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 月が替わりましたので、「日日是労働スペシャル」の続篇をお届けします。「日日是労働スペシャル
LIII (東日本大震災をめぐって)」が正式名称ですが、通称を用いることにしましたので、「驢鳴犬吠
1511」となります。そういうわけで通称を用いますが、内容に変わりはありません。主として、今
回の大災害(原発の過酷事故を含む)に関係する記事を掲げますが、特定の個人や団体を誹謗中傷する
目的は一切ありません。どうぞ、ご理解ください。人によっては、多少ともショッキングな記事がある
かもしれませんので、その点もご了承ください。なお、読み進めるほど記事が古くなります。日誌風に
記述しますが、後日訂正を載せるかもしれません。あらかじめ、ご了解をいただきたいと存じます。
 また、ご質問、ご意見等のおありの方は、muto@kochi-u.ac.jp 宛にメールをいただければ幸甚です。

                                               
 2015年11月28日(土)

 DVDでドキュメンタリー映画の『無知の知』(監督:石田朝也、「無知の知」製作委員会、2014年)を観
ました。「これが日本の現実」ということを痛感しました。それは、日本(あるいは、日本人)の何もかも
曖昧にしてしまうあり方が、この映画に端的に現われているからです。およそ、原発事故の深刻さに関して、
誰もが微温的な反応しか示していません。つまり、事故後、何も変わっていないのです。そういう意味で、
「日本の現実」を鋭く写し撮った映画と言えるでしょう。もっとも、もう何が起こっても驚きはしません。
誰のせいだとか、責任の所在はどこにあるかなどと、穿鑿する必要もないような気がします。ある日突然、
そのツケがわたしたちに降りかかってくるだけです。ただそれだけです。
 内容を以下で確認しましょう。例によって〈Movie Walker〉のお世話になります。執筆者に感謝します。
なお、一部改変しましたが、ご寛恕を乞いたいと思います。

   〔解説〕

  2011年の東日本大震災に続く福島第一原発事故をきっかけに、原発について自分が何も知らないこ
 とに気付いた映画監督の石田朝也が、多数の関係者にインタビューを重ねたドキュメンタリー。イン
 タビューの相手には、菅直人、細川護煕といった歴代総理経験者から事故当時の内閣関係者、原子力
 の専門家など様々な人物が登場する。

   〔内容〕

  原子力は未来永劫、私たちの文明を照らす光だろうか? 東日本大震災と福島第一原発事故を経験
 した私たちは、もはやその神話を信じることができない。しかし、発達した文明を手放すこともでき
 ずにいる。2011年の大震災、そして原発事故以降、監督の石田朝也は原発に疑問を抱いた。自分の目
 で確かめるため、福島の人々や震災直後の混乱した官邸と福島第一原発の状況を知る当時の内閣関係
 者にインタビューを決行。さらに、原子力工学の第一人者に“原発って何?”という質問をぶつけ、
 太陽光発電関係者には“新しいエネルギー”について尋ねる。そこから見えてくるのは、それぞれの
 立場から描き出される日本の未来の設計図。そしてそれぞれの正義。時には“何しにきた!”と怒ら
 れ、“不勉強”と呆れられたりもするが、その歩みを止めることはない。怖いもの知らずの“無知な
 男”石田朝也。その突撃インタビューを記録した。

 なお、『無知の知2』が企画されているそうなので、どう変わるか、ほんの少しだけ期待しています。

                                                  
 2015年11月27日(金)

 仕事が多すぎて、何から着手すべきか迷っているうちに、時間は刻々と過ぎ去り、小生を苛み続けます。
まるでビュリダンの驢馬になったかのように。


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 〔ウィキペディア〕執筆者に感謝! ただし、少々手を加えました。ご容赦!

 ビュリダンのロバ(英: Buridan's ass)とは、主に、心理学の分野で用いられている例え話。おなかを
空かせたロバが、左右2方向に道が分かれた辻に立っており、双方の道の先には、完全に同じ距離、同じ量
の干草が置かれていた場合に、ロバはどちらの道も進まずに餓死してしまう、という意思決定論を論ずる場
合に引き合いに出される。一説では、スコラ学派であるフランスの哲学者ジャン・ビュリダンが「主張する
理性・理論に対して、理性・理論を強調し過ぎると餓死してしまうから自由意志が必要であること」を主張
するための例え話とされるが、出典が定かではない。

  解説

 この場合、ロバには、

  右の道を進み干草を食べる
  左の道を進み干草を食べる
  立ち止まったままで餓死する

の3つの選択肢が考えられる。3つ目の選択肢は他の2つに比べて明らかに痛みが大きいはずであるが、最
初の2つにはいわゆる「選択の壁」があり、その壁が餓死という痛みよりも大きかったため、ロバは3つ目
を選んだと想定される。その意味で本件はこの「選択の壁」が如何に大きいか(時に「餓死」よりも大きい)
を論ずるための例え話であると想定される。「選択の壁」の正体としてはいろいろ考えられる所であるが、
例えば以下の2つが挙げられる。

  選択を誤ったという痛み

 動物(時に人間。以下「人間」と記述)は、選択を行った場合、かなりの確率で「別の道が良かったので
はないか」という、後悔・不安の念に駆られ、時にそれは大きな「痛み」となる。本件の場合、優劣を判定
する因子が全くなかったのであるから、どちらかを選択した場合、このような痛みが生じる可能性が高いこと
が想定される。

  選択する因子の不在

   例えば、システムの場合、
      Aの場合⇒甲
      Bの場合⇒乙
      それ以外の場合⇒甲

等と、必ず“それ以外の場合”を設けるが、人間の場合、生物学的にそれが欠如しているか、弱い場合が多
い。「如何なる場合でも、必ず選択の因子を探し出して選択せよ」という生きるための本能かもしれない。
本件の場合、選択の因子を見つけられず、デッドロック状態に陥った、と想定される。この因子は何でも良
い。例えば、「えさ台の色が右の方が好き」とか、一般に「左」よりも「右」の方が好き、とかでも構わな
いが、それらが一切ない場合に起こりうるケースである。
 これらの壁を克服するために人間が編み出した方策としては、棒倒しや鉛筆ころがし等がある。「棒がこ
ちらに倒れたから」とか「神のお告げがあったから」などにより、1の痛みを和らげ、2の因子を作り出し、
いわゆる「餓死」を避けるための方策であるが、ロバにはこのような方策を編み出す能力がないため、とい
う例え話になっている、と想定される。
 また、3つ目の選択肢には、最初の2つの選択肢と異なる点として「不作為」であることも特徴である。
もし、仮に、3つ目の選択肢にも大きな壁があれば、ロバは最初の2つの選択肢のどちらかを選択すること
もあっただろうが、「不作為」には大きな壁はなく選択しやすい、という特徴がある。
 ただし、本件はあくまで「不作為」が餓死という大きな痛みを伴う場合の例え話であり、場合によっては、
結果的に「不作為」が一番痛みの少ない場合も存在するので、注意が必要である。

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 現代人(端的には、小生)は、座して死を待っているのでしょうか……。しかし、それではビュリダンの
驢馬になるだけです。決断しなければならないのです!

                                                 
 2015年11月25日(水)

 今日も『昭和のエートス』(内田樹 著、文春文庫、2012年)からの抜書を試みましょう。例によって、
文脈を無視しますが、ご寛恕ください。なお、今回が最終回です。


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   第4章 老いの効用、成熟の流儀 

   アジア的宗教性

 p.244 ・一神教が生れたのはエジプト、アラビアという中近東のかなり狭いエリアに集中しているが、
     ここは環境的多様性においては、世界でもきわだって単調な場所である。気象地形植生に変化が
     なければ、生物種の方もことさらに多様化してみせる義理がない。この生物種の変化の少なさと、
     神性の単一性(あるいは「神性の首尾一貫性」)の間にはおそらく何らかの関係がある。

 p.248 ・私たちは清浄と穢れ、繁殖と枯渇、善と悪、生と死の織りなす対話を感知する。だから、対話
     が気分よく運んでいる場所にいると安らぎを覚え、バランスの悪いところにいると、不安になる。
     私たちは無意識的にこのかすかなバランス感を手がかりにして自分の働くべき場所、安らぐべき
     場所を選んでいる。
      もちろん、そのようなものを感じない人もいるし、感じるはずもないと主張する人もいる。そ
     ういう人たちはもっぱら外形的・数値的なデータに基づいて、自分のいるべき場所を選択する。

   お金と幸せ

 p.260 ・ここ(註:「金持ちであることの利点の一つは金のことを考えなくてよいことである」という
     文のこと)からわかるのは、私たちが人を羨むとき、私たちが羨望しているのは、美質そのもの
     ではなく、そのような美質について羨まれている当の人間は意識しないでいることができるとい
     うあり方なのである。

   たいせつな本

 p.267 ・中島敦の物語は『李陵』も『弟子』もどれもそんなふうに(註:古伝の逸話を簡潔に、主観を
     まじえず祖述する仕方で)始まる。読者はいきなり千年の時代、万里の距離を超えて、見知らぬ  
     国の見知らぬ人物の、前代未聞の異様なる経験に立ち会わされる。そして、しばしばわずか数頁
     の記述のうちに物語の中では数十年の歳月が流れ、登場人物たちは再び時空の彼方に消え去って
     ゆくのである。

 p.269 ・秋水(註:幸徳秋水のこと)は明治末年に大逆事件に連座して刑死した。『兆民先生』を読むと、
     勝海舟に始まり、坂本竜馬、中江兆民を経て幸徳秋水に至る。「反逆の系譜」が日本的精神の一
     つの巨大な山脈をなしていたことが知られる。そして、その系譜が途絶してしまったことを私も
     また「無窮の恨み」をもって悔いるのである。
    ・異類憑依は文学の基本技法の一つである。作家自身と人種、言語、性別、習俗、価値観、美意識
     の異なる語り手を造形し、その語り手の言葉を通じて、作者自身とその読者たちを共に軛してい
     るエゴサントリックな臆断を戯画化するという批判の技である。

   同時代人へのオマージュ ── 伊丹十三、手塚治虫、長谷川町子

 p.275 ・「空気」を伝えることができるのは『サザエさん』のようなタイプの物語だけである。一九五
     〇年代の終り頃、私たちが享受していた透明感と活気を私は今でも『サザエさん』を読むとはっ
     きりと思い出すことができる。でも、それはどのような統計資料にも書き残すことができない種
     類の「時代の空気」なのである。

   アルジェリアの影 ── アルベール・カミュと歴史

 p.290-291 ・「いかなる上位審級も自分の選択の正しさを保証してくれないときにも、なお人は正しい
       選択を行いうるか?」という問いこそカミュが最初から最後まで手放すことのなかった問い
       だった。

   あとがき

 p.306 ・他罰的な語法で問題を解決しようとする作法には私はどうしてもなじむことができないのです。

 p.307 ・オリンピックであれなんであれ、「国家的威信」や「民族的威信」を賭けて額に青筋を立てる
     人間が私は苦手です。

   文庫本のためのあとがき

 p.314 ・そういうふうに「起こるはずだったのに、起こらなかったこと」について事後的に考察すると
     いうことを歴史家はあまり(というか全然)しませんが、歴史の文脈のどこに重大な「段差」や
     「転轍点」があったのかを知るためには、「起きたこと」を因果関係の糸で結んでみせるよりも、
     むしろ「起きてもよかったのに起きなかったこと」を個別に精査してみる方が有用です。これは
     僕の経験的確信の一つです。

 p.317 ・僕が言いたいことは、当時も今も変わりません。教育に市場原理を持ち込むな。教育に政治イ
     デオロギーを持ち込むな。教育の目的は次代を託するに足るだけ成熟した公民を育成すること
     である。一定数の「成熟した公民(小生自身は、「公民」という言葉が苦手ですが……)」が継
     続的に備給できなければ、どんな共同体も長くは保たない。それゆえ、教育の受益者は本人では
     なく、社会全体である。

 ********************************************


 今日が最後です。明日の授業までにまとめたかったので、何とか間に合いました。内田樹自身は謙遜して
いますが、彼の考えはただの少数派の意見ではなく、あまねく浸透してほしい正統派の考えです。最後の引
用文で用いられている「成熟した公民」づくりが日本で当たり前になれば、世の中は断然よくなると小生も
そう考えおります。「驢鳴犬吠1509」の「9月30日(水)」の記事にこのブログの主旨を明記しておき
ましたが、まさに「3・11」以後の日本を生きるために、内田樹の考えは傾聴に値すると断言できます。も
し、まだ繙いたことのない人は、是非この本を手に取って欲しいと思います。

                                                
 2015年11月24日(火)

 今日も代休日で出勤の義務はありませんが、休んでいる暇はありませんので、大学に来ています。主に、
明後日の「思想論基礎演習」(オムニバス)の準備をしなければならないからです。その一環として、『昭
和のエートス』(内田樹 著、文春文庫、2012年)を以下に引用します。例によって、文脈を無視しますが、
ご寛恕ください。


 ********************************************

   第3章 状況への常識的発言

   記号的な殺人と喪の儀礼について

 p.195-196 ・無差別に人を殺すことを決意した人間の中にある、私たちの理解を超えた「闇の部分」に
       ついてなにもわからないままに、あるいはそのようなものが存在しないかのように処方され
       た「再発防止」策は、闇を隠蔽し、拡げるだけだと、私も思う。

 p.197 ・個人的経験が人間をどう変えるか、その決定因は、出来事そのもののうちにあるのではなく、
     出来事をどういう「文脈」に置いて読むかという「物語」のレベルにある。

 p.197-198 ・「ハラスメント」にはさまざまなヴァリエーションがあるが、私たちがいま採用している
       のは、あるシグナルをどう解釈するかは解釈する側の権限に属しており、「加害者」側の
       「私はそんなつもりで言ったんじゃない」というエクスキュースは無効であるというルール
       である。

 p.198-199 ・私たちはメッセージを適切に解読するために、実際にはたいへん面倒な手続きを踏んでい
       る。言葉が語られたときの口調や表情、身ぶりといった非言語的シグナル、前後のやりとり  
       とのつながり、どういう場面でどういう立場からの発言であるかという「文脈」の発見、発
       言者のこれまでの言動の総体の中に位置づけてその暗黙の含意や事実認知上の信頼性、遂行
       的な確実性を査定すること……そういった一連の手続きを経てはじめて、無限の解釈可能性
       のうちから、とりあえずもっとも適切と思われる解釈にたどりつくことができる。
        面倒な仕事である。
        特に、「おそらく『こんなこと』を言おうとしているのであろう」という暫定的な解釈に
       落ち着きかけたところで、その解釈になじまないようなシグナルに気づいて、自分がいった
       ん採用した解釈を捨てて、もう一度はじめから解釈を立て直す、というのは心理的にはたい
       へんむずかしい。
        この面倒な仕事をしないですませたいという人が増えている。増えているどころか、私た
       ちの社会は、今ほとんど「そんな人」ばかりになりつつある。
        目に付くすべてのシグナルを、「ひとつのできあいの物語」に流し込んでしまえば、メッ
       セージをそのつど「適切に解釈する」という知的負荷はなくなる。
        メディアで「正論」を語っている人々の中に、「話の途中で、自分の解釈になじまないシ
       グナルに気づいて、最初の解釈を放棄する」人を私は見たことがない。少なくとも、この二
       〇年ひとりも見たことがない。これはほとんど恐怖すべきことであると私は思う。知的負荷
       の回避が全国的に「知的マナー」として定着しているのである。

 p.200-201 ・ひとりひとりの人間の個別性には「何の意味もない」ということを前提にしないと、「無
       差別」ということは成り立たない。現実が電磁パルスで書かれたネット上のメッセージと同
       じくらいに「薄く」感じられなければ、こういうこと(註:無差別殺人)はできない。そし
       て、私たちの社会は現実の厚みを捨象して、すべてを記号として扱う術に習熟することを現
       にその成員たちに向かって日々要求している。

 p.207 ・だから、自分が卑小な人間であることに苦しみ、自分を大きく見せようとする人間は、必ずコ
     ピーキャット(註:模倣犯のこと)になる。そして、私たちの社会には自分が卑小な人間である
     ことに苦しみ、自分を大きく見せようとすることに必死な人間たちが犇めいている。
      コピーキャットによる犯罪の無限の増殖を防ぐために私たちがなすべきことは、事件を「記号
     的に」解釈することではない。「記号的に解釈されることをめざしてなされる事件」の発生の構
     造そのものを解明することである。

   死者とのコミュニケーション

 p.211 ・死者が探す「隙間」とは、死者たちの生前の夢や理想や責務、つまり死者たちが「なそうと望
     んだこと」が忘れられることである。「誰もそれを引き継いでくれる人がいない仕事」が残され
     たときに死者は戻ってくる(この文に傍点あり)。自分の代わりをする人間が誰もいないときに
     死者は戻ってくる。だから、「喪の儀礼」の本旨は死者のすべての欲望を数え上げ、それを順次
     満たしてゆくと約束することに存する。

 p.212 ・逆説的なことだが、死者はあたかもそこにいるかのように語りかけられると立ち去り、あたか
     もそこにいないかのようにふるまわれると立ち去ることができない。
      だから、緩和医療の従事者がなすべきことがあるとしたら、それはたぶん患者を「理解する」
     ことではなく、「あなたのことをもっと知りたい」という懇請の言葉を告げることだろう。

   まず日本語を!

 p.217 ・「……日本語運用が不自由であることは本人に競争的な不利をもたらさない」というような不
     思議なロジックで日本語教育の崩壊状態を放置している人々さえいる。私にはこれは亡国の徴候
     のように思われる。
      私が提言するのは、ロジカルで音韻の美しい日本語の名文をとにかく大量に繰り返し音読し、
     暗誦し、筆写するという訓練を幼児期から行うことである。
    ・独創性は母国語運用能力に支えられるというと意外な顔をする人が多い。だが、創造というのは  
     自分が入力した覚えのない情報が出力されてくる経験のことである。それは言語的には自分が何
     を言っているのかわからないときに自分が語る言葉を聴くというしかたで経験される(「自分が
     何を言っているのかわからないときに自分が語る言葉を聴く」に傍点あり)。自分が何を言って
     いるのかわからないにもかかわらず「次の単語」が唇に浮かび、統辞的に正しいセンテンスが綴
     られるのは論理的で美しい母国語が骨肉化している場合だけである。

   「テレビの語法」の寒々しさ

 p.220 ・「こんなことが許されてよいのでしょうか?」というのは典型的なテレビの語法である。企業
     の不祥事でも、政治家のスキャンダルでも、ニュースキャスターはコメントの締めにこの言い方
     を愛用する。でも、私はこのことばを聴くたびに寒々しい思いを禁じ得ない。
      ここには二つのメッセージが含意されている。一つは「私はこの事件の発生には何の責任もあ
     りません」であり、もう一つは「私はこの事件が解決しないことについて何の責任もありません」
     である。その事件は彼のあずかり知らぬところで起き、彼のあずかり知らぬところで解決されね
     ばならぬ問題なのである。
    ・教育について語る場合でも、外交について語る場合でも、少子化について語る場合でも、そこに
     は「この問題の深刻化は私に責任の一端があります」と認め、「この問題が解決されない場合は
     私が責任をとるほかないでしょう」という人間は一人も出てこない。

 p.221 ・「無垢・無知・無責任」という立場を先取りすることで批判をまぬかれようとするにとどまら
     ず、被害者のような仏頂面までしてみせるこの定型的な対応に現代日本人はほとんど呪縛されて
     いる。
    ・わが国の総理大臣(註:この文章が書かれた2007年4月現在の総理大臣は安倍晋三)は外交内政
     においてすでに多くの失敗を犯しているが、彼はそのどれについても有責であることを言明して
     いない。彼の掲げた公約のいくつかが(あるいはほとんどが)実現しなかった場合でも、彼が任
     期を出来る限り延長する努力を放棄することはないだろう。

   貧困層から効率的に収奪するビジネスモデル

 p.225 ・けれども、できるだけ多くの若者たちが、その境涯(註:ネットカフェ難民であること)から
     脱出できない程度に貧困であり続けることから利益を得るというビジネスモデルを作り出したこ
     とに彼ら(註:ネットカフェの経営サイド)は疚しさを感じることはないのだろうか。

   「モンスター親」は存在しない

 p.227 ・自己利益追求のために人々があまりに要求をつり上げ、他者に対して過度に不寛容になると、
     社会システムが機能不全に陥ることがある。クレームによって確保される利益と不寛容がもたら
     す不利益のどちらがより大であるかについては、慎重な吟味が必要だろう。

 p.228 ・だが、大切なのは被害者加害者の白黒をつけることではない。自分のしようとしている社会的
     行動のもたらす利益と不利益を冷静に考量する習慣を市民一人一人が身につけることである。
     「一〇〇%の正義」が「一〇〇%の不正」を告発するという単純な図式こそが私たちの社会シス
     テムの円滑な機能を妨げているという事実に私たちはそろそろ気づくべきだろう。

   彼らがそれを学ばなければならない理由

 p.230 ・学ぶものは自分が学ぶことの意味を適切に言うことができない。だからこそ学ばなければなら
     ないのである。

   著作権についての原理的な問い

 p.233 ・作家というものはほんらい性別や年齢や扶養家族の有無とは関係のない職業である。むしろ、
     そのような職業上の無限定こそがこれまでその創造性や生産性を担保してきたのではないのか。
     「標準的な作家像」をこのように限定することで文学が何を得て、何を失うことになるのか。こ
     れは少し立ち止まって考量した方がいいように思う。

 p.234 ・私自身は、「パブリック・ドメイン」という考え方が大切だと思っている。ある作品が人間や
     世界のなりたちについての有意な情報を含んでおり、その美的価値を通じて多くの人を癒し励ま
     す質のものであるなら、そのような作品の複製や頒布に、経済的な利益を独占したいという個人
     的動機から著作権者が制限を加えるということは、私の目には「見苦しく」映る。むろん、それ
     は私個人の審美的な好悪にすぎず、これを「正解」として強要するつもりはない。

   頭を冷やすことの大切さ

 p.239 ・近代市民革命から始まって、プロレタリアの名における政治革命も、虐げられた第三世界の名
     における反植民地主義の戦いも、民族的威信を賭けた民族解放闘争も、つねに「被害者」の側よ
     りする「権利の奪還」として営まれてきた。私たちが歴史的経験から学んだことの一つは、一度
     被害者の立場に立つと、「正しい主張」を自制することはたいへんむずかしいということである。

 p.239-240 ・争いがとりあえず決着するために必要なのは、万人が認める正否の裁定が下ることではな
       い(残念ながら、そのようなものは下らない)。そうではなくて、当事者の少なくとも一方
       が(できれば双方が)、自分の権利請求には多少無理があるかもしれないという「節度の感
       覚」を持つことである。エンドレスの争いを止めたいと思うなら「とりつく島」は権利請求
       の心に兆す、このわずかな自制の念しかない。

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 今日はこれくらいに留めておきましょう。第3章が終了したからです。内田樹の発言のすべてに共感して
いるわけではありませんが、考え方の基本的図式に信頼がおけることは間違いがありません。もちろん、彼
のいかにも言いそうなことに、少なからずマンネリズムを感じることがありますが(つまり、彼が嫌うステ
レオ・タイプに彼自身が転落すること)、それはそれで重心がぶれないことの証左ですから、より信頼感が
高まることもあるでしょう。このような発言を粘り強く繰り返す人を小生はあまり知りません。だからこそ、
貴重なのです。若い諸君には難解な部分があるかもしれませんが、経験を積むうちに、内田樹の言いたいこ
とのいくらかは理解できるようになるでしょう。そうなる日まで、簡単に結論を出したがる大人にならない
ように自戒してほしいと思います。
 さて、次回は、「第4章 老いの効用、成熟の流儀」に言及する予定です。

                                                 
2015年11月23日(月)

 今日は「勤労感謝の日」ですから勤務日ではありませんが、いろいろあって、大学に来ています。ついで
というのは何ですが、『昭和のエートス』(内田樹 著、文春文庫、2012年)を引用してみましょう。例に
よって、文脈を無視しますが、ご寛恕ください。


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   第2章 国を憂うということ(つづき)

   市場原理から教育を守るために

 p.153 ・私が未履修問題でいちばん胸を衝かれたのは、学習指導要領の不適切でもないし、教育委員会
     や学校のコンプライアンスの低さでもない。そうではなくて、高校生たちも現場の先生たちも文
     科省もメディアも含めて、総じて日本人の全員が教育を費用対効果というタームで語ることを当
     然のように思っているという精神の荒廃に対してである(「教育を費用対効果というタームで語
     ること」に傍点あり)。

 p.153-154 ・最初に大切なことを申し上げておきたいが、教育は本来ビジネスタームで語るべきことで
       はない(「教育は本来ビジネスタームで語るべきことではない」に傍点あり)。これは一教
       師として、どうんなことがあっても譲ることのできないぎりぎりの防衛線である。だが、こ
       の平明な真実を踏まえて発言している人は、少なくとも教育行政の中枢にはいない。

 p.154 ・学校はそもそも利潤を上げ、株主に配当をし、市場で競争に勝ち残ることを目的にして発生し
     た機関ではない。

 p.155 ・学校教育が資本主義経済よりも歴史的に早く登場した社会制度なのである以上、その存在理由
     や存在しなくてもいい理由を市場経済の用語で説明しようとすることには原理的に無理がある。
     その当り前のことがどうやら彼ら(註:教育をビジネスと捉えている人々)には理解できないよ
     うである。
      学校教育、とりわけ公教育は市場原理を貫徹させるために生まれたものではない。むしろ市場
     原理が人間生活の全場面に貫徹することを阻止し、親と企業による収奪から子どもたちを保護す
     るために誕生したものである(「親と企業による収奪から子どもたちを保護する」に傍点あり)。

 p.155-156 ・「教育を受けさせる義務」は保護者たちの子どもに対する権力を規制したものであり、子
       どもたちに学校に通うことを義務づけたのではない。

 p.156 ・近代の憲法が定める教育にかかわる国民の義務規定は端的には、子どもを資本主義の市場原理
     にさらすなと命じているのである(「子どもを資本主義の市場原理にさらすな」に傍点あり)。

 p.162 ・日本の教育は瀕死の状態にあるらしい(だから「再生」が求められているのであろう)。けれ
     ども、日本の教育を「殺した」ものがあるとすれば、それは市場原理の瀰漫である(「市場原理
     の瀰漫」に傍点あり)。

 p.163 ・市場原理からどのようにして学校を守るか(傍点あり)。それが教育再生の真の課題であると
     私は考えるが、私に同意してくれる人は絶望的なまでに少ない。

   父の子育て

 p.168 ・勇ましい核武装論や九条改定論が出てくるのは、この平和と繁栄に対する苛立ちのひとつのか
     たちだろうと私は思っている。「ちょっと戦争でもしてみるか」という気分に一部の男たちはな
     っている。この「ちょっと戦争でも……」という気楽なマインドこそ「平和ボケ」のもっとも重
     篤な病態なのである。このようなこと言い募っている人々はこの世には「デインジャー」という
     ものがあるということをたぶんもう忘れている。戦争はコントロール可能で、愛国心の発露と市
     場の賑わいと税収の増大をもたらす「イベント」くらいにしか彼らは考えていない。

   学校なんか放っておけ

 p.173 ・この二つの事例(註:「高校における必修科目の未履修問題」と「大学合格者数の水増し問題」
     のこと)に共通するのは(それ以外の教育問題の多くにも共通することだが)、学校の教育努力
     が「数値」(合格者数や偏差値や費用対効果の高さなど)でしか示されないことである。それは
     広く市場主義の瀰漫(つまり、経営が成り立つかどうかを教育内容よりも優先的に配慮する態度)
     と言うことができるであろう。
      学校が創業されたのは、それが経営的に成り立って出資者に配当をもたらしたり、雇用を創出
     したり、GDPを増やしたりするためではない。子どもの可能性を開花させるためである。それ
     が目先の損得抜きの国家百年の仕事だから、人々は教育事業に進んで身を投じたのである。
      学校とは、教師も子どもも、「鬱勃たる意気を以て」、「奔放自由なる間に自ら人物の陶冶を
     成す」ような場所である。この始点の「常識」にもう一度立ち帰る必要があるのではないか。

   神戸女学院大学の生態学的地位

 p.176 ・「パイ」(註:限られた資源のこと。ここでは学生数のこと)が縮んでくると人々は「フェア
     ネス」についてまじめに論じはじめる。

 p.180 ・人間が人間を殺すことができるような場合に限って「権力」という言葉は使われる。帰属する
     カテゴリーを異にする個体間に権力関係は発生しない(傍点あり)。

 p.181 ・「私たちの社会が同質的な個体によって形成されねばならない」という考え方が私にはたいへ
     ん危険なものに思われるからである。

 p.182 ・私たちのいきているグローバル資本主義社会において性差は近代以前の社会におけるような社
     会的カテゴリーではなくなりつつある。というのも、グローバル資本主義にとっての理想とはす
     べての人間が同質集団を形成することだからである。
    ・「性という大きな物語」に終焉をポストモダン派の知識人たちがにぎやかに祝福したのはグロー
     バル資本主義の先進国においてであったことを見落としてはならない。

 p.183 ・私はこのようなかたちで資本主義内部的な論理に屈服して「存在することを許してもらう」こ
     とが女子高等教育のほんらいの社会的あり方だとは思いたくない。そうではなく、資本主義社会
     における特異点として、その社会が奉じる価値観そのものに対するラディカルな批判者としてあ
     ることに、女子高等教育の進む道を求めるべきではないかと考えるのである。

 p.183-184 ・私たちの住むこの世界が、規格化・標準化された数十億の個体が単一の度量衡で考量され
       て、地位や年収や能力格差によって一列に序列化されるようなものになることを私は望まな
       い。そのためには、すべての人間が同じように「サクセス」や「アチーブメント」を欲望し
       ているわけではないという事実を聞き届けられるまでアナウンスし続けることが必要だと思
       う。

 p.184 ・同質的な社会に対する異議申し立ては、別の同質的集団(「別の同質的集団」に傍点あり)を
     作ることによっては果たされない。人々がどんどん似たようなものになってゆく趨勢に抵抗する  
     ために、政治党派や宗教団体を形成することは原理的に無意味である。なぜなら、それは(年収
     の代わりに)「党派的忠誠心」や「教祖への帰依」を成員の序列化の指標に置き換えただけの、
     資本主義社会の矮小なアイコンに過ぎないからである。

 p.185 ・「ここ」とは違う場所への回路が穿たれている「同質的な社会の中での特異点」であったこと
     が本学(註:神戸女学院大学)の日本教育史に果たした最大の貢献だったと私は考えている。

   惰性の手柄

 p.188 ・現場にいる人間の個人的資質とはとりあえず無関係に(「とりあえず無関係に」に傍点あり)
     制度が破綻なく機能するように構築された制度のことを「うまくできた制度」と呼ぶのである。  
     個人的資質や練度の差がただちに制度そのものの存亡にかかわるようでは制度としてはたいへ
     ん不出来なものであると言わねばならない。

 p.189 ・教育制度もまた政治制度や官僚制度と同じく、個人の資質がいかに不出来であっても制度全体
     としては揺るぎなく機能するように構築されるべきではないのか(「個人の資質がいかに不出
     来であっても制度全体としては揺るぎなく機能するように構築されるべきではないのか」に傍
     点あり)。

 p.190 ・子どもたちは「変な先生」からも学ぶべきことは学んだのである。

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 今日はこれくらいに留めておきましょう。第2章に言及し終えたからです。教育問題に嘴を入れる人はあ
またいますが、内田樹のバランスのとれた考えには、いつも教えられます。とくに、「市場原理を教育の現
場に持ち込むな」という彼の警鐘には、小生も常々頷いているところです。次回は、「第3章 状況への常
識的発言」に言及する予定です。

                                                 
 2015年11月20日(金)

 小生が直観的に最も信頼を寄せることができると考えている日本の倫理学者は大庭健です。「直観的」と
いうのは、彼の著作をすべて繙いたわけではありませんし、彼の考えとその他の有力な倫理学者の考えを網
羅的に比較したわけではないからです。それどころか、彼の考えの核心部分を把握しているわけではないの
で、そういう意味でまさに「直観的」なのです。その大庭健が福島原発事故に関して本を上梓していること
を知りました。それは『民を殺す国・日本 足尾鉱毒事件からフクシマへ』(大庭健 著、筑摩書房、2015年)
です。同僚から情報を得て、早速購入しました。ここ数年、書籍情報に気を配っているわけではないので、
まったく知らなかったのです。現在いろいろ仕事を抱えているので、ルーティーン以外の事柄に手を出しに
くい状況です。しかし、大庭健となれば話は別です。しかも待望の原発事故関連の本です。これは見逃すわ
けにはいきません。なお、いずれ読後報告をする予定です。

                                                 
 2015年11月19日(木)

 やっと雑務から解放されました。もう20時半です。年間ノルマ200本の邦画鑑賞の方が危機的状況を迎え
ていますので(まだ164本しか鑑賞していないので、年内にあと36本の邦画を観なければなりません)、少
しでもその状況を回避するために、これから映画鑑賞を企てます。その後、ブログを書いて帰宅するつも
りですが、明日は金曜日なのに月曜日の授業日に変更されていますので、1限があります(学問基礎論)。
したがって、さっさと観てさっさと帰りたい気分です。
 (後刻)疲れたので、もう帰ります。

                                                  
 2015年11月17日(火)

 今日は代休日で大学に来る義務はなかったのですが、いろいろあって休むわけにはいきませんでした。二
つの授業(「学問基礎論」と「基礎倫理学II」)の資料作りに専一して、やっと終わったところです。もう
すぐ22時。これから『昭和のエートス』の引用を試みようかと思ったのですが、さすがに疲れてしまって今
日はお休みにします。「思想論基礎演習」〔4回担当のオムニバス演習〕(11月26日から、小生の担当にな
る)の副読本なので、早く仕上げたいのですが、その気力はありません。演習用のノートもまだほとんどで
きていないので、少し焦っています。もっとも、「何とかなるだろう」といつものように高を括っています。
実際、昭和のことを語ろうと思えば、アドリブでも話題はいくらでもあります。最近、昭和が懐かしくて仕
方がないからでしょう。

                                                 
 2015年11月16日(月)

 今日も、『昭和のエートス』(内田樹 著、文春文庫、2012年)を引用してみましょう。文脈を無視しま
すが、ご寛恕ください。


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    第2章 国を憂うということ

    憲法を改正しないことがもたらす利益

 p.120 ・私は改憲護憲の是非よりもむしろ、憲法改定という重大な政治決定が風説と気分に流されて下
     されようとしている、私たちの時代を覆っているこの底知れない軽薄さに恐怖を覚える。

 p.122 ・敗戦によって日本は「アメリカにとって無害・有益な国」以外のものになる選択肢を許されな
     かった。敗戦国民に選択肢はなかったのだから、あきらめるしかない。けれども、その屈辱的な
     国際的地位を今になって自ら進んで直し、満天下に誇らしげにカミングアウトするとしたら、そ
     れはほとんど「私たちは敗戦国以下の存在である」と宣言するに等しい。そのような名乗りによ
     って、国際社会から敬意や信頼が寄せられる可能性は限りなく低いと私は思う。

    悲しみと恥の予感の中で
          ── 映画『靖国 YASUKUNI』の上映中止、プリンスホテル会場使用拒否ついて

 p.124 ・例外的に志が高く、堅忍不抜の政治理念を持っている人間だけが道徳的にふるまうことができ
     る社会よりも、弱い人間でも人間の道を踏み外さすに済む社会の方が社会として「出来がいい」
     と私は思っている。

 p.125-126 ・体制の危機を招き寄せるのはつねにこの種の「無根拠的な楽観」である。自分がそのフル
       メンバーである社会体制が盤石であることに対する楽観が民主的で平和な社会の根幹をゆっ
       くりと腐らせてゆく。

 p.127 ・暮らしやすい社会を作り、それを守るのは「誰か」の仕事ではない。それは私たちひとりひと
     りの仕事である。その当たり前のことが今、常識ではなくなりつつある。いずれ国民の大多数が
     身銭を切って民主主義を守る責務を忌避するようになったときに、「弱い人間でも自尊心を持っ
     て生きることができる社会」は崩壊するだろう。

    なぜ私たちは労働するのか

 p.130 ・受験勉強における「成果主義」になじんだ個人は、自分の努力が固有名での達成としてはカウ
     ントされず、自分ひとりの努力の成果を集団で(ろくな働きのない人間を含めて)シェアしなけ
     ればならないという、「不条理」が理解できない。

 p.131 ・だが、労働の本質は、個人の努力が集団の利益に「かたちを変える」ことのうちに存する。個
     人の努力が個人に専一的に還元されることを求めず、逆にできるだけ多くの他者に利益として分
     配されることを求めるような「特異なメンタリティ」によって労働は動機づけられている。それ
     が納得できないという人は労働に向かない。事実、多くの若者たちが「三年で辞める」のそのせ
     いである。

 p.132 ・もうおわかりだろうが、私たちが労働するのは自己実現のためでも、適正な評価を得るためで
     も、クリエイティヴであるためでもない、生き延びるためである(「生き延びるためである」に  
     傍点あり)。労働が私たちに「特異なメンタリティ」を要求するのは、それが「生き延びるチャ
     ンス」の代価だからである。私はこの代価を決して高いとは思わない。

    善意の格差論のもたらす害について

 p.134 ・「弱者が存在する。弱者が発生するのは社会制度に不備があるからである」という前提の一般
     論についての国民的合意は存在するが、「弱者を存在させないためには何をすればよいか」につ
     いての国民的合意は存在しない。

 p.135 ・それでも、とりあえず一つだけ、かなり広範囲に受け容れられている合意事項が存在する。そ
     れは「能力や資質が豊かに備わっているにもかかわらず分配上の不利益をこうむっている人々」
     と「能力や資質に合わない過分の分配を受け取っている人々」を峻別し、後者が占有している資
     源を前者に再分配することが「フェアネス」であるとする考え方である。

 p.140-141 ・財産を没収されたブルジョワをプロレタリアと呼ぶことができないのと同じように、無能
       力な弱者を政策的に救済することはフェアネスの原理に悖る(註:ここで言われる「フェア
       ネス」は、内田が考えるフェアネスのことではない)。

 p.146 ・「共和的に貧しい社会」というのは「貧者」がいない社会のことではなく、「富者」の名乗り
     がはばかられる社会のことである。

 p.147 ・人々が共同体の存続を最優先に考えるときには貧困問題は存在しない(傍点あり)。
    ・あらゆる成員はかつて幼児であり、いずれ老人になり、高い確率で病人あるいは障害者あるいは  
     その両方になる。だから幼児を養い、老人を敬し、病者や障害者に配慮するというのは、自分自
     身に対する時間差をともなった配慮に他ならないのである(「自分自身に対する時間差をともな
     った配慮」に傍点あり)。
    ・現在の格差社会論は「私が格差上の不利益をこうむっているのは、本来私に帰属すべき資源が他
     者によって簒奪されているからである」という言明から出発する。私にはこれが最初の「ボタン
     の掛け違え」のように思われる。この前提から出発すると、どれほど強弁を駆使しようと、論理
     的に導かれる結論は「無差別的能力主義」以外にない。それは能力のないものの口からパンを取
     り上げることを「フェアネス」と呼ぶことである。最強の個体がすべての資源を占有することに
     同意することである。

 p.148 ・社会における人間の強弱は(赤木の想像とは違って)、成功できる機会の数ではなく、失敗で
     きる機会の数で決まるのである。

 p.148-149 ・私たちは近代市民社会の起源において承認された前提が何だったかもう一度思い出す必要
       があるだろう。それは「全員が自己利益の追求を最優先すると、自己利益は安定的に確保で
       きない」ということである。この経験則を発見した人々が近代市民社会の基礎を作ったので
       ある。

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 抜粋した引用文だけでは分かりにくいかもしれませんが、全文を引用するわけにはいかないので、小生の
琴線に触れた文章だけに留めています。興味のある人は、是非『昭和のエートス』を手に取って、自分の目
で確かめてください。次回は「第2章」のつづきに言及する予定です。

                                                 
 2015年11月14日(土)

 昨日のつづきを少々。すなわち、『昭和のエートス』(内田樹 著、文春文庫、2012年)を文脈無視で引
用してみましょう。


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     日本人の社会と心理を知るための古典二〇冊

 p.102 ・(『柳橋新誌』を挙げて)「文の鄙俚、事の猥褻、正人君子をして之を読ましめば、乃ち将に
     唾して棄てんとす焉」という纏綿たる江戸情緒の物語を叙するにその恐るべき古今東西の強記博
     覧を傾ける知的放蕩に(成島)柳北先生の粋と反骨はある。

 p.104-105 ・(『竜馬がゆく』を挙げて)私は先に「据わりの悪さ」ということを書いたけれど、ここ  
       まで挙げた作品に共通するのは、「歴史が切り捨てようとしたもの」へのこだわりである。
       柳北はエリート幕臣から市井の粋客になって、治国平天下の言説にきっぱり背を向けた。そ
       れはどう転んでも政治的言説というのは世界どこでも似たようなものになる他ないからだ。
        政治原理は全体化する傾向にある。人権や民主主義が万国共通の価値であるように、帝国
       主義や強制収容所には国民的特徴はない。収奪や弾圧の仕方は時代を超え、歴史を超えて、
       みごとにどこでも一律である。だから、世界がどこでも似たようなものになることを本能的
       に厭う精神は必ずや「絶対精神の自己実現」の轍に踏みにじられた人々に一掬の涙を注ぐの
       である。敗者のあり方に「世界標準」は存在しないからである。
        もし「日本的なもの」について思念を凝らすことに意義があるとすれば、それは「日本は
       こんなに素晴らしい国だ」と揚言するためではない。そうではなくて、日本人たちが「世界
       標準に合せないから」という理由で切り捨てていったものを擁護顕彰することによってしか
       日本の固有性と世界の多様性は担保されないからである。

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 現代は「軟派」が嫌われる時代のようです。成島柳北は、どんな気持で花柳界の名妓たちを活写していた
のでしょうか。彼に関しては名前しか知らなかったので、折を見て『柳橋新誌』を繙いてみたいと思います。
なお、これで「第1章 昭和のエートス」を終了しました。次回からは、「第2章 国を憂うということ」
に言及したいと思います。

                                                 
 2015年11月13日(金)

 本日は、去る9月30日(水)以来、ずっと放置していた本の紹介のつづきを行いたいと思います。その本は
『昭和のエートス』(内田樹 著、文春文庫、2012年)です。文脈を無視して引用してみましょう。


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     反時代的考察 ── 森銃三『明治人物閑話』解説

 p.80 ・(学術的な書き方が要求される場合、客観的な典拠による論証が必要だと思って来たが、森
     銃三は、「井上先生は、いい加減なことをいわれる人ではなかった」の一文でたやすく突き
     崩したという文章を受けて)そうか、それでいいのか。
      私は胸を衝かれる思いがした。この判定の適否は、森銃三という一文化人の人を見る目の
     確かさ以外に裏付けを持たない。推論の適法性とか、論拠の明証性とかいう学界ルールに私
     はひさしく慣れ親しんでいたが、実際に私たちが判断のよりどころとするのは、理説の「政
     治的正しさ」やデータの精密さではなく、人間の人間を見る目の確かさだけなのである。そ
     んな当たり前のことを八〇年代のわたしは忘れかけていた。

 p.81 ・でき得る限り資料をして語らしめ、その資料の選択に森自身の感懐を忍ばせるのが森銃三の
     骨法である。この謙抑をおそらく私は明治人の作る文の「湿度のなさ」として感じ取ったの
     である。

 p.82 ・この人選の基準は何か。それはおそらく成島柳北が徳川家に受けた鴻恩に殉じて「真に天地
     間無用の人」となり、「世間有用の事を為すを好まず」と宣言した構えに通じている。柳北
     が「徳川の遺臣として世を終わろうと決意」したように、森銃三は明治の一文人として「世
     を終わろうと決意」し、明治の気象を伝える人々の逸聞を昭和の末の、まさにバブル経済に
     日本人が浮かれ始めたそのときに書き記したのである。その意味で、本書は本質的に反時代
     的な書物である。そして、多くの反時代的な書物がそうであるように、時代を超えて、その
     つど「同時代に心底うんざりしている読者」に繰り返し読み継がれることになるだろうと思
     う。

     白川先生から学んだ二、三のことがら

 p.84 ・(白川静『孔子伝』の一節)思想は富貴の身分から生まれるものではない)。

 p.84-85 ・「判断保留」は一見すると客観性を装っているが、実はしばしば不勉強者の遁辞にすぎぬ
      ことを白川先生は見抜いているからである。

 p.88 ・「述べて作らず、信じて古を好む」(述而篇)という構えのうちに、共同体の伝統の「創造的
     回帰」の秘密はある。

 p.89 ・孔子は「かつて理想の統治が行われていたのだが、それはもう失われ、現代の政治は見るかげ
     もなく堕落してしまった」と嘆くことによって、人間には理想的な徳治をなしうる潜在的能力
     がある(なぜなら人間はそれを失うことができたのだから〔括弧内傍点〕)という「物語」を
     人々に信じさせた。
      何かが存在することを人に信じてもらう効果的な方法は「それが存在する」と声高に主張す
     ることができない。「それはもう失われてしまった」とつぶやくことである。

 p.90 ・私たちが「何かが欠如している」と感じることができのは、欠性的な仕方ではあれ、その「何
     かをすでに知っているからである。
      例えば、愛において、私たちはそれに触れたいと切望する当の対象に自分がすでに結びつけ
     られていると感じる。私たちが何かに「手が届かない」と感じるのは、「手が届かないもの」
     を持つ(「持つ」に傍点あり)という仕方ですでにそれに触れているからである。だから、も
     っとも深い愛は、その人を愛することはその人で出会うより以前に宿命的に定められていたと
     いう確信を伴う。

 p.92 ・あなたがたは善行を行えば報償を与え、悪行を行えば懲罰を下す、そのような単純な神を信じ
     ていたのか。だとしたら、あなたがたは「幼児の神」を天空に戴いていたことになる。だが、
     「成人の神」はそのようなものではない。「成人の神」とは、人間が人間に対して行ったすべ
     ての不正は、いかなる天上的な介入も抜きで、人間の手で正さなければならないと考えるよう
     な人間の成熟をこそ求める神だからである。もし、神がその威徳にふさわしいものであるとす
     れば、神は人間に霊的成熟を求めるはずである。神の不在に耐え、人間が人間に対して犯した
     罪の償いを神に委ねることをしない成熟した人間を求めるはずである(レヴィナスの言葉)。

 p.93 ・その親族の多くを強制収容所で失ったレヴィナスが記したこの悲痛な文章(受難を通じてしか
     勝利し得ないということを記した文章)と、魯を逐われて放浪の歳月を送る孔子の言葉に共鳴
     するものを聴き取ることはそれほど不適切なことにように私には思われない。彼れはいずれも
     人間に世界が不条理で邪悪なものに満たされていることを経験的に熟知していた。けれども、
     人間たちの世界のうちになにごとか「善きもの」を生成させようと思ったら、人間以外の力を
     借りることはできない。「子、怪力乱神をを語らず」(述而篇)。人間の犯した罪は人間が取
     り消す以外に取り消す手だてがなく、人間の作り出した穢れは人間が自分の手で祓うしかない。

 p.98 ・呪いは人間的な事象である。自然のうちには呪いなど存在しない。人間だけが人間を呪い、人
     間だけが呪いを祓うことができる。それは人間世界内部でのみ通用する「通貨」である。祝福
     も同じである。人間だけが言葉によって破壊され、人間だけが言葉によって再生される。

 p.99 ・おそらく古代の人々は中国でも、あるいあh万葉古謡の日本列島でも、身体を震わせ、足を踏
     み鳴らし、烈しく歌い、呪い、祝ったであろう。そのようにして人々は生命力を賦活し、減殺
     するために死力を尽くした。そのときに人々が発していた言葉はほとんど物質的な持ち重りと
     手触りを持っていたはずである。それは観想的主体の口にする「われ思う」という言葉の透過
     性、無重力性、非物質性、中立性と、考え得る限りもっとも対蹠的なところにある言葉である。

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 今日はこれくらいで留めておきましょう。現代という時代は、安直なマニュアルさえあれば他に何も要ら
ないと考えがちな時代です。もちろん、マニュアルには多くの利点があるでしょうが、想定できないことが
起こったときや、さまざまな要求がバッティングをして収拾がつかなくなったときなどは、まったく機能し
なくなることがあるようです。機械人間、マニュアル人間のままでいると、こうした事態に適切な対処がで
きません。「固窮の節」という言葉があります。凡人にはなかなかできないことかもしれませんが、困った
ときこそ落ち着いて、どの道が選ぶべき道なのかを一所懸命に考えなければならないでしょう。レヴィナス
や孔子は、わたしたちにさりげなくその一事を伝えているのはないでしょうか。

                                                
 2015年11月12日(木)

 やっと雑務から解放されました。現在19時半です。観かけた映画を観るつもりです。それが終わったら、
ブログ(この映画の感想文)を書いて帰宅します。明日の準備ができているので、気楽なもんです。

                                              
 2015年11月6日(金)

 本日も次から次へと降ってくる仕事を片付けているうちに、もはや20時を回ってしましました。これから、
ドキュメンタリー映画『ラジウム・シティ 文字盤と放射線・知らされなかった少女たち(Radium City)』
(監督:キャロル・ランガー、米国、1987年)を観るつもりです。
 (後刻)DVDで上記の映画を観ました。放射能に対する無知と、そこから生まれる悲劇を笑って見過ごせ
る人はほとんどいないでしょう。目に見えない厄介ものの存在に対して、わたしたちはもっともっと敏感に
なるべきだと思いました。想像力を発揮すべきときに、上の空だったら、わたしたちに未来はありません。
そんな思いを抱きながら、鑑賞しました。
 内容を紹介しましょう。<Movie Walker>のお世話になります。執筆者に感謝します。なお、一部改変しま
したが、ご寛恕を乞います。

   〔解説〕

  1920年代、イリノイ州オタワ市の工場で被曝した女性たちのドキュメンタリー。彼女たちやその家
 族、オタワの住民たちの証言により、放射能の被害、企業や政府の隠蔽体質など、さまざまな問題を
 浮き彫りにする。監督は、TVドキュメンタリー『The Rat Pack』がエミー賞にノミネートされたキャ
 ロル・ランガー。

   〔内容〕

  1920年代のアメリカで、ラジウム・ダイヤル社の工場で時計の文字盤に夜光塗料を塗るペインター
 として働き、被曝した若い女性たち。ラジウム・ガールズと呼ばれる彼女たちは、筆先をなめて尖ら
 せるよう指導され、その後、腫瘍や骨障害で苦しみ、多くが亡くなる。のちに5人が雇用主を提訴し、
 長い裁判を経て勝訴したが、ほどなく全員が亡くなった。本作は、内部被曝の存在が広く知られるき
 っかけとなったラジウム・ガールズたちと、その後の街に生きる人々を描く。かつてラジウム・ダイ
 ヤル社の工場で多くの人々が亡くなった、アメリカ中西部のイリノイ州オタワ市。半世紀以上経った
 今も、取り壊された工場の欠片が町中に散らばり、ホットスポットを生み出している。本作に収めら
 れたかつてのラジウム・ガールズやその家族、そしてオタワの住民たちによる証言は、目に見えない
 放射能による被害、企業や政府の隠蔽体質、恣意的に引き上げられる安全基準値、地域経済における
 産業と雇用の抱える困難など、さまざまな問題を浮き彫りにする。そしてそれらは、現代を生きるわ
 たしたちにとっても決して無縁のことではない。国内外の映画祭で高い評価を受けた本作は、米国の
 みならず各国のTV局で放映され、アカデミー賞候補と目された。また、米国環境保護庁がオタワの除
 染作業にスーパーファンド法を適用するきっかけをもたらした。

 この映画は、日本人には無縁の話を語っているわけではないでしょう。福島原発事故を経験したわたした
ち日本人は、オタワ市の住民以上に放射能に対して敏感になる必要があると思います。原発事故は、収束し
たどころか、その影響がこれからどのくらい拡がるのか、誰にも予想がつかない状況です。オタワ市の住民
の粘り強い環境保護運動を、日本人ももっと見習うべきだと思いました。

                                                 
 2015年11月5日(木)

 人文学部は、来年度から「人文社会科学部」に生まれかわる予定ですが、それに関連した仕事がけっこう
あります。その仕事をしていたら、20時を回ってしまいました。この後、明日の講義の資料作りです。昨日
に引き続いて、自分に「ファイト!」です。

                                                 
 2015年11月4日(水)

 仕事が溜まっているので難儀しています。昨日も大学に来ようとは思ったのですが、ちょっと疲れ気味だ
ったので、家でゴロゴロしていました。少し後悔しています。というのも、待ったなしの案件がけっこうあ
り、今日はそれをこなすのに四苦八苦しそうだからです。もっとも、何とか片付ければ、視界も良好になる
でしょう。同僚から、「元気?」と訊ねられたのですが、「元気じゃない」と答えました。小生は元気だけ
が取り柄だったのですが、寄る年波には勝てず、あちこちガタがきています。自分に、「ファイト!」です。

                                                
 2015年11月2日(月)

 相変わらず自転車操業です。今日は卒論題目提出締切日なのですが、どうも遅れ気味のようです。小生も
この種の書類を提出する日が遅れがちなので、文句を言えた筋ではないのですが、かたがつかないので、少
し面倒だなと思っております。しかも、今年度は学科の教務委員を務めていますので、全体のとりまとめも
しなければなりません。貧乏、暇なしです。

                                                
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