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日日是労働セレクト68
 以下に、「日日是労働」のダイジェスト版・第68弾を掲げます。直ぐ下の記事がこの「日日是労働セレク
ト68」の中では最も新しい日付のものです。つまり、読み進めるほど、古い記事になります。ただし、いち
いち明示しませんが、後日に行った加筆訂正を含んだ日があります。日誌ですから、少なくとも後日に加筆
することはご法度であるはずですが、「某月某日」ということもあり、記事内容の充実を優先させました。
ご了承ください。また、頑張って「辛口」の批評を展開しようと務めておりますので、本文に何かと読者の
お気に召さない表現等が散見されるやもしれませんが、特定の個人、団体等を誹謗中傷する目的は一切あり
ませんので、どうぞご理解ください。なお、ご感想は、muto@kochi-u.ac.jp までお寄せ下さい。


 某月某日

 内田樹氏が、新しいブログを発表しているので、以下に引用させていただく。「日日是労働スペシャルI-
III(東日本大震災をめぐって)」で、同氏のブログを引用してきたが、今回はそちらのサイトで紹介する
のは本筋から外れるので、通常の「日日是労働」で言及することにする。なお、再論なので、前回もこのサ
イトで引用している。参照されたし。ちなみに、読み易さを考慮して一部改変した(もちろん、氏の意図を
変えてはいないはずである)が、ほぼ原文通りである。ご寛恕を乞う。


  国旗問題再論(2011.05.31)

  卒業式での君が代斉唱時の不起立を理由に、東京都教委が定年後の再雇用を拒否したのは「思想や
 良心の自由」を保障した憲法に違反するとして都に賠償を求めていた訴訟について、30日最高裁判決
 が下った。
  「校長の教職員に対する起立斉唱命令は合憲」とする判断を下し、原告の上告を棄却した。
  判決は「起立斉唱行為は卒業式などの式典での慣例上の儀礼的な性質を有し、個人の歴史観や世界
 観を否定するものではない」とした。
  しかし、起立斉唱行為は教員の日常業務には含まれず、かつ「思想と良心に間接的制約となる面が
 ある」と留保を加え、「命令の目的や内容、制約の様態を総合的に考慮し、必要性と合理性があるか
 どうかで判断すべき」との判断基準を示した。
  今回の判決では、公務員は職務命令に従うべき地位にあるということを根拠に、「間接的制約が許
 される必要性や合理性がある」と判断して、教委による処分を違憲とした東京地裁判決を取り消した
 高裁の逆転判決を確定させた。
  国旗国歌問題については、これまでの折に触れて書いてきた。この問題についての私の立場ははっ
 きりしている。国民国家という制度はパーフェクトなものではないが、とりあえずこの制度をフェア
 にかつ合理的に運営してゆく以外に選択肢がない以上、集団のフルメンバーは共同体に対する「責任」
 を負う必要がある、というものである。
  責任とは、この共同体がフェアで合理的に運営され、それによって成員たちが幸福に暮らせるため
 の努力を他の誰でもなく、おのれの仕事だと思う、ということである。「このシステムにはいろいろ
 問題がある」と不平をかこつのはよいことである。けれども、「責任者出てこい。なんとかしろ」と
 言うのはフルメンバーの口にする言葉ではない。「問題のうちいくつかについては私がなんとかしま
 す」というのが大人の口にすべき言葉である。そのような大人をどうやって一定数継続的に供給する
 ようなシステムをつくるか。私はそのことをずっと考えてきており、そのために実践的提言も行って
 きた。いくつかの政策的選択がある場合には、「公民意識の高い成員を継続的・安定的に作り出すた
 めには、どちらがより効果的か」ということを基準にその当否を論じてきた。
  私が国旗国歌に対する地方自治体の「強制」的な構えに対して批判的なのは、それが公民意識の涵
 養に資するところがないと思うからである。同じ事件について7年前にブログに書いたことを採録す
 る。私の意見は基本的に変わっていない。

   東京都教育委員会が、今月の卒業式で「君が代」に起立しなかった都立校の教職員180名に戒
  告などの処分を下した。起立しなかった嘱託教員は今年度で契約をうち切る方針である。東京都
  教育委員会にお聞きしたい。あなたがたはこのような処分を敢行してまで、「何を」実現しよう
  とされているのか?
   愛国心の涵養?
   まさかね。
   繰り返し書いているように、「愛国心」というのは「自国の国益を優先的に配慮する心的態度」
  のことである。「国益」とは理念的に言えば、国民の生命・幸福・自由の確保のことであり、リ
  アルに言えば、実効的な法治と通貨の安定のことである。私たちが国益を優先的に配慮するのは、
  「そうするほうが私的な利益を最大化できるから」である。当たり前のことだが、独裁者が暴政
  を揮い、貪吏が私利を追い求め、盗人が横行し、通貨は紙くず同然、交通通信電気などのインフ
  ラが整備されていない社会に住むより、そうでない社会にいるほうが、私たち自身の生命・身体・
  財産・自由が確保される確率は高い。
   私たちが国益を配慮するのは、私たち自身の私利の保全を配慮しているからである。というの
  が近代市民社会論の基本の考え方であり、この原理に異を唱える人は、とりあえず日本国憲法遵
  守の誓約をなしてから就職したはずの日本の公務員の中にいるはずがない。もちろん、東京都教
  育委員会のメンバーの中にもいるはずがない。どういう手だてをとれば、国益を最大化できるか
  (それはただちに私自身の私利を最大化することに通じている)を考えることに優先的に頭を使
  うこと、それが「愛国心」の発露である。私はそう考えている。しかし、その「愛国頭」が出し
  た結論については、一義的な国民的合意はない。あるはずがない。
   国益は国際関係の文脈に依存しており、ある国が単独で決することができるような問題はほと
  んどないからである。たとえば、日本の外交戦略がとるべきオプションは、アメリカの国際社会
  における威信や影響力が「あとどれくらいもつか」についての評価の違いによって、まったく変
  わってしまう。しかし、「あとどのくらいもつか」は未来予測であり、未来について確言できる
  人間は世界にひとりもいない。わずかな偶然的ファクターの介入によって状況が一変する可能性
  はつねにあるからだ。だから、日本が外交上とるべき「ベストのオプション」を確言することは、
  誰にもできない。できるのは誰の未来予測がもっとも蓋然性が高いかを、データを積み上げて吟
  味することだけである(それもしばしばはずれるけれど)。
   それでも、私はこのような知的作業をていねいに行うことが「愛国心の発露」だと思っている。
  というふうに国益と愛国心について基本的な確認をした上で、東京都の教育委員会におたずねし
  たい。あなたがたは、今回の処分と「日本の国益のための最適オプション採択の蓋然性の向上」
  のあいだにどのような論理的関係があるとお考えなのか。
   どう考えても、あるようには思えない。
   「君が代」と「日の丸」は日本国の象徴である。
   「君が代」と「日の丸」に儀礼的な敬意を払うのは、「日本国」に対する敬意を象徴的に表現
  するためである。日本国に敬意をもつ人間であれば、誰に強制されなくても自然に国旗には頭を
  下げ、国歌には唱和する。神社仏閣を訪れる人間は、誰に強制されなくても自然に頭を下げてい
  る。別に誰かが「こら、頭を下げろ、さげないと処分するぞ」と命令しているからではない。具
  体的に私たちに対して何の利益も不利益ももたらしていないような天神地祇に対してさえ、私た
  ちはほのかな敬意を抱き、それを自然にかたちにする。ましてや具体的に私たちの日々の平穏な
  暮らしを保障してくれている国家に対して敬意と感謝の念を抱くことがそれほどむずかしいこと
  だと私は思わない。
   私自身は、国旗に敬礼し、国歌を斉唱する。
   私が生まれてから今日まで、とりあえず戦争もせず、戒厳令も布告されず、経済的なカタスト
  ロフも、飢饉も、山賊海賊の横行もなかったこの国に対して、私なりのひかえめな敬意と感謝の
  念を示すためである。私が日本国に対して抱いている「ほのかな敬意」は、親日派の外国人が日
  本に対して抱いている「ほのかな敬意」に質的にはかなり近いのではないかと思う。それは別に
  ファナティックなものではなし、万感胸に迫るというようなものでもない。けれども、経験に裏
  打ちされたものである。そのような敬意を象徴的に表現することに抵抗を覚える、という方がい
  るとしても、私はそれはしかたのないことだと思う。それは世界観の問題というより、経験と経
  験の評価の差によるものだからだ。いま、この国の国民であることが、それ以外の国の国民であ
  ることより「かなりまし」であるということ、この国に生まれたことが「わりとラッキーだった」
  ということに気づくためには、それなりの「場数」というものを踏まないといけない。政情が不
  安定であったり、経済が混乱していたり、インフラが整備されていなかったり、特権階級が権益
  を独占していたり、文化資本の階層差が歴然としている社会をあちこちで見て来たあとになると、
  なんとなく「ふーん、ま、ぼちぼちいい国なんじゃんか、日本も」という気分になってきたりす
  る。
   もちろん、まったくそういうふうに感じられない人もいる。たとえば、個人的に行政や司法か
  ら理不尽な扱いを受けた経験のある人が「国家への敬意なんて、持てるわけがない」と思うこと
  は誰にも止められない。止めるべきでもない。国民国家における市民社会はつねに「私と意見の
  違う人」「私の自己実現を阻む人」をメンバーとして含んでいる。その「不快な隣人」の異論を
  織り込んで集団の合意を形成し、その「不快な隣人」の利益を含めて全体の利益をはかることが
  市民の義務である。国旗国歌に敬意を払うことを拒否する市民をなおフルメンバーの市民として
  受け容れ、その異論にていねいに耳を傾けることができるような成熟に達した市民社会だけが、
  メンバー全員からの信認を得ることができる。
   そのようにして異論に耐えて信認された集団の「統合の象徴」だけが、メンバーから自然な敬
  意を受けることができる。私はそう思っている。
   自分に敬意を払わない人間を処罰する人間は、なぜ敬意を払われないのかについて省察するこ
  とを拒絶した人間である。ふつう、そのような人間に敬意を払う人はいない。国家に敬意を払わ
  ない人間を処罰する国家は、なぜ敬意を払われないのかについて省察することを拒絶した国家で
  ある。ふつう、そのような国家に敬意を払う人はいない。
   今回の東京都教育委員会の行った処分によって、世界全体で「日本が嫌いになった」人間と、
  「日本が好きになった」人間のどちらが多いかは問うまでもないだろう。日本を嫌いになる人間
  を組織的に増やすことによって、東京都教育委員会は、日本の国益の増大にどのような貢献を果
  たしているつもりなのか、私にはうまく想像することができない(2004年3月31日)。

  ご存じの通り、アメリカ合衆国の最高裁は「国旗損壊」を市民の権利として認めている。自己の政
 治的意見を表明する自由は国旗の象徴的威信より重いとしたのである。私はこの判決によって、星条
 旗の威信はむしろ高まっただろうと思う。国旗国歌の良否について国民ひとりひとりの判断の自由を
 確保できるような国家だけが、その国旗国歌に対する真率な敬意の対象になりうるからである。当た
 り前のことだが、「敬意を表しないものを罰する」というやり方は恐怖を作り出すことはできるが、
 敬意そのものを醸成することはできない。
  「公民」は恐怖や強制によって作り出すことはできない。


 内田樹氏の文章は軽快にして明晰、まさに、この問題に対して「快刀乱麻を断つ」論考だと思う。小生も、
何であれ、教唆や強制によって得られた同意は、「同意」ではないと思う。批判精神を認めないところに、
共同体や組織の発展はない。日本が、世界から尊敬される、健全な国家を目指しているのならば、国家が威
信をかけて進めている事柄に対してこそ、いつでもその反対意見に耳を傾ける必要があると思う。そして、
どうすれば、多くの懸案事項を乗り越えることができるのか、すべての国民の間で、粘り強い議論が必要で
あろう。ここで引用した内田樹氏のご意見は、多くの示唆に富んでいると思う。


 某月某日

 DVDで邦画を3本観たのでご報告。1本目は、『座頭市兇状旅』(監督:田中徳三、大映京都、1963年)
である。シリーズ第4作。今回の素浪人棚倉蛾十郎(北城寿太郎)との鍔迫り合いは、市(勝新太郎)にと
って最大の危機だった。何しろ、仕込刀が折られてしまうからである。ところが、さらなる隠し刃が命を救
った。このアイディアは優れている。まったく予想外の展開だったからである。あそこで、たとえば、真剣
白刃取りなどを市が試みていたら、たぶん白けたであろう。あくまで、ヤクザ剣法を貫かねばならないから
である。なお、第1作と第2作で登場したおたね(万里昌代)が再登場している。市に惚れていたおたねが
市を裏切ったかどうかがこの映画の焦点であるが、蛾十郎の「お前の首を狙うのは、おたねから言い出した
ことだ」に市はけっこう傷つく。たぶん、蛾十郎の台詞は腹いせに当るとは思うが……。市は市なりに、美
しい世界を残しておきたいので、「おたねさんは、こころのきれいなお人だ」とやり返す他はない。さて、
物語であるが、例によって、<goo 映画>の「あらすじ」を引用しよう。執筆者に感謝したい。なお、一部改
変したが、寛恕を乞う。

  上州下仁田。市が投宿した旅篭小幡屋の主人島蔵(松居茂美)を訪ねて来た下仁田佐吉(成田純一
 郎)と矢切の東九郎(安部徹)の話から、土地の二代目親分佐吉と、旅篭の親切な娘のぶ(高田美和)
 は恋仲だが、のぶの養父島蔵は佐吉の先代に遂われた元貸元で、未だに縄張りの夢が捨てきれずにい
 ることを知った。彼らは二代目披露を兼ねた今夜の花会をぶちこわして佐吉を窮地に陥れ、同時に佐
 吉を消すこと考えていた。そのために蛾十郎という浪人まで傭っていた。娘のぶも養父と佐吉の仲の
 悪いことを感づいていた。翌日、佐吉が蛾十郎と東九郎の罠にはまりかけたとき、佐吉の立場を考え
 た市が自分一人の喧嘩として買って出た。逃げ帰った東九郎は自分が殺した佐吉の乾分も市の所為だ
 と親分衆に報告佐吉の不甲斐なさを責め、彼に市を斬ることを迫った。祭りも最後の三日目、名残惜
 しげなのぶの手伝いで旅仕度をしている市の許に、佐吉が飛び込んで来た。おたねが東九郎に拐わか
 されたというのだ。廃屋に駈け込んで、これが佐吉の裏切りと知った。佐吉が三百両で蛾十郎を買収
 したのだ。後を追って来たのぶの声も耳に入らぬ佐吉。東九郎らやくざの連合軍はその包囲を縮めて、
 市に迫った。幾度かの絶望的な危機を斬り抜け河原の中州へ出た。が、そこには蛾十郎が待っていた。
 蛾十郎は必死に制止するおたねを刺した。市の憤りは炸裂、蛾十郎に迫った。必死の市の剣はさえ、
 蛾十郎はその剣の前に斃れた。やがて、旅姿の市のひょろひょろとした姿が見られ、見送るのぶの目
 に光るものが宿っていた。

 他に、小林勝彦(文珠の喜助=市の首を狙って逆に斬られる渡世人)、名和宏(国定忠治=市とは懇意ら
しい)、村瀬幸子(まき=二代目佐吉の後見人)、若杉曜子(女郎A)、羅門光三郎(つむぎの卯之助)、
近江輝子(お里)、嵐三右衛門(大岸粂太郎)、水原浩一(沢形の伊作)、石原須磨男(儀十)、浜田雄史
(駒八)、沖時男(小藤次)、堀北幸夫(岩松)、藤川準(商人)、岩田正(舟吉)、越川一(千代松)、
加賀美健一(玄竜)、志賀明(清六)、大杉潤(寅ン平)、山岡鋭二郎(雲斉坊)、黒木英男(菊三)、谷
口和子(お勝)などが出演している。市に向かって、「互いに上州同士だな」という台詞があったと思うが、
市の出身地笠間は、ジョウシュウはジョウシュウでも、「上州(上野国)」ではなくて、「常州(常陸国)」
である。したがって、奇妙な台詞であった。なお、現在の下仁田は、葱で有名な土地柄である。また、物語
とは直接の関係をもたないが、国定忠治と座頭市の邂逅は一つの見せ場であった。忠治の「どうせ互いに追
われる身、長生きはできないだろうが、生きている限りはせいぜい暴れ回ろう」といったニュアンスの台詞
は決まっていた。忠治を演じた名和宏は現代ヤクザとしても鳴らしていたが、髷物の渡世人もよく似合うと
思った。いわゆる「役者顔」をしているからだろう。
 2本目は、『眠狂四郎女妖剣』(監督:池広一夫、大映京都、1964年)である。『ぴあシネマクラブ 日
本映画編』では高く評価されているが、小生自身はさして特筆するほどの出来ではないと判断する。藤村志
保(小鈴=鳥蔵の妹)、久保菜穂子(びるぜん志摩)、根岸明美(祈祷師の青蛾)、春川ますみ(鳥追い女
のお仙)、毛利郁子(菊姫)などの女優陣が頑張ってはいるが、とくにエロチシズム云々を論じる必要もな
いだろう。藤村志保が全裸シーン(牢獄の格子で肝心な部分は隠れている)に挑戦するが、彼女の汚れ役を
初めて観た。しかし、第2作の別人の役(間諜の采女〔うぬめ〕)の方が遥かによかったと思う。さて、物
語であるが、この作品も、<goo 映画>の「あらすじ」のお世話になろう。執筆者に感謝したい。ただし、後
半から、ひどく杜撰な記述になっている。つまり、実際の映画にはまったく存在しない場面が描かれている
のだ。<goo 映画>の「あらすじ」にときどきある現象だが、まったく不思議だ。もちろん、それらの記述は
削除させていただいた。寛恕を乞う。

  眠狂四郎(市川雷蔵)はある朝浜町河岸に横たえられた、全裸の美女二人の死体を見た。鳥蔵(小
 林勝彦)と名乗る男はそれが、大奥の中臈綾路(谷口和子)と、お半下女中の美乃(高森チズ子)で
 あると狂四郎に告げた。だがその烏蔵は隠れ切支丹の科で役人に捕えられた。この頃江戸では、豪商
 備前屋徳右衛門(稲葉義男)が、金力を武器に、老中水野忠成(玉置一恵)を抱き込み、大奥の女達
 に秘かに阿片を送っていた。浜町河岸の死体は、残忍な菊姫に麻薬責めにされ殺されたのだった。そ
 して菊姫は鳥蔵の妹小鈴に、兄を救う手段と称して、牢内のバテレン、ヨハネス・セルディニイ(ク
 ー・バイチュク)を誘惑させた。しかし、約束は守られず、鳥蔵は殺され、小鈴は自殺して果てた。
 狂四郎は、鳥蔵が死ぬ間際、浜松にびるぜん志摩という狂四郎と血のつながる女がいると聞かされ、
 浜松へと旅立った。途中、狂四郎は、備前屋の刺客や、情慾のとりこになった祈祷師に悩まされたが、
 愛刀「無想正宗」がその難を救った。大井川で足どめされた狂四郎は、妖艶な鳥追い女と旅篭に入っ
 た。女と酒を飲み、女体を抱き寄せた狂四郎は、目がかすむのを知り愕然とした。女は、狂四郎の目
 をつぶすために毒を盛ったのである。しかし、その毒の量が少なかったため、ここでも難を逃れて、
 再び浜松に向った。狂四郎は、隠れ切支丹に案内された舟小屋で、びるぜん志摩に会った。しかし、
 聖女とは名ばかりで、色と欲にまみれたただの女であった。それを見抜いた狂四郎は、びるぜん志摩
 を斬るしかなかった。なお、宿敵の陳孫(若山富三郎)との戦いもあるにはあるが、まるで付け足し
 たような遣り取りだった。菊姫の配下である武部光源(中谷一郎)との斬り合いも多少は面白かった
 が、見せ場と言えるほどでもなかった。さらに、狂四郎の出生の秘密もあんまりだと思った。なお、
 狂四郎の乳母がびるぜん志摩の母であり、その意味でつながりはあるが、血がつながっているわけで
 はない由。

 他に、浜村純(室屋醇堂)、伊達三郎(易者)、木村玄(牢屋敷目付)、ビアガ・ラスモセン(狂四郎
の父親)などが出演している。
 3本目は、『なくもんか』(監督:水田伸生、「なくもんか」製作委員会〔日本テレビ放送網=東宝=バ
ップ=読売テレビ放送=D.N.ドリームパートナーズ=大人計画=札幌テレビ=ミヤギテレビ=静岡第一テレ
ビ=中京テレビ=広島テレビ=福岡放送〕、2009年)である。宮藤官九郎の脚本なので期待したが、ほぼ期
待通りの出来だった。主人公の下井草祐太(阿部サダヲ)の大袈裟な演技もよかったが、その妻徹子(竹内
結子)の気丈さの方がもっとよかった。家族の絆を描いた作品だが、もっとカラッとしていた方が小生には
よかったかもしれない。後半、少し湿っぽくなりすぎたと思う。細かいギャグ(たとえば、『週刊大衆』が
『週刊体臭』だったり、「フジテレビ」が「フグテレビ」だったりするところ)は万全で、クドカン・ワー
ルドを堪能できたと思う。ちなみに、彼ら兄弟の母親である下井草祐子(鈴木砂羽)が交通事故で亡くなる
シーンがあるが、あのシーンは凄い。本当に激突しているように見えた(もちろん、CGで処理したのだと思
うが)。これも、物語や配役に関しては<goo 映画>のお世話になる。執筆者に感謝したい。なお、一部改変
したが、寛恕を乞う。

  兄の祐太(阿部サダヲ)と弟の祐介(瑛太)は幼い頃、無茶苦茶な人生を送る父の下井草健太(井
 原剛志)に捨てられ、お互いの顔も知らずに生き別れていた。不幸な生い立ちにもかかわらず、その
 境遇に負けずに笑顔で毎日を生きる二人。そして今。兄の祐太は、人に頼まれごとをされると何一つ
 断ることができない、究極のお人好し。8才のとき、東京下町の善人通り商店街の“デリカの山ちゃ
 ん”初代店主の山岸正徳(カンニング竹山〔竹山隆範〕)に引き取られ、実の息子のように優しく育
 てられた。その恩返しに懸命に働き、人柄と秘伝のソース(市販の業務用ソースにカモメのトマトジ
 ュースと、不二家のネクターを混ぜ込んだもの)をかけたハムカツを名物に、“山ちゃん”を行列の
 できる超人気店に成長させていた。一方、弟の祐介は、赤の他人である金城大介(塚本高史)と兄弟
 漫才師“金城ブラザーズ”として大ブレイク。今や、超売れっ子のお笑い芸人になっていた。その上、
 大介が“金城ブラザーズ”の貧乏な幼少時代をお涙頂戴モノとして書いた自伝小説の『コプ太と赤い
 車』が大ベストセラーに(子ども、動物、貧乏の、人を泣かせる三要素が含まれている)。もちろん、
 その内容は全くの虚構。金城ブラザーズは、本当の兄弟でないことを世間に隠していたのである。そ
 んなある日、10数年前に出て行ったきりだった“山ちゃん”初代店主の一人娘である徹子(竹内結子)
 が突然帰ってくる。しかも、子どもの頃はデブで不細工だったが、別人のような超美人に変わってい
 た。突然の帰宅、謎の激痩せ、確実なプチ整形。数々の疑惑が残る徹子を、祐太は問い詰めることな
 く笑顔で温かく迎え入れる。初代店主の“デブじゃなきゃ、嫁にもらって欲しいんだけどな……”と
 いう遺言を受け、徹子をずっと待ち続けていたのだ。祐太は、しおらしく店を手伝う徹子に、どさく
 さに紛れてプロポーズ。めでたく結婚に至るが、婚姻届を出すために戸籍謄本を手に入れた佑太は、
 金城ブラザースの佑介が、実の弟であることを知ってしまう……。

 この後の物語はけっこう凝っているが、弟の祐介役の瑛太が阿部サダヲと対照的なので、その点が際立っ
ていてよかった。また、徹子の母親山岸安江役のいしだあゆみも認知症気味の女性を好演しており、金城大
介役の塚本高史や、マネージャーの加々美昌弘役の光石研も、自分の役柄をきちんとこなしていたと思う。
他に、陣内孝則(桂谷壮一郎=環境大臣にして徹子の元彼氏)、皆川猿時(トシちゃん)、片桐はいり(み
どり)、高橋ジョージ(桜井)、小倉一郎(中やん)、藤村俊二(楳図かずおを髣髴させる恰好の男)、江
口のりこ(祐介の学校の先生)などが出演している。これは、蛇足であるが、金城ブラザーズのギャグであ
る「熱(ネツ)出したら、看病するよ/尻(ケツ)出したら、浣腸するよ」には、思わず笑った。


 某月某日

 DVDで邦画の『善魔』(監督:木下恵介、松竹大船、1951年)を観た。三國連太郎のデビュー作である。
この作品の役名がそのまま芸名になった由。さすがに、小生の生まれる以前の作品なので、だいぶ古めかし
い。その思想的な背景はしばらく措くとして、女性は和服姿が多いし、まだ筆と硯は日用品だし、だいいち、
巻紙に筆で手紙を認めるところなど、この辺りの年代が過渡期かと思われる。また、農村の風景は戦前のま
まだし、都会も垢抜けていない。敗戦後6年しか経過していないのだから、焼跡が出てこないだけましか。
以前から観たいと思っていた作品であるが、同じ頃木下監督によって製作された現代劇の『日本の悲劇』
(監督:木下恵介、松竹大船、1953年)と比較すると、少しばかり劣るか。さて、物語であるが、例によっ
て、<goo 映画>の「あらすじ」を引用させていただこう。執筆者に感謝しよう。なお、一部改変したが、ご
寛恕を乞う。

  T新報社の社会部記者三國連太郎(三國連太郎)は、社会部長の中沼茂生(森雅之)より、家出を
 した某官庁(映画では、大蔵省となっている)官吏北浦剛氏(千田是也)の妻伊都子(淡島千景)の
 動静をさぐるように命じられた。個人の私事に立ち入ることを潔しとしない連太郎も、渋々ながらま
 ず長野原に隠棲する伊都子の父鳥羽了遠(笠智衆)を訪ね、伊都子の妹三香子(桂木洋子)の案内で
 久能山麓の親友浅見てつ(楠田薫)の家にいる伊都子に会いその心境をきいた。家出の理由は、ただ
 夫北浦と性格の合わないことを発見したからだという伊都子の説明のまま、連太郎は新聞に発表しな
 いことを約して帰ったが、他の新聞社が「昭和のノラ」などと書き立てたので、連太郎もこの会見記
 を記事にした。中沼は結婚前の伊都子とは友達でお互いに深い好意を持っていたので、この事件をあ
 ばき立てることを好まず、それが編集局長らの気に入らず左遷されようとした。連太郎と三香子との
 間にはこの事件以来淡い恋が芽生えていたが、更にこのこと以来、伊都子と中沼との間にも文通があ
 り、中沼の心は再び伊都子にひきつけられて行った。日頃肺の弱かった三香子が重態に陥ったとき、
 伊都子は静岡から長野原への途次中沼に遭い、その心を打ち明けられるが、北浦との離婚問題とそう
 したことが一緒になって考えられるのはいやだからとことわった。中沼はこれまで関係のあった女小
 藤鈴江(小林トシ子)とも手を切ってしまった。長野原に行っていた連太郎は、三香子が死ぬ前に彼
 女と結婚式をあげたいといって中沼を立会人に頼みに帰って見ると、中沼は社もやめるつもりで、北
 浦にも伊都子に対する気持ちをぶちまけてしまっていた。連太郎は長野原へ同行してくれるのも伊都
 子に会いに行くためだろうと不満をもらすが、長野原についたときには、すでに三香子は安らかな永
 遠の眠りにはいってしまっていた。しかし、連太郎の希望で、死せる花嫁との結婚式が、父了遠、伊
 都子の立ち会いで行われた。中沼も立ち会うはずだったが、三國は直前で不純な彼の立会いを断った。
 伊都子の手を求めようとする中沼に対し、三國が鈴江の存在を暴露した。伊都子は自分が北浦を不幸
 にした上、さらに鈴江を不幸にしたくはないからと言って、中沼を東京へ帰すのだった。丘の上に三
 香子の屍を焼く煙が白くのぼっていた。

 それぞれのシーンはそれなりに説得力を持っていると思われるが、全体の感じを問われると、急にそのリ
アリティは風化してしまう。所詮、「観念劇」の域を出ないからである。三國のような頑なな青年は、たぶ
んどこにでもいるだろうが、今日に至ってはさすがにその数を減らしたのではないだろうか。地位や権勢を
尊び、物欲に溺れ、いわば俗臭芬々たる北浦剛ではあるが、あの程度ならどこにでもいる小役人である。一
旦はその「効能書き」に惹かれて結婚したのだから、この伊都子にも共鳴できない。もちろん、ニヒリスト
の中沼の逡巡も買えないとすれば、了遠、三香子の父娘の素朴さこそ、この映画の救いではないだろうか。
他に、竜岡晋(編集局長)、宮口精二(編集次長)、北竜二(弁護士)などが出演している。


 某月某日

 DVDで邦画の『釣りバカ日誌14 お遍路大パニック!』(監督:朝原雄三、松竹、2003年)を観た。監督が
変わってまたちょっと感じの異なる作品に仕上がっている。ゲストは三宅裕司(岩田千吉)と高島礼子(み
さき)であるが、どちらも存分にそれぞれの魅力を発揮し合っている、と思った。とくに、バーでハマちゃ
ん(西田敏行)と盛り上がる千吉と、ハマちゃんに迫るときのみさきがよかった。さて、物語であるが、例
によって、<goo 映画>のお世話になろう。執筆者に感謝したい。なお、一部改変したが、ご寛恕を乞いたい。

  鈴木建設営業3課では、佐々木課長(谷啓)が次長に昇進、新しい課長として、やり手の岩田が就
 任した。万年ヒラのサラリーマン、ハマちゃんこと浜崎伝助は、そんなことはお構いなし! 愛する
 家族と釣りさえあれば、他には何も望まない! と、社長のスーさん(三國連太郎)のお供に、四国
 八十八ヶ所お遍路の旅に出た。四国の海で自慢のロッドを振るい、旅を満喫して帰郷した。ある日、
 高知で出会ったみさきがハマちゃんを訪ねてきた。対応に出た岩田課長は、ひと目でみさきに恋して
 しまうが……。魚がいればどこへでも、と、日本全国で腕を振るうお馴染みのコンビ、ハマちゃんス
 ーさんの今回の行く先は、自然豊かな四国の高知。相変わらず、羨ましいような、有り得ないような
 お気楽サラリーマン生活を送るハマちゃんが、釣って歌って大笑いの、愉快な騒動を巻き起こす。芸
 達者なレギュラー出演者たちに加え、今回は特に、ゲスト出演者が楽しませてくれる。新課長の岩田
 に三宅裕司、高知のみさきに高島礼子。人間くさい2人の、不器用な恋の行方が爽やかだ。鈴木建設
 の重役たち、営業3課の社員たちも、日本の芸能界でよく見知った顔ぶればかり。さらに、笑福亭仁
 鶴、間寛平、よゐこの2人(濱口優、有野晋哉)など、お笑い界からも味のある面々が登場し、『釣
 りバカ』の世界をさらにユニークに、さらにファンタジックにしてくれる。

 他に、浅田美代子(浜崎みち子)、奈良岡朋子(鈴木久江)、加藤武(秋山専務)、鶴田忍(堀田常務)、
小野武彦(原口人事担当取締役)、國村隼(川島営業担当取締役)、笹野高史(前原社長付運転手)、斉藤
洋介(草森秘書室長)、西田尚美(洋子)、さとう珠緒(鯛子)、中本賢(太田八郎)、松村邦洋(柏島の
男)などが出演している。『般若心経』や、吉井勇の歌(「かくばかり/弱きこころを/癒すべき/薬草な
きか/土佐の深山に」……『吉井勇歌集』、本人自選、岩波文庫、1995年<第16刷/1952年第1刷>、96頁、
所収)なども自然に溶け込んでいた。今回のお魚は、カツオ、ヒラマサ、グレ、イセギ、イシダイなど。そ
ういえば、よさこい祭のシーンで、当時の高知県知事だった橋本大二郎の顔も見える。ハチキン、「○○ぜ
よ」、返杯など、高知特有の言葉や文化も見える。小生は当時も高知に住んでいたはずだが、『釣りバカ日
誌』の撮影があったなど、露ほども知らなかった。


 某月某日

 DVDで邦画の『天空の城ラピュタ』(監督:宮崎駿、徳間書店、1986年)を観た。宮崎駿監督のアニメー
ション映画を観るのはこれで7本目だが、映像的にはこの作品がいちばんダイナミックではなかろうか。も
し、この映画を子どもの頃映画館で観ていたら、間違いなく魅了されていただろう。しかしながら、50代も
半ばを過ぎた今となっては、物語の中に入ってゆくのさえ困難を極めた。ジョナサン・スウィフトの『ガリ
ヴァー旅行記』に書かれた空に浮かぶ島に想を得た由であるが、アニメならではのファンタジーであろう。
物語は、<ウィキペディア>の「あらすじ」を引用しよう。執筆者に感謝したい。なお、一部改変したが、ご
寛恕を乞う。

  ある夜、飛行中の飛行客船を、空賊ドーラ一家が襲撃する。政府特務機関に捕らわれ客船に乗って
 いた少女シータは、混乱に紛れて特務機関の指揮官であるムスカ大佐を気絶させると、彼の懐から青
 い石のペンダントを取り返す。窓を伝って逃げようとするが、空賊に見つかり、驚いた拍子にシータ
 は客船から転落してしまう。雲間を落ちていく中、気を失った彼女の胸にかかっていたペンダントの
 青い石が突然光を放ち、シータは光に包まれゆっくりと降下していった。
  鉱山町で働く少年パズーは、青い光とともに空からゆっくりと降りてきたシータを助け、自宅にか
 くまう。一夜明けパズーは、シータの行方を追う空賊や政府からシータを守り逃走を図る。パズーの
 亡父は冒険家だったが、かつて、空に浮かぶ城「ラピュタ」を見たという。そこにはラピュタ人(ら
 ぴゅた・びと)が住むといわれている。シータがラピュタ人の子孫であることと、シータが持ってい
 るペンダントの石は「飛行石」(ラピュタ人が使っていたといわれる伝説の石)であることを知るに
 至って、パズーはラピュタの実在を確信する。だが、その直後に政府の軍隊が現れ、二人は捕らわれ
 てしまう。
  シータを再び捕らえたムスカは、シータに、かつて空から落ちてきたという壊れたロボットを見せ、
 シータがラピュタ王家の末裔である事を伝えると、パズーの命と引き換えにラピュタ到達への協力を
 迫る。解放されたパズーは自宅で待ち受けていたドーラ一家と共に、シータ奪還に向かう。

 声の出演を記しておこう。田中真弓(パズー)、横沢啓子(シータ)、初井言榮(ドーラ)、寺田農
(ムスカ)、常田富士男(ポム爺)、糸博(親方)、鷲尾真知子(女将)、永井一郎(将軍)、神山卓三
(シャルル)、安原義人(ルイ)などが出演している。


 某月某日

 DVDで邦画の『空気人形』(監督:是枝裕和、「空気人形」製作委員会〔エンジンフイルム=バンダイビ
ジュアル=テレビマンユニオン=衛生劇場=アスミック・エース エンタテインメント〕、2009年)を観た。
是枝監督なので期待したが、後半の難解さを除けばかなりよい出来であると思った。とにかく、こんな難し
い題材をよくぞ作品にまで仕立て上げたものである。原作は、業田良家の『ゴーダ哲学堂 空気人形』だそ
うである〔筆者、未読〕。いわゆる「ラヴ・ドール」にこころが芽生えたら……という設定は誰でも考えそ
うな話であるが、それをここまで発展させれば、十分に合格点だと思う。さて、物語であるが、例によって、
<goo 映画>の「あらすじ」を引用してみよう。執筆者に感謝したい。なお、一部を改変したが、ご寛恕を乞
う。

  川沿いの小さな町。空気人形(ペ・ドゥナ)は、古びたアパートで持ち主の秀雄(板尾創路)と暮
 らすラブドール。空気だけで身体の中は空っぽの空気人形だったが、秀雄が仕事で留守のある日、瞬
 きをしてゆっくりと立ち上がる。軒先の滴に触れて“キレイ…”と呟き、秀雄が買ったメイド服を身
 に着けると、街中へ出てゆく。初めての町で様々な人間に出会う空気人形。戻らぬ母の帰りを待つ小
 学生萌(奈良木未羽)とその父親真治(丸山智己)。執拗に若さを求める女性の佳子(余貴美子)。
 死の訪れを予感する元国語教師の敬一(高橋昌也)。誰もが心に空虚さを抱えていた。レンタルビデ
 オ店に立ち寄った彼女は、店員の純一(ARATA)と出会い、この店でアルバイトを始める。純一に自分
 と似た空虚感を感じ取った人形は、彼に惹かれていく。だが、店長の鮫洲(岩松了)から、“好きな
 人はいる?”と尋ねられると、“いいえ”と答えてしまう。それは、心を持ったがゆえについた嘘だ
 った。彼女は、街で生活するうち、次第に自分のように空虚さを抱えた人間が数多くいることを学ん
 でゆく。そんなある日、彼女は店で釘を引っかけて穴が開いてしまう。勢いよく人形の体から吹き出
 す空気に驚く純一。彼は必死に息を吹き込んで人形を救う。誰もいない店内。思わず二人は抱き合う
 のだった。愛する人の息で満たされ、幸福を覚える人形。だが、帰宅すればラブドールとしての秀雄
 との生活が待っていた。自分の運命にジレンマを覚える彼女は、秀雄が新しい人形を手に入れたこと
 を知り、家を飛び出す。心を持ってしまったがゆえに傷つく人形。何故自分が心を持ったのか自問自
 答を繰り返し、生みの親である人形師の園田(オダギリジョー)のもとへ。園田の家で、回収された
 人形たちを見て、心を持つことの意味を理解する。彼女は、園田に感謝の言葉を告げると、純一の元
 へ向かうのだった。

 他に、柄本佑(浪人中の受験生の透)、星野真理(OLの美希)、寺島進(交番のお巡りさん)、富司純子
(未亡人)などが出演している。空虚な現代人のこころに息を吹き込むのは、いったいどういう人なのだろ
う。それとも、そんな気力のある人は、どこにもいないのだろうか。


 某月某日

 DVDで邦画を4本観たので、ご報告。1本目は、『感染列島』(監督:瀬々敬久、「感染列島」製作委会
〔TBS=東宝=電通=MBS=ホリプロ=CBC=ツインズジャパン=小学館=RKB=朝日新聞社=HBC=RCC=SBS=
TBC=Yahoo! Japan〕、2009年)である。この手の映画につきものの教科書通りのつくりで、その意味では
あまり感心できないが、パニック・エンタテインメント映画としては、かなり成功していると思う。どうい
う展開になるのかある程度予想がつき、ちゃちな恋愛や安直な家族ドラマを絡ませた点と、「お涙頂戴」や
「辻褄合わせ」が鼻に付いた点を割り引けば、かなり面白かったからである。たぶん、多額の制作費がかか
っていると思われるので、ともかく「大衆受け」は至上命題である。その意味で、このつくり方は正しいの
である。
 「感染爆発(pandemic)」の映像化はそれほど珍しくもなくなったが、想像を超えるほどの恐ろしさを伝
えることができない(あるいは、わざと伝えない)のは、あまりにリアルだと、エンタテインメントになら
ないからであろう。つまり、恐ろしすぎてはいけないのである。その意味で、最初の患者が発症してからわ
ずか半年で、感染者3,950万人、死亡者1,120万人を数えたとしても、絵空事で済ませなければならないので
ある。こんなに人が死んだのに、何となくハッピー・エンディングで幕を閉じているのは、パニック映画づ
くりの鉄則であるといってよいだろう。
 冒頭、フィリピンの北部山岳地帯で新型インフルエンザが発生。3ヵ月後の2011年1月3日、東京都いずみ
野市(実在しない)の市民病院に、新型インフルエンザに罹患した患者ではないかと思われる夫婦が搬送さ
れてきた。夫は真鍋秀俊(山中聡)といい、妻は真鍋麻美(池脇千鶴)といった。最初に来院したときには、
風邪と診断した松岡剛(妻夫木聡)だったが、次に彼らが担ぎ込まれたときには、すでに重篤な状態であっ
た。アニソコ(アニソコリア=瞳孔不同=生命危機の状態)や、サチュレーション(酸素飽和度のこと。血
液中に溶け込んでいる酸素の量であり、%で示される。健康であれば99%近くの値になるが、呼吸器官に異
常があると、体内に取り入れる酸素が減ってしまうため、サチュレーションは低下する)〔ともに、ネット
情報〕などの言葉が飛び交い、高熱、肺炎、鼻血、吐血、下痢、下血、全身感染といえる多臓器不全などの
症状が出ている。とくに、眼窩からの出血は不気味だ。すべて、想定された新型インフルエンザの症状と一
致する。とりあえず、院内にいるスタッフや患者にタミフルの投与が行われるが、1月5日午前3時28分、夫
の秀俊が死亡する。その治療の際、救命救急医の安藤一馬(佐藤浩市)は、秀俊の吐血を浴びてしまい、や
がて感染したことが判明し、治療の甲斐なく死亡する(1月9日)。同じ頃、東京都にある武蔵秋山駅(実在
しない)の駅員、仙台市を運行中のバスの乗客が発症するシーンが挿入される。いずみ野病院でも、院内感
染者が徐々に増えてくる。1月6日午前9時10分、内閣官房で、関係省庁連絡会議が開催され、その席上で、
2,500万人が罹患し、64万人が死亡するという想定シナリオが公表される。備蓄ワクチンは3,000万人分が用
意されているが、鳥インフルエンザから、ヒトヒト(ヒトからヒトへ感染すること)にインフルエンザが変
異すれば、そのワクチンに効果があるかどうかは分らないという状況である。やがて、いずみ野病院に、WHO
メディカル・オフィサーの小林栄子(檀れい)がやって来る。病院長の深見修造(田山涼成)も、院内感染
対策主任の高山良三(金田明夫)も、彼女を煙たがるが仕方がない。小林は、白板に、ウイルス対策につい
ての8か条を書き記す。以下の文句である。

 それは何か
 それは何をするのか
 それはどこから来たのか
 それをどう殺すのか

 ウイルスの正体
 感染症が引き起こす症状
 感染経路の究明
 治療法

 これらが少しずつ明らかにされてゆく流れが、この映画の骨子である。安藤医師が亡くなった5日後、感
染した医師と社会機能維持者の優先的治療が始まる。平時と有事が逆転したのである。こうなると、普段な
らば手厚い治療と看護が施される重篤な患者はむしろ放っておかれる。少しでも助かりそうな者への医療行
為が優先されるのである。
 2011年1月14日、第一感染者死亡から9日後、感染者2,310人、死亡者856人と発表される。しかも、新型イ
ンフルエンザではないと宣告されるのである。エボラ出血熱に似ており、致死率60%との由。こうなると、
人々の間で悪い噂が飛び交い始める。1月16日には、全国で一日の救命要請が50万件を超え、新型感染症は
「死の伝染病」と怖がられるようになる。
 小林は、市民病院を隔離病院に指定し、伝染病治療の専従スタッフの人選を行う。この任務は、精神的に
も肉体的にも負担が大きく、強制はできない。そこで、ボランティアを募るのであるが、医師23名、看護師
54名がそれに応じる。新しい戦いが始まったのである。
 1月19日、第一感染者死亡から、二週間後。感染は日本列島の全域に拡大し、世界各国は日本からの退避
勧告を発令。政府も、72時間以内に、地域封じ込めを決定。1月21日現在、感染者4,127名、死亡者1,989名
である。WHOの感染症予防研究所アメリカ予防管理センターの見解では、日本で起こっている感染症は新型
インフルエンザではなく、飛沫感染が主流だが、SARS同様、空気感染の虞あり、と発表。各国の新聞の見出
しに、《Satanic virus attacks Japan!!》や《魔鬼病毒制裁日本》の文字が躍る。この時点で、感染者80
万人、死亡者42万人、<ブレイム>と名付けられる。新型インフルエンザではなかったが、報道の煽りを食っ
た人もいた。いずみ野市で養鶏場を営んでいた神倉章介(光石研)である。自分の養鶏場から鳥インフルエ
ンザを発生させてしまったため、それが原因で今回の感染症を引き起こしたという誤解である。彼は、縊死
することによって自らの失策を償うが、それはむしろ世間からの極限ともいえる風評被害の仕打ちだった。
原因は、未知のウイルスらしい。ここまでは分る。そこで、小林が、真鍋麻美に詳しい事情を聴取する。初
めのうちは、頑なに真相を告白することを拒んでいた麻美であったが、小林の執拗な説得で、語り始める。
 それによると、彼女の父立花修治(嶋田久作)は、独立して間もない東南アジアの島嶼国家アボン(実在
しない)で医師をしているという。正月に一時帰国したが、そのとき咳をしたりして体調が悪かったようで
ある。もしかすると、彼が未知のウイルスを日本に運んだのかもしれない。アボンは国連にも加盟していな
い国で、どんな国かは判然としない。とりあえず、松岡と、神倉養鶏場の調査で上京していた島根畜産大学
獣医学教授の仁志稔(藤竜也)が、アボンに飛ぶことになる。それと同時に、いずみ野病院で手に入れた検
体を、ふとしたことから知り合った無名のウイルス研究者の鈴木浩介(カンニング竹山=竹山隆範)に託す。
ウイルスの特定を依頼したのである。アボン共和国のミナス島で、目指すウイルスの発生源が判明したので
ある。それは、森の蝙蝠であった。同じ頃、浩介も新型ウイルスを発見、分離に成功したのである。実は、
アボン共和国では、日本の業者によって、エビの養殖が行われていた。しかし、大量の薬品や抗生物質で土
壌が汚染されてしまう。共有財産である豊富なマングローブの林もダメになり、森に木材を求めて侵入した
男が、森の魔女(もちろん、ブレイムと名付けられた新型ウイルスのこと)にやられてしまう。元を正せば、
日本の商業主義が寝た子を起こしてしまったのである。
 小生は、今から20年ほど前、京都で木炭を買い求めたことがある。バーべキューに誘われたからであるが、
その手のセット商品を売っている店に行って驚いた。3,000円ぐらいはするかと思った量の木炭が500円で売
られていたのである。原産地は東南アジア、材料はマングローブだったと思う。マングローブと言えば、水
環境浄化の他、現地の人々がさまざまに利用することができる林を形成する植物であるという予備知識があ
ったので、「伐採して炭にしてしまうとはずいぶん乱暴な」と思ったものである。今でも、マングローブの
林は伐採されつづけているのだろうか。また、エビの養殖については、だいぶ昔に、『エビと日本人』 (村
井吉敬 著、岩波新書、1988年) という本で、その行き過ぎに危惧を感じたことを覚えている。小生自身、
エビをよく食べるので、同罪であるが……。
 さて、話を戻そう。2011年2月24日、50日が経過。感染者250万人、死亡者90万人。しかし、この時点では、
まだ対症療法しかない。ワクチンができるまで半年はかかるとの由。そのうち、小林も罹患。そこで、ある
治療法を試してみる。それは、エボラの治療で行った方法で、エボラから治癒した人の血清を輸血して何人
かが助かったという。医科学的には証明されていない方法であるが、経験上は有効と思われる。当初、ヨー
ロッパの医師は全員効果に対して否定的であったが、ザイールの医師が強行し、8人のうち5人が助かった
という。「薬やワクチンではなく、人間と人間の血でつながるのだから、ウイルスも許してくれるだろう」
という、小林の台詞が印象に残った。「血清療法」はある人には有効だった。しかし、それを提言した小林
は病に斃れた。半年後、ワクチン完成。ブレイム、沈静。2011年7月12日現在、感染者3,950万人、死亡者
1,120万人という犠牲者を出したパンデミックであった。「たとえ、明日地球が滅びるとも、今日、君はリ
ンゴの樹を植える」という、夭折した小林の弟の好きだった言葉が、静かに響く。どんな試練を受けようと
も、人間は希望をもって生きるべきなのだ。それが、この映画のメッセージである。
 他に、国仲涼子(三田多佳子=看護師)、田中裕二(三田英輔=多佳子の夫)、キムラ緑子(池畑実和看
護師長)、ダンテ・カーヴァー(WHO西太平洋事務局医師クラウス・デビット)、馬渕英俚可(鈴木蘭子=
看護師)、小松彩夏(柏村杏子=同)、夏緒(神倉茜)、太賀(本橋研一)、三瀬アキフミ(小森幹夫=研
修医)、松本春姫(三田=多佳子と英輔の娘)、三浦浩一(田嶋晶夫厚生労働大臣)、久ヶ沢徹(古河克也
厚生労働省感染症情報管理室長)、正名僕蔵(田村道草=いずみ野市保健課員)、宮川一朗太(宮坂=救命
救急医)などが出演している。なお、配役等に関しては、<ウィキペディア>を参照した。
 2本目は、『新・座頭市物語』(監督:田中徳三、大映京都、1963年)である。この作品からカラーにな
っている。取り立てて目新しいことはないが、座頭市(勝新太郎)の居合い抜きの師匠が登場する。伴野弥
十郎(河津清三郎)といい、水戸天狗党の生き残りと関係しているらしい。市は、その妹弥生(坪内ミキ子)
に懸想され、たとえ一場の春夢とはいえ、夫婦約束をする。しかし、弥十郎の市に対する偏見と己の野望の
前に、その夢は露と消えたのである。市を付け狙う安彦の島吉(須賀不二男)がいい味を出していた。とり
わけ、出た賽の目を粋に換えるところは秀逸であった。物語を確認しておこう。例によって、<goo 映画>の
お世話になる。執筆者に感謝したい。なお、一部改変したが、ご寛恕を乞う。

  盲目のやくざ座頭市は、数年振りで故郷笠間へ足を向けた。途中、鬼怒川の湯治場に寄った市を追
 いかけて来たのは、かつて彼に斬られた関宿の勘兵衛の弟安彦の島吉と乾分たちだった。だが、斬合
 いのさなかに来合せた市の剣の師匠伴野弥十郎が仲に入って、市を下館の家へ伴れ帰った。弥十郎の
 妹弥生は、気に染まぬ縁談を撥ねつけていたが、市には優しく暖かった。そんな頃、奥村紀之介(丹
 羽又三郎)をはじめとする水戸天狗党の落武者数名が下館の宗源寺まで落ちのびて来たが、逃亡の旅 
 費に窮して昔馴染の弥十郎を頼って来た。そこで弥十郎は紀之介から金策の手段として強盗の手引き
 を頼まれた。弥十郎は、この頼みに悪計を考え出し、門弟たちに座頭市の居合を披露させると皆を集
 めた。その帰途、弟子の一人で郷土神田陣八郎(南部彰三)の息子欽吾(高倉一郎)は天狗党一味に
 誘拐された。その夜市は弥生から思いがけない結婚の申し出を受けた。感激した市は生れ変って堅気
 になることを誓った。そんなところへ、島吉が真剣勝負をいどんできた。市は弥生に誓った通りやく
 ざの足を洗ったといって弥生ともども島吉に許しを乞うた。島吉はその潔い態度に、今までの恨みを
 水に流すと言って去った。二人は弥十郎に結婚の許しを乞うが怒った弥十郎は市を破門した。そんな
 ところに、陣八郎が脅迫状を持って弥十郎の許に相談に来た。三百両と引替に欽吾を渡す、今夜九ツ
 半、場所は羅漢の森というのだ。弥十郎は何くわぬ顔で自分も立合うことを約した。居酒屋油屋に寄
 った弥十郎は、言葉の行き違いから島吉を無礼打にした。市は、育ての親お茂ばあさん(武智豊子)
 の家に行く途中、羅漢の森で天狗党一味と出会った。すべてを知った市は、彼らと血戦をいどみ、そ
 のことごとくを斬った。そこへ駆けつけて来た弥十郎は怒りのあまり市に成敗の剣を抜いた。だが、
 市の捨身の剣に弥十郎は倒れた。市の後を追ってその場へやって来た弥生は呆然と立ちつくすのみだ
 った。市はその弥生に頭を下げると、淋しそうに去って行くのだった。

 他に、舟木洋一(為吉=市の幼馴染)、真城千都世(おきぬ=その妻)、近藤美恵子(お新=弥十郎の女、
油屋の亭主三五三吉の女房でもある)、中村豊(馬造=島吉の仲間)、伊達三郎(安蔵=市を狙う男の一人)、
木村玄(安蔵の弟分の宇吉)、遠藤辰雄(油屋の三五三吉)、水原浩一(多七)、南条新太郎(建部主馬)、
武智豊子(お茂=市の乳母)、杉山昌三九(山田靖之助)、東良之助(真壁の浅右衛門)、尾上栄五郎(与
四郎)、玉置一恵(寺尾元彦)、春日清(森屋市左衛門)、浜田雄史(辰助)、沖時男(猪之助)、藤川準
(旅篭の亭主)、福井隆次(笹之助)、志賀明(丑松)、小中島亮(天狗党のひとり)、西岡弘善(真壁の
三下のひとり)、森田健二(天狗党のひとり)などが出演している。ちなみに、「無腰(刀剣を佩びていな
いこと。丸腰)」という言葉は始めて聞いた。なお、勝新太郎は、長唄三味線方の杵屋勝東治とその妻八重
子の次男(長男は、若山富三郎)として生まれているので、三味線は得意のはずだが、その三味線を披露す
る場面がある。なかなか味があった。
 3本目は、『眠狂四郎円月斬り』(監督:安田公義、大映京都、1964年)である。だいぶ、眠狂四郎(市
川雷蔵)の性格がはっきりしてきた。ニヒルで、女好きだが、あくどい所業には黙っていられない。弱い者、
貧しい者には心からの同情を寄せる。しかも、水も滴るいい男。剣も立つし、女子どもには優しい。これで
もてないはずがない。さて、物語等に関しては、これも<goo 映画>のお世話になろう。執筆者に感謝したい。
なお、一部改変したが、ご海容いただきたい。

  将軍家斉の庶子片桐三郎高之(成田純一郎)は、母松女(円宮於登女)の野望に駆り立てられ次期
 将軍の座を狙っていた。ある日高之は新刀の試斬りに川原で飢饉で地方から避難して来た百姓の老人
 を斬り殺した。ちょうどそこを通りかかった狂四郎は、それを目撃するが、老人の仲間からは誤解さ
 れて憎しみを受け、また高之からも狙われることになった。そんな狂四郎はある日、高之の使の腰元
 小波(東京子)の迎えを受け川舟へ案内された。そこで狂四郎は仕官をすすめられ、さらに愛刀無想
 正宗を所望されたが、狂四郎はこれを拒絶し、高之側近の剣客の右腕を斬り落して立去った。小波は
 豪商山崎屋伝右衛門(水原浩一)の娘で、伝右衛門は小波に未来の将軍御台所の夢を托し、高之に経
 済的な援助を与えていた。そんな小波を高之も愛し、妻に迎える約束を交していた。一方狂四郎は高
 之の邸に忍び入り、小波を寝室に襲って犯した。憎悪に燃える小波は片桐家に恩義をこうむる剣客寄
 居勘兵衛(植村謙二郎)を狂四郎の許へ送った。しかし狂四郎は勘兵衛の人物を惜しみながらもこれ
 を斬り倒した。さらに高之は、佐渡送りが決まっていたむささびの伴蔵(伊達三郎)を釈放して狂四
 郎を倒そうとした。伴蔵の花札手裏剣と高之配下の剣士たちの殺陣をきり抜けた狂四郎は、そこで憎
 悪に燃えた小波を見た。一方高之のために試斬りにされた老人の忰太十(丸井太郎)は、復讐のため
 に小波をさらったが、それを知った高之のために逆に捕われの身となってしまった。駆けつけた狂四
 郎は太十の命と引換えに無想正宗を高之に与え、自ら捕われの身となった。しかし狂四郎を憎みなが
 らも女として愛すようになっていた小波に刀をもらった狂四郎は牢を脱出して向柳原の橋上で高之と
 対決した。狂四郎の剣が円を描き、その足下に高之はくずれ落ちた。

 他に、浜田ゆう子(おきた=伴蔵の女房、狂四郎のいろ)、佐々木孝丸(水野忠成)、南条新太郎(目明
し弥吉)、毛利郁子(おてつ)、美吉かほる(お花)、若杉曜子(お六=夜鷹)、原聖四郎(正木要)、木
村玄(水野の配下の忍者)などが出演している。なお、映画の惹句が目に付いた。記しておこう。いわく、
「剣豪の血を凍りつかせ/女の肌を燃え上がらせる!/斬って悔やまず、抱いて愛さぬ/非情の瞳!」……
誰が捻り出したのだろうか。「ほたる二十日に、せみ三日」、「吉原三年、岡場所二年、茣蓙を抱えて夜鷹
が五年」などの、泣けてくる台詞もあった。
 4本目は、『緯度0大作戦』(監督:本多猪四郎、東宝=ドン・シャープ・プロ、1969年)である。久し
振りに東宝の特撮映画を観たが、はっきり言って駄作。当時としては破格の三億六千万円(百万ドル)映画
であるが、特技監督円谷英二の腕もさほど発揮されていない。ライオンにハゲタカの羽をつけたグリホンと
いう伝説上の動物が登場するが、日米合作映画だからであろう。日本人としては、グリホンに馴染はないだ
ろう。一応、物語を記しておこう。これも、<goo 映画>のお世話になる。執筆者に感謝したい。なお、一部
改変したが、ご寛恕を乞う。

  海底油田の調査に、潜水球で大陸棚探険に出かけた、物理学者田代健(宝田明)、海洋地質学者ジ
 ュール・マッソン(岡田真澄)、記者ペリー・ロートン(リチャード・ジェッケル)の三人は、不思
 議な潜水艦アルファー号に救われた。乗組員はマッケンジー艦長(ジョゼフ・コットン)、部下の巨
 漢甲保(大前均)、女医のアン・バートン(リンダ・ヘインズ)の三人。重傷のマッソンのために、
 彼らの基地「緯度0」に艦を帰港させた。そこは海底二万メートル、人工太陽の下のパラダイスだっ
 た。そんな天国にも敵がいた。超能力の潜水艦黒鮫号を擁し、ブラッド・ロック島に基地を持つ悪の
 天才マリク(シーザー・ロメロ)と情婦ルクレチア(パトリシア・メディナ)だ。彼らは人類を征服
 し、「緯度0」を破壊する目的でノーベル賞受賞の科学者岡田正五郎博士(中村哲)とその娘の鶴子
 (中山麻理)を誘拐した。マリクは博士の発見した放射能免疫血清の方程式を要求し、拒絶されるや、
 彼と娘を監禁した。これを知ったマッケンジーは罠を承知で、ブラッド・ロック島を攻撃した。マリ
 クのおくった巨大なネズミ、人間コーモリの襲撃を退けたマッケンジーらは敵の司令部へ迫り、ルク
 レチアを滅ぼした。マッケンジーたちの追撃を逃れたマリクは、黒鮫号から超高圧電流攻撃を仕掛け、
 アルファー号を島の崖に引き寄せ、レーザー砲で一挙に破壊しようと企んだ。折から上を飛んでいた
 怪獣グリホンは、マリクの元情婦であり、黒鮫号の元艦長である黒い蛾(黒木ひかる)の脳を移植し
 てあったので、その恨みから黒鮫号を襲った。レーザー砲の照準が狂って、ブラッド・ロック島を撃
 ってしまい、黒鮫号は崩れ落ちる要塞の下に呑まれていった。

 他に、平田昭彦(姿博士)、黒部進(陳)、関田裕(ワレン)などが出演している。ところで、海底のロ
マンと言えば、ジュール・ヴェルヌ(Jules Verne, 1828-1905)の『海底二万里(Vingt mille lieues sous
les mers, 1870)』が有名であるが、子どもの頃そのリライト版を読んだ記憶はあるものの、岩波文庫版
(上下、朝比奈美智子 訳)は未読である。その代わり、『地底旅行(Voyage au centre de la terre,1864)』
は読んでおり(同じく岩波文庫版、朝比奈弘治 訳)、その印象は強烈である。たぶん、夕方から読み始め
たのであるが、あまりに面白いので、朝方までかかって徹夜で読んだ記憶があるからだ。地底には海洋があ
って、変わった生物が棲んでいるという辺りがとくに面白かったが、ルーン文字で書かれた暗号文を用いた
導入部分も素晴らしく、荒唐無稽のSF小説でありながら、ヴェルヌの才能は群を抜いていると思う。したが
って、『海底二万里』も読んでみたいのだが、それに比べると、当該映画はいかにもお粗末であった。SFXや
CGの技術の発達した今日においても、この脚本ではあまり面白い映画にはならないのではないかと思う。や
はり、もう少し、科学的な裏付が欲しかった。いくらなんでも、放射能免疫血清(そんなものがあれば、さ
まざまな問題が一気に解決する)や、異種間の脳移植の話は、ちょっといただけなかった。


 某月某日

 DVDで邦画の『釣りバカ日誌13 ハマちゃん危機一髪!』(監督:本木克英、松竹、2002年)を観た。前作
がマンネリ気味だったので、あまり期待していなかったが、よくまとまった佳作と言ってよいだろう。とく
に、ヒロインの桐山桂(鈴木京香)の父親逸夫役を演じた杉浦直樹が素晴らしかった。引籠もりの息子国夫
(臼井元寿)に対するあり方が秀逸だったからである。あれでいいと思う。また、ハマちゃん(西田敏行)
の首が飛ぶシーンも面白かった。さて、物語であるが、例によって、<goo 映画>のお世話になろう。執筆者
に感謝したい。なお、一部改変したが、ご寛恕を乞う。

  富山の老舗薬問屋である黒部屋天狗堂(天保元年創業)の会長で、釣り仲間である黒部五郎(丹波
 哲郎)から美術館建設の仕事を請け負ったものの、そのデザインを巡ってトラブルが発生したハマち
 ゃん。鈴木建設設計部のエースであり、ミス・スズケンと呼ばれる桐山桂と富山へ飛んだ彼は、なん
 とか黒部を説得し事態を収拾、余った時間で黒部と釣りを満喫することが叶う。ところが、そんなハ
 マちゃんに黒部が桂を自分の息子の嫁に欲しいと言い出した。変わり者の黒部だけに、機嫌を損ねて
 は契約がご破算になってしまう。しかも、桂には鮎川透(小澤征悦)という秘かな想いを寄せる人が
 いた。困り果てたハマちゃんは辞表を出す覚悟でスーさん(三國連太郎)と桂とともに富山へ行くが、
 実は黒部の息子海彦(パパイヤ鈴木)にはすでに妻子がいたことが発覚。こうして危機を乗り越えた
 ハマちゃんは、美術館の起工式を済ませ、スーさんと富山湾で鯛釣りを楽しむのであった。

 他に、浅田美代子(浜崎みち子)、奈良岡朋子(鈴木久江)、谷啓(佐々木和男課長)、岡本信人(浅利
真三郎=天狗堂の部長)、左時枝(鮎川君枝=透の母)、加藤武(秋山専務)、柴俊夫(原口人事担当取締
役)、鶴田忍(堀田常務)、小野寺昭(川島営業担当取締役)、笹野高史(前原社長付運転手)、中村梅雀
(草森秘書課長)、中本賢(太田八郎)、さとう珠緒(鯛子=営業三課員)、菅原隆一(浜崎鯉太郎)、猪
野学(亀岡)、梅津栄(岩魚釣りの佐伯名人)、立川志の輔(黒部の秘書)、岩崎ひろし(蛸島係長)、藤
田むつみ(海彦の妻)、岩倉高子(温泉宿女中)、松本麻希(鰻屋仲居)などが出演している。なお、前回
ちょっと出て来た八郎の妻のボリビア人のパトリシアが、外国人妻の会の旅行先で、エクアドル人の芸人と
できてしまい逐電。八郎には気の毒だが、哀愁の中に滑稽の匂いがした。


 某月某日

 「日日是労働スペシャル I-III(東日本大震災をめぐって)」で、内田樹氏のブログを引用してきたが、
今回はそちらのサイトで紹介するのは本筋から外れるので、通常の「日日是労働」で言及することにする。
以下に、引用してみよう。ほぼ、原文通りである。


  国旗国歌と公民教育(2011.05.17)

  橋下徹府知事率いる大阪維新の会は「君が代斉唱時に教員の起立を義務化する条例案」を今月の府
 議会に提出する。府教委はこれまで公立学校に対しては「教育公務員としての責務を自覚し、起立し
 斉唱する」ことを文書で指示してきた。この三月には卒業式の君が代斉唱時に起立しなかったとして、
 公立中学教諭が戒告処分を受けている。維新の会は「思想信条の問題ではなく、従来の教委の指導を
 遵守するように求める条例である」と説明している。府知事は、教育公務員が教委からの指示に従わ
 ないのは業務命令違反であり、今後とも指示に従わないというのなら辞職すべきであるという、さら
 に強い態度を取っている。
  国旗国歌問題については、これまでも何度も書いてきた。私が言いたいことはいつも同じである。
 国旗国歌は国民国家の国民的統合の象徴である。そうであるなら、ことの順番としては、まず「自分
 が帰属する国民国家に対する、静かな、しかし深く根づいた敬意をもつ国民」をどのようにして創り
 出してゆくか、ということが問題になるはずである。もちろん、それ以前に「国民国家なんか要らな
 い」というラディカルなお立場の方もおられる。「要らない」というのは原理的にはわかる(レーニ
 ンを読めば、ちゃんとその理由が理路整然と書いてある)。でも、原理的に「要らない」というのと、
 実践的に「じゃあ、なくしましょう」ということのあいだには千里の逕庭がある。理論的には「なく
 てもいい」はずなのだが、いきなりなくすわけにはゆかないものはこの世にはたくさんある。一夫一
 婦制度も、資本主義経済も、墳墓も、宗教も、賭博も、ヤクザも、ハリウッドバカ映画も、どれも理
 論的には「なくてもいい」はずなのだが、急にはなくせない。国民国家も「急にはなくせない」もの
 の一つである。
  もっとよいシステムについての代案が出るまで、これを使い延ばすしかない。EUが華やかな成功を
 収めて、ヨーロッパから国民国家というものがなくなってから、「じゃ、アジアでもなくしますか」
 という議論に入っても遅くはない、と私は思う。とりあえず国民国家はある。ある以上、その制度が
 機能的に、気持ちよく、できるだけみんながハッピーになるように統御することは、私たちの喫緊の
 実践的課題である。だから、「自分が帰属する国民国家に対する、静かな、しかし深く根づいた敬意
 をもつ国民」を組織的かつ継続的に送り出すことは必要である、と私は考えている。その任を担うの
 が、学校である。だから、国旗国歌について論じるとき、教師としては、何よりもまず国民国家とい
 う政治的装置の基盤をなす「公民意識」を子供たちにどう教え、いかにして彼らを成熟した市民に形
 成してゆくのかという教育の本質問題が論件の中心にならなければならない。だが、刻下の国旗国歌
 論を徴する限り、ほとんどすべての論者は「法律で決められたことなんだから守れ」といったレベル
 の議論に居着いており、「国民国家の成熟したフルメンバーをどうやって形成するか」という教育的
 論件に言及することはまずない。いわゆる「国旗国歌法」によって国旗国歌は1999年に定められた。
 その法律制定当時の首相であった小渕恵三は衆院本会議で、共産党の志位和夫議員の質問に答えて、
 こう述べた。
  学校における国旗国歌の指導は「国民として必要な基礎的、基本的な内容を身につけることを目的
 として行われておるものでありまして、子供たちの良心の自由を制約しようというものでないと考え
 ております」さらにこう続けた。「政府といたしましては、国旗・国歌の法制化に当たり、国旗の掲
 揚に関し義務づけなどを行うことは考えておりません」。
  私はこの首相答弁はごく常識的なものだと思う。私が首相でも、似たようなことをしゃべったはず
 である。国旗国歌法制定の趣旨は「国民として必要な基礎的、基本的な内容」の習得である。それだ
 けである。だとすれば、「国民として必要な基礎的、基本的な」学習内容とはいかなるものかという
 教育論がそこから始まるはずである。始まらなければならないはずである。だが、始まらない。始ま
 ったのは教員の処分と違憲訴訟だけである。この法律は公民教育を督励するためのものであり、教員
 に儀礼的ふるまいを義務化するものでも、個々の教員の教育理念や教育方法を制約するものでもない。
 私はそう理解している。というのも、まさに「公民教育はいかにあるべきか」という激烈で生産的な
 議論が終わりなく現場の教師たちによって、あるいは親たちによって、あるいは教育学者や教育行政
 官や政治家を巻き込んで続けられ、その過程でひとりひとりの教員が自説を論証するために、多様な
 教育方法を創案し、工夫することこそが、日本の子どもたちを市民的成熟に導く捷径であると私が考
 えているからである。だが、私に同意してくれる人はきわめて少ない。
  話を大阪のことに戻す。維新の会は条例案を思想信条にかかわる問題ではなく、単なる公務員の服
 務規定違反の問題であるとしている。だが、政党が発議し、知事が反対者の免職を示唆し、それに抗
 して「違憲ではないか」と疑義を呈する人々がいる以上、これは政治問題以外の何ものでもない。こ
 れを怠業とか背任とか情報漏洩とかいった公務員の服務規程違反と同列に論じることはできまい。繰
 り返し言うが、国旗国歌問題は「公民意識を涵養する教育はどのようにあるべきか」という、すぐれ
 て教育的な問いとしてとらえるべきだと私は考えている。だから、橋下知事が主張するような施策に
 よって、子どもたちの公民意識が劇的に向上するという見通しが立つなら、私はそれに賛成してもよ
 い。いや、ほんとうに。私はそういう点ではきわめてプラグマティックな、計算高い人間である。日
 本がそれで「住み易い国」になるという見通しが立つなら、私は誰とだって同盟するし、誰の靴だっ
 て舐める。けれども、残念ながら、橋下知事は国民国家の公民意識を涵養するために学校教育は何を
 なすべきかという論件には一片の関心も示していないし、それについてのアカウンタビリティも感じ
 ていないようである。橋下知事は着任以来、大阪府の教育関係者を、教育委員会も、現場の教職員も
 ひとしく罵倒することで有権者のポピュラリティを獲得してきた。その結果、大阪府民の学校制度に
 対する信頼と期待はずいぶん低下したと思う。ある意味、これこそ知事の最大の功績と言ってもいい
 くらいである。知事の学校不信・教員軽視は有権者である大阪府民のうちにも拡がり、当然のことな
 がら、大阪府の子どもたちにも深く根づいた。今の大阪府の子どもたちは、おそらく日本でもっとも
 学校の教師に対する信頼を傷つけられた集団であろう。それだけの否定的評価にふさわしい出来の悪
 い教師たちなのだから、彼らが子どもに侮られ、保護者に罵倒されるのは自業自得だ、と。そう知事
 は言いたいのかも知れない。なるほど。ほんとうに、そうなのかもしれない。現に、おそらく多くの
 府立学校の教師たちは、知事の期待通り、この条例が可決された後、ずるずると教委の指示に従って、
 不機嫌な顔で起立して、国歌を斉唱するようになるだろう。だが、子どもたちはそれを見てどう思う
 だろうか。おそらく彼らを「処罰の恫喝に怯えて、尻尾を巻いた、だらしのない大人」だとみなすだ
 ろう。たしかにそう言われても教師たちは反論できまい。だから、子どもがいっそう教師を侮る趨勢
 はとどめがたい。この条例がもたらすもっとも眼に見える教育的効果はそれだけである。だが、教師
 たちを脅え上がらせ、上司の顔色をおどおどと窺うだけの「イエスマン」教師を組織的に創り出すこ
 とを通じて、いったい知事は何を達成したいのか、それが私にはわからない。
  たしかに、教師たちをさらに無気力で従順な「羊の群れ」に変えることはできるだろう。そして、
 そのような教師を子どもたちが侮り、その指示を無視し、ますます教育崩壊を進行させることはでき
 るだろう。私にわからないのは、それによって子どもたちは学校教育からいかなる「よきこと」を得
 るのか、それによって子どもたちの公民意識はどのように向上するのか、ということなのである。


 「国旗国歌問題」や、「公民教育問題」には、さまざまな立場からのさまざまな意見があると思う。「日
の丸」や「君が代」にアレルギー反応を示す人が多いことも知っている。これは、「天皇制」に深く関わる
問題であり、もう少し国民の間でタブーなしに論議された方がいいと小生も考えている。また、教師を扱き
下ろすことは簡単だ。小生も、児童、生徒、学生という立場だった頃、よく教師を罵倒したものである。も
ちろん、面と向かって反抗することもあったし、陰で悪口を言うこともあった。しかし、それは教師に期待
していたからで、けっしてその人自身をバカにしていたわけではない。もし、橋下知事の思惑が外れて、大
阪の公民教育が混乱したとすれば、それは、基本的に「人間を信頼しない」方向に向かっているからだと思
う。どんな人間にも言い分はある。したがって、意見の異なる人同士で、よくよく話し合いをすべきではな
かろうか。法律を笠に着て何ごとかを敢行すれば、恨みを買うだけだと思う。話は飛ぶが、福島原発の関係
者を罵倒することはたやすい。ビン・ラーディンを糾弾することも容易だ。自分の考えと大きく異なる人は
憎く見える。しかし、その人だって、さまざまな事情から、その結論を得たのだろう。摺り合わせるのは難
しいが、互いに粘り強く接点を持とうとすることの方が、単純に喧嘩するよりも成果があがると思う。小生
は、内田樹氏同様、きわめてプラグマティックな、計算高い人間(彼は、本当にそう思っているのか)なの
で、そう考えるのかもしれない。


 某月某日

 DVDで邦画の『クレージー・メキシコ大作戦』(監督:坪島孝、渡辺プロ=東宝、1968年)を観た。『ク
レージー黄金作戦』(監督:坪島孝、渡辺プロ=東宝、1967年)の二番煎じ。アメリカ合衆国から、当時オ
リンピックが開催されることになっていたメキシコに舞台が変わっただけの作品である。内容としては、メ
キシコのオルメカ(Olmeca)文明 * の財宝をめぐって、クレージーキャッツ(スペイン名は「ロス・ガト
ス・ロコス」である)の面々が活躍するドタバタ喜劇。例によって、物語や配役に関しては、<goo 映画>の
お世話になろう。執筆者に感謝したい。なお、一部改変した箇所があるが、ご寛恕を乞いたい。

 * オルメカ(Olmeca)とは、紀元前1200年頃から紀元前後にかけ、先古典期のメソアメリカで栄えた文化、
  文明である。アメリカ大陸で最も初期に生まれた文明であり、その後のメソアメリカ文明の母体となっ
  たことから、「母なる文明」と呼ばれる(ウィキペディアより)。

  日本で開かれたメキシコ展の会場から、秘宝のありかを知る手掛りとなる石像が盗まれた。盗んだ
 のはムショ帰り早々の花岡組の清水忠治(ハナ肇)だったが、逃げる途中、ひょんなことから、石像
 は大酒飲みの酒森進(植木等)の手に渡った。抜け目のない酒森は、美術専攻の学生である村山絵美
 (浜美枝)に偽物をつくらせ、それを五百万円で花岡組に売りつけたのだ。花岡組はアメリカのギャ
 ングのボスのルウ・コステロ(デッド・ガンサー)から石像を手に入れると命令されていたのだった。
 偽の石像を待って花岡は秘書の秋本光子(大空真弓)とアメリカに飛んだが、光子と結婚するつもり
 の忠治もその後を追った。一方、進は、ギャング団のボスが悪性の癌にかかり、名医中村馬之助博士
 (藤田まこと)を拉致して博士に手術させようと日本に来た子分の日系人ケン(桜井センリ)に、間
 違えられてアメリカに連れられて行った。また、殺人事件に巻き込まれた希望銀行の主任の鈴木三郎
 (谷啓)は、塚田刑事(犬塚弘)に追われて新婚旅行の行先であったアメリカに逃げ出した。鈴木の
 恋人である相川雪子(園まり)もその後を追った。その頃、進がデタラメにやった癌の手術が成功し、
 ボスから感謝されたが、居合せた花岡親分に石像が偽物と見破られ、追われてメキシコへ逃げた。そ
 こには忠治と鈴木がいて、同じ日本人ということで、行動を共にすることになった。ある日、美しい
 メキシコ娘マリア(アンナ・マルティン)から石像の秘密はピラミッドに隠されている秘宝らしいと
 聞いて、三人はピラミッドを捜し回り、ついに大秘宝のありかをさぐりあてた。そのあと、三人はア
 カプルコに豪遊としゃれこみ、そこに来ていた絵美、光子、雪子と再会した。しかし、彼らをギャン
 グ団が狙っていた。一味はまんまと進たちの持っていた大量の宝石を手に入れたが、そこで格闘にな
 った。知らせで駆けつけたメキシコ警察はギャング団を取り押さえ、進たちはメキシコの秘宝を救っ
 た大恩人ということになった。
 
 他に、石橋エータロー(石山=鈴木の部下の銀行員)、安田伸(メキシコ大学の留学生立原)、春川ます
み(由香利=花岡平造の女)、東郷晴子(料亭「大和」の女将)、浦辺粂子(鈴木うめ=三郎の母)、浦山
珠実(大林令子=三郎の婚約者)、十朱久雄(大林常務=令子の父)、藤岡琢也(伊沢=芸能ブローカー)、
田武謙三(花岡平造=花岡組の親分)、中丸忠雄(松村=忠次の兄貴分)、ハロルド・コンウェイ(ベン・
ケーシ医師)、ミシェル・ウーハー(アル)、草川直也(コステロの子分A)、オスマン・ユセフ(コステ
ロの子分B)、人見明(保護センター警官)、豊浦美子(大学病院の看護婦)、加藤茶(アルバイト学生)、
いかりや長介(パトロールの警官)、荒井注(パトカーの警官A)、仲本工事(パトカーの警官B)、高木
ブー(パトカーの警官C)、沢田研二(マリアの恋人)、塩沢とき(ホステス)、天本英世(メキシコの山
賊の親分格)、中尾ミエ(ショー場面の出演)、ザ・ピーナッツ(同)などが出演している。劇中で、園ま
りが「あなたのとりこ」という歌を歌っている。当時、小生が大好きだった(今でも好きな)歌手である。
なお、虎箱(酔っ払いを収容する警察の施設。泥酔者保護所。現在は存在しない)のことを「タイガース・
ホテル」と呼んでおり、ちょっと面白かった。また、「泣き売り」(サクラを使いながら、人々の同情を誘
って物を売る商売の方法)、グアダルーペ寺院のマリア(有色人種のためのマリア様)、「人生二万五千日」
などが小生の関心を惹いたことを記しておこう。


 某月某日

 本日、18時30分から19時40分ぐらいにかけて、「日独交流150周年記念講演会」(於 高知大学人文学部第
一会議室)が開催された。演題は「日独交流150年」だった。150年前の1861年に、プロイセン(当時のドイ
ツ)と日本(江戸幕府)の間で、「日独修好通商条約」が締結された由。さて、講師のアレクサンダー・オ
ルブリッヒ(Dr.Alexander OLBRICH)氏(ドイツ連邦共和国総領事)は、江戸末期から現在にかけての、日
本とドイツの間の交流について、簡潔なお話をされた。さて、質疑応答の段になって、ドイツの原発事情に
ついて質問させていただいた。それによると、7基ある原発はすでに廃炉が決定しているそうである。チェ
ルノブイリの原発事故以来、ドイツにおいて原発は廃止の方向に動いていることはすでに知っていたが、そ
の事実が明確になった。国民の70パーセントの人が「脱原発」の考えをもっている由。もちろん、エネルギ
ー問題については、慎重に論議しているそうだが……。そして、そのような政治的な動向には、「緑の党」
が大きく影響しているらしい。民意があまり政治に反映しない日本の事情とは、大いに異なるようである。
環境問題を政策の一端に挙げていた政党としては、今はなき「新党さきがけ」を思い出すが、その志を継い
だ、俳優の中村敦夫が代表者だった「みどりの会議」は、参院選の比例代表区で90万票余を獲得しながらあ
えなく落選(2004年)。ドイツと日本ではまったく様相が違うという感想をもったことを憶えている。なお、
オルブリッヒ氏が、「日本には、地熱発電の可能性が十分に考えられるのでは」といったお考えを披瀝して
いたことを書き加えておこう。


 某月某日

 DVDで邦画の『眉山』(監督:犬童一心、「眉山」製作委員会〔東宝=フジテレビジョン=幻冬舎=博報
堂DYメディアパートナーズ=関西テレビ放送=PPM=キアロスクーロ(IMJ-E)〕、2007年)を観た。さだま
さし原作の小説を映画化した作品だそうで、さだ色がよく出ていると思った。つまり、いいことはいいが、
退屈な一篇といったところか。最初、題名から、川上眉山に関係する物語かと思ったが、徳島県にある眉山
がその題名の由来で、ある男女の思い出の場所ということになっている。阿波踊りの再現は豪快だが、ただ
それだけの物語。毒にも薬にもならない一篇。善人しか出てこない映画を観ていると、本当に腹が立ってく
る。これは小生の性分なので仕方がない。宮本信子を久し振りに見たが、伊丹十三を亡くしてからの彼女は
険がありすぎて、あまり好きになれない。気風のよい江戸っ子の女を演じていることになっているが、ちょ
っとイヤミがすぎるのではないか、と思った。物語に関しては、例によって、<goo 映画>のお世話になろう。
執筆者に感謝したい。なお、一部改変したが、ご容赦を乞う。

  東京で旅行代理店に勤める咲子(松嶋菜々子)は、故郷の徳島で暮らすただ一人の家族である母、
 龍子(宮本信子)が入院したという報せを受け、久々に帰郷する。「神田のお龍」と呼ばれる母は、
 正義感の強いチャキチャキの江戸っ子。周囲からの信頼は厚かったが、経営していた小料理屋を畳
 む時もケアハウスに入所する時も、相談なく決断してきた母の身勝手さに、咲子は反発を感じてい
 た。まもなく咲子は、担当医の島田修平(永島敏行)から母が末期癌だと知らされ愕然とする。残
 された時間はあとわずか。青年小児科医の寺澤大介(大沢たかお)との交流を深めながら、母を懸
 命に看病する咲子。そんなある日、咲子は板前の松山賢一(山田辰夫)から、龍子から預かってい
 るという箱をこっそり手渡される。そこには、死んだと聞かされていた咲子の父らしき男の若き日
 の写真が入っていた。咲子は母宛に書かれた古い手紙を頼りに、父を探しに東京へ戻る。そして彼
 女は、小さな病院を開業している父の篠崎孝次郎(夏八木勲)と対面する。自分が娘であることは
 告げられなかったが、父の記憶は鮮やかに蘇った。父は龍子を心から愛していたが、道ならぬ恋だ
 ったため、看護師でもある妻(入江若葉)を捨てることができなかったのだ。再び徳島へ戻った咲
 子は、母の死期が近いことを知る。そして母と父を再会させるために、母を阿波踊りの会場へと連
 れ出すのだった。

 他に、黒瀬真奈美(咲子の少女時代)、本田博太郎(綿貫秀雄=咲子の上司)、金子賢(吉野三郎=かつ
て龍子に窘められたことのある俳優)、中原丈雄(小畠剛=院長)、円城寺あや(大谷啓子〔別のデータで
は、容子〕)、上田耕一、河原崎建三などが出演している。なお、たぶん「白菊会」(医学および歯学の発
展のため、死後に自分の肉体〔遺体〕を解剖学の実習用教材となる事を約し、遺族が故人の意思に沿って医
学部ならびに歯学部の解剖学教室などに提供する〔篤志献体〕の組織である:ウィキペディアより)に相当
する「夢草会」という団体が登場するが、実際に合同慰霊祭を行っているのだろうか。この点については、
初めて知った。献体者が医学生に遺すメッセージ・シートというのも実際に存在するのだろうか。存在する
とすれば……いや、仮定の話はこの辺りで打ち切っておこう。


 某月某日

 DVDで邦画の『眠狂四郎勝負』(監督:三隅研次、大映京都、1964年)を観た。今回の物語は凝っており、
しかも江戸情緒の描き方にも工夫が見られ、傑作に近い出来だと思う。配役も成功しており、勘定奉行であ
る朝比奈伊織(加藤嘉)、敵方の間諜である采女〔うぬめ〕(藤村志保)、堀家高姫様付御用人である白鳥
主膳(須賀不二男)、将軍家斉の息女である高姫(久保菜穂子)、町娘のつや(高田美和)など、実に活き
活きとしている。また、「尻押し仕ろう」(長い階段などを上る際、木のつっかえ棒で人の尻を押して楽に
させる商売の口上)や、二八そばの口上、あるいは、正月に相応しい宝船の絵を販売する際の口上などが、
物語に奥行を与えていた。さて、物語であるが、例にって<goo 映画>の「あらすじ」に頼ってみよう。執筆
者に感謝したい。なお、一部改変したが、ご容赦いただきたい。

  愛宕神社の境内、眠狂四郎(市川雷蔵)は赤座軍兵衛(浜田雄史)と名乗る侍の手から老人を救っ
 た。一向に風采のあがらないその老人が朝比奈という勘定奉行の職にある男と聞いて狂四郎は興味を
 唆られた。狂四郎の耳には幾つかの興味ある事実が入った。家斉の息女高姫は堀家に嫁ぎながら、早
 くから夫を失い奔放で驕慢な生活をしていること、そして、用人主膳は札差、米問屋などに賄賂とひ
 きかえに朝比奈の抹殺を約していること。また、赤座も朝比奈を狙っていること、等々。ある日、遊
 楽帰りの高姫に出会った狂四郎は、主膳が手練の殺人者をくり出す事を知りながら、小気味よいいた
 ずらっけを楽しんでいた。よりすぐりの殺人者が揃った。赤座に加えて、増子紋之助(成田純一郎)、
 榊原喜平太(五味龍太郎)、海老名良範(戸田皓久)、それに、キリスト教の布教の廉で囚われてい
 る夫を救うために主膳の膝下にある采女が加わっていた。動機も武術も異る五人は、狂四郎の身辺に
 危害を加えようと立ち廻った。ある日狂四郎の前にあらわれた采女の妖しい魅力にひきつけられて居
 酒屋ののれんをくぐると、不覚にも高姫の罠にかかり、両手を縛られ、高姫の褥の傍に据えられた。
 動けぬ狂四郎を前に、手をかえ品をかえてせまってくる殺人者の中を、生きぬけた狂四郎に、全てを
 失敗した主膳は、狂四郎と柳生但馬守(浅野進治郎)との御前試合を計った。冷い眼をすえる高姫の
 前で、見事狂四郎は相手の策略を逆手に取った。敗北を認める高姫の口から、思わず浪人狂四郎を慕
 う言葉がもれた。しかし、なおも諦めない主膳は、采女を囮りに狂四郎を狙っていた。殺気を孕む武
 蔵野の枯野原で、対決の時は刻一刻と迫まっていった。

 他に、丹羽又三郎(神崎三郎次)、嵐三右衛門(大口屋)、原聖四郎(和泉屋)、橘公子(茶屋の女)、
木村玄(伊織の配下の武士)などが出演している。狂四郎の「侍であってもなくても、人の世は、所詮殺し
合いだ」という台詞や、高姫に向けて言い放った「何番目の妾の子だ」などは、狂四郎の面目躍如といった
言い回しである。その狂四郎が、蕎麦を喰らうシーンも情趣があってよかった。


 某月某日

 DVDで邦画の『続・座頭市物語』(監督:森一生、大映京都、1962年)を観た。続篇とあるように、前回
の登場人物の一部が再度出演している。座頭市(勝新太郎)は当然であるが、その他に、飯岡助五郎(柳永
二郎)とおたね(万里昌代)である。市は相変わらず強いが、その強さゆえに大事な人を亡くしている。平
手造酒(天知茂)〔今回は出演せず〕である。その造酒の墓参りに来た市を、助五郎は斬ろうとするが、返
り討ちに遭う。その他、市の盲目になる以前のエピソードが披露され、実の兄の渚の与四郎(城健三朗〔=
若山富三郎〕)まで出演している。つまり、勝新太郎の実兄が市の実兄の役を演じているのである。与四郎
と市は、千代という女を挟んで争った仲という設定である。その千代にそっくりの飯盛女であるお節(水谷
良重〔現 二代目水谷八重子〕)が登場するが、この頃の大映映画で何度かお目にかかっている。市の居合
斬りは意外に泥臭く、与四郎との対決もさほど興奮を呼ばない。さて、物語であるが、<Wikipedia>の「あ
らすじ」から引用させていただく。執筆者に感謝したい。なお、一部改変したが、寛恕を乞う。

  下総取手川の渡しで、市は旅のヤクザ達といざこざを起こす。川を渡り終えた後、ヤクザ達は眠っ
 ている市に襲いかかろうとするが、隻腕の浪人風の男に追い払われた。按摩が表家業の市は、関宿の
 本陣に逗留中の黒田家の殿様の療治に呼ばれる。殿様は発狂していたため、黒田家中の侍達は口封じ
 に療治を終えて帰路につく市の命を狙うようになった。
  家中の侍二人を斬った市は、飯屋で出会った飯盛女のお節から黒田家が総出で市の居場所を探して
 いることを聞く。 お節は、かつて市が惚れ、後に奪われた女である千代に似ていた。 その飯屋に隻
 腕の男が入ってきて、お節に酌を強要する。 その男にとっても、お節はかつて惚れた女に似ていた。
  お節のお陰で難を逃れた市は、一年前に心ならずも斬ってしまった平手造酒の一周忌のために笹川
 に向かった。一方、市とは因縁浅からぬ飯岡助五郎のもとに草鞋を脱いでいた隻腕の男である渚の与
 四郎は、その兇状のために追い出されるように旅に出る。
  黒田家中から市を殺す仕事を請け負った関の勘兵衛(沢村宗之助)は、市を追い助五郎のもとに逗
 留し、助五郎もまた市の捕殺のために協力を約束した。
  平手の法要の後、市は勘兵衛一家と斬りあう。そのさなか、与四郎が現れ一人生き残った勘兵衛を
 追い払い、市に斬りかかる。与四郎とは市の実の兄で、かつて市の惚れた女であるお千代を市から奪
 い、報復から市に片腕を切り落とされ隻腕になった過去をもっていた。隻腕にされた恨みから斬りか
 かる兄と、身を守るために仕込みを抜く弟。そこへ与四郎を捕らえるための捕吏達と、与四郎の居場
 所を訴人した飯岡の助五郎が現れる。

 他に、中村豊(鏡の三蔵=与四郎の相棒)、杉山昌三九(民五郎)、山路義人(弥平)、嵐三右衛門(吉
田甲斐)、伊達三郎(森助)、春本富士夫(黒田越前守)、水原浩一(勘造)、南条新太郎(白石左門)、
南部彰三(柏屋五右衛門)、浅尾奥山(金兵衛)などが出演している。なお、出演者に関しても、<Wikipedia>
を参照した。
 蛇足ながら、座頭市の出身地が披露されている。映画の中の勝新は「ジョウシュウのカサマ」と発音して
おり、「上州(上野国)」か、「常州(常陸国)」かは判然としない。しかし、旧国名の常陸には笠間とい
う地名があり(現在の茨城県笠間市)、「座頭市の碑」が存在するという。その碑によると、「1818年笠間
の城下町に生を得たが、すぐにみなしごになり光りも失って按摩修業、そのかたわら居合術の技を磨いて関
八州の旅に出た」との由(ネット情報より)。


 某月某日

 DVDで邦画を2本観たのでご報告。なお、現在では不適切とされている言葉を用いるが、歴史的な背景を
もっているので、そのまま使わせていただく。他意はないので、ご了承いただきたい。2本とも定評のある
原作(前者は川端康成、後者は松本清張)を戴いており、2本ともリメイクされた作品である。1本目は、
『雪国』(監督:豊田四郎、東宝、1957年)である。こちらが先行作品であり、後に、『雪国』(監督:大
庭秀雄、松竹大船、1965年)というリメイク作品が公開されている。
 2本目は、『ゼロの焦点』(監督:犬童一心、「ゼロの焦点」製作委員会〔電通=東宝=テレビ朝日=木
下工務店=朝日新聞社=日販=Yahoo! Japan=TOKYO FM=朝日放送=メーテレ=IMJエンタテインメント=
TSUTAYAグループ=FLaMme=九州朝日放送=北海道テレビ=北陸朝日放送=広島ホームテレビ=愛媛朝日テ
レビ〕、2009年)〔なお、「メーテレ」の「ー」は、波線の代用〕である。今度は、逆に、こちらの方が先
行作品『ゼロの焦点』(監督:野村芳太郎、松竹大船、1961年)のリメイク作品である。
 今回鑑賞した作品は、どちらも「娯楽性」という点では十分に元の取れる出来栄えだが、小生の評価はと
言えば、以前に観た作品の方に軍配を上げたい。今回鑑賞した作品は、どちらにも外連味がありすぎて、か
えって前回観た作品の素朴さに負けていると思った。たとえば『雪国』の駒子であるが、前回の岩下志麻の
方が、今回の岸恵子よりもよかった。岸版の駒子は、島村に対する甘えが勝ちすぎていて、不幸な境遇が安
っぽくなったような気がしたからである。『ゼロの焦点』の方は時代が経ちすぎていて、「パンパン」とい
う境遇の重さがあまり伝わってこなかった。かたや、高千穂ひづる(室田佐知子=マリー)と有馬稲子(田
沼久子=エミー)と、こなた、中谷美紀(マリー)と木村多江(エミー)とを比較してみると、前者の女優
の方が時代を知っているだけにそれなりの雰囲気が出ていたが、後者はパンパンの荒み方において無知と思
われるので、パンパンらしき服装をしてはいても、全然パンパンに見えないのである。むしろ、パンパンを
廃業した後のエミー(木村多江)こそが、パンパンらしき雰囲気を漂わせていたが。もっとも、岸恵子や中
谷美紀が、岩下志麻や高千穂ひづるよりも劣ると言っているわけではない。やはり、演出の問題なのだろう。
中谷美紀の異常さの演技はもう少し押さえ気味の方がよかったと思う。映画においては、テレヴィ的な大袈
裟な演技は要らない。どうも、最近の映画はテレヴィ的演出(大衆受けを狙っている)が多すぎて気に入ら
ないのである。なお、当然のことだが、小生は芸者やパンパンに詳しいわけではない。その点で誤解はない
と思うが……。
 さて、物語に関しては、例によって、<goo 映画>の「あらすじ」のお世話になろう。執筆者に感謝したい。
なお、一部改変したが、ご寛恕を乞う。先ず、『雪国』の方からである。

  国境の長いトンネルを抜けると雪国であった……その雪に深く埋れた名もなき温泉場に日本画家の
 島村(池部良)は、昨年知り合った駒子(岸惠子)が忘れられずに訪れた。駒子は養母(三好栄子)
 とその息子行男(中村彰)の治療費を稼ぐため芸者になっていた。彼女の義妹葉子(八千草薫)は島
 村と駒子の仲を憎しみの眼で瞶めた。だが、二人の胸には激しい愛の炎が燃え立っていた。二人とも、
 とうてい結ばれぬ恋だとは覚っていたが、年に一度の逢う瀬が、いつしか二人にこの上ない生き甲斐
 となってしまった。島村には東京に妻子がいた。駒子には養うべき人々と、そのための旦那をもって
 いた。駒子は島村と一緒に浮き浮きして楽しそうだった。しかし、夜、島村と二人きりになると、駒
 子はままならぬ二人の運命の切なさに身もだえするのであった。その冬島村が帰京する日駒子は駅に
 見送りに来ていると、葉子が行男の急変を知らせに来たが、人の死ぬのを見るのはいやと、家とは逆
 の方向に歩いていった。次の年、約束より遅く島村は来た。すでに養母も行男も死んでいなかった。
 駒子は旦那とも手を切っていた。そんな彼女に島村は、妻にも話したから一緒に東京へ行こうといっ
 た。駒子はその彼を呆然と見つめていたが、あんたは年に一度来る人……といって突伏した。翌晩、
 酔った駒子が島村の部屋に入って来た。抱き寄せる島村に駒子は悲しく無抵抗であった。翌朝、島村
 は駒子に、この雪国に来ないことがせめても君への謝罪だといった。愛の激しさ、厳しさ、哀しさを
 噛みしめながら二人は別れた。その夜、映画会をやっていた繭倉が火事になって、葉子は顔中大火傷
 を負った。……島村は次の年も、その次の年も姿を見せなかった。駒子は葉子を一生の荷物として、
 山袴にゴムの長靴をはいて雪の中を今日もお座敷へ急いでいた。

 他に、久保明(佐一郎=葉子の弟)、浪花千栄子(おたつ=高半旅館の女中)、加東大介(高半旅館の主
人)、東郷晴子(高半旅館のお内儀)、田中春男(高半旅館の番頭)、森繁久彌(伊村=県会議員)、浦辺
粂子(駒子の母)、若宮忠三郎 (駅長)、多々良純(万吉=高半旅館の番頭)、中田康子(花枝=女給)、
万代峯子(菊勇=芸者)、市原悦子(勘平=芸者)、千石規子(女按摩)、谷晃(旦那の使いの男)、沢村
いき雄(消防団員)などが出演している。
 次に、『ゼロの焦点』である。

  結婚式から7日後。仕事の引継ぎのため、以前の勤務地である金沢に戻った鵜原憲一(西島秀俊)
 が姿を消す。憲一の妻である禎子(広末涼子)は、見合い結婚のため夫の過去をほとんど知らず、失
 踪の理由もさっぱり見当がつかない。夫の足跡を辿って金沢へと旅立った禎子は、憲一のかつての得
 意先企業、室田耐火煉瓦会社で社長夫人の室田佐知子(中谷美紀)、受付嬢の田沼久子(木村多江)
 という2人の女性と出会う。日本初の女性市長選出に向けて支援活動に精を出す佐知子。教養がなく
 貧しい出身だが、社長のコネで入社した久子。決して交わるはずのなかった3人の女性の運命だった
 が、憲一の失踪事件がきっかけとなり、複雑に絡み合っていく。一方、憲一の失踪と時を同じくして
 起こった連続殺人事件に関して、ある事実が判明する。事件の被害者は、いずれも憲一に関わりのあ
 る人間だったのだ。夫の失踪の理由とは? 連続殺人の犯人の正体とその目的は? 全ての謎が明ら
 かになるとき、衝撃の真相が禎子を待ち受ける……。

 他に、杉本哲太(鵜原宗太郎=憲一の兄)、崎本大海(亨=佐知子の弟)、野間口徹(本多良雄=憲一の
後輩社員)、黒田福美(上条保子=女性市長候補)、本田博太郎(青木=東洋第一広告社金沢出張所所長)、
鹿賀丈史(室田儀作=佐知子の夫)、左時枝(大隈)、市毛良枝(禎子の母)、小泉博(佐伯)、モロ師岡
(米田主任)、小林茂光(葉山=警察官で憲一の元同僚)などが出演している。なお、昭和32年頃の時代考
証に関してはたいへん優れていると思う。ヒルマン、ブルーバード、ルノーなどの自動車、金沢市の風景、
蒸気機関車と駅舎、古い建造物、台所用品などなど、なかなか凝っていたと思う。しかしながら、それでも
どこか違うと感じてしまうのは、致し方ないことなのだろう。所詮、完全な復元は不可能なのだから……。
 なお、両作品ともに、配役等に関しても<goo 映画>のお世話になった。


 某月某日

 DVDで邦画を2本観たのでご報告。1本目は『本日休診』(監督:渋谷実、松竹大船、1952年)、2本目
は『愛の渇き』(監督:蔵原惟繕、日活、1967年)である。どちらも同じ題名の文芸作品を原作に戴いてい
るが、評判ほど面白いとは思えなかった。前者が井伏鱒二、後者が三島由紀夫である。とくに後者は観念的
で、言い換えれば、いかにもつくりものめいた作品だったので、主演の浅丘ルリ子の演技が高く評価されよ
うとも、小生には凡作としか思えなかった。それぞれ、物語を<goo 映画>の「あらすじ」に頼って追ってみ
よう。執筆者に感謝したい。なお、一部改変したが、寛恕を乞う。それでは、前者から引用してみよう。

  戦争で一人息子を失った三雲医院の八春先生(柳永二郎)は甥の伍助(増田順二)を院長に迎え、
 戦後再出発してから丸一年の記念日、伍助はこの日看護婦〔現 看護師〕の瀧さん(岸惠子)たちと
 温泉へ出かけて行き、三雲医院は「本日休診」の札を掲げた。八春先生はこの機会にゆっくり昼寝で
 もと思っていた矢先、婆やのお京(長岡輝子)の息子勇作(三國連太郎)が例の発作を起こしたとい
 う。勇作は永い軍隊生活の悪夢にまだ折々なやまされ、八春先生はそのたびに部隊長となって号令、
 部下の気を鎮めてやらなければならぬ。勇作が落着いたら、こんどは警察の松木ポリス(十朱久雄)
 が大阪から知り合いを頼って上京したばかりで昨夜おそく暴漢におそわれたあげく持物さえうばわれ
 た津和野悠子(角梨枝子)という娘をつれて来た。折りから十八年前帝王切開で母子ともども八春先
 生に助けられた湯川三千代(田村秋子)が来て、悠子に同情してその家へ連れて帰った。しかし、八
 春先生はそれでも暇にならず、砂礫船の船頭(山路義人)のお産あり、町のヤクザ加吉(鶴田浩二)
 が指をつめるのに麻酔を打ってくれとやって来たのに、こんこんと意見もしてやらねばならず、悠子
 を襲った暴漢の連れの女(望月優子)が留置場で仮病を起こし、兵隊服の男(多々良純)が盲腸患者
 をかつぎ込んで来て手術をしろという。かと思うとまたお産があるという風で、「休診日」は八春先
 生には大変多忙な一日であった。ともあれ、悠子は三千代の息子春三(佐田啓二)の世話で会社に勤
 め、加吉はやくざから足を洗って恋人のお町(淡島千景)という飲み屋の女と世帯を持とうと考えた。
 しかし、お町が金のため成金の蓑島の自由になったと聞いて、その蓑島を脅迫に行き、お町はお町で
 蓑島の子を流産して八春先生のところへかつぎ込まれた。兵隊服の男は、治療費が払えず盲腸を患っ
 た男とともに窓から逃げ出すし、加吉はまたまた賭博であげられたりする。お町は一時あぶなかった
 が、しかしどうやら持ち直した。このように、八春先生をとり巻く周囲にはいつも色々な人生問題が
 渦を巻いていたが、先生はそれでも希望を失わず、勇作の号令で夜空を横切って行く、少年航空兵に
 見立てた雁に向かって敬礼もするのだった。

 前線で亡くなった兵隊の指を焼いて骨にし、それをメンソレータムの空缶に入れる話とか、盲腸にはハコ
ベとゴボウを煎じたものが効くといった民間療法の話とか、暴漢に襲われた若い女を慰める際に「なぁに、
一張羅の着物をちょいと汚したにすぎない」と言ってみたりする話とか、「ヤクザ」を言い換えるのに、本
人の場合は「遊び人」と称し、傍からは「与太者」と陰口される話とか、まだまだ敗戦直後の雰囲気が活き
ている物語である。昭和20年代後半、すなわち小生が生まれた時代なので、妙に親近感が沸くのだが……。
他に、中村伸郎(竹さん=お町の兄)、市川紅梅(豊子夫人)などが出演している。八春先生の役を演じた
柳永二郎は、最近観た『座頭市物語』(監督:三隅研次、大映京都、1962年)で飯岡助五郎の役を好演して
いたので、この八春先生との対照を愉しむことができた。巧い役者は、どんな役でもそれなりにこなせる証
左である。
 今度は、後者を引用してみよう。

  杉本悦子(浅丘ルリ子)は夫良輔(小高雄二)の死後も杉本家に住み、いつしか義父の弥吉(中村
 伸郎)とできていた。杉本家は阪神間の大きな土地に農場をもち、広い邸宅の中には、元実業家の弥
 吉、大学の非常勤講師としてギリシャ語を教えている長男の謙輔(山内明)、その妻の千恵子(楠侑
 子)、出戻り娘の浅子(小園蓉子)、その娘の信子(志波順香)、同じく息子の夏雄(岩間隆之)、
 園丁の三郎(石立鉄男)、女中の美代(紅千登世)、そして悦子が、家庭のぬるま湯の中で、精神の
 飢えを内に秘めながら暮していた。その中でも悦子は弥吉との関係を断ちがたく、そのこころは愛に
 渇き切っていた。その悦子がある日ふとこころを動かしたのは園丁の三郎であった。若くひきしまっ
 た身体の粗野なたくましさは、悦子のいる世界とは異質であるが、何か彼女の渇いたこころを満たす
 湧水のようであった。買物のついでに三郎に靴下を買い与えた悦子は、三郎に深く魅かれていった。
 また三郎もそんな妖艶さを秘めた悦子にこころ惑わされるのであった。だが悦子は女の直感で女中の
 美代が三郎と恋仲であることを見破った。美代は三郎の子供をみごもっていた。表面静かに見える杉
 本家にとってこれは重大事であった。とりわけ悦子は、美代が三郎の子供をみごもったことに深い嫉
 妬を覚えていた。胎児を始末させた悦子を恨みながら美代は郷里へ帰った。美代から愛を奪った悦子。
 だが、三郎も家族も何事もなかったように働いている。その頃、弥吉は農園を売り悦子を東京に連れ
 てゆく計画を立てていた。その東京行がせまった頃、悦子は三郎と逢引の約束をした。三郎と温室で
 落ち合った悦子は、自分のこころの渇きを訴えたが、三郎の強い抱擁がただの男の暴力だと知った悦
 子は、三郎を突き放した。弥吉が血相を変えてかけつけた。鍬をふりあげた弥吉の手をとった悦子は、
 自ら三郎の肩と頭に振り下ろした。絶命した三郎の始末を済ませた悦子は、弥吉に別れを告げると、
 自分を始末するため去っていった。

 作風としては、吉田喜重や篠田正浩のそれに近いだろうか。映像的にもさほど取り上げるべき箇所もなく、
陰気な映画としか言いようがない。ラストシーンでカラーになるが、ほとんど効果はない。むしろ、悦子が
三郎を殺害するシーンで色を使って欲しかった。

                                                  
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