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ますが、特定の個人や団体を誹謗中傷する目的は一切ありません。どうぞ、ご理解ください。人によっては、
多少ともショッキングな記事があるかもしれませんので、その点もご了承ください。なお、読み進めるほど
記事が古くなります。日誌風に記述しますが、後日訂正を載せるかもしれません。あらかじめ、ご了解をい
ただきたいと存じます。また、ご質問、ご意見等のおありの方は、muto@kochi-u.ac.jp 宛にメールをいただ
ければ幸甚です。

                                                 
 2013年5月29日(水)

 本日も、『しのびよる破局 生体の悲鳴が聞こえるか』(辺見庸 著、角川文庫、2010年)に言及します。
第四章の「無意識の荒み」のつづきを転載してみましょう。原文の引用、あるいは、その要約などです。


 第四章 無意識の荒み(つづき)

p.118 ・メディアが煽動する世間
      現代社会には、主語、述語、目的語程度の明示性しかことばがない。(中略)含意とか隠喩とか
     を受け入れる素地がなくなっている。あるいは、そういうものをわかったふりをしていうのは、全
     部CMの世界になってしまった。例:『星の王子様』の「大事なことは目には見えないんだよ」。

p.119 ・CMに対する苛立たしさ。
    ・人を商品価値としか見ていない、倒錯した社会。「まともな人間はTVなどには出ない」というセ
     ンス。

p.119-120 ・テレビという意識産業は視聴者の内面も出演者の内面も制作者の内面も、無痛状態のまま冒し
       てくる。(中略)テレビメディアというのは集合的人格崩壊の象徴なのです。

p.120 ・権力者たちの意味なき笑いに対する苛立ち。

p.121 ・醜悪な権力者の醜悪な態度に対するメディアの対応の情けなさ。

p.121-122 ・恥とか、文民統制という生まじめな精神はなにもない。全部お笑いとCMといっしょに溶解し
       てしまうのです。

p.122 ・生きる意味というものが本当になくなっている。(中略)悪が悪として見えない。悪はおそらくも
     っとも善のかたちをとって立ちあらわれているのだとおもう。
    ・メディアの罪
      ○ 分かりやすいメッセージだけを尊ぶ。
      ○ 人々を集団性の中に隠れさせる。
      ○ ものごとを単純化する。
      ○ 人に反復的に思索をさせない。
      ○ 暗い話題を遮り、根拠のない希望を煽り立てる。

p.123 ・マスコミが仕切って、世界の趨勢を決めつけてしまう。
    ・もっと個人の疑問をかさねる必要がある。

p.124 ・メディアが煽動している世間というものは、反復する思索というものを完全に失っている。
    ・人の精神に障害があるかどうかを医学ではなく、権力が決めている。あるいはメディアが決めてい
     る。ジャーナリスティックにおもしろければ、視聴率を稼げれば、人の尊厳をあらかた剥ぎとる。
     これはジャーナリズムを騙る暴力である。そこには、人間性とは真逆の、恐ろしいまでの冷たさと
     無関心が存在する。
    ・駄作としての資本主義
      「待つ」という感覚。

p.125 ・でもいま、こんなものを見たかったんじゃないよとつくづく実感します。六十数年間待たされてこ
     んなものを見せられるのかという想いがするのです。それはショックです。ものすごくわかりやす
     いことばでいえば、資本は市場と権力、国家だけを応援するのではない。反権力や反体制のイデー
     をふくむ思考をも、静かに和やかに腐敗させていく。恥の意識を消してくれる。そしてみんな、資
     本の「ゾンビ」にしてしまった。
    ・資本主義は人間が作った駄作。いま資本主義社会が爛熟して、その腐臭がすごく耐えがたいものに
     なっている。腐ってきているとおもう。

p.126 ・バルザックの問い……モラルの根源として、貪欲がどこまで許されるのか。
    ・内面の思考というものは、宇宙にまで足がのびたいまの世界よりも、バルザックのときのほうがよ
     ほど深かったのだろうとおもうのです。

p.127 ・外にむけてどんどんひろがっていく人間の野望というものを、もっと内側にむけていく。宇宙では
     なく、「内宇宙」にむけていくような根源の倫理というものが、いま、問われているだろうとおも 
     うのです。人間とはなにか。人間とはどうあるべきか。そういう迂遠な、時間のかかる作業が、い
     まの経済の破綻のなかで必要とされているきがするのです。
    ・人間の無意識の荒み。メッキのような繁栄の回復ではない何か。

p.127-128 ・いま格差というけれども、もともと本当に平等があったのか。じつはなかったとおもうのです。
       ベーシックな差別というのは非常に古くからあった。いま必要なことは、繁栄を取りもどすこ
       とではなくて、新しくなにかをつくることなのです。
      ・根源的な問い(貪欲はどこまで許されるか、平等とは何か)を問い直すことによって、個々の
       人間が無意識に薄いクモの巣のように体内に張ってきた荒みを発見することに、自分の課題と
       して興味があります。

p.128 ・世の中がコーティングされていることにたいするいらだち。そのコーティングの一枚下はもっとひ
     どいもので、人の血や涙が全部ペンキで隠されている。あるいは若い人あっちの孤絶感、世界から
     の切断感、それがみんなコーティングされている。
      政治もマスメディアも、その実相というか、社会の傷口の本当の手触り、マチエールを表現する
     意欲がないとおもう。コーティングされたことばで適当に分類しているにすぎない。この皮膜を、
     ペイントを引っぺがしたらどういう世界が見えてくるのか。やはりそれはやらなければいけないと
     おもうのです。


 今日はここで店仕舞いします。辺見庸の感性が捉える世界は、一般の人々が捉えている世界とだいぶ様相
が異なります。したがって、日常にどっぷりと浸かって、自分と自分を取り巻く世界について反省などした
ことのない人々には、何を語っているのか分からないのではないでしょうか。辺見庸の言説に静かに耳を傾
け、自分と自分を取り巻く世界について反復的に思索してみれば、見えてくる世界。もし、そういった「反
復する思索」が人々の間から消え失せてしまえば、わたしたちの住む世界は、ますます住みにくくなるでし
ょう。
 さて、次回は、「第五章 人智は光るのか」に言及する予定です。

                                                  
 2013年5月25日(土)

 本日は、再び『しのびよる破局 生体の悲鳴が聞こえるか』(辺見庸 著、角川文庫、2010年)に言及しま
す。第四章の「無意識の荒み」を転載してみましょう。原文の引用、あるいは、その要約などです。


 第四章 無意識の荒み

p.105 ・若い時の印象と歳を取ってからの印象は異なる。

p.106 ・『ペスト』の読み直し。


   『ペスト(La Peste)』(ウィキペディアより)〔ほぼ原文通り〕

  『ペスト』は、アルベール・カミュ(Albert Camus, 1913年-1960年)が書いたフランスの小説。出
 版は1947年。ペストに襲われたアルジェリアのオラン市を舞台に、苦境の中、団結する民衆たちを描
 き、無慈悲な運命と人間との関係性が問題提起される。医者、市民、よそ者、逃亡者と、登場人物た
 ちはさまざまだが、全員が民衆を襲うペストの脅威に、助けあいながら立ち向かう。
  よく言われるのは、この作品は第二次世界大戦時のナチズムに対するフランス・レジスタンス運動
 のメタファーではないかということだ。さらに、実存主義文学の古典とも言われるが、カミュはこの
 レッテルを嫌っていた。語り口は、個々のセンテンスが複数の意味を内包し、その一つが現象的な意
 識および人間の条件の寓意である点で、カフカの小説、とくに『審判』に通じるものがあると言われ
 ている。
  カミュのアプローチは非情で、語り手である主人公は、自分たちは結局何もコントロールできない、
 人生の不条理は避けられないという考えを力説する。カミュは不条理に対する人々のさまざまな反応
 を例示し、いかに世界が不条理に満ちているかを表している。

   登場人物

  語り手:その正体は最後になって明かされる。
  ベルナール・リウー:医師。
  ジャン・タルー:よそ者、手帳はこの作品のもうひとつの物語手。
  ジョセフ・グラン:作家志望の下級役人。
  コタール:絶望に駆られた男、犯罪者。
  カステル:医師。
  リシャール:市内で最も有力な医師の一人。
  パヌルー:博学かつ戦闘的なイエズス会の神父。
  オトン氏:予審判事、「ふくろう男」。
  レイモン・ランベール:新聞記者。
  喘息病みの爺さん:リウーの患者。
 
   「あらすじ」注意:以降の記述には物語・作品・登場人物に関するネタバレが含まれます。

  はじまりは、リウーが階段でつまづいた一匹の死んだ鼠だった。やがて、死者が出はじめ、リウー
 は死因がペストであることに気付く。新聞やラジオがそれを報じ、町はパニックになる。最初は楽観
 的だった市当局も、死者の数は増える一方で、その対応に追われるようになる。
  やがて、町は外部と完全に遮断される。脱出不可能の状況で、市民の精神状態も困憊してゆく。
  ランベールが妻の待つパリに脱出したいと言うので、コタールが密輸業者を紹介する。コタールは
 逃亡者で町を出る気はなかった。パヌルー神父は、ペストの発生は人々の罪のせいで悔い改めよと説
 教する。一方、リウー、タルー、グランは必死に患者の治療を続ける。タルーは志願の保険隊を組織
 する。
  ランベールは脱出計画をリウー、タルーに打ち明けるが、彼らは町を離れる気はない。やらねばな
 らない仕事が残っているからだ。ランベールは、リウーの妻も町の外にいて、しかも病気療養中だと
 いうことを聞かされる。ランベールは考えを改め、リウーたちに手伝いを申し出る。
  少年が苦しみながら死んだ。それも罪のせいだと言うパヌルーに、リウーは抗議する。確かに罪な
 き者はこの世にはいないのかも知れない。パヌルーもまたペストで死んでしまうのだから。
  災厄は突然潮が退いたように終息する。人々は元の生活に戻ってゆく。ランベールは妻と再会でき、
 コタールは警察に逮捕される。流行は過ぎたはずなのに、タルーは病気で死んでしまう。そして、リ
 ウーは療養中の妻が死んだことを知らされる。


p.107 ・恐怖の日常化。人間は何にでも慣れる。

p.108 ・「これから悪いことが起きる」ではなく、「いままさに悪いことが起きている」が正しい。
    ・日常がコーティングされてしまえば、今日は昨日のつづき、明日は今日のつづきというイナーシア
     (慣性)がつねに支配していくでしょう。(中略)日常というのはそうした楽観と鈍感と無思慮で、
     継続、維持されている。


   イナーシア(ネット記事「関心空間」より)〔ほぼ原文通り〕

  いつもと同じ月曜日の朝、のはずだった。地下鉄の出口で、うずくまる女性を見かけるまでは……。
  作家・辺見庸さんは最初、集団食中毒だと思ったという(私は、車内のアナウンスで「築地で、爆
 破事故」と聞いた)。ホームに横たわる人びと、そんな彼らをまたいで勤務先へと急ぐ人びと。地上で
 は、もっと奇妙な光景が広がっていた。何とかたどり着き、あるいは運び出されて苦しんでいる人び
 との横で、警察官は捜査中。メディアはこぞって事件を伝え、目撃者にインタビューしている。
  しかし、誰ひとり被害者を助けようとしない。
  そこにあるのは “悪意” ではない。辺見さんは、その行動を「イナーシア(inertia)」と名づけ
 た。本来は物理学で「慣性」を表わす用語だ。それぞれがいつものように、自らの仕事を遂行してい
 る──それだけのことだったのだが。惰性に流されると、見えなくなるものがある。
  世界を理解するとき、そうして一歩を踏み出すとき、私(たち)は言葉(と物語)を必要とする。
 オバマ米大統領が議会演説であげたエピソードなど、よい例だろう。「アサーティヴ」や「サスティ
 ナビリティ」などとともに、この「イナーシア」という言葉も社会を見るチカラをくれる。
  イラク侵攻にあたって、ブッシュ前大統領は「自由と民主主義」を掲げた。それは現実は別として、
 日本の戦後が信じて疑わない最も重要なテーマでもあった。しかし今、前者は世界の経済に恐慌をも
 たらし、後者は自民党政権の延命に一役買っている。
  いずれにしても、良識派を気どる御用コメンテーターばかりが幅を利かせる中、辺見さんが現代日
 本で稀有な、誠実な知性であることは間違いない。


    ・マスコミは事態を過小評価し、つねに楽観主義を貫く。
      → 今回の原発事故でも、似たような様相があったのではないか。

p.109 ・その日の死者の数は報道するが、死者の累積数に関しては無意識的に報道を避ける。
    ・「ミス原爆美人コンテスト」(於 長崎)……まさにすごいというのは、こういうこと。原爆が落
     とされようとも、日常は続くのである。

p.110 ・マスコミにおける無意識の演出と操作。暗いニュースばかりだと、明るいニュースを入れたくなる
     という人間の心情。これはある種の日常へのコーティングでもある。

p.111 ・「悲惨」ということばが、マチエールというのかな、本当に手触り感をもったことばとしてつたわ
     ってこない。それがかえって、いちばん悲惨なことだとおもうのです。
    ・人の世にはいつも終末観があります。カタクリズム《cataclysm》(大激変)、世界の終り幻想、
     神の不在への畏れは、戦争や大恐慌に導かれて人の心に影を落とします。

p.112 ・無意識の荒み
      道理とかモラルとか人倫とか、その鋳型になるようなものが、ほとんど粉々になってしまった、
     現代という時代。

p.113 ・いま起きているのは、経済的な格差の問題だけではない。不平等が拡大していくことに異を唱えた
     り、「それはおかしい!」と抗ったりするということが弱くなってしまった。つまり、抗うことは
     最初から無力なことだとおもってしまう。おもわされてしまうなにか。あるいは、不平等の拡大は
     前提なのだ、当たり前なのだと受けいれてしまうなにか……そういう内面の変化が、時間をかけて
     起きてきたとぼくはおもっているし、いま、立ちすくんで考えなければならないのは、そういうこ
     とだとおもうのです。
    ・いまわれわれが立っている精神的な足場には、「無意識の荒み」があるとおもう。ぼくは、その無
     意識の荒みというものを、もっと摘出して見ておきたいのです。人間を部品化してお金儲けをする
     少数の人間たちと、それができない絶対多数の人間たちとのあいだに、途方もない開きがでてくる
     ことを当たり前とする社会のなかで起きてきた、社会の全域に進んだ、あるいはわれわれの体内に
     広がってしまった無意識の荒みというものは、いったいなにを意味するのか。自分でもくりかえし
     考えるのですが、なかなかわからない。でも、まちがいなくある。

p.114 ・諧調ではない、乱調の世界。それが無意識の荒み。
    ・ことばの表面上の意味に騙されてはいけない。

p.115 ・少しオーバーにいえば、いまの事態というのは、じつはそこまであぶりだされてきている。きれい
     で、円滑で、順調で、快適で、善に見えるようなこと。スムーズに流れていくようなこと。あるい
     は和やかなこと。そこに潜む無意識の荒み。それをわれわれは体内にふくみもつのです。

p.116 ・飢餓と大食い競争が、じつは象徴的にも共存しているのが現在なのである。
    ・飢餓と大食い競争が共存する世界というものは、極端にいえばこうだとおもうのです。正気と狂気
     が交差して重層する社会。それがいまではないか。それを「そうではない」とは、もうことここに
     至ってはいえなくなってきている。そして、無意識の荒みの発生源には、そういうものがある。

p.117 ・世界は怪しいが、われわれの内面はもっと怪しい。たぶん、われわれのゆがんだ内面は、無意識に
     権力の増殖に関与し、助けている。(中略)ぼくらはシニカルに自他を笑いながら無意識に「無数
     の合意」のひとつを構成し、権力を助長している。これが、「無意識の荒み」である。


 今日は、この辺りで留めておきましょう。どこかおかしいと感じながら、何となく見過ごしてしまう日常。
「おかしい」と声高に唱えると、きまって浮いてしまう立場。赤信号であっても、みんなで渡れば怖くない
のです。それでも、やはりおかしいと感じていることは、きちんと批判すべきでしょう。かつては、どの横
丁にも年寄りのご意見番がいて、社会のちょっとした歪みを匡してくれたものです。しかし、小生もそうで
すが、何か空しいものを感じて、たとえおかしいと気づいていても、何も言えなくなっているのです。そう
なっては、未必の故意は日常化し、どんどん病巣が拡大していきます。何が歯止めになるのでしょうか。そ
れをしっかり考えなければならない時代なのでしょう。
 さて、次回は、「第四章 無意識の荒み」のつづきに言及する予定です。

                                                 
 2013年5月24日(金)

 このブログに書き込みたいのはやまやまですが、だいぶ疲れているので今日は帰ります。明日は土曜日で
すが、大学院の演習が2本ありますので出勤日となっています。余裕があれば、ブログ再開という腹づもり
です。

                                                
 2013年5月21日(火)

 今日は、再び内田樹氏のブログを転載させていただきます。例によって、ご本人の了解を取っていませんが、
きっと許してくださるでしょう。なお、ほぼ原文通りです。


   「日本の現在地」                 2013年5月8日


  朝日新聞の「オピニオン」の5月8日紙面に長いものを寄稿した。「日本の現在地」というお題だ
 ったので、次のようなものを書いた。朝日新聞を取っていない人のためにブログに転載する。

  日本はこれからどうなるのか。いろいろなところで質問を受ける。
  「よいニュースと悪いニュースがある。どちらから聞きたい?」というのがこういう問いに答える
 ときのひとつの定型である。それではまず悪いニュースから。

  それは「国民国家としての日本」が解体過程に入ったということである。
  国民国家というのは国境線を持ち、常備軍と官僚群を備え、言語や宗教や生活習慣や伝統文化を共
 有する国民たちがそこに帰属意識を持っている共同体のことである。平たく言えば、国民を暴力や収
 奪から保護し、誰も飢えることがないように気配りすることを政府がその第一の存在理由とする政体
 である。言い換えると、自分のところ以外の国が侵略されたり、植民地化されたり、飢餓で苦しんだ
 りしていることに対しては特段の関心を持たない「身びいき」な(「自分さえよければ、それでいい」
 という)政治単位だということでもある。
  この国民国家という統治システムはウェストファリア条約(1648年)のときに原型が整い、以
 後400年ほど国際政治の基本単位であった。それが今ゆっくりと、しかし確実に解体局面に入っている。
 簡単に言うと、政府が「身びいき」であることを止めて、「国民以外のもの」の利害を国民よりも優
 先するようになってきたということである。

  ここで「国民以外のもの」というのは端的にはグローバル企業のことである。
  起業したのは日本国内で、創業者は日本人であるが、すでにそれはずいぶん昔の話で、株主も経営
 者も従業員も今では多国籍であり、生産拠点も国内には限定されない「無国籍企業」のことである。
 この企業形態でないと国際競争では勝ち残れないということが(とりあえずメディアにおいては)
 「常識」として語られている。
  トヨタ自動車は先般国内生産300万台というこれまで死守してきたラインを放棄せざるを得ない
 というコメントを出した。国内の雇用を確保し、地元経済を潤し、国庫に法人税を納めるということ
 を優先していると、コスト面で国際競争に勝てないからである。
  外国人株主からすれば、特定の国民国家の成員を雇用上優遇し、特定の地域に選択的に「トリクル
 ダウン」し、特定の国(それもずいぶん法人税率の高い国の)の国庫にせっせと税金を納める経営者
 のふるまいは「異常」なものに見える。株式会社の経営努力というのは、もっとも能力が高く賃金の
 低い労働者を雇い入れ、インフラが整備され公害規制が緩く法人税率の低い国を探し出して、そこで
 操業することだと投資家たちは考えている。このロジックはまことに正しい。
  その結果、わが国の大企業は軒並み「グローバル企業化」したか、しつつある。いずれすべての企
 業がグローバル化するだろう。繰り返し言うが、株式会社のロジックとしてその選択は合理的である。
 だが、企業のグローバル化を国民国家の政府が国民を犠牲にしてまで支援するというのは筋目が違う
 だろう。
  大飯原発の再稼働を求めるとき、グローバル企業とメディアは次のようなロジックで再稼働の必要
 性を論じた。原発を止めて火力に頼ったせいで、電力価格が上がり、製造コストがかさみ、国際競争
 で勝てなくなった。日本企業に「勝って」欲しいなら原発再稼働を認めよ。そうしないなら、われわ
 れは生産拠点を海外に移すしかない。そうなったら国内の雇用は失われ、地域経済は崩壊し、税収も
 なくなる。それでもよいのか、と。
  この「恫喝」に屈して民主党政府は原発再稼働を認めた。だが、少し想像力を発揮して欲すれば、
 この言い分がずいぶん奇妙なものであることがわかる。電力価格が上がったからという理由で日本を
 去ると公言するような企業は、仮に再び原発事故が起きて、彼らが操業しているエリアが放射性物質
 で汚染された場合にはどうふるまうだろうか? 自分たちが強く要請して再稼働させた原発が事故を
 起こしたのだから、除染のコストはわれわれが一部負担してもいいと言うだろうか? 雇用確保と地
 域振興と国土再建のためにあえて日本に踏みとどまると言うだろうか? 絶対に言わないと私は思う。
 こんな危険な土地で操業できるわけがない。汚染地の製品が売れるはずがない。そう言ってさっさと
 日本列島から出て行くはずである。
  ことあるごとに「日本から出て行く」と脅しをかけて、そのつど政府から便益を引き出す企業を
 「日本の企業」と呼ぶことに私はつよい抵抗を感じる。彼らにとって国民国家は「食い尽くすまで」
 は使いでのある資源である。
  汚染された環境を税金を使って浄化するのは「環境保護コストの外部化」である(東電はこの恩沢
 に浴した)。原発を再稼働させて電力価格を引き下げさせるのは「製造コストの外部化」である。工
 場へのアクセスを確保するために新幹線を引かせたり、高速道路を通させたりするのは「流通コスト
 の外部化」である。大学に向かって「英語が話せて、タフな交渉ができて、一月300時間働ける体
 力があって、辞令一本で翌日から海外勤務できるような使い勝手のいい若年労働者を大量に送り出せ」
 と言って「グローバル人材育成戦略」なるものを要求するのは「人材育成コストの外部化」である。
  要するに、本来企業が経営努力によって引き受けるべきコストを国民国家に押し付けて、利益だけ
 を確保しようとするのがグローバル企業の基本的な戦略なのである。繰り返し言うが、私はそれが
 「悪い」と言っているのではない。私企業が利益の最大化をはかるのは彼らにとって合理的で正当な
 ふるまいである。だが、コストの外部化を国民国家に押しつけるときに、「日本の企業」だからとい
 う理由で合理化するのは止めて欲しいと思う。
  だが、グローバル企業は、実体は無国籍化しているにもかかわらず、「日本の企業」という名乗り
 を手放さない。なぜか。それは「われわれが収益を最大化することが、すなわち日本の国益の増大な
 のだ」というロジックがコスト外部化を支える唯一の論拠だからである。
  だから、グローバル企業とその支持者たちは「どうすれば日本は勝てるのか?」という問いを執拗
 に立てる。あたかもグローバル企業の収益増や株価の高騰がそのまま日本人の価値と連動しているこ
 とは論ずるまでもなく自明のことであるかのように。
  そして、この問いはただちに「われわれが収益を確保するために、あなたがた国民はどこまで『外
 部化されたコスト』を負担する気があるのか?」という実利的な問いに矮小化される。
  ケネディの有名なスピーチの枠組みを借りて言えば「グローバル企業が君に何をしてくれるかでは
 なく、グローバル企業のために君が何をできるかを問いたまえ」ということである。日本のメディア
 がこの詭弁を無批判に垂れ流していることに私はいつも驚愕する。

  もう一つ指摘しておかなければならないのは、この「企業利益の増大=国益の増大」という等式は
 その本質的な虚偽性を糊塗するために、過剰な「国民的一体感」を必要とするということである。グ
 ローバル化と排外主義的なナショナリズムの亢進は矛盾しているように見えるが、実際には、これは
 「同じコインの裏表」である。
  国際競争力のあるグローバル企業は「日本経済の旗艦」である。だから一億心を合わせて企業活動
 を支援せねばならない。そういう話になっている。
  そのために国民は低賃金を受け容れ、地域経済の崩壊を受け容れ、英語の社内公用語化を受け容れ、
 サービス残業を受け容れ、消費増税を受け容れ、TPPによる農林水産業の壊滅を受け容れ、原発再
 稼働を受け容れるべきだ、と。この本質的に反国民的な要求を国民に「飲ませる」ためには「そうし
 なければ、日本は勝てないのだ」という情緒的な煽りがどうしても必要である。これは「戦争」に類
 するものだという物語を国民に飲み込んでもらわなければならない。中国や韓国とのシェア争いが
 「戦争」なら、それぞれの国民は「私たちはどんな犠牲を払ってもいい。とにかく、この戦争に勝っ
 て欲しい」と目を血走らせるようになるだろう。
  国民をこういう上ずった状態に持ち込むためには、排外主義的なナショナリズムの亢進は不可欠で
 ある。だから、安倍自民党は中国韓国を外交的に挑発することにきわめて勤勉なのである。外交的に
 は大きな損失だが、その代償として日本国民が「犠牲を払うことを厭わない」というマインドになっ
 てくれれば、国民国家の国富をグローバル企業の収益に付け替えることに対する心理的抵抗が消失す
 るからである。
  私たちの国で今行われていることは、つづめて言えば「日本の国富を各国(特に米国)の超富裕層
 の個人資産へ移し替えるプロセス」なのである。
  現在の政権与党の人たちは、米国の超富裕層に支持されることが政権の延命とドメスティックな威
 信の保持にたいへん有効であることをよく知っている。戦後68年の知恵である。これはその通りであ
 る。おそらく安倍政権は「戦後最も親米的な政権」としてアメリカの超富裕層からこれからもつよい
 支持を受け続けることだろう。自分たちの個人資産を増大させてくれることに政治生命をかけてくれ
 る外国の統治者をどうして支持せずにいられようか。
  今、私たちの国では、国民国家の解体を推し進める人たちが政権の要路にあって国政の舵を取って
 いる。政治家たちも官僚もメディアも、それをぼんやり、なぜかうれしげに見つめている。たぶんこ
 れが国民国家の「末期」のかたちなのだろう。

  よいニュースを伝えるのを忘れていた。
  この国民国家の解体は日本だけのできごとではない。程度の差はあれ、同じことは全世界で今起こ
 りつつある。気の毒なのは日本人だけではない。そう聞かされると少しは心が晴れるかも知れない。


 小生にとっては自明の論理ですが、一部の国民には内田樹氏が何を語っているのか分からない、あるいは、
分かろうとしない人もいるかと思います。それほど絶望的状況なのに、なぜかみな浮かれていて……。もっ
とも、小生は、昨年暮れに自分を含めた日本人と日本を徹底的に批判することにしましたので、この絶望的
状況にあっても意気軒昂です。なぜなら、小生は、そのためにたとえ孤立無援、四面楚歌に陥ったとしても、
悔いないつもりだからです。連帯ならぬ無頼こそ、小生の歩む道と心得たからです。内田樹氏は、わずかに
そんな小生のこころを鼓舞してくれる、数少ない人のひとりです。

                                                  
 2013年5月20日(月)

 本日も、『しのびよる破局 生体の悲鳴が聞こえるか』(辺見庸 著、角川文庫、2010年)に言及します。
第三章の「価値が顛倒した世界」のつづきを転載してみましょう。原文の引用、あるいは、その要約などで  
す。


 第三章 価値が顛倒した世界(つづき)

p.86 ・経済危機とナショナリズム
    
p.86-87 ・アメリカはいまもそうですが、アンダークラス、いわゆる最下層の貧困層とか、移民労働者、外  
     国人労働者を社会的排除の対象にしている。ロシアもすごい。カザフあたりからきた移民労働者
     をみんな排除しようとしている。政権ごとにそうしようとしている。これは欧州でもそうです。
     路上にひざまづいて仕事をしているのは、ドイツでいえばトルコ人。ガストアルバイターとして
     トルコ人を使って大きな差別構造のなかでそうやってきた。フランスでもそうです。ゴミ拾いと
     か、肉体的に自分を酷使しなければならない仕事をしているのはたいてい外国人労働者です。
     必要なときは使う。要らなくなれば今度は排斥して、火炎瓶をぶつけて殺したりもした。その歴
     史を忘れてはいけないとおもう。これからまた移民労働者、外国人労働者排斥がはじまるとおも
     うのです。

p.87 ・ビオスではなくゾーエーとしての生。
     ジョルジョ・アガンベン(Giorgio Agamben, 1942年 - )〔伊〕は、ハンナ・アレント(Hannah
    Arendt, 1906年 - 1975年)〔独→米〕の理論におけるゾーエ(剥き出しの生・生物的な生)とビ
    オス(社会的政治的生・生活形式における諸活動)、そしてとりわけビオス・ポリティコス(偉大
    な行動と高貴な言葉を生きること)についての思考を批判的に継承している また、フーコーは「近
    代が生政治を生み出した」と言ったが、アガンベンはこれを批判し、政治はその起源から生政治で
    あったとする。アガンベンによれば、ローマ時代の特異な囚人「ホモ・サケル」とは、bios(ビオ
    ス、社会的・政治的生)を奪われ、zoe(ゾーエー、生物的な生)しか持たない存在であるという。
    アガンベンはそのような生を、ベンヤミンを受けて剥き出しの生と呼び、生政治はこの「剥き出し
    の生」を標的にしていると説いている。
     しかし、このようなアガンベンのフーコー読解には批判がある。2006年に出版された日本の雑誌
    『現代思想』のアガンベン特集号では、寄稿された論文の多くがアガンベンを批判する論旨になっ
    ており、人々を驚かせた(ウィキペディアより)。
   ・亡命者や移民を理念的にも受け容れる伝統は廃ってきた。

p.88 ・“労奴”と労組の背信
     帝政ローマのコロッセウム(闘技場)としての世界。見る権利を、それを享楽する権利を許され
    た人間たちと、殺しあうしかすべがない奴隷たちがグラディエーター(剣闘士)としてコロッセウ
    ムのなかでたたかいあう世界。現代も、基本的にこの帝政ローマの時代に似ている。

p.89 ・かつてのグラディエーターのように、人を商品として金で売買する。それが当たり前になってスー
    パースターがでてくる。でも、裾野に数えきれないぐらいの敗者がいる。
     → 一将功成りて万骨枯る[曹松(そうしょう)、己亥歳詩(きがいのとしのし)]。
   ・かつての「農奴」のように、現代の労働者は「労奴」という奴隷的な位置に貶められている。

p.90 ・バブル再来で富裕層なるニュー・リッチ群が誕生する一方で、非正規雇用の増加、労働組合の弱体
    化、御用組合化などが原因で労働者の報酬はむしろ減少し、長時間労働が増え、過労による労災認
    定は史上最高となる(二〇〇二年ころ)。

p.90-91 ・景気が回復し、経済が成長し、企業業績が好転すれば、労働者の待遇もよくなるといわれてい
     たのに、景気回復、経済成長は逆に格差を広げ、大量のプレカリアート、労奴たちをうんでいた。
     二〇〇八年秋の金融恐慌まで、このことはあまり問題視されなかった。経済一般の原因ではなく、
     賃労働と資本の矛盾、労使関係のありよう、労組の背信も労奴的現状を許す原因だった。

p.91 ・自国中心主義の勃興。

p.92 ・労働者がどんなに困っても、軍事費は削減されない構造。経済が困窮すると、ナショナリズムが勃
    興するという構図。

p.93 ・ファシズムは魅力的な顔をしている。
     ファシズムというのはメディアと大衆が支えた。あたかも「改革」であるかのような幻想に浸っ
    た。ある種の期待を担ったのである。あれを誰もグロテスクなものとは思わなかった。
   ・ファシズムは(実は)魅力的。腐敗を正して、ゲイやレズビアンを撲滅して、民族の優位性をいい
    つのって、文化を統制していく。そこに惹かれる人間たちがかつていたし、今もいる。あれは異様
    だったは後知恵であって、みんなで歓呼の声をあげて、街頭を駆けまわってユダヤ人を迫害した。

p.94 ・世の中を「浄化」するとか、「改革」するとかいう連中の思惑。ヒトラーは、ナチスの改革派とし
    て、しかも「社会主義者」として登場したことを、忘れてはいけない。
   ・夢野久作の『猟奇歌』(大恐慌期の1927年から35年まで)。

p.95 ・秋葉原事件に対する既視感。

p.95-96 ・夢野久作は、「唯物的な合理主義」というものは精神の堕落だと考えていた。モノの価値という
     ものを一義的に考えて、ほかのものを追いだしてしまうような、そういう価値観はよくないのだ
     ということを、かれはくりかえし書いた。かれはこの考え方を、資本主義がちょうど破綻した大
     恐慌期に披瀝する。

p.96 ・ファシズムにあるロマン。「ファシズムにはいかなる精髄もなく、単独の本質さえない」、「ファ
    シズムはファジーな全体主義」というウンベルト・エーコの指摘。付け加えれば、ファシズムとは、
    ときに排外的行為を、痛快で爽快であると錯覚する社会心理、集団心理である。

p.97 ・「コヘレトの言葉」(伝道の書)
     「かつてあったことは、これからもあり/かつて起こったことは、これからも起こる。太陽の下、
    新しいものは何ひとつない」。→ 相似的反復の世界。
   ・人間が反省を欠くとき、傲慢になるときには、かつて起こったことが、これからも起こるのである。
   ・だから、本当に取りもどさなければならないのは、経済の繁栄ではないのではないかとぼくはおも
    うのです。人間的な諸価値、いろいろな価値の問いなおしが必要なのではないか。でなければ、絶
    対悪のパンデミックは、いったん終息してもまたかならずやってくるだろう。もっとひどいかたち
    でくるかもしれない。

p.97-98 ・人間社会が歴史を教訓化しないとしたら、経済恐慌とか、新型インフルエンザとか気候変動とか
     あるいは地震、大洪水のような、そのパンデミックの先には、前次の大恐慌が結局第二次大戦と
     いう戦争を導いていったように、なんらかの地域紛争とか、そういうかたちでまた爆発していく
     可能性がまったくないとはいえないのではないでしょうか。少なくともそういう警戒心をもちな
     がら、人間社会は自省する必要があるような気がするのです。


 さて、今日はここで留めておきましょう。かつては○金、○ビ、今は勝ち組、負け組。なんという嫌な響
きを伴った言葉でしょう。人間が優越意識を持ちたい動物であることは認めますが、それを肯定して開き直
ることには承服できません。人間は共同で生きているのです。したがって、困っている人間を見捨ててはい
けない。しかも、余裕のある人が他者を助けることは比較的容易です。自分も余裕のない中で、何とかとも
に暮らしていける方策を見つけようと考えることが大事なのです。もしそのような気持が人々の中から薄れ
ていったとき、第二、第三の秋葉原事件が起こるかもしれません。そうならないように、人間社会は改善さ
れなければならないでしょう。ただし、ファッショ的な解決方法では駄目です。時間がいくらかかろうとも、
地道に民主的によい方策を積み上げていかなければならないでしょう。
 次回は、「第四章 無意識の荒み」に言及する予定です。

                                                  
 2013年5月18日(土)

 本日も、『しのびよる破局 生体の悲鳴が聞こえるか』(辺見庸 著、角川文庫、2010年)に言及します。
第三章の「価値が顛倒した世界」のつづきを転載してみましょう。原文の引用、あるいは、その要約などで  
す。


 第三章 価値が顛倒した世界(つづき)

p.81 ・憲法九条と二五条の危機
   
    憲法第九条【戦争の放棄、軍備及び交戦権の否認】
     日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力に
    よる威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
     2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、こ  
      れを認めない。

    憲法第二五条【生存権、国の社会保障的義務】
     すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
     2 国は、すべての生活部面について、社会福祉、社旗保障及び公衆衛生の向上及び増進に努め
      なければならない。

p.81-82 ・つい半年ぐらいまえまでいっしょに電車に乗っていたような人間が、まったく収入がなくなって  
     路上で生活していたりする。(米)昨日、社長。今日、ホームレス。

p.82 ・生存権、社会権というものが、うたがうべからざるものとしてある時代は終ったとおもうのです。
    社会権というものは、ばあいによっては幻想、建前でしかなかった。

    生存権(ウィキペディアより)〔ほぼ原文通り〕

  生存権(せいぞんけん)とは、人間が人たるに値する生活に必要な一定の待遇を要求する権利。19
 19年制定のドイツのヴァイマル憲法が生存権の具現化の先駆けとされる。

   概要

  「生存権」とは、万人が生きる権利をもっているという信念をあらわす語句であり、とりわけ他者
 の手で殺されない権利を意味する。ただしその具体的内容をどう解釈し特定すべきかは、正当防衛、
 緊急避難といった関連概念のそれと同様、死刑、戦争、妊娠中絶、安楽死などの社会問題を議論する
 にあたってしばしば重要な争点を形成する。
  国連の世界人権宣言の第2条、市民的及び政治的権利に関する国際規約(国際人権規約自由権規約)
 の第6条に明記され、国連の全加盟国において法的に強制できる権利となった。
  「人は全て、生まれながらにして生きる権利を有する。この権利は法によって守られるべきである。
 誰もこの権利をみだりに奪ってはならない」 -国際人権規約第6条1項-
  中絶反対を主張するプロライフの人々は、胎児(受精卵や妊娠初期のものも同様)が出生後に人が
 有するものと同じ根本的な権利を有する未出生の人であると主張する。一般的に言えば、これらの人
 人は中絶に強固に反対し、そのうち多くの人は安楽死に反対し、中には胚性幹細胞の研究に反対する
 人もいる。しかしながら、著名な生存権主張者の中には胚性幹細胞の研究を支持する者もいる(アメ
 リカ上院議員のオリン・ハッチ氏など)。
  ドイツ連邦共和国基本法では、人間の尊厳の原理が最高とみなされている(人間の尊厳の原理が生
 存権よりも上の存在と考えられている)。
  カトリック教会は家族の権利憲章を主張し、その中で生存権は人間の尊厳によって直接示唆される
 と謳っている。

   法的観点

  日本国憲法では、第25条1項において「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利
 を有する。」と定めている。生存権保障は、GHQ草案にはなかったが、社会政策学者出身の衆議院議
 員の森戸辰男による発案で、25条として盛り込んだ。
  1776年、アメリカ独立宣言は「生命、自由および幸福追求において」全ての人がある特定の排する
 ことのできない権利を有すると宣言した。
  1948年、国連総会によって採択された世界人権宣言は、第3条において「人は全て、生命、自由及び
 身体の安全に対する権利を有する」と謳っている。
  1950年、欧州評議会によって採択された欧州人権条約は、第2条において生存権を保障している。法
 の支配に則った処罰と防衛、逃亡中の容疑者の逮捕や暴動と謀反の抑圧がなされるように規定がなさ
 れた。この権利は国家の生存を脅かす緊急事態の場合の免責(第15条)であっても犯すことができな
 い。なお死刑については欧州人権条約第13議定書によって全面的に禁止されるに至る。
  1966年、国連総会によって採択された市民的及び政治的権利に関する国際規約(自由権規約)の第6
 条においても生存権は保障されている。この生存権は国民の生存の脅かす緊急事態の場合に認められ
 る違反(第6条)の状況であっても犯すことが許されない。この項目は欧州人権条約の影響を受けて制
 定された。

   社会権(ウィキペディアより)〔ほぼ原文通り〕

  社会権(しゃかいけん)とは、基本的人権の一つで、社会を生きていく上で人間が人間らしく生き
 るための権利。生存権、教育を受ける権利、労働基本権、社会保障の権利など基本的人権で保障され
 るこれらの権利を社会権と呼ぶ。ただし、国際人権規約の「市民的及び政治的権利に関する国際規約」
 においては生存権は非常事態時も違反を許されない自由権の一つとされている。
  他の基本的人権と比べて比較的新しいことから、20世紀的人権ともいわれる。その理由は、産業革
 命以前は「貧乏は個人の自己責任」という考え方であったが、資本主義の高度化によって構造化した
 貧困に対抗し、自由主義の理念である個人の尊厳を守るため、国家による富の再分配を肯定する考え
 方(リベラリズム)に変わった。結果、個人の生活を形式的にだけでなく実質的にも国家が保障しな
 ければならないという社会権(国家による自由)が登場した。1993年にウィーンで開催された世界人
 権会議では、『市民的、政治的権利』(自由権、ないし消極的自由)と『経済的、社会的、文化的権
 利』(社会権、ないし積極的自由)の伝統的な区分を批判し、『人権の普遍性、不可分性、相互依存
 性、相互関連性』を主張するウィーン宣言及び行動計画を採択した。
  日本では、日本国憲法において、三原則の一つである「基本的人権の尊重」として記述されている。
 ただし社会権の保障は、外国人が国籍を有する国の責務であるという前提の下、外国人の社会権はそ
 の享有主体性を否定する見解が通説である。 また、最高裁判所は、社会保障上の施策において在留外
 国人をどのように処遇するかについては、国は、(中略)その政治的判断によりこれを決定すること
 ができるのであり、(中略)自国民を在留外国人より優先的に扱うことも許されるべきことと解され
 る。(塩見訴訟・最判平元・3・2)と判示した。なお経済的、社会的及び文化的権利に関する国際規
 約の第2条では開発途上国に対しては外国人に関しての社会権の制約を認めている。

p.83 ・世の中が窮乏化すれば、今度は血も涙もない貧困ビジネスが活気づく。日常はうまくコーティング
    され、塗装され、やさしげなことばで包まれているけれども、ばあいによっては、実態はかつての
    タコ部屋時代よりもひどいのではないでしょうか。
     → 遵法的無道徳主義の横行。

p.85 ・これからは二五条だけではなく、連動してまちがいなく九条もますますないがしろにしていくでし
    ょう。たとえば、ODA(政府開発援助)のような予算が大きく削られていくなかで、自国民、自
    国中心になっていく。これは歴史的な恐慌時には確実にどこの国でもおちいっていく傾向です。同
    時にナショナリズムが起きて、九条的な不戦思想、非戦思想が薄まり、外側にたいして戦闘的にな
    っていく。それが怖い。だから、二五条という生存権、社会権の保障と九条という平和の保障には
    関係ないようでいて、じつは本質としては引きあう磁場というものがある。ぼくはそれを基本的に
    同じものだとおもっているし、そうでなければいけないとおもうのです。

   政府開発援助(ウィキペディアより)〔ほぼ原文通り〕

  政府開発援助(せいふかいはつえんじょ、英語:Official Development Assistance, 略称:ODA)
 とは、発展途上国の経済発展や福祉の向上のために先進工業国の政府及び政府機関が発展途上国に対
 して行う援助や出資のこと。

   ODAのはじまり

  世界恐慌によって進んだブロック経済による長引く不況や、第二次世界大戦によって混乱した世界
 経済の安定のため、1944年にブレトン・ウッズ体制(IMF体制)が確立した。そして、1945年12月、戦
 後の世界の復興と開発のため、国際通貨基金 (IMF) と国際復興開発銀行(IBRD、通称「世界銀行」)
 が設立される。1947年6月には、欧州復興計画(マーシャル・プラン)の構想が発表される。アメリカ
 の支援によって、ヨーロッパは目覚しい復興を果たす。
  オリヴァー・フランクスによって指摘された、先進国と発展途上国の間にある大きな経済格差の問
 題(南北問題)を発端に、途上国支援のために1960年に国際開発協会(IDA、通称は第二世銀)、1961
 年に開発援助委員会 (DAC) と立て続けに支援体制が整っていく。1961年、アメリカのケネディ大統領
 が国連総会演説で、先進国の国民所得の1%の移転と途上国の年率5%の成長を目標とした「開発の10年」
 を提唱する。

   世界のODAの概況

  DAC(開発援助委員会)諸国によるODAの実施状況を純額ベースでみると、長らくアメリカが世界の1
 位であったが、冷戦の終結を背景に、1989年に日本がアメリカを追い抜き、その後も1990年を除き、
 2000年までの10年間、世界最大の援助国となった。しかし、2001年には再びアメリカが首位に立ち、
 2006年にはイギリスが第2位となり、2007年には、ドイツが第3位、フランスが第4位となり、日本は20
 09年まで第5位の位置にある。この間、日本はODAの予算を削減し続けたが、欧米諸国は「貧困がテロ
 の温床になっている」との認識に基づき、ODAの予算を増額させてきている。
  ただし、単純にODAの純額だけをもって国際社会への貢献が評価されるわけではない。世界開発セン
 ター(CGD)のコミットメント指数では、ODAの対GNI比率に力点が置かれている。この対GNI比率でみ
 ると、2009年の第1位はスウェーデンで1.12%。日本は0.18%で第21位である。日本は純額ベースで世
 界第1位であった頃も、対GNI比ではDAC諸国の平均値を下回っていた。OECDによる国際目標では、各国
 ともGNI比で0.7%の数値が掲げられている。

   日本のODAの概要

   二国間援助

  先進国側が直接、発展途上国に有償、無償の資金などを援助する。
  有償資金協力は、グラント・エレメント(贈与要素)が25%以上であるものと定義付けられている
 (グラント・エレメントとは、借款条件の緩やかさを示す指数。金利が低く、融資期間が長いほど、
 グラント・エレメントは高くなる。それだけ受け入れ国にとって負担は少なくなる。贈与の場合、100
 %となる)。また円で貸し付けられるため、円借款などと新聞やテレビで報道されることもある。中国
 などの、ある程度発展している国に対して行われる。
無償資金協力は、援助相手国に返済の義務が無い。
技術協力は、人材育成と技術移転など将来の国の根幹となる労働力作りが目的とされている。研修
 員受け入れ、専門家派遣、開発調査、最新機材の供与などがされている。研修員の受け入れが最も多
 い。
「円借款等の有償資金協力」、「一部の無償資金協力」、「技術協力」を担当する機関は国際協力
 機構(JICA) である。
日本が2国間援助の累積総額で1番援助している国は中国であり、2007年度末までに、円借款:約3兆
 3,165億円、無償資金協力:約1,510億円、技術協力:約1,638億円の資金援助を行っており、2007年度
 までに日本は中国に多国間援助と合わせて約6兆円のODAを行っていることになる。このような日本の
 ODAに対して、中国の要人は感謝の意を表している。中国の経済急速発展を理由に、日本政府は対中ODA
 のうち有償資金協力(円借款)に限り2008年の北京五輪を境に打ち切った。2010年12月18日、政府・
 与党内にて対中政府開発援助に厳しい声が上がっている中、中国大使の丹羽宇一郎は中国への政府開
 発援助を増額するよう外務省本省に意見具申していたことが判明した。その理由の1つとして、丹羽は
 「対中ODAを打ち切ると、中国側の批判を受けることになる」と外務省に「警告」したとされる。なお
 2003年度末における円借款に対する償還額は元利計で約9,401億円。

   多国援助

  日本は国際連合世界食糧計画 (WFP) 、国際連合開発計画 (UNDP) 、国際連合児童基金 (UNICEF) 、
 世界銀行 (IBRD) 、アジア開発銀行 (ADB) などの国際機関に資金を拠出して、多国間援助を行ってい
 る。  
  特にアジア開発銀行に対する日本の出資比率は15.7%で米国と並んで首位であり、歴代総裁は日本の
 財務官僚が就任している。このうち日本は1986年から2007年度までの間に2兆3,000億円のアジア開発銀
 行経由の対中資金援助を行っており、対中円借款が終了した2008年以降はそれを埋め合わせるように
 対中資金援助が増額している。2008年から2011年までの間に5,000億円のアジア開発銀行経由の対中資
 金援助が決定している。

   政府開発援助大綱(ODA大綱)

  ODA大綱とは、政府開発援助(ODA)に関する基本理念や重点事項などを集大成したものである。
  1992年、閣議によって決定された。2003年8月に、現在の大綱に改定される。

   援助実施の原則

  ODAが貧困な発展途上国であれば、どの国にでも援助できるかといえばそうではない。
  援助の選定となる基準と呼ぶべき4原則がある。
  国際連合憲章の諸原則(特に、主権、平等及び内政不干渉)及び以下の諸点を踏まえ、開発途上国
 の援助需要、経済社会状況、2国間関係などを総合的に判断の上、ODAを実施するものとする。

   1.環境と開発を両立させる。
   2.軍事的用途及び国際紛争助長への使用を回避する。
   3.テロや大量破壊兵器の拡散を防止するなど国際平和と安定を維持・強化するとともに、開発途上
    国はその国内資源を自国の経済社会開発のために適正かつ優先的に配分すべきであるとの観点か
    ら、開発途上国の軍事支出、大量破壊兵器・ミサイルの開発・製造、武器の輸出入などの動向に
    十分注意を払う。
   4.開発途上国における民主化の促進、市場経済導入の努力並びに基本的人権及び自由の保障状況に
    十分注意を払う。
                  (以上、外務省のサイト『政府開発援助大綱』から)

   日本のODAの変遷

   戦後復興時代

  日本は敗戦後の1946年から1951年の間に、アメリカの「占領地域救済政府資金」 (GARIOA) と「占
 領地域経済復興資金」 (EROA) から約50億ドルのODAを受けた。カナダ、メキシコ、チリ、ブラジル、
 アルゼンチン、ペルーなどからも生活物資や食料などが援助された。1953年には、世界銀行から多国
 間援助である有償資金を使用し、東海道新幹線、東名高速道路、黒部川第四発電所などを建設(1990
 年に完済)。こういった経験から現在の日本の政策が、ダム建設などのインフラ整備に重点を置いて
 いるとも言われる。

   ODA拠出側へ

日本からODAを拠出したのは、1954年にビルマと結んだ「日本・ビルマ平和条約及び賠償・経済協力
 協定」での賠償供与が初めてである。その後、フィリピン、インドネシアと経済協力は続いていくが、
 初期の日本のODAは戦後賠償としての意味合いが強かった。

1960年代の高度経済成長期に入ってから、徐々に現在のODAの体系に近づき、拠出額も増大していく。
1961年アメリカによって主導的に設立された開発援助委員会 (DAC) に、1963年参加する。
1964年には経済協力開発機構 (OECD) に加盟。
1974年には国際協力事業団 (JICA) が設立される。
1992年、ODA大綱が閣議決定される。
2000年の国連ミレニアム・サミットが、極度の貧困・飢餓の撲滅を目指し、1日1ドル未満で暮らす人々
   の数を2015年までに半減させることを約束した。
2000年のODA拠出額は、約135億ドルで日本は世界第1位の拠出額であった。この頃は毎年1兆円あまりを
   様々な国に供与していた。
2007年のODA拠出額は、約77億ドル(約7,800億円)であり、これは金額ベースにおいて、アメリカ、
   ドイツ、フランス、イギリスに続き、5位である。ただし、日本は国民総所得(GNI)の母体自体が大
   きいため、ODA拠出額がGNIに占める比率での国別比較では更に低い順位にある。

   日本がODA拠出大国になった理由

  日本がODA大国となった理由として、以下の事由が挙げられる。
  日本企業の海外進出を円滑にし対象国に対する市場開拓をするため。途上国のインフラ整備を進め
 ることは、市場開拓がしやすくなるなど、日本企業にとっても利益が大きいため、財界の賛同を背景
 に、赤字財政の中でもODA予算を増加させることができたと考えられる。
軍事的貢献に代わる貢献策。日本が軍事的な国際貢献をできないことや、巨額の対米貿易黒字を貯
 め込んでいることへのアメリカ世論の批判をかわすため、軍事力に代わる国際貢献の手段としてODAに
 傾倒してきたと考えられる。
対外的に行使する軍事力や情報発信能力が相対的に弱小で国際的影響力を発揮しにくい日本にとっ
 て、外国政府に対する影響を及ぼすための重要なツールとしてODAがその役割を担ったと考えられる。

   日本のODAの特色と昨今の傾向

 日本のODAの特徴としては、以下の点が挙げられる。

   贈与比率の低さ

  日本のODAは、贈与ではなく、被支援国が返済を要する円借款の比率が高い。これは、日本がODAの
 被支援国から支援国へと移行していくに際し、贈与を行うだけの財源がなかったことに加え、ハード
 インフラの整備へ向けた低利融資によって日本の輸出市場を拡大していくという政策目的も背景にあ
 ったとされる。また有償の円借款協力は「借りたものは必ず返す」という意味で、日本の援助哲学で
 もある「自助努力」を促すことになり、途上国の自立の精神を涵養するという一面を持っている。欧
 米の原則無償の援助は、「人道」を前面に出しているものの、往々にして依存心を産んで、自立の精
 神を阻んでいるとも指摘されている。

   ハード支援比率の高さ

  日本のODAは、道路、橋、鉄道、発電所などのハードインフラ整備の占める割合が大きい。多くの
 日本人がODAと聞いて連想するのもこういった支援形態である。このようなハードインフラ整備を巡っ
 ては、多額の受注費を巡って政治家と日系企業が癒着し、仲介業者が不当に多額の報酬を取得してい
 るとの指摘がある。ただ、昨今では、請負企業を日系企業に限定するタイド(いわゆる紐付き援助)
 案件の割合は大幅に低下し、2001年時点で20%を下回っている上、日系企業の受注率も低下しているの    
 が実情である。また、ハードインフラの整備自体は、被援助国の経済発展とそれに伴う貧困削減のた
 めに重要とされ、世界銀行や開発援助委員会(DAC:Development Assistance committee)もこういっ
 たハードインフラ整備支援という手法を評価している。
  一方、昨今では、人材育成や法・制度構築などを中心にソフト面での支援に力を注いでいく考え方
 が強まっている。これは、ハードインフラに偏向しているとの批判を交わすという側面もあるものの、
 政府レベルではなく、各個人レベルに確実に援助を届けようという「人間の安全保障」や、被援助国
 に民主主義、法の支配、政府の透明性などが存在しなければ、経済成長、貧困削減なども十分に達成
 されないという「良い統治(good governance)」といった国際的な援助理念の登場も背景にある。ソ
 フトインフラ整備支援の代表例としては、経済発展や民主主義の基盤となる基本法や経済法の起草支
 援、裁判所などでの法の運用・執行に関する支援を行う法整備支援が挙げられる。近年日本に限らず、
 世界各国が法整備支援に力を注いでおり、アジアでは韓国も支援側に加わろうとしている。

   アジア中心

  日本のODAは、アジアに対するものが大きい。日本に限らず、どの援助国も、歴史的、地理的、経済
 的な理由で、援助対象国の地域的な偏りが見られ、日本の場合はアジアがそれに該当する。また、日
 本のODAが、アジアに対する戦後賠償に端を発しているという特殊要因も挙げられる。
  昨今のアジアは、世界経済の牽引役と言われるほどに経済発展を遂げつつあるが、その要因として
 は、アジア各国の勤労意欲、文化などに加え、日本のODAによる経済インフラ整備も挙げられる。また、
 未だ貧困率の高いアフリカに対し、日本のアジアでの援助経験を活用していこうという考え方も強ま
 っている。

   日本のODAの問題点

   日本のODAの問題点として、以下の点がしばしば指摘される。

   債務免除について

  毎年発展途上国の債務を免除し続けている事について、日本の国益を損ねているとの指摘されてい
 る。また外交上、踏み倒せばよいと思われてしまう可能性がある。

   タイド援助

  タイド援助とは、援助国がインフラ整備などの開発プロジェクトなどのODA事業に関して、資材の調
 達先や服務などの工事事業を日本企業に限定することである。「ひも付き援助」とも言う。事業を請
 け負う企業(商社・ゼネコン等)と政治家の癒着が問題視されてきた。1970年代頃、援助される国に
 はインフラなどが整備されるだけで、援助国(請負企業)の一方的な利益追求によって事業が推進さ
 れる恐れがあると懸念されていた。いずれも正常なコスト意識がないので、取引そのものが非常に利
 益率が高く設定され、仲介する個人・業者がいくらでもコミッションを取れる構造で政商、黒幕と呼
 ばれる人物や政治家が私腹を肥やしてきており、それを税金で大盤振る舞いしているとの見方もあっ
 た。 こういった批判を受け、1980年代以降、資材の調達先や工事事業の受注先などを特定しないアン
 タイド援助が増加していった。現在では、90%後半がアンタイド援助である。日本企業の受注率も、
 1993年には29%と減少続けている。
  ただ、日本のゼネコンや地元の政治家が私腹を肥やす目的でODAによって不必要な施設が作られ、そ
 れによって住民が援助ではなく被害を受ける事例が現在でもあるという意見もある。2002年にはイン
 ドネシアのコトパンジャンダムの建設によって住処を奪われた住民らが、その正当性を巡って受注し
 たゼネコンと日本政府・JBIC・JICAを東京地裁に提訴するに至り、大きなニュースとなった。 一方、
 コトバンジャンダムなどODAを巡る批判的報道には、必ずしも事実関係を正確に伝えていなかったり、
 公平性に欠けるものがあるとの指摘もある。

   中国などの非民主的国家に対する供与

  中国やミャンマーなどの非民主的国家に対するODAは、大綱の「開発途上国における民主化の促進、
 基本的人権及び自由の保障状況に十分注意を払う。」という項目に違反しているという批判がある。
  対中国へのODAは約3兆円と公表されていることがあるが、それは外務省関係の公的な援助額の数字
 であり、財務省など日本の他機関の援助額を総額すると、6兆円を上回る額となり批判がある。

   不正流用問題

  ODAの委託費を巡る不正流用問題も発覚している。大阪市立環境科学研究所(大阪市天王寺区)に
 於いて、ODAによる開発途上国からの技術研修員受け入れ事業を巡り、2000-2003年の間に委託費274万
 円を不正流用していたことが判明している。また、同研究所が、不正流用に関わった職員に対して、
 厳重注意処分に留め、流用分の返還請求も行っていないことが、問題を大きくしている(ウィキニュ
 ース短信より)。

   ベトナムでの橋梁桁崩落事故

  2007年9月26日、ベトナム南部のビンロン(Vinh Long)省で、日本の政府開発援助(ODA)約248億
 円をかけて建設中の橋(カントー橋) が崩落し、作業員など少なくとも52人が死亡、100人以上が負
 傷する事故があったが、日本国内ではほとんど報道されなかった。これに対して木村外務副大臣が現
 地を視察、被害者に遺憾の意を示している。 日本人に犠牲者はなく、遺族には各75万円、重傷者に各
 57万円の一時金が支払われる事となった。

   その他

ODA供与先は、日本との間で、貿易・直接投資(企業の海外進出)の関連が密接な東アジア、東南アジ
 アの諸国に偏っており、貧困削減の目的を掲げながら、LLDC(最貧国)の多いアフリカ諸国に対する
 援助額が未だ少ない。ただし、日本に限らず、各援助国は、歴史的、地理的、経済的な理由によって
 援助対象国の地域的偏りが見られるのも事実である。
前年度の予算を基本として引き継がれている傾向が強く、ODAの予算の決め方が流動的ではない。
財務省や厚生労働省など、本来外交とは関係が薄い省庁なども関与している。
ODAによる活動、及び、それによって建てられた建造物などは世界に多数存在するが、それらがODA
 によるものだと知る者はODAをする側の国民、される側の国民、共に多くなく、正しい認識がなされて
 いない。とりわけ中国に対しては長年多額の援助をしているにも関わらず、国民にはそれらが殆ど知
 らされず、逆に反日的な教育を行う事で中国国民の日本への憎悪ばかりが高まっていった。一方で日
 本でもこれら中国の実態が知られるにつれ、外交上対立する事柄の多い中国への援助でなく、日本国
 内のために予算を使ってほしいとしてODA予算削減の声がを高まっている。このように、国内・外問わ
 ず、ODAの正しい評価がなされずにいることが多いのが実情である。
ODAによりインフラの整備を行っても、それを維持管理していくための人材や設備が現地になく、や
 がて使い物にならなくなってしまう例が見られる。

   東日本大震災以後のODAに対する評価

  東日本大震災において、日本は先進国のみならず、開発途上国も含めた世界各国から多大な支援を
 受けた。このことは、これまでの日本のODAの成果として受け止められ、ODAに対する肯定的な見直し・
 評価へとつながり、2011年10月28日に発足した国家戦略会議でも、閣僚及び民間議員の双方からODAの
 重要性が指摘された[21]。同会議を踏まえて2011年12月24日に閣議決定された「日本再生の基本戦略」
 は、当面重点的に取り組む施策として、「ODA の戦略的・効果的な活用」を掲げ、具体的にも「強靭
 なインフラの整備」「途上国等の経済を支える人材の育成」「基礎教育支援を通じた人材基盤の拡大」
 「保健・医療・衛生の改善」「我が国の技術をいかした途上国の防災対策支援」「農業・食料分野で
 の支援等」「インクルーシブな成長の基礎となる法制度整備支援の推進」を明示した。ただ、「日本
 再生の基本戦略」は、成長著しいアジアの活力取込みという観点から、アジアを中心とした海外展開
 を想定しているが、国家戦略会議の議員でもある緒方貞子JICA理事長は、アジアからアフリカへシフ
 トしていく方針を同会議内で説明しており、「日本再生の基本戦略」の方針と一致していない。

 今日は、これくらいに留めておきましょう。だいぶ以前に、日本のODAの実態を伝えるTV番組(民放)
を観たことがありますが、そのとき以来ODAを意識し始めたことを覚えています。もちろん、生存権や社
会権については、はるかそれ以前に知識としては持っていたのですが、何か他人事の感覚でした。思うに、
それは小生が恵まれた境遇にいたからであって、もし明日の衣食住の心配をしなければいけない立場でした
ら、もっと違った見方をしていたと思います。現在は、人間の来し方行く末を見詰めていく意味でも、これ
らの事柄は大事なことの最たるものと看做しております。

                                                 
 2013年5月17日(金)

 本日は、再び『しのびよる破局 生体の悲鳴が聞こえるか』(辺見庸 著、角川文庫、2010年)に言及しま
す。第三章の「価値が顛倒した世界」のつづきを転載してみましょう。原文の引用、あるいは、その要約な
どです。


 第三章 価値が顛倒した世界(つづき)

p.72 ・カジノ資本主義への自省
    アメリカ型の金融資本主義のなかで「勝ち残り競争をすること」が活気ある社会である、という判
    断を疑え。
    ハイリスク・ハイリターンは、果して正しいのか。

p.73 ・アメリカ型の金融資本主義は宿命的にカジノ化し、「適者生存」や「優勝劣敗」の考えが正しいか
    のような時流ができた。
   ・揮発する問いかけ。

p.74 ・至上のシステム、最高のテクノロジーが、最悪の世界を刻々と分泌し、生成しつつある。
   ・悪はいま悪相ではなく、かならずといってよいほどやさしげな善面をしています。
    悪はその痕跡と意識を消し、つまり犯意を無化して「善」を標榜し、人という宿主にとりついてい
    る。悪はいま変身し、こまかに分裂し、転移して、「善化」している。

p.74-75 ・一方の貨幣価値が上がると他方の貨幣価値が下がり、取引の儲けがかならず地方の損からなりた
     つようなシステムは、法的犯罪ではなくても、不可視の、そうであるがゆえの深い悪の汁を分泌
     しているとぼくはおもいます。ただ、腐臭をそれとして感じる感官がだめになってきたのではな
     いでしょうか。

p.75 ・秋葉原事件というものを、パンデミックの時代を生きざるをえないわれわれ人間の、痙攣のような
    発作のような、ひとつの生体反応としてぼくは試みにとらえてみるわけです。
   ・派遣労働者を大量に解雇しながら、CMには何億円も注ぎ込む。しかも、それが当然のことによう
    におこなわれている。

p.76 ・理不尽に人のクビを切るということは、ある種の暴力に似た非人間的な行為である。
   ・人を大切にするという雇用関係のあるべき姿が退けられて、モノを売るほうのみが優先される。
   ・大企業優先の価値の顛倒した世界。

p.77 ・大量自殺という「内攻的な暴力」
    労働力の自由化と称して、人間をうまいかたちでモノのように使い捨て、資本主義の調整弁として
    使って来た。それに慣れてはいけない。
   ・2008年の金融恐慌は、必然の結果である。先見の明がないから、こういった失敗を何度も繰り返す。


   リーマン・ショック(Lehman Shock)〔ウィキペディアより。ほぼ原文通り〕

  リーマン・ショックとは、2008年9月15日に、アメリカ合衆国の投資銀行であるリーマン・ブラザー
 ズが破綻した出来事を、これが世界的金融危機(世界同時不況)の大きな引き金となったことに照ら
 して呼ぶ表現。リーマン・クライシス(Lehman Crisis)、リーマン不況ともいう。
  それに続く金融危機や不況なども含めて意味する表現としてよく使われる。

   概要

  2007年のサブプライムローン(サブプライム住宅ローン危機)問題に端を発した米国バブル崩壊を
 動機に(サブプライムローンという債権をあたかも資本と思い込ませた借金の転売による多重債務)、
 多分野の資産価格の暴落が起こっていた。リーマン・ブラザーズも例外ではなく多大な損失を抱えて
 おり、2008年9月15日(月)に、リーマン・ブラザーズは連邦破産法第11章の適用を連邦裁判所に申請
 するに至る。この申請により、リーマン・ブラザーズが発行している社債や投信を保有している企業
 への影響、取引先への波及と連鎖などの恐れ、及びそれに対する議会政府の対策の遅れからアメリカ
 経済に対する不安が広がり、世界的な金融危機へと連鎖した。日経平均株価も大暴落を起こし、9月12
 日(金)の終値は12,214円だったが、10月28日には一時は6,000円台(6,994.90円)まで下落し、1982
 年10月以来26年ぶりの安値を記録した。

   破綻とリーマン・ショック

  負債総額、約6,000億ドル(約64兆円)という史上最大の倒産劇へと至り、「リーマン・ショック」、
 「リーマン・クライシス」として世界的な金融危機を招いた。
  アメリカ合衆国財務省や連邦準備制度理事会(FRB)の仲介の下でHSBCホールディングスなど複数の
 金融機関と売却の交渉を行っていた。日本のメガバンク数行も参加したが、後の報道であまりに巨額
 で不透明な損失が見込まれるため見送ったと言われている。最終的に残ったのはバンク・オブ・アメ
 リカ、メリルリンチ、バークレイズであったが、アメリカ政府が公的資金の注入を拒否していたこと
 から交渉不調に終わった。しかし交渉以前に、損失拡大に苦しむメリルリンチはバンク・オブ・アメ
 リカへの買収打診が内々に決定され、バークレイズも巨額の損失を抱え、すでにリーマン・ブラザー
 ズを買収する余力などどこも存在していなかった。リーマン・ショックの経緯についてはアンドリュ
 ー・ロス・ソーキン著の「リーマン・ショック・コンフィデンシャル」に詳細に説明されいる。
  日本は長引く不景気からサブプライムローン関連債権などにはあまり手を出していなかったため、
 金融会社では大和生命保険が倒産したものの直接的な影響は当初は軽微であった。しかし、リーマン・
 ショックを境に世界的な経済の冷え込みから消費の落ち込み、金融不安で各種通貨から急速なドル安
 が進み、米国市場への依存が強い輸出産業から大きなダメージが広がり、結果的に日本経済の大幅な
 景気後退へも繋がっていった。


   サブプライムローン(ウィキペディアより。ほぼ原文通り)

  サブプライムローン(米:subprime lending/subprime mortgage)とは、主にアメリカ合衆国にお
 いて貸し付けられるローンのうち、サブプライム層(優良客(プライム層)よりも下位の層)向けと
 して位置付けられるローン商品をいう。
  通常の住宅ローンの審査には通らないような信用度の低い人向けのローンである。狭義には、住宅
 を担保とする住宅ローンを対象とするが、広義には、自動車担保など住宅以外を担保とするものを含
 む。一般的に他のローンと比べて債務履行の信頼度が低く、利率が高く設定される。
  これらのローン債権は証券化され、世界各国の投資家へ販売されたが、米国において2001 - 2006年
 ごろまで続いた住宅価格の上昇を背景に、格付け企業がこれらの証券に高い評価を与えていた。また、
 この証券は他の金融商品などと組み合わされ世界中に販売されていた。
  しかし、2007年夏ごろから住宅価格が下落し始め、返済延滞率が上昇し、住宅バブル崩壊へと至る
 (サブプライム住宅ローン危機)。これと共にサブプライムローンに関わる債権が組み込まれた金融
 商品の信用保証までも信用を失い、市場では投げ売りが相次いだ。この波紋から2008年終盤にはリー
 マン・ブラザーズ倒産によるリーマン・ショックなどが引き起こされ、高い信用力を持っていたAIG、
 ファニーメイやフレディマックが国有化される事態にまで至った。その後も幾度もの大幅な世界同時
 株安が起こった。この事から世界中の金融機関で信用収縮の連鎖がおこり、CDSと並び、世界金融危機
  (2007年-)発生の種をまいた。

   概要

  サブプライム

  次の基準を満たすものに割り増し利息を付けて融資する

所得に対する借り入れが50パーセント以上
過去1年間に30日間の延滞が2回以上あった
過去5年以内に破産したもの

   内容

  サブプライム・モーゲージ(subprime mortgage)ともいい、通常は住宅ローン担保証券(RMBSもし
 くはMBS)の形で証券化され、さらにそれらが債務担保証券(CDO)の形に再証券化されて、金融商品
 として投資家に販売される。RMBSやCDOは格付け機関により格付けされており、市場で取引される。つ
 まり、不動産ローンの債権そのものを証券化し、金融機関や投資家の間で取引されたことになる。こ
 のことによって、ローン契約した債務者の弁済先は銀行から金融機関や投資家へ移ることになる。
  住宅ローンの実施にあたっては、債務者の信用力を数値化したFICO信用点数が用いられる。充分な
 信用力を有している顧客に対しては、比較的低利のプライムローンが提供されるが、所定の基準を満
 たさない顧客に対する貸付に際してより高い利率が要求される。この様な貸付を総称し、サブプライ
 ム(sub- 下に prime- 優れた → 信用度の低い)ローンと呼ぶ。サブプライムローンにおける債務
 者の特徴として、典型的には債務者の所得水準が低い場合が主だが、所得は高いもののクレジットや
 ローンの利用実績が乏しかったり無い場合もこれに該当する。また、信用力を超えた借入を行って不
 動産投資を行う場合などにも、同様にサブプライムローンが利用されている。
  一般的な特徴としては、貸付利率がプライムローンに比べて高くなり、貸付者が取る信用リスクも
 高くなる。このため、債務者が弁済を容易とするために特別なアレンジが施されたり、貸付を行う側
 としては、貸付リスクの分散が通常の住宅ローンよりも重視されることとなる。ただ、債務者の支払
 が不能になる可能性は充分にあるため、担保となる対象不動産の価値に重点が置かれる。
  サブプライムローンの貸付残高は拡大したが、債務者の信用水準が一定基準を満たさない者に集中
 しているという本質的な特質から、返済の遅延・不能、および波及的効果としての信用の収縮など、
 以下のような問題点が表面化している。

   米国における抵当危機

   背景

  サブプライムローンに限らず、アメリカにおいて、住宅ローンの返済方法として、当初数年間の金
 利を抑えたり、当初数年間は支払を金利に留めるなど、当初の返済負担を軽減したものが普及し、そ
 のため債務者が自分の返済能力を超えた借入を行うことが可能となり、そのような貸付が増加してい
 た。極端なケースでは当初支払を、利子を下回る金額に抑えるものもあり、この場合には元本そのも
 のが増えていく。
  本質的には通常の住宅ローンよりも債務不履行のリスクが高い構造を有するが、住宅の価格が上昇
 している場面においては、返済の破綻は必ずしも表面化しなかった。債務者の所得が上昇せず、生活
 費が上昇して本来であれば返済に行き詰まる状況であっても、住宅価格が上がっている場合には、債
 務者は住宅価格の値上がり分について、担保余力が拡大することから、その部分を担保に、新たな追
 加借入を受けることができた(ホームエクイティローン)。これにより破綻を先延ばしするだけでな
 く、消費を拡大することもできた。
  また、住宅価格が大きく上昇すれば、当該住宅を転売してローンを返済したうえに、差益も得るこ
 とも可能であった。当初負担の軽い返済方式の普及とも相まって、所得からすれば本来、住宅ローン
 を組めない人にまでローンを組む人が増えて、住宅ブームが拡大する間は破綻が表面化せず、むしろ
 住宅ブームを加速した。これは日本のバブルにおける住宅すごろくと類似している。

   過熱

  このように当初の支払額を軽減した返済方式は、当初期間経過後、支払額が急増するというリスク
 がある。
  以下は参考のため日本における住宅購入に、サブプライムローンを適用したと仮定して説明する。
 3千万円の住宅の購入に当たり、頭金なしで全額を年利6%で借り入れたとすると、通常の30年ローン
 では月々の返済は17万9,900円ほどになる。例えば、月収40万円の家庭では到底この金額を毎月支払
 えないので、ローンの審査を通すために無理やり最初の3年間は月々の支払いを10万円に抑えると、
 大雑把に言って差額の7万9,900円はローン残高に組み込まれる(支払い1回目)。支払い2回目は、元
 元の元金の3千万円に加えて初回支払い時に未払いの7万9,900円が加わり、通常のローンなら支払うべ
 き元利合計は18万500円余りであるが、10万円しか払わないので、差額の8万500円がまたローン残高に
 加わる。3回目の支払い時には8万1200円ほどが加わる。こうして利息分にも満たない月々の支払いを
 続けるとローン残高は減少するどころか複利的に増加し、3年後の通常の支払い開始時には残高はロー
 ン開始時より300万円以上増加しており、毎月支払わねばならないローン返済金額は「突然」20万円以
 上に跳ね上がる。
  所得の確実な増加が見込めるならば、住宅価格の上昇を前提とせずにこのようなローンを組むのも
 合理的と言えるが、所得が伸びない低所得階層には全く不向きである。ところが住宅ブームを背景と
 し、また、高利回りの債券の開発の要請や、証券化する債権の需要から顧客の開拓が進められ、米国
 へ移住して間もないクレジットヒストリーの無い外国人や、クレジットヒストリーの瑕疵(かし)か
 らプライムローンの対象にならない顧客にも積極的に貸し付けるようになり、さらには住宅価格の上
 昇を前提として低所得階層にまで半ば強引な貸付が行われ、サブプライムローンが拡大していった。
 低所得者層に充分な説明が行われないまま契約を行ったり、複雑な説明をして契約を行った例がある。
 中には当然プライムローンの対象となる優良な顧客に対してサブプライムローンを貸し付け、より高
 い利息の収益を図った例もある。
  一方で、利息が低い期間の間に住宅価格が充分に上昇すれば、支払った利息を超える差額を手にし
 て転売することが出来る。或いは支払いを着実に行ってクレジットヒストリーを蓄積することで、よ
 り利率の低いプライムローンへの借り換えも考えられる。
  しかし、サブプライムローンの行き過ぎは1990年代後半頃から問題視されるようになり、同時に住
 宅バブルが指摘されるようになる。このような行き過ぎの中で、低所得階層に過重な手数料を求めた
 り、あるいは低所得階層の顧客が結局返済できずに物件を差し押さえられ住宅を失ったりといった問
 題が生み出された。この問題は略奪的貸付(predatory lending)として知られる。かつてアメリカで
 は、貧しい黒人居住地域を金融機関が融資上差別したことが、レッドライニングと呼ばれる社会問題
 を生み出したが、住宅ブームの中で、むしろ貸し過ぎが問題にされるようになった。なお、この略奪
 的貸付については、低所得階層が貸し込み先になっているという点で、日本における消費者金融の多
 重債務問題や、バブル経済崩壊後に目先の収益獲得に追われた金融機関による、中小・零細企業から
 の貸し剥がしと性格が似ているという指摘がある。
  もともとアメリカの住宅ローンでは、融資する側では金融機関による融資とローン債権の流動化が
 ローンの拡大を支えていた。しかし、ローン債権の流動化が信用力の劣るサブプライムローンにまで
 及んでしまった事により、さらにサブプライムローンの拡大を下支えする結果となってしまった。

   延滞の増加・信用の収縮

  しかし、住宅価格上昇率が2006年に入って以降急速に鈍化すると、予測されたことだが、サブプラ
 イムローンの延滞率が目立って上昇を始めた。2006年末に住宅ローン全体の約13パーセントを占める
 サブプライムローンにおいて利払いが3ヶ月以上滞る延滞率が13パーセントを超えた。担保住宅処分
 後により8割は回収できるとされるが、その想定が甘いとの指摘もある。また、サブプライムローン
 を借りて、差し押さえになった世帯の10 - 20パーセントは、頭金がなしで、元金を一度も払ったこ
 とがないという点と、差し押さえまで最短でも1年かかる点を合わせて、1年間は当該住宅にただで住
 めたことになるという指摘もある。
  債務者の延滞が顕著となってくると、次は、サブプライムローンの貸し手である融資専門会社に対
 する融資に金融機関が慎重になり、専門会社の中には資金繰りが悪化して経営破綻する例が出始めた。
 大手金融機関では貸倒引当金を増やさざるを得ず、利益を圧迫する結果になっている。
  2007年3月13日に大手のニュー・センチュリー・ファイナンシャルの経営破綻が懸念されるとしてNYSE
 での取引が停止され、上場廃止が決まった。3月20日までに連邦倒産法第11章に基づく資産保全を申請
 した会社は4社、業務停止は20社以上となった。その後、ニュー・センチュリーは4月2日に連邦倒産法
 第11章の適用を申請した。
  サブプライムローンは金融工学を活用してリスクを分散させるために、貸付債権として証券化・分
 割され、複数の金融商品に組み入れられた。サブプライムローンは高率の返済利息に裏づけられた高
 利率を期待できる貸付債権であった。一方で、本質的に高いリスクを内包するサブプライムローンを
 証券化、細分化して、他の安全な証券と組み合わせて金融商品を構成することで、リスクを制御・抑
 制することが出来ると考えられた。そもそもハイリスク・ハイリターン金融商品には高い利回りがつ
 くが、サブプライム証券の場合はローリスク・ハイリターンのように見せかけている。
  さらに金融商品については、必ずしも構成要素にサブプライムローンが含まれていることを明示し
 ていないものがあった。また、サブプライムローンを組み入れているものであっても、大数の法則・
 担保の提供によりリスクが軽減されていると考えられた。しかし、実際にサブプライムローンの延滞
 率が上昇してくると、全ての物件が同じような価格動向を示す等、従前の想定と異なる状況を呈して、
 必ずしも当初の目論見どおりにリスクがヘッジされなくなった。その結果、金融商品自体が想定され
 た利回りを下回ったり、元本自体の返済が不能となったりする例が浮上してきている。
  こうして、サブプライムローンの信用リスクの顕在化は、この債権を組み込んだ金融商品そのもの
 の信用リスクに波及した。
  2007年6月22日には、米大手証券ベアスターンズ傘下のヘッジファンドが、サブプライムローンに関
 連した運用に失敗したことが明らかになり、問題は金融市場全体に拡大した。ファンドの中には、資
 金繰りが悪化して資金の引出を停止したり、解散を決めたりするものが相次いだ。ファンドは大手金
 融機関から多額の融資を受けており、問題の拡大が懸念された。ヘッジファンドは、高い利回りを求
 めて、住宅ローン担保証券の中でもリスクの高いエクイティ債や、エクイティ債を組み込んだ債務担
 保証券に好んで投資してきた。それらの債務担保証券には格付け機関が信用保証をしていたために、
 世界の金融機関もそれらの証券を購入していた。
  しかし、7月10日には米格付け機関のムーディーズが、サブプライムローンを組み込んだ住宅ローン
 担保証券RMBSの大量格下げを発表した。この結果、投資家がリスクマネーの供給に慎重になるなど、
 心理的影響の波及も懸念されている。さらに、この格下げのタイミングが後手に回ったとして、格付
 け機関自体の信用度を疑問視して規制しようとする意見も出ている。
  また、サブプライムローンに関する問題は、いわゆる優良な顧客としての、通常の債務者を対象と
 する住宅ローンなどの貸付に関する貸付の縮小の動きにも繋がっていることから、限定された債務者
 に対する貸付の問題のみならず、より広く融資・信用供与のシステム全体における動揺をもたらしか
 ねないとする懸念が起こっている。

   個人向け貸し付けへの影響

  住宅ローンの返済遅延等の増加や、住宅価格の低下により、キャッシングの利用増加及び、貸し倒
 れが増加している。詳細は消費者金融のサブプライム問題の影響を参照。
  また、高金利のペイデイローンの利用者が増加している。

   金融政策的対応

  サブプライムローンに関する信用への問題が顕在化するにつれて、それを要因に含んだものとされ
 る各国の株式市場の株価の下落や、為替におけるドル安の動きなどが見られた。アメリカ合衆国の政
 府はじめ金融当局は、サブプライムローン問題の直接の金融システムないしは信用システムに対する
 危機的悪影響を否定しているが、アメリカ連邦準備制度理事会や各国の中央銀行は、市場に対する資
 金の供給量を増すなど、本問題を契機とする信用問題に対して一定の対策を取りはじめている。
  8月、事態を重く見たジョージ・W・ブッシュ大統領はサブプライム問題の被害者への救済に乗りだ
 すことを表明した。

   資本市場への影響、及び問題の本質

  サブプライム問題の背景として論じられる幾つかの要素は、必ずしも本現象の直接的な要因とは言
 えないものもある。例えば変動金利型ローンは、銀行等の住宅ローン債権者にとって元来管理が難し
 かった金利変動リスクを、デュレーション(債権キャッシュフローの平均回収期間)の短期化を通じて
 より効率的に管理する有効なツールであり、サブプライム・ビジネス固有の金融商品ではない。 また、
 サブプライム層に対する融資も、(強制的な貸付け等、一部に指摘されている様な倫理的に問題のあ
 るケースを除き)借り手の信用力がローン金利の高低等によって適切に調整・吸収されている限りは
 問題ない。問題となるのは、あくまで債権者側が従来見積もっていた様な債務不履行確率(及びそれ
 に基づく貸付金利の設定)以上に実際の債務不履行事象が発生する等の場合であり、また、その様な
 アウトライヤーイベント(想定外の事象)の発生するリスクはサブプライムローンに限らず、より信
 用力の高い貸し手に対するローン・ビジネス、或いは金融以外の様々な経済取引においても同様に起
 こり得ることである。
  ベアー・スターンズやBNPパリバ等のヘッジファンドのニュースにしても、本質的には一部の金融
 機関が一部の金融取引でのアウトライヤーイベントの発生によって想定外の損失を被った、というこ
 とでしかない。ただし、2007年7月から同年8月にかけて、サブプライム問題を材料に世界中で株価の
 急落や信用市場の混乱、果ては連邦準備制度理事会による公定歩合の緊急引き下げといった事態にま
 で発展した最大の要因は、幾層もの証券化を通じて住宅ローン債権の本来のリスク特性が見えなくな
 っていた中で、市場参加者の多くがパニック的に極端なリスク回避行動に出たことにあると言える
 (2008年現在進行中の事象であり、解釈には注意が必要)。そもそもサブプライムローン証券市場自
 体が新興市場でありマーケットに厚みがないため、本来あるべき価格よりも当初は高価格で取引され
 ていたが、その後買い手が引っ込んでしまい値段がつかない程暴落したというサブプライムローン証
 券市場の流動性の低さにも原因がある。サブプライムローン証券に手を出していた米国金融機関は時
 価会計が徹底していたため見かけ上の財務体質が悪化して株が叩き売られてしまった。 リーマンブ
 ラザーズの破綻やAIG保険の公的資金投入など、2008年9月にアメリカ金融危機が発生。これにより、
 金融業界の大規模再編が進行中である。
  しかし、市場参加者の中にはサブプライム問題を材料にした、極端な円高や住宅担保証券の下落で
 大きく利益を上げた者も多い。Institutional InvestorのAlpha誌の調査によると、2007年のヘッジフ
 ァンド業界の報酬トップはPaulson & Co.の創業者、ジョン・ポールソンの37億ドル(約3,800億円)
 だった。ポールソンのヘッジファンドは住宅担保証券の下落で大きな利益を上げた。ポールソンは元
 ベアー・スターンズのマネジングディレクターである。


p.77-78 ・二〇〇七年の夏ぐらいからサブプライムローンの返済の延滞率がぐんぐん上昇し、住宅バブ
     ルがはじける。その時点でアメリカの実体経済にも確実に影響がくる。
      ← 一部の人は盛んにその危機について言及していた。

p.78 ・損失を弱者に被らせ、責任転嫁をする企業人の面の皮の厚さは無限大かと思われる。
   ・いまの金融恐慌は、負債までも組みこんだような証券をアメリカが世界中にばらまいたことに端を
    発しています。これはなにに似ているかというとウイルスです。新型ウイルスのように世界中にま
    き散らした。でなければ、こんな世界の同時不況なんか起きはしない。疫病が世界中にまき散らさ
    れるみたいに、アメリカが証券化した回収のしようもないような負債を世界中にまき散らしたとい
    うことです。

p.79 ・人がわが手でつくったものの全容と行く末が見えなくなる。そして、人は生産物から手ひどいしっ
    ぺ返しを受けるのです。
   ・責任ある者どもが、金融恐慌は「天災」のようなものだという言い訳は通らない。

p.79-80 ・人間の諸関係、人間のいろいろな価値観が破綻している状態というのは、じつはかなり長い時間  
     にわたっている。たとえば、人間と人間との関係が商品や貨幣の姿をとってくる。
      → 「年収いくら」が、その人の価値に直結する。

p.80 ・そういうもの(年収や貨幣など)では人間の価値は測れないのではないかという発想がなければ、
    やっぱり生体反応として、痙攣的にいろいろな暴力が起きたりすることは避けられないのではない
    か。
   ・自殺……人間の「内面の戦争」。3万人の自殺者の背景にはその10倍、つまり30万人の自殺志願者
    が存在する。

p.81 ・「この国は憲法九条があって戦争をしていません。人を殺していません」というけれども、どこか
    に視えない暴動が、大量自殺という「内攻的な暴動」が起きているとおもう。
   ・最悪の事態は、もういままさに起きているのである。


 さて、今日はこの辺で店仕舞いをしましょう。人間は「狎れる動物」でもあります。何ごとにも狎れてし
まうと、油断が入り込む隙ができ、同じ失敗を繰り返してしまいます。「羹に懲りて膾を吹く」という慣用
句があります。失敗を真摯に反省しているうちはたしかに揶揄の言葉になりますが、むしろその失敗を忘れ
かけたときこそ、あえて自覚的に膾を吹くような気持で事に当たった方がよいのではないかと愚考します。
一部の「軽薄居士」に踊らされて、掛け替えのないものを失ってから「こんなはずじゃなかった」と嘆いて
も、それは愚者の繰り言にすぎません。本当の未来を見詰めることなくして、わたしたちは「欲望ゲーム」
に参加してはいけないのです。

                                                 
 2013年5月14日(火)

 今日は、久しぶりに、内田樹氏のブログを転載させていただきます。例によって、ご本人の了解を得てい
ませんが、多分許してくださるでしょう。なお、ほぼ原文通りです。


   東北論                 (2013年4月22日)

  ご近所の灘校の文化祭で東北研究のパネル発表をするということで、インタビューを受けた。なか
 なか白熱したインタビューで、「東北とは」という切り口でものを考えたことがあまりなかったので、
 新鮮だった。インタビュアーは高校生。

  ── まず先生は震災当時はどこにいらっしゃったのですか。

  3月11日はスキーに信州に行った帰りで、電車が止まって、直江津で足止めを食らってました。よ
 く事情が分からなくて、夜中も余震が凄かったし。阪神大震災以来だから恐怖心を感じました。翌日
 電車が動いて1日遅れでこっちに帰ってきました。

  ── 先生は阪神淡路大震災も経験なさってるわけですよね。その時と比べてみてどうですか。

  何が違うかと言うと、天変地異のレベルの話じゃなく、それに対処するときの政治と社会の問題だ
 と思います。今回の対応の悪さって、桁外れなんじゃないかな。日本の社会全体としての復興に対す
 る、支援に対する態度っていうのがひどいんじゃないですか。
  阪神の時は、半年ぐらいで大体瓦礫の片もついて、日常生活は回復したわけでしょう。その時も行
 政の不手際にはずいぶん文句がつけられたけれど、被災した人間の実感としては、行政はそこそこよ
 くやったんじゃないかと思います。
  でも、今回は、まだ16万人ぐらいの人が家に帰れないでいる。東電からの補償もほとんどされてな
 い。本当だったら革命が起こるくらいの怒りが住民の側にはたまっているはずなんだけど、じっと耐
 えてる。
  その一方で、政府はTPPだとか改憲だ原発再稼働だとかいう話ばかりしている。被災地支援より
 も、「まず経済成長」という話になっている。被災地は見捨てられているというのが僕の実感です。
 東北のことなんか、もう考えたくないというのが政府の本音なんじゃないかな。
  1995年と2011年を比べると、政府と自治体の初動のまずさと、被災者に対する情の薄さが際だって
 いると思います。災害のスケールが違うから一律には論じられないけれど、それでもこの間に、日本
 の統治機構が激しく劣化したのは事実だと思います。政治家と官僚と財界人と、それとメディアです
 ね、劣化したのは。

  ── 具体的に例えばどんなこととかを問題に思いますか。

  津波や地震の被害の復興のような物質的な手当はたとえ緩慢ではあっても、やるべきことはやって
 はいると思うんです。一番遅れているのは、原発事故の被災者に対するケアですね。本気で支援して
 いるのだろうかと思う。
  一番遅れているのは情報開示です。被害状況を包み隠さず開示していない。あのとき一体原発で何
 が起きたのか、今は何が起きつつあるのか、どんなリスクをわれわれは負っている、そのことをきち
 んと開示することが最優先だと思う。
  第二に、なぜこんな事が起きたのかを問うこと。「想定外」では済まされません。十分な危機管理
 ができていなかったから、こんなことが起きた訳で、ではいったいなぜ十分な危機管理がなされなか
 ったのか、その理由が問われなければいけない。コストの問題なのか、政策判断の問題なのか、単な
 る怠業や責任放棄なのか。でも、その問いも棚上げされたままです。とりあえずは追求をかわして、
 あれこれ言い訳して、適当にごまかして、ほとぼりが冷めるのを待とうという態度が東電も経産省も
 あらわです。基本的な態度が「ごまかす。ほとぼりが冷めて、メディアや国民の関心が薄れるのを待
 つ」ということなんです。
  特に自民党政権になってからは、原発は再稼働を前提にしていますから、どうやって原発のリスク
 を有権者に過小評価させるかが今は政策的に優先されている。
  いまも福島第一原発は危険な状態にあるわけですけれど、そのことはもう報道しないで欲しいと政
 府は思っている。政府も忘れるから、国民のみんなも忘れてください、って。
  被曝のリスクもそうですよね。甲状腺異常などがすでに報告されているけれど、政府はこれは原発
 事故には関係ない、誤差の範囲であるという判断に固執している。どんなリスクを日本人が負わされ
 ているのか公開しない。
  国民の健康のためには行政はある程度ナーバスになっていいと思います。国民の健康についてのリ
 スクを過大評価したせいで失うものと、過小評価して失うものは桁が違うんですから。
  でも、リスクを過剰にアナウンスすると、今度は被災地産の農産物とか水産物とか国内外で売れな
 くなってしまう。経済的にはたしかにダメージがあります。それでも、情報は全面的に開示すべきだ
 と思う。
  そのせいで被災地の生産物が売れなくなったのなら、その経済的な損失は一億三千万の国民で分か
 ち合う、ということでいいと思うんです。だって、福島の農作物が売れなくなったのは、福島の農家
 の自己努力の不足とか、経営の失敗とかじゃなくて、原発事故という国策のせいなんだから。そして、
 その国策を黙って支持してきたんなら、国民全体の責任でもあるわけです。
  でも、東北の被災地への復興支援は日本人全体が引き受けるべきことだという挙国一致的な支援体
 制ができるためには、福島で今何が起きているのかを全国民の前に明らかにしなければならない。被
 曝リスクがどれくらいの規模のものか、福島はどれほどの痛手を負ったのかを明らかにしなければな
 らない。政府も東電も、それがしたくないのです。できるだけ被害を軽微なものだと思わせておきた
 い。そうじゃないと、原発再稼働の道筋が通りませんから。その結果、全国民的な被災地支援機運が
 盛り上がらない。
  それどころか、アベノミクスとか言って、株価とか金融の話に話題が一気に振れて、もう震災のこ
 とも津波のことも原発事故のことも、はやく忘れたいという気分になっている。メディアでももうほ
 とんど被災地の情報は奉じられない。そんな景気の悪い話ばかり取り上げていると売れないと思って
 いるんでしょう。そして、どの銘柄の株を買えば濡れ手で粟の金儲けができるかとか、そういう「景
 気のいい話」に話題を移している。
  本来であれば国を挙げてどうやって被災地を支援していくか、どうやって復興の手だてを考えるか
 ということに集中すべき時期なのに、みんな考えたくない。問題を直視しようという意欲を日本人自
 身がなくしているということだと思います。安倍政権の支持率は70%ですよ。東北の問題をばっさり
 切り捨てている人を国民の70%が支持している。東北の復興が日本にとっての最優先のイシューであ
 るという認識がもう国民にはないんだと思います。それよりもTPPと株価と改憲と尖閣問題とか優
 先してきている。

  ── 今回の東日本大震災と阪神淡路大震災では規模が全然違うと思うのですが、だからこそ、対
    応が遅くなったとかいうわけでもなく、根本的にレベルが下がったということですか。

  日本の統治機構のレベルは下がってます。今回、は自衛隊が際立っていました。95年も自衛隊は活
 動したけれど、今回は突出していた。練度が高いし、被災者救援のインターフェイスがやわらかい。
 多分こういうレベルの災害出動を想定した訓練を受けて来たんだろうなということがわかります。有
 事を想定してふだんから訓練している行政組織って、今や自衛隊とか海上保安庁とか、そういうとこ
 ろしかなくなってしまった。それ以外の官僚機構は、「不測の事態にどう備えるか」という訓練をし
 ていない。ライフラインが止まる、通信や交通が途絶する、情報が来ない、そういうときに手持ちの
 資源だけを使って何ができるか、そういう種類のシミュレーションを官僚たちは全くしていない。総
 理官邸の危機管理室には電話が2回線しか通っていなかったとか、地下なので携帯の電波が届かなか
 ったということが後から報道されましたけれど、そういう基本的なミスが起きるということは、「危
 機管理室を実際に使う場合」を設計した人間が想定していなかったということですよね。危機を想定
 していない危機管理って、何ですか。

  ── じゃあ逆に行政のなかではそういうことは失敗と捉えきれてないということですか。

  ないと思う。災害対応って、マニュアルなしでどう最適な判断をするかってことでしょう? そう
 いう訓練を今の日本人は誰もやっていないから。

  ── どうやったら鍛えられますか

  だから武道やってるの(笑)。

  ── どういうことですか、武道の意味みたいなのって。

  武道というのは、危機的状況をどうやって生き延びるか、その能力を開発するためのプログラムで
 すから。ルールがあるところでライバルと競争するためのものじゃない。危機を生き延びる力を養っ
 ている。
  だからよく「どうして合気道では試合がないんですか?」って訊かれるけど、あるわけがない。試
 合があるのはスポーツでしょう? アリーナがあって、レフェリーがいて、ルールがあって、時間制
 限があって、何月何日何分試合開始って決まっていてやるのはスポーツ。
  武道というのは、いつ、どこで何が起こるかわからないという条件で、そのときに生き延びるため
 の心と体の使い方を学ぶものなんです。

  ── 今までの日本のどこに問題があると先生はお考えですか。

  原発について言うと、戦後の原子力行政全体に問題があると思います。原子力テクノロジーって、
 はっきり言って、人間が完全にはコントロールすることが出来ないものなんですよ。現に、放射性の
 廃棄物については最終的な処理方法が確立してない。どんどん出てくる汚染物質をどう処理するか、
 そのテクノロジーが確立されていないうちに稼働を始めた。それがもたらす環境汚染のリスクや、廃
 棄物処理のコストを勘定に入れないで、「コストの安い発電機」としてと原発を導入していった。
  原子力は人知を超えた、想定外のふるまいをするかもしれない危険なテクノロジーであるという覚
 悟を持った科学者もいたはずですけれど、その人たちの声は押しつぶされた。そして、原子力は人間
 が管理制御できる、安全な発電装置ですという宣伝で国民を洗脳してきたわけです。
  原発がどうも危険だし、高コストのテクノロジーらしいということはときどき報道されてきました
 けれど、こちらとしてももう原発が出来ちゃった以上は、「なるべく事故が起こらないで欲しい」と
 いう願望があるわけで、その願望のせいで、いきおい原発の安全性を過大評価するようになる。「安
 全に操業してほしい」という主観的な願望が「安全に操業されているはずだ」という客観的情勢判断
 と混同されてしまう。そういうすり替えが国民的規模で行われていたと思います。
  非専門家は原発の現場がどういうふうになっているのかなんて知りようがない。だから、せめてフ
 ロントラインの人たちだけは原発の危険性を自覚しているべきだったと思います。仮に一般市民に対
 して「原発は安全ですよ」って嘘をついても、内部的には非常に危険な物を扱っていて、一度事故を
 起こしたら、その被害は計り知れないものになるという緊張感を維持すべきだったと思うんです。で
 も、その緊張感が東電にあったようにはどうしても思えない。最大限の警戒心と恐怖心を持って原発
 を制御しようとしていたという覚悟がさっぱり伝わってこない。たぶん、一般市民に向かって「原発
 は安全ですよ」と言って騙しているうちに、自分たちも自分たちがついている嘘を信じ始めたからじ
 ゃないかと思います。嘘ってそうなんですよ。あまり習慣的に嘘をついていると、言っている本人が
 自分の嘘を信じ始めてしまう。たぶんそうやって、事故が起こらない時間が続けば続くほど、警戒心
 も恐怖心も鈍化していったんだと思います。
  原発も初期の人たちは強い警戒心を持って仕事をしていたはずです。だって1945年の原爆を日本人
 はリアルに体験したわけですから。
  原子爆弾というのは、広島長崎の以前から理論的には作れることがわかっていたんだけれど、実験
 ができなかった。核爆発が一箇所で起きたら、それが連鎖反応を起こして、地球全体が吹っ飛ぶかも
 しれないというリスクがあったから。それが怖くて原爆実験できなかった。だから、マンハッタン計
 画が成功したときにわかったのは「どうやって原爆を作るか」じゃなくて、「核爆発しても地球は吹
 っ飛ばない」ということだったんです。
  原子力テクノロジーって、最初からそういうものだったんですよ。実験してみたら何とかなったか
 ら、使ってみようという。そういう自転車操業みたいなものなんです。原理はなんとかわかる。やっ
 てみたら、お湯は沸かせることがわかった。でも、条件が変わるとどんなふるまいをするか分からな
 い。とりあえずお湯は沸かせる。じゃあ、沸かして、蒸気でタービン回して、発電してみよう、と。
 そういうテクノロジーなわけですよ。
  だから、原子力第一世代のエンジニアたちは自分たちが扱っているテクノロジーについて、「自分
 たちもよくわかっていない」ということはわかっていた。でも、続く第2世代、第3代目になると、
 「原発って、ただのコストの安い発電機じゃないか」という緩んだ気分になってきた。それなら火力
 や水力と同じ程度の扱いでいいんじゃないか、と。年が経つにつれて、原発に対する扱いがぞんざい
 になっていった。その結果、福島の事故が起きたということだと思います。

  ── こういうことがあった後にこれから原発政策という面ではどういう風に向き合っていけば良
    いんでしょうか。

  今回、福島の原発事故でいったいどれぐらいの国富を失ったのかまだ試算してないですよね。国土
 の何分の一かが、これから向こう何百年間か居住不能になるんです。尖閣とか竹島とか言っているけ
 ど、そんなのただの岩礁でしょう? でも、福島って、そこに何十万も生活者がいて、そこを生活基
 盤にしていた国土なんですよ。それが原発一個で失われた。われわれは国土を失ったんです。
  その被害を考えたら、原子力発電が火力発電に比べて多少発電コストが安いからと言って、そんな
 の桁違いじゃないですか。被災者にまともに補償しようとしたら、これまで火力との差額で原発が稼
 いだ分なて、全部吹っ飛んじゃう。経済的に考えても、原発はまったく間尺に合わないビジネスだっ
 たことが明らかになった。
  とくに国土の喪失。これに関しては誰も何も言わない。尖閣とか竹島とかいう話になると「寸土も
 譲らず」とか息巻く人たちも、福島で失われた国土については何も言わない。でも、どう考えても福
 島で失われた国土の方が巨大な損失なわけでしょう? 
  この損失は原子力行政がもたらした被害なわけですよ。愚かな原子力行政が国土喪失をもたらした。
 仮に今からもう一回大きな地震が福島を襲ったら、次は東京も居住不能になるかも知れない。原発再
 稼働派の人たちは「東京も住めなくなっても、まだ原発をやる」という覚悟があるんでしょうか。原
 発再稼働って、巨大地震が起きないことを前提にした「幸運頼み」のプロジェクトなんです。地震が
 来て、原発がつぶれた後も、「再稼働それ自体は正しい政策判断でしたが、想定外の地震のせいで事
 故が起きました」って言い訳が通ると思っているんでしょうか?
  原発続けたいって言ってるのは、グローバル企業なんですよ。彼らは先のことは考えてないから。
 彼らの政策適否の判断基準は四半期なんです。3ヶ月。とりあえず四半期の収益のことだけしか考え
 ない。
  ご存じじゃないと思うけれど、株式会社の平均寿命って7年なんです。アメリカの会社は5年。長
 期的に会社が継続することそれ自体は、グローバル資本主義では特に重要なことだと思われていない。
 投資家にしてみれば、株買って高値で売り抜けることが最優先なわけで、株を買った会社があと何年
 生き延びるかなんてどうでもいい。理想的には、一回の株取引で、一生かかっても使い切れないくら
 いの個人資産を手に入れたい。企業がいつまで存続するかなんて、投資家にしてみたら、どうでもい
 いことなんです。
  長期的に考えてみた場合、原子力発電を使うと日本の国土が汚染されて、取り返しのつかない損害
 をこうむるおそれがある。これは間違いない。だから、長期的にみたら「割に合わない」と考える方
 が合理的なんです。でも、グローバル資本主義者はそうは考えない。原発をいま再稼働すれば、今期
 の電力コストがこれだけ安くなる。それだけ今期の収益が出る。配当が増える。だったら、原発再稼
 働を要求するのが当然、というのが彼らの思考回路なんです。日本列島がどれほど汚染されようとも、
 個人資産が増えるなら、ぜんぜん問題ない。クオーターベースで損得を考える投資家にしてみたら、
 向こう三ヶ月間に巨大な地震が起きないなら、原発動かした方が利益が出るんです。だから再稼働を
 要求する。それは彼らにしてみたら合理的な判断なんです。反対する人間の気が知れない。投資家た
 ちは個人資産の増減だけを気にしていて、どこかの国の国土が汚染されようと、どこかの国の人たち
 が故郷を失おうと、そんなことはどうでもいいんです。
  僕たち日本国民は日本列島から出られない。ここで生きていくしかないと思っている。だから、国
 土が汚染されたら困るし、国民の健康が損なわれたら困る。でも、グローバル企業には気づかうべき
 国土もないし、扶養しなければいけない国民もない。誰のことも気づかわなくていい。株価のことだ
 け考えていればいい。
  それはそれでしかたがないんです。そういう商売なんだから。でも、問題なのは、そういう人たち
 が国民国家の政策決定に深く関与しているということです。「国民国家なんてどうなっても構わない」
 と思っている人たちが、国民国家の政策を決定している。これはちょっとひどい話でしょう? 
  大飯の原発再稼働のときの財界のロジック覚えてますか? 原発を動かさないと、火力だと製造コ
 ストが高くなる。だったら、もう日本を出てゆくしかない、と言ったんですよ。こんなコストの高い
 国ではもう製造業なんかやってられない。生産拠点を中国とかインドネシアとかに移すぞって、政府
 を脅しをかけた。グローバル企業にしてみたら、どこの国で操業してもいいんですよ。どこでも生き
 ていける。どこの国にも義理なんかない。
  でも、「電力コストが高い」という程度の理由で、外国に出て行くと公言している企業が、「原発
 事故で環境が汚染された」というときに日本にとどまると思いますか? 当然、真っ先に出てゆくで
 しょう。自分たちで環境汚染リスクの高いテクノロジーの稼働を要求しておきながら、いざ環境汚染
 が起きたら、「こんな汚いところでは操業できない」と言って出てゆく。出てゆくに決まっています。
 自分たちが原発再稼働を要求したんだから、原発事故が起きても、頼んだ義理がある以上、日本にと
 どまって操業するというようなけなげなグローバル企業があると思います?
  グローバル企業には国土も国民もないんです。金儲けにしか興味がない。それは彼らの本性だから
 変えようがないけれど、そういうものが国民国家の重大な国策の決定に与ることに、僕は反対してい
 るんです。

  ── そういう状態っていうのを改善できるんでしょうか。

  できませんね。これがグローバル化ってことの実質だから。安倍自民党政権というのは「グローバ
 ル化推進政権」ですから、このあともどんどんグローバル化が進行するでしょう。守るべき国土、扶
 養すべき国民という概念が空洞化するだけじゃなくて、国富という概念も空洞化する。つまり、人々
 がいかにして国富を私財に移し替えるか夢中になるということです。どうやって自分たちの私的なビ
 ジネスを税金で支援させるか、どうやって私用のために公務員を使うか、そういうことを日本人全員
 が考えるようになる。

  ── 原発の話にもどるんですが、原発って、東京で消費する電力を、福島で作ってたわけですよ
    ね。東京の犠牲になっていたわけですよね。なんでそういうシステムが生まれてしまうので
    しょう。

  戊辰戦争ですよ! 決まってるじゃないですか。戊辰戦争で、奥羽越列藩同盟が賊軍になって、そ
 れからあと150年間、中央政府によって有形無形の差別を受けてきたからですよ。東北の出身者は中
 央に上がっていけなかったんですよ。政界でも官界でも財界でも……。明治の藩閥政治の間は、東北
 出身者にはエリートへのキャリアパスは存在しなかったんです。だから、原敬は爵位を拒否したんで
 す。あれは東北人の意地なんです。私は薩長藩閥が作った政府が出す勲章なんか要らないって。原敬
 の号は「一山」っていうんだけど、あれは「白河以北一山百文」、東北地方は地価ただ同然という明
 治の東北差別に対する原の抗議のしるしなんです。
  僕は、四代前が庄内藩士、三代前が会津藩士という賊軍の系譜の直系ですから、東北人の悔しさは
 よくわかるんです。東北人の屈託は内田家の家風ですから。「われわれは日の当たらないところに置
 かれている」という。東北人である限り、いくら努力しても報われないっていう。
  だって考えてみてくださいよ、東海道新幹線の開通が1964年でしょ。東北新幹線の開通は2010年で
 すよ。半世紀遅れてる。
  福島も地元が原発を誘致したわけだけれど、それは地元に産業がないからでしょう。産業がないの
 は福島県人の自己努力が足りないからじゃなくて、戊辰戦争以来150年間の、東北に対する政治的・
 経済的な制裁の結果なんですよ。東北にはチャンスが与えられなかった。
  六ヶ所村ってあるでしょ。あれは昔の斗南藩の領地なんです。会津藩が戊辰で負けた後に、改封さ
 れて極寒の下北半島の原野に移された。不毛の荒地に。吹雪が吹いて、食べるものもろくに採れない
 ところに会津藩士たちは追いやられ、そこでずいぶん餓え死にした。その斗南藩のところに今六ヶ所
 村の再処理施設があるわけですよ。産業が何もないところに。農作物も育たないし、自然資源もない。
 そこで生きていかなきゃいけない人たちがいる。だから、「よごれもの」を引き受けるという誘いに
 手を上げざるを得なかった。他に生きる道がないんだから。
  そういうふうに、ある種政治的な意図をもって、政府のどんな要求に対しても断ることができない
 くらい貧しい地域が作り出されているんですよ。そこに嫌なことを全部押し付けられるように。

  ── それは今の官僚であるとか政治家とかも、意識して政治を行ってるのですか。

  いや、意識はしてないでしょう。むしろ無意識だからこそ、こんなひどいことができる。150年間、
 ずっと無意識なまま東北は抑圧されてきた。君たちも東北人の証言には耳を傾けるべきだと思う。ぜ
 ひ読んでおいて欲しい本がある。『ある明治人の記録』。旧会津藩士ではじめて陸軍大将に昇進した
 柴五郎の伝記。会津が明治政府にどんな目に遭わされたか、わかるよ。

  ── ということはそのシステム自体は、たとえば自分たちがそのシステムを認知したとしても、
    そうそう変わらないということですか。

  だって150年かかって作り込んでいるんだから。福島とか新潟とか福井とか、原発があるのは戊辰
 戦争で負けた藩のところばかりでしょう。戊辰戦争で勝った側にあるのは……玄海が佐賀にあって、
 それから川内が鹿児島にある。佐賀も佐賀の乱で中央政府に反抗してるし、薩摩は西南戦争で反抗し
 ているから。だから、長州には原発がない。今、一つだけ上関に計画だけあるけれど、地元の反対運
 動で結局まだできていない。調べればわかるよ。戊辰で勝った側と負けた側の原発設置比率は。歴然
 とした差がある。要するに、賊軍にされた地域は貧しいままにとどめおかれたということですよ。
  話がそれるけれど、元老山縣有朋と田中義一が死んだときに陸軍の長州閥が実質的に解体する。そ
 のとき長州閥の重しがとれると同時に、東北出身の、陸士陸大出の人たちが陸軍内部で急激に大きな
 勢力を作り出す。彼らが中心になって皇道派・統制派が形成されるんだけれど、彼らの主要な関心事
 は軍略じゃなくて、実は陸軍内部のポスト争いなんだよ。長州閥が独占していた軍上層部のポストが
 空いたので、それを狙った。
  陸海軍大臣・参謀総長・軍令部長・教育総監といういわゆる「帷幄上奏権」をもつポストを抑えれ
 ば、統帥権をコントロールできる。政府より官僚よりも上に立って、日本を支配できる。そのキャリ
 アパスが1930年代の陸軍内部に奇跡的に出現した。そこに賊軍出身の秀才軍人たちが雪崩れ込んで行
 った。真崎甚三郎は佐賀、相沢三郎は仙台、ポスト争いで相沢に斬殺された永田鉄山は信州、統制派
 の東条英機は岩手、満州事変を起こした石原莞爾は庄内、板垣征四郎は岩手。藩閥の恩恵に浴する立
 場になかった軍人たちが1930年代から一気に陸軍の前面に出てくる。
  だから、あの戦争があそこまで暴走したのは、東北人のルサンチマンが多少は関係していたかもし
 れないと僕は思う。結果的に近代日本を全部壊したわけだから。ある意味で大日本帝国に対する無意
 識的な憎しみがないと、あそこまではいかないよ。戦争指導部は愚鈍だったと言われるけれど、僕は
 ここまで組織的に思考停止するのは、強い心理的抑圧があったからじゃないかと思う。
  一人ひとりは普通に、合理的に生きているつもりでいても、長いスパンで見ると、そういうふうに
 ふるまわざるをえないような集団心理的な方向づけって、あるんだと思う。人形つかいに操られる人
 形のように動かされてしまう。
  福島に原発ができ、六カ所村に再処理施設ができるのは、個別的に見ると、そのつどの政治判断と
 か自治体の都合とかがあって選ばれたように見えるけれど、そういう個別の選択とは違うレベルでは、
 もっと大きな歴史的な流れが見えてくるんじゃないかな。

  ── 東北の人たちは第二次世界大戦の少し前に上り詰めていって、で、第二次世界大戦が起きた後、
    またそこで排除されたんですか。

  2.26事件とか5.15事件の関係者には東北諸藩の出身者が多いでしょ。農本主義的なテロリズムには
 東北の怨念に通じるものがあるんじゃないかな。現に、故郷では親族が飢えているとか、身内が娼婦
 に売られるとか、そういうことが青年将校たちの場合はあった。だから、都市ブルジョワジーが政治
 を壟断するのは許せない、と。そういう怒りがあったんだと思う。青年将校たちが求めた社会資源の
 再分配というのは、ブルジョワジーが独占している資源を貧しい国民に還流せよという、一種社会主
 義的な匂いがあるわけです。日本軍国主義って、アーシーなの。地面に近いんです。だから、戦前の
 右翼思想って、一筋縄ではゆかない。
  軍国主義者を輩出したという事実がまた、東北が戦後社会で無意識のうちに差別される理由の一つ
 にもなったんじゃないかと僕は思う。東北の問題って、根が深いんですよ。


 相変わらず切れ味鋭い論法だと思います。日本の問題は日本人が考えなければいけないのに、自分に都合
の悪いことは考えようとしない。いつから、日本人のこころのなかにあったはずの「侠気」というものが薄
れていったのでしょうか。小生としては、今よりももっともっと周囲から孤絶して、考えつづけなければい
けないと思っています。

                                                 
 2013年5月13日(月)

 本日は、再び『しのびよる破局 生体の悲鳴が聞こえるか』(辺見庸 著、角川文庫、2010年)に言及しま
す。第三章の「価値が顛倒した世界」のつづきを転載してみましょう。原文の引用、あるいは、その要約な
どです。


 第三章 価値が顛倒した世界(つづき)

p.62 ・新しい階層の誕生

   「プレカリアート」(ウィキペディアより)〔ほぼ原文通り〕

  プレカリアート(英:precariat、伊:precariato)とは、「不安定な」(英:precarious、伊:precario)
 と「労働者階級」(独:Proletariat、伊: proletariato)を組み合わせた語で、1990年代以後に急増した
 不安定な雇用・労働状況における非正規雇用者および失業者の総体。

   概説

  国籍・年齢・婚姻関係に制限されることなく、パートタイマー、アルバイト、フリーター、派遣労
 働者、契約社員、周辺的正社員、委託労働者、移住労働者、失業者、ニート等を包括する。広義では、
 貧困を強いられる零細自営業者や農業従事者等を含めることもある。
  1990年代に「グローバリズム」という名で世界を席巻した新自由主義・アメリカナイゼーションの
 下で、自らの不安定な「生」を強いられながらも、その競争への参加を「放棄」する人々は、上記の
 カテゴリーにとらわれることなくこの範疇に包摂されうる。プロレタリアートと語呂を合わせること
 で、新自由主義における新貧困層の現実との向き合い方を示している。precario(プレカリオ-不安定
 な)と Proletariato(プロレタリアート-無産階級・賃金労働者)を組み合わせたイタリアでの落書
 きから始まった語と言われる。

   歴史的背景

  世界恐慌による失業や貧困による社会不安が第二次世界大戦を惹き起こした事を反省して、西欧諸
 国や日本などでは、戦後にはケインズ主義的な政策により完全雇用の達成を目指した。しかし、機械
 化により1970年代から単純労働力への需要が減少し、また高学歴化が必ずしも経済界の求める人材の
 養成につながらなかったこともあり、失業率が増大するようになった。
  とりわけ、ソ連崩壊後の1992年以後には、「社会主義の没落」「資本主義の勝利」の名の下で、唯
 一の超大国と化したアメリカ的価値観が絶対化されるアメリカナイゼーション(アメリカ主導のグロ
 ーバリゼーション)が席巻し、多国籍企業は米ソ冷戦終結後に世界中でパイを奪い合う「大競争時代」
 を作り上げた。この結果、大企業はより安い労働力を求めて先進国から発展途上国へと工場を移すよ
 うになり、正規雇用が益々減少する結果となった。このため、正規雇用から排除された階級(それも
 特定の年齢層、1970年以後生まれ)が増加しており、社会問題化している。
  解雇保護法で労働者が保護されているEU諸国でも、「見習い」や「インターン」などの名目で、正
 規の被雇用者と格差をつけられた身分で雇われる若者が増加している。企業が少しでもキャリアを積
 もうという若者の足下を見て極端な低賃金と不安定な身分で雇用しているもので、正規採用されない
 まま不安定雇用が長期化することが懸念されている(『インサイダー・アウトサイダー市場』問題)。
  日本では、1995年に日経連(当時は根本二郎会長)が「雇用柔軟型グループ」の増加を打ち出し、
 1999年には改正労働者派遣法で派遣対象業務が原則自由化され、2004年3月には製造業にも派遣対象業
 務が拡大されており、非正規雇用が急速に拡大している。日本における非正規雇用者は、2010年現在
 で1775万人、雇用者の34.5%を占めるようになり[2]、2008年版青少年白書では、15歳?19歳の約7割が
 非正規雇用と報告している。

   関連項目

  失業/非正規雇用/フリーター/派遣労働/派遣切り/ニート/ワーキングプア/学歴難民/
  マックジョブ/新自由主義/グローバリゼーション/グローバル資本主義/格差社会/棄民/
  就職氷河期/団塊ジュニア/ポスト団塊ジュニア/ルンペンプロレタリアート

p.63 ・プレカリアートは広義には「アンダークラス」になる。
   ・マルクスの《Proletariat》は、「生産手段をもたない労働者」という意味。ただし、失うべきもの
    がなにもない人間たちの「連帯」の意味をおびていたことに注目すべきである。

p.64 ・闘争の先に、連帯という希望があった。だが、現代にそれは存在するだろうか。
   ・階級意識をもって闘うことがなくなり、それが「プレカリアート」という非常にかわいた、新たな
    貧困の時代を象徴することばにあらわれている。

p.65 ・日本の大きな労働組合は、リストラにも大いに手を貸したし、非正規雇用を生みだすことにも手を
    貸した。
   ・社会的排除の対象としてのアンダークラス。 
     → 非正規雇用者の不当な馘首は、正規雇用者にとっての一種のセーフティ・ネット。

p.66 ・だから何度もいっているのです。人間とはなにか。人間とはどうあるべきなのかと。何回も何回も、
    いまだからこそそこに立ちかえって、反復してそのことを思索しなければならない。すぐに、これ
    をやったら経済が回復する、回復すればいいと、そういう話じゃないだろうとぼくはおもう。

p.67 ・マルクスの発見

    『経済学・哲学草稿』のことば。

     「労働者は、彼が富をより多く生産すればするほど、彼の生産の力と範囲とが増大すればす
      るほど、それだけますます貧しくなる。労働者は商品をより多くつくればつくるほど、そ
      れだけますます彼はより安価な商品となる。事物世界の価値増大(傍点あり)にぴったり
      比例して、人間世界の価値低下(傍点あり)がひどくなる」(塚城登・田中吉六 訳)。

   ・モノの価値増大は人間価値の低下なのだということ。単純に見えるこの真理を、ぼくは学生運動を
    やっていた若かりしころより、老いたいまのほうが痛く実感できるのです。

p.68 ・労働の社会的性格が商品の交換価値としてあらわれ、愛や誠実といったあるべき徳目の内実も貨幣
    価値にすりかえられた。これを「物象化」と呼ぶけれど、それがいまやウイルスのように人間世界
    全域に及び、内面の崩壊、人格の崩壊にもつながっている。
   ・そして、社会がその成員の集団的な人格崩壊をまったく自覚していない、ということが現在の危機
    の最大の悲劇なのです。世界は狂ったまま逆立ちして踊りつづけました。
   ・モノに、人以上の交換価値があたえられ、それがあたかもモノ本来の価値であるかのように見なし、
    そうすることにより人をモノ化する倒錯……このことは二一世紀現在も深く自覚されていません。
   ・いま多くの人びとは総じて市場と事物世界の回復しかねがっていない。人間世界の本来的価値の検
    討を求めているわけでないとおもうのです。

p.69 ・つまり、いつの間にか、モノの世界とか貨幣の世界というものをおのずと価値があるというふうに
    見てしまうように、累代の習慣で体質化してきたとおもう。いまの状態を、経済の回復ということ
    だけで元どおりの価値世界に戻すとすれば、逆立ちがつづくだけです。長いあいだ貨幣経済のなか
    で生きていると、貨幣にはおのずと生得の価値があるのだとおもってしまう。

p.70-71 ・貨幣への憑依はハイパーインフレーションにあうといっとき醒めたりしますが、フェティシズ
      ムは“業”のように根深いものであり、だからこそ、<人とは……だ>ではなく、なにを目指し
      たらよいのか、どうあるべきかがもっと問われるべきです。

p.71 ・でも、現状をひっくり返して、もっと人間的な価値を軸にして考えていこうという風潮は、いわゆ
    る社会主義の失敗のなかで、すっかり退潮してしまいました。そうして資本万能、市場万能のよう
    な世の中が長くつづいてきた。そういうことのしわ寄せが。いま一気にきているとすれば、それは
    たんに経済の問題だけではない。
   ・リア充とかプレカリアートということばに象徴される新たな人間像は、世界規模のひそやかな人格
    崩壊に通じているかもしれない。経済が回復すれば。人格も回復するということではありえません。
    ぼくは逆ではないかとさえ感じます。

p.72 ・人間とはなにか、人間とはどうあるべきなのかということを考えなければ、これだけの経済の破綻
    のなかで、たくさんの人びとがひどい目にあう、その苦労のし甲斐がないとぼくはおもいます。


 今日はこの辺で留めておきましょう。ネットで、リストラされた人びとの悲鳴を聞いたことがありますが、
小生がもし同じ立場ならば、大いに騒ぎ立てることになるでしょう。いま、曲がりなりにも「食っていける」
ということが、そういう事柄に対して感性を鈍くしているのではないでしょうか。わたしたちは、共同体を
形成して生きている存在者です。誰であれ、共同体のメンバーの「抜苦与楽」を考慮しない思想は、大いに
批判されるべきでしょう。繰り返します。飢えや病気で苦しむ人々を看過してはいけません。それは「静か
な加害者」に甘んじることになるからです。

                                                 
 2013年5月10日(金)

 今週はバタバタしていて、なかなかこのブログにまで辿り着けませんでした。木曜日(5月9日)が月曜日
の講義日に振り替えられましたので、その3限目の「福島原発事故を考える」を聴講しました。福島から避
難して来られた方である芳賀治恵さんのお話でした。「静かな加害者」(未必の故意で、原発を看過してき
た人々のことを指すと思われます)という言葉が印象的でした。わたしたちは、いわば「原発事故の加害者」
でもあるのです。被害者意識しか持てないとすれば、それは傲慢というものでしょう。先ずは、私たち自身
が原発の推進に待ったをかけられなかったことを反省すべきというわけです。

                                                 
 2013年5月2日(木)

 今日から、また新たな気持でこのブログを始めます。世間はアベノミクスを歓迎しているようですが、福
島第一原発事故が収束しないかぎりは、たとえ景気が回復しても手放しでは喜べません。また、福島の避難
民に関しても、一筋縄ではいかない事情もあるようです。というのも、ネットの記事には彼らに対する悪口
もだいぶ交じっているからです。情報の裏付をしたいのですがそれもままならず、ずっと隔靴掻痒の感に囚
われています。いずれにしても、小生は小生のスタンスでこの「日日是労働スペシャル」を運営していきま
すので、読者の皆さんには「今後ともよろしく」というメッセージを配信したいと思います。

                                                  
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