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日日是労働スペシャル XVII (東日本大震災をめぐって)
 月が替わりましたので、「日日是労働スペシャル」の続篇をお届けします。単純に、「日日是労働スペシ
ャル XVII (東日本大震災をめぐって)」と命名しました。主として、今回の大災害に関係する記事を掲げま
すが、特定の個人や団体を誹謗中傷する目的は一切ありません。どうぞ、ご理解ください。人によっては、
多少ともショッキングな記事があるかもしれませんので、その点もご了承ください。なお、読み進めるほど
記事が古くなります。日誌風に記述しますが、後日訂正を載せるかもしれません。あらかじめ、ご了解をい
ただきたいと存じます。また、ご質問、ご意見等のおありの方は、muto@kochi-u.ac.jp 宛にメールをいただ
ければ幸甚です。

                                                
 2012年11月30日(金)

 本日は用事があるので、もう帰らなければならないのですが、少しだけここに書いておくことにします。
本日の5限目の講義である「現代思想論 II」で、「デモ」のあり方がテーマとなりました。一般にデモに対
して懐疑的、もしくは消極的な学生が多く、団塊の世代の意識とは大きく異なることが分かりました。また、
どういったデモが有効かという問いに対しては、1.まず効果が高く、合法的で、穏やかなデモであること。
2.デモ開催のノウハウをを学ぶためのセミナーを設け、脱原発を成功させたドイツから講師を招いて研究
すること。3.デモだけではなく、ネットのツィッターや掲示板などを活用して、多角的に活動すること。
4.デモに参加する意味を考え抜き、無理なく継続できる方法を摸索すること、などが挙げられました。講
義に参加している学生諸君は、それなりに一所懸命「原発問題」に取り組んでいる様子が窺え、頼もしく感
じられました。しかし、まだ始まったばかりなのです。学生諸君には、3・11の災害を風化させることな
く、粘り強く思索し、冷静に行動してほしいと思います。

                                                  
 2012年11月28日(水)

 今日は、「日日是労働セレクト86」で発表する予定の記事を先行してここに載せます。広島に投下され  
た原子爆弾に関連する映画の感想だからです。


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 2本目は、『夕凪の街 桜の国』(監督:佐々部清、「夕凪の街 桜の国」製作委員会〔アートポート=セ
ガ=住友商事=読売テレビ=双葉社=読売新聞大阪本社=TOKYO FM=東北新社=東急レクリエーション=シ
ネムーブ=ビッグショット=広島テレビ=福岡放送=山口放送〕、2007年)である。牧歌的な作りではある
が、扱っている題材は広島に投下された原子爆弾にまつわる話なので、ある意味で「ホラー映画」と言えな
くもない。銭湯の女湯のシーンが出てくるが、誰もがどこかの皮膚(背中や肩や脚など)にケロイドができ
ており、しかも誰もそれについては語らないという暗黙のルールが存在している。なお、原作はこうの史代
の漫画作品である。この文章を書いている最中、中断して読み返してみたが、映画はけっこう原作に忠実に
作られていることが分かった。原作では、皆実(姉)と翠(妹)の姉妹の上にもう一人霞という長姉がいる
という設定であるが、映画では翠と霞が合体して、皆実が長女ということになっている。その他、細部が少
し変更されているだけで、原作がかなり活かされている。物語を確認しておこう。例によって、<goo 映画>
のお世話になる。執筆者に感謝したい。なお、一部改変したが、ご寛恕を乞う。

  『夕凪の街』……原爆投下から13年後、昭和三十三年の広島。平野皆実(麻生久美子)は復興の進
 んだ街で母のフジミ(藤村志保)と暮らしていた。ある日、皆実は会社の同僚である打越(吉沢悠)
 からの愛の告白を受けるが、皆実には原爆で家族を失い、自分だけが生き残ったことが心に深い傷と
 なって残っていた。父や妹のことが頭から離れず、自分だけが生き残ったことに負い目を感じてしま
 い、打越との幸せを心から受け入れられない。それでも打越は真摯に愛し、皆実も気持が動き始める。
 しかし突然、皆実の体に原爆症が現れはじめる。
  『桜の国』……半世紀後の平成十九年、夏の東京。石川七波(田中麗奈)は最近父親の旭(堺正章)
 が挙動不審であることを心配していた。ある夜、自転車で出かけていく旭を追っていくと、駅で切符
 を買い求めていた。その姿を見ていた七波は、小学校時代の同級生である利根東子(中越典子)と久
 久に再会し、二人はさらに旭の後を追う。電車から長距離バスへと乗り換えた旭の行く先は広島だっ
 た。七波は旭の立ち寄る土地や会う人々を遠目から見ているうちに、亡くなった祖母のフジミや叔母
 の皆実へ思いをめぐらせる。また、東子は七波の弟である凪生(金井勇太)と交際しており、両親か
 らは被爆者の末裔であることを理由に関係を反対されていた。旭と共に自らのルーツと向き合う七波、
 原爆がもたらしたものをその目で見つめていく東子。二人は広島で、平和の尊さや生きることの喜び、
 さまざまな愛情のかたちを確かめていく。

 他に、伊嵜〔伊崎〕充則(石川旭・青年時代)、粟田麗(太田京花=七波や凪夫の母)、田山涼成(打越
豊=老年)、小池里奈(太田京花=子ども時代)、井之脇海(10歳の石川凪生)、松本じゅん(フタバ洋装
店店員)、田村三郎(竹内=大空建研社長)、桂亜沙美(古田幸子=皆実の同僚)、三村恭代(久子=同)、
坂川ひより(平野翠=皆実の妹)、小松愛梨(石川七波=少女時代)、飯島夏美(利根東子=同)などが出
演している。
 皆実が打越とキスをしそうになるシーンがある。しかし、皆実はそれを拒む。「自分はこちら側の世界に
住む人間ではない。つまり、ピカドンの日に死んでいなければならない人間なのだ」という強い意識がある。
だから、幸せになってはいけないのだ。あるいは、旭が京花のことを好いていると知ったフジミは、二人の
仲を裂こうとする。被爆者(京花)と結婚すれば、やがてまた悲しい思いをしなければならないかもしれな
いし、疎開先の一家に養子にやった意味がないというわけである。さらにまた、フジミ自身も、いつ原爆症
が現れるかどうか分からないのである。皆実は、死にゆく翠に「長生きしいね」と言われているが、自分自
身が死なねばならなくなったとき、「ひどいなあ、てっきりわたしは死なずにすんだ人かと思ったのに」と
嘆息している。しかも、原爆を落とした人々に向けて、「やった! またひとり殺せた」とちゃんと思って
いるのかと、皮肉たっぷりに怨み言を述べている。そして、旭や打越に向けて、自分が翠に言われた「長生
きしいね」という言葉を遺して死んでゆく。
 時は移る。七波と凪夫の母の京花は、赤ん坊の時ピカドンの毒を受けている。彼女も四十前後で血を吐い
て亡くなる。フジミの心配が現実となったのである。遺された子どもたちは、被爆者の子であるから、その
影響が出ないとは言えない。二人は気丈に生きているが、将来のことは分からない。事実、凪夫の恋人の東
子の両親は、二人の仲に深い懸念を抱いている。旭は旭で、姉の50回忌を期して、皆実と縁のあった人々を
訪ねている。広島に原爆が落ちてから60年以上経過しているが、まだまだ解決していない問題が残っている
のである。しかし、この物語の登場人物たちは、皆が皆健気に生きている。この手の物語はともすれば「お
涙頂戴」風になってしまうが、抒情もほどほどといった塩梅で描いている。『はだしのゲン』(中沢啓治)
とはまた一味違う「原爆」漫画の映画化として、十分に成功していると思う。

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 主演の麻生久美子(1978年生れ)も田中麗奈(1980年生れ)も、「戦争を知らない世代」の人間ではある
が、実に違和感なく演技をしていたと思う。田中麗奈の父親役の堺正章(1946年生れ)すら戦後生まれであ
る。辛うじて藤村志保(1939年生れ)が戦前生まれだが、終戦時6歳であるから、戦争の記憶はあまりない
だろう。監督の佐々部清(1958年生れ)も同然である。しかし、こうやって広島の悲劇が何度も描かれるこ
とはきっとよいことなのだろう。同じく長崎の悲劇を忘れないためにも、きっとよいことなのだろう。そし
て、福島の悲劇はまだ始まったばかりだから、必ずやその悲しみを描く映画がたくさん撮られるに違いない。

                                                 
 2012年11月22日(木)

 再び、今日から『夢よりも深い覚醒へ ──3・11後の哲学』(大澤真幸著、岩波新書、2012年)に言及し
たいと思います。例によって、重要な個所を転載します。もしくは、一部リライトして要旨をまとめた個所
もあります。


  序 夢よりも深い覚醒へ(つづき)

 p.12 原発によって供給されていた電力を、別の電源によって置き換えることはできるのか。実質稼働原  
   発46基分の発電量を、別の電源に置き換えるシナリオとして、三つの選択肢がある。
    三つの中で、最も望ましいオプション──は、次のようなものである。五%の節電で、原発七基分
   相当が不要になる。

 ここまで書いて、<SOULS>が停止してしまいました。日を改めて再開します(11月26日)。

                                            
 2012年11月19日(月)

 来年度(2013年度)の開講科目を決める時期になりました。来年度、小生は共通教育科目の哲学系科目を
2コマ担当することになっていますが、そのうちの一つは例年通り「思想文化研究の基礎」という科目を開
講します。もう一つは、これも例年通り「倫理を考える」でもよかったのですが、よりテーマを明確にする
ために「核時代の倫理」という新しい題目を立てようと思います。今年度は「倫理を考える」の枠で辺見庸
の『瓦礫の中から言葉を わたしの<死者>へ』(辺見庸 著、NHK出版新書、2012年)という新書をテクス
トに用いたのですが、授業題目からは中身が判断できない虞があるので、より明確な題目に変更しようと思
ったのです。なお、テクストとしては、『いのちと放射能』(柳澤桂子 著、ちくま文庫、2007年)を採用す
る予定です。また、例年、金曜日の2限が1・2学期ともに共通教育科目を入れる枠だったのですが、2年
生の語学とバッティングしていることが判明しましたので、1限繰り上げて1限目に設定しました。朝の弱
い小生としては少し辛いのですが、より多くの受講生を確保するため、そのような変更を試みました。以下
に柳澤氏の同書のカバーの裏面にある売り文句を掲げておきましょう。

  私たちは原子力に頼っていて本当によいのか。なぜ放射性物質による汚染は、科学物質(原文では
 そうなっているが、たぶん「化学物質」の方が正しい)とは比較にならないほど恐ろしいのか。放射
 能によって癌や突然変異が引き起こされる仕組み、大人より子どもに影響が大きい理由を、生命科学
 者がわかりやすく解説。それでも核燃料サイクルへの道を突き進むエネルギー行政のありかたと、命
 を受け継ぐ私たちの自覚を問う。解説 永田文夫

 以上です。内容は平易ですので、大学生ならば十分に理解可能なテクストです。「核時代」(「被曝時代」
と言い換えてもよいほどである)に生きる私たちにとって重要な問題だと思い、テクストとして採用しました。
より多くの学生の聴講を願っております。

                                                  
 2012年11月15日(木)

 同僚のO先生(日本近現代史専攻)から、嬉しいメール(小生への個人宛メールではなく、多くの他の同
僚にも配信しているメール)が届きました。詳細は省きますが、だいたいの趣旨を以下に箇条書き風に記し
ましょう。


 ○ 「福島原発事故を考える」(仮)という授業の開講についてご相談したい。
 ○ 2011年3月11日に起こった福島第一原子力発電所事故から1年半以上が経過したが、収束の目途はまっ
  たく立っておらず、放射性物質の拡散は今も続いている。マスコミは、事故の原因や責任の検証を不十
  分なままに放置するのみならず、同事故に関する情報をほとんど報じなくなっている。テレビと新聞だ
  けを見ていると、事故などなかったかのような錯覚に陥るほどである。
 ○ 本学の学生たちも例外ではない。自分たちの将来に大きく影響するであろう事故について、彼/女らは
  無知のままである。彼らの責任がゼロだとは思わないが、主に責を負うべきは同事故について考えさせ
  ようとしない「大人」の側だと思う。何らかのかたちで、事故と事故後の社会について「若者」に考え
  させるのが、大人、とくに教育者としての責務ではないか。
 ○ ある機会にH先生(教育学部)と会話を交わした際、「共通教育で原発事故に関する授業を開講する必
  要があるのではないか」との発言があった。私(=O先生)としては、上記のような問題意識から諸手
  を挙げて賛成し、一緒にことを進めることになった。次年度のカリキュラム編成の確定も間近な昨今、
  このプランをなんとか具体化したいと思い、声をかけている次第である。
 ○ 以下、授業の内容について若干の愚見を述べる。本学に、直接的に事故や原子力等を専攻されている研
  究者はいないと思われる。しかし、それぞれの立場で問題意識を抱き、さまざまな情報をリサーチされ
  ている教員は多々存在する。
 ○ 上記のように、学生に対して、できるだけ多くの情報を与え、それを元に考えることを促すことが最も
  必要であると考えている。専門の立場から事故について考えることももちろん必要だが、もう少し広い
  観点からでも講義は可能ではないだろうか。学生にはないメディアリテラシーと教養、社会に対する知
  見等を用いて情報を提供し、その上で学生といっしょに考えることができる教員は多々いるだろう。
 ○ 本学において、事故についてさまざまなかたちで考えている教員が集まり、順次自身の知見を講じ、学
  生とともに考える講義を展開することは十分可能であり、かつ必要であると考える。
 ○ (ここで、具体例が挙げれているが、それは割愛する)。そう考えていくと、なかなかに面白いプログ
  ラムが組めるように思える。
 ○ 授業の性格上、共通教育の教養科目として開講し(社会分野になるだろうか)、いわゆる「ノルマ」に
  は算入しない形で実施したいと考えている(ヴォランティア)。時間割の設定という大問題はあるが、
  1学期に開講できればと思ってはいる。
 
  (中略)

 ○ 現時点で、評価等について詳細な案を考えているわけではない。とりあえず、下記のH先生による案を
  提示しておく。大枠としてはこれでよいと考えている。
  「1時間目はオリエンテーションで、2時間目から15時間目までがリレー講義。成績評価は、担当者ご
  とに「授業を聞いて考えたこと」をテーマのレポート(800字)を提出させ、レポートの合計点を成績と
  する、という感じでいかがか」。

  (以下、割愛)


 O先生とは、福島の原発事故以来、けっこうこの問題について話し合っていますが、彼は、小生よりもい
っそう熱心に原発問題に取り組んでいるように見受けられます。そのO先生からの提案ですから、一も二も
なく共感し、小生のできる範囲でアンガージュマンする旨をお伝えしました。小生も、共通教育、専門教育、
あるいはこのSOULSなどを通して、今後とも「原発問題」を考えていくつもりですので、新しい取組に
も積極的に参画していきたいと思っています。

                                                  
 2012年11月13日(火)

 「日日是労働セレクト86」で発表する予定の記事を先行してここに載せます。東日本大震災に関連する
映画の感想だからです。


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 DVDで邦画の『ヒミズ』(監督:園子温、「ヒミズ」フィルムパートナーズ〔ギャガ=講談社〕、2011年)
を観た。映画館で観るつもりだったが、時間が遣り繰りできなくて断念した作品である。もっとも、小生は、
映画そのものを楽しむというよりも、その映画の訴えている内容や時代背景などに関心が集中するので、映
画館で観るかDVDで観るかにはあまり拘っていない。DVDだと何度も同じシーンを観直すことができるので、
むしろそちらで観た方が小生の目的に適うとまで思っている。「映画館主義」(映画は映画館で観なければ
本道ではないという考え)の人にはバカにされるかもしれないが、小生の嗜好だから仕方がない。さて、印
象批評ではあるが、ずばり「傑作」だと思う。少なくとも、小生の感性にガツンときた。おそらく、今年度
の下半期ナンバーワンの映画になるのではないか。観る前からある程度期待はしていたが、古谷実の原作を
下敷きにして、見事に「園子温ワールド」を仕上げた手腕には脱帽した。だいいち、原作にはない「東日本
大震災および福島の原発事故」を絡めた発想には、恐れ入る。しかも、園監督がずっと追いかけている親子
問題に鋭く迫った点も高く評価できるだろう。もちろん、園監督だけの手柄ではない。主演を務めた染谷将
太と二階堂ふみの迫真の演技がこの作品の質を保証している。あたかもそれは、『愛のむきだし』(監督:
園子温、オメガ・プロジェクト、2008年)における、西島隆弘と満島ひかりのコンビに匹敵していると思う。
そもそも、古谷実の同名の原作(2001年から2003年にかけて『週刊ヤングマガジン』誌上に連載)からして、
十分に「傑作」の称号に相応しい内容だった。古谷実といえば、1993年、『週刊ヤングマガジン』誌上にギ
ャグ漫画『行け! 稲中卓球部』を連載し始めることによって鮮烈なデビューを飾った漫画家であるが、同作
で「抱腹絶倒」の極みを味わった小生としては、まったく作風の異なる『ヒミズ』(単行本)に接して、こ
の作者の底知れぬ才能を感じたものである。その映画化でもあるので、古谷VS園という興味もあった。結果
は、まったくのがっぷり四つから、水入りを経た後、じりじりと園が寄っていって、最後は寄り切りで勝負
あったという感じである。もちろん、古谷の作品が負けたわけではない。園の作品が、さらに主題を貫き通
したのである。なお、タイトルは、トガリネズミ目モグラ科に分類される哺乳類の「ヒミズ(日不見、日見
ず 学名:Urotrichus talpoides )」〔ウィキペディアより〕から採られている。
 物語を確認しておこう。例によって、〈goo 映画〉のお世話になる。執筆者に感謝したい。なお、一部改
変したが、ご寛恕を乞う。

  住田祐一(染谷将太)、15歳。彼の願いは「普通」の大人になること。大きな夢を持たず、ただ誰
 にも迷惑をかけずに生きたいと考える住田は、実家の貸ボート屋に集う、震災で家を失くした大人た
 ちと平凡な日常を送っていた。茶沢景子(二階堂ふみ)、15歳。夢は、愛する人と守り守られ生きる
 こと。他のクラスメートとは違い、大人びた雰囲気を持つ住田に恋い焦がれる彼女は、彼に猛アタッ
 クをかける。疎ましがられながらも住田との距離を縮めていけることに日々喜びを感じる茶沢。しか
 し、そんな2人の日常は、ある日を境に思いもよらない方向に転がり始めていく。借金を作り、蒸発
 していた住田の父(光石研)が戻ってきたのだ。金の無心をしながら、住田を激しく殴りつける父親。
 さらに、母親(渡辺真起子)もほどなくして中年男のてつ(モト冬樹)と駆け落ち。住田は中学3年
 生にして天涯孤独の身となる。そんな住田を必死で励ます茶沢。そして、彼女の気持が徐々に住田の
 こころを解きほぐしつつあるとき、「事件」は起こった……。「普通」の人生を全うすることを諦め
 た住田は、その日からの人生を「オマケ人生」と名付け、その目的を世の中の害悪となる「悪党」を
 見つけ出し、自らの手で殺すことと定める。夢と希望を諦め、深い暗闇を歩き出した少年と、ただ愛
 だけを信じ続ける少女。2人は、巨大な絶望を乗り越え、再び希望という名の光を見つけることがで
 きるのだろうか……。

 他に、渡辺哲(夜野正造)、吹越満(田村圭太)、神楽坂恵(田村圭子)、黒沢あすか(茶沢の母)、堀
部圭亮(茶沢の父)、でんでん(金子)、村上淳(谷村)、窪塚洋介(テル彦)、吉高由里子(ミキ)、西
島隆弘(YOU)、鈴木杏(ウエイトレス)、諏訪太朗(まーくん)、川屋せっちん(藤本健吉)、手塚とおる  
(小杉晴彦)、新井浩文(シュウ)、宮台真司(コメンテーター)などが出演している。
 染谷将太は『パンドラの匣』(監督:冨永昌敬、「パンドラの匣」製作委員会〔東京テアトル=ジェネオ
ン・ユニバーサル・エンターテイメント=シネグリーオ=パレード=GIP=河北新報社〕、2009年)ですでに
注目していたが、さらに進化を遂げたと思う。二階堂ふみに出遭うのはたぶん初めてだと思うが、この人も
実に生き生きとしており、必ずやさらに優れた女優に変身すると思う。また、渡辺哲と諏訪太朗が「被災者」
として登場するが、まさに「無声慟哭」そのものの演技を披露している。凡百の絶叫よりも悲しみが伝わっ
て来た。さらに、渡辺が演じる夜野と、でんでんが演じる金融屋のヤクザの金子との遣り取りも興味深い。
夜野がヤクの売人から強奪してきた600万円(住田の父の借金の相当額)を金子に渡す際、金子は難色を示す。
受け取る理由がないというのだ。そのとき、夜野は住田の「未来」に託したいという。自分は「過去」の人
間だから、と。この辺りの渡辺哲の演技は神がかっていると思った。蛇足であるが、社会学者の宮台真司が
本人の役(ただし、TV画面)で登場し、原発がなかなか廃炉にできない理由を述べている。「原子力村」の
人々が生活を盾に利権を手放そうとしないから、というわけである。
 おそらく、人によってはこの作品を外観から判断して嫌悪するかもしれないが、映画の毒はかえって日常
の毒を洗い流すことに、その人が気づかないだけである。くり返しになるが、小生は、この作品を高く評価
したい。なお、新潮文庫版の『ヴィヨン詩集』が登場するが、小生は岩波文庫版で親しんだ。同年の『恋の
罪』(監督:園子温、「恋の罪」製作委員会=日活=キングレコード、2011年)では、田村隆一の詩がモチ
ーフのひとつとして扱われていたが、さすが本人も詩人の園子温のセンスである。小生も詩には深い関心が
あるので、どこか作品に薫風が流れていくような気がする。

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 園子温監督は、さらに、映画『希望の国』で「被災者」を描いている由。小生は未見であるが、いずれ鑑
賞するつもりである。

                                                 
 2012年11月12日(月)

 現在、猛烈に忙しくて、このコーナーに書き込めませんが、少し落ち着いたら再開します。

                                                  
 2012年11月6日(火)

 今日は、内田樹氏のブログを転載しようと思います。石原慎太郎という実在する政治家に言及する文章で
すが、小生自身は現実の政治にはあまり興味がありません。むしろ、類型化された「石原型人間」の方に興
味があります。内田氏の分析は相変わらずシャープですし、おおむね小生も同じような印象です。したがっ
て、最近の政治状況の話ではなくて、人間のひとつの典型を描いているという点で面白いと思いましたので、
ここに転載させていただくことにしました。また、原発の再稼働問題も絡んでいますので、まんざらこの頁
に関係がないとは言えません。そういう事情ですから、あしからずご了承ください。


   無謬の政治家の陥穽について              2012.10.29

  石原慎太郎東京都知事が知事職を辞任して、国政進出めざして新党の党首となることになった。
  「第三極」を結集するとして、維新の会、みんなの党との連携・連帯を模索しているが、政策の擦
 り合わせがうまくゆかない。原発稼働にしても、TPPにしても、消費増税にしても、領土問題へのアプ
 ローチにしても、三党間にはかなりの隔たりがある。
  政策上の差異は調整可能であるということで、とりあえず維新の会と石原新党は連携の方向だと今
 朝の新聞には書いてあった。維新の会はたしか、その前日に政策上100%の一致がない政治組織とは組
 織的な連携はしないということを各地の「維新の会」に対して通告していたはずだが、石原新党とは
 OKらしい。政策上の差異は調整可能なのか、調整不可能なのか。判断はケースバイケースであるらし
 い。
  まあ、好きにすればいいと思うけれど、政党が重要な政治的決定を下すときの根拠についての説明
 をそのつどころころ変えるとあまりよいことはない。選挙民にとってというより、政党ご自身にとっ
 て。政策が状況によって変わるのは当然のことである。前とは事情が違ってしまったのだから、判断
 も変わる。それを責める人はいない。
  けれども、それでも、どこの「事情」がどう変わったのかについての説明責任は残る。判断が変わ
 ったということは、自分が以前になした「未来予測」が外れたということである。なぜ、自分は予測
 を誤ったのか。どのようなデータの入力を忘れたのか。どのファクターの現実性を過小評価したのか。
 どのファクターの現実性を過大評価したのか。なぜ、そのような評価ミスを犯したのか。どのような
 推論上の瑕疵があったのか。それが「失敗から学ぶ」ということである。同じ失敗を二度と繰り返し
 たくないと願うものは、自分の失敗について、ていねいな吟味を行う。誰のためでもない、自分のた
 めである。
  だが、世の中には、自分の判断ミスを決してて認めない人たちがいる。石原慎太郎はそういう人の
 一人である。つねに自分は正しい選択だけをし続けてきて、一度も失敗をしたことがないという「物
 語」のうちで彼は自分の政治家としての自己史を語っている。もちろん、彼が掲げた約束の中には実
 現しなかったものがあるし、無惨な失敗に終わったものもある。でも、それを彼は「失敗」とは総括
 しない。「邪悪な勢力による妨害工作によって」成功するはずのことが頓挫させられたという「物語」
 に回収して、話を済ませるのが彼の風儀である。自分の選択も、その実現のための行動も100%正しか
 ったのだが、それが成功しなかったのは、100%外部の邪悪な干渉ゆえである。
  そういう話になっている。とても、わかりやすい。
  今回の石原新党もうそうである。「官僚」が諸悪の根源として、彼の「よき思念」の物質化を妨げ
 ているという「物語」になっている。だから、「官僚支配打破」が石原新党の党是の根幹となってい
 る。
  あ、そうですか。
  でも、この「諸悪の根源」にすべてを還元して話を単純化するのは、あまり賢いやり方とは思えな
 い。というのは、それは都知事時代に「よい」政策を起案したり、実施しようとしていたときに、彼
 がこの「諸悪の根源」の組織力や行動を過小評価していたということを意味するからである。それほ
 ど巨大な「悪の組織」が現に活発に機能していることを、国会議員を20年やってきた政治家が「気づ
 かなかった」というのは、あまりにナイーブに過ぎる。いや、気づいていたし、現にそれと戦ってき
 たのだと彼は抗弁するだろう。でも、気づいていて、戦ってきて、その挙句に「いいようにされた」
 のであれば、それは彼が政治家として無力だということを意味してしまう。
  どちらにしても困る。
  自分の「敵」の力量や行動原則についてまったく知らぬまま政治家として何十年も過ごしてきたの
 であれば、彼は国政を議するにはあまりに愚鈍だということになる。わかった上で「敵」と戦ってき
 て、結果ぼろ負けしたというのがほんとうなら、彼は国政を委ねるにはあまりに無力だということに
 なる。
  誤解して欲しくないが、私は石原慎太郎が愚鈍であるとか無力であるとか言っているのではない。
 彼はなかなかにスマートで有力な政治家である。私は彼の政治的力量を過小評価したりしない。だか
 らこそ「官僚が諸悪の根源だ」というのは彼の「つくりばなし」だと思うのである。
  自分の失政の理由をアウトソーシングしたくなるのは、「勝率10割」にこだわることができるほど
 にスマートで有力な政治家だけが罹患する「病気」である。けれども、彼自身がスマートで有力であ
 ればあるほど、彼の政策の実現を妨害できる「敵」はその分だけ巨大で狡猾な組織にならざるを得な
 い。論理の経済がそれを要請するのである。これが「勝率10割にこだわる人間」すなわち「すべての
 失敗の理由を外部化しようとする人間」の陥るピットフォールである。
  彼が有能で賢明であればあるほど、そんな彼を効果的に妨害でき、彼が果敢な戦いを挑まねばなら
 ぬとされる相手もまた彼と同じように強力で狡猾なものへと競り上げられてゆく。ここまでもけっこ
 う怖い話だが、ここからあとがもっと怖い話になる。自分ほど賢く力のある人間の政策実現を阻止で
 きるほどに賢く強い組織が「外部に存在する」という物語をひとたび採用したあと何が起るか。人は
 自分のついた「嘘」を補強するために行動することを余儀なくされる。
  彼のついた嘘を本当らしくみせるために一番効果的な方法は何か。それは失敗することである。さ
 まざまな「よき計画」を提言するのだが、それがことごとく阻害され、挫折させられるという事実が、
 彼の語る物語の信憑性を高めるもっとも効果的な方法なのである。
  ほら、ここでも、ここでも、サボタージュが行われていて、実現されるべき「素晴らしい政策」が
 葬り去られている。ああ、なんという悲劇であろう。そう慨嘆してみせることで、彼は彼の作り出し
 た「物語」の信憑性を維持しようとする。つまり、彼は自分が起案した政策が失敗した場合でも、そ
 の失敗から「利益」を引き出すことができるようになる。成功すれば、それは自分の功績である。失
 敗すれば彼の作り出した物語の信憑性が高まる。成功しても、失敗しても、成功する。それが「失敗
 を認めない」人が陥る「落とし穴」である。
  「働いても、さぼっていても、働いていることになる」というルールで働かされている労働者の就
 労態度がどのようなものになるかは、想像してみればわかる。石原慎太郎は都知事の途中から、あき
 らかに都政に興味を失っていた。それはそうだろうと思う。「成功しても、失政を犯しても、何をし
 てもしなくても、つねに成功している政治家」という必勝モデルを自分のために作ってしまったので
 ある。
  そりゃ、退屈するだろう。だから、尖閣列島が彼を惹きつけたのだと私は思っている。これはとり
 あえずゲームの相手に総理大臣と外務省を引きずり出すことができうる。うまくすれば中国の国家主
 席がゲームの相手である。誰が出てこようとも、彼らが全力で石原慎太郎の「憂国の赤心」の実現を
 阻むことは間違いない。ほら、こんなふうに「巨悪」がいて、私のやりたいことを阻むのだ。という
 ふうに、ある時点を越すと、「成功しても、失敗しても、いつでも成功する政治家」は無意識のうち
 に「よりスペクタキュラーな失敗」を願うようになる。必ず、そうなる。そうしないと、話が「保た
 ない」からである。
  領土問題の「スペクタキュラーな成功」は都知事の権能の範囲にない。そうである以上、彼にでき
 る最大限のことは「派手な失敗」である。彼の夢の実現が遠のけば遠のくほど、彼の理想の実現を阻
 む「諸悪の根源」はさらに全知全能のものになってゆき、「単身でその巨悪と戦うサムライ」という
 彼のセルフイメージはいっそう輪郭を鮮やかなものしてゆく。きっと楽しい人生なのだろうと思う。
  けれども、彼によって「外部化」され続けている「失敗」の代価はいったい誰が支払うことになる
 のか。それについて彼は考えることはあるのだろうか。
  たぶん、ないのだと思う。
  「失敗を外部化する政治家たち」こそが「諸悪の根源」であるという「悪の外部化」の言葉が今私
 の喉元まで出かかっている。でも、「それを言っちゃあ、おしまい」なのである。
  彼らを生み出し、彼らにそのようなふるまいを許してきたのは私たちであり、その限りにおいて、
 彼らがなすすべての失敗は私たちの失敗なのである。その失敗を自分のものとして引き受ける以外に、
 彼らが犯すさまざまな失敗の被害を最小化する方法はない。


 内田樹氏の論法にはいつも感心させられますが、今回も脱帽せざるを得ません。小生が石原慎太郎を知っ
たのは彼の小説によってですが、その自信満々の態度にはどこか三島由紀夫に似ているものを感じていまし
た。日本の小説家といえば、斜に構えて、世を拗ねているポーズを取るのが常道でしたが、彼らにはそんな
そぶりはありませんでした。たしかに、彼らの作品は魅力的ですし、それなりに共感するものもなくはなか
ったのですが、しょせん小生とはまったく異なる人種と思っていました。「文学は男子一生の仕事に非ず」
といったニュアンスのことを語って政治の世界に入りましたが、どうも総理大臣への道は遠かったようです。
大昔(1975年)の都知事選で、美濃部亮吉氏との一騎打ち(実際には、民社党推薦の松下正寿氏との三つ巴
戦)に敗れたときは、さすがに挫折感があったのではないかと推測します。というのも、だいぶ時間が経過
してから都知事選に立候補したのは、そのときの屈辱を晴らすためだったように見えるからです。いずれに
せよ、彼をめぐる毀誉褒貶はあまたありますが、それだけ人気者ということでしょう。弟の石原裕次郎の人
気とは別物でしょうが、ひとりの「パフォーマー」として、文学史や政治史に残ることは間違いありません。
この先、どんな行動をするのか少しだけ興味がありますが、高齢ですので、お身体に気を付けてほしいと思
います。

                                                 
 2012年11月5日(月)

 月が替わりましたので、新たな頁を始めます。現在調査中ですが、<高知大学人文学部 SOULS>に「この結
果の説明は、このサイトの robots.txt により表示されません」という案内が出ておりますので、非常にア
クセスしにくい状況のようです。数か月前から、小生のブログへのアクセス数が激減しているのですが(小
生のみならず、SOULS全体も同様である)、おそらくブロックがかかっているからだと思います。したがっ
て、この頁に入場した方は、まさに「稀人」ということになります。誰のどんな意図が働いているのか分か
りませんが、もしもそこに「言論の自由」を制限する目的があるとすれば、それは忌々しき事態と言わなけ
ればなりません。何かの間違いであることを祈りますが、さてどうでしょうか。
 ともあれ、新しい本を紹介したいと思います。『夢よりも深い覚醒へ ──3・11後の哲学』(大澤真幸
著、岩波新書、2012年)です。例によって、重要な個所を転載します。興味の湧いた方は、是非本書を手に
取ってください。


  序 夢よりも深い覚醒へ

 p.7-8 3・11以降、夥しい量の言説が生み出されてきた。言説の量は、われわれの衝撃の大きさに比例し
    ている。あのときに何があったのか、事故の原因はどこにあるのか、復興のためにどのような対策を
    うつべきなのか、今後の電力政策はどうあるべきか……等々が語られてきた。無論、これらの言説の
    大半は、必要なことであり、また多くの正しい主張を含んでいただろう。だが、しかし、同時に次の
    ような疑問も出てくる。これらの言説は──少なくともそのある部分に関して言えば──、あの夢、
    3・11という悪夢に匹敵する深さをもっていただろうか。われわれが受けたショックをすべて汲み尽
    くすにたる言説になっていただろうか。

 p.9 同じ危険が、3・11という夢にも言える。この夢、この悪夢に対する中途半端で凡庸な解釈や説明は、
   この出来事に遭遇したときにわれわれが感じていた衝撃に対応するような真実を、むしろ覆い隠す幕の
   ようなものになりうる。実際、3・11後に生み出された言説のある部分は、あの凡庸な夢解釈(転載者
   の註:フロイトのテクストに対するラカンの解釈とは異なる一般的な解釈のこと。内容に触れなければ
   理解しにくいだろうが、煩瑣になるのですべて割愛した。興味のある人は、この著作自体を繙いてほし
   い)のようなものではなかったか。「なんだ、そういうことに過ぎないのか」という表面的な安心を提
   供することで、夢の真実へと至る道を塞いではいなかったか。われわれに必要なのは、幕となっている
   中途半端な解釈を突き破るような知的洞察である。

 p.10 日本は、全面的な脱原発を目標としなければならない。とはいえ、すべての原発を即刻停止して、
   直ちに廃炉の準備に取りかかるというやり方は、現実性に乏しい。原子炉ごとに閉鎖の年限を決定し、
   段階的に完全な脱原発を実現するのがよいだろう。

 p.10-11 ここでのポイントは、停止のデッドラインが予め決定され、宣言されていなければならないとい
     うことである。つまり、「いずれ閉鎖する」といった無期限、「○○条件が満たされたら閉鎖する」
     といった仮定をともなう期限は許されない。とりわけ、代替的な電力の供給源を確保できたら閉鎖
     するという条件を、人は付けたくなるだろう。しかし、このような条件を付けたときには、閉鎖は
     いつまでも先送りされるに違いない。原発以外の方法で電力を供給する方法の確立が、脱原発の時
     期を規定するのではなく、逆に、原発の終結予定の宣言・公約こそが、代替的なエネルギーを確保
     するための技術開発を刺激し、急き立て、そして実際に可能にするのだ。

 p.11 さらに付け加えておけば、軍事転用の可能性が最も高く、かつ桁外れの危険性をもつ核燃料サイク
   ルに関しては、ただちに放棄されなくてはならない。もっとも、核燃料サイクルは、事実上まったく
   機能していないので、これを放棄したとしても、たいした影響はないはずだ。

    以上の結論は、特別なものではない。反対者も無論たくさんいるが、決して孤立したアイデアでは
   ない。同意見の者も多いだろう。これは、福島原発の事故を承けて、ドイツ政府が自国の原発に関し
   て決めたこととほぼ同じ内容である。もっとも、ドイツは、事故の前から原発の全面的な閉鎖を決め
   ていた。ただ福島原発の事故を目撃して、閉鎖の時期を繰り上げただけである。

 p.11-12 この決して独創的とは言えない結論に関しては、別の多くの論者が、これを支持すべき理由を述
     べている。ここでは、ごく簡単に、これを支持すべき直接の(「直接の」に傍点あり)論拠だけを
     述べておこう。考慮すべき論点は、次の三つであろう。第一に、閉鎖される原発の分に相当するエ
     ネルギーはどうやって供給すべきか。第二に、経済への影響はどうなるか。第三に、地球温暖化に
     とって脱原発は不利ではないか。一つずつ、検討してみよう。


 今日は、ここで打ち切っておきましょう。大澤真幸の議論が明快であることは自明でしょう。また、その
考えのおおもとは小生とほぼ同じです。けれども、彼の論旨の展開がこの後どうなるかはまだ知りません。
前回(『文明の災禍』、内山節 著、新潮新書、2011年)同様、読みながら転載してゆく方針を採るつもりだ  
からです。彼の提示する思想に共感し、この閉塞する日本に大穴を開ける道が見えてくることを祈りたいと
思います。

                                                 
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