいて来ました。現在、18時30分過ぎ。これから、卒論の副査候補の検討に入ります。
 現在、19時10分。卒論提出者18名の全副査が内定しました。あとは、ひたすら査読することになります。1
日当たり2本のペースで読んでも、9日を要します。明日から、少しずつ読むつもりです。
 現在、22時50分。さすがに眠くなってきたので帰ります。やるべきことは山ほどあるのですが、明日に回す
しかありません。

                                                  
 2018年1月9日(火)

 久しぶりの出勤なので、対応すべき案件が山積しています。一応、待ったなしの業務は終了しております
ので、夕食をいただいてから、それらの案件に対応したいと思います。
 現在、23時15分。いろいろ頑張ったのですが、今日の案件を捌き切れませんでした。残りは明日に回します。
明日も教授会等、仕事は盛り沢山です。帰って眠りに就きましょう。

                                                   
 2018年1月3日(水)

 大晦日に来店した京都の某ネカフェにいます。今年初めてのブログです。今年もどうぞよろしく。
 現在、16時ちょうど。ブログも書き終わったので、そろそろ店仕舞いにします。

                                                

                                             
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