[SSLの使用について]    ID:  Password: 
ホーム
人間文化学科
国際社会コミュニケーション学科
社会経済学科
人文社会科学科
▼教員一覧
思想系の学問に興味のある人へ
家族研究への布石(映像篇01)
日日是労働セレクト7
日日是労働セレクト9
日日是労働セレクト10
日日是労働セレクト8
日日是労働セレクト11
家族研究への布石(映像篇03)
日日是労働セレクト12
日日是労働セレクト13
日日是労働セレクト14
日日是労働セレクト15
日日是労働セレクト16
日日是労働セレクト17
家族研究への布石(映像篇04)
日日是労働セレクト18
日日是労働セレクト19
日日是労働セレクト20
日日是労働セレクト21
日日是労働セレクト22
日日是労働セレクト23
日日是労働セレクト24
日日是労働セレクト25
家族研究への布石(映像篇05)
日日是労働セレクト26
日日是労働セレクト27
日日是労働セレクト28
日日是労働セレクト29
日日是労働セレクト30
日日是労働セレクト1-3
日日是労働セレクト31
日日是労働セレクト32
日日是労働セレクト33
日日是労働セレクト34
日日是労働セレクト35
日日是労働セレクト36
日日是労働セレクト37
家族研究への布石(映像篇06)
日日是労働セレクト38
日日是労働セレクト39
日日是労働セレクト40
日日是労働セレクト41
日日是労働セレクト42
日日是労働セレクト43
日日是労働セレクト44
日日是労働セレクト45
日日是労働セレクト4-6
日日是労働セレクト46
日日是労働セレクト47
日日是労働セレクト48
日日是労働セレクト49
日日是労働セレクト50
日日是労働セレクト51
日日是労働セレクト52
日日是労働セレクト53
家族研究への布石(文献篇01)
家族研究への布石(映像篇02)
日日是労働セレクト54
家族研究への布石(映像篇07)
日日是労働セレクト55
思想系の読書の勧め
オール岩波文庫文学選
日日是労働セレクト56
日日是労働セレクト57
日日是労働セレクト58
日日是労働セレクト59
家族研究への布石(文献篇02)
日日是労働セレクト60
日日是労働セレクト61
日日是労働セレクト62
日日是労働セレクト63
日日是労働セレクト64
日日是労働セレクト65
日日是労働スペシャル I (東日 ...
日日是労働セレクト66
日日是労働スペシャル II (東日 ...
家族研究への布石(映像篇08)
日日是労働セレクト67
日日是労働スペシャル III (東日 ...
日日是労働セレクト68
日日是労働スペシャル IV(東日本...
日日是労働スペシャル V (東日 ...
日日是労働セレクト69
日日是労働セレクト70
日日是労働セレクト71
日日是労働スペシャル VI (東日 ...
日日是労働セレクト72
日日是労働スペシャル VII (東日 ...
日日是労働セレクト73
日日是労働セレクト74
日日是労働スペシャル VIII (東日...
日日是労働セレクト75
家族研究への布石(映像篇09)
家族研究への布石(文献篇03)
日日是労働セレクト76
日日是労働スペシャル IX (東日 ...
平成日本映画百選
日日是労働セレクト77
日日是労働スペシャルX(東日本...
日日是労働セレクト78
日日是労働セレクト79
日日是労働スペシャル XI (東 ...
日日是労働セレクト80
日日是労働スペシャル XII (東日 ...
火曜日の詩歌01 - Anthologica Poet...
日日是労働スペシャル XIII (東日...
日日是労働セレクト81
日日是労働セレクト82
日日是労働スペシャル XIV (東日 ...
日日是労働セレクト83
日日是労働スペシャル XV (東日 ...
日日是労働セレクト84
日日是労働スペシャル XVI (東 ...
日日是労働セレクト85
日日是労働スペシャル XVII (東日...
日日是労働セレクト86
日日是労働スペシャル XVIII (東 ...
家族研究への布石(映像篇10)
日日是労働セレクト87
日日是労働スペシャル XIX (東日 ...
火曜日の詩歌02 - Anthologica Poet...
日日是労働セレクト88
日日是労働スペシャル XX (東日 ...
恣意的日本映画年間ベスト1
日日是労働セレクト89
日日是労働スペシャル XXI (東日 ...
日日是労働セレクト90
日日是労働スペシャル XXII (東日...
日日是労働セレクト91
日日是労働スペシャル XXIII (東 ...
日日是労働セレクト92
日日是労働スペシャル XXIV ( ...
日日是労働セレクト93
日日是労働スペシャル XXV (東 ...
火曜日の詩歌03 - Anthologica Poet...
日日是労働セレクト94
日日是労働スペシャル XXVI (東 ...
日日是労働セレクト95
日日是労働スペシャル XXVII ( ...
日日是労働セレクト96
日日是労働スペシャル XXVIII (...
武藤ゼミとはどんなゼミ?
日日是労働セレクト97
日日是労働スペシャル XXIX ( ...
家族研究への布石(映像篇11)
日日是労働スペシャル XXX(東日 ...
日日是労働セレクト98
日日是労働セレクト99
火曜日の詩歌04 -Anthologica Poetica-
日日是労働スペシャル XXXI (東日...
日日是労働セレクト100
日日是労働スペシャル XXXII (東 ...
日日是労働セレクト101
日日是労働スペシャル XXXIII (東 ...
家族研究への布石(文献篇04)
日日是労働セレクト102
日日是労働スペシャル XXXIV (東 ...
日日是労働セレクト103
日日是労働スペシャル XXXV (東日...
日日是労働セレクト104
日日是労働スペシャル XXXVI (東...
日日是労働セレクト105
日日是労働スペシャル XXXVII ( ...
火曜日の詩歌05 -Anthologica Poetica-
日日是労働セレクト106
日日是労働スペシャル XXXVIII ( ...
日日是労働セレクト107
日日是労働スペシャル XXXIX (東...
日日是労働セレクト108
日日是労働スペシャル XL (東日 ...
文理融合について
日日是労働セレクト109
日日是労働スペシャル XLI (東日 ...
日日是労働セレクト110
日日是労働スペシャル XLII (東日...
家族研究への布石(映像篇12)
日日是労働セレクト111
日日是労働スペシャル XLIII (東 ...
日日是労働セレクト112
日日是労働スペシャル XLIV (東日...
日日是労働セレクト113
昭和日本映画百選
日日是労働スペシャル XLV (東日 ...
花摘みの頁<01>
日日是労働セレクト114
日日是労働スペシャル XLVI (東日...
日日是労働セレクト115
驢鳴犬吠1505
日日是労働セレクト116
驢鳴犬吠1506
日日是労働セレクト117
驢鳴犬吠1507
日日是労働セレクト118
驢鳴犬吠1508
日日是労働セレクト119
驢鳴犬吠1509
日日是労働セレクト120
驢鳴犬吠1510
日日是労働セレクト121
驢鳴犬吠1511
家族研究への布石(映像篇13)
驢鳴犬吠1512
日日是労働セレクト122
日日是労働セレクト123
驢鳴犬吠1601
花摘みの頁オルドゥーヴル
日日是労働セレクト124
驢鳴犬吠1602
驢鳴犬吠1603
日日是労働セレクト125
日日是労働セレクト126
驢鳴犬吠1604
日日是労働セレクト127
驢鳴犬吠1605
日日是労働セレクト128
驢鳴犬吠1606
日日是労働セレクト129
驢鳴犬吠1607
日日是労働セレクト130
驢鳴犬吠1608
日日是労働セレクト131
驢鳴犬吠1609
日日是労働セレクト132
驢鳴犬吠1610
家族研究への布石(映像篇14)
日日是労働セレクト133
驢鳴犬吠1611
家族研究への布石(文献篇05)
驢鳴犬吠1612
日日是労働セレクト134
日日是労働セレクト135
驢鳴犬吠1701
日日是労働セレクト136
驢鳴犬吠1702
ATG映画のページ
驢鳴犬吠1703
日日是労働セレクト137
日日是労働セレクト138
驢鳴犬吠1706
驢鳴犬吠1707
日日是労働(臨時版)1703- ...
驢鳴犬吠1708
日日是労働セレクト139
日日是労働セレクト140
驢鳴犬吠1709
花摘みの頁<02>
【新選】昭和日本映画百選
【新選】平成日本映画百選
日日是労働セレクト141
驢鳴犬吠1710
驢鳴犬吠1711
日日是労働セレクト142
日日是労働セレクト143
驢鳴犬吠1712
驢鳴犬吠1602
 月が替わりましたので、「日日是労働スペシャル」の続篇をお届けします。「日日是労働スペシャル
LVI (東日本大震災をめぐって)」が正式名称ですが、通称を用いることにしましたので、「驢鳴犬吠
1602」となります。そういうわけで通称を用いますが、内容に変わりはありません。主として、今
回の大災害(原発の過酷事故を含む)に関係する記事を掲げますが、特定の個人や団体を誹謗中傷する
目的は一切ありません。どうぞ、ご理解ください。人によっては、多少ともショッキングな記事がある
かもしれませんので、その点もご了承ください。なお、読み進めるほど記事が古くなります。日誌風に
記述しますが、後日訂正を載せるかもしれません。あらかじめ、ご了解をいただきたいと存じます。
 また、ご質問、ご意見等のおありの方は、muto@kochi-u.ac.jp 宛にメールをいただければ幸甚です。

                                              
 2016年2月29日(月)

 今日は4年に1回のオマケの日です。だから、オマケのような仕事をしています。

                                               
 2016年2月28日(日)

 今日もお仕事。少なくとも、今日中に目処だけは立てたいものです。
 (後刻)少しだけ目処が立ちました。とにかく、自分に「ファイト!」です。

                                                
 2016年2月27日(土)

 今日も大学に来ています。これで、52日間連続出勤ですが、それほど疲れてはいません。とにかく、3月4
日締め切りの仕事があるので、それに打ち込むつもりです。

                                                 
 2016年2月26日(金)

 今日は、『天空の蜂』(東野圭吾 著、講談社文庫、初版1998年)からの抜粋をしたいと思います。文脈
を無視しますので、予めご了承ください。とにかく、気になった箇所を引用させていただきます。この本が  
20年以上前に出版されている(1995年、講談社より単行本で上梓されている)ことを思えば、東野圭吾がい
かに炯眼の士であるかが分るでしょう。
 なお問題がある場合には、直ちに削除しますので、muto@kochi-u.ac.jp までご連絡ください。


 ********************************************

 p.76 ・「いいかね、中塚君。地元から問い合わせがあるだろうが、避難の必要性があるなんてことは、
      軽率にいわんでくれよ。今ここであわてて避難させたりしたら、原発の安全性を自ら否定する
      ことになるんだからな」

 p.89 ・それでも日々の生活の中では、原発の存在はあまり意識に上ってこない。あの阪神大震災が起き
     た時でさえ、すぐ近くに原発があることを思い出しはしなかった。その後様々なメイディアで地
     震と原発という問題が取り沙汰され、ようやく事態の深刻さに気づいたという有様だった。諦め
     ともいえるし、慣れともいえる。どちらにしても感覚が鈍っている証拠だった。

 p.105-106 ・「重ねて臨時ニュースをお伝えします。今朝八時頃、愛知県にある重工業メーカーから、
        自衛隊の大型ヘリコプターが盗まれるという事件が起きました。そのヘリコプターは犯人
        の遠隔操作によって、現在福井県敦賀市にある『新陽』発電所の上空約千メートルでホバ
        リングを続けております。犯人は発電所や科学技術庁などに、ヘリコプターを落とされた
        くないならば、国内すべての原子力発電所を使用不可能にせよという脅迫状をファクシミ
        リで送ってきています。またこのヘリコプターには、メーカーの技術者の、小学校三年に
        なる息子さんが閉じ込められているということです──」

 p.115 ・危険だとは口が腐ってもいわんだろうと思った。そんなことを一度でも口にしたら、原発の安
     全神話を否定することになる。

 p.117 ・「原発には腹が立つ。というて、住民運動みたいなのんびりしたことはやっとれん。そんなと
      ころかもしれんな」

 p.118 ・「なぜ原発に腹を立てるのか……ですね」
     「もうすでに直接的な被害を被っているということやろな。大方の反原発派は、原発があること
      の不安から反対しとるに過ぎん。要するに未来の被害を恐れとるんや。阪神大震災なみの地震
      が来たらどうするねん、チェルノブイリみたいなことになったらどうするねん、というわけや
      な。こういった連中と、今度の犯人の怒りとは、本質的に別物や」
       (中略)
     「そうかもしれんな。けど、被害を受けてるとなると、もっと深刻な連中がおる」
     「原発労働者のことでしょう」
      関根は室伏のいいたいことがわかっていたようだ。
     「しかも下請けとか孫請けや。放射能まみれのところへ入っていって作業するのは、そういう連
      中やさかいな。被曝する危険も多い」

 p.119 ・「原発労働者が放射能の影響で病気になったという話、よく聞きますね」
     「半ば覚悟して、そういう仕事をしてるんやろといわれることもあるけど、何も知らされんと、
      おいしい話に誘われて、危ない仕事をさせられてる人間も少なくないからな。それに恨みを持
      つのは本人だけとはかぎらんし」

 p.124-125 ・高坂は、何年か前、あるロックバンドの反原発の歌が発売中止になったことを思い出して
       いた。レコード会社の親会社が、原発産業に携わっているというのが真の理由だった。

 p.125 ・「仮に個人的な恨みを持っていた場合だと、正当な闘いの場が与えられていない分、破壊活動
      に転じる可能性もあうでしょうね」

 p.128 ・「馬鹿馬鹿しい」彼は小さく声に出していってみた。想定したことがないからといって不安が
     るのは非科学的だと思った。それでは、「何が起こるかわからない。だから原発はやっぱり危険
     だ」と主張する懐疑派と、なんら変わらないではないか。

 p.142 ・「(前略)危険回避のために、まず運転員が停止操作を行う。それが万一うまく機能しなかっ
       た場合に、様々な自動停止が働く。それが原子炉を守る多重防護の考え方なんです」

 p.156 ・「一度原発を全部止めてしまって、それで本当に電気が足りないのかどうか実験してみろとい
      うのは、原発反対派時々口にすることだからなあ」反対派と会った時のことでも思い出したの
      か、穂積がしみじみといった。

 p.165 ・「じゃあ一般の原発では、暴走するということはありえないんですね」
     「いえ、全くないということではないんです。非常に稀な状況下では、それまでの通常運転中よ
      りも、さらに核分裂が起きやすくなることもあります。ただそれは本当にレアケースでしてね、
      むしろ軽水炉の場合には冷却材喪失事故というのが、過酷事故の代表とされています。これは
      何らかの原因で冷却材すなわち水を供給できなくなった場合、炉心が溶けだしてしまうという、
      いわゆる空焚き事故です。スリーマイル島で起きたのが、そのケースでした」

 p.168 「そうです。このように正のボイド反応度を持っていたために、大きな事故に発展していった例
     が、旧ソ連のチェルノブイリ原発です」

 p.189 ・電源三法交付金というのはね刑事さん、地域振興のために支払われるんじゃなくて、地域振興
     を諦めてもらうための示談金みたいなものなんです。(中略)結局一度原発を受け入れた土地は、
     原発なしではやっていけなくなってしまう。

 p.203 ・犯人の狙いは、それを国民にわからせることにあるのかもしれないと湯原は思った。もしそう
     であるなら、やり方には反対だが、主張には同意できると思った。国はエネルギーの需要を予測
     し、それに見合うように供給力を備えようとする。そのために原発も必要になる。しかしエネル
     ギーの需要を減らす政策もあっていいのではないか。

 p.211 ・企業の社会的責任というのは、まずその企業に関わる人々の生活を保証することだと思うね。

 p.234 ・原発がどういうものなのか、彼女はこれまで考えたことがなかった。だがとにかく嫌なものだ
     というイメージだけは持っていた。しかし自分とは縁のないものだと思い、安心していた。神奈
     川県には原発がなくてよかったと思っていた。じつは全国の沸騰水型原子力発電所の燃料が、横
     須賀市の久里浜にある工場で作られ、先導車や警備車にガードされた積載車によって、深夜密か
     に運び出されていることを知らなかった。また、『新陽』で使われるプルトニウム燃料の輸送車
     両が、川崎や横浜を通過するということも知らなかった。輸送車が都市部を通過中、阪神大震災
     なみの地震に遭遇した場合には、燃料容器が破損し、地震災害と放射能災害が同時に起こる複合
     災害に発展するおそれがあるのではないかと囁かれていることも、彼女の知識にの中にはなかっ
     た。ましてや、神奈川県の十市町村で放射能防災対策が作られていることなど想像外だった。

 p.249 ・「各電力会社には、自分のところの供給先に、ある程度の優先順位をつけている場合が少なく
      ないんです。もし供給量が不足しそうな時には、まず重要なところは確保して、最も支障の少
      ないところを停電させるという具合に。ですからコンピュータが集中しているようなところは、
      守られるんじゃないでしょうか」

 p.273 ・老化が激しいというのも、放射線被曝の特徴の一つやそうです。

 p.277-278 ・「我々も、その国民の一人やで。まあ、立場が変われば、いうことも変わる。実際のとこ
        ろ、推進派も反対派も人間的には大差ないんと違うか」

 p.278 ・「せやからそういうものは、立場によってなんぼでも左右されるということや。たとえば今か
      ら十年ほど前は、わしはばりばりの推進派やった。いや本人にはそんなつもりはなかったけど、
      結果としてそうなっとった」

 p.280-281 ・「(前略)警察もグルになって、日本を原発だらけにしようとしていると喚く。(中略)
        わしらは別に原発推進派の味方をする気はないねん。けど核燃料が運ばれるとなったら、
        それをとりあえず守るのが仕事やないか。反対運動はかまへんけど、安全確保の邪魔をし
        てもろたら困るんや」
       「しかし反対派にはそうは見えないわけですね」
       「そういうこっちゃ。せやから個人の主義主張なんか、あんあり意味がない。自分の立って
        いる地面がどういう色をしてるかによって、その人間の色も決められてしまう」
       「なるほど、地面の色ねえ」関根は少し考えてから、「今度の犯人が立っている地面は、ど
       「んな色ですかね」と訊いた。
       「さあな。玉虫色と違うか」

 p.295 ・原子炉を運転している者の自負と、格納容器の中でさえ放射能漏れはゼロなのだという自信が、 
     西岡の言葉には込められていた。反対派の連中に聞かせたい台詞だと中塚は思った。

 p.306 ・「いろいろな防護システムがあるから安全だという論旨のようですが、そのシステムが根本か
      ら壊されるということはお考えになっていないのですか」

 p.307-308 ・絶対に壊れないといわれた建造物が次々に崩壊した、阪神大震災の事例が彼等の強力な武
       器だった。「専門家が太鼓判を押したものでも、巨大な地震がくれば壊れることが証明され
       たにもかかわらず、なぜ『新陽』は壊れないなどと断言できるのか」反対派の言い分は、こ
       の一点に集約されていたといってもいい。

 p.338 ・「わからないが、現時点で国側の出す答えは一つだ。何が起きても大した被害ではない、放射
      能なんか漏れない、というものだ」
     「もしもってことは考えないのか」
      すると三島は口元を歪め、にやりと笑った。
     「そんなこと考えてたら、原発なんか作れない」
     「ふうん……」

 p.380 ・「飛ぶ原理ぐらいは知っているが、それ以外はさっぱりだな」三島は発電プラント全体の模型
     の前に立った。「だけど世の中には、知らなくていいことと、知っていなきゃいかないことがあ
     る。ヘリコプターの仕組みは、知らなくていいことだと思うね」
      湯原は唇を少し曲げて笑った。
     「原発の仕組みは、知らなきゃいけないことってわけかい?」
     「俺はそう思ってるよ。国民全員が、ある程度は学習すべきだ」
      三島は本気でいったのだが、その思いはあまり相手に伝わらなかったようだ。

 p.390-391 ・「なあ湯原、絶対に落ちない飛行機があるかい? ないよな。毎年、多くの死者が出てい
        る。それに対して、おまえたちのできることは何だ? 落ちる確率を下げていくことだろ
        う。だけどその確率をゼロにはできない。乗客はそれを承知で、その確率なら自分は大丈
        夫だろうと都合よく解釈して乗り込むわけだ。それと同じなんだ。俺たちにできることは、
        原発が事故を起こす確率を下げることだけだ。そしてやっぱりゼロにはできない。あとは
        その確率を評価してもらうしかない」
        「いっていることはわかるが、その説明で納得できる人間は少ないだろうな。飛行機は、
        乗りたくなければ乗らないで済む」
        「問題はそこだ」三島は頷いた。「原発が大事故を起こしたら、関係のない人間も被害に
        遭う。いってみれば国民全体が、原発という飛行機に乗っているようなものだ。搭乗券を
        買った覚えなんか、誰もないのにさ。だけどじつは、この飛行機を飛ばさないことだって
        不可能じゃないんだ。その意思さえあればな。ところがその意思が見えない。乗客たちの
        考えがわからないんだ。一部の反対派を除いて殆どの人間は無言で座席に座っているだけ
        だ。腰を浮かせようともしない。だから飛行機はやっぱり飛び続ける。そして飛ばす以上、
        俺たちにできることは、最善を尽くすことだけなんだ。たとえば湯原、おまえはどうだい、
        日本がこれからも原子力に頼っていくことに賛成か。それとも反対か」
         突然詰問され、湯原はたじろいだ顔になった。
        「難しい質問だな。ずるいといわれるかもしれないが、原発はやむをえないが、事故は決
        して起きないようにしてもらいたいというのが正直な気持ちだな」
        「ずるいな。それは本当にずるい答えなんだよ。ほかに交通手段がないから飛行機に乗る
        が、絶対に事故を起こすなといっているようなものなんだ。乗る以上は覚悟を決めてもら
        いたい。もちろん事故防止のため、我々はできるかぎりのことをする。だけどそれは絶対
        じゃない。予期しないことが起きるのは、今度の事件が最後とはかぎらないんだ」

 p.410 ・ヘリコプターが墜落した時に万一放射能汚染が発生した場合は、原発の安全神話を掲げてきた
     政府としては、何らかの責任をとらざるをえないだろうというものだった。

 p.489 ・放射線障害に詳しい有名国立大学の助教授が壇上に立ち、原発政策が数多くの作業員たちの犠
     牲の下で成り立っていることを国は認めるべきだと力説していた。その主張に誤りはなく三島は
     同感だと思ったが、彼としてはもう一言付け加えてほしかった。同様のことを、原発には縁がな
     いと思っている一般の人間たちにも認識させるべきだ、と。

 p.492 ・「労災基準を越えているのは、全国で何人ぐらいいるんだろうな」と三島は訊いてみた。
      その数字を雑賀は知っていた。「五千人強ってところだ」
     「多いな」
     「そうかい? だけどな、その五千人がいなきゃ、日本の原発は動かないぜ」
     「それはわかっている」三島はいった。

 p.521 ・「世の中には、ないと困るが、まともに目にするのは嫌だってものがある。原発も結局は、そ
      ういうものの一つってことだ」彼がこの台詞を口にした時、おそらく自衛隊のことも頭にあっ
      たに違いない三島は想像する。

 p.560 ・「今の世の中、テレビの力は大きいからな。阪神大震災のものすごさをいくら口で表現しよう
      と思ても、高速道路が倒壊した映像にはかなわん。逆にいうと、テレビで流しさえせえへんか
      ったら、後でなんとでもごまかしようがあるということや。大参事になったら、さすがに隠す
      のは無理やろうけど、原発がちょっとおかしなことになった程度のことやったら、国としては
      公表したくないやろな」
     「インチキじゃやないですか」
     「さあ、どうかな。ふだん原発のことなんか考えたことのない国民には、下手に余計なことを教
      えんほうがええかもしれんぞ。わしが総理大臣でも、そうするかもしれんな」
     「年寄りの知恵ってやつですか」
     「まあそう怒るな。万一の時にパニックになったとしたら、苦労するのはわしら警察の者なんや
      からな」

 p.571-572 ・三島は話を続けた。「犯人から子供救出のための交換条件が出された時、政府が一番気に
       したのは国民の目だ。原発を止めなかったら、人の命を何だと思っているんだと非難される
       だろう。だが原発は止めたくなかった。それは威信とかの問題じゃない。一度でもすべての
       原発を止めたという実績を作ってしまうと、これからの原発政策に影響が出てくるおそれが
       あるからだ。どうすべきか、たぶん政府首脳は相当頭を悩ませたことだろうと思うよ。そこ
       で考えたのが今回の方法だ。まず国民には要求を飲むと発表して、実際には止めずにトリッ
       ク映像を流す。それでうまくいったら、事件が解決した後で、あれはトリックだったと鼻
       高々に発表すればいい。原発の力なしに過ごした一日など現実には存在しなかったのだと、
       大きな声でいうことができる。そして万一犯人がトリックに気づいてヘリを墜落させたした
       ら……」彼は山下を見た。声を少し落としていった。「その時にはトリックだったことは隠
       して、とにかく犯人を悪者にしてしまえばいい。そういう仕掛けだった。すべてが周到に計
       算されていたんだ」
        この推理に三島は自信を持っていた。いやじつは彼は、政府が実際には原発を止めず、な
       んらかのトリックを案出することを読んでいた。だがそれでもよかったのだ。そのトリック
       が国民を欺けるほど見事なものであれば、止めるのと同様の効果を得ることができるからだ。
       しかしもちろんそうしたことまでは、この場でこの二人に話すわけにはいかなかった。

 p.576 ・父親が原発の仕事をしていることを種に、息子がいじめに遭うというのは充分にありうること
     であった。

 p.580 ・「そういうことはあるかもしれません。我々としては、原発の仕事についておられる方を攻撃
      する気は全くないのですが、子供というものはどうしても敵味方という考えをしますからね」

 p.581 ・「一言でいえばチェルノブイリでしょうね」とかれはいった。「食料品を輸入している関係で、
      あの時我々は大きなショックを受けました。とにかくどういうものなら安心して口に入れられ
      るのか、全くわからなかった。もちろんこれまでにも、外国の食べ物でトラブルが生じたこと
      はあります。だけどそれは概ね一過性のものであったし、産地を絞ったり、種類を限ったりす
      れば克服できることでした。ところが放射能は違う。あらゆる食べ物に影響を及ぼし、しかも
      どれだけ続くかわからない。その時に私は思ったのです。これを野放しにしておくことは、人
      類を滅ぼすことだとね」

 p.583 ・あの顔は子供だけのものではないのだ、と気づいた。大人になってからも、多くの者はあの仮
     面を手放さない。やがて彼等は「沈黙する群衆」を形成する。

 p.605 ・「湯原」三島は静かな口調でいった。「一度は蜂に刺されたほうがいい」

 p.620 ・沈黙する群衆に、原子炉のことを忘れさせてはならない。その存在に気づかぬふりをさせては
     ならない。自分たちのすぐそばにあることをいつも意識させ、そのことの意味を考えさせねばな
     らない。そして彼等に道を選ばせねばならない。

 p.621 ・我々の周りに存在している原子炉が、ひとつの顔だけを持っているわけではないことの証であ
     ろう。彼等は様々な顔を持っている。人類に対して、微笑むこともあれば、牙を剥くこともある。
     微笑みだけを求めるのは、傲慢である。

 p.622 ・「『新陽』に落ちたほうがよかった。そのことをいずれみんな気がつく」

 ********************************************


 この小説の存在を知ったのは、迂闊にもつい最近のことです。東野圭吾の名前こそ知ってはいましたが、
ついぞ読んだことはありませんでした。これほど大仕掛けの小説を読んだのは、奥田英朗の『オリンピック
の身代金』(2008年)以来でしょうか。また、原発危機関連の小説としては、高嶋哲夫の『原発クライシス』
(2010年)〔『スピカ 原発占拠』(2000年)改題〕や村上龍の『オールド・テロリスト』(2015年)があり
ますが、「原子力発電所」というものの存在意義にまで迫った小説としては、今の日本における最高峰では
ないでしょうか。上で引用した文章は、映画の予告篇のようなものです。興味を持った人は、是非読んで欲
しいと思います。なお、この『天空の蜂』は、最近映画化されました。小生は未見ですが、そのうち鑑賞す
ることになるでしょう。

                                                 
 2016年2月25日(木)

 今日は、これから読まなければならない本を読むつもりです。

                                                
 2016年2月24日(水)

 本日は会議が二つあります。最初の会議は先ほど終了しました。もう一本は16時半からですので、それま
でに懸案の仕事に着手しなければなりません。少し焦っています。

                                                
 2016年2月23日(火)

 今日は代休日ですが、やはり大学に来ています。インターネットにつなげないとなかなか仕事が捗らない
からです。ちなみに、自宅のコンピュータはスタンド・アローンですから、ネットは使えません。仕事モー
ドになることも大切で、だから大学に来ているのです。因果なものです。

                                                 
 2016年2月22日(月)

 雑用がわずかになり、だいぶ楽になりました。もっとも、飛び入りで来年度の卒論の相談に来た学生が
いました。まとめて面倒を見たいので、集団で来ると助かるのですが……。

                                                 
 2016年2月21日(日)

 まだまだ期限を切られている仕事があり、大学に来ています。そろそろ、来年度の準備にもかからなけれ
ばならず、相変わらず自転車操業です。今日で46日間連続出勤ですが、適当に休んではいるので、それほど
蓄積疲労はありません。おそらく、コンピュータが使えない日が来ない限り、この連続出勤は続きそうです。

                                              
 2016年2月20日(土)

 ちょっとした用事があったので、大学に来ています。すぐ済みそうなので助かります。ずっと超多忙だっ
たので、気が抜けています。ただし、まだまだしなければいけない仕事が残っていますので、貧乏暇なしは
まったく変わりません。情けなくなってきます。

                                                
 2016年2月19日(金)

 今日も、ネットの記事などを絡めながら、『フォト・ドキュメンタリー 人間の尊厳 ── いま、この世
界の片隅で』(林典子 著、岩波新書、2014年)から、要点を抜書したいと思います。なお、今回が最終回
です。


 ********************************************

 第6章 誘拐結婚 ── キルギス(つづき)

 p.195 ・2012年7月、著者はこの国で行われている「誘拐結婚」を取材するために、キルギスへ向かった。
     現地のNGOによると、既婚女性の30-40%が、誘拐で結婚している由。
     ・「誘拐結婚」の存在を知ったのは、2005年頃、国際人権組織のヒューマン・ライツ・ウォッチの
     報告書を読んだことによる。
     ・世界中からバックパッカーたちが集まる国でもある。

 日本人女性フォトジャーナリストの活躍がめざましかった(NAVERより/更新日: 2013年09月09日)

 世界最大規模の写真ジャーナリズムの祭典で、フリーカメラマンの林典子さんが、報道写真企画部門で最
高賞に当たる金賞を受賞しました。 日本人の金賞受賞は初!

 世界最大規模の報道写真祭で日本人女性が快挙

 同祭典には約2週間の期間中に約3,000人の報道写真家や編集者らが集まり、町中で行われる各種展示に
は約22万人が訪れる。
 6日、世界最大規模の写真ジャーナリズムの祭典"ビザ・プール・リマージュ"で、林典子さんが"ビザ・
ドール(金賞)"を受賞した。ビザ・ドール(金賞)は、報道写真企画部門で最高賞にあたる。日本人初の
受賞となった。
 林さんの作品は、中央アジアのキルギスで男性が若い女性を拉致して無理やり結婚する「誘拐結婚」の風
習を取り上げた組み写真。「組み写真」とは、ひとつの主題のもとに何枚かの写真を編集し組み合わせたも
ののこと。組み写真の良さを出すためには、どうすればいいか、工夫と才能が求められる。部外者が踏み込
むことが困難な誘拐結婚の実態を初めて報じた点が高く評価された由。
 1983年生まれ。ガンビア共和国の新聞社で報道写真を撮り始め、その後、プロとして報道写真の世界で活
躍。日本、そして世界の国や地域に暮らす人々の日常から見えてくる「社会の姿」を撮り続けている。
 「色々な場所を訪れるうち、なかなかニュースにならないような人々の暮らしを、写真を通して伝えられ
るような写真家になりたいと思うようになった」。
 イランの北側の隣国である、トルクメニスタンとの国境に近い町で、かつての遊牧民であるトルクメン人
たちを、暮らしに溶け込みながらカメラにおさめる。
 「結婚を断った報復や家庭内暴力の延長で女性の顔に硫酸をかける事件が多いパキスタンで、被害に遭っ
た女性たちを撮影した。
 「彼女たちの人間としての強さや、女性らしい気品を伝えられたら」と語る。
 「硫酸の被害者の写真は、海外のカメラマンの作品も多いのですが、傷を負った後の日常の姿を写真で記
録出来たらと思って長期滞在しながら撮影しました」。
 硫酸被害に遭ったパキスタン女性の写真によって、2011年の名取洋之助写真賞を受賞した。
 震災後の福島では、住み慣れた土地を去った人々の思いを遺そうと警戒区域や避難区域を撮影した。
 「東日本大震災発生から3日後に現地入りし、惨憺たる光景の中で被災者や犠牲者がその場に残した思い
を記録しようと、撮影を続けた」。
 東日本大震災後の東北を撮った写真によって、2012年DAYS国際フォトジャーナリズム大賞を受賞した。

 p.196 ・引用:「私はゲストハウスのオーナーの義弟、ジャンチョロに通訳をお願いすることにした。
          年齢は三〇歳。チョロの愛称で呼ばれていた彼と、近所に住む運転手のジンシと一緒
          にビシュケク(キルギスの首都)を出発し、約三五〇キロ離れたイシククル州の町、
          カラコルへ向かった。イシククル州で誘拐結婚が多いと聞いていたからだ」。
     ・直ぐに起こった「誘拐結婚」の現実。

 p.197 ・誘拐犯のイメージとはかけ離れた人々。
     ・「コショゴ」と呼ばれる蚊帳のような白い薄手のカーテンがかけられた部屋。
     ・二日前に誘拐されたとは思えない18歳の少女チョルポン。

 p.198 ・チョポンとアマン(チョポンを誘拐した男)が初めて出会ったのは、誘拐の二ヶ月前の2012年5
     月15日だった。それから、もう一度会い、少し会話を交わした。その二人が再会したのは、7月5
     日、すなわち誘拐の日であった。
     ・なぜ、結婚を承諾したのか? …… キルギス人女性にとって、一度男性の家に入ると、そこから
     出るのは恥ずかしいことだからである。
     ・遊牧民の移動式テント「ユルタ」の中で、イスラム式の結婚式「ニカ」が執り行われた。

 p.199 ・キルギス語で、誘拐結婚は「アラ・カチュー(Ala Kachuu)」という。「奪って去る」という
     意味である。
     ・引用:「恋愛関係にある女性との結婚を急いで、誘拐という手段を使って結婚するケースもあ
          れば、二、三回会った程度の顔見知りや、面識のない相手を誘拐するケースもある。
          ほとんど会ったことのないケースが、全体の三分の二を占めるという」。
     ・キルギス政府は、1994年に法律で誘拐婚を禁じ、誘拐犯に最長で懲役三年が科せられるように
     なった。2013年には、罰則が最高で10年に延びた。
     ・法律で禁じても誘拐結婚が簡単になくならないのは、古くから伝わる「慣習」として、社会の
     中で受け入れられているからである。

 p.200 ・さまざまな誘拐結婚のケース。著者は四か月半の間に、約25組の夫婦や女性たちの取材をして
     いる。
     ・誘拐結婚の被害者の女性ウルス・カスンバエバ(女子大生)は、19歳の身空で自殺を決行した。

 p.201 ・身勝手な誘拐結婚の実態。

 p.202 ・撮影許可が下りるまで、手間暇がかかった。
     ・キルギスの人々は親切で、ホスピタリティに溢れていた。

 p.203 ・漫画のような、誘拐結婚の現場。

 p.206 ・何度も延期される裁判。しかし、それに懲りることのない著者を信用してか、自殺した女子大生
     ウルスの母ディナクルは、数日後に著者を自宅に招き入れてくれた。

 p.208 ・誘拐犯シャインベックに懲役六年の判決が下る。
     ・農作物の収穫が終わり、本格的な冬が始まるまでの時期に、誘拐が多発する由。

 p.210 ・結婚を承諾しないで、実家に帰るケースもある。

 p.228 ・理不尽にしか見えない誘拐結婚。

 p.229 ・「息子が結婚するんです、誘拐で」という奇妙に聞こえる母親のことば。しかも、嬉しそうに
     言うのだ。

 p.230 ・誘拐結婚の取材をこの母親バクティグルは了解してくれたが、簡単に取材を受け入れたのは、
     罪の意識が薄いことと、この地域では誘拐婚があまりに日常的に行われていることが要因だっ
     た由。

 p.232 ・キルギスの誘拐結婚は「家に帰りたい」と言い続ければ、帰さなければならないという「暗黙
     のルール」がある。

 p.233 ・客観的な立場に立つことの困難。

 p.236 ・愛されたいのか、愛したいのか。犬好き:愛されたい。猫好き:愛したい。

 p.237 ・結婚承諾の理由 ……「私たちの伝統だから」。

 p.238 ・引用:「誘拐結婚は、個人の意識を変えるだけでは無くならない。地域や社会の意識を変えな
          い限り、無くすことはできないのだ」。
     ・二週間後には、幸せを感じるディナラ(誘拐された女性)がいた。
     ・伝統ではなく流行?

 p.239 ・元々は駆け落ち(19世紀以前)。心中(伝承「ブームジョージ」)もあった由。

 p.239-240 ・引用:「もし誘拐結婚がキルギスの伝統なら、キルギスで語り継がれてきた口承叙事詩「マ
            ナス」に登場するはずだという主張もある。数十万にもおよぶマナスの語り手であ
            るマナスチたちによると、ここには誘拐結婚は登場しない」。
            
 p.240 ・誘拐結婚が流行するようになった理由(アメリカ・フィラデルフィア大学のラッセル・クライ
     ンバック名誉教授)
     ◯ 20世紀に入り、キルギスがソビエトの共和国になると、経済活動や社会システムが急変した
      こと。
     ◯ その結果、それまでの遊牧生活から定住生活に変わったこと。
     ◯ 女性たちが教育を受け、男女平等の意識が芽生えたこと。
     ◯ 両親が決めた相手ではなく、自分たちで相手を選びたいという自由な意識が生れたこと。
     ◯ その結果として、かつて行われていた同意の上での誘拐結婚が増加したこと。
     ◯ 駆け落ちの誘拐結婚が、「伝統」としてここ半世紀の間に、現在の暴力的な誘拐結婚のかたち
      にねじ曲がって伝わったこと。

 p.241 ・ある老夫婦の証言。「今のような暴力的な誘拐結婚は、伝統ではなく流行である」、と。

 p.244 ・引用:「写真家がその場の状況に介入するか否かについて、「なぜ助けないで撮影するのか」
          という批判や、あるいは逆に、「活動家でもない写真家が介入するのはプロ意識に欠
          ける」という意見もある。私は場の状況に応じて、自分の立ち位置を考え、その時々
          で方法を考えたい。今回のキルギスの取材もそうだ。正解はないと思う。そこに居合
          わせたからこそ、判断できることもある。ひとつ言えるのは、もう一度私がその場に
          いたら、きっと同じ行動を取るということだ」。

 p.246 ・グルマイラ(女子高生)のことば「誘拐で結婚したいなんて、誰も思わない」。

 ********************************************


 男女関係の微妙さは筆舌に尽くしがたいようです。「誘拐結婚」という現実も、日本にいれば奇妙奇天烈
に見えますが、それに似たようなことはこの日本でもあるかもしれません。いずれにせよ、ことは結婚に限
らず、人の意志を無視するような出来事は、すべからく根絶されるべきだと思います。

                                                 
 2016年2月18日(木)

 今日も、ネットの記事などを絡めながら、『フォト・ドキュメンタリー 人間の尊厳 ── いま、この世
界の片隅で』(林典子 著、岩波新書、2014年)から、要点を抜書したいと思います。


 ********************************************

 第5章 震災と原発 ── 日本

 ・東日本大震災と福島原発事故

   マグニチュード:地震のマグニチュード(magnitude)とは、地震が発するエネルギーの大きさを対
           数で表した指標値である。揺れの大きさを表す震度とは異なる。日本の地震学者・
           和達清夫の最大震度と震央までの距離を書き込んだ地図に着想を得て、アメリカの
           地震学者チャールズ・リヒターが考案した。リヒターの名からリヒター・スケール
           (Richter scale)ともいい、英語圏ではマグニチュードよりもこの名称が一般的
           である。マグニチュードは地震のエネルギーと対数関係にあり、マグニチュードが
           1増えると地震のエネルギーは31.6倍になり、2増えると地震のエネルギーは1,000
           倍になる。
            地震学ではモーメント・マグニチュード(Mw)が広く使われる。日本では気象庁
           マグニチュード(Mj)が広く使われるが、長周期の波が観測できるような規模の地震
           (Mj5.0以上)ではモーメント・マグニチュードも解析・公表されている。

  東日本大震災:2011年(平成23年)3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震とそれに伴って発生した
         津波、およびその後の余震により引き起こされた大規模地震災害である。この地震によ
         って福島第一原子力発電所事故が起こった。発生した日付から3.11(さんてんいちいち、
         さんいちいち)と称することもある。危機管理等を目的として関東大震災と比較される。

  地震発生

  2011年(平成23年)3月11日14時46分18秒(日本時間)、宮城県牡鹿半島の東南東沖130km、仙台市
 の東方沖70kmの太平洋の海底を震源とする東北地方太平洋沖地震が発生した。地震の規模はモーメン
 トマグニチュード (Mw) 9.0で、発生時点において日本周辺における観測史上最大の地震である。震源
 は広大で、岩手県沖から茨城県沖までの南北約500キロメートル、東西約200キロメートルのおよそ10
 万平方キロメートルという広範囲全てが震源域とされる。最大震度は宮城県栗原市で観測された震度
 7で、宮城・福島・茨城・栃木の4県36市町村と仙台市内の1区で震度6強を観測した。

  被害

  この地震により、場所によっては波高10m以上、最大遡上高40.1mにも上る巨大な津波が発生し、東
 北地方と関東地方の太平洋沿岸部に壊滅的な被害が発生した。また、巨大津波以外にも、地震の揺れ
 や液状化現象、地盤沈下、ダムの決壊などによって、北海道南岸から東北を経て東京湾を含む関東南
 部に至る広大な範囲で被害が発生し、各種インフラ(人々の生活に必須な、いわゆるライフライン)
 が寸断された。
2016年(平成28年)1月8日時点で、震災による死者・行方不明者は18,457人、建築物の全壊・半壊
 は合わせて399,923戸が公式に確認されている。震災発生直後のピーク時においては避難者は40万人
 以上、停電世帯は800万戸以上、断水世帯は180万戸以上]等の数値が報告されている。復興庁によると、
 2015年12月10日時点の避難者等の数は182,000人となっており、避難が長期化していることが特徴的で
 ある。

  津波による浸水面積 - 561平方キロメートル
  津波被害農地 - 21,480ヘクタール(宮城・14,340、福島5460、岩手730)
  漁船被害 - 28,612隻
  漁港被害 - 319港

  日本政府は震災による直接的な被害額を16兆円から25兆円と試算している。この額は、被害が大き
 かった岩手・宮城・福島の3県の県内総生産の合計に匹敵する(阪神・淡路大震災では兵庫県1県の
 県内総生産の半分ほどであった)。世界銀行の推計では、自然災害による経済損失額としては史上1
 位としている。

  福島第一原子力発電所

  地震から約1時間後に遡上高14 - 15mの津波に襲われた東京電力福島第一原子力発電所は、全電源
 を喪失。原子炉を冷却できなくなり、1号炉・2号炉・3号炉で炉心溶融(メルトダウン)が発生。
 大量の放射性物質の漏洩を伴う重大な原子力事故に発展した。この事故は国際原子力事象評価尺度で
 最悪のレベル7、チェルノブイリ原子力発電所事故と同等に位置付けられている。同原発の立地する
 福島県浜通り地方を中心に、周辺一帯の福島県住民の避難は長期化するとともに、2012年からは「帰
 還困難区域」、「居住制限区域」も設定された。その他に火力発電所等でも損害が出たため、東京電
 力の管轄する関東地方は深刻な電力不足に陥り、震災直後の一時期には日本国内では65年ぶりに計画
 停電が実施された。計画停電は東北電力管内でも震災直後に実施されたほか、翌2012年の夏前には関
 西電力管内でも大飯発電所(大飯原発)の再稼働を巡って論議が起き、計画停電の可能性が議論され
 た。

  被災地の他の原子力発電所

  東日本大震災被災地には、福島第一のほか、以下の原子力発電所があった。いずれも結果的に重大
 な原子力災害には至らなかったが、外部電源喪失、非常用発電機の破損、原子炉冷却用海水ポンプの
 破損など、重大な原子力災害一歩手前に追い込まれたり、10条通報、原子力緊急事態宣言発令に至っ
 たりした原発もあった。

  東海第二原子力発電所(茨城県東海村)
  福島第二原子力発電所(福島県富岡町・楢葉町)
  女川原子力発電所(宮城県女川町)
  東通原子力発電所(青森県東通村)

  災害対策の動き

  日本政府は地震発生から31分後の15時14分に、史上初の緊急災害対策本部を設置した。3月12日夜
 の持ち回り閣議で、政令により「平成23年(2011年)東北地方太平洋沖地震等による災害」を激甚災
 害に対処するための特別の財政援助等に関する法律(激甚災害法)に基づく激甚災害に指定し、同じ
 く政令により特定非常災害特別措置法に基づく特定非常災害に指定した(いずれの政令も3月13日公
 布)。また、青森県、岩手県、宮城県、福島県、茨城県、栃木県、千葉県、東京都は災害救助法の適
 用を決定した(適用市町村は都県ごとに指定)。3月22日、青森県、岩手県、宮城県、福島県、茨城
 県、千葉県、内閣府は、東北地方太平洋沖地震と津波による被害について被災者生活再建支援法を適
 用することを決定した(適用地域は青森県、岩手県、宮城県、福島県、茨城県、栃木県、千葉県)。
 ただし、国および福島県は原発事故に伴う長期避難世帯を被災者生活再建支援法の長期避難世帯と認
 めず、福島県には適用していない。

  問題点・課題

  震災後、ボランティア活動に対する保健衛生上の規制や支援車両に対する道路交通法の規制など、
 現在の法令による制限が復興の障害となっていることが明らかになった。復興の遅れにより経済や生
 活に二次的な被害が生じているため、関係自治体では災害特区指定や特別立法への期待も大きい。市
 街地が壊滅した岩手県陸前高田市などでは、集落ごと高台に移転するといった大規模な対策が検討さ
 れているが、課題も山積している。
  震災以後も、2011年9月には戦後最大級の勢力をもって上陸した台風15号によって被災地が広範囲
 で浸水し、福島第一原発では汚染水上昇等の被害が起きている。膨大な量のがれき(例えば岩手県で
 は前年1年間のごみ処理量の23倍に上るがれきが発生した)をどのように処理するかについても、が
 れきに付着した放射性物質の濃度が問題とされ、広域的な処理は進んでいない。
  国および福島県は原発事故に伴う長期避難世帯を被災者生活再建支援法の長期避難世帯と認めてい
 ないことから、原発事故の長期避難に伴う災害関連死(特に「原発関連死」と呼ばれる)対策や原発
 避難者生活再建支援施策が求められている。

 p.154 ・2011年3月14日早朝、著者は東北に出発した。
     ・ドイツの Der Spiegel からアサイメント(assignment)……東北に行く途中の道からでもいい
     から撮影を始めて、できるだけ早いペースで送ってほしい」という指示を受ける。

  デア・シュピーゲル (Der Spiegel) :ドイツの週刊誌。発行部数がヨーロッパで最も多いニュース週
                   刊誌であり、毎週平均110万部が売られている。時の政府とも論
                   陣を張る進歩的なメディアである。誌名はドイツ語で鏡の意。発
                   行元は Spiegel-Verlag で、本社はハンブルクに所在する。最近
                   は競合誌『フォークス』(Focus) の出現で従来の勢いはない。

 p.155 ・日本海側へ車を走らせ、翌15日、太平洋側に移動。岩手県釜石市に入る。到着まで丸一日以上。
     ・被災地の現状。

      参考映画

   『ヒミズ』、監督:園子温、「ヒミズ」フィルムパートナーズ〔ギャガ=講談社〕、2011年。
   『希望の国(THE LAND OF HOPE)』、監督:園子温、The Land of Hope Film Partners、2012年。
   『おだやかな日常』、監督:内田伸輝、「おだやかな日常」製作委員会、2012年。
   『遺体 明日への十日間』、監督:君塚良一、フジテレビジョン、2013年。
   『今日子と修一の場合』、監督:奥田瑛二、ゼロ・ピクチュアズ、2013年。
   『家路』、監督:久保田直、「家路」製作委員会〔WOWOW=ポニーキャニオン=ホリプロ=ビターズ・
    エンド=いまじん=ハートス=レスパスビジョン=ソリッドジャム〕、2014年。

 p.156 ・北上市を拠点に1週間ほど取材。その後、遠野市を拠点とするロイター通信のダミルに合流。

 p.157 ・岩手県山田町の若い男性の様子。
     ・四月になり、福島県へ。タイ人のアティット(FJ)らと合流。

 p.160 ・消防団員と自衛隊員による埋葬。
     ・アサイメント終了(四月半ば)で、一ヵ月ぶりに東京へ戻る。
     ・依頼がなくても、自分の視点で東北を記録していかなければならないと感じていた。

 p.161 ・4月21日、著者は再び福島へ向かう。
     ・政府は、翌22日午前零時より原発から半径20キロ以内を「警戒区域」として、原則立ち入り禁
     止にすることを発表する。
     ・何十年も経った後に、福島の事故直後はこうだったと、記録として写真に残したいと思ってい
     た著者。

  2015年6月2日(火)〔花摘みの頁より〕

  言葉            小松弘愛

 何度か
 目に止めてきた横断看板*

  ARBEIT MACHT FREI

 アウシュビッツ強制収容所の
 正門に掲げられたドイツ語の標語

 「アルバイト マハト フライ」
 「労働は自由への道」と訳されている

 福島第一原発から三キロほどの町 
 商店街に掲げられた横断看板**

  原子力明るい未来のエネルギー

 人々はどのような思いで
 この標語の下を逃げていったのだろう
 今は無人の町である

 横断看板の下には
 ポールに取り付けられた
 三角状の青い道路標識がある

 その中には
 足元に引かれた白線に沿って
 白い人が手を振って歩いている

     * フランクル『夜と霧』(霜山徳爾訳)所収の写真
     ** こども高知新聞「おさまらぬ原発『もどる日』いつ」に添えられた写真(12・2・14)

                              『兆』166号、2015年より

 この方も面識のある高知の詩人である。端正な方で、いわゆる「無頼派」の詩人ではない。もっとも、近
年にその名前を知った詩人なので、若い頃のことは知らない。詩集『狂泉物語』(1980年)は散文詩の傑作
だが、この作品は構成としてはむしろ平凡である。しかし、ある種の言葉の虚しさを告発する詩として光っ
ている。
 小生が一篇の詩に惹かれるとき、そこで用いられる言葉の味わいを好む場合が多い。したがって、語られ
る内容であることは案外少ない。ところが、この詩においては、用いられている言葉にも内容にもさして魅
力があるわけではない。虚しい言葉を呈示することによって、詩の言葉の「不在」を暗示しているところに
逆説的な魅力を感じさせるのである。老練な技と言えようか。

 p.162 ・5月中旬、再び Der Spiegel よりアサイメント。福島県飯舘村で、ドイツ人の女性記者コルド
     ラ・マイヤーと一緒に取材を行い、彼女が原稿を、著者が写真を担当するという仕事。報道規制
     など、どこ吹く風である。
     ・飯舘村へ取材。

 p.178 ・自殺した高齢者(102歳)。避難勧告への抗議。

 p.179 ・事実と異なる報道。よくある話。

 p.180 ・白寿の祝(99歳)が盛大に開かれている。

 p.181 ・飯舘がすべてだった。

 p.182 ・五月下旬、東京へ戻る。

 p.183 ・デビッド(AP通信)のフォトアシスタント …… 最初で最後の仕事。

 p.184 ・警戒区域の様子。

 p.185 ・本当のことを伝えてほしいと懇願する役場の担当者。

 p.185-186 ・引用:「六月には農家の牛舎からは牛の苦しみに満ちた鳴き声が聞こえてきたが、七月中
            旬にはその多くが骨と皮だけの死骸になっていた」。

 p.186 ・フォトアシスタントの仕事に関する葛藤

 p.187 ・雑誌に掲載されたのはわずか10カット。デビッドが撮影したのは1万カット以上。

 p.188 ・津波にのまれた夫婦。

 p.189 ・両親と確信しながら、火葬に立ち会えない。

 p.190 ・DNA鑑定の結果が出る。両親と確定。

 p.191 ・死んでも、絶対に離れない。

 ********************************************


 ガンビア、リベリア、カンボジア、パキスタン …… やはりどこか遠くの出来事という感覚は否めません。
しかし、日本のこととなると、より一層胸が痛みます。親疎の違いは拭いようもないものなのです。


 ********************************************

 第6章 誘拐結婚 ── キルギス

 ・キルギスとは?

  (ウィキペディアより)

 キルギス共和国(キルギスきょうわこく)、通称キルギスは、中央アジアに位置する旧ソビエト連邦の共
和制国家である。首都はビシュケク(旧名フルンゼ)。かつての正式国名はキルギスタンであり、改称以降
も別称として公式に認められている。北から時計回りにカザフスタン、中華人民共和国、タジキスタン、ウ
ズベキスタンと国境を接する。ソビエト連邦から独立したウズベキスタン、カザフスタン、トルクメニスタ
ン、タジキスタンとともに中央アジアを形成し、独立国家共同体 (CIS) 加盟国である。

  国名

 正式名称はキルギス語では Кыргыз Республикасы(Kyrgyz Respublikasy; クルグズ・
レスプブリカス)、ロシア語では Киргизская Республика(Kyrgyzskaia Respublika;
キルギースカヤ・リスプーブリカ)。別称は Кыргызстан(Kyrgyzstan; クルグズスタン)。
1991年の独立時にキルギス語の国名を Кыргызстан Республикасы(Kyrgyzstan Res-
publikasy; クルグズスタン・レスプブリカス)としたが、1993年に憲法を改正して正式国名を現行の
Кыргыз Республикасы に改めた。ただし、国名変更以降も旧称 Кыргызстан
が別称として公式に認められている。公式の英語表記は Kyrgyz Republic。別称 Kyrgyzstan。
 日本語の表記はキルギス共和国。通称キルギス。漢字による当て字は黠戛斯。クルグズ(キルギス)の語
源は「кырк(クィールク)」が40の意味で、40の民族を指し、また中国人にかつて「гунны(グン
ヌィ、匈奴)」と呼ばれていた背景から、それらを合わせてクルグズとなったと言われている。 ちなみに、
テュルク系言語で 40を意味する「クゥルク」に、娘や女の子を意味する「クゥズ」をあわせた「クゥルク・
クゥズ」は、“40人の娘”という意味になり、中央アジアに広く伝 えられるアマゾネス伝承との関連をう
かがわせる。したがって、「40の民族」というよりも、「40の部族」ないし「40の氏族」という意味のほう
が適切で ある。
 日本語名のキルギスは、ロシア語表記の「Киргиз」に由来する。独立時に、キルギスのロシア語表
記・英語表記は、キルギス語の自称に基づいた Кыргыз・Kyrgyz に改められたが、日本語ではそのま
まキルギスと呼びつづけ、正式国名の日本語名はキルギスタン共和国と表記された。その後のキルギス共和
国への国名変更を経て、依然キルギスと通称されている。タジキスタンやカザフスタンなどにみられる「-
スタン」とは、ペルシア語で「-が多い場所」を意味する言葉である。詳しくはスタンを参照されたい。
 本項では「キルギス」の国名を使用するが、中央アジアの研究者には正確な発音に近い「クルグズ」と表
記すべき、との声もある。

  歴史

  古代 - キルギス人の祖先は、シベリアを南北に流れるエニセイ川上流に定住していたと考えられている。
  1世紀ごろ - 匈奴の支配下に入る。
  6世紀 - 突厥の支配下に入る。
  7世紀 - 唐の支配下に入る。
  8世紀 - 回鶻の支配下に入る。
  9世紀 - 回鶻を滅ぼす。
  13世紀 - モンゴル帝国の支配下に入る。
  16世紀 - キルギス民族が現在のキルギス共和国の領域に移住。
  19世紀初頭 - キルギス民族はウズベク系のコーカンド・ハン国の支配下に入った。
        キルギスのユルト(19世紀後半)
        キルギスの遊牧民(19世紀後半)
  1865年 - 北キルギジアがロシア帝国に併合される。
  1867年 - トルキスタン総督府を設置。
  1876年 - コーカンド・ハン国(Kirgizia)がロシア帝国に併合される。
  1922年 - ソビエト連邦が成立。
  1910年代-1920年代 - ソビエトの支配下に入り、トルキスタン自治ソビエト社会主義共和国の一地域と
            なる。
  1924年 - 中央アジアに位置する共和国の国境が整理され、ソビエト連邦内のカラ=キルギス自治州
       (ロシア語版、英語版)となる。
  1925年 - キルギス自治州に改称。
  1926年 - キルギス自治ソビエト社会主義共和国 (1926-1936)に改称。
  1936年 - ソビエト連邦を構成するキルギス・ソビエト社会主義共和国となる。
  1991年8月31日 - ソビエト連邦のクーデターにより独立を果たす(キルギスタン共和国)。
  1991年12月21日、独立国家共同体 (CIS) に参加。
  1992年3月 - 国際連合に加盟。
  1992年5月 - 独自通貨であるソムを導入、国際通貨基金 (IMF) に加盟、独立国家共同体 (CIS) の集団
        安全保障条約に調印。
  1993年 - 新憲法下で現国名(キルギス共和国)に改称。
  1995年12月 - 大統領選挙でアスカル・アカエフが再選された。
  1996年2月 - 大統領の権限大幅に拡大する憲法改正案が国民投票により賛成94.5%で可決された。
  1999年 - 「ウズベキスタン・イスラーム運動」のゲリラがクルグズスタン南部に侵入する事件が起こる。
      キルギス日本人誘拐事件(8月23日 - 10月25日)。
  2003年 - 憲法改正の国民投票実施。これにより憲法を改正し二院制から一院制に移行することが決定。
  2005年3月 - チューリップ革命。議会選挙の不正疑惑をきっかけに、南部で強権的なアカエフ大統領に
        対する野党側の反政府運動が激化。反政府運動は首都のビシュケクまで拡大し、野党勢力
        が大統領府を占拠。アカエフ大統領が逃亡し政権が崩壊した後、野党勢力は暫定政権を樹
        立したと報じられる。
  2005年4月4日 - アカエフ大統領、正式に辞任。
  2005年7月10日 - クルマンベク・バキエフが大統領選挙で圧勝し、大統領に就任。
  2010年 - 景気低迷や政府によるメディア規制が起こる中、首都ビシュケクを中心に野党側による反政
      府運動が激化。4月7日に野党勢力が大統領府を占拠し、翌8日に元外相のローザ・オトゥンバ
      エヴァが臨時政府樹立を発表、5月19日に暫定大統領に就任。6月27日に行われた国民投票で信
      任されたことで臨時から正式な政府に移行としたと宣言。
  2011年12月1日 - 大統領選挙などを経て、アルマズベク・アタンバエフが大統領に就任。

  政治

  政体

  政治体制は共和制であり、国民による直接選挙で大統領と議員が選出される。

  行政府

  大統領の任期は6年で、再選は禁じられている。大統領は議会の承認に基づき首相を任命する。大統領
 は議会の承認があれば閣僚を任免できる。大統領が不在の場合は議会の議長が代行する。

  立法府

  議会「ジョゴルク・ケネシ」は、120議席の一院制。2005年に新憲法が発布される以前、1994年10月か
 ら2005年1月までは二院制であり、上院に相当する定数60議席の立法議会と、下院に相当する45議席の国
 民代表議会に分かれていた。

  政党

  政党の活動は自由であり、キルギスタン民主運動、キルギスタン共産主義者党、農民党など約40の政党
 がある。

  近年の政情

  2005年2月と3月の総選挙の腐敗が欧州安全保障会議により指摘されたことを直接のきっかけとして、
 2005年3月24日にアスカル・アカエフ大統領の辞任を求める大規模な抗議行動が行われた。政権は崩壊し、
  大統領が逃亡した後、議会の議長が代行を務める暫定政権が樹立された(チューリップ革命)。2005年
 7月10日に行われた大統領選挙で、「国民のために働く質の高い政府を作る」と訴えたクルマンベク・バ
 キエフが大統領に当選した。民主化を目指す人物が大統領に就任したことで、中央アジアの他の長期独裁
 政権にも影響を与える可能性もあるといわれたが、「民主化の希望の星」だったバキエフも、プーチン流
 独裁に陥ったとされた。政敵やジャーナリスト襲撃が相次ぎ、暗殺事件は次々と迷宮入りになっている。
 景気が停滞していたことや、政府によりメディア報道が閉鎖されるなどが起こり[2]、バキエフ大統領に
 対して不満が高まっていた。
  2010年4月7日、首都ビシュケクを中心に野党勢力による数千人規模の反大統領デモが勃発。政府軍側の
 発砲により大規模な武力衝突となり、死者は 少なくとも75人、負傷者は1,000人以上に達した。野党勢力
 は内務省や国家治安局、国営テレビ局などを占拠した。翌日8日、バキエフは南部へ逃亡しその 後大統領
 を辞職してベラルーシに亡命した。北部を中心に実権を掌握した野党勢力は元外相のローザ・オトゥンバ
 エヴァを首班に臨時政府樹立を宣言した。

  国際関係

  アメリカ合衆国とロシアの基地がある。それぞれ支援を受けている。
  
  地理

 国土全体の40%が標高3,000mを超える山国。国土は東西に長く、中国との国境には天山山脈が延びる。南
に位置するタジキスタンに向かってパミール高原が広がる。国土の中央など東西に山脈が走り、国土を数多
くの峡谷に分断している。最高峰は、中国国境にそびえるポベティ山(Pobeda または Jengish もしくは
勝利峰、7,439m)、ついでハン・テングリ(6,995m)である。4,000m級の峰は珍しくない。各都市の標高は
首都ビシュケクが800 m、フェルガナ盆地に位置するオシュが963 m、イシク湖畔のバルイクチが1,610 m、
カラコルが1,745 mとなっており、ナルイン州の州都ナルインは2,044 m、中国やタジキスタンとの国境に近
い南部のサリタシュは3,170 mもの高地に位置している。主な河川は、シルダリア川支流のナルイン川。主
な湖は国内北東部に位置するイシク湖。東西180km、南北60km、周囲長700kmに及ぶ。湖面の標高は1,600m。
イシク湖とナルイン川は水系が異なる。ビシュケクと第2の都市オシュ、中央部のナルインにはソ連共和国
時代に大規模な灌漑施設が敷設されているため、綿花を中心とした耕作に向く。これらの灌漑地はシルダリ
ア川、ナルイン川の支流から水を得ている。

  気候

 隣国のカザフスタンや中国とは異なり、国内に砂漠は存在せず、この地方の中では気候に恵まれている。
人の居住に適した東西に伸びる渓谷部分はケッペンの気候区分では、夏季に雨が少ない温帯の地中海性気候
(Cs) に相当する。これは、イタリアのローマやアメリカ合衆国サンフランシスコと同じ気候区である。山
地は亜寒帯湿潤気候 (Df) 、特に高地は高山気候 (H) となる。天山山脈をはさんで南方の中華人民共和国
と、テスケイ・アラ・トー山脈をはさんで北方のカザフスタンには、ステップ気候 (BS) と砂漠気候 (BW)
が広がる。実際に降水量を比較すると、天山山脈の100km南方に位置する中国新疆ウイグル自治区喀什(カ
シ、カシュガル)の年降水量は60mmだが、ビシュケク(北緯43度、標高800m)の降水量は450mmに達する。
これはローマやサンフランシスコと同水準である。ビシュケクの平均気温は、1月に-3度、7月に25度であ
る。

 地方行政区分

 1. ビシュケク特別市 2. バトケン州 3. チュイ州 4. ジャララバード州 5. ナルイン州 6. オシ州 7.
タラス州 8. イシク・クル州キルギスは7つの州 (oblast) と1つの特別市 (shaar) から成り立つ。州はさ
らに地方 (raion) に分かれる。地方長官は中央政府が任命する。aiyl okmotu と呼ばれる自治体は、最大
で20程度の集落から構成されており、選挙で選ばれた村長のほか議会が設置されている。

  経済

 農業および牧畜、鉱業が主である。農業は主として輸出品目にもなっている綿花、タバコの栽培が活発に
行われている。鉱業は金、水銀、アンチモンなど。1997年に採掘がはじまったクムトール鉱山は、世界屈指
の金鉱山である。また水銀(ハイダルカン鉱山)は2002年のデータで世界第3位の産出量を誇っている。ソ
連から独立後は、観光産業に早くから注力する。旧ソ連邦でも先駆けてヨーロッパや日本からの観光目的の
入国に際し、査証不要を打ち出した。キルギスは石油製品、天然ガスを輸入し、水力発電による電力、葉タ
バコ、綿を 輸出している。ただし、金の輸出が急速に伸びている。2000年における輸入相手国は、ロシア、
ウズベキスタン、カザフスタン、アメリカ合衆国、中華人民 共和国の順。輸出相手国は、ドイツ、ウズベ
キスタン、ロシア、中華人民共和国、スイス。キルギスの対日本への貿易は2012年の財務省貿易統計による
と輸 入57.6億円(機械類及び輸送用機器、自動車、建設用・鉱山用機械)、輸出0.8億円(アルミニウム、
および、同合金)となっている。キルギスに対する2000年における主要援助国(団体)は、日本、アジア開
発銀行、世界銀行、アメリカ合衆国、国際通貨基金の順である。日本の援助額は5500万米ドル。通貨はキル
ギス・ソムである。

  交通

 国内にはバスと航空網が敷かれている。外国との間にはフラッグキャリアのキルギスタン航空が、ビシュ
ケクのマナス国際空港からアジアとヨーロッパ各国に就航しているほか、同空港には各国の航空会社が乗り
入れている。
 鉄道はビシュケクからバルクチまでの国内線の他、ビシュケクとロシアやカザフスタンとの間に国際列車
が運行されている。

  国民

  民族


 キルギス人(70.9%)、ウズベク人(14.3%)、ロシア人7.8%、。その他7% …… 2009年の調査によると、
キルギス人が70.9%、ウズベク人が14.3%、ロシア人が7.8%、その他が7%であり、その他にはドンガン人、ウ
イグル人、タジク人、トルコ人、カザフ人、タタール人、ウクライナ人、高麗人、アゼルバイジャン人など
が含まれる多民族国家である。
 地域による民族分布差も大きく、首都ビシュケクと周辺のチュイ州やイシク・クル州のカラコルを中心と
した東部にはロシア人、ウクライナ人などスラブ系住民が多く、オシ州やジャララバード州、バトケン州な
どの西部、南部にはウズベク人やタジク人が、中国国境付近にはドンガン人やウイグル人が住む。一方、ナ
ルイン州の住民はほとんどがキルギス人である。
 独立前の1989年にはロシア人は全人口の21.5%を占めていたが、独立後国外流出が続き、現在は7.8%にま
でに減少した。

  言語

  母語話者(キルギス)

  キルギス語 65.2%
  ウズベク語 14.7%
  ロシア語  14.0%
  その他    6.1%

 キルギス語が国家語、ロシア語が公用語とされている (憲法第10条第1項、第2項)。1999年の国勢調査に
よると、キルギス語が65.2%、ウズベク語が14.7%、ロシア語が14.0%となっている。ウズベク語はオシ州や
ジャララバード州を中心にウズベク系住民の間で使われている。ロシア語は独立以降公用語から除外された
ウズベキスタンなどと違い、引き続き公用語に制定されている。これは、国の中枢を占めていたロシア人な
どのロシア語系住民の国外流出(頭脳流出)を防ぐためであり、現在でも山岳部を除く全土で通用し、教育、
ビジネスや政府機関で幅広く使用される。特に首都ビシュケクとその周辺では多くの住民はロシア語を使っ
て生活しており、キルギス語があまり上手に話せないキルギス人もいる程である。その他、ドンガン語など
も使われている。

  宗教

  宗教は、イスラム教が75%、正教が20%、その他が5%である。

  文化

 伝統音楽を演奏する人々 …… 敦煌で南北に分かれた「シルクロード」は喀什で合流後、再び南北に分か
れる。南の道はタジキスタンに向かうが、北の道はキルギスの南部を通過する。首都ビシュケク近郊のトク
マムの町には、バラサグン遺跡が残る。ここには砂漠を進む商隊の灯台として使われたと推定されているブ
ラナの塔が残る。また周囲にはキルギス各地から集められた石人があり有名。

  音楽

 キルギス人の民族楽器は三弦のコムズが知られる。キュと呼ばれる器楽独奏曲ごとに伝説が残されており、
伝統的な作法では、伝説を語った後、キュを演奏していた。

  世界遺産

 キルギス国内には、国際連合教育科学文化機関(UNESCO)の世界遺産リストに登録された文化遺産が2件
存在する。

  祝祭日:割愛

 ********************************************


 キルギスと言われても、ほとんど何のイメージも浮かびません。旧ソビエト連邦の共和国であるこの国の
特徴のひとつに、「中国の新疆ウイグル自治区と国境を接している」という地理的なものがあります。だと
すれば、中国との緊張関係があるのだろうか、と思わざるを得ません。

                                                 
 2016年2月17日(水)

 今日も、ネットの記事などを絡めながら、『フォト・ドキュメンタリー 人間の尊厳 ── いま、この世
界の片隅で』(林典子 著、岩波新書、2014年)から、要点を抜書したいと思います。


 ********************************************

 第4章 硫酸に焼かれた女性たち ── パキスタン

 ・パキスタンとは?

  (ウィキペディアより)

 パキスタン・イスラム共和国(パキスタン・イスラムきょうわこく、通称パキスタンは、南アジアの国家
で、イギリス連邦加盟国である。首都はイスラマバード。最大の都市はカラチ。面積は80万平方キロメート
ルで、日本 (38万平方キロメートル) の約2倍程。東はインド、北東は中華人民共和国、北西はアフガニスタ
ン、西はイランと国境を接し、南はインド洋に面する。国土の中心部を流れるインダス川の流域に国民の80%
以上が住み、人口の増加が著しい国の一つである。

  国名

 正式名称は(ウルドゥー語:イスラーミー・ジュムフーリーイェ・パーキスターン)。公式の英語表記は
Islamic Republic of Pakistan。通称は Pakistan。日本語の表記はパキスタン・イスラム共和国。通称は
パキスタン。漢字による当て字は巴基斯坦。
 国名「パキスタン」は、ペルシア語起源の言葉で「清浄な国」を意味する。(中略)パキスタンの名は、
英領インドの独立運動の中でムハンマド・アリー・ジンナーらが提唱したムスリム(イスラム教徒)多数地
域の分離独立要求において、将来樹立されるべき国家の名として採用され、1947年の独立とともに正式な国
名となった。

  国名の変遷

  1947年-1956年:パキスタン
  1956年-1962年:パキスタン・イスラム共和国
  1962年-1973年:パキスタン共和国
  1973年-現在:パキスタン・イスラム共和国

  歴史

 19世紀には英領インドとしてインドと同一の政府の下に置かれており、独立運動も本来は同一のものであ
った。しかし、独立運動の中でイスラム教徒とヒンドゥー教徒との対立が深まり、イスラム教徒地域を「パ
キスタン」として独立させる構想が浮上した。これを避けるための努力は独立寸前までなされたものの、最
終的にはヒンドゥー教徒地域がインド、イスラム教徒地域がパキスタンとして分離独立をすることとなった。
しかしこのとき、インド東部がイスラム多数派地域の東ベンガル州(英語版)としてパキスタンに組み込ま
れ、1955年に東パキスタン(英語版)となったものの、遠く離れた両地域を宗教のみで統一しておくことは
困難であり、やがて東パキスタンはバングラデシュとして分離独立の道を歩むこととなった。

  独立と印パ戦争

 1947年8月14日 イギリス領インド帝国から独立し、イギリス国王を元首に頂くドミニオン(英連邦王国パ
キスタン)となる。1947年 第一次印パ戦争(1947年10月21日 - 1948年12月31日)。1951年10月16日、en:
Liaquat Ali Khan首相が暗殺される。1956年、共和制移行。1958年の軍事クーデタで、アイユーブ・ハーン
(Ayub Khan)の独裁政権が誕生。第二次印パ戦争(1965年8月 - 9月23日)。1970年11月、東パキスタン
(英語版)がボーラ・サイクロンによる被害を受け、被災地への政府対応に対する批判が高まり、第三次印
パ戦争(1971年12月3日 - 12月16日)に発展して、東パキスタン(英語版)がバングラデシュとして分離独
立した。 1972年、イギリス連邦脱退。パキスタン人民党の初代党首だったズルフィカール・アリー・ブッ
トーは大統領や首相を歴任した。1975年、バングラデシュ大統領のムジブル・ラフマンが暗殺される。 1977
年7月5日にムハンマド・ズィヤー・ウル・ハクのクーデターによりズルフィカール・アリー・ブットーが職
を追われ、後に処刑された。

  アフガニスタン紛争と核開発

 1978年4月28日、アフガニスタン共和国で四月革命(英語版)が起こって社会主義体制に移行し、アフガ
ニスタン民主共和国が誕生したことをきっかけとして、ムジャーヒディーン(イスラム義勇兵)が蜂起し、
アフガニスタン紛争が始まった。1979年2月にイラン革命が勃発し、11月にイランアメリカ大使館人質事件
が起こると、ソ連のブレジネフはアフガニスタンやソ連国内へイスラム原理主義が飛び火することを恐れ、
12月24日にアフガニスタンへ軍事侵攻を開始した。アメリカ中央情報局 (CIA)はパキスタン経由でムジャー
ヒディーンを支援した為、アフガニスタンへのパキスタンの影響力が大きくなるきっかけを与えた。アメリ
カがスティンガーミサイルを非公式にムジャーヒディーンへ供与したことは、ソ連の対ゲリラ戦を効果的に
苦しめ、後にソ連を撤退に追い込んだ。その一方で、戦後には武器が大量に残され、ムジャーヒディーンか
らタリバーン政権が誕生し、さらにはアルカーイダが誕生した。
 1988年8月17日、ムハンマド・ズィヤー・ウル・ハク大統領が飛行機墜落事故で急死。10月31日、国際連
合アフガニスタン・パキスタン仲介ミッション。12月2日にズルフィカール・アリー・ブットーの娘のベー
ナズィール・ブットーは、イスラム諸国初の女性首相となった。1989年、イギリス連邦に再加盟。1990年8
月6日にクーデターでブットー首相が解任された。1993年、ベーナズィール・ブットーが首相に復帰したが、
1996年11月5日に汚職や不正蓄財を理由に職を追われた。
 1998年5月11日と13日、インドのヴァージペーイー政権がコードネーム『Shakti』を突如実施。5月28日と
5月30日にナワーズ・シャリーフ首相兼国防大臣がパキスタンによる初の核実験を成功させた。これに対し、
日米がインド・パキスタン両国へ経済制裁を課した。 1999年5月、インドとのカシミール領有権をめぐる国
境紛争がカルギル紛争(英語版)に発展し、核兵器の実戦使用が懸念された。
 1999年10月12日の無血クーデター(英語版)でナワーズ・シャリーフ首相から実権を掌握したパルヴェー
ズ・ムシャラフは、2001年の民政移管でそのまま大統領に横滑りした。イギリス連邦の資格停止。2004年、
イギリス連邦に復帰。3月以来、連邦直轄部族地域に浸透したターリバーン勢力との間で紛争が始まり、現
在も続いている(ワジリスタン紛争)。2005年10月8日、パキスタン地震で大きな被害が発生したが、中央
政府の弱さから救援体制がたてられず二次被害の拡大につながったとされる。
 2007年7月、パキスタン・モスク立てこもり事件。10月、パキスタン大統領選挙(英語版)。11月、軍参
謀長でもあるムシャラフ大統領が、自身の地位を巡ってパキスタン最高裁判所(英語版)のイフティカル・
ムハンマド・ チョードリー(英語版)と対立、軍を動員して全土に非常事態宣言と戒厳令を発令するとい
う事実上のクーデターをおこなった(en:Pakistani state of emergency, 2007)。ムシャラフは、11月28
日に陸軍参謀総長を辞職して、29日に文民として大統領に就任し、11月に発令した非常事態宣言を12月16日
に解除するとテレビを通じて発表した。米国の支援を受けて11月にベーナズィール・ブットーが帰国するも、
12月27日、演説終了後会場にて暗殺された(ベーナズィール・ブットー暗殺事件(英語版))。2007年、イ
ギリス連邦の資格停止。
 2008年1月8日に、現憲法下で「自由で透明性のある方法」で総選挙を実施すると公約した。2月18日、パ
キスタン下院・4州議会議員選挙が行われた(2008年のパキスタン下院総選挙(英語版))。登録有権者は
8,091万人。下院定数342のうち、女性60、非イスラム教徒10が留保される。342から留保の70を除いた272議
席が直接投票で選挙区制の一般選挙区で選出され、70の留保議席が各党に割りあたえられる。与党パキスタ
ン・ムスリム連盟カーイデ・アーザム派(PML-Q)と野党パキスタン人民党(PPP)、パキスタン・ムスリム
連盟ナワーズ・シャリーフ派(PML-N)の3党が中心となって議席が争われた。因みに、上院は100議席で、
州議会議員等による間接選挙で選出される。総選挙の結果は、第1党はパキスタン人民党、第2党はムスリム
連盟シャリーフ派、次は与党だったムスリム連盟である。他にムッタヒダ国民運動(MQM)、アワーミー国
民党(ANP)などがある。3月24日、パキスタン国民議会は、議員投票でユースフ・ラザー・ギーラーニー
(就任時55歳)を首相に選出した。ギーラーニーは264票の圧倒的な支持を得た。人民党と連立するムスリ
ム連盟シャリーフ派などの反ムシャラフ派は、下院議員のほぼ三分の二を占めた。5月、イギリス連邦復帰。
8月18日、それらの影響を受けムシャラフ大統領はついに辞意を表明した。

  ザルダーリー大統領時代

 2008年9月6日、パキスタン国民議会上下両院と4州議会の議員投票にてパキスタン大統領選挙(英語版)
が行われ、パキスタン人民党総裁のアースィフ・アリー・ザルダーリーが新大統領に選出された。 2010年、
パキスタン水害(en:2010 Pakistan floods)。 2011年1月2日、ムッタヒダ国民運動 (MQM) が連立から離
脱を表明。ギーラーニー連立政権は下院(定数342)で過半数を割り込むことになった。MQM(下院25議席)
は声明で「上下院とも野党席に座る決定をした」と表明。政府による石油製品の値上げなどを理由に挙げて
いる。 5月2日、アボッターバードでウサーマ・ビン・ラーディンの殺害が確認された。 11月26日、国際治
安支援部隊(ISAF、アフガニスタン駐留)の北大西洋条約機構 (NATO) 軍が北西部の検問所2カ所を越境攻
撃し、兵士28人が死亡した。この事態に対してギーラーニー首相は内閣国防委員会を招集し、同委員会は
NATO・ISAFの補給経路を遮断したほか、南西部バルチスタン州の米軍無人機攻撃の拠点シャムシ空軍基地か
ら15日以内に立ち退くよう米国に求めた。 2012年2月13日、ザルダーリー大統領の汚職事件を巡って、パキ
スタン最高裁判所(英語版)がギーラーニー首相を法廷侮辱罪で起訴し、6月19日にギーラーニー首相が退
任し、後任の首相にラージャ・パルヴェーズ・アシュラフ(英語版)が就任した。
 2013年5月13日のパキスタン下院総選挙(英語版)でパキスタン・ムスリム連盟シャリーフ派が勝利し、6
月5日にナワーズ・シャリーフが首相に就任。

  政治

 連邦共和制。4つの州と連邦首都イスラマバード及び連邦直轄地から成る連邦国家。インドとの対立関係
もあり、伝統的に軍部の力が強い。対照的に政党の力は弱い。独立以来クーデターが繰り返され、政局は常
に不安定である。地方においては部族制社会の伝統が根強く、特に連邦直轄部族地域にその傾向が著しい。
また、南西部のバローチスターン州ではイギリス植民地時代からの独立運動が根強い。パキスタン憲法は、
連邦直轄部族地域では大統領が指示しない限り、パキスタンの法律が適用されない旨規定しており、部族地
域は強い自治権を有している。法律に代わるものとしてパシュトゥン・ワリというパシュトゥン民族の慣習
法が適用されている。

  外交政策

 独立以来、アメリカ合衆国と中華人民共和国との協力・同盟関係を維持しながら、カシミール問題で激し
く争うインドに対抗するのがパキスタンの外交政策の全体的傾向とされる。

  対日関係

 日本との関係は1958年の外交関係樹立以来おおむね良好であったが、1998年のパキスタンの核実験を機に
関係は悪化、当時の橋本内閣は遺憾を表明、さらに対パキスタン無償資金協力、新規円借款を停止し、その
他の援助も見合わせるなどの制裁を行った。
 2002年にはムシャラフ大統領が来日した。2005年4月には小泉純一郎首相が日本の首相として5年ぶりにパ
キスタンを訪問し、核実験以来停止されていた有償資金援助が開始された。
 また、貿易収支は日本側の大幅な黒字であり、日本からの投資はインドと比較するとかなり少ない。これ
は不安定な政治とインフレ経済が嫌われたものである。

  対印関係

 独立の経緯以来、インドとの間では緊張関係が継続している。北東部のカシミール地方の所属を巡って1948
年に勃発した第一次印パ戦争以来3度の全面戦争(印パ戦争)を経験し、特に1971年の第三次印パ戦争での大敗
により、独立運動に呼応したインド軍の侵攻を受けた東パキスタンをバングラデシュとして失うことになった。
その後もインドとの間では常に緊張関係が続き、軍事境界線で南北に分断されたカシミールでは両国軍の間
で死者を伴う散発的な衝突が日常化していた。
 1998年には、インドに対抗して、カーン博士の指導のもと、地下核実験やミサイル発射実験などを実施、
インドと共に核保有国の一つとなる。
 一方でムシャラフ前政権は南アジア地域協力連合を通じた緊張緩和に努めており、2004年から和平協議が
もたれている等、その成果は徐々に現れてきていた。2008年11月のインド西部ムンバイでの同時爆破テロに
よって和平協議は一時中断したが、2010年4月、両国首脳がブータンで会談し、外相会談を開催することで
合意し、公式の対話を再開、維持することを決めた。6月には外務次官級協議と内相会談を実施している。7
月15日には、インドのクリシュナ外相とパキスタンのクレシ外相会談が、パキスタンのイスラマバードで行
われた。2011年2月、対話再開で合意している。

  対米関係

 パキスタンは独立以来、アメリカ合衆国の軍事支援を受け入れている。アメリカにとっては非同盟主義の
インドと友好関係が深いソビエト連邦への対抗上、またイスラム革命を起こしてアメリカと激しく対立する
イランの封じ込め策として、パキスタンは重要な支援対象国家である。パキスタン側もこの点は承知してお
り、クーデターなどで政権交代が起こっても親米路線は堅持されている。しかしながら、近年、テロとの闘
いにおいて、米国はパキスタンの一部(特に、部族地域)がタリバンなどの武装勢力の聖域になっているこ
と、パキスタンがそうした武装勢力に対し十分な戦闘や対策を取っておらず、むしろ、パキスタンの一部
(特に、軍統合情報局ISI)はいまだにタリバンなどを非公式に支援していると見られていることに不満を
持ち、一方でパキスタンは、米国がパキスタン国内での無人機攻撃など主権侵害を継続していることに不満
を持ち、両国関係は冷却化した。両国の不信感は根深いものがある。
 1990年、東西冷戦の終結が唱えられる中、アメリカのジョージ・H・W・ブッシュ政権はパキスタンによる
核開発疑惑を理由に軍事援助を停止したが、1996年にはビル・クリントン政権によって再開されている。
 2001年9月11日の米国同時多発テロ事件を受けて、米国はパキスタンに対しアル・カーイダをかくまうタ
ーリバーンとの関係を断ち、米国に協力することを迫った。パキスタンにとってターリバーンはインドとの
対抗上、重要であったが、ターリバーンを支援し続けることによる国際的孤立を恐れ、また、米国に協力す
ることに伴う経済支援等の見返りを期待し、ムシャラフ大統領は米国への協力を決断した。これに対し、パ
キスタン国内では反米デモが生じ、ムシャラフ政権は苦しい立場に立たされた。

 対アフガン関係

 アフガニスタンに関しては、インドとの対抗上、アフガニスタンに親パキスタン政権が存在することが望
ましく、1979年に始まったソビエト連邦のアフガニスタン侵攻後、パキスタンは反政府武装勢力ムジャーヒ
ディーンを支援した。ソ連軍撤退後の内戦では、パキスタン軍統合情報局は当初、ヘクマティヤール派を支
援し、それがうまくいかなくなると、厳格なイスラム原理主義のターリバーンを育て政権樹立まで強力に支
援したといわれている。
 しかし、ターリバーンがかくまうアルカーイダがアメリカ同時多発テロ事件を起こした事から始まった
2001年のターリバーン政権への攻撃ではムシャラフ政権がアメリカと有志連合諸国支持を表明し、ジョージ・
ウォーカー・ブッシュ政権からF-16戦闘機供与を含む巨額の軍事・経済援助を受けた。これに対し、イスラ
ム原理主義者をはじめ、イスラム教徒に対するキリスト教国の攻撃に反感を持つ多くの国民から不満が増大
し、パキスタン国内では多くの抗議行動が起こった。また、アフガニスタンを追われたターリバーン勢力は
連邦直轄部族地域に浸透し、パキスタン軍やアメリカ軍との戦闘が継続されている。
 2010年8月31日、パキスタン軍機がアフガニスタン国境付近(パキスタン北部カイバル・パクトゥンクワ
州ペシャーワルなど)の部族地域を空爆し、イスラム過激派が少なくとも30人死亡し、過激派の隠れ家や訓
練施設、自爆テロに使用する予定の車両8台も破壊した、と同国治安当局者が語った。
 2011年5月1日、首都イスラマバード郊外の住居でアルカーイダの指導者ウサーマ・ビン・ラーディンが米
海軍特殊部隊SEALsに急襲された。ビンラーディンは頭部を撃たれ死亡、遺体は米軍により確保されたとオ
バマ米大統領より発表された。

  対中関係

 また、中華人民共和国との関係も深く、印パ戦争でも支援国だった。中国とはインドへの対抗で利害が一
致しており、パキスタンはミサイル技術供与などの軍事援助などを受け、通信衛星打ち上げや原子力発電所
の建設支援などで合意している。このような両国の同盟関係を「全天候型友好」関係と呼ばれている。2011
年5月にウサーマ・ビン・ラーディンがパキスタン国内で殺害されて以降は、米国との関係は悪化しており、
中国との関係は近年さらに緊密なものとなっている。パキスタンの中国への急接近は南アジアでの中国の影
響力拡大を懸念する米国へのけん制との見方もある。
 また、ギルギット・バルティスタン州と中国の新疆ウイグル自治区との間はカラコルム・ハイウェイで結
ばれており、トラック輸送による国境貿易が行われている。中国とパキスタンの間では自由貿易協定が締結
されており、パキスタンは安い中国製品を多く輸入し、多数の中国企業が進出している。逆にパキスタンの
最大の輸出相手は中国である。
 中国とのビジネスが拡大していることから、パキスタン国内では中国語ブームが起きている。イスラマバ
ード市内の私立高校では中国語を必修科目に導入し、パキスタン企業の間でも中国語研修を行う企業が増え
ている。パキスタン政府も中国との関係強化と中国企業にパキスタン人を雇用させるというの観点からこう
した動きを後押しし、アースィフ・アリー・ザルダーリー大統領も出身地であるシンド州にある全ての小中
学校で、2011年から2年以内に英語、ウルドゥー語、アラビア語、シンド語に次いで中国語も必修科目に義
務づけると発表した。しかし、教育現場の混乱や生徒への負担、中国語を教える教師の数が不足しているこ
となどを理由にシンド州教育省は中国語を必修では無く、選択科目として緩やかに導入していくことで計画
を修正している。

  軍事

 陸軍、海軍、空軍のほか、沿岸警備隊、さらに国境警備、治安維持用の準軍事組織を有する。印パ戦争・
カシミール紛争が繰り返されたことからインドと軍事的な対立関係にある。
 パキスタンは核拡散防止条約(NPT)に加盟しておらず、1998年のパキスタンの核実験 (1998年)以後は核
兵器を保有している。

  地方行政区分

  4つの州と、2つの連邦直轄地区に分かれる。

  州

  バローチスターン州
  カイバル・パクトゥンクワ州
  パンジャーブ州
  シンド州

  連邦直轄地区

  イスラマバード首都圏
  連邦直轄部族地域 (FATA)

  その他、カシミール地方におけるパキスタンの実効支配領域は、2つの行政区に分かれる。

  アザド・カシミール
  ギルギット・バルティスタン州

  主要都市

 カラチはパキスタン最大の都市であり、都市圏人口が1,000万人を超える世界有数のメガシティである。
 人口100万人以上の都市が7都市ある。人口順では、カラチ(933万9,000人、1998年)、ラホール(514万
3,000人)、ファイサラバード(200万9,000人)、ラワルピンディ(141万人)、ムルターン(119万7,000
人)など。首都イスラマバード(52万9,000人)は人口順では10番目に位置する。

  イスラマバード(イスラマバード首都圏、首都)
  カラチ(シンド州の州都)
  ラーホール(パンジャーブ州の州都)
  ファイサラーバード(パンジャーブ州)
  ペシャーワル(カイバル・パクトゥンクワ州の州都)
  ラーワルピンディー(イスラマバード首都圏)
  クエッタ(バローチスターン州の州都)
  ムルターン(パンジャーブ州ムルターン県の県都)

  地理

 国土の北部には世界の屋根カラコルム山脈とヒンズークシ山脈が連なり、K2(標高8,611m)とナンガ・パ
ルバット(標高8,126m)がそびえる。国の中央を南北に走るのはスライマン山脈である。アフガニスタン国
境はカイバル峠、インドとの国境には大インド砂漠(タール砂漠)が広がり、その南にはカッチ大湿地が分
布する。北部高地からアラビア海(インド洋)に流れ出すインダス川は流域に主要な平野(北のパンジャブ、
南のシンド)を形成する。
 パキスタンには四季があり、12月から2月が冷涼乾燥な冬、3月から5月が高温乾燥の春、6月から9月が高
温多雨・モンスーンの夏、10月から11月が移行期の秋である。この時期は地域によって若干異なり、洪水と
旱魃がしばしば生じる。
 気候は、中南部が砂漠気候 (BW)、北部がステップ気候 (BS)、北部山岳地帯が温帯夏雨気候 (Cw) となっ
ている。国花はジャスミンである。

  経済

 IMFの統計によると、2013年のパキスタンのGDPは2,387億ドル。一人当たりのGDPは1,307ドルであり、世
界平均のおよそ10%の水準である。2011年にアジア開発銀行が公表した資料によると、1日2ドル未満で暮ら
す貧困層は9,710万人と推定されており、国民の半数を超えている。
 主要産業は、農業や綿工業。特にパンジャーブ地方で小麦の生産が盛んで世界生産量第4位である。輸出
品としては米がトップで輸出の11.2%を占め、ついで綿布、ニット、ベッドウェア、綿糸、既製服といった
繊維製品が続く。
 2011年に、政府はインドとの交易関係を正常化し、インドへの貿易上の「最恵国待遇」付与を目指す方針
を明らかにした。インドは1996年にパキスタンに同待遇を付与している。またインドが含まれるBRICsの次
に経済の急成長が期待できるNEXT11のうちの一つでもあり、国民の多くは食糧難であるが、人口増加率が高
いため若年層も多く、今後経済的に期待できる国といえる。
 通貨はパキスタン・ルピー(1ルピー=100パイサ、硬貨の種類は5パイサ、10パイサ、25パイサ、50パイサ、
1ルピー、5ルピーの6種類、紙幣は、2ルピー、5ルピー、10ルピー、20ルピー、50ルピー、100ルピー、500ル
ピー、1,000ルピー、5,000ルピーの8種類)。

  国民

  人口:2005年に1億6千万人を超えた。現在、約1億8,800万人。2003年以降の人口増加が顕著なのは、戦
     闘が続く隣国アフガニスタン他からの移民が急増したためと見られる。その数は累計で凡そ600
     万人と言われる。また出生率も高く、国連の推計では2050年には約3億4,000万人にまで増加し、
     インドネシア(2050年に約2億9,000万人)とブラジル (2億3,000万人)を抜き、中国・インド・
     米国に次ぐ世界第4位の人口大国になると予想されている。

  2004年:1億5,919万人(前年比1,016万増)
  2003年:1億4,903万人(前年比307万増)
  2002年:1億4,596万人(前々年比1,146万増)
  2000年:1億3,450万人
  1991年:1億1,552万人

  人口密度

  182人/平方キロメートル(2001年)、145人/平方キロメートル(1991年)

  民族構成

 パンジャーブ人56%(60%とも)、パシュトゥーン人16%(13%とも)、シンド人(英語版)13%、 バローチ
人(英語版)4%、カラシュ人など。

  宗教

 イスラム教97%(国教)、ヒンドゥー教1.5% 、キリスト教1.3%、ゾロアスター教0.2%など、ほかにアニミ
ストも存在している。

  言語

 ウルドゥー語(国語)、英語(公用語)、パンジャーブ語、シンディー語など。現行の1973年憲法251条
はパキスタンの国語をウルドゥー語としており、1988年までに英語に代えてウルドゥー語を公用語化するこ
とになっていたが、2004年現在も実現にいたっていない。同時にウルドゥー語が公用語化されるまでは英語
を公用語とする旨規定している。憲法を始めとする全ての法令や、公文書は英語で書かれている。政府の公
式ウェブサイトは英語でだけ書かれている。全ての高等教育機関が英語を教授言語としている。ただ、ほと
んどの初等中等教育はウルドゥー語で行われているため、英語を自由に操るパキスタン国民はあまり多くな
い。母語を異にするもの同士が会話する時は、ウルドゥー語を用いることが多い。ウルドゥー語を母語にす
るパキスタン人は全人口の一割以下である。ウルドゥー語は北部諸語とはやや近いもののシンド語とは離れ
ており、さらに南部でウルドゥー語を母語とするモハジール人(パキスタン独立時にインドから逃れてきた
難民の子孫)とシンド人との間に対立があるため、ウルドゥー語の公用語化には特に南部で反対が強い。

  文化

 著名な遺跡として世界遺産になっているモヘンジョ・ダロ遺跡とクシャーナ朝時代に繁栄したタキシラの
都市遺跡がある。ほかにインダス文明の遺跡として標式遺跡となったハラッパー遺跡がある。
 古典音楽は北インドと同じヒンドゥースターニー音楽。イスラム神秘主義の宗教歌謡カッワーリーの大歌
手ヌスラト・ファテー・アリー・ハーンは、パンジャーブ地方で生まれている。

  祝祭日:割愛

  世界遺産

  パキスタン国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が6件存在する。

  人権

 パキスタンは守旧的イスラームに基づく国家であり、憲法で公式にイスラームの理念にのっとった政治を
行うことを宣言し、イスラム法の強い影響を受けた法を施行するという点でイスラム国家としての色彩が強
い。そのためさまざまな人権侵害があると指摘されている。
 パキスタンではイスラム教徒・非イスラム教徒を問わず、イスラームやムハンマド、コーランに対する批
判は禁止されており、言論の自由はない。違反した場合投獄や死刑に処される。またイスラム教徒が他の宗
教に改宗することも国法で禁止されており、違反した場合死刑である。2008年6月にはコーランを焼却し、
ムハンマドを批判したとしてイスラム教徒の男性に死刑が宣告された。
 パキスタンは死刑存置国であり、2014年6月、スイス・ジュネーブで開催された国連人権理事会の会合に
おいて提出された「死刑制度のある国に死刑囚の権利保護を求める決議案」に日本、中国、インド、サウジ
アラビアなどとともに反対するなど死刑維持の姿勢を取っているが、一方で2009年以降、国法上の死刑の執
行自体は凍結していた。 しかし2014年12月、北西部のペシャワルで軍が運営する学校をイスラム過激派反
政府武装勢力「パキスタン・タリバーン運動(TTP)」が襲撃し、教師・児童・生徒ら140名以上が殺害され
るテロ事件が起こったことを受け、ナワーズ・シャリーフ首相は死刑執行凍結措置の解除を承認・指示し、
過激派に対し厳しく対処する姿勢を打ち出した。
 また国法とは別に、慣習法による人権侵害も深刻である。例を挙げれば、婚前交渉を行った女性を家族の
名誉を汚したとして処刑する名誉の殺人があり、山岳部を中心に横行している。

  災害

 2005年10月8日、パキスタン北東部カシミール地方・インド国境付近を震源とするマグニチュード7.8の大
地震(パキスタン地震)が発生し、死者9万人以上の大災害となった。カシミール地方を中心に被害が相次
いだほか、首都イスラマバードでも高層アパートが崩壊した。
 2010年7月末、カイバル・パクトゥンクワ州で大規模な洪水が起こり、パンジャブ州、シンド州にも広が
った。被災者1,400万人、死者1,200人以上の大災害になっており、少なくとも200万人が家庭を失っている。
国連人道問題調整事務所(OCHA)は、被災地の一部では下痢などの疾病が広がっているとしている。欧米メ
ディアが2010年8月16日、大規模な洪水により飲料水が汚染され、伝染病の流行の可能性が高まり、約350万
人の子どもが感染の危機にさらされていると国連人道問題調整事務所(OCHA) の報道官の話として報道した。
 北澤俊美防衛大臣は8月20日夕方、国際緊急援助隊派遣法に基づく派遣命令を発出した。8月23日以降陸上
自衛隊第4師団を主力とした部隊が派遣され、復興活動を行った。10月10日(現地時間)をもって活動終結。
 7月の洪水で、国土(79.6万平方キロ)の約2割が被害を受け、死者約2千人、家屋174万軒損壊(国家災害
管理庁)た。12月時点でも一部地域が冠水している。シンド州の約4,200平方キロ(福井県に相当)が冠水、
19万人が国内避難民と成っている。

 ********************************************


 パキスタンで最も印象が強いのは、印パ戦争でしょうか。また、日本人の商社マンの行きたがらない土地
として、ラホールの名前が挙がっていたことを覚えています。インドと比べると、よく分からない国という
のが正直なところでしょう(もちろん、インドはよく分かっているわけではありません)。

 参考映画(「日日是労働セレクト10」より)

 3本目は『乱れ雲』(監督:成瀬巳喜男、東宝、1967年)である。司葉子、加山雄三、草笛光子、森光子、
浜美枝、加東大介、土屋嘉男、藤木悠、中丸忠雄、中村伸郎、十朱久雄、浦辺粂子、左卜全などが出演して
いる。物語は、通商産業省の通産事務次官である江田宏(多分、土屋嘉男だと思う)に、「在アメリカ合衆
国大使館付き一等書記官を命ずる」という「人事異動通知書(辞令)」が下りるところから始まる。いわゆ
る立身出世への第一歩である。妻の由美子(司葉子)は大喜びである。しかも彼女は妊娠しており、この夫
婦は喜びの二重奏に浸っているという設定である。しかし、好事魔多し、姉(草笛光子)の団地で、義兄の
石川(藤木悠)や一人息子と食事をともにした後、夫である宏が箱根で死亡したという電話連絡が姉夫婦の
団地に届く。車に轢かれたとの由。葬式の日、夫を轢き殺した当の本人が焼香に来る。明治貿易株式会社の
独身係長である三島史郎(加山雄三)である。彼は藤原部長(中丸忠雄)に付き添われて来たが、事故に関
しては不可抗力だと信じている。裁判でも「無罪」となるが、人間的な責任は感じており、補償もしたいと
言う。この場合、観ている者の目にはどちらも不幸に映る。被害者の由美子は、遺族年金を欲しがる嫁ぎ先
から離籍を迫られる。さらに、生命保険には入っていなかったらしく、加害者からの示談金「月一万五千円」
ぐらいではとても食べていけないので、子どもを堕ろして働きに出るが(不動産屋、喫茶店)、思うように
はいかない。やがて、旧姓の四戸(しのへ)に戻り、十和田湖の近くの実家の旅館に舞い戻る。加害者の三
島は、常務(中村伸郎)から「待命休職」を受け、やがて青森出張所に左遷される。常務の娘(浜美枝)と
の婚約も解消される。この時代には契約を取るための「売春斡旋」は日常茶飯事で、江田宏を轢いたとき、
契約先のミスター・ベネットだけではなく、コールガールも同乗していたのである。これは明らかに会社命
令でしたことなのに、常務は業界紙に嗅ぎ回られたことを不快に思っている。サラリーマンの辛いところで
ある。したがって、被害者も加害者も、奇しくも同じ青森に行くことになるのである。由美子は史郎に対し
て、いつまでも葬式の席で見せた「憎しみの眼」を向ける。史郎は「どうしたら償うことができるのか」と
迫るが、由美子はもう示談金を受け取ることをやめて、お互いに過去を忘れることにしようと提案する。史
郎の母親(浦辺粂子)が由美子を訪ねて「史郎を赦してくれ」と頼むが由美子は頑なである。
 さて、姉である勝子(森光子)が経営する旅館には、死んだ夫の代わりとして林田という男(加東大介)
が出入りしている。仲は悪くはないが、林田にはまだ妻がいることから、そのことで二人は始終喧嘩をする。
また、林田の仕事の関係で、営林署の男鰥と交際したらどうかと由美子は口説かれている。もちろん、そん
な話には乗らない。そんなある日、史郎が客の接待のためにしのへ旅館を用いる。このとき、史郎は転勤を
口にする。行き先は西パキスタン(当時、現在のバングラデシュは東パキスタンと呼ばれ、パキスタンはイ
ンドを挟んで飛地国であった)のラホールだという。由美子は夫が通産省の輸出促進課にいたことから、誰
もが海外出張を命じられたくない地名として、ダッカ、カラチ、ラゴス、サイゴンとともにラホールがその
中に入っていることを知っていた。史郎は、「もうお別れだから、十和田湖を案内してくれ」と言う。山菜
摘みでの出会いですでに接近していた二人は束の間のデートをすることになる。そこで熱を出した史郎を夜
通し看病する由美子。実は、この時点で史郎の情熱に惹かれはじめていたのである。しかし、自動車事故を
目撃した二人は、やはり一緒にはなれないことを覚る。哀しいが、分別くさい別れが来る。この作品は成瀬
巳喜男の遺作だそうである。物語の流れはやや不自然であるが、落ち着いた大人の悲恋に仕上がっている。


 ********************************************

 第4章 硫酸に焼かれた女性たち ── パキスタン(つづき)

p.107 ・パキスタンでは、硫酸被害はそれほど珍しいことではない。そう語るセイダに会ったのは2010年
    7月。
    ・Acid Survivors Foindation(ASF)の存在。ここでは、カウンセリングや手術を受ける硫酸被害
     者たちが、ひっそりと暮らしていた。
    ・引用:「パキスタンでは、結婚や交際を拒否したり、浮気の疑いをかけられたりした女性が、名
         誉を傷つけられたとする男や近親者から報復として顔に硫酸をかけられる事件が後を絶
         たない。何も理由がなくとも、家庭内暴力(DV)のなかで被害に遭うこともある」。
    ・初めて被害が報告されたのは1967年。ASFの調査によれば、被害者数は年々増加傾向にあり、
     年間150?300人。その大半が十代の女性たち。しかし、これは氷山の一角。

p.108 ・硫酸がどれだけ顔を傷つけるか以上に、被害者たちの日常の暮らしが知りたいと思った著者。た
    だし、被写体の生活に入り込むには根気がいる。

p.109 ・教育、価値観、育った文化の違い。

p.110 ・セイダはほとんど教育を受けたことのない22歳の女性。
    ・彼女は、2008年2月3日未明、午前3時ころに突然、夫のビハール(45歳)に硫酸をかけられた。結
    婚からわずか4カ月のことであった。日常的な暴力に耐えきれず、パキスタン東部の村から北西部
    の母の住む実家に避難した矢先のことだった。

p.111 ・さまざまな理由から、加害者が有害になるケースは滅多にない。
    ・硫酸による暴力は、パキスタン以外にも、バングラデシュ、アフガニスタン、カンボジア、ウガ
    ンダなどの国々でも多く発生している。その他、インド、ネパールなどが、以下の記事に挙がって
    いる。

  Acid attack(Acid throwing)出典:www.moviezadda.com〔Taslima Nasreenさんの記事より〕

  Taslima Nasreen:1962年8月25日生。ベンガル語の著者。女性からの視点、見解を説き、また、特にイ
          スラム教への批判により、世界的な名声を得た。1994年に、度重なる脅迫の為にバン
          グラディシュを脱出してからは、数々の国に移り住む。公開講義、キャンペーン等で
          世俗的ヒューマニズムのためのサポート、思想の自由、女性のための平等、人権の構
          築に努めている。

  「男性達は、私達が交際を断ったから、セクシャル・ハラスメントや性的な行為、求婚を拒否した
   から、結婚持参金の要求などの理由で怒りを抱き、私達にアシッドを投げかけます(“Men throw
   acid on us because men are angry with us for ending relationships and for refusing
   sexual harassment, sexual exploitation, proposals of marriage, demands for dowry.”)」。

     * exploitation:1. 活用; 《天然資源の》開発; 《商品などの》市場性開発, 宣伝; ニュース
               性の利用.
          2.私利をはかる利用, 搾取; 【生態】 《異種生物間での》搾取作用, とり
               こみ.
           ・sexual exploitation 性的搾取《特に子供を売春・ポルノそのほか性を売
               り物にする活動に従事させること》(from KOD).
      dowry:《新婦の》結婚持参金, 嫁資 (marriage portion); 【キ教】 《修道女の》持参金[財
          産]; 天賦の才能; 《古》 寡婦産 (widow's dower); 新郎から新婦の父への贈り物;
         《古》 新郎から新婦への贈り物.

  ・硝酸、硫酸、塩酸、バッテリー液などを使ったアシッド・アタック。Taslima Nasreenさんは、パキ
   スタン、バングラディシュ、インド、アフガニスタン、ネパール、カンボジアなどの国々では、ア
   シッド・アタックはよくある事件だと語る。

   「彼らは私達が学校に行くから、イスラム教のベールを被らないから、言う事をきかないから、喋り
    すぎるから、大声で笑うからという理由でアシッドを投げかけるのです(“They throw acid on
    us for attending schools, for not wearing Islamic veils, for not behaving well, for     
    speaking too much, for laughing loudly.”)」。

  ・アシッド・アタックは、人々の外見を損なったり全盲にしたりするだけではありません。家庭の崩壊、
   夫は妻を捨てて出て行く、子供たちは両親から引き離される、一晩で仕事はなくなり、プロフェッシ
   ョナルが物乞いになる。多くの被害者たちは誰かの助けを受けなければ日常生活を送れず、家族の負
   担になってしまう。皆が、のけ者になってしまうのです。

  ・現在16歳のNajaf Sultanaさんは5歳の時、寝ている時に父親にアシッドをかけられ、全盲になる。

p.112 ・さまざまな《acid attack》のケース。

p.113 ・引用:「被害者たちにとって、事件後の恋愛、結婚、就職は困難になる。加害者にとって、それ
         が狙いなのだ。一生元通りにならない深い傷を相手に残し、苦しませることが目的なの 
         だ」。

p.114 ・被害に遭う前の写真を大切にしているナイラ。

p.131 ・誰に対しても寛容であるべきかもしれないが、硫酸をかけたあの男だけは許さない。
    ・家族にも深刻に被害が波及する《acid attack》。→ 加害者に刑事罰が下される。
    ・ナイラには、弁護士になって、同じ硫酸被害に苦しむ女性の権利を守りたいという夢がある。

p.132 ・ムルタンでは、洗剤や農薬の一部として硫酸が一般的に使用されているため、容易に入手できる。
    ・バングラディッシュでは、この手の犯罪へ重罪を科す措置と、硫酸の販売の厳しい規制を行い、
     その結果、硫酸による事件は半分に激減している。パキスタンでも同じような法律を適用させる
     べきだとする意見が出ている。
    ・硫酸の凄まじい威力。

    参考:王水(aqua regia):濃塩酸と濃硝酸とを3:1の体積比で混合してできる橙赤色の液体。塩
                 化アンモニウムと硝酸アンモニウムとを目分量1:3の混合比としたも
                 のは「固体王水」とよばれ、粉末試験法においてほとんどの金属酸化
                 物を混合し加熱することにより塩化することができる。また、濃塩酸
                 と濃硝酸とを1:3の混合比としたものは「逆王水」とよばれ、分析化
                 学において金属の溶解などに用いる。

  性質

  酸化力が非常に強く、王水との反応で生じた金属化合物はその金属の最高酸化数を示す。また、通
 常の酸には溶けない金や白金などの貴金属も溶解できる。ただしタンタル、イリジウムは酸に対して
 の耐性が極めて高いため溶解できない(イリジウムは粉末にすればわずかに溶ける)。また、銀もほ
 とんど溶けない(王水と反応してできる塩化銀 (AgCl) が表面に膜をつくり、反応の進行を妨げる)。
 ルテニウム、ロジウム、オスミウムとは反応するが、反応速度は低く、徐々に侵される。
  腐食性が非常に強いため、人体にとっては極めて有害である。日本では毒物及び劇物取締法により
 10 %を超える塩化水素の製剤として劇物となる。

p.135 ・「私とは人生が違う」と言われた著者。

p.136 ・著者と被写体との間にある「壁」の存在。

p.138 ・全男性を拒否するセイダ。

p.142 ・お土産の挿話。

p.146 ・硫酸被害直後の悲惨さ。

p.150 ・引用「顔が損壊される、女性にとってこれほど屈辱的な暴力はあるだろうか。硫酸被害の女性た
        ちの苦しみは一生消えることはない」。

 ********************************************


 世の中には、言葉を失うほどの悲惨さが見出されますが、《acid attack》もその一つでしょう。被害者
はもちろんですが、そんなことをしてしまう加害者の悲惨さも見逃せません。人間に対する拭いようのない
不信感を解消する道はどこにあるのでしょうか。

                                                 
 2016年2月16日(火)

 今日も、ネットの記事などを絡めながら、『フォト・ドキュメンタリー 人間の尊厳 ── いま、この世
界の片隅で』(林典子 著、岩波新書、2014年)から、要点を抜書したいと思います。


 ********************************************

 第3章 HIVと共に生きる ── カンボジア

 ・カンボジアとは?

  (ウィキペディアより)

  カンボジア王国(カンボジアおうこく)、通称カンボジアは、東南アジアのインドシナ半島南部に位置
 する立憲君主制国家。ASEAN加盟国、通貨はリエル、人口1,513万人、首都はプノンペン。1970年にカンボ
 ジア王国が倒れてから勃発したカンボジア内戦を経て、1993年に誕生した。
  南はタイランド湾に面し、西はタイ、北はラオス、東はベトナムと国境を接する。国民の90%以上が、
 クメール語(カンボジア語)を話し、仏教(上座部仏教)を奉ずるクメール人(カンボジア人)である。

  国名

  正式名称は、クメール語で〔原語は割愛〕(発音:プレアリアチアナーチャッカンプチア、ラテン文字
 表記:割愛)。プレアは王の称号。リアチアは王、ナーチャックは国で、両方合わせたリアチアナーチャ
 ックは王国と言う意味。隣国のタイの正式名称とよく似ている。
  公式の英語表記は、Kingdom of Cambodia(キングダム・ァヴ・カンボゥディア)。略称は、Cambodia。
  日本語表記は、カンボジア王国、通称は、カンボジア。漢語表記は柬埔寨(広東語発音でGan-pou-chia[k],
 北京語発音でJien1-puu3-chai2)。カンボジアでは自分の国を「カンプチャ」と呼んでいて、建国者とい
 われるインドのバラモン僧「カンプー」とその子孫を意味する「チャ」に由来するとされる。
  カンボジア華人の間では、高棉(漢語発音:割愛)と呼ぶ人もいる。

  歴史

  古代

  クメール朝

  アンコールワットはアンコール遺跡の一つで、カンボジア国旗の中央にも同国の象徴として描かれてい
 る。9世紀初頭にクメール王朝が成立し、12世紀から13世紀にかけて最盛期を迎え、アンコール遺跡が建
 造された。

  カンボジアの暗黒時代

  16世紀ごろに、ポルトガルの商人やカトリック教会の宣教師が最初にカンボジアに到来した西洋人であ
 ったと考えられている。続いてスペイン人、オランダ人、17世紀半ばからフランス人が到来した。

  保護国時代

  1863年にフランス帝国の保護国となり、1887年にフランス領インドシナの一部となった。フランス保護
 下でも形式的に王国体制は存続し、1904年にシソワット王が、1927年にシソワット・モニヴォン王が即位
 した。シソワット・モニヴォン王の下で1940年から1941年にかけての間に、タイ・フランス領インドシナ
 紛争が勃発し、東京条約によってフランス領インドシナを構成していたカンボジアのナコーン・チャンパ
 ーサック県(タイ語版)(現在のチャンパーサック県、プレアヴィヒア州)、ピブーンソンクラーム県
 (英語版)(現在のウドンメンチェイ州、シェムリアップ州、バンテイメンチェイ州)、プレアタボン県
 (英語版)(現在のバタンバン州)がタイ王国に割譲された。1941年に即位したノロドム・シハヌーク王
 の治下では、第二次世界大戦中に日本軍に占領されるも、明号作戦によってフランス領インドシナが解体
 された後、大戦末期の1945年3月13日に独立を宣言した。1945年8月にシハヌーク王を後見していた日本が
 連合国に敗北した後、フランス領に復帰するも、1949年にフランス連合の枠組みの中で独立を認められ、
 1953年に完全独立を達成した。

  独立と内戦

  独立後、南北に分断された隣国ベトナムでベトナム戦争が始まると国内は不安定化し、アメリカ合衆国
 と南北ベトナムの介入によってカンボジア内戦が勃発した。1968年にはアメリカ軍の空爆が始まり、1970
 年には親米派のロン・ノル将軍がクーデターによりシハヌーク国王を追放し、クメール共和国を樹立した。
  1970年のクメール共和国成立後、内戦は一層激化した。アメリカ軍による空爆がカンボジア全域に拡大
 され、数十万人が犠牲となると、反米を掲げるクメール・ルージュ勢力の伸張を招いた。更に、ロン・ノ
 ル将軍によるクーデター後、北京に亡命していたシハヌーク元国王も亡命先でカンプチア王国民族連合政
 府を樹立し、かつて敵対していたクメール・ルージュと共にロン・ノル政権を打倒する方針を打ち出して
 いた。
  1975年4月17日、極端な共産主義を掲げるクメール・ルージュのポル・ポト書記長がクメール共和国を
 打倒し、民主カンプチアを樹立した。クメール・ルージュの権力掌握から1979年1月6日の民主カンプチア
 崩壊までの3年8カ月20日間のポル・ポト政権下にて、原始共産制の実現を目指すクメール・ルージュの政
 策の下、旱魃、飢餓、疫病、虐殺などで100万人から200万人以上とも言われる死者が出た。この死者数は、
 1970年代前半の総人口は700-800万人だったとの推計の13-29%に当たり、思想改造の名の下で虐殺が行われ
 た。教師、医者、公務員、資本家、芸術家、宗教関係者、その他良識ある国民のほとんどが捕らえられて
 強制収容所に送られた。生きて強制収容所から出られたのはほんの一握りであった。それ故、正確な犠牲
 者数は判明しておらず、現在でも国土を掘り起こせば多くの遺体が発掘される。なお、内戦前の最後の国
 勢調査が1962年であり、それ以後の正確な人口動態がつかめておらず、死者の諸推計に大きく開きが出て
 いる。
  1978年12月25日に中ソ対立の文脈の中でソ連派のベトナム社会主義共和国の正規軍とカンプチア救国民
 族統一戦線が、対立していた中国派の民主カンプチアに侵攻し、翌1979年1月にポル・ポト政権を打倒し
 て親越派のヘン・サムリンを首班とするカンプチア人民共和国を樹立した(カンボジア・ベトナム戦争)。
 なお、このソ連派のベトナムによる中国派のカンボジアへの侵攻をきっかけに、同1979年2月に中華人民
 共和国がベトナムに侵攻し、中越戦争が勃発している。その後ポル・ポト派を含む三派とベトナム、ヘン・
 サムリン派との間で内戦が続いた。
  1982年6月、カンボジア・タイ国境地帯に逃れたポル・ポト派、クメール人民民族解放戦線(KPNLF、ソ
 ン・サン1979年10月結成)、独立・中立・平和・協力のカンボジアのための民族統一戦線(FUNCINPEC、
 シアヌーク1981年3月樹立)の三派が民主カンボジア連合政府を樹立した。人民革命党と反ベトナム三派
 の対立が継続する。1989年にベトナム軍が撤退、1991年10月にパリ和平協定が締結された。

  制憲議会発足

  1992年3月から国際連合カンボジア暫定統治機構による統治が開始され、1993年5月には国際連合の監視
 下で民主選挙が実施された。この時の国連の代表が日本の明石康である。6月2日、国連安全保障理事会は、
 選挙が自由・公正に行われたと宣言した。選挙結果を尊重するよう全会派に呼びかける決議をした。さら
 に6月10日には、選挙結果の確定を承認し、制憲議会を全面支持する旨を決議した。9月に制憲議会が新憲
 法を発布し立憲君主制を採択、ノロドム・シハヌークが国王に再即位した。憲法は「複数政党制に立脚し
 た自由な民主主義」を憲法原則の一つとした。制憲議会は国民議会に移行した。
  1999年4月に10番目の東南アジア諸国連合(ASEAN)加盟国となった。
  2009年12月18日、カンボジア特別法廷は、キュー・サムファン元国家幹部会議長を大虐殺(ジェノサイ
 ド)罪でも訴追することを通知した。法廷は、16日までにヌオン・チア元人民代表議会議長、イエン・サ
 リ元副首相の二人にも大虐殺罪適用を決定している。
  2013年カンボジア国民議会選挙では与党のカンボジア人民党が僅差でカンボジア救国党に勝利し、フン・
 セン首相の続投が決まった。

  政治

  政体

  国家体制は国王を元首とする立憲君主制である。現在の国王は2004年10月に即位したノロドム・シハモ
 ニ国王。

  行政(割愛)

  立法

  立法府たる議会は両院制を採用しており、定数123議席から成る国民議会(下院)議員は直接選挙で選
 出され、定数61議席から成る元老院(上院)議員は間接選挙と国王からの任命によって選出される。
  1998年7月末に総選挙が実施され、総議席数122で投票率90.7%で、人民党64議席(41.4%)、フンシンペ
 ック党43議席(31.7%)、サム・ランシー党15議席(14.3%)、その他議席なしで得票率13.6%。人民党が第
 一党になったが、フンシンペック党とサム・ランシー党選挙結果に異議申し立てていたこともあって、単
 独で組閣することができず(総議席の3分の2以上の信任票が必要とカンボジア王国憲法第90条)連立政権
 が成立した。
  2003年7月に総選挙が実施され、総議席123、投票率86.7%。人民党73議席(47.4%)、フンシンペック党
 26議席(20.8%)と大敗、サム・ランシー党24議席(21.9%)、その他なし(10.0%)。連立を巡り紆余曲
 折を経て、翌年7月にようやく2党連立の新政権が発足した。

  政党(割愛)

  憲法

  1993年、制憲議会を創設するための選挙が行われ、総議席数120で投票率89.04%で、人民党51議席(38.2
 %)、フンシンペック党58議席(45.5%)、仏教自由民主党10議席(3.8%)、自由モリナカ闘争1議席(1.4%)
 であった。制憲議会は、1993年9月の「カンボジア王国憲法」が発効を受けて国民議会に移行した。
  カンボジア王国憲法には、内政不干渉、紛争の平和的解決、永世中立が明記されている。

  法律

  カンボジアでは、クメール・ルージュ時代にほとんどの法律家(裁判官、検察官、弁護士)が殺害され、
 法律及びその資料も廃棄された。カンボジアが近代国家として再生、発展していくためには、0に近い状
 態から民法や民事訴訟法などの基本法典を整備し、それらを運用する裁判官、弁護士などの法律家を育成
 することが不可欠であり、日本はこれらの法整備支援を行っている。
  民事訴訟法は2007年7月から適用を開始しており、民法も2007年12月8日に公布され、2011年12月21日か
 ら適用が開始された。

  軍事

  カンボジア王国軍は陸軍、海軍、空軍の三軍から構成される。

  地理

  カンボジアの中心には湖と河川の複合体であるトンレサップ湖があり、その河川部分は国土の東部を縦
 貫する国際河川たる大河メコン川の支流となっており、水運と漁業・農業を支えている。この平野部にカ
 ンボジア人口の三分の一が居住している。トンレサップ湖の北辺にはクメール王朝の遺跡として世界的に
 有名なアンコール・ワットやアンコール・トムといったアンコール遺跡(1992年、世界遺産登録)が存在
 する。
  国土の大部分は海抜100m以下であるが、東北部にアンナン山脈(ラオス・ベトナム国境となる)につな
 がるモンドルキリ高原(モンドルキリ州)があり、北部には切り立ったダンレク山地(タイ東北部との国
 境付近)、プノンペン西方にカルダモン山脈(英語版)(クロワーニュ山脈)が連なり、その山系に最高
 峰アオラル山(1,813メートル)がある。

  気温と降雨量

  北緯11度から15度にまたがり、熱帯気候、モンスーン気候帯に属し、5月から10月が雨季(暖かく湿っ
 た南西の季節風)、11月から4月が乾季(乾いた浦東風が吹く)である。降雨のピークは9月(海岸地域は
 8月)。雨季にはタイ湾からの風で気温は22度Cまで下がり、乾季には北東風で40度Cまで上がる。プノン
 ペンでは、年間平均気温が27度、乾季と雨季の境目の4月が最高気温(35-25度)で、乾季の11月に最低気
 温(30-23度)である。 雨季のメコン川の増水でトンレサップ湖に逆流し、湖面積がほぼ10倍に拡大する。
  降雨量は地域によって差が大きい。その地域区分は、中南部の平野地域、トレンサップ湖地域、南西部
 の海岸地域、北東部の高原山岳地域の4地域である。海岸地域が最も年間降水量が多い。次いで高原地域
 がやや多い。これらの降雨量が農業生産を左右する最大の要因である。しかし、年間降雨量は年によって
 変わる。そして、雨季が始まってからの7月から8月にかけて1-2週間雨が降らないことを小乾季といい、
 この田植えの時期に小乾季が続くと作付や成育に大きな影響をもたらす。

  地雷

  カンボジア国内にはかつての内戦の影響で多くの地雷と不発弾が埋まっており、危険地域の多くには危
 険標識が立てられているものの、カンボジアの子供達は母語であるクメール語の文字が読めないために誤
 って危険地帯に入ってしまうという問題があった。そのため日本地雷処理を支援する会(JMAS)などの日
 本のボランティア組織は、子供でも理解できるポスターを作ったり、わかりやすい地雷の標識を設置する
 などの活動をしている。
  現在、地雷地域の処理が進んでおり、かつてに比べると各都市部は安全になった。しかしながら、地方
 部では西部タイ国境周辺以外での地雷処理は行われていない。

  地方行政区分

  カンボジアは、23の州と1つの特別市に分かれる。その他、割愛。

  非行政単位

  州知事や市長は、首相から任命される。
  州や市、郡や区の職員は、内務省からの国家公務員。
  2001年、クムやサンカット評議会選挙法、クムやサンカット行政運営法(クム行政法)を制定。18歳以
 上のカンボジア国籍者が投票権を有する。
  2002年2月の選挙で全国に1621のクムおよびサンカット評議会が設置された。

  経済

  国際通貨基金 (IMF) によると、2014年のカンボジアのGDPは約165億ドルである。一人当たりのGDPは
 1,080ドルであり、世界平均の10%に満たない水準である。2011年にアジア開発銀行が公表した資料による
 と、1日2ドル未満で暮らす貧困層は828万人と推定されており、国民の半数を超えている。国際連合によ
 る基準に基づき、後発開発途上国に位置づけられている。
  主要産業は農業、漁業、林業などの第一次産業である。近年は観光産業と縫製産業が成長し、最貧国で
 はあるものの外国からの投資も大きな伸びを示している。主な鉱物資源として燐(未開発)、マンガン
 (未開発)、宝石がある。塩を4万トン生産する。経済成長率は、2004年に10%、2005年に13.4%、2006年
 には10.4%に達した(カンボジア政府の統計)。

  農業

  国土の約3割が農地として利用されており、その8-9割は水田である。次に多いのは「チャムカー(畑)」
 と呼ばれる畑地で、およそ農地の10-15%程度とみられている。さらに、「チャムカー・ルー(上の畑)」
 と呼ばれる畑があり、農地の10-15%程度を占めているとみられている。これら3種の農地のほかに、焼畑、
 ゴム・プランテーションがある。
  食料作物と主要な工芸作物の作付面積を見ると米が圧倒的に多い。トウモロコシ、キャッサバ、甘薯、
 野菜類、緑豆などの食料作物、落花生、大豆、胡麻、サトウキビ、タバコ、ジュートなどの工芸作物の作
 付面積は非常に狭い。
  カンボジアの国土に占める農地面積は21.6%に及び、人口の34%が農業に従事している。生産年齢人口が
 人口の55.8%であることを考慮に入れると、カンボジアの主産業は農業である(以上、2002年時点)。し
 かしながら、労働生産性が低いため、農産物は国内需要を満たすに過ぎない。主要穀物では米(417万ト
 ン)の生産に特化している。商品作物の生産では葉タバコと天然ゴム(4.6万トン)が目立つ。

  外国貿易

  主要輸入品目は、石油製品(8.2%)、タバコ、オートバイ。主要輸出品目は衣類(77.8%)、天然ゴム、
 木材である。主要輸出先はアメリカ合衆国(36.8%)、シンガポール、タイ王国。主要輸入先はタイ(15.6
 %)、香港、シンガポールである。
  カンボジア製の衣類は日本にも2000年代以降多く輸出され始めている。例えば、ユニクロの子会社であ
 るジーユーが販売している一本990円という低価格のジーンズなどがカンボジア製である。人件費の安さ
 などを武器とし、経済成長の緒に就いている。
  近年、中国が経済進出し、カンボジア首相府のビル建築や南部シアヌークビルのインフラ整備にも多額
 の資金援助を行っている。

  法環境

  一方、ソフト面でのインフラストラクチュアというべき法律分野における法整備支援では、民法及び民
 事訴訟法の起草や裁判官、弁護士の人材育成を支援する日本のプレゼンスが大きい。

  通貨

  通貨はリエルが存在するが、カンボジア経済の実情と比較してリエルの為替レートが高く、特に輸出に
 不利なので、一部を除いては通常米ドルが使用される。カンボジアではポル・ポト政権下の1978年に、原
 始共産主義的政策の一環として全ての通貨が廃止された。同政権崩壊後の1980年にリエルは復活した。地
 方、シェムリアップ西部のクララン周辺以西、以北、アンロンベンやプレア・ヴィヘアなどのタイ国境に
 近い地域ではリエルよりもタイバーツが使用される場合もあるが、1B=100Rで使用できる。

  交通・鉄道(割愛)

  国民

  民族

  クメール人が86%、ベトナム人が5%、華人が5%、その他4%がチャム族などの少数民族である。日系カン
 ボジア人も少数ではあるが存在し、著名なものとして猫ひろしが挙げられるが、その多くは起業家や投資家
 である。

  言語

  カンボジア国内で最も話されている言語はクメール語(カンボジア語)である。公用語は1993年公布の
 カンボジア王国憲法第5条で規定され、同6条では「王国は、必要に応じカンボジア語を擁護し、発展させ
 る義務を有する」となっている。少数民族が話す言語にはチャム語などがある。高齢者や特別な職業(医
 師など)の間ではフランス語がある程度通じるが、若者の間で最もポピュラーな外国語は英語となってい
 る。

  宗教

  上座部仏教が憲法で国教と定められているが、信教の自由が保障されている。人口の9割以上が上座部
 仏教の信徒であり、チャム族を主とする4%ほどがイスラム教徒(カンボジアのイスラム教)である。
  クメール・ルージュ政権時代には宗教活動が禁止され、多くの仏教寺院やモスクなどの宗教関係施設が
 破壊され、多くの僧侶が還俗させられ、或いは虐殺された。

  教育

  若年層の識字率は低くないが、45歳以上の識字率はクメール・ルージュ時代に教育が禁止された影響も
 あってか21.0%とかなり低い水準である。2004年の15歳以上で読み書きできる者は男性84.7%、女性64.1%。
 2005年の初等教育純就学率91.9%、中学校教育就学率男子57%、女子16%(1998-2002年)(ユニセフ『世界
 子供白書2005年』ほか)。

  王立プノンペン大学
  カンボジア工業大学
  王立法律経済大学
  国立経営大学
  国立教育研究大学
  王立農業大学
  健康科学大学(カンボジア王国)
  カンボジア大学
  アンコール大学

  文化

  文学

  民話 - 民話は、カンボジアでも人から人へと語り継がれてきた民話が多く残っており、19世紀ごろに
 はヤシの葉に書かれたという。20世紀になるとフランス人研究者が同地研究者らとともに「クメール風俗
 習慣委員会」を設立し、民話の採取と編集を始めた。その事業を仏教研究所が引き継ぎ、同研究所の『カ
 ンプチア・ソリヤー』に1932年から連載した。その後、『クメール民話集』(全249話、全9巻、1959-1971
 年)が刊行された。何度も復刻版が出され、誰もが手にする民話集になっている。
古典文学作品 - カンボジアを代表する古典文学作品は、『リアムケー』、『ジャータカ』、『50のジ
 ャータカ』などの長編物語があげられる。

  音楽

  ロ・セレイソティア
  チュット・ソヴァン・パンニャー

  祭礼

  水祭り - 2010年11月に300人以上が死亡する事故がおきた。100メートル、幅6メートルの橋の上に見物
 客約7、8千人で、橋が揺れたのが原因と見ている。24日の政府発表では、死者数は347人だった。

  世界遺産

  カンボジア国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が2件存在する。

  アンコール遺跡

  プレアヴィヒア寺院

  無形文化遺産

  カンボジアには、ユネスコの無形文化遺産リストに登録された文化が2件存在する。

  カンボジアの王宮古典舞踊(2003)
  クメールの影絵劇(2005)

  スポーツ

  ボッカタオ

                                          以上

 ********************************************


 カンボジアといえばカボチャ(南瓜)を連想するが、この野菜を見るたびにクメール・ルージュの暴虐を
連想せざるを得ない。その国に追い打ちをかけるように、HIVとは!


 ********************************************

 第3章 HIVと共に生きる ── カンボジア(つづき)

 p.67 ・引用:やりたかったのは興味を持っているテーマを自分のペースで取材し撮影すること。

        → 職業的な仕事よりも、自分のやりたいことをやる。できそうでなかなかできない選択。
        → フリーランス

   フリーランス(英: freelance):特定の企業や団体、組織に専従しておらず、自らの才覚や技能を
                  提供することにより社会的に独立した個人事業主もしくは個人企業
                  法人である。略してフリーと呼ばれる。企業から請け負った業務を
                  実際に遂行する本人をフリーランサーと呼ぶ。日本語では自由契約
                  (ただし、プロスポーツでの選手契約を更新しないことを指す「自
                  由契約」が有名なため、フリーランスを指して自由契約と呼ぶこと
                  はほとんどない)。一般的な職業分類では個人事業主や自由業に該
                  当する〔ウィキペディア〕。

 p.68 ・安定<やりがい
    ・引用:「私が写真を始めたばかりの頃、あるジャーナリストに、フリーランスの最大の才能は
        「続けていくこと」と言われたが、本当にその通りだと思う」。
    ・ボンヘイというカンボジアの少年。耳が聞こえず、ことばが話せず、さらに左目の視力も失って
     おり、さらに、母子感染のHIV(エイズ)キャリア。

    HIV:ヒト免疫不全ウイルス(ヒトめんえきふぜんウイルス、英: Human Immunodeficiency
        Virus, HIV)は、人の免疫細胞に感染してこれを破壊し、最終的に後天性免疫不全症
        候群 (AIDS) を発症させるウイルス。1983年に分離された。

  歴史

  1983年に、パスツール研究所のリュック・モンタニエとフランソワーズ・バレシヌシらによってエイズ
患者より発見され「LAV(Lymphadenopathy-associated virus)」と命名された。1984年に、アメリカ国立
衛生研究所(NIH)のロバート・ギャロらも分離に成功しており、「HTLV-III(Human T-lymphotropic virus
type III)」と命名した。続いて、カリフォルニア大学サンフランシスコ校のレヴィらも分離に成功し、
「ARV(AIDS-associated retrovirus)」と命名した。LAV、HTLV-III及びARVは、後にいずれも同じウイル
スである事が明らかとなりHIV-1と改称され、1985年には、モンタニエらが、エイズ患者から新たな原因ウ
イルスを分離し、「LAV-2(Lymphadenopathy-associated virus-2)」と命名し、LAV-2はその後HIV-2と改
称された。
 最初の発見者を巡って、モンタニエとギャロの仏米の研究チームが長年にわたって対立し、1994年に両者
が共に最初であるとして決着したが、長期の対立はエイズ治療薬の特許が絡むもので、治療薬の発売を遅ら
せないための政治的決着であった。2008年10月6日、フランスのモンタニエとバレシヌシの2人がウイルスの
発見者として、2008年のノーベル生理学・医学賞を授与された。
 カリフォルニア大学バークレー校教授のピーター・デュースバーグ (en:Peter Duesberg) などのように、
AIDSの原因がHIVであると認めないエイズ否認主義は科学界で明確に否定されている。

    後天性免疫不全症候群(こうてんせいめんえきふぜんしょうこうぐん、Acquired Immune Deficiency
      Syndrome; AIDS):ヒト免疫不全ウイルス(HIV)が免疫細胞に感染し、免疫細胞を破壊して
               後天的に免疫不全を起こす免疫不全症のことである。一般にエイズ(AIDS)
               の略称で知られている。性行為感染症の一つ。HIVに感染した時点ではAIDS
               の発症とは言えないが、ここではHIV感染症全般の事柄についても記述する。

    母子感染:母子感染の経路としては三つの経路がある。出産時の産道感染、母乳の授乳による感染、
         妊娠中に胎児が感染する経路である。 産道感染は子供が産まれてくる際、産道出血に
         よる血液を子供が浴びることで起こる。感染を避ける方法として、帝王切開を行い母親
         の血液を付着させない方法があり、効果を上げている。母乳による感染が報告されてお
         り、HIVに感染した母親の母乳を与えることは危険とされている。この場合は子供に粉
         ミルクを与えることによって、感染を回避することができる。胎内感染は、胎盤を通じ
         子宮内で子供がHIVに感染することで起こる。物理的な遮断ができないため、感染を回
         避することが難しい。感染を避ける方法として、妊娠中に母親がHAART療法により血中
         のウイルス量を下げ、子供に感染する確率を減らす方法がとられている。
         〔以上、いずれも、ウィキペディアより〕

 p.69 ・1991年、カンボジアで初めてHIV感染者が発見されて以来、貧困や知識不足などが重なり、エ
     イズの発症患者数が急激に増加している。その後、政府、国際機関、NGOなどの取組によって、
     1997年にはHIVの感染率が全人口の3%だったのが、現在は1%以下まで減少したと言われて
     いる。ただし、母子感染は年々増えている。

 p.70 ・母親のチャリヤは、4年前に離婚した夫からHIVに感染していた(2009年)。

 p.71 ・母チャリヤとも、祖母ロチョムとも、コミュニケーションの取り辛いボンヘイ。

 p.72 ・ボンヘイの家に泊まり込んで取材。彼の家族に溶け込むためである。

 p.73 ・ボンヘイは聾学校に通っているが、周りのクラスメイトとは異なり、手話を理解できないようで
     ある。抗レトロウィルス剤(エイズの発症を抑える薬)の副作用で、神経過敏、注意散漫、過剰
     行動などの症状が表れるようになった可能性。

 p.74 ・触覚の効用。直接肌で触れること。
    ・抗レトロウィルス薬を一生服用しなければならない自分の立場を、今後ボンヘイは理解すること
     ができるのだろうか。

 p.76 ・バイクタクシーに乗る著者に対する、祖母の感情の変化。

 p.77 ・密着取材のむずかしさ。相手の感情を逆撫でしてはならない。自分では大したことではないと思
     っていても、相手がどう感じるかは分からない。

 p.78 ・二年後のカンボジア(2011年)。実は、2010年4月に、チャリヤは亡くなっていた。ロチョムと
     ボンヘイはすでに引越ししていた。

 p.80 ・二年の月日が生んだもの。ロチョムもボンヘイも変わっていた。

 p.82 ・空き缶を集めてそれを売り、生計を立てている二人。

 p.83 ・遺灰になっていたチャリヤ。

 p.98 ・移動遊園地に向かうロチョムと著者。

 p.99 ・「これが僕の生き方なのだ、と冷静にその事実を受け止めている」ボンヘイ。

 p.100 ・ホームレスの子どもと見られるボンヘイ。単なる「被写体」を超えた何かが見えてくるのか。

 p.101 ・写真取材のむずかしさ。

 p.102 ・別れの時。

 p.103 ・ロチョムは結核に感染しており、視力を失いつつあった。

 ********************************************


 エイズが世界中のあちこちで席捲していることは知っているが、その具体的様相となると皆目分からない、
というのが実情です。この日本で住んでいる限り、エイズは実感の湧かない病気です。事実、小生は自分が
エイズであることを公言している人に会ったことがありません。しかし、世界には、エイズで苦しんでいる
人は数多くいるに違いないのです。

  cf. 『もの食う人びと』、辺見庸 著、角川文庫、1997年、「バナナ畑に星が降る」。

                                                 
 2016年2月15日(月)

 今日も、ネットの記事などを絡めながら、『フォト・ドキュメンタリー 人間の尊厳 ── いま、この世
界の片隅で』(林典子 著、岩波新書、2014年)から、要点を抜書したいと思います。


 ********************************************

 第2章 難民と内戦の爪痕 ── リベリア(つづき)

 p.37 ・リベリアに行くことに決めたのは、他のアフリカ諸国とは違った歴史を歩んできたから。
    ・リベリアは、内戦直後なので、ガンビアよりも治安が悪化している。

 p.38 ・群がるタクシー運転手。初っ端から前途多難を思わせる展開である。
      cf. 筆者(武藤)の知っている事例では、空港から乗ったタクシーの運転手に乱暴されたうえ
        殺害された留学生も存在する。ただし、それはリベリアの話ではない。

 p.39 ・不穏な町モンロビア。ひどい状態のホテル。

 p.40 ・リベリアには、ATM(automatic teller machine)〔現金自動預け払い機〕はない。「あったら、
     とっくに壊されて金なんか盗まれている」との由(警備員の談話)。
      cf. 筆者(武藤)の知っている事例では、日本でも、ブルドーザーでATMが破壊され、現金が
        盗まれた事件があった。

 p.41 ・面積は日本の3分の1に満たず、人口は400万人ほどである。アフリカ最初の共和国(1847年)。
    ・解放奴隷の子孫と先住民の確執が内戦を誘発(1989年)。

 p.42 ・引用:「一九八九年から二〇〇三年までの一四年間に断続的に続いた二度の大きな内戦により、
         二〇万人以上の死者、一〇〇万人以上もの難民が生み出された。二〇〇三に政府と反政
         府勢力の間で和平合意が締結されると、移行政府を経て、二〇〇六年にアフリカ初の民
         選の女性大統領エレン・ジョンソン・サーリーフが誕生した」。

   難民(英:refugee):対外戦争、民族紛争、人種差別、宗教的迫害、思想的弾圧、政治的迫害、経済 
             的困窮、自然災害、飢餓、伝染病などの理由によって居住区域(自国)を逃れ
             た、あるいは強制的に追われた人々を指す。その多くは自身の生命を守るため、
             陸路、海路、河路、空路のいずれかで国外に脱し、他国の庇護と援助を求める。
             現在の国際法では、狭義の「政治難民(Political Refugee)」を一般に難民と
             呼び、弾圧や迫害を受けて難民化した者に対する救済・支援が国際社会に義務
             付けられている〔ウィキペディアより〕。

 p.43 ・「助け舟」とも言えるアーサーとの接触。

 p.44 ・ガンビアの友人の弟であるアーサーと出会わなかったら、一体どうなっていたのだろうか。
    ・シエラレオネの難民との交流。

 p.45 ・VOAキャンプの難民たちの過酷な生活。

 p.46 ・難民のことば「過去は地獄で、今も悲惨、未来も何もない」。

     cf. 「石原さとみ アフリカへの旅“いのち”に魅せられた9日間」(NHKドキュメンタリー)
        (初回放送:2015年12月28日〔月〕、10:00-10:55)

       「若い世代を中心にカリスマ的な人気を誇る女優・石原さとみさん。アフリカを舞台にし
        た映画に出演したことをきっかけに、この夏、アフリカを再訪した。訪れたのはウガン
        ダ共和国のかつての紛争地。映画で描かれた、元少年兵たちと交流したいと考えたから
        だ。若きトップ女優は、日本から11,500キロ離れたアフリカの地で何を感じ、何を得た
        のか。みずみずしい感性に満ちた“アフリカ紀行”である」。

 p.47 ・売春で暮らす14歳のハワ・シェリフ。しかし、フォト・ストーリーは作れなかった。

 p.48 ・リベリア内戦中の残虐行為。

 p.49 ・リベリアの窮状は世界になかなか伝わらない。何らかの支援があったとしても、時間がかかる。

 p.50 ・沼の中の小さな虫に刺され、激痛を味わう著者。
    ・物乞いで暮らす一家四人。

 p.51 ・リベリアへの難民帰還事業を行うUNHCR。

   UNHCR:国際連合難民高等弁務官事務所(英語: Office of the United Nations High Commissioner
      for Refugees、略称:UNHCR)は、1950年12月14日に設立された国際連合の難民問題に関する
      機関。経済社会理事会との連携関係にある専門機関から総会の補助機関に改組された。

  概要

  難民高等弁務官は、1951年に採択された難民の地位に関する条約と1967年の議定書に基づく国際連合に
 よる難民や国内避難民の保護など、難民に関する諸問題の解決を任務としており、高等弁務官事務所は高
 等弁務官の活動の補佐を行う組織である。本部は、スイスのジュネーヴに置かれている。
  前身は、連合国救済復興機関(英語: United Nations Relief and Rehabilitation Administration、  
 UNRRA、1943年 - 1948年)、そして、国際難民機関(英語: International Refugee Organization、IRO、 
 1946年 - 1952年)である。その活動が認められ、1954年、1981年にノーベル平和賞を受賞している。
  2000年には、設立50周年記念事業として難民教育基金が設立された〔以上、ウィキペディアより〕。

 p.52 ・国連本部(モンロビア市内)で、プレスカードを取得。

   取材許可証(プレスパス、英語: press pass, journalist pass, press card):ジャーナリストに
  与えられる取材上の証明書。記者証と呼ばれることもある。取材許可証によっては法的な特権がある
  場合がある。
   取材許可証の効力の大小はその発行元による。取材許可証を発行する機関は大きく3つに分けられる。
  警察などの役所によるもの、各種催しの主催者が発行するもの、報道機関によるものである。取材許可
  証によって効力に違いがあるので、1人の記者が複数の取材許可証を持つ場合もある。
   なお、身分証明書でもある記者証と、入場許可証であるプレスパスとは厳密には異なる〔ウィキペデ
  ィアより〕。

 p.53 ・パキスタン人の警察官ナセルとの会話。

 p.60 ・疲弊するヴォインジャマ(モンロビアから北へ約300キロの山中にある)。ここは、リベリア内
     戦中に反政府武装勢力の拠点だった。
    ・引用:「世界中には一八歳以下の子どもの兵士が約三〇万人おり、その四割がアフリカに集中し
         ているという」。

 p.61 ・避難先のギニアから帰還したリベリア難民。

 p.62 ・著者が実際に食べてみた難民に供されている食事。美味の由。

 p.63 ・リベリアのタクシー事情。タクシーでの帰路、人々の生活を観察できる。

 p.64 ・アーサーのガールフレンドであるミアタの弟ジェレマイア(ジャーナリスト)。二週間の滞在。
     そして、帰国。

 ********************************************


 難民の過酷な現状を知れば知るほど、何とかならないものかと思うのですが、ただ茫然とするばかりで、
何のアイディアも浮かびません。日本とは違うと言ってしまえばそれまでですが、その日本だっていつ何時  
リベリア化しないとは言い切れません。VOAキャンプの難民のことばである「過去は地獄で、今も悲惨、未
来も何もない」がとても印象的です。何のために生まれてきたのでしょうか。そんな思いを抱える人が一人
でもいないような世の中を摸索するしかないのですが、やはり何のアイディアも浮かばないのです。せめて、
学生にそのような国が世界にはあるということを伝えようと思います。
 さて、次回は、「第3章 HIVと共に生きる ── カンボジア」に言及する予定です。

                                                  
 2016年2月14日(日)

 今日も、ネットの記事などを絡めながら、『フォト・ドキュメンタリー 人間の尊厳 ── いま、この世
界の片隅で』(林典子 著、岩波新書、2014年)から、要点を抜書したいと思います。


 ********************************************

  第2章 難民と内戦の爪痕 ── リベリア

 ・リベリアとは?

  (ウィキペディアより)

  リベリア共和国(リベリアきょうわこく)、通称リベリアは、西アフリカに位置する共和制国家。
 北にギニア、西にシエラレオネ、東にコートジボワールと国境を接し、南は大西洋に面する。首都は
 モンロビア。
  アメリカ合衆国で解放された黒人奴隷によって建国され、1847年に独立し、現在のアフリカの中で
 はエチオピアに次いで古い国である。しかし1989年から2003年にかけて断続的に2度も起きた内戦に
 より、戦争一色の無秩序な国と化していた。

   国名

  正式名称は英語で、Republic of Liberia(リパブリク・オヴ・ライビリア)。通称、Liberia。日
 本語の表記は、リベリア共和国。通称、リベリア。国名は、ラテン語のLiber(自由な)から来ている。

   歴史

  15世紀頃 - 胡椒に似た種子(ギニアショウガ)(en)を手に入れたヨーロッパの航海者が、この地
 を胡椒海岸と名づける。

   建国まで

  1816年 - アメリカ合衆国で設立されたアメリカ植民協会が、黒人解放奴隷のアフリカへの「帰還」を
      計画。
  1820年 - 1月アメリカ植民協会、黒人のための「祖国再建運動」としてリベリア建国運動を開始。解放
      奴隷88人を乗せた「エリザベス号」がニューヨーク港を出港し、西アフリカのシエラレオネに
      向かう。
  1822年 - 初のグループが上陸。再移住区を建設する。
  1824年 - メスラド岬植民地がリベリア植民地に改名される。同時に米国が拿捕したコンゴ系奴隷がニ
      ュージョージアに入植。当初は「クリストポリス(キリストの都市)」と呼ばれていた首都の
      名前を、アメリカ合衆国第5代大統領のジェームズ・モンローからとったモンロビアに改名。
      白人系アメリカ人、ジェフディ・アシュマンとラルフ・ランドルフ・ガーリーも入植地の再建
      を行う。
  1832年 - ニューヨークで設立されたペンシルベニア州植民地社会がエディナ植民地 (Edina) と、12月
      にはポートクレソン植民地 (Port Cresson) として入植。
  1833年 - 再移住区をLiberty(自由)からとった「リベリア連邦」と命名。
  1834年 - メリーランド州の植民地会社によりメリーランド・アフリカ植民地 (Maryland-in-Africa)
      として入植。
  1835年 - ルイジアナ州の植民地社会がミシシッピ・アフリカ植民地(Mississippi-in-Africa)として
      入植。6月、先住民部族バッサ族(英語版)の攻撃によりポートクレソンの植民地が破壊され、
      7月に新たにバッサケーブ植民地 (Bassa Cove) を設立。1837年にはバッサケーブ植民地がエ
      ディナ植民地を統合する。
  1839年 - 4月1日ニュージョージア植民地とバッサケーブ植民地がリベリア連邦に統合。
  1842年 - ミシシッピ・アフリカ植民地もリベリア連邦に統合。

  リベリア成立

  1847年7月26日、合衆国憲法を基本にした憲法を制定して独立を宣言した。初代リベリア大統領にジョ
 セフ・ジェンキンス・ロバーツ(任期1848年 - 1856年)が就任。1854年5月29日メリーランド・アフリカ
 植民地がメリーランド共和国として独立を宣言するが、1857年3月18日リベリア共和国に併合。1870年に
 エドワード・J・ロイが大統領に就任するが1871年に暗殺され、1872年から1876年の間は初代のロバーツ
 が第6代大統領を務める。1878年にアンソニー・W・ガーディナーが大統領に就任。1896年にはウィリアム・
 D・コールマンが1900年まで大統領に就任した。1903年にはアーサー・バークレーが大統領に選ばれ、1904
 年も大統領に再選される。1910年アメリカのメソジスト教会の宣教師ウィリアム・ワド・ハリス牧師が
 「預言者」を自称し、リベリアで宣教活動し、グレボ族(英語版)のメソジスト教化の為の教会運動を起
 こし、1913年にリベリアからコートジボワールにまで活動が広がる。1915年アメリコ・ライベリアンのリ
 ベリア政府に対して先住民のクル族とグレボ族の反乱を起こす。
  独立以来、「胡椒海岸」の先住部族は移民アメリコ・ライベリアンから差別の対象となり、圧政が敷か
 れていた。20世紀となる頃には、差別と圧政への抵抗が強くなった。また産業が脆弱であり、財政が悪化
 した。1926年にアメリカのファイアストーン社に対し、ゴムノキ農園用地を99年間貸与する契約を結び、
 代替に財政援助を受ける。しかし、1931年にリベリアのゴム・プランテーションの労働は奴隷制と変わら
 ないと国際連盟に告発される。
  この頃、リベリア政府高官が加担して、リベリア人労働者がスペイン領フェルナンドポー島(現赤道ギ
 ニアのビオコ島)へ船積みされており、その状況は奴隷貿易と異ならないという噂が国際的に広まったた
 め、政治的主権も危うくなった。チャールズ・D・B・キング大統領の要請により、国際連盟は調査団を派
 遣し、こうした国際的非難には、ある程度の根拠がある事、そして副大統領の関与をほのめかした。この
 ため副大統領は辞任して、キング大統領も衝撃を受け、1930年に大統領を辞任する。後継者としてアーサ
 ー・バークレー元大統領の甥、エドウィン・バークレーが大統領となる。
  さらに、1930年代の経済不況でリベリアは破綻寸前となり、1933年の政府歳入はわずか32万1,000ドル
 に落ちこんだ。1934年にはファイアストーン社の新しいゴム農園が生産を開始し、国家は持ちこたえた。
  第二次世界大戦中の1942年、アメリカの援助により、アメリカ空軍機の離着陸のための空港の建設と港
 湾施設の改築がおこなわれる。 1944年、ウィリアム・V・S・タブマンが大統領選に当選(5年任期で再選
 もする)。同年、連合国側に付き、ドイツ、日本、イタリアの枢軸国に宣戦を布告。同大統領は、アメリ
 コ・ライベリアンと先住部族との経済的、政治的、社会的な格差を緩和する事で融和を図った。1971年に
 死去するまで、独裁的な政治運営をおこない国内は概ね安定。その後、タブマン大統領の死去により、副
 大統領だったウィリアム・R・トルバートが大統領に就任する。トルバート大統領はタブマンの跡を継ぎ、
 全リベリア人の平等を表明、縁故主義的な支配を廃止するなど、格差の是正に尽力。1974年にソ連からの
 経済援助を受け入れるなど関係の強化をもくろみ、アメリカとは疎遠状態となる。

  クーデター

  1973年、トバ・ナー・ティポテは反政府勢力「MOJA」を結成。1979年、政府の米価の値上げ発表に対し
 て反対デモが起こる。トルバートの元国務次官書記で、MOJAの中心メンバーでもあったガブリエル・バッ
 カス・マシューズが、トルバート政権への大規模な抗議運動を主導したとして、騒乱罪で死刑を宣告され
 た。1980年、リベリア先住部族クラン族(英語版)出身のサミュエル・ドウ曹長によるクーデターでトル
 バートは暗殺され、アメリコ・ライベリアンの支配が終わった。トルバート政権の崩壊でマシューズは釈
 放され、ドウ政権の下で外相・内閣官房長官を歴任する。1985年11月12日ギオ族(英語版)出身のトーマ
 ス・クィウォンパがクラン族のドウ政権に反発し、シエラレオネからリベリアに侵入し軍事クーデターを
 試みるが失敗。15日にクィウォンパは、クーデターに加わったギオ族やマノ族の同胞らと共に処刑される。
 その後、ドウはクラン族中心のリベリア国軍(AFL)をギオ族とマノ族が住むニンバ郡に派兵。ギオ族とマ
 ノ族を攻撃し、600人から1500人を虐殺する。1986年ドウ政権下でリベリア第2共和国が発足し、ドウが第
 21代大統領に就任。

  第一次内戦

  1989年、チャールズ・テーラー率いる反政府組織「リベリア国民愛国戦線(NPFL)」がニンバ郡で蜂起
 して内戦が勃発した。西アフリカ諸国経済共同体 (ECOWAS) が政府支援のために軍事介入するが、1990年
 6月ギオ族のトム・ウォエウィユが停戦交渉にNPFL代表として出席。アメリカへ一時亡命していたクラン
 族のジョージ・ボレイがLPCという武装勢力を結成(後の93年にはテーラー率いるNPFLと交戦し武装勢力
 を拡大し成長させる)。戦闘が全土に拡大。カトリックのマイケル・フランシス大司教がモンロビアで、
 ギオ族とマノ族を大虐殺したクラン族のリベリア国軍に抗議。ブッシュ大統領「リベリアを途上国の優遇
 対象から除外する」と発言。5月28日日本政府が、在モンロビアの日本大使館員全員の国外避難を発表。8
 月20日リベリアのモンロビアに派遣されていた200人のアメリカ海兵隊の部隊が在モンロビアのアメリカ
 人800名以上をヘリコプターで国外へ避難させる。1991年クラン族のジョン・ヘゼキア・ボーウェンがAFL
 の指導者になる。NPFLから分裂したプリンス・ジョンソン率いるINPELの派閥がドウ大統領を捕らえ拷問
 の末にドウを処刑。ドウ政権は崩壊し、エーモス・ソーヤーが暫定政権を立てる。NPFLはこれを認めず、
 1992年からソーヤー派の戦線との戦闘が激化、NPFLが隣国シエラレオネ政府のリベリア内戦への派兵に抗
 議してシエラレオネに進入する。NPFLの同胞だったシエラレオネ反乱軍のアハメド・フォディ・サンコー
 率いる統一革命戦線 (RUF) も戦闘に参加し、戦乱は国境を越えて広がった。アルハジ・クロマー率いる
 マンディゴ族のムスリム系組織ULIMO「軍事派」も内戦をジハードととらえ蜂起。また3月にクロマーの
 ULIMO「軍事派」から分裂したルーズベルト・ジョンソンがULIMO-Jの新勢力を結成し蜂起し始める。ナイ
 ジェリアとガーナが主体のECOMOG軍がリベリアに派遣される。アメリカはこれまでの、リベリアへの巨額
 な経済支援の失敗などの経験から、対リベリア関係の見直しを宣言し、リベリアへの経済支援などをしな
 いと宣言した。またリベリア内戦などの介入なども関わることにしないと宣言した。1993年ウォエウィユ
 とテーラーが組織の政治目標をめぐり対立。当事者代表が包括和平交渉に合意、10月アメリカがリベリア
 に派遣されているECOMOGに1,980万ドル追加支援。内戦以来、アメリカのリベリア援助が総額2億7,000万
 ドル。1995年に和平協定に調印。9月ウィルトン・サンカウロがCS議長に就任。1996年に停戦が発効され
 た。内戦により15万人以上が死亡し、30万人以上が国外へ難民となるなど、西アフリカ最悪の紛争地域と
 言われた。9月サンカウロ、ECOWAS会議の席上でテーラーの傀儡と告発され辞任し、ルース・ペリーが暫
 定政権首班下で文民代表としてCS議長に就任。アフリカ初の女性国家元首になる。
  1997年に大統領・副大統領・上院・下院の統一選挙が実施され、NPFLのチャールズ・テーラーが大統領
 就任して第3共和制が成立した。台湾と外交関係を結んでいた為、中国はリベリアと断交(しかし、2003
 年に中国と国交回復し、台湾と断交した)。

  第二次内戦と国連展開

  2003年、セクー・コネ率いる反政府勢力「リベリア民主和解連合」(LURD) とトーマス・ニメリー率い
 る「リベリア民主運動」(MODEL) が蜂起し、首都へ侵攻する。6月17日には政府と停戦合意するが、7月8
 日にアフリカを訪問したブッシュ米大統領に対し、対リベリア平和維持部隊への米軍の参加を求める声が
 高まった。7月25日、ブッシュ大統領はリベリアの沖合いに米海軍を配置するよう正式に指示、8月には米
 軍を始めとする平和維持軍が上陸し、テーラー大統領はナイジェリアに亡命、モーゼス・ブラー副大統領
 が暫定的大統領に就任する。9月19日の国連安保理決議1509により、国際連合リベリア・ミッション
  (UNMIL) が派遣され、10月にはリベリア行動党のジュデ・ブライアント議長による暫定政府が発足した。
  2005年10月11日、暫定統治下において第一回大統領選が行われた。元サッカー選手のジョージ・ウェア
 が得票率で上回ったが、11月8日に決選投票を実施、11月23日の最終開票結果で、国連開発計画の元アフ
 リカ局長エレン・ジョンソン・サーリーフが、アフリカ初の選挙による女性大統領となった。2006年3月29 
 日、隣国シエラレオネの内戦に関与していたとして、戦争犯罪などで起訴されていたテーラー前大統領が、
 亡命先のナイジェリアで身柄を拘束され、リベリア経由でシエラレオネに移送された。その後、オランダ
 のハーグにある国際刑事裁判所で開かれることになったシエラレオネ国際戦犯法廷で審理が行われ、2012
 年4月26日、国連設置法廷における史上初の国家元首経験者に対する有罪判決が下されている。

  政治

  リベリアは建国以来、アメリカ合衆国の議会制度にならい、上下院の二院をもつ。内戦終結後は一時一
 院制の暫定議会を有していたが、2005年10月11日に上下院および大統領選挙を行い(大統領選の決選投票
 は同年11月8日)[2]、2006年に正式政府が発足した。 2011年10月、上下院および大統領選挙を行った(大
 統領選の決選投票は同年11月8日)[3]。 なおリベリアにはマイノリティとして非アフリカ系(レバノン系
 など)の住民もいるが、アフリカ系黒人の優位を保つ為、彼らは黒人では無いと言う理由で、選挙権が与
 えられていない。度々国連から問題視され、非アフリカ系住民にも選挙権を認める様に指摘されているが、
 リベリア政府は難しいと困難視している。

  国際関係

  リベリア内戦の1990年以降、ナイジェリアとガーナ主導の西アフリカ諸国平和維持軍 (ECOMOG) がリベ
 リアに到着する以前は、アメリカの影響力や関係が最も強かった。内戦勃発後、アメリカの軍事介入を求
 める声が強くあったが、アメリカは対リベリアの優先関係などの見直しを宣言し、リベリア内戦に介入し
 ないと宣言した。アメリカは、ナイジェリアやガーナのECOMOGによるリベリア介入を支持した。またリベ
 リアの内戦は、リベリア付近のECOWAS諸国同士の緊張ももたらしている。リビアとコートジボワールとブ
 ルキナファソは、国家の制圧を巡って、内戦を引き起こしたリベリア国民愛国戦線 (NPFL) を支持してい
 たが、ECOMOGとNPFLは対立していた。その為、NPFLを支持していた他のECOMOG諸国(コートジボワールや
 ブルキナファソなど)との間で、ぎくしゃくした関係であった。隣国シエラレオネとは姉妹国的な存在だ
 ったが、NPFLがシエラレオネ内戦の原因である革命統一戦線 (RUF) を支持していた為、 関係が悪化して
 いた。2003年に再び内戦が起こった時、NPFLのテーラー大統領に対してついにアメリカが圧力を加え、小
 規模で軍事介入する(後はほとんどECOMOGに任せた)形で内戦は終結した。1973年以降シエラレオネと、
 さらに1980年にギニアも加わって、マノ川同盟 (MRU) を結成している。アフリカ統一機構 (OAU) に加盟
 し、西アフリカ諸国経済共同体 (ECOWAS) にも加盟し、世界貿易機関 (WTO) にも加盟している。

  日本国との国交など

  日本とリベリアの正式な外交関係樹立は1961年9月。かつては両国とも相手国に大使館を設置していた
 が、2004年1月、内戦の影響によりモンロビアの日本大使館は閉鎖された。
  1970年の日本万国博覧会(大阪万博)では、記念発行物として歌手の三波春夫とテーマソングの「世界
 の国からこんにちは」の一節を日本語で綴った記念切手が発行(販売)された。

  地方行政区分

  リベリアは全15郡 (County)、そしてモンロビアの連邦区に分かれている。中央政府は郡長を任命し、
 郡にはさらに地区に分かれ、地区長がいる。また最高部族長と族長、町長がいる。

  ボミ郡の旗 ボミ郡(Bomi)
  ボン郡の旗 ボン郡(Bong)
  バルポル郡の旗 バルポル郡(Gbarpolu)
  グランドバッサ郡の旗 グランドバッサ郡(Grand Bassa)
  グランドケープマウント郡の旗 グランドケープマウント郡(Grand Cape Mount)
  グランドゲデ郡の旗 グランドゲデ郡(Grand Gedeh)
  グランドクル郡の旗 グランドクル郡(Grand Kru)
  ロファ郡の旗 ロファ郡(Lofa)
  マージビ郡の旗 マージビ郡(Margibi)
  メリーランド郡の旗 メリーランド郡(Maryland)
  モンセラード郡の旗 モンセラード郡(Montserrado)
  ニンバ郡の旗 ニンバ郡(Nimba)
  リバーセス郡の旗 リバーセス郡(River Cess)
  リバージー郡の旗 リバージー郡(River Gee)
  シノエ郡の旗 シノエ郡(Sinoe)

  主要都市

  モンロビア
  グリーンビル
  ハーベル
  ブキャナン
  タブマンバーグ
  ハーパー

  地理

  赤道周辺の西アフリカに位置し、大西洋に面しており、海岸の多くはサンゴ礁やマングローブの密林で
 覆われている。内陸部は草原で農地は限られている(国土の1%)。気候は高温多湿の熱帯気候。ハルマッ
 タンと呼ばれる砂混じりの熱風が吹く時がある。

  経済

  IMFの推計によると、2013年のリベリアのGDPは19億6千万ドルである。一人当たりのGDPは479ドルであ
 り、世界平均の5%にも届かない水準にある。いわゆるタックス・ヘイヴン(租税回避地)の一つである。
  隣国シエラレオネと接するボミヒルズでは鉄鉱石が採掘されている。ニンバ山にも推定10億トンの鉄鉱
 石が埋蔵されていると言われている。ほかダイヤモンドや金なども発掘される。ダイヤモンドは密輸出も
 されている。農作物ではアブラヤシやコーヒー、ココア、米、サトウキビなどが栽培されている。ゴムも
 国の重要な資源であり、モンロビア近くにあるハーベルにアメリカのファイアストーン社がゴム農園を開
 いていた。
  最大の経済援助国はアメリカであった。1980年代にドウ政権はアメリカからの援助資金の多くを不正に、
 私用などに用いていたため、リベリアの経済はうまくいかず、財政難を抱えていた。このようなリベリア
 の状況に対してアメリカは、失望してはいたものの、まだ将来性があると援助をし続けていたが、結局、
 1992年には経済支援の失敗の経験と内戦から、経済支援の見直しを行い、リベリアとの関係に見切りを付
 けた。1997年以降のテーラー政権下においては、アメリカはシエラレオネ内戦での反乱軍への武器輸出を
 批判し、リベリア産のダイヤモンドなどの輸出を禁止する厳しい圧力を掛けた。リベリアの経済は内戦前
 から悪化しており、財政難も抱えていたが、1989年以降の内戦によってリベリア経済は崩壊状態となり、
 内戦が終わっても経済は悪化したままであった。

  便宜置籍国

  リベリアはまた、安価な手数料や船舶国籍証書の発行の便宜を図る便宜置籍国として知られる。登録し
 ている船舶数はパナマに次ぐ規模であるが、あくまでも書類上の船籍であるため、ほとんどの船舶はアフ
 リカ西海岸への航海を行わぬままその一生を終える。

  交通

  国内の道路のほとんどは舗装されていない。全長490kmの鉄道は鉄鉱石を輸送するために建設されてお
 り、ほかの利用は少ない。空港は首都モンロビアに第二次世界大戦中にアメリカ軍が建設した国際空港の
 モンロビア・ロバーツ国際空港がある。内戦以前には、使用可能な滑走路が国内に49ヵ所あった。国内線
 はモンロビア郊外のスプリングス・ペイン空港で運航されている。

  住民

  民族

  住民はほとんどがアフリカ系の先住民であり、主な民族としてクペレ族、バッサ族(英語版)、クル族、
 ゴラ族(英語版)、ギオ族(英語版)、マノ族(英語: Mano people)、クラン族(英語版)、ヴァイ族
 (英語版)、グレボ族(英語版)、キッシ族、ロマ族(英語版)、マンディゴ族など16の部族がいる。ま
 た、アメリコ・ライベリアンと呼ばれる、アメリカ合衆国の解放奴隷たちの子孫が2.5%、カリブ諸国から
 の移民の子孫も2.5%おり、非アフリカ系の住民ではレバノン人とシリア人や白人も少数だが存在するが、
 アフリカ系の黒人優位の観点から、これらの非アフリカ系の住民達はアフリカ系の黒人では無い為、選挙
 権が認められていない。
  長らくアメリコ・ライベリアンと先住民族との間で対立があったが、1980年クラン族のサミュエル・ド
 ウがアメリコ・ライベリアンの政権を倒し、ドウが政権を握った。それ以来、クラン族は敵対するギオ族
 とマノ族に復讐し、部族間の争いが絶えなかった。1989年以来の戦争ではクラン族のドウ政権を倒すため
 アメリコ・ライベリアンがクラン族と対立するギオ族とマノ族と手を組み、1990年にドウ政権を倒した。

  言語

  言語は英語が公用語であるが、話したり書いたり出来るのは一部の人々に限られている。その他に28に
 及ぶ各部族の言葉が使われている。ヴァイ族(英語版)固有のヴァイ文字がある。

  宗教

  リベリアは公式にはキリスト教国家であるが、実際には、宗教は伝統的な宗教が40%、キリスト教が40%、
 イスラム教が20%となっている。キリスト教のほとんどは、アメリコ・ライベリアンらの奴隷時代の名残
 りでアメリカ南部の福音派系のプロテスタントが多く、中でもメソジスト派が最大である。他にもカトリ
 ックもある。アメリカからのキリスト教宣教師もリベリア各地で活動を行っている。しかし、内戦中には
 宣教活動が厳しくなっており、1990年にアメリカ人宣教師夫妻の射殺された死体が発見されるなど、犠牲
 者も出ている。先住民族の伝統的な宗教はアニミズム的な先祖崇拝の念が強く残る。イスラム教はマンデ
 ィゴ人のイスラム商人により、多くの人達を改宗させて来た。イスラム教の布教活動は1956年以来、エジ
 プトとパキスタンから来た伝道師により、活発に行われている。

  教育

  元々リベリアの教育はアメリカ合衆国の教育のシステムに従っていたが、1989年以降の内戦により、リ
 ベリアの教育は崩壊的打撃を受けてしまった。6歳から16歳までが義務教育である。リベリアでは就学率
 が低く(特に女子は男子よりも低い)、2003年の推計によれば、15歳以上の国民の識字率は57.5%(男性:
 73.3%、女性:41.6%)である。
  主な高等教育機関としては1862年設立の国立リベリア大学、アメリカ聖公会機関のカッティントン大学、
 工科大学のウィリアム・V・S・タブマン大学の大学3校で何れもモンロビアにある。中にはアメリカの大
 学に行く者もいる。またリベリア政府は2001年にモンロビアでアメリカの通信教育機関アダム・スミス大
 学の認定を受けていると主張している。リベリア最大の中等教育機関として内陸のカカタに職業及び農業
 訓練学校のブッカー・T・ワシントン研究所(同名のアメリカの著名な黒人教育家の名から因んでいる)
 がある。この研究所はアメリカアラバマ州にあるタスキギー研究所始め、アメリカ植民地協会の宣教師、
 アメリカの慈善団体らグループの支援を受け、1929年に設立された。現在でもアメリカから派遣されて教
 育活動が行われている。

  文化

  モンロビアのアメリコ・ライベリアンはアメリカ合衆国の解放奴隷だったため、奴隷時代の名残りでア
 メリカ合衆国南部の深南部の文化を身に付けている。

  祝祭日:割愛

  12月1日にはマチルダ・ニューポートの日(Matilda Newport Day)と言うアメリコ・ライベリアンの入
 植者への攻撃を追い払うのを助けた女性の国民的英雄を敬意を示した休日があったが、1980年にウィリア
 ム・R・トルバート大統領の時に廃止された。
  マンディゴ人などのイスラム教徒にはイスラム教の祝日がある。

  著名な出身者

  ジョセフ・ジェンキンス・ロバーツ - リベリアの初代大統領
  マチルダ・ニューポート - 最初の入植者への攻撃を追い払うのを助けた女性の国民的英雄
  ジョージ・ウェア - 元サッカー選手でサッカーのリベリア元代表

                                          以上

 ********************************************

 今日は、本文には入らず、ここまでに留めておきたいと思います。

                                                 
 2016年2月13日(土)

 今日は、ネットの記事などを絡めながら、『フォト・ドキュメンタリー 人間の尊厳 ── いま、この世
界の片隅で』(林典子 著、岩波新書、2014年)から、要点を抜書したいと思います。


 ********************************************

  第1章 報道の自由がない国で ── ガンビア

 ・ガンビアとは?

  (ウィキペディアより)

  ガンビア共和国(ガンビアきょうわこく、英: Republic of The Gambia):通称ガンビアは、西ア
 フリカ西岸に位置する共和制国家。2013年までイギリス連邦加盟国だった。西は北大西洋に面し、ガ
 ンビア川の河口を除いた全土をセネガルに取り囲まれている。首都はバンジュール。

   国名

  正式名称は Republic of The Gambia (リパブリック・オブ・ザ・ガンビア)。通称 The Gambia。
 日本語の表記は、ガンビア共和国。通称ガンビア。漢字による当て字は岡比亜。

   歴史

  ガンビアの地域が初めて歴史に登場するのは、9・10世紀のアラブの商人の記録である。

   ガーナ王国

  10世紀から13世紀頃までガーナ王国に属していた。

   マリ帝国

  13世紀から15世紀まではマリ帝国に属した。13世紀にマリンケ族の商人がイスラム教を広め、18世
 紀まで強い影響力を持っていた。

   植民地時代

  15世紀中頃、ポルトガル人がガンビア川下流域に商業拠点を建設した。
  16世紀にイギリスが進出、その後フランスと争った末、1783年のパリ条約によりイギリス植民地と
 なる。
  1821年、ガンビア植民地及び保護領(英語版)が成立。奴隷貿易が行われていた植民地支配の痕跡
 をとどめる遺構の数々は、「クンタ・キンテ島と関連遺跡群」として、ユネスコの世界遺産に登録さ
 れている。
  1959年、ダウダ・ジャワラがマリンケ人の支持により、人民進歩党 (PPP)(英語版)を結成。

   独立と国家連合

  1963年、ジャワラが首相になり自治権を獲得。
  1965年2月には英国女王を元首とする英連邦王国として独立した。
  1970年には共和制に移行しジャワラが大統領に就任したが、英連邦の一員としては留まった。
  1981年7月29日、ジャワラが外遊中に社会主義革命労働党と国軍内左派グループを中心とした国家革命
         評議会によるクーデターが起こるが、ジャワラは直ちに隣国セネガルに介入を要請、こ
         れを鎮圧した。
  1982年2月1日にはこの事件を受けてセネガルとの国家連合を形成、セネガンビア国家連合となった。
  1987年3月、ジャワラ大統領が2選。
  1989年9月、両国の関係悪化に伴いこれを解消。
  1992年4月、ジャワラ大統領が3選。

   軍政から民政移管へ

  1994年7月、当時29歳のヤヒヤ・ジャメ陸軍中尉による無血クーデターでジャワラ大統領はセネガルへ
       亡命、長期政権に終止符が打たれた。その後はジャメを国家元首とする軍政が敷かれた。
  1994年11月、准将校によるクーデター未遂。
  1995年1月、サバリー副大統領、サデイブー内相によるクーデター未遂。
  1996年8月、1996年8月 改正憲法国民投票。
  1996年9月に行われた大統領選挙でジャメが当選。
  1997年1月の国民議会選挙を経て民政移管を果たした。
  2001年10月、大統領選挙でジャメ大統領2選。
  2002年1月、国民議会選挙。
  2006年3月、チャン軍参謀総長によるクーデター未遂。
  2006年9月、大統領選挙、ジャメ大統領3選。
  2007年1月、国民議会選挙。
  2011年11月、大統領選挙、ジャメ大統領4選。
  2012年3月、国民議会選挙。
  2013年10月2日、ガンビアは同日付けで英連邦から離脱したことを発表した。
  2014年12月30日、武装した軍離反者や大統領警護隊のメンバーらによるクーデター未遂が発生したが、
          首謀者らは殺害された。

   政治

  ガンビアは共和制・大統領制を採用する立憲国家である。現行憲法は1970年4月24日に制定され、
 幾度かの改正を経ている。国家元首である大統領は国民による直接選挙で選出され、任期は5年。再
 選制限はない。大統領の強大な権力は憲法により保障されている。副大統領職あり。
  行政府は内閣だが、実際の行政権は大統領が行使し、内閣はそれを補佐する執行機関に過ぎない。
 首相職もなく、全閣僚は大統領が任免する。したがって内閣の権限は極めて小さく、実質的には大統
 領の顧問団として機能している。立法府は一院制の国民議会である。全53議席のうち、48議席は国民
 の直接選挙によって選ばれ、残りは5議席は大統領が任命する。任期は5年。最高司法機関は最高裁判
 所である。主要な政党としては、1996年にヤヒヤ・ジャメが自らの大統領選出馬と民政移管に備えて
 結成した愛国再建同盟があり、国民議会で絶対安定多数を占めて強力な支配体制を敷いている。最大
 野党は統一民主党 (UDP)(英語版)。ダウダ・ジャワラの長期政権を支えた人民進歩党 (PPP)(英語
 版)は、1994年のクーデターでジャワラが亡命するとその後の国政参加を禁止されて衰退、2005年に
 民主主義と発展のための国内連合(英語版)に合流した。

   国際関係

  隣国セネガルとの関係は深く、1982年から1989年までセネガンビア国家連合を形成していたが、方
 向性の不一致により解散した。しかし現在は再び良好な関係にある。ガンビアはパレスチナを国家承
 認しており、イスラエルの存在を認めていない。その背景には、ガンビア国民のほとんどがイスラム
 教徒であることから同じイスラム教徒のパレスチナ人に非常に同情的なことが挙げられる。またヤヒ
 ヤ・ジャメ大統領は厳格なイスラム主義者であるとともに、徹底した反米・反イスラエル主義者でも
 あり、このため同じ反米路線を採るイランやシリア、そしてベネズエラといった国との関係を強化し
 ている。
  ガンビアは長年にわたって中華民国(台湾)を承認する数少ない国の一つだったが、中華人民共和
 国との貿易額が増大するにつれてその外交関係はぎくしゃくしたものとなり、ついに2013年11月15日
 には台湾との国交を「国家の戦略的利益のため」断絶したと発表した。
  近隣諸国との友好関係の維持に努めるとともに、イスラム諸国圏との緊密なつながりを構築してい
 る。1994年の軍事クーデター発生以降、西側諸国より新規援助停止を含む厳しい措置をとられてきた
 が、1996年以降民主化プロセスの進展に伴い1990年代後半に援助は再開された。2005年後半には隣国
 セネガルとの関係が一時悪化した。両国間には依然貿易面等において解決すべき課題があるものの、
 全体として関係は改善に向かいつつある。2006年7月にはアフリカ連合(AU)総会を首都バンジュー
 ルで開催するなど、アフリカ内でのプレゼンス強化を図るとともに、国際通貨基金(IMF)からの支
 援や諸外国からの援助の受入に努めている。また、国連PKOにも多数の要員を派遣している。

   地方行政区分

  ガンビアは5つの地方と1つの市に分かれる

   バンジュール(Banjul)
   上流地方(Upper River)
   中流地方(Central River)
   下流地方(Lower River)
   北岸地方(North Bank)
   西部地方(Western)

   主要都市

  主要な都市には首都バンジュールの他、セレクンダがある。

   地理

   面積

   総計 1万1,300平方キロメートル(159位)〔日本の岐阜県程度〕
   水面積率 11.5%

   人口

   総計(2011年) 179万人(世界銀行)人
   人口密度     137人/km2


  アフリカ大陸最小の国。ガンビア川の両側に国土を持ち、その最大幅は48キロメートルに過ぎない。
 国土のうち1,300平方キロメートルをガンビア川が占める。ガンビアはかつてイギリス領であり、イギ
 リスとフランスが1889年にガンビア川の約200マイルをイギリス領とすることで合意した。
  国土の大部分がサバンナ地帯である。

   経済

  農業が主で。落花生や米が主要生産品。英語が通じることもあって、ヨーロッパ諸国から気軽に行
 ける観光地として近年観光業が盛んになりつつある。

   交通

  バンジュール港はアフリカ西海岸で有数の天然港である。そこからは、3,000トン級の船舶がガン
 ビア川を遡行して内陸のジャンジャンブレアまで航行が可能。またバンジュールにあるユンダン国際
 空港は、全長3,600メートル、幅員45メートルの滑走路を持つが、スペースシャトルの非常時代替着
 陸地としてNASAの資金及び技術援助のもと1989年に改修されたもの。

   国民

   民族

  2003年の国勢調査によれば、ガンビア国民の内訳は、マンディンカ人が42%、フラ人が18%、ウォ
 ロフ人が16%、ジョラ人が10%、セラフリ人が2%、その他のアフリカ系民族が4%、非アフリカ人が1%と
 なっている。アクと呼ばれる解放奴隷のクレオール人も少数だが存在する。
  アレックス・ヘイリー著のアメリカの黒人奴隷を描いた小説、及びそれをもとにしたテレビドラマ
 『ルーツ』に登場するクンタ・キンテは、このガンビア出身のマンディンカ人をモデルとしている。

   言語

  公用語は英語だが、マンディンカ語、フラニ語、ウォロフ語などが日常的に使われている。

   宗教

  ムスリムが90%、キリスト教が8%、アフリカ在来宗教が2%となっている。

   教育

  教育制度はイギリスの制度を基にしている。2010年の推計によれば、15歳以上の国民の識字率は50%
 (男性:60% 女性:40.4%)であル。2011年の教育支出はGDPの3.9%だった。
  高等教育機関として、バンジュール郊外のカニフィングにガンビア大学(1999年)がある。

   文化

   世界遺産

  ガンビア国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が2件登録されている。

  クンタ・キンテ島と関連遺跡群 -(2003年、文化遺産)
  セネガンビアの環状列石(セネガルと共有、2006年、文化遺産)

   祝祭日:割愛

   通信とメディア

  国営のGRTSはガンビアで唯一の放送局である。

                                   以上

 p.3 ・著者は、NGO(non-governmental organizations:非政府組織)や国際機関(多数の国家が、共通
    の目的を共同で実現するために合意によって作る国際的な団体のこと。および、条約によって設立
    されている組織である。国際機構とも訳される)で、援助や開発の現場に直接関わるような仕事が
    したいと、漠然と思い描いていた。2006年春頃。

 p.4 ・深刻な貧困問題。なお、貧困と貧乏の違いについては、以下の書物が示唆を与えてくれる。

      cf.『昭和のエートス』、内田樹 著、文春文庫、2012年。

 p.5 ・1994年の軍事クーデター。上記「軍政から民政移管へ」(ウィキペディア)を見よ。

 p.7 ・WFP(United Nations World Food Programme:国連世界食糧計画)は、食糧欠乏国への食糧援助
    と天災などの被災国に対して緊急援助を施し、経済・社会の開発を促進する国際連合の機関である。
     バンジュール(首都)にあるこの機関の事務所に勤務する日本人女性を、台湾の大使秘書である
    ルーさんに紹介してもらう。
     註:2013年11月15日に、ガンビアは台湾との国交を「国家の戦略的利益のため」断絶した。

     → Shelter for Childrenという児童虐待の問題に取り組むNGOに参加。実際には、現地の小学
      校で英語教師のボランティアになる。子どもたちは、英語よりもむしろ日本語に興味を示す。
     → さらに、地元の新聞社も訪問。

 p.8 ・ガンビアでは、ジャーナリストの権利が脅かされている。

 p.9 ・言論・思想・報道の自由が憲法で保障されているにも拘らず、ジャメ大統領が政権に就いて以来、
    それらは有名無実になった。「報道の自由の敵ブラックリスト」(NGO「国境なき記者団」)にも、
    ジャメ大統領の名前が掲載されていた(2005年)。

      Daily Observer(政府系の新聞社) ⇔ The Point & Foroyaa(独立系の新聞社)

 p.11 ・The Pointの記者と一緒に取材できることになった。

 p.12 ・セイン編集長の友人ハイダラが暗殺されている(2004年)。
    ・2006年、The Independent(ガンビアで最も政府に批判的な新聞)が、政府の圧力で発行禁止に
     なった。

 p.13 ・「ルーツフェスティバル」の取材に同行。

     cf.アレックス・ヘイリーの小説『ルーツ』

 p.15 ・ガンビアでは、ジャーナリストは金にならないし、人からの尊敬も受けない。

 p.20 ・ガンビアからアメリカ合衆国に亡命した、パー・ンデリー・ンバイというジャーナリストが立ち
     上げた、オンライン新聞 Freedom Newspaper 。そこに、記事を送っている。
    ・ガンビア政府のスキャンダルや汚職、人権問題に関するニュース。
    ・命を賭けて独立系のメディアを守るジャスティス記者。

 p.21 ・ガンビアの平均寿命は50代半ば。

 p.22 ・ガンビアでは、500ドル(約5万円)あれば新聞社を設立できる(ハビブ・シセイ記者)。

 p.23 ・搾取と奴隷化を進めるメディアの責任。

 p.24 ・人身売買と売春。

 p.25 ・売春が日常的になっているため、子どもたちにとっては最悪の環境である。
    ・引用:「貧困、女性問題、児童労働、人身売買、教育問題……今思えば、売春宿を切り口にガン
         ビア社会を色々な視点から取材し、ストーリーとして伝えることができたはずだった」。

 p.26 ・引用:「六月中旬、滞在が残り少なくなってきた頃、ハビブやジャスティスたちのメディアに対
         する思いを何とか記事にできないかと思うようになった」。
    ・国外退去になるかもしれない新聞記事(Foroyaa)。

 p.29 ・ジャーナリズムを取り巻く環境の悪化。人権活動家やジャーナリストがスパイ容疑で逮捕され、
     一緒に働いていた記者がアメリカに亡命。

 p.30 ・ハビブが移った Today 紙が日刊紙になる。
    ・ジャーナリストにとってどんどん危険な状況になり、ガンビアは「反メディア症候群」が席捲し
     ている(ハビブ)。  
    ・そのハビブが原因不明の死亡。

 p.31 ・ジャスティスとアラジに忍び寄る危険。

 p.32 ・傷害事件(ジャスティスが被害者)を届けても、まともに対応しない警察。
    ・その後、ジャスティスはセネガルに亡命。

 p.33 ・報道の自由のない国ガンビアの衝撃。

 ********************************************


 権力とはいったい何だろうと思わざるを得ないガンビアの実態です。強権を発動して、他者の自由を奪い、
搾取し、奴隷化する権力など、どこから見ても悪そのものです。もっとも、その権力の中枢にいる人物だっ
て、負けず劣らず自由を奪われ、搾取され、奴隷化されているのです。おのれの歪んだ欲望によって。誰だ
って自己本位に生きたいのでしょうが、社会というものが存在する以上、他者の存在を慮らなければなりま
せん。そして、その必然性を熟知することこそ、実は「自由に生きる」ということではないでしょうか。
 次回は、「第2章 難民と内戦の爪痕 ── リベリア」に言及します。

                                                 
 2016年2月12日(金)

 今日は代休日ですが、若干の仕事が残っており、それも今日中に仕上げておく必要があるので大学に出て
来ています。あと1件仕事を済ませれば解放ですが、その1件がけっこう厄介です。

                                                
 2016年2月11日(木)

 今日こそ休み倒そうと思ったのですが、残念ながら出勤する必要がありました。でも、もう帰ります。

                                                
 2016年2月9日(火)

 10時間を超す長丁場の卒論発表会が終わりました。卒論生の諸君は、自分の力作を無事発表することがで
きてよかったと思います。現在、21時少し前です。簡単な夕食を済ませましたが、残念ながら、まだ仕事が
残っています。「(院)総合高知研究」の論集の編集です。それを片付けたら帰れます。もう少しです。

                                                
 2016年2月8日(月)

 現在22時。ようやく明日の卒論発表会の準備が整いました。疲労困憊なので、帰ります。

                                            
 2016年2月7日(日)

 当然のごとく休日出勤しています。山積されている仕事が待っているからです。現在、精力的にある学生
の卒論を読んでいます。力強い論考なので、こころが洗われます。最近、論理的にも倫理的にも無理を押し
通す人がいたり、さまざまな事情を勘案できなくて、杓子定規な判断をする人が多いと感じていましたので、
癒し効果もあります。理性に訴えて、「おかしなことはおかしい」ということが通らなければ、世界は真っ
暗闇になります。もっと光を、理性の光を、と叫びたい気分です。
 現在、22時、まだまだ大量の仕事が目の前にあるので、気張っていきたいと思います。

                                                
 2016年2月6日(土)

 以前にも書いたことがあると思いますが、「ホウレンソウ(報告・連絡・相談)」の大切さを了解できて
いない学生がいて、本当に困ります。自分に関する大事なことなのに、自分自身の関心が希薄とは、いった
いどういう事態なのでしょう。自分では何もしないでも自動的に誰かがやってくれるとでも考えているので
しょうか。少なくとも、自分に深く関係することには、つねに注意を払ってほしいものです。その人に連絡
が取れない関係者のストレスは高まる一方です。そういう人は、自分が連絡が取れなくてやきもきしている
立場に立たされたことがないのでしょうか。理解に苦しみます。
 さて、小生の「武藤ゼミとはどんなゼミ?」に、学生が目指すべき目標を掲げているコーナーがあります。
二つの目標が掲げられていました。それは、

 メンタル・タフネスを身につけよう! 
 無暗に他者に甘えない独立独歩な人間になろう!

でした。過去形で語るのにはわけがあります。それらに加えて、もう一つ目標を掲げたからです。

 ホウレンソウ(報告・連絡・相談)は忘れず遅れず手短に!

……こんなことは言われなくても実行してほしいものです。

                                                  
 2016年2月5日(金)

 今日も雑用に明け暮れました。もっとも、雑用でも立派な仕事ですので、手を抜くわけにはいきません。
そんなわけで、すでに21時40分。これから体力と気力の続く限り、卒論を読みます。

                                               
 2016年2月4日(木)

 2月16日(火)-2月19日(金)に、集中講義「人間の尊厳」(共通教育)を開講する予定ですが、そのテ
キストである『フォト・ドキュメンタリー 人間の尊厳 ── いま、この世界の片隅で』(林典子 著、岩波
新書、2014年)の重要部分の抜書を以下で行いたいと思います。併せて、関連項目のメモ書きも添えます。
 ……と思ったのですが、あまりに忙しくて、すでに着手する気力を失ってしまいました。現在22時過ぎ。
そろそろ帰ります。

                                                
 2013年2月3日(水)

 今日も猛烈に忙しい日でした。もうすぐ日付が変わります。

                                                  
 2016年2月2日(火)

 今日は代休日でしたが、仕事が山積みなので、当然のごとく出勤しました。なお、小生が開講する集中講
義が、以下のように決定しました。

 **********************************************

  集中講義のお知らせ

 授業題目:「人間の尊厳」(新規開講科目)
 単位数:2単位
 授業種別:講義
 開講日:2016年2月16日(火)-2月19日(金)
 教室:共通教育棟221番教室 * 最終的に、325番教室に落ち着きました。
 定員:180名 * 実際に登録したのは、81名でした。
 履修開始年次:1年次
 履修期間:2学期(特別授業期間に15コマを予定+試験)
 区分:教養科目(平成20年度以降入学生対象)

  新規開講の理由:

  国の内外を見渡せば、諍いや紛争、いじめや虐待、ハラスメントやいやがらせ、等々、さまざまな
 ところで「人間の尊厳」が冒されている場面に出くわします。いまこそ、「人間の尊厳」とは何かと
 いう問いを立てて、真摯に思索してみるべきでしょう。学生諸君にあっても、この問いは大事な問い
 になるでしょう。
  そこで、「人間の尊厳」と題した教養科目人文分野の講義を立て、一人でも多くの学生に、思索の
 ヒントを提供しようと思います。「あなた任せ」ではなく、自分たちの手で未来を切り開いてほしい
 からです。それには、改めて上記の問いと向かい合う必要があります。
  具体的には、今年度2学期の「特別授業期間(2016年2月16日-19日)」において、「集中講義」の
 かたちで開講します。

 テキスト:『フォト・ドキュメンタリー 人間の尊厳 ── いま、この世界の片隅で』、林典子 著、
       岩波新書、2014年。
 

 授業計画(シラバス)15コマ+試験

 原則として、テキストの記述に沿って講義を展開します。


 第一日 2月16日(火)

    第3限目   オリエンテーションと小テスト
 
    第4限目   第1章 報道の自由がない国で ── ガンビア

    第5限目   そのつづき

 第二日 2月17日(水)

    第1限目   第2章 難民と内戦の爪痕 ── リベリア

    第2限目   そのつづき

    第3限目   前回までのまとめ
 
 第三日 2月18日(木)

    第1限目   第3章 HIVと共に生きる ── カンボジア
    
    第2限目   そのつづき

    第3限目   インテルメッツォ(閑話休題)
    
    第4限目   第4章 硫酸に焼かれた女性たち ── パキスタン
           
    第5限目   そのつづき

 第四日 2月19日(金)

    第1限目   第5章 震災と原発 ── 日本
    
    第2限目   そのつづき

    第3限目   第6章 誘拐結婚 ── キルギス
    
    第4限目   そのつづき
           
    第5限目   試験

 その他の項目に関しては、武藤整司の他の講義を参照してください。

                                         以上

 **********************************************

 興味のある学生は、ぜひ受講して下さい。けっこうハードですが、4日間で2単位を取得できる可能性が
あります。

                                                 
 2016年2月1日(月)

 月が替わりました。まだまだ忙しい日が続きますが、気分は悪くないです。
 さて、修論が提出されました。ほっとしています。もっとも、まだ終わったわけではないので、気が抜け
ません。それにしても、今日の雑用の嵐はすごいものでした。やっと、一息つきました。22時45分です。明
日は代休日ですが、卒論を読まなければならないので、当然のごとく出勤です。それでも、仕事が次々と片
づいていくので、けっこう爽やかな気分です。

                                                 
***このページは一般に公開されています。リンクアドレスには下記をご利用ください。***
http://souls.cc.kochi-u.ac.jp/?&rf=5310
 Copyright (C) 2005, Kochi University Faculty of Humanities and Economics All Rights Reserved.