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日日是労働セレクト95
 以下に、「日日是労働」のダイジェスト版・第95弾を掲げます。直ぐ下の記事がこの「日日是労働セレク
ト95」の中では最も新しい日付のものです。つまり、読み進めるほど、古い記事になります。ただし、いち
いち明示しませんが、後日に行った加筆訂正を含んだ日があります。日誌ですから、少なくとも後日に加筆
することはご法度であるはずですが、「某月某日」ということもあり、記事内容の充実を優先させました。
ご了承ください。また、頑張って「辛口」の批評を展開しようと務めておりますので、本文に何かと読者の
お気に召さない表現等が散見されるやもしれませんが、特定の個人、団体等を誹謗中傷する目的は一切あり
ませんので、どうぞご理解ください。なお、ご感想は、muto@kochi-u.ac.jp までお寄せ下さい。


 某月某日

 自主上映会(主催:「小夏の映画会」、代表:田辺浩三、場所:龍馬の生まれたまち記念館)で『日本の
熱い日々 謀殺・下山事件』(監督:熊井啓、俳優座映画放送、1981年)を観た。「下山事件・三鷹事件・松
川事件 ─ 歴史研究者が見る1949年の「三事件」 ─」と題された小幡尚高知大学人文学部准教授の講演付
上映会である。講演では16頁に及ぶ立派なレジュメが配布され、事件そのものの背景について小幡准教授が
熱弁を振るわれた。本篇に関しては、講演を挟んだその前後の都合2回に亙って観た。続けて同じ映画を2
度鑑賞することは稀ではあるが、これまで何回か経験している。しかし、中間に講演を挟んだのは初めてで
ある。映画の理解に深く作用したことは間違いない。
 さて、熊井啓の作品であるが、以下に掲げるように、小生は当該作品を含めて8本観ている。おおむね手
応えのある作品ばかりで、信頼できる数少ない監督の一人である。

  『帝銀事件 死刑囚』、監督:熊井啓、日活、1964年。
  『忍ぶ川』、監督:熊井啓、東宝=俳優座、1972年。
  『サンダカン八番娼館 望郷』、監督:熊井啓、東宝=俳優座、1974年。
  『日本の熱い日々 謀殺・下山事件』、監督:熊井啓、俳優座映画放送、1981年。
  『海と毒薬』、監督:熊井啓、「海と毒薬」製作委員会、1986年。
  『千利休 本覺坊遺文』、監督:熊井啓、セゾングループ、1989年。
  『日本の黒い夏 冤罪』、監督:熊井啓、日活、2000年。
  『海は見ていた』、監督:熊井啓、「海は見ていた」製作委員会、2002年。

 この他にも、小生が調べた限り(『ぴあシネマクラブ』より)、以下のように11本ある。機会があれば、
全篇観てみたい。

  『日本列島』、監督:熊井啓、日活、1965年。
  『黒部の太陽』、監督:熊井啓、三船プロダクション=石原プロモーション、1968年。
  『地の群れ』、監督:熊井啓、えるふプロ=ATG、1970年。
  『朝やけの詩』、監督:熊井啓、俳優座映画放送=東宝映画、1973年。
  『北の岬』、監督:熊井啓、東宝=俳優座映画放送、1976年。
  『お吟さま』、監督:熊井啓、宝塚映画、1978年。
  『天平の甍』、監督:熊井啓、「天平の甍」製作委員会、1980年。
  『式部物語』、監督:熊井啓、西友、1990年。
  『ひかりごけ』、監督:熊井啓、ヘラルド・エース=日本ヘラルド、1992年。
  『深い河』、監督:熊井啓、深い河製作委員会=仕事、1995年。
  『愛する』、監督:熊井啓、日活、1997年。

 とくに、『日本列島』、『地の群れ』、『ひかりごけ』は小生の要チェック作品である。実は、『ひかり
ごけ』に関しては、一度ヴィデオで観かけたことがあるが、何らかの都合で観つづけることができなかった
作品である。武田泰淳の原作を読んでいるだけに、観ておきたかったが……。その後、ヴィデオはもとより、
DVDも見かけないので、鑑賞の機会を待望している作品のひとつである。さらに、『黒部の太陽』は近いう
ちに鑑賞することになるだろう。実は、1度TSUTAYAで借りたのだが、時間がなくてそのまま返却している
からである。
 さて、当該作品であるが、「小夏の映画会」が配布したパンフレットから、解説文とあらすじを引用して
みよう。執筆者に感謝したい。多少改変したが、趣旨は変えていない。

   〔解説〕

  昭和39年、監督第一作『帝銀事件・死刑囚』、続く40年の第二作『日本列島』で、敗戦直後の占領
 米軍のからむ謀略に鋭く切り込み、社会派監督として鮮烈なデビューを飾った熊井啓監督が、当時か
 らの懸案だった「下山事件」を映画化した。下山事件とは、昭和24年7月6日未明に国鉄初代総裁下山
 定則が常磐線の線路上で轢断死体で発見された事件である。この事件は、当時、国鉄の九万五千人も
 の人員整理をめぐって国鉄労組との緊迫した情勢だったために、自殺か他殺かをめぐり、さまざまの
 推測や思惑が加わって世論の注目を集め、騒然とした雰囲気を日本列島に生み出した。そしてわずか
 9日後に三鷹事件、翌月に松川事件が勃発。この結果、組合の闘争はおさえこまれ、革新陣営全体の
 高揚も見事に沈静化され、以降、アメリカの占領政策により日本は「極東の反共の砦」となっていく
 のである。映画は数々の疑惑に満ちた下山事件の真相究明に半生を賭けた一人の新聞記者を主人公に、 
 昭和24年から39年の東京オリンピックに至る日本の復興と、その裏に流れ続ける「黒い影」を、ドキ
 ュメンタリー・タッチで抉る。原作は当時朝日新聞の社会部記者だった矢田喜美雄、脚本は菊島隆三、
 撮影は中尾駿一郎、美術は木村威夫、音楽は佐藤勝。出演は仲代達矢、山本圭、中谷一郎、隆大介ほ
 か。スチールは山本耕二。
 
   〔あらすじ〕

  昭和二十四年七月、敗戦後の騒然とした雰囲気の中で、労働運動は高揚していた。五日夜、昭和日
 報の社会部記者・矢代(仲代達矢)は、上野に集結するシベリアからの復員兵たちの集会を取材して
 いたが、その時、下山国鉄総裁の行方不明を知らされた。
  翌朝、下山の轢断死体が発見されると、政府はいち早く他殺説に近い立場をとり、各新聞の主張も
 自殺説と他殺説に分かれた。この中で昭和日報は、矢代に東大法医学教室を取材させた。矢代は遺体
 解剖を行った和島博士の「死後轢断の鑑定は間違いない」という言葉で他殺説に自信を持つが、一方、
 事件現場近くで下山の姿を見た、という証言者が現れたり、東大鑑定に対する慶応の異論も出て、自
 殺説がクローズアップされてきた。
  しかし矢代は他殺の線を執拗に追い続け、東大法医学教室に通い続けるうちに、轢断現場近くに、
 下山の死体を運んだ時についた、と思われる血痕を自らの手で発見する。この発見と前後して無人電
 車の暴走という「三鷹事件」が発生。追求の手をゆるめず走る矢代の背後に黒い妨害の手が現れ、ホ
 ームから突き落とされ、電車に轢かれそうになる。彼は検察の要請で特別研究生として身分を拘束さ
 れることになった。
  事件から一ヵ月後、警視庁が自殺を発表することになったが、突然、その発表は中止された。その
 二週間後、何者かによってレールがはずされ、列車が転覆するという「松川事件」が起こり、政府は
 これを利用し、労働組合、左翼への弾圧を一層強めた。捜査陣は遺体についた油や色素の鑑定と出所
 究明に走りまわり、矢代もまた若い刑事・大島(山本圭)と身をすりへらし地道な捜査にあたった。
 ところが、年の瀬もつまったある日、人事異動を名目に中心メンバーをはずされ、捜査本部は解散し
 た。
  しかし矢代はあきらめなかった。大島とともに、下山を誘拐した三人のメンバーの一人という男・
 堀内一男(伊藤孝雄)から、矢代あてに送られた手紙の真偽を確認するために、北海道まで飛んだこ
 ともあった。五年、十年と時間が過ぎていった。そんな時、死体を現場で運んだらしいという男・丸
 山(隆大介)の存在を知った。矢代と大島は丸山に執拗に食い下がり、ついに事件当日の模様を喋ら
 せた。しかし、その内容には矢代たちが調査したこととの食い違いがあり、全面的に信ずることはで
 きなかった。そんなある日、丸山は駅のホームから転落死してしまった。事故死なのか、誰かに突き
 落とされたのか。矢代は丸山の遺体の前で、得体の知れぬどす黒いものに対する激しい怒りがこみあ
 げてくるのだった。

 他に、浅茅陽子(川田=昭和日報社会部遊軍記者)、岩崎加根子(下山定則国鉄総裁夫人)、中谷一郎
(遠山=昭和日報社会部部長)、宮部昭夫(岡本デスク)、橋本功(小野記者)、小川真司(長谷川記者)、
石倉民雄(田村記者)、役所広司(尾崎記者)、伊藤紘(伊沢記者)、江幡高志(酒井運転手)、河原崎次
郎(南記者=東都新聞社会部)、新橋正浩(土屋記者=同)、平幹二朗(奥野警視総監)、可知靖之(山口
刑事部長)、稲葉義男(堀井捜査一課長)、新田昌玄(吉川捜査二課二係長)、牧野義介(滝田主任)、肉
倉正男(倉沢警部補)、田口精一(田中部長刑事)、山田博行(神田部長刑事)、神山繁(伊庭次席検事=
東京地方検察庁)、滝田裕介(川瀬検事)、梅野泰靖(山岡検事)、加地健太郎(佐伯検事)、松野健一
(臼井事務官)、松本克平(波多野=東大医学部・医学科・法医学教室主任教授)、武内亨(和島=同講師)、
平野稔(野村=同筆頭助手)、近藤洋介(秋田=東大医学部・薬学科・衛生裁判化学教室主任教授)、遠藤
剛(塚原=同助教授)、川口啓史(中山=東大医学部・医学科・法医学教室助手)、大橋吾郎(同)、仲谷
昇(内閣官房長官)、菅井きん(ふさ=末広旅館の女将)、浜田寅彦(館野=慶大・法医学教室主任教授)、
小沢栄太郎(糸賀)、井川比佐志(李中漢)、大滝秀治(唐沢)、矢野宣(河本=誘拐者のリーダー)、山
本邦彦(加東=誘拐者)、町田博(塩見=同)、平田未喜三(機関長)、草薙幸二郎(嗄声の男=現場指揮
者)、岩下浩(川崎=丸山を仕事に誘った男)、益岡徹(横尾=実行犯の一人)、和田正義(下山らしき男)、
森岡隆見(駅の男)、吉井元美(昭和日報事務員)、向田弓子(同)、信欣三(国原鋼材主任)、佐伯赫哉
(同じく年配の男)、及川以造(同じく若い社員)、津田伸(年配の事務官)、阿部百合子(伊庭夫人)、
神山寛(下山良雄)、原田樹世土(金一等書記官)、星野浩美(小樽の宿の娘)、有田美和子(和枝=丸山
の妻)、織本順吉(駅の助役)、阿部希郎(鉄道公安官)、早川純一(監察医務官)、五條貴士(警官)、
加藤佳男(駅員A)、嶋崎秀信(同B)、東冨士郎(同C)、内山森彦(記者A)、村上幹夫(同B)、小
池幸次(同C)、山本寛(同D)、町田幸夫(同E)、新橋正浩(同F)、柳沢紀男(同G)、和沢昌治
(小使い)などが出演している。
 ご都合主義で進行していく流れと、ラストのシークエンスはいただけないが、おおむね興味深く鑑賞する
ことができた。とくに、李中漢がヘリコプターから落されて海中に没するシーンと、小樽で脅迫状を受け取
った際に窓を開け吹雪が部屋に吹き込んでくるシーンはよかった。しかし、全体に追及が生温く、丸山の死
の場面もまったくリアリティがなかった。おそらく、あまりリアルにして問題が生じることを憚ったからだ
ろう。それにしても、丸山の転落現場に棺桶を運ぶシーンはないだろう。あの棺桶は、事件の収束を象徴し
ているのだろうか。
 さて、小幡准教授の講演の方だが、波多野教授のモデルである古畑種基東大教授に関する指摘が一番興味
深かった。とくに、「弘前大学教授夫人殺人事件」(1949年)、「財田川事件」(1950年)、「島田事件」
(1954年)、松山事件(1955年)にも関与しており、いずれも、死刑判決確定の後、再審で無罪になってい
る。これを称して「四大死刑冤罪事件」と呼ぶらしいが、そのすべてに関わっている教授であることは知ら
なかった。実は、だいぶ以前ではあるが、同氏の『法医学ノート』(中公文庫)を面白く読んだ記憶があり、
一部で「冤罪メーカー」と呼ばれていることはまったく知らなかった。権威に対して隷従してしまうことの
証左であろう。自殺か他殺かはまさに灰色であるようで(自殺説の有力な本もたくさん出版されている)、
小生などはほとんど他殺説に傾いていたので、少しばかり頭の整理をしなければならないだろう。思えば、
高校時代に読んだ松本清張の『日本の黒い霧』以来、この事件に関してはいくぶんかの関心を抱いてきたが、
まさにいろいろな見方があるのだということを、改めて感じた次第である。有意義な映画鑑賞と講演であっ
たことを重ねて記しておきたい。


 某月某日

 DVDで邦画を2本観たのでご報告。1本目は、『東京ロマンス 重盛君上京す』(監督:渡辺邦男、新東宝、
1954年)である。久し振りのエイジ映画である。1954年(小生の生まれた年)に公開された映画のうち、小
生は本作を含めて以下に掲げるように19篇観ている。

 『太陽のない街』、監督:山本薩夫、新星映画=独立映画、1954年。
 『ともしび』、監督:家城巳代治、新世紀プロ、1954年。
 『二十四の瞳』、監督:木下恵介、松竹大船、1954年。
 『山の音』、監督:成瀬巳喜男、東宝、1954年。
 『どぶ』、監督:新藤兼人、近代映画協会、1954年。
 『七人の侍』、監督:黒澤明、東宝、1954年。
 『さらばラバウル』、監督:本多猪四郎、東宝、1954年。
 『ゴジラ』、監督:本多猪四郎、東宝、1954年。
 『山椒大夫』、監督:溝口健二、大映京都、1954年。
 『噂の女』、監督:溝口健二、大映京都、1954年。
 『近松物語』、監督:溝口健二、大映京都、1954年。
 『女の園』、監督:木下恵介、松竹大船、1954年。
 『大阪の宿』、監督:五所平之助、新東宝=スタジオ8プロ、1954年。
 『伊豆の踊子』、監督:野村芳太郎、松竹大船、1954年。
 『君の名は 第三部』、監督:大庭秀雄、松竹大船、1954年。
 『宮本武蔵』、監督:稲垣浩、東宝、1954年。
 『勲章』、監督:渋谷実、俳優座、1954年。
 『勝敗』、監督:佐伯幸三、大映東京、1954年。
 『東京ロマンス 重盛君上京す』、監督:渡辺邦男、新東宝、1954年。

 『七人の侍』(監督:黒澤明、東宝、1954年)を筆頭に(小生のブログ「恣意的日本映画年間ベスト1」
においても1954年のベスト1である)、『二十四の瞳』(監督:木下恵介、松竹大船、1954年)、 『山の
音』(監督:成瀬巳喜男、東宝、1954年)、『どぶ』(監督:新藤兼人、近代映画協会、1954年)、『ゴジ
ラ』(監督:本多猪四郎、東宝、1954年)、『大阪の宿』(監督:五所平之助、新東宝=スタジオ8プロ、
1954年)などの名作や話題作が目白押しである。それらと比べると本作はささやかな人情喜劇ではあるが、
当時の日本人の心情をよく伝えていると思う。夢を抱いて田舎から上京するが、結局仕事と恋に破れて故郷
に逃げ帰るというありきたりな筋である。しかし、モリシゲがそんな青年を好演しており、立派な一篇の人
情ドラマに仕立て上げられている。
 物語を確認しておく。例によって<Movie Walker>のお力を拝借する。執筆者に感謝したい。なお、一部改
変したが、ご寛恕を乞う。

   〔解説〕

  NHK連続放送劇「東京ロマンス」の映画化で、「半処女」の岸松雄の脚本より、「鳴門秘帖 前
 篇(1954)」の渡辺邦男が監督している。撮影も「鳴門秘帖 前篇(1954)」の渡辺孝の担当。出演者は
 「次郎長三国志 第八部 海道一の暴れん坊」の森繋久弥、「東京シンデレラ娘」の新倉美子、「夏
 祭り落語長屋」の柳家金語楼、三木のり平などである。

   〔あらすじ〕

  東北の一農村、ウタスキ村のノド自慢コンクールに優勝した重盛重夫君(森繁久彌)は、村人たち
 の見送りで上京して立派な歌手になるべく故郷を発った。行先は村の清ノ木旦那(柳家金語楼)の友
 人で、浅草で中華第四楼を経営する清水六兵衛殿(横山エンタツ)。重盛君の母親(武智豊子)は東
 京には悪い女が多いというので、それが何より気がかりだが、前途を夢みている重盛君は女など眼中
 にない。しかしもともと親切な重盛君は、車中で困っていた可憐な女性香取光子(新倉美子)の面倒
 をみるが、上野駅に着いて途方に暮れている重盛君はここで反対に遊覧バスの案内ガール光子さんに
 助けられ事となった。求める中華第四楼はさっぱり判らない筈、足を捧にした重盛君が偶然立寄った
 屋台のそば屋が第四楼であった。重盛君はこの親爺六兵衛を手伝いながら、歌に励む事となったが、
 六兵衛親爺の尊敬する太陽先生(高島忠夫)のもとでまた光子と会った。太陽先生は働く主婦たちの
 ために託児所を開き、共感した光子も託児所を手伝いに来たのだ。NHKノド自慢テストに失敗した
 重盛君は、光子の知り合いのABCレコードの市村清プロデューサー(田中春男)の手で、光子のヒ
 ットソング「ロマンスいずこ」の裏面にやっと「會津磐梯山」の吹込みをした。重盛君は光子にプロ
 ポーズしようとするが、すでに光子は華やかな歌手生活を棄て、太陽先生と結婚して託児所に励むこ
 とになっていた。生活はロマンスではなかった。光子の信念に心うたれた重盛君も母親の居る故郷へ
 帰って着実な生活に精一杯頑張ることにした。

 他に、三木のり平(光子の父=バー「ピース」のバーテンダー)、笠置シヅ子(清水六兵衛の妻キミ子)、
小沢路子(太陽先生の妹幸子)、横山運平(ウタスキ村村長)、坊屋三郎(東山消防団長)、内海突破(N
HK素人のど自慢の司会者)、岬洋二(巡査)、山室耕(流しの元締め)、三原葉子(ホステス)などが出
演している。「前の前の戦争」という表現が出てくるが、日露戦争のことだろうか。重盛が消防団長にむけ
て、「あんたの考えはフウケンテキだ」という台詞を吐くが、後にフーテンの寅さん(渥美清)が、おいち
ゃん(森川信)に向けて発した言葉と同じである。もちろん「封建的(ほうけんてき)」を言い間違えてい
るのだが、案外、ここに出所があるのかもしれない。重盛の母親が注意しろと言ったのは「悪い女」だけで
はなく、他に、生水と食べ過ぎを挙げている。当時の母親の子ども(とくに、息子)に対する注意点の定番
だったのであろう。田園風景なども、『警察日記』(監督:久松静児、日活、1955年)を髣髴させた。そう
言えば、この作品でも、森繁久彌は人情味溢れる田舎の純朴な警察官を演じていた。
 2本目は、『バナナ娘』(監督:志村敏夫、新東宝=青柳プロ、1950年)である。「リンゴの唄」(作詞:
サトウハチロー、作曲:万城目正、唄:並木路子、1945年)は戦後第1号の大ヒット曲であり、今でも口遊
む人がいると思うが、当該映画の主題歌である「バナナ娘」(作詞:サトウハチロー、作曲:万城目正、唄:
並木路子、1950年)はまったく忘れ去られた存在ではなかろうか。少なくとも小生は、この映画で初めて聴
いた楽曲である。冒頭、サトウハチローの詩が映し出される。

   みんないい人ばかりなんだ
   よくばりな人
   けちな人
   むやみに悲しがる人
   やたらに嬉しがる人
   いばる人 
   ぺこつく人
   みぢかく太くと思っている人
   弱くとも細長くと思っている人
   みんないい人ばかりなんだ

 映画は、この線に沿って、高利貸しの山下(柳家金語楼)もけっして嫌な人間ではないことを描き出して
いる。出演者で知っている人は並木路子(波野ミチ子=山下が娘の代わりに可愛がっている若い女性。歌が
うまい)、田崎潤(ミチ子の兄=戦死)、清川虹子(森田かめ=新人売り出し係)、江川宇礼雄(バナナ販
売の不二越の支配人)、渡辺篤(飯田助六=山下の持ち物である緑荘アパートでまさかり商会を経営)、岸
井明(バナナの販売中、やたらに売り物のバナナを食べてしまう売り子)くらいか。他に、キドシン(=木
戸新太郎)、一の宮あつ子、鳥羽陽之助、宮田洋々、花岡菊子、若月輝夫、小高まさる、山川朔太郎などの
知っている名前も見受けられたが、人物を特定できなかった。「沢村紅子」という役の色っぽい女性を演じ
ていたのは誰だろうか。たぶん、初めて見る顔である。金持ち(バナナを一万円分買う女性)と貧しい少年
(ミチ子が自腹を切ってバナナをプレゼント)の対比が鮮やかである。筋書は取り立てて語るほどのもので
はないが、当時の風俗を知る上では貴重な映画であろう。なお、肝心の台湾バナナの値段であるが、百匁で、
台中産が800円、高雄産が700円であった(推測)。よく分からないが、昭和25年当時としては、ずいぶんと
高いのではないか。たしかに、小生の子どもの頃、バナナは高級果物であり、滅多に食べることはできなか
った。父親が大病で入院中、小学校から帰宅したとき、テーブルに大きな房のバナナが置かれてあったこと
があった。小生は、それを見て父親が死んだのではないかと思ったことを覚えている。それくらい、バナナ
は貴重品だったのである。つまり、それだけの量のバナナが置いてあること自体、極めて非日常的だったか
らである。確認したわけではないが、おそらく誰かから戴いた見舞いの品だったのではないだろうか。もは
や両親は亡くなっているので、藪の中である。


 某月某日

 DVDで邦画の『アツカマ氏とオヤカマ氏』(監督:千葉泰樹、新東宝、1955年)を観た。さすが、小生の大
好きな笠原良三の脚本だけあって、最初から最後までまったく飽きさせない構成になっている。人情の描き
方もまったく押し付けがましくなく、自然に受け容れることができる。昭和30年代の幕開けにふさわしい作
品であろう。言い換えれば、まだ日本も活き活きとしていた時代と言ってよいだろう。全体にけっして豊か
とは言えないのだが、現代よりもよほど余裕があるように見える。日本はこの時代以降どんどん嫌な国にな
っていったのだな、と心底思わざるを得ないのである。
 物語を確認しておこう。例によって<Movie Walker>のお世話になろう。執筆者に感謝したい。なお、一部
改変したが、ご寛恕願いたい。

   〔解説〕

  岡部冬彦の漫画から永来重明が構成、「母の曲」の笠原良三が脚本にまとめ、「サラリーマン 目
 白三平」の千葉泰樹が監督する。撮影は「たそがれ酒場」の西垣六郎、音楽は「皇太子の花嫁」の古
 関裕而の担当。出演者の主なる者は「悪魔の囁き」の上原謙、「緋牡丹記」の花井蘭子、「森繁のや
 りくり社員」の森繁久彌、久保菜穂子、相馬千恵子、「のんき裁判」の小林桂樹などである。

   〔あらすじ〕

  富士スクーター東京支店の大宅鎌田郎営業課長(上原謙)は、課員一同から「オヤカマ氏」と云わ
 れている位ガミガミ屋である。ある日、この営業課に本社からセールス志望で転勤になった渥美鎌太
 郎という怪人物(小林桂樹)が入って来たが、間もなく「アツカマ氏」と呼称されるようになった。
 折柄の販売突撃週間に、アツカマ氏の戦術はものすごく、彼の成績だけが上昇し、先輩のウラガナ氏
 〔浦賀兼彦〕(細川俊夫)などは予定していた売れ口まで横取りされ、またハンサム氏〔半田三郎〕
 (江見渉〔俊太郎〕)は恋人向井さが子嬢(三原葉子)との間に水をさされてしまう。それにアツカ
 マ氏は、オヤカマ課長の愛嬢ヤヤ子(久保菜穂子)とも只ならぬ接近を示し、父親をヤキモキさせて
 いる。しかしアツカマ氏の勇戦に拘らず、支店の成績は香ばしくなく、支店長の春山(森繁久彌)か
 ら成績不良社員のクビ切りを命ぜられ部下思いのオヤカマ氏は進退窮まった。それを知ったアツカマ
 氏は、自分の成績をひそかにウラガナ氏に繰入れてクビから救おうとした。ウラガナ氏はそれを曲解
 してアツカマ氏を殴ったが、見かねたサガ子嬢の口から事実が知れ、非を悔いたウラガナ氏は結局自
 分がセールス稼業に向かないと辞表を出し、近所の小食堂「銀平」に就職し、かねてより相思の仲で
 ある「銀平」の娘茂子(遠山幸子)と楽しく働くことにした。ある日ヤヤ子嬢に贈る買物のことから
 つまらぬ誤解を招いたアツカマ氏は、初めて恋する者の淋しさを知った。しかしオヤカマ氏の苦境を
 課員一同に訴え、グングン成績を向上させたため、遂に社長から支店宛の賞状を貰うに至った。オヤ
 カマ氏はご機嫌であり、ヤヤ子嬢の頬にも明るい微笑が浮んだ。

 他に、花井蘭子(大宅静=オヤカマ氏の妻)、上田みゆき(大宅ポッ子=次女)、小峰千代子(浦賀民子=
兼彦の母)、小倉繁(銀平のおやじ)、相馬千恵子(バー「モナリザ」のマダム梨子)、若月輝夫(寺田文
男=営業社員)、鮎川浩(中野吾郎=同)、小沢路子(とし子=さが子の同僚)、大谷友彦(雑貨屋の主人)、
山川朔太郎(竹細工屋の主人)、初音麗子(その妻)、加藤章(問屋の番頭)、柳谷寛(ラジオ屋)、小高
まさる(肉屋の店員)、築地博(酒屋の主人)、井上大助(給仕のキンちゃん)、山田長正(床屋)、関三
十郎(大星由良之助)、澤村昌之助(塩谷判官)、美舟洋子(大星力弥)、三遊亭金馬(本人)などが出演
している。
 「セールスは押しと粘りとファイト」はいまも生きている格言であろう。カレーライスとハイボールが絶
大的人気を誇っていたのは昭和30年代前半の特徴か。そのカレーライスに添える福神漬けも定番。ポッ子が
つけていた髪にカールを掛けるためのヘアカラーを「水爆ロール」と呼んでいたのには驚いた。TV受像機
の値段は12万くらい。かなり高額であろう。富士スクーター「ラビットS61型」は138,000円である。これ
も高い。「TVは教育上よろしくない」もこの頃の決まり文句。月賦、(距離を表現するのに)五里や十里、
女子競輪、月給袋など、やはりこの頃の定番。かなり懐かしいものがあった。とにかく、今の日本人にはな
くなってしまった人情に溢れた映画である。本当に観ていて羨ましい限りである。もちろん、現実の世界は
そんなに甘くはないかもしれないが、たしかにここに描かれている世界に近い世界は存在していたと思う。


 某月某日

 DVDで邦画を7本観たので報告しよう。なお、もう1本DVDで「リスモドラマ」を観ているが、そちらの方
はおまけとして最後に感想を記しておこう。ちなみに、もう少し早い段階で記述する機会があったのだが、
SOULSが不具合で書き込むことができなかった。よって、7本まとめて掲載という運びになったのである。
 さて、1本目は、『ディア・ドクター(Dear Doctor)』(監督:西川美和、「Dear Doctor」製作委員会
〔エンジンフィルム=バンダイビジュアル=テレビマンユニオン=電通=衛星劇場=デンナーシステムズ=
ヤフー・ジャパン〕、2009年)である。「ニセ医者」が主人公として活躍する映画と言えばよいだろうか。
小生が何となく覚えている「ニセ医者(あるいは、それに類する人物)」の物語は、たいていの場合旧帝国
陸軍の「衛生兵」上がりだったように思われるが、この映画の主人公は、前身が「心臓のペースメーカーの
セールスマン」だった由。劇中の主人公の台詞の英語字幕に《I'm a fake, quack.》とあったが、若い医者
はその言葉を、「冗談」や「謙遜」の意味で取っている様子だ。いずれにせよ、無医村という現実と、その
ような地域では医者は「神」のように崇められるということを、さりげなく描いている佳作である。監督の
西川美和の作品は、これまでオムニバスを含めて以下の3作品を鑑賞しているが、心理描写の映像化におい
て優れており、当該映画でもいくつか意味深長な場面に遭遇した。とくに、刑事の胸のうちで「ニセ医者」
への疑惑が高まった際、川の奔流の映像を挿入したところは秀逸であると思った。その他、転んだ虫が起き
上がって飛び去るシーン、棒アイスが融けるシーンもなかなかのものであった。

 『蛇イチゴ』、監督:西川美和、「蛇イチゴ」製作委員会〔バンダイビジュアル=テレビマンユニオン=
  エンジンフイルム=シィースタイル=IMAJICA〕、2002年。 
 『ユメ十夜』、監督:実相寺昭雄/市川崑/清水崇/清水厚/豊島圭介/松尾スズキ/天野善孝・河原真明/
  山下敦弘/西川美和/山口雄大、「ユメ十夜」制作委員会〔日活=IMAGICA=I&S BBDO=ダイコク電機〕、
  2006年。
 『ゆれる』、監督:西川美和、「ゆれる」製作委員会〔エンジンフイルム=バンダイビジュアル=テレビ
  マンユニオン=衛星劇場〕、2006年。

 物語を確認しておこう。例によって<Movie Walker>のお世話になる。執筆者に感謝したい。なお、一部改
変したが、ご寛恕を乞う。

   〔解説〕

  『ゆれる』の西川美和によるミステリアスな人間ドラマ。山あいの村で、人々から慕われていた医
 師の失踪の原因とは? 数々の作品で独特な存在感を示してきた笑福亭鶴瓶が映画初主演。

   〔あらすじ〕

  八月下旬。山あいの小さな村から村の唯一の医師である伊野治(笑福亭鶴瓶)が失踪した。伊野は
 数年前、長く無医村だったこの地に着任し、さまざまな病気を一手に引き受けて村人たちから絶大な
 信頼を受けていた。すぐにベテラン刑事二人が捜査を進めるが、伊野の生い立ちを知る者は村の中に
 一人もいなかった……。遡ること約2ヶ月前。東京の医大を出たばかりの相馬啓介(瑛太)が研修医
 として赴任してくる。看護師の大竹朱美(余貴美子)と一緒に診療所を切り回しているのは伊野とい
 う中年医師。最初は慣れない僻地医療のやり方に困惑していた相馬だったが、伊野とともに働くうち
 次第に都会では味わったことのない充実感を覚え始める。そんなある日、鳥飼かづ子(八千草薫)と
 いう未亡人が倒れ、伊野が診療する。胃痛持ちの彼女は長らく診療所を避けてきたが、都会で医師と
 して勤務する末娘のりつ子(井川遥)の手を煩わせたくないがため、次第に伊野に心を開いていった。
 八月中旬。伊野は夜になると診療所を抜け出し、点滴を持ってかづ子の家を訪れるようになっていた。
 ある晩、玄関で伊野を見送ったかづ子はひどい吐き気でうずくまってしまう。駆け戻って背中をさす
 る伊野に、かづ子は娘が来るので何とかしてほしいと必死に訴えた。八月下旬。帰省しているりつ子
 が診療所を訪ねてきた。胃潰瘍にしては症状が長引きすぎではないか、と問い質すりつ子に伊野は懸
 命な説明を試みる。やがて自分なりに納得した彼女は非礼を詫び、来年の今頃まで帰ってこられない
 ので、母をお願いしますと頭を下げた。すると伊野は突然、原付バイクに飛び乗って診療所を後にし、
 そのまま彼は二度と戻らなかった……。九月初旬。刑事たちは、まだ伊野の消息を追っている。診療
 所は閉鎖、相馬も次の赴任先へと去っていった。かづ子は、りつ子が勤める病院に入院しているが、
 娘はまだ母親に本当の病名を告げられないでいる。その頃、伊野はある場所に向かっていた……。

 他に、松重豊(波多野行成=刑事)、岩松了(岡安嘉文=同)、笹野高史(曽根登喜男=神和田村の村長)、
香川照之(斎門正芳=青天薬品の営業マン)、キムラ緑子(迫田圭子=かづ子の長女)、高橋昌也(高畑弘
三=蘇生する高齢者)、中村勘三郎〔十八代目〕(勅使河原恭平=救急病院の医師)、森康子(中野シゲ子)、
市川千恵子(井野美佐子)、奥野匡(山岡辰夫)、石川真希(高畑晴枝)、新屋英子(患者のひとり)、河
原さぶ(村人のひとり)、安藤玉恵(同)、水島涼太、冷泉公裕、滝沢涼子、田中隆三、森富士夫、川辺久
造、市原清彦、志生野温夫、掛田誠、いか八朗、成瀬労、石田愛希、飯沼慧、比佐廉などが出演している。
なお、配役に関しては、<ウィキペディア>を参照した。
 これは蛇足であるが、「緊張性気胸」と診断した大竹看護師の助言を承けて伊野が胸腔ドレーンを患者の
胸に挿入するシーンには迫力があった。この大竹看護師は、果たして伊野がニセ医者であることを見抜いて
いたのだろうか。また、伊野がニセ医者になった動機に触れるシーンで、金や名誉ではないということにな
った。それでは何かということに言及されたとき、波多野刑事が「愛」という言葉を遣うが、肯定的なニュ
アンスでその言葉を口にしたわけではない。そのとき、斎門がわざと椅子ごと倒れ込もうとするが、それを
波多野が咄嗟に斎門の背中を支えて倒れるのを防ぐシーンがある。そのとき、斎門は、「刑事さんだって咄
嗟のときに手が出たでしょう。それと同じことじゃないですか」と言う場面がある。これは孟子の「四端」
の考え(とくに、惻隠の情)に基づいているのではないだろうか。念のため、以下に孟子の四端説をウィキ
ペディアから引用しておこう。ほぼ原文通りである。

  四端説(したんせつ)は、「性善説」を唱えた戦国時代中国の儒家孟子の道徳学説。四端とは、惻
 隠(そくいん)、羞悪(しゅうお)または廉恥(れんち)、辞譲(じじょう)、是非(ぜひ)の四つ
 の感情の総称である。

   概要

  『孟子』公孫丑章句上篇によれば、孟子は、公孫丑上篇に記されている性善説の立場に立って人の
 性が善であることを説き、続けて仁・義・礼・智の徳(四徳)を誰もが持っている四つの心に根拠付
 けた。
  その説くところによれば、人間には誰でも「四端(したん)」の心が存在する。「四端」とは「四
 つの端緒、きざし」という意味で、それは、

  「惻隠」(他者を見ていたたまれなく思う心)
  「羞悪」(不正や悪を憎む心)または「廉恥」(恥を知る心)
  「辞譲」(譲ってへりくだる心)
  「是非」(正しいこととまちがっていることを判断する能力)

 の四つの道徳感情である。この四端を努力して拡充することによって、それぞれが仁・義・礼・智と
 いう人間の四つの徳に到達するというのである。

  言い換えれば、

  「惻隠」は仁の端
  「羞悪」(「廉恥」)は義の端
  「辞譲」は礼の端
  「是非」は智の端

 ということであり、心に兆す四徳の芽生えこそが四端である。
  たとえば、幼児が井戸に落ちそうなのをみれば、どのような人であっても哀れみの心(惻隠の情)
 がおこってくる。これは利害損得を越えた自然の感情である。
  したがって、人間は学んで努力することによって自分の中にある「四端」をどんどん伸ばすべきで
 あり、それによって人間の善性は完全に発揮できるとし、誰であっても「聖人」と呼ばれるような偉
 大な人物になりうる可能性が備わっていると孟子は主張する。また、この四徳を身につけるなかで養
 われる強い精神力が「浩然の気」であり、これを備え、徳を実践しようとする理想的な人間を称して
 「大丈夫」と呼んだ。
  なお、四端については、南宋の朱熹の学説(朱子学)では、「端は緒なり」ととらえ、四徳が本来
 心に備わっているものであるとして、それが心の表面に現出する端緒こそが四端であると唱え、以後、
 四端説において支配的な見解となった。

 以上である。小生の誤解かもしれないが、斎門が「四端説」を知っていたかどうかはともかく、無医村の
現状に伊野が惻隠の情を抱いたのではないかという推測は、十分に考えられる解釈であろう。
 2本目は、『タナトス -むしけらの拳-』(監督:城定秀夫、「むしけらの拳」製作委員会〔GPミュージ
アムソフト=ヒューマックスコミュニケーションズ=レオーネ=ユナイテッドエンタテインメント=ミュー
ジックシネマズジャパン=NPO法人日本ベトナム交流センター=ラフター〕、2011年)である。純粋なボクシ
ング映画。平凡であるが、ある程度は楽しめる。この映画に関しても、上に倣って<Movie Walker>を活用さ
せていただく。以下、同じ。

   〔解説〕
 
  元WBA世界ミドル級チャンピオン竹原慎二原案・落合裕介原作のボクシング漫画『タナトス -むしけ
 らの拳-』を映画化。出演は、「BADBOYS」の徳山秀典、「劇場版 仮面ライダーカブト GOD SPEED
 LOVE」の佐藤祐基、「20世紀少年」シリーズの平愛梨。監督は、「静かなるドン 新章」の城定秀夫。

   〔あらすじ〕

  孤独な不良少年・リクこと藤原陸(徳山秀典)は、暴走族同士の抗争の助っ人として、その日暮ら
 しの生活費を稼いでいた。ある日、リクがいつものようにケンカに加勢していると、偶然、西田ボク
 シングジムに所属しているアマチュア・ボクサーの棚夫木克己(佐藤祐基)と出会う。腕に自信のあ
 ったリクだったが、棚夫木の一発のパンチで倒されてしまう。棚夫木はプロとして将来を有望視され
 ながら、脳の障害のために日本でのボクサー生命を絶たなければならなかった。リクは初めてケンカ
 に負けた悔しさから、西田ボクシングジムに入門する。彼は持ち前の“攻撃本能=タナトス”で、ボ
 クサーとしての才能を開花させていく。一方、棚夫木はジム会長の勧めから、メキシコで再起を懸け
 たプロデビューを目指す決意をする。目指す道は違っても、拳で未来をつかみ取ろうとするライバル
 となった二人は、それぞれの想いを激しくぶつけ合っていく。

 他に、平愛梨(酒井千尋=リクの大ファン)、渋川清彦(メガトン山本=ガラスのジョーの持主。ラーメ
ン屋を経営すると同時に、メガトンジムを開く)、古川雄大(宮本=西田ジムの練習生)、大嶋宏成(千島
トレーナー)、大口兼悟(須堂頼宏=風神の元メンバー、リクの対戦相手)、斉藤一平(久保田=風神の大
幹部)、秋本奈緒美(棚夫木の母)、升毅(西田会長)、梅沢富美男(森山=マッハ運送の社長)などが出
演している。なお、元世界チャンピオンの竹原慎二、ガッツ石松、輪島功一、レパード玉熊、佐藤修、薬師
寺保栄の面々、日本ボクシングコミッションのリングアナウンサーである冨樫光明が特別出演している。小
生としては、メガトン山本役の渋川清彦のインパクトが一番であった。
 3本目は、『地下鉄(メトロ)に乗って』(監督:篠原哲雄、METRO ASSOCIATES〔ギャガ・コミュニケー
ションズ=ジェネオン エンタテインメント=テレビ朝日=メーテレ=電通=松竹=IMAGICA=LDH=アドギア=
ミコット・エンド・バサラ=デスティニー〕、2006年〔なお、「メーテレ」の「ー」は波線。文字化けする
ので、音引で代替させた〕)である。地下鉄が舞台となるタイム・トラベラー映画。面白いけれど、安直。
もっとも、そこそこお金をかけているので面白いことは面白い。
 この映画に関しても、上に倣って<Movie Walker>を活用させていただく。以下、同じ。

   〔解説〕

  浅田次郎の原作を映画化した、ファンタジックな人間ドラマ。タイムスリップによりさまざまな時
 代に迷い込む主人公に堤真一。彼の父親を大沢たかおが演じている。

   〔あらすじ〕

  小さな衣料品メーカーの営業マンである長谷部真次(堤真一)は、その日、父が倒れたという知ら
 せを受ける。父とは高校卒業と同時に縁を切って以来会っていなかった。知らせを無視して家路に着
 こうとする真次は、今日が若くして死んだ兄の命日であることに気付く。父と兄に想いを馳せながら
 地下道を歩く真次。前を行く男が在りし日の兄の昭一(北条隆博)に見え、思わず後を追って地下道
 を出ると、そこはいつもの街ではなく、東京オリンピックを控えた昭和39年の東京だった。不意に時
 空を超えてしまった真次はさらに、終戦直後の昭和21年の東京へと誘われる。熱気溢れる闇市にまぎ
 れ込んだ真次は、アムール(大沢たかお)とその恋人のお時(常磐貴子)に出会う。生死の瀬戸際に
 置かれたこの世界で必死に道を開いて行く彼らの姿を見、真次は彼らと気持を一つにしていく。そん
 な折、真次はこの昭和21年の世界に居るはずのない自分の恋人の軽部みち子(岡本綾)の姿を見つけ
 る。彼女も時空を超えて呼び寄せられたのだ。姿の見えない大きな存在に導かれるように旅を続ける
 真次は、ついに戦時下の昭和に行き着く。戦地に向かう兵士を乗せた銀座線。真次はそこに若き日の
 アムールの姿を見つける。彼の肩のタスキには「祝出征・小沼佐吉」の文字。彼は真次が忌み嫌い、
 縁を切った父親だったのだ。何故自分は昭和の世界に呼び戻されたのか。何故みち子も同じ旅路にあ
 ったのか。真次はこの時空の旅の真の意味を知ることになる。

 他に、田中泯(野平啓吾=中学時代の先生)、笹野高史(岡村衣料商会の会長)、吉行和子(長谷部民枝)、
綱島郷太郎(小沼圭三=三男)、崎本大海(小沼真次=子どもの頃)、中村久美(長谷部の妻)、中島ひろ
子(長谷部民枝=若年期)などが主演している。辛いドラマであるが(ネタバレになるので、胆の部分は明
かさないでおく)、みち子の切ない気持は十分に伝わって来る。なお、配役に関しては、<ウィキペディア>
を参照した。
 4本目は、『カイジ2 人生奪回ゲーム』(監督:佐藤東弥、「カイジ2」製作委員会〔日本テレビ放送網= 
ホリプロ=東宝=読売テレビ放送=バップ=D.N.ドリームパートナーズ=講談社=ヒント=札幌テレビ=ミ
ヤギテレビ=静岡第一テレビ=中京テレビ=広島テレビ=福岡放送〕、2011年)である。文字通りの娯楽映
画。前作(「日日是労働セレクト50」参照)同様、最初から最後まで楽しめる内容である。
 この映画に関しても、上に倣って<Movie Walker>を活用させていただく。以下、同じ。

   〔解説〕

  福本伸行の同名コミックを実写映画化し、人気を博したサスペンスドラマの第2弾。藤原竜也扮す
 る伊藤カイジが、莫大な借金返済のために命がけのゲームに挑む姿をハイテンションで描き出す。今
 回は福本伸行自ら脚本に携わり、原作にはないゲームを考案するなど、原作ファンやアニメファンも
 楽しめる展開になっている。

   〔あらすじ〕

  伊藤カイジ(藤原竜也)は数々の命懸けのゲームに勝利し、多額の借金を帳消しにした。しかし、
 まさに人生の逆転を果たしたと思ったのもつかの間、1年も経たないうちに再び借金まみれの負け組
 になっていた。カイジは再逆転をめざし、当たれば10億円以上を稼げるモンスターマシーン、通称
 “沼”に挑む。裏カジノの若き支配人である一条聖也(伊勢谷友介)は、ただでさえ難攻不落の“沼”
 を、さらに絶対に攻略できないようにコントロールしていた。実は一条とカイジの間には、驚愕の因
 縁があった。地上300メートルの超高層ビルの間に渡された細い鉄骨を渡るという命懸けのゲームで、
 渡りきったのが一条とカイジの2人だけだったのだ。そんな最大最強のライバルである一条が支配す
 る“沼”を攻略するため、カイジはそれぞれの理由でどん底の人生を送る負け組の石田裕美(吉高由
 里子)、坂崎孝太郎(生瀬勝久)、そして前作でカイジの行く手を阻んだ利根川幸雄(香川照之)と
 手を組む。負け組4人は希望ある人生を奪回するため、命懸けで数々の究極のゲームに挑む。

 他に、松尾スズキ(大槻太郎)、山本浩司(鐘森和典)、嶋田久作(黒崎義裕=帝愛の大幹部)、光石研
(石田光司=裕美の父親)、山本太郎(船井譲次)、柿澤勇人(村上保=一条の腹心)、菜葉菜(鐘森の恋
人)、白石隼也(三好=半年間サイコロの目を記録していた若者)、菊田大輔(石和謙介=地下労働者のひ
とり)、宇梶剛士、森下能幸、高橋努、水橋研二、福本伸行、スズキジュンペイ、やべけんじ、外山貴博な
どが出演している。
 5本目は、『軽蔑』(監督:廣木隆一、「軽蔑」製作委員会〔角川映画=スチューディオ スリー〕、2011
年)である。廣木監督の作品は、当該のものを含めると、以下のように6本観ている。小生としては、『東
京ゴミ女』(「日日是労働セレクト31」参照)と『やわらかい生活』(「日日是労働セレクト34」参照)
が好みで、このブログでもだいぶ褒めた覚えがある。それに比べると、当該作品はあまり成功しているとは
言えない。中上健次の同名小説が原作であるが、同じく中上健次の「蛇淫」を映画化した『青春の殺人者』
(監督:長谷川和彦、今村プロ=綜映社=ATG、1976年)には遠く及ばないと思う。たぶん、高良健吾の嵌り
ぶりと比べれば、鈴木杏の汚れ役が板についていないからではないか。彼女には可哀想だが、この役はたい
へん難しいと思う。

 『東京ゴミ女』、監督:廣木隆一、シネロケット=日本トラステック、2000年。
 『ヴァイブレータ』、監督:廣木隆一、シー・アイ・エー=ハピネット・ピクチャーズ=日本出版販売=
  シネカノン=衛星劇場、2003年。
 『ガールフレンド(Someone Please Stop The World)』、監督:廣木隆一、「ラブコレクション」製作
  委員会〔ヒューマックスコミュニケーションズ=ジャム・ティービー=カルチュア・パブリッシャーズ〕、
  2004年。
 『機関車先生』、監督:廣木隆一、「機関車先生」製作委員会〔プラウドマン=ユーティーネット=テアトル
  アカデミー=ウィザードピクチャーズ=日本ヘラルド映画=電通=テレビ朝日〕、2004年。
 『やわらかい生活』、監督:廣木隆一、「やわらかい生活」製作委員会〔ハピネット・ピクチャーズ=
  衛星劇場=住友商事=スカパー・ウェルシンク=ステューディオ スリー〕、2005年。
 『軽蔑』、監督:廣木隆一、「軽蔑」製作委員会〔角川映画=スチューディオ スリー〕、2011年。 

 この映画に関しても、上に倣って<Movie Walker>を活用させていただく。以下、同じ。

   〔解説〕

  数々の名作を生み出した作家・中上健次の遺作を映画化した純愛ドラマ。破滅的に生きる遊び人の
 主人公を注目の若手俳優、高良健吾が演じ、その繊細さと野太さを体現。また、ヒロインのポールダ
 ンサーを鈴木杏が体当たりで演じ、女の熱情と覚悟を見せる。過酷な現実に翻弄されながら、身を寄
 せ合う二人の悲しい愛の逃避行を追う。

   〔あらすじ〕

  新宿歌舞伎町でその日暮らしをしているカズこと二宮一彦(高良健吾)は、兄貴分の伊藤(村上淳)
 から、600万の借金を帳消しにするかわりに、伊藤が属する組に断りなしで賭博を行っているポールダ
 ンスバー「ニュー・ワールド」への強襲を命じられる。カズは仲間とともにバーを襲うが、そこには
 カズが恋焦がれていたダンサーの矢木真知子(鈴木杏)がいた。混乱の最中、控え室から真知子を連
 れ出したカズは、その勢いのまま駆け落ちを提案する。真知子もまた、店内でいつも真知子を見つめ
 ていたカズが気になっていた。二人が向かったのはカズの故郷。実家は豪邸だったが、両親とは疎遠
 で、「俺、こっちで、この人と暮らすことにしたわ」というカズに、母の貴子(根岸季衣)も父の一
 幸(小林薫)も、いつも身勝手な息子にあきれるばかり。だが一幸は、半ば機械的に所有マンション
 の一室を二人のために用立てる。叔父の伸二(田口トモロヲ)の酒屋で地道に配達の仕事を始めたカ
 ズ。一方、真知子もカズの気のいい仲間たちに囲まれ、田舎町での生活にとけこもうとしていた。そ
 んなある日、真知子との結婚を反対され、カズが一幸に刃物を向けるという事件が発生。真知子を蔑
 む両親に腹を立て、どうすることもできずに苛立ったのだ。カズの祖父のかつての愛人で、今はカフ
 ェ「アルマン」を営むマダムの杉田千代子(緑魔子)から、そのことを知らされた真知子は、独り東
 京に戻り、再びダンサーとしての生活を始める。そんな中、傷心のカズが真知子を追ってクラブに現
 れた。「俺の嫁さんは真知子だけだよ」……再び故郷に戻ったカズと真知子は、お互いだけを信じて
 結婚する。祝福され、今度こそ固く結ばれたはずの男と女の絆。ところが、真知子の不在時にカズが
 こしらたカジノ賭博での借金は想像以上に膨らんでいた。やがて、カズを幼い頃から知る高利貸しの
 男、山畑万里(大森南朋)の魔の手が二人に近づいていく……。

 他に、日向寺雅人(西崎健次)、蕨野友也(横田悟)、小林ユウキチ〔裕吉〕(林公平)、蒼井そら(カ
ズの昔の女)、忍足修吾(浜口雅博=真知子に気がある銀行員)などが出演している。カズが携帯電話を走
行中の自動車の窓から道路に投げ捨てるシーンがあるが、小生の「携帯電話嫌悪症」がまた激しく反応した。
以下に、同様のシーンのある映画を掲げておこう。小生が覚えている限りなので、かなり曖昧ではあるが……。

 『赤い橋の下のぬるい水』、監督:今村昌平、日活=今村プロ=バップ=衛星劇場=マル、2001年。
  海に携帯電話を投げ捨てたのは、笹野陽介(役所広司)だったはず。
   → 「日日是労働セレクト」には記事なし。
 『月の砂漠』、監督:青山真治、WOWOW=ギャガ・コミュニケーションズ=ランブルフィッシュ=吉本興業=
  レントラックジャパン=サイバーエージェント、2001年。
  清流に携帯電話を落下させたのは、永井恭二(三上博史)だったか。
   → 「日日是労働セレクト16」を参照されたし。
 『東京原発』、監督:山川元:グランプリ=オメガ・ピクチャーズ=日活=衛星劇場、2002年。
  終盤のシーンで、天馬都知事(役所広司)によって携帯電話が破壊されるシーンがあったはず。
   → 「日日是労働セレクト14」を参照されたし。
 『転々』、監督:三木聡、「転々」フィルムパートナーズ〔スタイルジャム=ジェネオン エンタテイン
  メント=ザックコーポレーション=葵プロモーション〕、2007年。
  福原愛一郎(三浦友和)が皇居の堀に携帯電話を投げ捨てるシーンがあったはず。
   → 「日日是労働セレクト85」を参照されたし。
 『ボーイズ・オン・ザ・ラン』、監督:三浦大輔、「ボーイズ・オン・ザ・ラン」製作委員会〔アミューズ
  ソフトエンタテインメント=ティー・ワイ・オー=小学館=ファントム・フィルム=バンタン映画映像
  学院=モンスター☆ウルトラ〕、2010年。
  主人公の田西敏之(峯田和伸)が激高して携帯電話をへし折るシーンがあったはず。
   → 「日日是労働セレクト84」を参照されたし。
 『死刑台のエレベーター』、監督:緒方明、「死刑台のエレベーター」製作委員会〔テレビ東京=角川
  映画=ポニーキャニオン=テレビ大阪=小椋事務所〕、2010年。
  誰かが携帯電話を路上に投げ捨てるシーンがあったはず。もしかすると、警察官の赤城邦衛(玉山鉄二) 
  だったかもしれない。
   → 「日日是労働セレクト87」を参照されたし。

 いまさらの感があるが、小生にとって、携帯電話が目障りな小道具として初めて登場したのは『失楽園』
(監督:森田芳光、角川書店=東映=日本出版販売=三井物産=エースピクチャーズ、1997年)だったと思
う。主人公の久木祥一郎(役所広司)が軽薄極まりない態度で携帯電話を使用していたことを覚えている。
森田監督は、皮肉な意味を籠めていたのだろうか。もはや携帯電話の登場しない映画はないといってもよい
ほどであるが、誰か意識的にまったく携帯電話の登場しない映画を作れないものか。まぁ、無理だろうな。
もっとも、『めがね』(監督:荻上直子、めがね商会〔日本テレビ=バップ=シャシャ・コーポレイション=
パラダイス・カフェ=日活〕、2007年)という映画で、主人公のタエコ(小林聡美)の携帯電話が電波圏外
になるシーンがあったはず(「日日是労働セレクト35」を参照されたし)。しかし、あの程度では駄目。
徹底的に携帯電話が無視されるか、あるいは愚弄されるシーンが観てみたいものである。
 6本目は、『化粧師(KEWAISHI)』(監督:田中光敏、「化粧師」製作委員会〔イオン化粧品=読売連合
広告社=東映CM〕、2002年)である。「化粧」の持つ不思議さを、いくらかは伝えてくれる平均的なできの
映画である。通俗に流れているが、けっこう楽しめる。
 この映画に関しても、上に倣って<Movie Walker>を活用させていただく。以下、同じ。

   〔解説〕

  故・石ノ森章太郎の人気漫画を、実力派キャストの競演で映画化。人の心を豊かに彩る化粧師と、
 さまざまな女性たちとの交流をやさしく見つめた感動の人間ドラマだ。

   〔あらすじ〕

  大正初期の東京・下町に、少しばかり偏屈な小三馬(椎名桔平)という化粧師がいた。客の中心は
 一部の上流階級の女性や芸者たちであったが、抜群の腕の彼に化粧して貰うといいことがあるとの評
 判を得ていたため、人生の一歩を踏み出そうとするその他の女たちも彼の元を訪れることしばしばだ
 った。ある日、呉服店の女将・三津森鶴子(いしだあゆみ)の化粧をしに行った小三馬は、そこで非
 識字者の下働き・沼田時子(池脇千鶴)と出会う。彼女の夢は、字が読めるようになり、深川の大火
 で焼け出されバラック生活を送る子どもたちに本を読んで聞かせてあげることだった。それを知った
 小三馬は、彼女に字の練習本を贈ってやる。そして、その甲斐あって字を覚えた時子は夢を叶えるも、
 その時、バラックに立ち退き命令が下り、役人による強制執行が行われてしまう。仲間を助けるため、
 執行書を奪って小三馬の元に逃げ込む時子。小三馬は、そんな彼女に化粧を施し変装させ、追っ手の
 目を欺くのだった。しかし、小三馬に秘かな思いを寄せながら、別の男と結婚することになった天麩
 羅屋の娘・青野純江(菅野美穂)の婚礼の日、彼女に化粧をしてやった小三馬に官憲の手が迫る。そ
 れを救ったのは、純江と彼女の父親だった。だが図らずもその騒動の最中、小三馬が耳が聞こえない
 ことが明らかになってしまう。実は、彼は幼い時、鉱毒によって聴覚を失っていたのだ。彼が偏屈に
 見えたのも、それが原因だった。それから数日後、時子が女優抜擢試験を受けることになった。申し
 込みの写真を撮るという彼女に、小三馬はとっておきの化粧をしてやる。

 他に、柴咲コウ(中津小夜)、田中邦衛(青野茂蔵=純江の父)、柴田理恵(青野うめ=同じく母)、佐
野史郎(北沢宏介=写真屋)、大杉漣(森山五郎=春和書店の店主)、菅井きん(トメ=焼け出された住民
のひとり)、岩城滉一(脇本健太)、岸本加世子(脇本藤子=健太の妻)、秋山拓也(脇本光夫=健太と藤
子の子ども)、あき竹城(ふさ=三津森家の筆頭女中)、酒井若菜(三枝しのぶ=舞台女優)、平泉成(影
山=立ち退きを迫る役人)、井上博一(鮫島=刑事)、谷口高史(剛=同)、北見唯一(劇場の守衛)、奥
貫薫(小吉の母)、森田直幸(小吉)などが出演している。個人的には、大好きな柴咲コウが出演していた
ので、その点では大満足である。
 7本目は、『のんちゃんのり弁』(監督:緒方明、「のんちゃんのり弁」製作委員会〔木下工務店=キン
グレコード=中部日本放送〕、2009年)である。子どもを抱えつつ離婚した女の「自立」摸索映画である。
今風のつくりで、けっこう清々しい後味である。
 この映画に関しても、上に倣って<Movie Walker>を活用させていただく。以下、同じ。

   〔解説〕

  弁当屋を開こうと奮闘する女性の姿を描き、人気を博したコミックが原作のハートフルムービー。
 小西真奈美が持ち前の明るさで周囲を和ませるアラサーのヒロインを熱演。

   〔あらすじ〕

  31歳の永井小巻(小西真奈美)は東京下町育ちの専業主婦。ある日、ダメ亭主の範朋(岡田義徳)
 に愛想を尽かした彼女は、娘の乃里子=“のんちゃん”(佐々木りお)を連れて、母フミヨ(倍賞美
 津子)のいる墨田区京島の実家に出戻る。のんちゃんを幼稚園に入れ、仕事探しを始めるが、主婦歴
 が長くキャリアのない小巻に世の中は甘くなかった。受ける面接は不採用続き。やむなく、のんちゃ
 んの幼稚園の先生でもある同級生の玉川麗華(山口紗弥加)の紹介で、水商売のアルバイトを始める。
 だが、セクハラに遭って喧嘩した末、早々に辞めてしまう。なけなしの貯金も底をつき、焦りだけが
 空回り。自暴自棄寸前のところへ範朋が現れて、離婚には絶対に応じないと主張。小巻やのんちゃん
 の周りをうろつく。だがその一方で、初恋の同級生、川口建夫(村上淳)と16年ぶりに再会。互いに
 惹かれあっていく。そんな中、資格もこれといった職歴もない小巻の唯一の才能が開花する。それは
 お弁当作り。娘のために作ったのり弁が幼稚園で大評判になり、大人たちにも作るようになったのだ。
 あまりの美味しさから、タダでは申し訳ないと、お金を集めて持ってくる麗華。これに感激した小巻
 は、自分で“安くて美味しい最高のお弁当屋を開く”ことを決意。早速、小料理屋“ととや”の主人・
 戸谷(岸部一徳)に、弟子入りを志願する。困惑する戸谷だったが、熱意に負けて弟子入りを許可。
 やがて、料理だけではなく、働くことの意味や生きることについて、厳しくも温かい言葉で小巻を支
 えるようになってゆく。食品衛生責任者免許も取得し、目標に向かって奮闘する小巻だったが、店を
 オープンするための資金が貯まらない。困った小巻に、戸谷さんがお昼だけ“ととや”を貸してもい
 いと申し出る。さらには、建夫が“一緒にお弁当屋をやらないか”とプロポーズ。話が急展開する中、
 のんちゃんがいなくなったと幼稚園から連絡が入り大騒動に発展する……。

 他に、斉藤暁(あさがお幼稚園の園長)、絵沢萠子(居酒屋「小雪」のママ)、徳井優(八百屋)、堀部
圭亮(広告代理店・企画営業職の面接者)、鈴木卓爾(不動産・一般事務職の面接者)、田中要次(倉庫運
送業・仕分け職の面接者)、諏訪部仁(本屋店主)、安藤広郎(酒屋店主)、北見敏之(小雪の客)、松尾
諭(同)、上田耕一(健夫の父)、花原照子(健夫の祖母)、諏訪太朗(川口写真館の客)などが出演して
いる。小巻手作りの「のり弁」はさすがにうまそうであった。なお、川口写真館の出張料プラスプリント料
30枚で4万2千円(途中で2千円値引きしている)は高いのだろうか、安いのだろうか。にわかには判断で
きない。また、「居場所」よりも「行き場所」という小巻の台詞には迫力が籠っていた。だから、人を動か
せるのであろう。
 最後に「リスモドラマ」について言及しておこう。当該のリスモドラマのDVDに説明が載っているが、中身  
はこうなっている。

  気鋭の映画監督×旬な俳優による、“携帯ドラマ”の枠を超えたハイクォリティーな映像作品を提
 供するオリジナリティ・ドラマ・シリーズです。人気TVドラマの続編、新作映画のアナザー・スト
 ーリーなど、常に新しい試みでラインナップを展開しています。au ケータイから「リスモドラマ」と
 検索し、多彩なラインナップをご堪能ください。

 さて、そのリスモドラマの一篇は『就職戦線異状あり』(監督:瀧本智行、「就職戦線異状あり」プロジ
ェクト、2011年)である。大学生の就活模様が描かれているが、最近の動向も押さえており、けっこう楽し
めるドラマに仕上がっている。主人公の大橋玲奈に忽那汐里、園田賢一に大東俊介、岩城に佐野和真、笹岡
茂に柄本佑、景山美由紀に早織、日和ホールディングスの大和田部長に宇梶剛士が扮している。「反貧困
人間らしい生活を!」を掲げるプレカリアート研究会の実体はいかに、といったところか。なお、「プレカ
リアート」については、『しのびよる破局 生体の悲鳴が聞こえるか』(辺見庸 著、角川文庫、2010年)に
興味深い記事が載っているので、そちらを参照されたし。ともあれ、TSUTAYAさんよ、この作品そのものは面
白かったけれど、同様のDVDを劇場公開映画と同じ棚に並べないでほしい。どう考えても、28分のリスモドラ
マに、劇場公開映画と同額の料金を払ういわれはないと思うから。


 某月某日

 DVDで邦画を3本観たのでご報告。1本目は、『アンダルシア 女神の報復』(監督:西谷弘、フジテレビ=
東宝=電通=ポニーキャニオン=日本映画衛星放送=アイ・エヌ・ピー=FNS27社、2011年)である。前作
の『アマルフィー 女神の報酬』(監督:西谷弘、フジテレビ=東宝=電通=ポニーキャニオン=日本映画
衛星放送=アイ・エヌ・ピー=FNS27社、2009年)の続篇に当たる。興行成績としては前作よりも当該映画
の方が振るわなかったらしいが、作品の出来としてはこちらの方が上だと思う。安心して観ていられるし、
筋書も平凡だがそれなりにサスペンスもある。個人的には、マネー・ロンダリングを絡ませた国際金融犯罪
に興味が湧かないこともないが、庶民の一人としては遠い国のお話なので、「勝手にやってろ」といった感
じか。伊藤英明扮する神足誠が所属するインターポール(国際刑事警察機構)についてはほとんど知識がな
いので、以下に<ウィキペディア>の詳細な記事を掲げておこう。執筆者に感謝したい。なお、ほぼ原文通り
である。

  国際刑事警察機構(こくさいけいじけいさつきこう、英語: International Criminal Police Organi-
 zation、略称:ICPO)は、国際的な犯罪防止のために世界各国の警察により結成された国際組織である。
 インターポール(Interpol、テレタイプの宛先略号より)とも呼ばれる。加盟国は190か国(地域)を数
 え、国際連合に次ぐ。

   〔概要〕

  犯罪捜査や犯人逮捕に携わる各国の警察の連携を図り、各国間の情報の伝達ルートの役割を果たす。
 主な活動は、国外逃亡被疑者や行方不明者、盗難美術品などの発見、身元不明死体の身元確認などに
 努める「国際手配制度」や、国際犯罪および国際犯罪者に関する情報のデータベース化とフィードバ
 ックなど。運営は、2つの非常設機関(総会および執行委員会)と、2つの常設機関(事務総局およ
 び加盟各国に設置された国家中央事務局〔NCB〕)により行われる。NCBは自国の警察と事務総局や加
 盟各国の警察とをつなぐ窓口機関にあたるもので、日本では警察庁が指定されている。
  リヨンに事務総局、ハラレ、アビジャン、ナイロビ、ブエノスアイレス、サンサルバドルに準地域
 事務局、バンコクに連絡事務所がある。
  映画・テレビ・漫画などのフィクションでは「国際警察」のような描かれ方をするが、実体はその
 ような大規模な組織ではなく、各国法執行機関の連絡機関・協議体としての性格が強い。司法警察権
 は各国の主権事項に属するため、たとえば「ルパン三世」の銭形警部のような、世界中で捜査活動を
 する「国際捜査官」は存在しない。
  ただ、実際に国際犯罪の実働的捜査活動を行う部門は存在し、事務総局の内局である実働部局が担
 当、緊急時の確保については職員自らが行うこともある。ただし最終的に犯罪者の身柄拘束を行なう
 のは国家主権上の問題から、その国の警察である。なお総裁や事務総長は、フランス政府より外交特
 権を与えられ、係官などの職員は、国際活動中に個別に外交特権を受けることがある。
  年に1,000件を越える捜査依頼があり、2008年現在6,000人の手配者を追跡している。
  ベルギーとオランダ両国の国境が複雑にまたがるバールレ(オランダ領バールレ=ナッサウおよび
 ベルギー領バールレ=ヘルトフ)の場合、同じ1つの事件と1人の犯人を捕まえようとする場合、両
 国の警察官がペアになって追跡、逮捕を行う。

   〔歴史〕

  1923年、国際刑事警察委員会(ICPC)として創設された。はじめ本部はオーストリアにあったが、
 1938年のアンシュルス(ナチス・ドイツによるオーストリア併合)後には本部がベルリンに移され、
 以降、第二次世界大戦でのドイツの敗戦までICPCは、ゲシュタポの下部組織に過ぎなかった。ライン
 ハルト・ハイドリヒやアルトゥール・ネーベ、エルンスト・カルテンブルンナーなど親衛隊(SS)の
 国家保安本部幹部たちがICPC総裁を務めていた。
  1956年に国際刑事警察委員会を発展的に解組し、国際刑事警察機構を設立した。事務総局は1946年
 に再建されてからフランス・パリにあったが、1989年以降はリヨンにある。

   〔日本〕

  日本は1952年(昭和27年)の第21回総会で加盟し、国家中央事務局は警察庁。
  1967年(昭和42年)9月27日 - 10月4日の間、京都市で第36回総会が開催された。1975年(昭和50
 年)から事務総局に警察庁職員を派遣している。1996年(平成8年)から2000年(平成12年)まで兼
 元俊徳(警察庁国際部長。退任後は内閣情報官)が第15代総裁を務めた。
  なお、ICPOから国際指名手配を受けている日本人は、2012年5月時点で16人存在する。ただし、国
 際指名手配はあくまで捜査への協力要請にすぎないため、国際指名手配を受けたからといって日本の
 警察がそれだけで逮捕することはない。相手国と犯罪人引渡し条約を結んでいたり、国内法に違反し
 ていない限り、普通に生活している者もいる。これは、日本だけに限らない。

   〔ICPOが登場するフィクション〕

   ○ 映画

  『ゴジラ対メカゴジラ』では、南原・田村の2人の捜査官がブラックホール第三惑星人基地の破壊
 工作に活躍している。尚、続編の『メカゴジラの逆襲』には正式名称が「国際警察」という組織が登
 場する(上述のように「国際警察」はICPOの正式名称ではない、但し劇中ではこの組織の捜査官も
 「インターポール」を名乗っている)。
  『メダリオン』に登場するワトソン。
  『デッドヒート』に登場するキャノン捜査官、他 。
  『ロード・オブ・ウォー』では、武器商人の主人公を追跡する実働部隊の警察官が登場する。
  『バタリアン5』に登場する2人組の男。バタリアン(ゾンビ)の壊滅を目指す間抜けな二人組み。
  『SPY N』では藤原紀香が素性を隠して犯罪組織に潜入している。
  『デイジー』(2006年・韓国)では、ヒロインの恋人であるジョンウ(イ・ソンジェ)がインター
 ポールに属している設定であり、財布の中の身分証が登場する場面もある。

   ○ 漫画・アニメ

  『ゴルゴ13』に登場するバニングスとその部下。
  『ルパン三世』に登場する銭形警部は、埼玉県警からインターポールに出向していることになって
 いる。詳しくはICPO (ルパン三世)を参照。
  『CITY HUNTER』には、「インターポール」で働くとされる人物が槇村香に近づくストーリーがあ
 る。
  『DEATH NOTE』に登場するLは、ワタリを通じて指示を出した。
  『ジャイアントロボ THE ANIMATION -地球が静止する日』には「国際警察機構」という組織が登場
 する。ただし超常的な力を持つメンバーにより構成され、世界を守るために戦うなど通常の捜査組織
 ではない。
  『名探偵コナン』では、ICPOに工藤優作の友人がいるということになっている。またアニメ映画第
 3作『名探偵コナン 世紀末の魔術師』で、阿笠博士が国際指名手配されていたスコーピオンという
 犯人の特徴を、ICPOのサイトを使って調べるシーンがある。上記の『ルパン三世』とのコラボ作品で
 はインターポールの警官として銭形幸一が登場。
  『タンタンの冒険旅行』ではデュポンとデュボンが登場する。
  『ツーリング・エクスプレス』1981年から白泉社で連載されている長編コミックス。連載当初は主
 人公の シャルル・オージェがICPOの新米刑事として登場。また、シャルルの育ての親であるエドア
 ール・ティリエもまたフランス・パリ市警の敏腕警部で、出向したICPOの捜査官である。後に、両者
 とも辞職した。
  『GS美神 極楽大作戦!!』に登場する西条輝彦はICPOのオカルトGメンに所属する。
  『人造昆虫カブトボーグ V×V』に登場する西山はICPOに所属する少年刑事で、ワシントン条約違
 反を犯した山田一郎を逮捕した。
  『キャッツ・愛』に登場する女性刑事・浅谷光子はキャッツ・アイを捕らえられなかった責を負っ
 てインターポールへの研修を命じられ、2年前から出向中とされている。
 
   ○ 小説

  『トライアングル』の主人公・郷田亮二はインターポールの刑事という設定。はやみねかおる著作
 の『怪盗クイーンシリーズ』や『名探偵夢水清志郎事件ノート』シリーズには国際刑事警察機構に所
 属する「探偵卿」が登場する。『薬師寺涼子の怪奇事件簿』シリーズのヒロインである薬師寺涼子は、
 ストーリーの開始時期以前にICPOに研修のため出向していた経歴がある。

   ○ テレビドラマ

  『ケータイ刑事 銭形シリーズ』の銭形四姉妹の父はICPO所属の警察官である。
  『イナズマンF』の副主人公・荒井誠はICPO秘密捜査官という設定。劇中には同僚の捜査官も何名
 か登場する。
  『仮面ライダーX』の第3話にインターポールの捜査官・ダボスが登場。GOD機関の怪人・ヘラクレ
 スを追って日本に訪れるが、ヘラクレスに殺害される。
  『仮面ライダーBLACK』には、ICPO捜査官・滝竜介が登場する。
  『レスキューポリスシリーズ』では、度々ICPOの名前が登場する。このうち『特警ウインスペクタ
 ー』のメンバーである香川竜馬、ウォルター、バイクル、藤野純子、野々山真一の5人が、物語ラス
 トにてICPOへと出向している。
  『西部警察』では、度々国際テロ組織および香港マフィア等が登場し、事件を起こす際に登場して
 いる。桐生一馬(加納竜)はインターポールへの出向という形で降板。
  『Gメン'75』(第307話)以降に登場する草鹿刑事(鹿賀丈史)は、インターポール捜査官出身でGメ
 ンのメンバーに抜擢されるという設定である。インターポール本部はパリにあるという設定で、草鹿
 がフランス語で秘書や同僚と会話する場面がある。
   
   ○ ゲーム

  『鉄拳シリーズ』に登場するレイ・ウーロンは香港の国際捜査官、ブライアン・ヒューリーは香港
 で殉職した元国際捜査官という設定。
  『ストリートファイターシリーズ』に登場する春麗は、行方不明の父親の手がかりを求め、組織の
 一員となった。

 以上である。小生のほとんど知らない世界であり、この項目を執筆した方の守備範囲の広大さに敬意を表
したい。
 さて、物語を確認しておこう。例によって<Movie Walker>のお世話になる。執筆者に感謝したい。なお、
一部改変したが、ご寛恕を乞う。

   〔解説〕

  劇場版第1作『アマルフィ 女神の報酬』、テレビドラマ「外交官・黒田康作」に続く織田裕二主
 演のサスペンス作。スペインで大規模なロケを敢行し、テロ対策の極秘任務を帯びた主人公の活躍を
 壮大なスケールで描く。黒木メイサ、伊藤英明が物語の鍵を握る役どころで出演するほか、福山雅治
 が前作に続き、ジャーナリスト役で登場。

   〔あらすじ〕

  スペイン北部に隣接する小国アンドラで、日本人投資家、川島直樹(谷原章介)の遺体が発見され
 る。国際会議の準備でパリを訪れていた外交官、黒田康作(織田裕二)は、事態把握のために調査を
 命じられ、2人の事件関係者と出会う。遺体の第一発見者であるビクトル銀行行員の新藤結花(黒木
 メイサ)と、事件を担当するインターポール捜査官の神足誠(伊藤英明)。多くを語らず、何かに怯
 える結花と、捜査情報を隠そうとする神足。実は、2人は過去の事件をきっかけに、心に闇を抱えて
 いたのだ。結花を保護するために黒田の同僚の外交官、安達香苗(戸田恵梨香)が駐在するバルセロ
 ナの日本領事館に向かった3人は、正体不明の武装グループから襲撃される。襲撃犯の正体が国際テ
 ロ組織ではないかと恐れる結花。事件に何か裏があると確信した黒田は、馴染みのジャーナリスト佐
 伯章悟(福山雅治)から得た情報を元に、国際テロ組織によるマネー・ロンダリング=資金洗浄と投
 資家殺人との関連について調査を進める。一方、神足はビクトル銀行のブローカーがアンダルシア地
 方で巨額の不正融資を行なっているとの情報を得る。仕組まれた罠、錯綜する情報、そして隠された
 秘密とは何か……? 真相を追ってアンダルシアに向かう黒田に、ついに任務中止の命令が下される。
 アンダルシアで3人を待ち受ける運命とは……?

 他に、鹿賀丈史(安藤庸介=外務省邦人テロ対策室室長)、夏八木勲(村上清十郎=財務大臣)、大杉漣  
(吉永隆実=神足の上司)などが出演している。黒田と神足は互いに惹かれ合いながら別れるが、当該作品
が大ヒットした場合(残念ながら、興行的には振るわなかった)、あるいは両者の絡みを伏線にして第3作
の企画があったのかもしれない。
 2本目は、『わたし出すわ』(監督:森田芳光、アスミック・エース エンタテインメント、2009年)で
ある。監督の森田芳光は61歳の若さで他界したが(2011年)、小生の母親と同じく、C型肝炎が命を縮めた
由。もしかすると、彼を苦しめたと思われる「死の影」がこの映画にも色濃く現れているのかもしれない。
さて、作品であるが、不思議な味わいがあり、リアリティ・ドラマというよりも、人間のある種の行動パタ
ーンを描きたかったのではないのか。とくに、人間と金銭との関係をさまざまな角度から凝視している監督
の眼を感じざるを得ない。この物語も<Movie Walker>の力を借りて、確認しておこう。執筆者に感謝したい。
なお、一部改変したが、ご海容いただきたい。

   〔解説〕

  森田芳光が13年ぶりにオリジナル脚本で描く、「お金」にまつわるドラマ。人々の夢や希望を聞い
 ては、それを叶えるための大金を差し出そうとするミステリアスな女性の姿をつづる。

   〔あらすじ〕

  民家の郵便受けに1キロの金塊が投げ込まれたことを、テレビのニュースが伝えている。東京から
 故郷に戻ってきた山吹摩耶(小雪)は、引越の終わった新しいアパートで、引越業者にポチ袋を渡す。
 だが、その中身は10万円の現金。慌てる業者に、摩耶は「そのお金を使って、いい思い出を作ってく
 ださい」と告げる。街で市電に乗った摩耶は、運転手の道上保(井坂俊哉)と再会。道上は高校の同
 級生だった。思いがけない再会に驚く道上。高校時代から世界中の路面電車めぐりが夢だったという
 彼に、摩耶は告げる。「そのお金、私が出してあげようか」。後日、道上に摩耶から大金が届く。高
 校の同級生、魚住サキ(黒谷友香)の夫の豪(原隆仁)が急死し、その通夜で顔を合わせる同級生た
 ち。帰り道、川上孝(山中崇)の家を訪れる摩耶。故障で将来を絶たれたマラソンランナーの川上に、
 海外での治療費を提供する。さらに、平場さくら(小池栄子)と出会った摩耶。さくらの希望に応じ
 て冷蔵庫と、夫のまさる(ピエール瀧)が箱庭協会会長に就任するための資金を提供する。次に、摩
 耶は養魚試験場で働く保利満(小澤征悦)の許を訪れる。漁業の研究を続ける保利は、摩耶に資金提
 供を求める。だが、保利が中国系美女(趙淳)を伴って高級ホテルの一室へ入ろうとすると、摩耶が
 現れ、女を追い返してしまう。そんな摩耶に、保利のために女を手配した溝口雅也(仲村トオル)と
 いう男が、邪魔をするなと警告する。摩耶には、病院で寝たきりのまま、意識のない母(天光眞弓)
 がいた。その見舞いに向かう途中、尾行してきたサキに大金の出所を問い詰められる。自分のアパー
 トへ向かった摩耶は、押入れからバケツを取り出して、彼女に差し出す。そこに入っていたのは、5
 個の金塊。「もう私の全財産、サキに残しておいたの」。果たして、摩耶のお金の出所は? 大金を
 差し出す彼女の意図とは? 摩耶からお金を受け取った友人たちの夢や希望の結末は……?

 他に、小山田サユリ(道上かえで=保の妻)、藤田弓子(川上たみ=孝の母)、 佐藤恒治(交通局課長=
道上保の上司)、富川一人(引越屋の布田)、鈴木亮平(同じく大国)、吉増裕士(木下コーチ)、加藤治
子(神林多恵=前・箱庭協会会長)、袴田吉彦(天草大二郎=石油会社スタンレー・アラビアンの日本支社
長)、野間口徹(天草の付き添い)、小村祐次郎(同)、永島敏行(クラブの客=富裕なお寺の住職)、入
江雅人(大野医師)、武田義晴(山東刑事)、小川岳男(草笛刑事)、一太郎(マックス=かえでが入れ揚
げたホスト)、林剛史(ジョー=カードマジックのプロ)、珠木ゆかり(ジムの記者)、北川景子(場をわ
きまえない記者)、陳有崎(中国人の調査官)、太田誠一(通訳)、富田正夫(ホスト)、佐藤雄一(同)、
宮谷卓也(同)、中山美緒(ホステス)、原田玲(同)、佐藤瑞紀(同)、新立美香(同)、山崎文雄(ク
ラブの客)、竹内伸治(レストランの支配人)、広部卓也(デパートの営業担当)、永江智明(葬儀の僧侶)、
ヨシダ朝(ある男の声)、永嶋啓司(株価放送の声)、田中俊英(同)、大塚和彦(ニュースアナウンサー
の声)などが出演している。
 ところで、以下に挙げる台詞が重要であるが、画面に文字が現れる趣向から、『(ハル)』(監督:森田
芳光、光和インターナショナル、1995年)を連想した人も多いのではないか。なお、これらの台詞は、麻耶
にとって「愛」を感じた言葉なのであろう。彼女が愛を「重さ」と表現するシーンがあるが、アウグスティ
ヌス(Aurelius Augustinus)の『告白(Confessiones)』(第13巻9章)の「私の愛は重さである(Pondus
meum, amor meus)」を意識した台詞だろうか。もっとも、金塊を絡めた台詞なので、文字通り「重さ」が
モチーフなのだが……。

   「マヤ、そんなの聴いて面白いのか」(道上保)。

   「マヤ、走ってみろよ。嫌なこと忘れるぜ」(川上孝)。

   「マヤ、あなたは東京にむいている」(平場さくら)。

   「マヤ、俺、魚の気持ちわかる男なんだ」(保利満)。

   「マヤをライバルと思っていい?」(魚住サキ)。

   「ありがとう マヤ」(麻耶の母)。

 いずれも何気ない台詞であるが、聴く者にとっては「宝物」に変わることもある。麻耶は金銭よりも愛を
重んじる人なのである。
 3本目は、『不倫純愛』(監督:矢崎仁司、「不倫純愛」製作委員会〔クロックワークス=キングレコー  
ド=ビーイング〕、2011年)である。小生としては、矢崎監督の3作目(実際には7本くらい作品がある由)
の鑑賞ということになる。以前に観た『三月のライオン』(監督:矢崎仁司、矢崎仁司グループ、1991年)
と、『ストロベリーショートケイクス』、監督:矢崎仁司、ストロベリーショートケイクス・パートナーズ
〔アップリンク=エス・エス・エム=コムストック=TOKYO FM〕、2006年)があまりに素晴らしかったので、
ずいぶん期待して観たのだが、不可思議な世界を描いている割には常套的で、やや落胆した。彼の作品でな
ければもう少し褒めてもいいが、前二作と比較すれば凡作と言わざるを得ない。言い換えれば、激しい性描
写さえなければ、TVドラマとほとんど変わらない出来である。前二作でも性描写は重要な意味を持ってい
たが、当該映画では煽情的でこそあれ、そこに哲学的意味を見出すことはできなかった。「不倫」と「純愛」
という水と油のようなテーマをクロスオーヴァーさせたことだけに注目すれば、「ぼくたちの失敗」(森田
童子)という楽曲で彩られていた『高校教師』(1993年にTBS系列で放送された、野島伸司脚本のTVドラマ。
真田広之・桜井幸子のコンビが初々しかった)というTVドラマが優れており、通俗的な背景を捨象すれば、
かなりの傑作だったのではないのか。なお、唐沢寿明と遠山景織子で撮られた映画作品(監督:吉田健)は
未見である。
 物語を確認しておこう。この作品も<Movie Walker>のお世話になる。執筆者に感謝したい。なお、一部改
変したが、ご海容いただきたい。

   〔解説〕

  新堂冬樹のエロティックで哀しみに満ちた同名恋愛小説を「スイートリトルライズ」の矢崎仁司監
 督が映画化。「屋根裏の散歩者」の嘉門洋子が二人の男の“ファムファタル”を妖艶に演じる。その
 ほかの出演者は「BOX 袴田事件 命とは」の中村優子、「サイクロプスの涙」の河合龍之介、「牙狼
 RED REQUIEM」の津田寛治など。

   〔あらすじ〕

  出版編集部で編集長として働く辰波京介(津田寛治)。やりがいある仕事、そして美しい妻の真知
 子(中村優子)を持ち、充実した日々を送っているように見えた。だが、妻を愛しているものの結婚
 生活15年を超えて倦怠期を迎え、夜の営みが重荷となっていた。そんな折、新進気鋭の作家・岡セイ
 ジ(河合龍之介)の自宅を訪れた京介はセイジの恋人・川島澪香(嘉門洋子)と出逢う。セイジの小
 説は常に彼女をモチーフに書かれており、その想像を超える美しく妖艶な姿に京介は惹かれていく。
 ところがある日、セイジが突然失踪、京介は澪香と共に捜索活動をするうちに、ある出来事がきっか
 けで肉体関係を結んでしまう。背徳と知りつつ、性愛に溺れていく二人。しかし、その裏にはセイジ
 の策略があり、魔の手は京介の妻・真知子へと伸びていた……。

 なお、他の出演者はいずれも未知に近い人々なので、その名は割愛させていただく。


 某月某日

 夏季恒例となった京都のネカフェでの書込である。今日も暑い一日を迎えたが、部屋の中は適温(少し暑
いが)なので、ほぼ快適である。さて、ブルーレイとDVDで3本の邦画を観たので報告しよう。3本ともに
カタカナの「ア」で始まる映画であるが、意識的な選択ではなく、単なる偶然である。いずれもリアリティ
を犠牲にしてエンタテインメントに徹した作品なので、それなりに楽しむことができた。なお、今年は「犯
罪映画」を意識的に鑑賞しているが、その意図通りいずれも犯罪に関わる映画である。もっとも、考察に値
するほどの新鮮な材料は見出せなった。
 1本目は、『アウトレイジ ビヨンド』(監督:北野武、「アウトレイジ ビヨンド」製作委員会〔バンダ
イビジュアル=テレビ東京=オムニバス・ジャパン=ワーナー・ブラザーズ映画=オフィス北野〕、 2012
年)である。初めてのブルーレイによる鑑賞である。前作を超えるという意図だろうが、ある程度は達成で
きたのではないか。映画館で観たかったが、その機会は作れなかった。主演のビートたけしの演じた大友と
いうヤクザのけじめが目玉の映画であるが、ラスト・シーンで納得した。「全員悪人」かどうかは、観た者
の判断に委ねる他ないだろう。
 物語を確認しておこう。例によって<Movie Walker>のお世話になる。執筆者に感謝したい。なお、一部改
変したが、ご寛恕を乞う。さらに、配役や主要人物についての解説に関しては<ウィキペディア>を参照され
たし。正確で豊富な情報が得られるはずである。

   〔解説〕

  ヤクザ社会で繰り広げられる壮絶な抗争劇を描き話題を呼んだ、北野武監督によるバイオレンス作
 の続編にして完結編。前作で死んだはずの、ビートたけし演じる大友が再び登場。関東VS関西の巨大
 組織の覇権争いや、一網打尽を狙う警察に翻弄されていく姿が描かれる。西田敏行が関西の大物ヤク
 ザ組織の若頭役で北野監督作に初参加。

   〔あらすじ〕

  熾烈な下克上抗争から5年。先代亡きあと加藤稔(三浦友和)が会長となり、関東の頂点を極めた
 暴力団「山王会」は、ついに政治の世界にまで手を伸ばし始めた。だが巨大ヤクザ組織の壊滅を企て
 る警察組織は、山王会の過剰な勢力拡大に業を煮やし、関西の雄である「花菱会」に目を付ける。表
 向きは友好関係を保っている東西の巨大暴力団の対立を目論み、マル暴刑事の片岡(小日向文世)は
 裏で策略を仕掛けていく。そんな中、獄中で死んだと思われていた元山王会配下大友組の組長・大友
 (ビートたけし)が仮出所する。明らかに何かを企み、彼を出迎える片岡。大友はヤクザに戻る気は
 なかったが、かつて大友組の金庫番だった山王会若頭・石原秀人(加瀬亮)は大友を消そうとする。
 さらに、警察が仕掛ける巨大な陰謀と抗争の足音が着々と大友に近づいてくるのだった……。

 他に、神山繁(布施=花菱会会長)、西田敏行(西野=花菱会若頭)、中野英雄(木村)、桐谷健太(嶋=
木村の子分)、新井浩文(小野=同)、松重豊(繁田=刑事)、中尾彬(富田=山王会幹部)、名高達男
〔達朗、達郎〕(白山=同)、光石研(五味=同)、田中哲司(舟木=同)、菅田俊(岡本=同)、金田時
男(張大成=韓国フィクサー)、白竜(李=張の部下)、塩見三省(中田=花菱会幹部)、高橋克典(城=
花菱会組員)、國本鍾建(同)、井坂俊哉(同)、四方堂亘(山王会組員)、山中アラタ(同)、佐々木一
平(同)、山中崇(同)、中村英児(同)、西沢仁太(国土交通省役人)、貴山侑哉(山本刑事)、中原丈
雄(刑事)、深水三章(同)、中村育二(同)、北村総一朗〔写真〕(関内=前山王会会長)などが出演し
ている。相変わらずかなりエグイ殺し方が出てくるが、誰のアイディアなのか。神山繁が、『極道の妻たち
II』(監督:土橋亨〔監督の名前の「土」の字の右下に「、」が付いている〕、東映京都、1987年)でヤク
ザの親分役を演じたとき(「日日是労働セレクト45」を参照されたし)はミスキャストに近いと感じたが、
今回はよかった。西田敏行も何度かヤクザの役を演じているが、彼のヤクザは残念ながら怖くない。「いい
人」を演じ続けてきたからであろう。結局、昔気質のヤクザが筋を通すことになるが、この辺りは伝統的極
道映画の本筋をたどっている。したがって、殺伐とした絵柄の中に、厚い鉄板が入っている。ただし、作り
急いだ観は拭えず、とくに大友のどてっ腹にめり込んだ弾丸についてのフォローが足りないと思った。
 2本目は、『アフタースクール』(監督:内田けんじ、「アフタースクール」製作委員会〔クロックワー
クス=TBS=アミューズ=PARCO=ぴあ=IMAGICA=メディアファクトリー=博報堂DYメディアパートナーズ〕、
2008年)である。『運命じゃない人』や『鍵泥棒のメソッド』同様、内田監督の体臭すら嗅ぐことができる
ほどの作品である。もっとも、主演の3人の男優の体臭と混合した臭いであるが……。珍しく、本篇鑑賞直
後に、つづけてコメンタリー付(内田監督と大泉洋による)映像も観た。それだけ、内田監督の才能に感服
している証拠である。彼は、サンフランシスコ州立大学芸術学部映画科を卒業しているらしい(ウィキペデ
ィアのよる)が、優れたオリジナル脚本を書ける監督として、今後もすばらしい作品をものにしてほしいも
のである。
 さて、この作品も物語を確認しておこう。再び<Movie Walker>を参照する。執筆者に感謝したい。なお、
一部改変したがご海容いただきたい。

   〔解説〕

  デビュー作『運命じゃない人』で注目された内田けんじ監督の最新作。大泉洋ら個性派俳優の共演
 により、怪事件に直面した元同級生3人組の微妙な関係を、緻密な構成で描く。

   〔あらすじ〕

  母校で働く中学教師の神野良太郎(大泉洋)は、夏休み中も部活動のために出勤していた。そんな
 彼のもとに、同級生だったという探偵(佐々木蔵之介)が訪ねてくる。探偵は島崎と名乗るが(本当
 は北沢雅文)、神野はほとんど覚えていない。探偵は、やはり同級生の木村一樹(堺雅人)を捜して
 いた。神野と木村は中学時代からの親友で、今朝も産気づいた木村の妻(常盤貴子)を、仕事で忙し
 く昨夜から全くつかまらない木村の代わりに病院へ連れて行ったばかりであった。神野がそう探偵に
 告げると、今朝撮ったという1枚の写真を渡される。そこには若い女(田畑智子)と親しげにしてい
 る木村が写っていた。ショックを受けている神野に、探偵は木村捜しを手伝ってほしいと頼む。まず、
 神野は顔が知られている探偵の代わりに、木村の件を探偵に依頼してきた男(奥田達士)を尾行する。
 その男は、木村が勤める梶山商事の上層部の人間で唐沢といった。その背後には大黒武社長(北見敏
 之)の存在があることが明らかになる。また彼らは探偵もよく知るヤクザの片岡(伊武雅刀)と繋が
 っていた。一流企業で働き、人のいい木村を信じる神野であったが、探偵は鼻で笑う。さらに捜索を
 続けていると、片岡が自身の経営する高級クラブで働いていた女であるあゆみ(本名は佐野美紀。な
 お、役者名は伏せておく)の行方を捜しているという情報が入り、そのクラブは梶山商事の人間が頻
 繁に利用していたことがわかる。そしてそのクラブに勤めていたという女メグ(桃生亜希子)を訪ね
 たところ、あゆみが消えた日に木村が店に来ていたとの情報を得る。探偵は、ヤクザの女に手を出し
 た木村が、女房子どもを捨てて、女と一緒に逃げたのだと言う。しかしそれでも神野は、彼はそんな
 奴ではないと探偵の考えを一蹴する。探偵は神野に、本当に友達の全てを知っているのかと問うが、
 木村の隠された側面を知ってしまった神野は、何も言い返すことができず、自宅に戻ることに。しか
 し、事件はここから、想像だにつかぬ展開が待ち受けていた……。

 他に、山本圭(郷田捜査官)、ムロツヨシ(甲斐捜査官)、佐藤佐吉(川辺捜査官)、沼田爆(バクさん)、
尾上寛之(マナブ)、山本龍二(西村刑事)、斎藤歩(チンピラ)、音尾琢真(職員室の教師)、中山祐一
郎(ビデオ鑑賞店の店員)、森田ガンツ(手相男)、村岡希美(ウェイトレス姿の捜査官)、小林隆(検問
の警察官)、田村泰二郎(金子)、大石吾朗(江藤まさよし=保守党公認の代議士候補)、吉竹怜朗(木村
一樹=中学生時代)、五十嵐令子(佐野美紀=中学生時代)、安澤千草(看護師)などが出演している。北
沢が扱っている裏DVDのタイトルが笑えた。ここに書こうと思ったが、あまりに下品なのでやめた。なお、
バクさんの店のメニューも笑える。たとえば、「イナゴの甘辛煮丼」、「羊の脳印度カリー」、「豚のしっ
ぽの立田揚げ(一般的には「竜田揚げ」か)」、「まぐろの眼玉の煮物」など。「学校をつまらなくしてい
るのはお前自身だ」という、教師神野の決め台詞は買えるが、残念ながら神野のような中学教師は滅多にい
ないだろう。
 3本目は、『アマルフィー 女神の報酬』(監督:西谷弘、フジテレビ=東宝=電通=ポニーキャニオン=
日本映画衛星放送=アイ・エヌ・ピー=FNS27社、2009年)である。フジテレビ開局50周年記念作品という
ことで、かなり力のこもった作品である。ただし、筋書は平凡。誘拐事件とテロ事件を絡ませたところは斬
新だが、登場人物の造型は紋切り型で、万人向けに製作された弊害が出ている。主人公のスーパーマンぶり
も鼻につくし、肝心のアマルフィーも取って付けただけ。もう少し捻りがほしかったが、これ以上複雑にす
ると、かえってつまらなくなるのかもしれない。『ダイ・ハード』シリーズのブルース・ウィルスにはさす
がに及ばないが、主演の織田裕二もだいぶ頑張っていたので、中の上くらいの出来と評価しておこう。
 この作品も<Movie Walker>を引用させていただく。執筆者に感謝したい。なお、一部改変したが、お許し
いただきたい。

   〔解説〕

  異国イタリアで日本人少女誘拐事件に遭遇した、織田裕二扮する外交官の活躍を描くサスペンス。
 事件の発生を機に、さまざまな人々の思惑が美しき港町アマルフィで交錯する。

   〔あらすじ〕

  クリスマス直前のローマ。日本人外交官の黒田康作(織田裕二)が降り立つ。予告されたテロ事件
 から日本人の安全を守るために派遣されたのだ。その頃、現地日本大使館は、川越亘外務大臣(平田
 満)のG8外務大臣会合参加準備に追われていた。そんな中、一人の日本人少女失踪事件が発生。テ
 ロとの関連性も疑われる中、黒田は赴任間もない研修生の安達香苗(戸田恵梨香)とともに、この事
 件の通訳担当を命じられる。だが、少女の母親、矢上紗江子(天海祐希)宛てにかかってきた誘拐犯
 からの電話を、「夫」として受けてしまったことから、事件に巻き込まれていく。紗江子は、亡き夫
 との思い出の地イタリアを、娘に見せようと訪れた旅行者だった。誘拐犯に指定された通りに取引に
 応じる2人だったが、警察のミスによりその介入が知られてしまう。取引は中止となり、彼女は娘の
 身柄確保よりも犯人逮捕を優先させた警察と、それを止められなかった黒田に対する不信感を募らせ
 る。娘を思って憔悴する紗江子。そんな紗江子を支えるのは、彼女に思いを寄せる商社マンの藤井昌
 樹(佐藤浩市)。だが、犯人の動向はつかめず、捜査は一向に進展しない。悩み苦しむ紗江子の姿に、
 独断での調査を決意する黒田。知人のフリーライターである佐伯章悟(福山雅治)の協力を得て事件
 を探るが、イタリア警察から抗議を受けてしまう。外交官には捜査権限がなかったのだ。組織の体裁
 よりも日本人の安全確保が自分の仕事と考える黒田は、次第に大使館内で孤立していく。やがて、誘
 拐事件はイタリア大統領やG8首脳を巻き込み、イタリア全土を襲う大規模連鎖テロへと発展してい
 く。さまざまな思いが交錯する中、黒田は事件の鍵がイタリア南部の港町アマルフィにあることを突
 き止める。果たして、犯人の目的とは、黒田が突き止めた事件の全貌とは……?

 他に、大塚寧々(羽場良美=外交官)、伊藤淳史(谷本幹安=同)、佐野史郎(西野道生=参事官)、小
野寺昭(菊原清文=イタリア大使)、中井貴一〔声のみ〕(片岡博嗣=黒田の上司)などが出演している。
さらに、ROCCO PAPALEO(誘拐担当の刑事役)などイタリア人多数が出演していることは言うまでもない。
イタリアでは、警察を介さず誘拐犯人と直接交渉することも、彼らに身代金を支払うことも違法との由。マ
フィアの資金源を断つための措置だという。初耳であった。なお、スリが多いことは知っていたが、「赤ん
坊を抱いた女」が危ないということは知らなかった。この映画は、イタリア観光にわずかながらではあるが、
水を差してしまうのではないか。


 某月某日

 DVDで邦画を2本観たのでご報告。1本目は『鍵泥棒のメソッド』(監督:内田けんじ、「鍵泥棒のメソッ
ド」製作委員会〔クロックワークス=テレビ朝日=朝日放送=電通=パルコ=メディアファクトリー=Yahoo!
JAPAN=シネバザール=キングレコード=メーテレ=北海道テレビ〕、2012年)である(なお、「メーテレ」
の「ー」は波線。文字化けするので、音引で代替させた)。これは文句なしの傑作喜劇である。内田監督の
作品は、当該作品の他に『運命じゃない人』(監督:内田けんじ、PFFパートナーズ=ぴあ=TBS=TOKYO FM=
日活=IMAGICA、2004年)しか観ていないが、そちらの方も大変感心した記憶があるので(「日日是労働セレ
クト45」を参照されたし)、小生と波長が合っているのだと思う。ともあれ、笑いどころ満載で、とても
楽しい映画である。
 物語を確認しておこう。例によって<Movie Walker>のお世話になる。執筆者に感謝したい。なお、一部改
変したが、ご寛恕を乞う。

   〔解説〕

  頭を打って記憶を失った男と、彼になりすまそうとした売れない役者。記憶を失った男にひかれる
 女性編集者という3人の奇妙な運命を描く、『アフタースクール』の内田けんじ監督による喜劇。堺
 雅人、香川照之、広末涼子の3人が複雑に絡み合った事態に翻弄されていく人々をコミカルに演じる。

   〔あらすじ〕

  銭湯に入ってきた金持そうな男(香川照之)が転倒。その場に居合わせた貧乏役者の桜井武史(堺
 雅人)が様子を見ていると、男は頭を強打した影響で記憶を失っていた。桜井はちょっとした出来心
 を起こし、男のロッカーの鍵と自分の鍵をすり替える。案の定、自分を桜井だと思い込む男。しかし
 男の正体は誰も顔を見たことのない伝説の殺し屋・コンドウで、コンドウに成り代わった桜井のもと
 に大金が絡む危険な仕事の依頼が舞い込み、桜井はやむなく引き受けてしまう。一方、自分は桜井だ
 と思い込んでいるコンドウは一流の役者となることを目指して真面目に努力する。そんなひたむきな
 姿に胸を打たれた女性編集長の水嶋香苗(広末涼子)は彼に求婚。三者三様の事情が複雑に絡み合う……。

 他に、荒川良々(工藤純一)、森口瑤子(井上綾子)、小野武彦(水嶋徳治=香苗の父)、木野花(京子=
同じく母)、小山田サユリ(翔子=同じく姉)、大谷亮介(大家さん)、内田慈(理香)、三上市朗(大谷
編集長)、林和義(土屋=工藤の部下)、ウダタカキ(藤本=同)、松山愛里(藤本の女)、池田成志(映
画監督)、久野雅弘(助監督)、本宮泰風(主演俳優)、三村恭代(主演女優)、李千鶴(副編集長)、柊
瑠美(編集部員A)、中谷竜(同じくB)、ムロツヨシ(合コン候補者)、堺沢隆史(元劇団員A)、中村
無可有(同じくB)、黒田大輔(同じくC)、田中聡元(隣の住人のオタク)、荒川結奈(階下の住人の若
い女)、中川晴樹(合コンの男)、日比大介(医師)、原金太郎(岩城社長)、安野遥(出版社の受付嬢)、
兒玉宣勝(映写担当の男)、塚本直毅(救急隊員A)、溜口佑太朗(同じくB)、鈴木祥二郎(警官A)、
廻飛呂男(同じくB)、小林大介(レストランの店主)、中道公壱(悪役俳優)、安蒜太人(亜矢子の息子)
などが出演している。内田監督には『アフタースクール』(2008年)という作品もあるらしいので、機会が
あれば観てみたい。
 2本目は『甦える大地』(監督:中村登、石原プロモーション、1971年)である。これまでDVD化されて
いなかった石原裕次郎の映画5本のうちの1本。小生としては、『栄光への5000キロ』(監督:蔵原惟繕、
石原プロ、1969年)に次いで2本目の鑑賞である。いかにも70年代の映画で、それなりの出来だが、ぼんや
りとした印象しか残せない。同じ鹿島の開発を扱った映画としては、圧倒的に『さらば愛しき大地』(監督:
柳町光男、プロダクション群狼=アトリエダンカン、1982年)の方が優れていると思う。
 物語を確認しておこう。この作品も<Movie Walker>のお世話になる。執筆者に感謝したい。なお、一部改
変したが、ご海容いただきたい。

   〔解説〕

  見渡す限りの荒地を、一大工業地帯にしようと夢みる男たちが、生臭い欲望がうずまく中で、純粋
 に理想を実現する勇気を、茨城県鹿島灘の臨海工業地帯をバックに描く。原作は木本正次の「砂の架
 十字」。脚本は「ある兵士の賭け」の猪又憲吾。監督は「わが恋わが歌」の中村登。撮影は「エベレ
 スト大滑降」の金宇満司がそれぞれ担当。

   〔あらすじ〕

  寛保・弘化の利根川大洪水をはじめ、度重なる水害に鹿島の農漁民は致命的な打撃をうけていた。
 水戸の郷士中館広之助(渡哲也)はその難を救おうと、原住民を集め治水工事に励んだが、大利根の
 脅威は彼の雄図を打ち砕き、中館は自殺。人々は彼を狂人と呼んだ。それから数百年。荒凉たる大砂
 丘、吹きすさぶ砂の嵐、貧しく崩れ落ちそうな民家、不毛の鹿島は変ることがなかった。が、近年に
 至り、理想家の茨城県知事岩下三雄(岡田英次)を中心に、鹿島開発の気運が盛り上った。岩下とそ
 の下に働く開発職員で熱血漢植松一也(石原裕次郎)の必死の奔走も、中央には聞き入れられず、一
 時は無為に帰すとも思われたが、ふたりの熱意は建設省の辣腕家野田鋭介(三國連太郎)を次第に動
 かした。待望の国家予算が計上され、鹿島開発がスタートしたが農漁民の土地への執着は、開発工事
 を進めるには大きな壁となった。精力的に動きまわる植松の前にも、住民の抵抗がおき、植松の心を
 とらえた気の強い女教師添島美奈子(司葉子)もそうした住民のひとりだった。一方岩下知事は開発
 の第一段階としてS金属の誘致を図ったが、S金属の会長(滝沢修)は岩下に同調しながらも、鹿島
 進出は自社の社運をかけるものであるとし、試験堤を要求しこれを完成させた。が、台風は容赦なく
 試験堤を襲い、叩き壊した。しかし、S金属はこの一見無謀とも思える開発事業に調印し、やがて野
 田が茨城県開発部長として乗り込んで来た。実務者野田は、理想家肌の岩下、植松とぶつかりながら
 も、着々と開発事業を押し、鹿島町長権藤義一郎(志村喬)の抵抗もものともせず、困難な土地買収
 をやり遂げた。鹿島コンビナートは、次第にその巨大な姿を現わしていったが、植松が頭に描いてい
 た“緑の楽園”とはあまりにもかけ離れたものだった。農業団地に林立するバー、スナック、パチン
 コ屋、そこに群がる人々の間に乱れ飛ぶ札束。赤々と燃えるコンビナート。造りあげた人間の意志に
 は関係なく日増しに膨らんでいく、得体の知れない化物。炎が、傷ついた植松の五体を赤く染める。
 やさしく寄り添う美奈子。植松の怒りをよそに、彼らの手を離れて大きく歩み出すコンビナート。人
 工港が美しく、その彼方に青い鹿島灘が拡がっていた。

 他に、浜田光夫(坂口)、川地民夫(横山)、寺尾聡(土屋)、下川辰平(竜吉)、森幹太(土屋勇作)、
金井大(久保)、高津住男(田島)、椎名勝己(東)、玉川伊佐男(勝蔵)、小高雄二(折原)、高原駿雄
(滝井善吉)、内藤武敏(助教授)、信欣三(土屋源作)、北林谷栄(布川とよ)、奈良岡朋子(岩下住子)、
寺田路恵(和子)、戸田千代子(土屋清江)、城野ゆき(土屋幸子)などが出演している。なお、当時の高
校進学率の全国平均は53.9%であるの対して、鹿島は23.6%であった。この辺りにも、貧困の影が見え隠れ
している。


 某月某日

 DVDで邦画の『赤線(AKA-SEN)』(監督:奥秀太郎、M6 TRANCE PICTURE WORKS、2004年)を観た。小生も
永井荷風や吉行淳之介などの娼婦小説に馴染んだことがあるので、それなりに赤線のイメージは持っている
が、実地に経験したわけではないので、所詮知識としての「赤線」しか知らない。それでも、この映画に描
かれている「赤線」は、現実のそれとは大きく懸け離れているように思える。不遜な意見かもしれないが、
実感だから仕方がない。実は、『USB』(監督:奥秀太郎、M6 TRANCE PICTURE WORKS、2009年)の奥秀太郎
監督作品だからこそ当該映画を観てみようと思ったのである。『USB』はかなり衝撃を受けた作品であり、そ
の分期待したわけだ。ところが、残念ながらその才能のかけらも感じられなかった。「赤線」と言えば、や
や短絡的ながら『赤線地帯』(監督:溝口健二、大映京都、1956年)を真っ先に思い出すが、あの作品はよ
かった。とくに、小暮実千代の生活感がなんとも言えぬ雰囲気を醸し出していた。それと比べると、当該作
品のリアリティはほとんどゼロに等しく、何のために作った映画かさっぱり分からないできである。もっと
も、人は成長する。たとえば、箸にも棒にもかからない駄作の『亀虫』(監督:冨永昌敬、OPALUC、2003年)
を作った冨永監督も、その6年後には味わい深い『パンドラの匣』(監督:冨永昌敬、「パンドラの匣」製
作委員会〔東京テアトル=ジェネオン・ユニバーサル・エンターテイメント=シネグリーオ=パレード=GIP=
河北新報社〕、2009年)を撮るまでに成長したのだから。
 さて、物語を確認しておこう。例によって<Movie Walker>のお世話になる。執筆者に感謝したい。なお、
一部改変したが、ご寛恕を乞いたい。

   〔解説〕

  中村獅童、つぐみら個性派俳優競演による、鮮烈な恋愛物語。終戦直後、売春が許された特別区域
 “赤線”を舞台に、2人の男と娼婦の姿を、極彩色の映像美で描く。

   〔あらすじ〕

  終戦直後の日本。連合軍の申し入れにより公娼は廃止される。そこで、吉原や新宿二丁目の娼館は
 カフェという名目で営業を再開、警察も特定の地域での売春を公認した。地図の上に赤い線で印をつ
 けられたその街は「赤線」と呼ばれた。娼館やストリップ小屋が建ち並ぶ歓楽街に男たちは夜な夜な
 集まってくる。渦巻く欲望・闇雲なエネルギー、でもちょっと淋しげな赤い灯りはどこか懐かしくて、
 それでいて新鮮。やさぐれキッチュな町並みを舞台に、今宵もまた出会いと別れがループする。強姦
 の罪で投獄されていたイゾウ(中村獅童)は、暗い牢屋から欲望渦巻く夜の街・赤線へと飛び出す。
 そこで、家出少女のスイカ(片山佳)を娼館に売りはらって久々の自由を謳歌しようと企む。一方、
 作家であり昭和を代表する遊蕩児、カフウ(小松和重)は近ごろ調子が出ず、悩みを抱え色街をさま
 よっていた。イゾウとカフウは、赤線の娼館「キムラヤ」の看板娼婦、シズモ(つぐみ)に出会う。
 強引なイゾウと知的なカフウの間で気持が揺れ動いていくシズモだが……。

 他に、荒川良々(キムラヤ)、今奈良孝行(日雇い)、山田広野(活弁士)、野田秀樹(ゲンナリ)、森
本訓史(女衒)、岡村朋子(八海山ガール)、安元遊香(男役のなれの果て)、るう(ジプシーローズ)、
大政知己(大政)、藤崎ルキノ(よたかの女子高生)、植田裕一(ころんぼ)、岸建太朗(ビバリー)、田
丸暦(娼婦1)、佐藤貴史(絵描き)、瀧口トモ子(麒麟ガール)、大河原準介(いざり)、宮田芳郎(ど
ぜう屋)、中村研太郎(セックス)、工藤教行(ダパンプ)、真壁幸紀(パンスト)、黒田佳奈(掃除婦)、
金森利江(娼婦2)、小谷陽子(同じく3)などが出演している。
 なお、「赤線」については<ウィキペディア>の記事を以下に引用しておこう。

  赤線(あかせん)は、GHQによる公娼廃止指令(1946年)から、売春防止法の施行(1958年)までの
 間に、半ば公認で売春が行われていた日本の地域である。赤線区域、赤線地帯などとも。

   〔概要〕

  1946年1月、GHQは民主化改革の一環として、日本政府に公娼制度(貸座敷・娼妓)の廃止を要求し、
 これに基づき戦前からの取締法令が廃止された。女性の自由意志による売春自体は禁止できないとし
 ても、女性を前借金で拘束する人身売買を禁止しようとしたものである。
  東京では吉原、新宿二丁目などの貸座敷(遊廓)や、玉の井(東京都墨田区東向島)、鳩の街(東
 京都墨田区東向島)などの銘酒屋の看板を変え、飲食店などとして風俗営業許可を取ることになり、
 娼妓・私娼は女給になった(東京はカフェー、大阪では料亭など、地域によって異なる)。
  戦前から警察では、遊郭などの風俗営業が認められる地域を、地図に赤線で囲んで表示しており、
 これが赤線の語源であるという。終戦後のカストリ雑誌などでは「特飲街」(特殊飲食店街の略)と
 いう表現が用いられており、「赤線」という言葉が一般的になったのは、区域外への進出や人身売買
 事件などが大きな問題になった1950年代以降である。
  1950年に大田区武蔵新田のカフェー業者が池上に進出しようとして反対運動となり(池上特飲街事
 件)、参議院厚生・文部・地方行政委員会で鳩の街の業者が「赤線区域内は一軒や二軒建つても大目
 に見る場合が沢山ある、併し赤線から外へ出るということはいけない」と証言した。また1952年の衆
 議院行政監察特別委員会で人身売買事件が問題になり、3月4日には厚生事務次官が「赤線区域と申し
 まするものはないに越したことはないけれども、今日としてはやむを得ない」と証言し、黙認してい
 ることを認めた。
  東京の場合、カフェーらしくするため、1階にはダンスホールやカウンターなどが造られた。働く
 女性(女給)は2階の部屋に間借りをしていたが、ここが営業場所も兼ねていた。女性たちは店頭に
 並び、道行く客に声をかけて店に誘っており、風紀上も目に余る状態になっていたことは事実である。

   〔赤線廃止〕

  売春防止法(1956年制定)の完全施行を控え、1958年3月までに赤線内のカフェーなどは一斉に廃業
 した。店舗は、バーやスナック、ソープランドや料亭などの飲食店に転向するもの、旅館・ラブホテ
 ル・公衆浴場 ・アパート・下宿屋になるもの、密かに風俗営業を続けるものなどさまざまであった。

   〔文学・映画・ゲーム〕

  赤線を描いた小説には、吉行淳之介『驟雨』(1954年)や『原色の街』(1956年)、高城高『X橋付
 近』(1955年)、五木寛之『青春の門』(1969年)などがある。
  映画には、沢賢介監督『娘を売る街 赤線区域』(1953年)、溝口健二監督『赤線地帯』(1956年)、
 川島雄三監督『洲崎パラダイス赤信号』(1956年)、田中重雄監督『赤線の灯は消えず』(1958年)、
 神代辰巳監督『赤線玉の井 ぬけられます』(1974年)などがある。
  ゲームには、『赤線街路 -昭和33年の初雪-』(2007年)(C-sideの18禁恋愛アドベンチャーゲー
 ム。売春防止法施行直前の架空の赤線が舞台)がある。

   〔青線〕

  風俗営業法の許可を取らず、保健所から飲食店の許可を得ただけで同様の営業を行っていたものが
 あり、これは青線と呼ばれた。東京では新宿歌舞伎町があり、その一部は現在の新宿ゴールデン街で
 ある。

 以上である。なお、内田樹氏が「セックスワークについて」という記事をブログに掲載しているので、そ
れも以下に掲げてみよう。ほぼ原文通りである。


 ──……──……──……──……──……──……──……──……──……──……──……
  セックスワークについて     内田樹              2013年05月29日

  寺子屋ゼミで「セックスワーク」についてゼミ生から質問を受けた。
  「話すと長い話になるから」ということでその場はご容赦願ったのであるが、橋下発言をめぐって
 「セックスワーク」についての原理的な確認をしておきたいと思って、筐底から旧稿を引き出してき
 た。
  2003年に『岩波応用倫理学講義』(金井淑子編、岩波書店)に書いたものである。
  そこでは社会学者たちの「売春擁護論」に疑問を呈した。
  同じ疑問を私は今回の橋下発言をめぐる賛否のコメントについても感じている。

  セックスワーク ──「セックスというお仕事」と自己決定権

  はじめに

  最初に正直に申し上げるが、私自身は、セックスワークについて専門的に考究したこともないし、
 ぜひとも具申したいような個人的意見があるわけでもない。ときどき、それに関する文章を読むが、
 数頁(場合によっては数行)読んだだけで気持ちが沈んできて、本を閉じてしまう。
  困ったものではあるが、私を蝕むこの疲労感は、必ずしも個人的なものとは思われない。
  私の見るところ、この問題については、どなたの言っていることにも「一理」ある。
  ただし、「一理しかない」。
  異論と折り合い、より広範囲な同意の場を形成できそうな対話的な語法で自説を展開している方に
 はこの論争の場ではまずお目にかかることができない。
  みんなだいたい「喧嘩腰」である。
  経験が私に教えるのは、この種の論争では、みなさんそれぞれにもっともな言い分があり、そこに
 最終的解決や弁証法的止揚などを試みても益するところがないということである。
  私は以下でセックスワークについて管見の及んだ限りの理説のいくつかをご紹介し、その条理につ
 いて比較考量するが、そこから得られる結論は「常識」の域を一歩も出ないものになることをあらか
 じめお知らせしておきたい。

  1.「セックスワーク」という言葉は価値中立的な語ではなく、それ自体明確な主張を伴った術語
    である(と思う。違うかもしれない)。
     この言葉が日本のメディアで認知されたのは、おそらくは『セックスワーク』というタイト
    ルの売春従事者たちの証言を集めた本が93年に刊行されて以後のことだろう。この本には売春
    婦の権利のための国際委員会(ICPR International Committee for Prostitutes' Rights)憲
    章と世界娼婦会議(1986年)の声明草案が収録されている。セックスワーク論の基本的な考想
    を知るため、私たちはまず彼女たちの主張から聞いてゆきたいと思う。「憲章」は次の文言から
    始まる。

  「個人の決断の結果としての成人による売春を全面的に非処罰化せよ」( F・デラコステ他編、
 『セックスワーク』、山中登美子他訳、現代書館、1993年、386頁)。
 
  以下に続くその基幹的な主張は、
  (1)「大部分の女性は経済的な依存状態にあるか、絶望的な状態にある」。 それは女性には教育と
     雇用の機会が不足しており、下級職以外の職業選択を構造的に閉ざされていることによる。
  (2)「女性には十分な教育を受け、雇用の機会を得、売春を含むあらゆる職業で、正当な報酬と敬
     意が払われる権利がある」。
  (3)「性に関する自己決定権には、相手(複数の場合も)や行為、目的(妊娠、快楽、経済的利益
     など)、自分自身の性に関する条件を決定する女性の権利が含まれる」。

  以上の三つにまとめられるだろう。
  その他に「強制売春・強姦の禁止」「未成年者の保護」「性的マイノリティへの差別の廃止」なども
 うたわれているが、それらの主張に異論を申し立てる人はまずいないだろうから、議論がありうると
 すれば、この三項にかかわると予想して大過ないはずである。
  ここに掲げた三項は(1)が「女性差別」をめぐる一般的状況の記述、(2)が「売春する権利」
 にかかわる要求、(3)が「性に関する自己決定権」の範囲について規定したものである。それぞれの
 含む条理について、以下で計量的な吟味を試みてみたいと思う。
 
  2.世界娼婦会議の主張について、私たちがまず見ておかなければならないことは、それが伝統的
    なフェミニズムの父権制批判とかなり齟齬するということである。私たちになじみ深い伝統的
    な廃娼運動は次のような考え方をする。女性が性を商品化しなければならないのは、男性がす
    べての価値を独占し、商品価値のあるもの(権力、財貨、教育、情報など)を所有することを
    女性に構造的に禁じているからである。女性は父権制社会においては、本質的に「性以外に売
    るものを持たない」プロレタリアートの地位に貶められている。売春婦はその中にあって、も
    っとも疎外された「抑圧のシンボル」である。それゆえ、喫緊の政治的課題は、売春婦たちを
    その奴隷的境涯から救出し、売春制度そのものを廃絶することである。
     例えば、サラ・ウィンターはこの立場を代表して、次のように書いている。

  「男性は、女性の体を性的利用目的のために売買する必要性と、その権利すらあることを正当化す
 るために周到な試みをしてきた。これは売春を職業と婉曲に表現することで、ある程度は成功した。
 女性のおかれた不平等な立場や、売春婦にならざるをえないような前提条件などは都合よく無視して、
 低賃金、未熟練、単純労働に代わる、楽しめて実利的な仕事として、女性は売春をやりたがっている
 のだ、という神話を男性は喧伝し広めてきたのだ。(・・・)フェミニストとして私たちは、経済的従属状
 態や、強制された性的服従状態(私たちはこれを強姦と定義してきた)を批判し、廃するだけではな
 く、性的虐待および不平等な商取引である売春制度を批判し、廃していかなければならないと決意し
 ている」(同書、322-4頁)。

  だが、ウィンターの威勢の良いフェミニスト的廃娼論と世界娼婦会議の主張の間には、乗り越えが
 たい懸隔が存在する。
  ご覧の通り、世界娼婦会議に結集した売春婦たちは、彼女たちの「生業」であり「正業」である売
 春制度の廃絶ではなく、存続を要求しているからである。
  彼女たちが求めているのは、「女性抑圧のシンボル」として扱われることではなく、労働者として
 認知されることである。この点で売春婦たちはフェミニストと正面から対立してしまう。
  「フェミニストが売春を正当な労働と認め、かつ売春婦を働く女性として認めるのをためらい、あ
 るいは拒絶しているために、大多数の売春婦は自分をフェミニストとは考えていない」と「憲章」は
 記している(同書、390頁)。
  この対立について、フェミニストの主張と売春婦たちの主張を読み比べると、私は売春婦たちの訴
 えの方に説得力と切実さを感じてしまう。以下にその理由を述べる。

  ウィンターはこの短い引用の中で二つのことを述べている。
  一つは、父権制社会においてはすべての女性が男性への経済的な従属を強いられ、性を商品化する
 ことを強制されている、という父権制批判。
  いま一つは、売春制度は男性の女性支配の最悪の形態である、とする売春制度批判である。
  それぞれを一つずつ読めば、どこにも矛盾はないように思われる。
  だが、二つを読み合わせると不整合があることに私たちは気づく。
  というのは、売春婦を「より多く抑圧されている女」として「犠牲者化」することは、売春婦と一
 般女性のあいだにとりあえず「抑圧の程度差による序列化」を導入することに合意することだからあ
 るが、この序列化には理論的な根拠がないのである。
  売春婦を「穢れた女」、一般女性を「清らかな女」に区分する差別化はもちろんフェミニストの採
 るところではない。となると、売春婦が「より多く」抑圧されており、一般女性たちが「より少なく
 抑圧されている」という「差別」を可能にする理由は一つしかない。
  それは、非売春婦たちの方が、売春婦たちよりも、「ロマンティック・ラブ」や「偕老同穴」や「貞
 操観念」などの近代家族幻想の延命に貢献しているという事実である。
  例えば、主婦たちは、男性に性的に奉仕し、その自己複製欲望に応えて子を産み、家事労働によっ
 てその権力独占活動を支援し、父権制の延命に深くコミットしているがゆえに、この社会においては
 売春婦よりは「より少なく抑圧されている」ことになる。
  だが、フェミニストの立場からするならば、「娼婦と比べて『高待遇』の終身雇用制となっている
 と思われる」妻たちは、父権制の無自覚な共犯者に他ならない。この妻たちを、をその「経済的従属
 状態」と「強制された性的服従状態」(ウィンターによれば、これは「強姦」である)から「解放」す
 る戦いもまた喫緊の政治的課題だということにはならないのだろうか。
  父権制批判の立場からするならば、「主婦の解放」を「売春婦の解放」より「先送り」にする理由
 はない。現に、「主婦こそは恥ずべき性的奴隷である」という指摘はすでに大正の与謝野晶子の時代
 からなさされてきた。菅野聡美は与謝野の立場をこう祖述している。

  「与謝野晶子は『良妻賢母の実質』は『結婚の基礎であるべき恋愛を全く排斥して顧みない物質的
 結婚に由つて妻と呼ばれ、唯だ良人たる男子に隷属してその性欲に奉仕する妾婦となり、併せてその
 衣食住の日用を弁ずる台所婦人を兼ねることが謂はゆる我が国の良妻』だと言う。そして『男子に依
 頼して専ら家庭に徒食する婦人を奴隷の一種とし、たとへ育児と台所の雑用とに勤勉な婦人であつて
 も、猶なにがしかの職業的能力の欠けた婦人は時代遅れの婦人として愧ぢる習慣を作りたい』と述べ
 ている」(菅野聡美、「快楽と生殖のはざまで揺れるセックスワーク-大正期日本を手がかりに」、
 田崎英明編著、『売る身体/買う身体-セックスワーク論の射程』、青弓社、1997年、120頁)。

  まことに明快な理路である。そして、この論を是とし、「男子の財力をあてに」する生き方をする女
 性はすべて「男子の奴隷」であり、そのような生き方は否定されるべきものであるとするならば、そ
 こから導出される結論は、父権制社会のすべての性制度の同時的廃絶であって、売春制度の選択的廃
 絶ではない。
  ウィンターと与謝野晶子に共通する「女性=性的奴隷」論は「総論」としては文句なく正しい。し
 かし、その理論に基づいて、「各論」的課題として、廃娼運動を進めようとすると、なぜ売春婦が主
 婦に先んじて「解放」されなければならないのかを言わねばならない。そして、そのときにもし、売
 春婦が主婦よりも「貧しく」「教養に欠け」「穢れた仕事に従事している」という事実をその優先性
 の根拠とするならば、それは「金」と「教養」と「処女性」に高い値札をつける父権制の価値観の少
 なくとも一部には同意したということを意味している。
  父権制批判から廃娼運動を導出しうることは、常識的にはほとんど自明のことであるけれど、なお
 論理的架橋が困難である理由はそこにある。
  私たちは父権制批判を徹底させようと思えば、廃娼運動を唱導することは断念しなければならない
 し、廃娼運動を優先しようと望むなら父権制批判をトーンダウンさせなければならない。
  このゼロサム構造ゆえに、ラディカルな父権制批判の立場を採る論者は、ほとんど構造的に売春容
 認の立場を選ばざるを得ないし、売春婦を「苦界」から救出しようとするものはドミナントな性イデ
 オロギーにある程度まで譲歩せざるを得ない。
  個人的好悪とかかわりなく、論理の経済がそれを要求するのである。

  3.論理の経済に繋縛されている「不自由な知識人たち」に比べると、「現場」の諸君はもう少し
    でたらめであり、自由であるように私には見える。売春婦たちにとってみれば、極端な話、理
    論的整合性なんかどうでもよいからである。彼女たちは別に知的威信を賭けて語っているわけ
    ではないし、論理的に破綻があろうとなかろうと、言いたいことは一つしかない。
     それは「人権を守れ」ということに尽くされる。
     彼女たちは、売春婦が「すべての女性と同じように」父権制社会において不公平な扱いを受
    けていることについては同意するが、「他の女性より多く」差別されているという考え方には同
    意しない。だから、売春制度の即時廃絶にも同意しない。
     彼女たちが求めているのは、「看護婦やタイピストやライターや医者などと同じように」
    (あるいは「妻たち」と同じように)、性的技能者として、安全と自由を保証された社会的環
    境の中で売春を業とする「労働する権利」である。
     話の筋目を通すことより、もっと緊急なことがある。それは現実に行われている人権侵害を
    止めることだ。このセックスワーク論の基幹的主張には十分な説得力があると私も思う。現に
    売春婦の過半は貧困な家庭や劣悪な社会環境に育ち、十分な社会的訓練や教育を受けておらず、
    現在も客による暴力、管理者による収奪、警官による暴行の被害にさらされている。
     例えば、売春婦は裁判に訴えても、客に不払い代金を払わせることはできない。
     「彼女は犯罪行為は行っていないが、売春は法が禁じているのだから、代金請求の根拠とな
    る売春契約は違法で、公序良俗に反する契約として無効と判断される」からである(角田由紀子、
    「解説」、デラコステ、前掲書、421頁)。
     売春婦が相手の男性のサディスティックな行為に恐怖を抱き、相手のナイフを取り上げて刺
    殺した87年の池袋買春男性殺人事件でも、司法は売春婦に正当防衛を認めなかった。

  「地裁判決は、『見知らぬ男性の待つホテルの一室に単身赴く以上、・・・相当な危険が伴うこと
 は十分予測し得るところである・・・いわば自ら招いた危難と言えなくもない』とし、高裁判決は
 『売春婦と一般婦女子との間では性的自由の度合いが異なる』と断定する。ホテトル嬢のような仕事
 であれば、どんな客がいるか分からない。それを仕事としている以上、性的自由の侵害への抵抗は正
 当防衛として認められにくいというのである」(若尾典子、『闇の中の女の身体』、学陽書房、1997
 年、213頁)。

  しかし、例えばタクシードライバーは、「見知らぬ人間」と「個室」に閉じこもり、人気のない場
 所へでも「単身赴く」以上、「相当な危険が伴うことは十分予測し得る」職業であるが、運転手が強
 盗に遭った場合に「自ら招いた危難と言えなくもない」というようなことを口にする裁判官は存在し
 ないであろう。これらの事例には、売春婦に他の職業人と同じ人権を認めたくない、とするイデオロ
 ギー的なバイアスが透けて見える。一般市民においては確保されている諸権利が売春婦には認められ
 ない。この無権利状態、無保護状態においてなお売春を生業とせざるを得ない女性たちに向かって、
 それに代わる生業の可能性を提示することなく、「犯罪だから止めろ」「抑圧されている仕事だから
 止めろ」「穢れた仕事だから止めろ」と言うことはむずかしいだろう。
  しかし、ここで知識人たちの多くは、「売春婦たちの人権を尊重すべきで」あるという主張にうな
 ずくだけでは済まされず、売春を正規の労働として認知し、「売春は正しい」と主張するところにま
 で踏み込もうとする。私はここに「無理」があると思う。
  知識人のピットフォールは「自分が同意することは『正しいこと』でなければならない」という思
 い込みにある。「理論的に正しくないことでも、実践的には容認する」という市井の人の生活感覚と
 の乖離はここに生じる。
  例えば、岩波書店の「女性学事典」の「セックスワーカー」の次のような説明は、知識人の困惑を
 よく表している。

  「一般的にセックスワーカーという概念は自己決定に基づく売春の擁護に用いられることが多い。
 すなわち、売春を自由意志に基づくもの(自由売春)とそうではないもの(強制売春)とに分けて、
 前者の売春を行っている人たちをセックスワーカーと呼び、これらの人びとの売春する権利を認める
 べきだとするような議論である。しかし、売春者の権利主張の力点は、このような自己決定や自由意
 志に基づく売春の肯定という点にではなく、売春者の自己決定権の尊重という点にあると考えられる。
 買春は男の本能である、性犯罪を防止するためにはセックス産業は必要であるなどと見なされ、社会
 自体が売春する女性たちを必要としている。すなわち、売春は社会的に必要とされ、源に労働として
 行われているのである。にもかかわらず、道徳的にも法的にも許されない行為と見なされ続け、売春
 を行う女性たちは差別され、さまざまな権利を奪われている。そのような差別に対する抵抗が、この
 ことばには込められている」 (浅野千恵、「セックスワーカー」、井上輝子他編、『岩波女性学事
 典』、岩波書店、2003年、304頁)。
 
  意味の分かりやすい文章とはとても言えない。
  それは「売春者の権利主張の力点は、このような自己決定や自由意志に基づく売春の肯定という点
 にではなく、売春者の自己決定権の尊重という点にあると考えられる」というセンテンスの意味が取
 りにくいからである。
  この文が言おうとしているのは、「売春を原理的に肯定すること」ということと「現に売春をして
 いる人間の人権を擁護すること」は水準の違う問題だから別々に扱えばよいということである(そう
 書けばいいのに)。
  「原理の問題」と「現実の問題」は別々に扱う方がいい。
  たしかに仕事はそれだけふえて面倒になるが、それは「現実と折り合うためのコスト」として引き
 受けるほかない。
  例えば、「囚人の人権を守る」ということは「犯罪を肯定する」こととは水準の違う問題である。
 囚人が快適な衣食住の生活環境を保証されることを要求する人は、別にその犯罪行為が免罪されるべ
 きだと主張しているわけではない。人権は人権、犯罪は犯罪である。
  それと同じように、「売春は犯罪だが、売春婦の人権は適切に擁護されねばならない」という立論
 はありうると私は思っている。
  しかし、多くの知識人はこういうねじれた話を好まない。まことに不思議なことだが、政治家や学
 者のような、社会的影響力を持つ人ほど「話を簡単にしたがる」のである。彼らは「売春は犯罪だか
 ら、売春婦に一般市民と同等の人権は認められない」という硬直した法治主義の立場に立つか、「売
 春婦の人権は擁護されねばならない。だから、売春は合法化されるべきである」という硬直した人権
 主義の立場に立つか、どちらかを選びたがる。
  しかし、現実が複雑なときに、むりにこれを単純化してみせることに、いったい何の意味があるだ
 ろう。

  4.上野千鶴子は小倉千加子との対談で、売春は女性にとって貴重な自己決定機会であるという議
    論を展開している。

    「小倉:そしたら上野さんは、援助交際する女の子の気持ちも分かりませんか? 上野:わか
    らないことはない。ただではやらせないという点で立派な自己決定だと思います。しかも個人
    的に交渉能力を持っていて、第三者の管理がないわけだから。(・・・) 援交を実際にやっていた
    女の子の話を聞いたことがあるんですが、みごとな発言をしていました。男から金をとるのは
    なぜか。『金を払ってない間は、私はあなたのものではないよ』ということをはっきりさせる
    ためだ、と。(・・・)『私はあなたの所有物でない』ことを思い知らせるために金を取るんだ、と
    彼女は言うんです」(上野千鶴子、小倉千加子、『ザ・フェミニズム』、筑摩書房、2002年、
    231頁)。

  上野は知識人であるから「政治的に正しいこと」を言うことを義務だと感じている。だから、ここ
 で上野は売春を単に「容認する」にとどまらず、それが端的な「父権制批判」の「みごとな」実践で
 あることをほめ称えることになる。
  自分が容認するものである以上、それは「政治的に正しい」ものでなければならない。それは上野
 の意思というより、上野が採用した「論理の経済」の要請するところである。
  たしかに売春こそ父権制批判の冒険的実践の一部であるとみなすならば、フェミニスト廃娼論をと
 らえたピットフォールは回避できる。しかし、「政治的な正しさ」を求めるあまり上野は売春をあま
 りに「単純な」フレームの中に閉じ込めてしまってはいないか。
  ここのわずか数行で上野が売春について用いているキーワードをそのまま書き出すとその「単純さ」
 の理由が分かる。
  「自己決定」「交渉能力」「第三者」「管理」「金」「金」「所有物」「金」。
  これが上野の用いたキーワードである。
  ご覧の通り、ここで上野はビジネスターム「だけ」を使って売春を論じている。
  上野にとって、売春はとりあえず「金」の問題なのである。「金」と「商品」の交換に際して、
 「売り手」が「買い手」や「問屋」に収奪されなければ、それは父権制的収奪構造への「みごとな」
 批判的実践となるだろう。
  たしかに話はすっきりしてはいる。だが、すっきり「しすぎて」はいないだろうか。
  ここでは売春について私たちが考慮しなければならない面倒な問題が看過されている。
  それは「身体」の問題である。
  売春する人間の「身体」はここでは単なる「商品」とみなされている。だが、身体を換金商品とみ
 なし、そこから最大のベネフィットを引き出すのが賢明な生き方であるとするのは、私たちの時代に
 おける「ドミナントなイデオロギー」であり、上野が批判している当の父権制を基礎づけているもの
 であることを忘れてもらっては困る。
  私たちの時代においてさしあたり支配的な身体観は「身体は脳の欲望を実現するための道具である」
 というものである。
  耳たぶや唇や舌にピアス穴を開けるのも、肌に針でタトゥーを入れるのも、見ず知らずの人間の性
 器を体内に迎え入れるのも、身体的には不快な経験のはずである。そのような行為が「快感」として
 あるいは「政治的に正しい」実践として感知されるのは、脳がそう感じるように命じているからであ
 る。身体が先鋭な美意識やラディカルな政治的立場の表象として、あるいは「金」と交換できる商品
 として利用できると脳が思っているからである。
  「金」をほしがるのは脳である。当たり前のことだが、身体は「金」を求めない。
  身体が求めるのはもっとフィジカルなものである。やさしい手で触れられること、響きのよい言葉
 で語りかけられること、静かに休息すること、美味しいものを食べること、肌触りのよい服を着るこ
 と・・・身体は「金」とも「政治的正しさ」とも関係のない水準でそういう望みをひかえめに告げる。
 だが、脳はたいていの場合それを無視して、「金」や「政治」や「権力」や「情報」や「威信」を優
 先的に配慮する。
  私は脳による身体のこのような中枢的な支配を「身体の政治的使用」と呼んでいる。
  上野が援交少女において「自己決定」と名づけて賞賛しているのは、この少女の脳がその身体を、
 彼女の政治的意見を記号的に表象し、経済的欲望を実現する手段として、独占的排他的に使用してい
 る事況である。
  少女はたしかにおのれの性的身体の独占使用権を「男たち」から奪還しただろう。しかし、それは
 身体に配慮し、そこから発信される微弱な身体信号に耳を傾け、自分の身体がほんとうに欲している
 ことは何かを聴き取るためではなく、身体を「中間搾取ぬきで」100%利己的に搾取するためであ
 る。収奪者が代わっただけで、身体が脳に道具的に利用されているというあり方には何の変化も起こ
 っていない。
  セックスワーク論は売春の現場においては、売春婦の生身の身体を具体的でフィジカルな暴力から
 どうやって保護するかという緊急の課題に応えるべく語りだされたもののはずなのだが、それを「売
 春は正しい」という理説に接合しようとすると、とたんに「生身の身体」は「道具」の水準に貶めら
 れる。「金を払っていないあいだはあなたのものではないよ」と宣言することは、「金をはらってい
 るあいだはあなたのものだ」ということに他ならない。だが、それは世界娼婦会議の売春婦たちが望
 んでいる、「金をはらっているあいだも、はらっていないあいだも」、売春が違法であろうと合法で
 あろうと、人間の身体に対しては無条件にそれに固有の尊厳を認められるべきだという考え方とはず
 いぶん狙っているところが違うような気がする。

  5.身体を道具視した視座からのセックスワーク論は、上野に限らず、身体を政治的な権力の相克
    の場とみなすフーコー・クローンの知識人に共通のものだ。次の事例はその適例である。売春
    容認の立場を鮮明にしている宮台真司のインタビューに対して、東大生にして売春婦でもある
    女性は売春の「効用」を次のように熱く語っている。

    「いろいろ経験したけど、自分の選択が正しかったと今でも思います。ボロボロになっちゃっ
    たから始めたことだったけれど、いろんな男の人が見れたし、今まで信じてきたタテマエの世
    界とは違う、本音の現実も分かったし。あと、半年も医者とかカウンセラーとかに通って直ら
    なかったのに、売春で直ったんですよ。(・・・)少なくとも私にとって、精神科は魂に悪かったけ
    れど、売春は魂に良かった。(・・・)私は絶対後悔しない。誇りを売っているわけでもないし、自
    分を貶めているのでもない。むしろ私は誇りを回復したし、ときには優越感さえ持てるように
    なったんですから」(宮台真司編『〈性の自己決定〉原論』、紀伊国屋書店、1998年、279頁)。

  彼女の言う「誇り」や「優越感」はやや特殊な含意を持っている。というのは、この大学生売春婦
 が「優越感を感じた」のは次のようなプロセスを経てのことだからだ。

  「オヤジがすごくほめてくれて。体のパーツとかですけど。それでなんか、いい感じになって。今
 までずっと『自分はダメじゃん』とか思っていたのが、いろいろほめられて。(・・・) 最近になればな
 るほど優越感を味わえるようになって、それが得たくて。オヤジが『キミのこと好きになっちゃった
 んだよ』とか、『キミは会ったことのない素晴らしい女性だ』とか・・・。まあ・・・いい気分にな
 っちゃいました。(・・・) オヤジは内面とか関係なく、私の体しか見てないわけじゃないですか。『気
 持ち悪いんだよ、このハゲ』とか思っているのも知らずに、『キミは最高だよ』とか言ってる(笑)」
 ( 同書、276-7頁)。

  上野が挙げた援交少女とこの学生売春婦に共通するのは、いずれも自分を「買う男」を見下すこと
 によって、「相対的な」誇りや優越感を得ているということである。彼女たちは彼女たちの身体を買
 うために金を払う男たちが、彼女たち自身よりも卑しく低劣な人間であるという事実から人格的な
 「浮力」を得ている。
  しかし、これは人格の基礎づけとしてはあまりに脆弱だし退廃的なものだ。
  私たちが知っている古典的な例はニーチェの「超人」である。
  ご存知のとおり、ニーチェの「超人」は実定的な概念ではない。それは自分のそばにいる人間が
 「猿にしか見えない」精神状態のことを指している。だから「超人」は「笑うべき猿」、「奴隷」で
 あるところの「賤民」を手もとに置いて、絶えずそれを嘲罵することを日課としたのである。何かを
 激しく嫌うあまり、そこから離れたいと切望する情動をニーチェは「距離のパトス」と呼んだ。その
 嫌悪感だけが人間に「自己超克の熱情」を供与する。だから、「超人」へ向かう志向を賦活するため
 には、醜悪な「サル」がつねに傍らに居合わせて、嫌悪感をかき立ててくれることが不可欠となる。
  上野の紹介する「みごとな」援交少女と宮台の紹介する「誇り高い」売春婦に共通するのは、買春
 する男たちが女性の身体を換金可能な「所有物」や観賞用「パーツ」としてのみ眺める「サル」であ
 ることから彼女たちが利益を得ているということである。
  ニーチェの「超人」と同じく、彼女たちもまた男たちが永遠に愚劣な存在のままであり続けること
 を切望している。それは言い換えれば、父権制社会とその支配的な性イデオロギーの永続を切望する
 ということである。
  この学生売春婦は性を「権力関係」のタームで語り、上野の「援交少女」は「商取引」のタームで
 性を語る。「権力関係」も「商取引」も短期的には「ゼロサムゲーム」であり、ゲームの相手が自分
 より弱く愚かな人間であることはゲームの主体にとって好ましいことである。だから、彼女たちが相
 対的「弱者」をゲームのパートナーとして選び続けるのは合理的なことである。しかし、彼女たちは、
 長期的に帳面をつけると、「自分とかかわる人間がつねに自分より愚鈍で低劣であること」によって
 失われるものは、得られるものより多いということに気づいていない。
  宮台によれば、「昨今の日本では、買う男の世代が若くなればなるほど、金を出さない限りセック
 スの相手を見つけられない性的弱者の割合が増える傾向にある」(同書、265頁)。
  女性が「ただではやらせない」ようになり、そのせいで男性が「金を出さない限りセックスの相手
 をみつけられない」という状況になれば、たしかに性的身体という「闘技場」における男の権力は相
 対的に「弱く」なり、性交場面において女性におのれのわびしい性幻想を投射する「オヤジ」の姿は
 いっそう醜悪なものとなるだろう。当然それによって「今まで信じてきたタテマエの世界」の欺瞞性
 が暴露される機会が増大することにもなるだろう。
  だから、性的身体を「権力」の相克の場とみなす知識人たちが、売春機会(に限らず、あらゆる形
 態での性交機会)の増大に対して好意的であることは論理のしからしむるところなのである。
  しかし、私は依然として、この戦略的見通しにあまり共感することができない。
  「自分より卑しい人間」を軽蔑し憎むことで得られる相対的な「浮力」は期待されるほどには当て
 にできないものだからだ。
  仮にもし今週一回の売春によってこの学生売春婦の優越感が担保されているとしても、加齢ととも
 に「体のパーツ」の審美的価値が減価し、「オヤジ」の賛辞を得る機会が少なくなると、遠からず彼
 女は「餌場」を移動しなければならなくなる。他人を軽蔑することで優越感を得ようと望むものは、
 つねに「自分より卑しい人間が安定的かつ大量に供給されるような場所」への移動を繰り返す他ない。
 「東電OL殺人事件」の被害者女性がなぜ最後は円山町の路上で一回2,000円に値段を切り下げてまで
 一日四人の売春ノルマに精勤したのか、その理由はおそらく本人にもうまく説明できなかっただろう。
 私たちが知っているのはこの女性が「学歴」と「金」に深い固着を有していたということ、つまりそ
 の性的身体のすみずみまでがドミナントなイデオロギーで満たされた「身体を持たない」人間だった
 らしいということだけである。
  これらの事例から私たちが言えることは、売春を自己決定の、あるいは自己実現の、あるいは自己
 救済のための機会であるとみなす人々は、そこで売り買いされている当の身体には発言権を認めてい
 ないということである。
  身体には(その身体の「所有者」でさえ侵すことの許されない)固有の尊厳が備わっており、それ
 は換金されたり、記号化されたり、道具化されたりすることによって繰り返し侵され、汚されるとい
 う考え方は、売る彼女たちにも買う男たちにも、そして彼女たちの功利的身体観を支持する知識人た
 ちにもひとしく欠落している。
  性的身体はこの人々にとってほとんど無感覚的な、神経の通わない「パーツ」として観念されてお
 り、すべすべしたプラスチックのような性的身体という「テーブル」の上で、「権力闘争」のカード
 だけが忙しく飛び交っている。
  だが、この絵柄は私たちの社会の権力関係と商取引のつつましいミニチュア以外の何ものでもない
 ように私には思われる。
  権力闘争の場で「権力とは何か?」が問われないように、経済活動の場で「貨幣とは何か?」が問
 われないように、性的身体が売り買いされる場では「身体とは何か?」という問いだけが誰によって
 も口にされないのである。

  6.セックスワーカーたちが「安全に労働する権利」を求めることに私は同意する。ただし、それ
    は左翼的セックスワーク論者が言うように、売春者が社会矛盾の集約点であり、売春婦の解放
    こそが全社会の解放の決定的条件であると考えるからではない。またフェミニストの売春容認
    論者が言うように、それが「みごとな自己決定」であると思うからでもない。社会学者が言う
    ように、性的身体を闘技場とした「権力のゼロサムゲーム」での勝利が売春婦たちに魂の救済
    をもたらすと信じるからでもない。そうではなくて、現実に暴力と収奪に脅かされている身体
    は何をおいても保護されなければならないと思うからである。
     それと同時に、売春は「嫌なものだ」という考えを私は抱いている。ただし、それは保守派
    の売春規制派の人々が考えているように売春が「反社会的・反秩序的」であるからではない。
    そうではなくて、それが徹底的に「社会的・秩序的」なもの、現実の社会関係の「矮小な陰画」
    に他ならないと思うからである。身体は「脳の道具」として徹底的に政治的に利用されるべき
    であるとするのは、私たちの社会に伏流するイデオロギーであり、私はそのイデオロギーが
    「嫌い」である。身体には固有の尊厳があると私は考えている。そして、身体の発信する微弱
    なメッセージを聴き取ることは私たちの生存戦略上死活的に重要であるとも信じている。売春
    は身体が発する信号の受信を停止し、おのれ自身の身体との対話の回路を遮断し、「脳」の分
    泌する幻想を全身に瀰漫させることで成り立っている仕事である。そのような仕事を長く続け
    ることは「生き延びる」ために有利な選択ではない。
     「売春婦は保護すべきだ」という主張と、「売春はよくない」という考えをどうやって整合
    させるのかといきり立つ人がいるかも知れない。だが、繰り返し言うように、現実が整合的で
    ない以上、それについて語る理説が整合的である必要はない。
     「すでに」売春を業としている人々に対してはその人権の保護を、「これから」売春を業と
    しようとしている人に対しては「やめときなさい」と忠告すること、それがこれまで市井の賢
    者たちがこの問題に対して取ってきた「どっちつかず」の態度であり、私は改めてこの「常識」
    に与するのである。
 ──……──……──……──……──……──……──……──……──……──……──……

 長々と引用したが、ことが人間の倫理にとって非常に重要なことだと判断して、全文を転載した。性的な
言葉が散見されるが、議論のためのものであるので、どうぞご海容されたし。今年は、「犯罪映画」を重点
的に鑑賞しようと思っているが、「売春」という犯罪も一筋縄ではいかないことは、こころある人ならば深
く頷くことであろう。小生自身は内田氏と論調を同じくするわけではないが、彼の議論の優れた点について
は称賛を惜しむつもりはない。だいいち、そのバランス感覚が素晴らしい。なお、いわゆる「被害者なき犯
罪(Victimless crime or Crime without victim)」(売春、賭博、違法薬物、堕胎、ポルノ、談合、自殺、
脱税、不法移民、武器の所持など)に関しては、「日日是労働セレクト89」を参照されたし。


 某月某日

 久し振りに、内田樹氏のブログから引用させていただく。例によって、内田氏の了解を得ていないが、た
ぶん許して下さるだろう。なお、ほぼ原文のままである。


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  私の憲法論        内田樹               2013年7月12日

  2週間ほど前に、ある媒体に『私の憲法論』を寄稿した。いつもの話ではあるけれど、採録してお
 く。このときは「参院選の争点は改憲だ」というようなことをメディア関係者は言っていたけれど、
 私は「アメリカが反対している限り、安倍内閣は改憲の争点化を回避する」と考えていた。現にそう
 なっていると思う。とりあえず、どうぞ。
 
  日本は戦後六八年間、国家として他国民を誰一人殺さず、また殺されもしなかった。これは、先進
 国のなかでは極めて例外的である。非戦を貫けたのには戦争の放棄を定めた憲法の理念的な支えがあ
 ったからである。戦後日本が「近親者を日本兵に殺された」経験を持つ国民を海外に一人も生み出さ
 ずに済んでいるという事実は憲法がもたらした動かしがたい現実である。 
  しかし、自民党は改憲で戦争をできる権利を確保して、集団的自衛権の行使によってアメリカの軍
 略に奉仕する方向をめざしている。
  「現行憲法では国を守れない」というのが改憲の理由の一つであるが、その主張には説得力のある
 論拠が示されていない。ほんとうに現行憲法のせいで殺された国民、奪われた国土があるというのな
 ら、改憲派にはそれを挙証する義務がある。でも、彼らは「この憲法では国を守れない」と言い募る
 だけで、「この憲法のせいで国を守れなかった」事実を一つとして挙げていない。
  にもかかわらず集団的自衛権の行使に改憲派がこだわるのは、米国の軍略に協力するならば、その
 返礼として同盟国として信認され、それが日本の国益を最大化することになるという方程式を彼らが
 信じているからである。親米的でなければ長期政権を保てないという教訓を安倍晋三首相は戦後保守
 党政治史から学んだのである。
  しかし、米国は改憲によって日本がこれまで以上に米軍の活動に協力的になることは歓迎するが、
 日本が軍事的フリーハンドを持つことには警戒的である。今の日本のような国際感覚に乏しい国が軍
 事的フリーハンドを手に入れた場合、近隣諸国と無用の軍事的緊張を起こす可能性がある。そうなる
 と、日本そのものがアメリカにとって西太平洋における「リスク・ファクター」と化す。
  「改憲後日本」の軍事的協力のもたらすメリットと「改憲後日本」の「リスク化」がもたらすデメ
 リットを考量した場合に、ホワイトハウスが改憲に対してリラクタントな表情を示す可能性は高い。
 皮肉なことだが、今の国際関係の文脈では、アメリカが護憲勢力となる可能性があるということであ
 る。現に、安倍首相が二月の訪米でオバマ政権から異例の冷遇を受けたのも、米国の主要メディアか
 ら「歴史認識問題で韓国や中国ともめ事を起こすな」と釘を刺されたのも日本に対する「調子に乗る
 な」というメッセージと理解すべきだと私は思う。
  ホワイトハウスはすでに自民党の改憲草案の英訳を読んでおり、その内容のひどさにかなり腹を立
 てているはずである。
  現行憲法はアメリカの信じる民主的な政治のある種の理想をかたちにしたものである。近代市民革
 命以来の立憲政治の英知を注ぎ込んで制定して、「日本に与えた」つもりの憲法を自民党の改憲草案
 のような前近代的な内容に後退させることは、民主国家アメリカにしてみると、国是を否定されたこ
 とに等しい。だから、改憲によって日本が軍事的フリーハンドを手に入れることには好意的なアメリ
 カ人であっても、草案の内容そのものを支持しているわけではない。改憲草案の退嬰性を歓迎すると
 いう心理的文脈は米国内には存在しないであろう。
  改憲草案は現行憲法が定めた国のかたちを全面的に変えることをめざしている。本来なら革命を起
 こして政権を奪取した後にはじめて制定できるような過激な変更である。条文の区々たる改訂ではな
 く、国のかたちそのものの変更であるからこれはたしかに「革命」と呼ぶべきであろう。だから、私
 は今の自民党を「保守」政党とはみなさない。きわめて過激な政治的主張を掲げた「革新」政党だと
 思っている。
  改憲草案は現行憲法と何が違うのか。
  たとえば現行憲法の二一条は「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保証
 する」とされているが、改憲草案には「前項の規定に、かかわらず、公益及び公の秩序を害すること
 を目的とした活動を行い、並びにそれを目的として結社をすることは、認められない」との条件が追
 加されている。
  「公益及び公の秩序」なる概念が、公共の福祉、国民の安寧より上位に置かれているわけだが、こ
 の「公益・公の秩序」が何であるか、誰がどのような資格で、何を基準に規定するのかについては何
 も書かれていない。
  このような恣意的なものに基本的人権を抑制する全権を付与することの危険性は何度指摘してもし
 過ぎるということはない。
  この改憲草案には復古主義、偏狭なナショナリズムが伏流しているという批判があるが、私はそれ
 だけではないと思う。改憲草案はグローバル化の推進と国民国家解体のシナリオでもあるからである。
 現在のグローバル企業の多くは、株主も経営者も多国籍化しており、生産拠点は人件費の安い国に置
 き、法人税も税率の低い国に納めて租税回避することが常識化している。その意味で、グローバル企
 業はもう「○○国の企業」と言うことができなくなっている。
  グローバル企業は、資本・商品・情報・人間がいかなる障壁にも妨げられず、超高速で移動する状
 況を理想とする。だから、グローバル企業にとって最大の妨害者は国民国家だということになる。な
 ぜなら、国民国家は他国との間に無数の障壁を立てることで維持されているからである。国境線、固
 有の言語、固有の通貨、固有の度量衡、固有の商習慣、固有の生活文化などはいずれもグローバル化
 を阻む「非関税障壁」として機能している。
  しかし、実質的には「無国籍企業」でありながら、グローバル企業は「日本の会社」であるという
 名乗りを手放さない。あたかも世界市場で韓国や中国等の企業と「経済戦争」を戦っており、日本国
 民はこれらの企業が国際競争に勝ち残るために「奉仕する義務」があるかのような語り方をする。い
 やしくも日本国民なら日本を代表する企業の活動を全力で支援すべきではないのか、と。
  そういうロジックに基づいて、グローバル企業は国民国家に向かって、法人税を減免せよ、雇用を
 流動化せよ、規制を緩和せよ、原発を稼働して電力コストを下げよといった一連の要求を行う。「わ
 れわれはお国のために戦っているのだ」という幻想をふりまくことで、国民が低賃金に耐え、原発の
 リスクに耐え、TPPによる第一次産業の壊滅に耐えることを要求している。
  それは民間企業がそのコストを国民国家に押し付けているということである。企業がコストを負担
 すべきことを税金で行うことを要求しているということである。言い換えれば、国富を私財に転換し
 ているということである。
  このような怪しげな言説がメディアに流布し、国民がぼんやりとうなずいてしまうのは、「グロー
 バル企業は国民国家の代表として世界で戦っている」というナショナルな幻想が国民の間に深く浸透
 しているからである。
  グローバル化の進行(すなわち国民国家の解体)と、ナショナリズムの亢進(国民の「一蓮托生幻
 想」の強化)が同時的に、同一の政治的主体によって担われているというパラドクスはこの文脈では
 じめて理解可能となる。
  改憲草案の「国民国家解体」趨勢のはっきりした徴候は第二二条に見ることができる。
  現行憲法の二二条は「何人も、公共の福祉に反しない限り、居住、移転及び職業選択の自由を有す
 る」というものである。草案はここから「公共の福祉に反しない限り」という限定条件を削除した。
 自民党草案で私権の制約条件が削除されたのはこの一カ所だけである。草案があらゆる私権について
 付している「公益及び河の秩序」による制約も、居住・移動・職業選択の自由についてだけは課され
 ていない。なぜか。それはこの草案が、国境を超えて自由に移動し、転職を繰り返す生き方を「絶対
 善」だと見なしているからである。それが仮に「公共の福祉」に反することがあっても、「障壁を超
 えて移動する自由」は擁護されなければならない。それが自民党草案の本音なのである。それは二二
 条第二項の「全て国民は外国に居住し、又は国籍を離脱する自由を有する」と読み合わせるとはっき
 りと意味がわかってくる。グローバリストの脱領域的生き方は公共の福祉より上位に置かれなければ
 ならない。一見すると復古調の自民党草案の隙間からはこのようなグローバリズム=脱国民国家志向
 が露出しているのである。
  この改憲草案は遠からず二種類の人間たちに日本社会が二極化することを想定している。一方は国
 民国家の制約を逃れて、ボーダーを越えて自由に世界を行き来するグローバリストたちがいる。この
 「機動性の高い人々」が日本社会における上層を形成する。他方に圧倒的多数の「機動性の低い人た
 ち」がいる。日本列島から出ることができず、日本語しか話せず、日本に土着したかたちでしか生計
 を営むことができない人たち、彼らが下層を形成する。
  改憲草案は、一方で「上層」のグローバル・エリートたちに国民国家に制約されないフリーハンド
 を提供し、他方で、「下層」の労働者たちは私権を制限し、国家のために滅私奉公することを義務づ
 ける。草案そのもののうちに、来るべき階層社会を先取りした「ダブル・スタンダード」が仕掛けら
 れているのである。
  しかし、これはいったいどういう政策なのであろう。世界各地に住む家があり、ビジネスのネット
 ワークがあり、必要とあらば他国の国籍を取ることも厭わないという人たちが日本の国政の舵を取り、
 国家資源の分配を決定しているのである。日本列島から出ることができない圧倒的多数の人々は「日
 本列島の外では暮らせない」という理由で「下層民」に類別され、上層民に奉仕することだけを義務
 づけられている。これはいわば「船が難破したときには上空に待機しているヘリコプターでひとりだ
 け逃げ出せるように手配済みの手際のよい船長」に船の操舵を任せるようなものである。 
  有権者にはぜひ自民党草案を熟読して欲しいと思う。それがどれほどひどいものかは読めばわかる。
 日本以外の国で、中学生に社会科のテストで、現行憲法と自民党草案の二つを並べてみせて「どちら
 が改憲後のものでしょう?」という問いを出したら、100%が現行憲法を「こちらです!」と大声を上
 げて選ぶはずである。
  改憲派の人々のうちに例えばアメリカの中学生たちに向かって「あなたがたの判断は間違っている。
 あなたがたが『時代遅れの憲法』だとみなしたものこそが実はグローバルスタンダードに合致した新
 しい憲法なのだ」と説得する自信があるという人がいたらぜひ名乗り出て欲しいと思う。たぶん一人
 もいないだろう。
 ──……──……──……──……──……──……──……──……──……──……──……

 内田樹氏の論理は、小生が彼のブログを引用し始めて以来、ほとんどぶれていないと思う。それだけ信頼
できる人が、かなり過激に(小生にとっては当然だと思うが)「改憲論」を批判しているが、果たして国民
はどれくらい真剣に受け止めているのだろうか。もし、自民党案が国民の信任を得た場合、どんな国に変貌
するのか、本当に理解しているのだろうか。あってはならない「愚民政策」が実現すれば、新たに暗黒国家
が誕生するかもしれない。しかし、それも国民が選んだこと、「理性の詭計」がどこかで働いているのかも
しれないのである。


 某月某日

 月が替わった。講義が終わったので精神的にはいくらか楽になったが、試験と採点の季節なので、忙しさ
はけっして軽減されたわけではない。それでも、久しぶりにTSUTAYAを覗きに行き、DVDを5本借りてきた。
そのうちの1本目の感想を記そう。鑑賞したのは『女教師 汚れた放課後』(監督:根岸吉太郎、にっかつ、
1981年)である。もちろん、ロマンポルノの1篇であるが、たぶんこのシリーズは初見である。『ぴあシネ
マクラブ』に解説が載っているので、それを引用させていただく。

   〔女教師シリーズ〕

  背徳の匂いが漂う“女教師”を題材としたロマンポルノは、1977-83年にかけて、全9作が製作され
 た。1作目にあたる田中登の「女教師」は、不良少年の体制批判までを描く秀作で、以降このシリー
 ズには、教師と生徒との情事という単純な図式では終わらない、人間の本質を見つめた作品が多い。
 それは「秘密」における山口美也子の女の性であり、「犯された(ママ:「汚された」の間違いだと
 思われる)放課後」での風祭ゆきの偽善者ぶりである。だが1980年代に入って、“風営法”の影響か
 ら、この女教師の3文字自体が使えなくなり、「…二度犯される」を最後に製作されなくなった。

 「女教師」と銘打っているので、主人公は都立高校の教師ということになっているが、教室での場面は皆
無で、生徒との絡みもない。したがって、女教師シリーズの1篇と呼べるほどの作品ではないことになる。
最近鑑賞した『ゼウスの法廷(Court of Zeus)』(監督:高橋玄、GRAND KAFE PICTURES=エフティー企画、
2013年)に風祭ゆきが出演していたので、ちょっと懐かしくなって借り出したわけだが、ポルノとしては平
均的な作品だろうか。ただし、三谷昇がその風祭ゆきと絡んでいるので、ちょっと驚いた。彼の風貌からし
て、ポルノ男優とは程遠いイメージがあるからだ。80年代に入ってからの作品であるが、明らかに70年代の
雰囲気を備えており、その意味で懐かしかった。
 さて、物語を確認しておこう。例によって<Movie Walker>のお世話になる。執筆者に感謝したい。なお、
一部改変したが、ご寛恕いただきたい。

   〔解説〕

  学生時代、教育実習に行った先で、労務者風の男に強姦された女教師と、自分の教え子となったそ
 の男の娘の姿を描く。脚本は「ツィゴイネルワイゼン」の田中陽造、監督は「朝はダメよ!」の根岸
 吉太郎、撮影は「百恵の唇 愛獣」の米田実がそれぞれ担当。

   〔あらすじ〕

  高校教師、倉田咲子(風祭ゆき)は愛人の小沢(小池雄介)とベッドにいると、警察から電話が入
 った。野本スエ子(太田あや子)という生徒を引き取ってほしいという。スエ子はマリファナや売春
 で補導されたのだ。スエ子は咲子が秋田で教育実習をしたときの教え子で、今、東京の彼女の学校に
 転校していた。咲子は秋田での実習の時、トイレで覆面をした労務者風の男に強姦された。そして、
 スエ子はその男の娘だった(実は、後で判明するが、咲子の誤解)。スエ子は、あの事件以来蒸発し
 た父末吉(三谷昇)に見切りをつけ、母のサチ(藤ひろ子)とともに秋田を出て、東京の姉、トモ子
 (鹿沼えり)のところへ転がり込んでいる。数日後、咲子はスエ子から、強姦犯は父ではなく後から
 真犯人があがったと聞かされた。スエ子の家族を離散させた罪の意識でショックを受けた咲子は末吉
 を捜し詫びようとする。小沢は咲子の過去を聞き、彼女から遠ざかっていく。咲子は偶然、末吉に出
 会った。二人は列車に乗ると、地方のヘルスセンターに行った。咲子はそこでスエ子を呼ぶ。三人は
 そこの、剣劇一座と親しくなった。一座が去って行く日、末吉は首をつろうとして、咲子に止められ、
 二人は体を重ねた。学校に戻った咲子はスエ子から手紙を受け取った。スエ子は学校を休学、末吉と
 一緒に剣劇一座について旅をしている。スエ子は父親と一緒にいると気持が落ちつくという。

 他に、木島一郎(杉原)、影山英俊(遠藤)、北見敏之(三井)、浜口竜哉(伊東)、粟津號(山川先生)、
水木京一(掃除夫)、南部寅太(覆面の男)、花上晃(板東栄次郎)、溝口拳(ヤクザ風の男)などが出演
している。なお、劇中劇の「剣劇一座」は、松丸家辨太郎一座による。末吉はシンナー中毒であるが、シン
ナーの隠語である「アンパン」という言葉も出てくる。さらに、「ビニール本(ビニ本)」(いわゆるエロ
本のこと。中身を隠すために、ビニールで覆われていた)や「ピーマン」(中身が空っぽな人物を指す)な
どの言葉も時代を伝えている。100円玉でかける黄色の公衆電話もこの頃の風物詩と言えよう。タクシーの初  
乗り料金は380円だった。
 なお、小生が鑑賞済みの根岸吉太郎監督の映画は、当該作品を含めて以下のように8篇ある。さすがロマ
ンポルノで鍛えただけあって、官能的な作品が多いようである。

 『女教師 汚れた放課後』、監督:根岸吉太郎、にっかつ、1981年。
 『遠雷』、監督:根岸吉太郎、にっかつ=ニュー・センチュリー・プロデューサーズ=ATG、1981年。
 『探偵物語』、監督:根岸吉太郎、角川春樹事務所、1983年。
 『ひとひらの雪』、監督:根岸吉太郎、東映東京、1985年。
 『ウホッホ探検隊』、監督:根岸吉太郎、ニュー・センチュリー・プロデューサーズ=ディレクターズ・
  カンパニー=日本テレビ、1986年。
 『透光の樹』、監督:根岸吉太郎、「透光の樹」製作委員会、2004年。
 『サイドカーに犬』、監督:根岸吉太郎、「サイドカーに犬」フィルムパートナーズ〔ビーワイルド=
  S・D・P=読売広告社=ポニーキャニオン=Yahoo! Japan=トゥモロゥー=ビターズ・エンド=
  ムスタッシュ〕、2007年。
 『ヴィヨンの妻 -桜桃とタンポポ-』、監督:根岸吉太郎、フジテレビジョン=パパドゥ=新潮社=
  日本映画衛星放送、2009年。

                                                  
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