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川本 真浩
勝手に走り論 (新SOULS版)
ラジオ私感/史観
ローンボウルズ、良くも悪くもイ...
ローンボウルズひとりがたり
勝手に走り論 (新SOULS版)
「スポーツ」に関連した一人語り、個人的意見を書いていきます。
なお、同僚の例に倣い、次のような事項を注記しておきます。
・ウェブサイト利用の最低限のマナーとして、事実確認には最善を尽くした上で書いていますが、それでもときに事実誤認、根拠薄弱な内容が含まれるかもしれません。誤りについては、気がついた時点あるいはご指摘いただいて確認できた時点で訂正(その旨、明記して)していきますので、どうかお許しください。
・事実関係ではない、解釈や見解の部分については、たとえいささか偏ったふうに見えても、「そういう見方もあり?かな」といったふうにお読みいただき、考えるきっかけにしていただけると嬉しいです。
・それでも「あまりに不当な解釈・見解だ」というご指摘・ご意見は(学外・学内問わず)甘んじてお受けしますので、メールにてご一報ください。アドレスは本学公式HPの研究者総覧に掲載されています。
・あるいは拙論にご賛同いただける旨のメールも(これも学外・学内問わず)ありがたく頂戴いたします。
大学での教育・研究活動との関係がより薄い、プライベートな度合いの高い「スポーツに関する話題」については、
に書くつもりで別サイトを作りましたが、現在そちらの更新はストップしています。当面はこちらSOULSのほうに集中して書き込みます(と言っても、更新頻度は低いですが)。

イギリスで男子100m歴代3位タイの記録がでました・・・が
 私がいつも考え、書いたり、話したりしていることにマッチするエピソードがありましたので、久しぶりに書き込みます。

 昨日(7/30)おこなわれた陸上競技のイングランド選手権での男子100m決勝でJ・フィアロンが9秒96のイギリス今季最高(歴代でも3位タイ)の記録を出しました。彼は2014年のソチ冬季五輪で5位にはいったイギリスボブスレーチームのメンバーです。陸上のほうは、2013年の世界選手権(ベルリン)の4×100mリレーチームに補欠で入っていたものの、そこで走ることはなく、本人の意識もボブスレー中心であることがBBCの記事に読み取れます。


※ちなみにレース動画が上記のBBCnewsサイトにあるリンクから見ることができます(こちらも外部サイトなので各人の責任にてご覧ください)。
 まもなく始まるリオデジャネイロ五輪にも彼は出場しませんし、来年ロンドンで開催される陸上の世界選手権への出場について尋ねられても「ボブスレーの人たちが好きにしたらいいよと言ってくれて、かつ自分が出場できるポジションにいたら、出るだろうけど」というふうな答えです。この答えはどう読み解けるでしょうか。日本でもしばしば問題になるような競技ごとの「選手の囲い込み」でしょうか?いや、彼は今回のようにイングランド選手権に出場して100mを走ってますから、そうとも言い切れません。日本で見ていると「それならなぜリオ五輪に出なかったり、来年のロンドン世界選手権に出るかどうかわからなかったりするのか」と不思議に思う人が多いかもしれません。
 私もフィアロン選手個別の事情について詳しく知っているわけではないので正確なことは言えませんが、少なくとも、日本的な「競技団体による選手の囲い込み」ではなさそうだし、逆に「なにがなんでも、1個でも多く五輪でメダルを取ろう」というふうでもなさそうです(彼がリオ五輪に出ないのは選手選考過程からはずれていたからでしょう。もし「なにがなんでもメダル」なら、双方の競技関係者が協議して彼を出場させる特例をつくったかもしれません)。
 いや、ひょっとしたらイギリスのスポーツ界上層部も「しまったー。もっときめ細やかな選手強化プログラムをつくり競技団体間の連携をはかって、こういう選手を五輪に出せるようにしなきゃ」と思っているのかもしれません。しかし、仮にそうだとしても、私から見れば、そうした「ザルのような?スポーツ環境」はむしろうらやましい気がします。トップクラスの選手個人が自発的・主体的にスポーツにとりくむ余地が大きい、ということだからです。日本では競技レベルがあがっていくほど、良かれ悪しかれ四方八方から縛られる度合いが高まるように思います。

 そんなこんなを考えながら、このニュースを紹介しておきます。
(31July2016)

陸上競技の自分史の一部
 このSOULSの私のページのなかにつくっている別コラム「ローンボウルズひとりがたり」のなかの「ローンボウルズのすすめ(4)」に私の高校時代の陸上競技経験についてちょろっと書きました。よければご一読ください。
(17June2016)

新しい年度が始まりました
 陸上競技部はじめサークル、部活で新しいチームづくりが始まっています。ここしばらく陸上競技から離れていますが、高知大学陸上競技部にも新しいメンバーが加わって、中四国インカレ、四国インカレなど大きな試合をひかえて、最善を尽くせるよう、努力を重ねているようです。

 それとはまったく別の話ですが、東京オリンピック2020年大会のほうは、開催が決定したあと、競技場設計問題、エンブレム問題、開催費用高騰問題と続いたあげく、最近はアヤシイお金(裏金?)の問題まででてきました。かつてこのコラムにも書いたように(気になる人はずっと下のほうを探って読んでください)、私はこのたびの東京でのオリンピック開催には招致段階から一貫して批判的な意見をもっています。日本では、こういうことをとりたてて言うのを憚るような雰囲気がものすごく強いですが、私としては正直なところ「ほら、やっぱりそんなこともあるんですよね、そんなんでいいんですか」という気持ちです。でも、もっと正確に言うと「それみたことか」というよりも「悲しい気持ち」のほうが強いです。

 わたし個人としては、これまで語ってきたこと、とりくんできたことを、今年度もいっそう広げていきたい、と気持ちを新たにしています。
(14May2016)

中四学生駅伝の結果をみました
 12月6日に山口市で第59回中国四国学生駅伝競走大会が開催され、高知大学陸上競技部の駅伝チームは7位でした。私は現地には行きませんでしたが、リザルトをみると各選手が堅実な走りをみせたことがわかります。
 選手はもとよりサポートと応援の部員の皆さんもお疲れさまでした。練習に取り組むのと同じような明確な意識をもって疲労回復をはかることの大切さは、今やレベルの高い選手や指導者なら誰でも知っている「常識」です。まずは休養に努め、ここ数カ月の練習と試合の結果を振り返りつつ、次の目標に向けて英気を養ってください。
(08Dec2015)

陸上競技界のドーピング問題
 世界アンチドーピング機構WADAの独立委員会(日本の報道では「第三者委員会」)による報告書が大きな反響をよんでいます。私もpdfで入手しましたが、とにかく大部なもので、ぜんぜん読めていません。ただ、報道されるところによれば、ロシアの「国内競技界ぐるみ」での違反行為が国際陸連IAAFや他国の関係者にも波及するという、巨大な問題が明らかにされたようです。
 さらに注目すべきは、報告書、WADAの関係者のみならず、国際レベルの競技者や関係者の間から「これは氷山の一角だ tip of iceberg」という指摘が数多く出ているということです。それを見聞きしていて思うのは、日本はひょっとして「ボンヤリしすぎかも」ということです。あくまで素人の印象論にすぎませんが、世間でこんなに多くの人がマラソンだ、駅伝だ、と熱を上げながら、こういう問題は「別世界の話」とか「ロシアだからね」みたいなことですましてしまってるとしたら、それってどうなのかな、と思わざるをえません。少なくとも「(子どもは別として、自立したオトナの)競技者」ないし「競技指導者」であれば、この問題は自らの競技への関わりかたに直結する重大事だと深刻に受け止めるべきだと思います。
 今回は少し(?)筆が滑ってるかもしれませんが、率直な印象を述べてみました。言うまでもなく、たとえば「ロシアがリオ五輪に出場できなくなって、それでこの問題はオシマイ」ではありませんから、今後の動向も注視していきます。
(12Nov2015)

「新国立競技場」のこと
 陸上競技(track & field)をやっていれば「国立競技場で走る、跳ぶ、投げる」というのは、ひとつの目標、あこがれである、という人も少なくないと思います。かくいう私も今から32年前の秋、オープン種目でしたが生まれて初めて「国立」のトラックで5000mを走って自己ベストを30秒以上更新して「うれし涙」を流した覚えがあります。
 その国立競技場(霞ヶ丘競技場)を2020年のオリンピックのために建て替える、ということになって、すでに取り壊しは終わった段階で、さてはて建設資金がどうだ、デザインがどうだ、という問題が噴出しています。聞くところによると、おそらくこれまで開催されたオリンピックのなかでもっとも高価な(!)競技場になるようです。
 今さらオリンピック反対、とかいうのも(とくにスポーツファンの多くには)白眼視されるのかもしれませんが、率直に言って「見過ごしていいの?」と言えるような大きなエラーがあった、とみられても仕方ない状況でしょう。北京五輪の「鳥の巣」やロンドン五輪のスタジアムでさえ1000億円未満なのに、2500億円っていったいなんでしょうか? あるコメンテータが「大会後の有効活用」「スポーツに対する意識を高める場」「五輪を成功させることで得られるプライド」などを考えに入れれば・・・てなことを言っているのを耳にしましたが、仮にそうしたことに「意義がある」としても、それらは数千億円かけなきゃ得られないものなのでしょうか?

 上記のことはあくまで「私見」「印象論」にすぎません。明日の授業では、もっと学問的な話として、「選手派遣のための資金に関するスポーツ史の一端」を講義する予定です。
(29June2015)

全日本大学駅伝関西地区予選の結果
 6月20日(土)におこなわれた結果、京都大学陸上競技部の駅伝チームは、4位の関西大学と4秒67差の5位となり、4位までが獲得する全日本大学駅伝の出場権を惜しくも逃しました。10000mのタイムレースで各チーム上位8名のタイムを合計して約5秒差(平均ではなく合算での較差)ですから、なんとも言いようがありません。
 選手の皆さん、サポート及び応援の皆さん、お疲れさまでした。まずはしっかり「休養」と「反省」そして次の目標に向けた新たな「一歩」、ですね。
(21June2015)

ドーピング問題(続)
 「問題」の真偽うんぬんについてはまだ直接のコメントはできませんが、イギリスの有力紙The Guardianの記事にも注意をひきつけられました。
 もし私が体育会サークルの学生がおおぜい受講する英語の授業を担当する教員であったなら、使用中のテキストを中断してでもこの記事を教材に使いたいです。記事にはかつてNIKEオレゴン・プロジェクトで仕事をしていたJ・クック氏へのインタビューがもりこまれていますが、彼の「私は(実態を)知りすぎているから、特段の熱意や興奮を抱くことなく(=淡々と)スポーツにたずさわっている」という言葉は、全く境遇の異なる、ただの素人スポーツ愛好者である私の心にも強く共鳴します。とても残念なことですが、本気でスポーツにとりくんでいる人、教員や指導者として次世代の人たちにスポーツの「良さ」を伝えていこうという(夢をもつ学生諸君)ならば、この問題には真正面から向き合って考えなければならないと私は思います。
(11June2015)

ドーピング問題
 すでに日本のメディアでも報じられているように、たいへん深刻な問題が明らかになりました。先週オンエアされたBBC(英国放送協会)のドキュメンタリー番組「パノラマ」において、NIKEオレゴン・プロジェクトで多くの有力選手を率いるコーチ(私たちの世代だとリアルタイムにマラソンランナーとして活躍していた姿も知っている)A・サラザール氏がドーピングに関与していたことが「暴露」されました。このコラムでも再々とりあげてきたイギリスの長距離ランナー、M・ファラーも2011年から同プロジェクトで彼の指導をうけています(ただし同番組は、ファラーがドーピングに関わったという証拠や証言には出会わなかった、としています)。日本でもBBC Worldで放送されたので、私もその番組をみました。
 ちょっと話がずれますが、BBCの「パノラマ」は日本のマスメディア(TV局)ではありえない高いレベルのドキュメンタリー番組だと私は思っています。世界を舞台にしてさまざまな問題を「暴露」する(ときどき「手法」が問題視されますが)「スクープ」的なドキュメンタリーとして定評があります。現在、「ラジオ・ドキュメンタリーをつくろう」というテーマをかかげた授業(「課題探究実践セミナー」人間文化学科開講クラス)を担当していることもあって、今回は番組の「つくりかた」にも注意が向きましたが、たしかに全体の構成の巧みさにはあらためて感銘を受けました。
 さて、ドーピング疑惑に話を戻すと、実際のところ報じられた内容が100パーセント真実かどうかは一視聴者としては判断できません。WADA(世界アンチドーピング機構)をはじめとする関係機関の本格的な調査が待たれます。ただし、USAや英国の選手が直接に関わってくる問題なので、近年のロシアやケニアでのドーピング事件をしのぐ大きな衝撃を陸上競技界に及ぼしているのは事実です。
 番組だけでなく関連する報道記事にもいくらか目を通しましたが、私もすべてを網羅しているわけではないので、軽々にはコメントできません。ただ、個人的に話ができる人(学生の皆さんなど)にはこの問題についていろいろ話をもちかけてみたいと思っています。
(08June2015;09June字句修正)

地区別インカレから日本インカレへ
 久しぶりの更新です。
 じつは高知大学に赴任して初めて知りましたが、この大学では体育会系で有る無しにかかわらず昔から「インカレ」とだけ言うと伝統的に「中四インカレ」ではなく「四国インカレ」を指すようです。私=京都の大学出身の場合「インカレ」は「関西インカレ」であって「京都インカレ」ではなかったのですが・・・(一見すると、中四-関西、四国-京都を対等にみるのはちぐはぐに見えますが、学生陸上競技連盟が存在する地域単位から考えるとこの対応関係になる)。
 それはともかくとして、先月おこなわれた関西インカレ、中国四国インカレでは、京都大学と高知大学の男子4×100mリレーチームがそれぞれの大学新を出したようです。今、手元に資料がないので確認できませんが、たしか40’40、同じ記録だったはずです。
 個人的な話で恐縮ですが、自分の出身大学と在職する大学がそこそこ高いレベルで競り合っているというのは偶然とはいえ面白い巡り合わせだと思っています。リレーで出る記録は単純なフラットレースタイムの掛け算(個人持ちタイム×4)ではないので、どちらのチームもさらに「上」を狙えるはずで、その点とても楽しみです。
 9月に大阪で開催される日本インカレには、両大学とも4継以外の種目にも選手が何人も出場する(標準記録を突破している)だろうと思います。どの選手も今からさらに力を伸ばし、しっかり調子を整えて試合にのぞんでほしいところです。私もできれば現地観戦・応援に出かけるつもりです。
(06June2015)

イギリス帝国史と陸上競技
 私の大学での教育・研究活動と趣味がみごとに重なる映画が日本各地で上映されていました(残念ながら、ほぼ過去形)。


残念ながら、今のところ、高知(ないし四国)での上映予定は決まっていないようですが、機会があれば、ぜひ見てみたいと思っています。
(03Feb2015)

ケニアの陸上競技史
 2013年度の授業をもとにした
「「創られた伝統」としての長距離走--植民地期ケニアにおける陸上競技小史--」
が『高知大学学術研究報告』第63巻に収載され、高知大学学術情報リポジトリで公開されました。次のリンクをクリックしてもらうとご覧いただけます。


 自分でもあらためて意外な感じがするのですが、イギリス帝国=コモンウェルス史について論文を書いたり授業をしたりしてきたなかで、陸上競技の歴史をまともにとりあげた小論を書いたのは今回が初めてです。
(19Jan2015)

高新駅伝
 県外にでかけていたため、新聞にて結果を知りました。残念ながら高知大学陸上競技部のチームはオープン参加だったようです。とはいえ、選手、サポート、応援の皆さん、お疲れさまでした。

 「意識」して聞いているせいか、いつもの年よりも高頻度で「インフルエンザにかかって予定変更」という話を聞くような気がします。私は以前から「体調管理も勉強のうちだから、授業を病欠しないよう日頃から気をつけなさい」ということをさかんに言っています。当然ながら、スポーツにとりくむ競技者(アスリート)は体調管理に最善を尽くさねばなりませんし、運悪く罹患してしまった場合も適切な処置、他人に感染させないこと、快復に努めることが肝要です。
 先週末、都会に出かけていた私も明日いきなり発病するかもしれませんが、お互いくれぐれも気をつけたいものです。
(12Jan2015)

中国四国学生駅伝
 今年の大会は12月7日(日)に山口市で開催されました。高知大学陸上競技部の駅伝チームは10位に入りました。選手、サポート、応援の皆さん、お疲れさまでした。
 ここしばらく部員の皆さんから話を直接うかがう機会がほとんどなかったのですが、また近いうちに冬シーズンの試合や練習のことなどもきかせてほしいと思っています。

全日本大学駅伝
 京都大学陸上競技部の駅伝チームは、目標の18位を達成しました。選手およびサポートと応援の部員のみなさん、お疲れさまでした。目標達成は立派です! まずはきちんと休養(これが最優先で大切)、今後への反省、課題も振り返りつつ、次をめざして頑張ってほしいと思います。

 ちなみに「ローンボウルズ」のほうは(私個人のなかでは)もっとすごいことになりました!

今週末の大きな試合2題
 今週末から連休がありますが、私の興味の範囲に入る2つの大きな試合(大会)があります。
 ひとつは「全日本大学駅伝対校選手権大会」(11月2日)で、京都大学陸上競技部のチームが42大会ぶりに出場します。すでに陸上競技専門の人たちだけでなくマスメディアでもそれなりに大きくとりあげられていますが、選手とそのサポートにあたる部員たちの健闘、頑張りを心より期待しています。
 もうひとつはローンボウルズのシングルス日本選手権(11月1、2日)で、高知大学人文学部から女子1名が出場します。私が今年度から学生たちと取り組み始めた競技ですが、日本選手権ですから「日本でのローンボウルズの頂点」を競う大会です。
 全日本学生駅伝といえば、大手のメディアにもとりあげられ、TV生中継までされる(高知で放映されるかどうか未確認)ようなスポーツイベントであるいっぽう、ローンボウルズのほうはメディアにとりあげられることはほとんどない(じつは最近、全国紙などでもこっそり報じられていますが)、そもそもわれわれが活動している高知大のなかでさえ知名度は異常に低い、マイナースポーツです。両方に関心のある私は、競技そのものの特徴だけでなく、競技をとりまく歴史、社会、人びと・・・などなど、とても興味をそそられます。
 ちなみに、駅伝のほうは世間の注目も集まりやすく、観衆、応援団がおおぜいいるので、私自身はこの週末はローンボウルズの応援、観戦に集中するつもりです。
(29Oct2014)

「台風で中止」から、「学生スポーツ」について思う
 あくまで印象論ですが、今年は週末に台風襲来というパターンが異様に多いような気がします。私の目に留まった(あくまで限定的な)範囲内だけでも、8月、9月(はないかも)、そして10月と、土日に台風またはその影響による大雨などによって、毎年開催されている「年に一度」の学生の試合がいくつも中止されているように思います。
 天候による中止は仕方ないとはいえ、それにあわせて練習、調整してきた競技者にとっては、拍子抜けしてしまうでしょう。「学生の試合」についてそのことをとりたてて言うのは、一生のうちで「学生競技者という身分」でないと出場できない競技会(インカレや大学駅伝など)に出場できるチャンス(回数)は限られているからです。
 ただ、これまた言うまでもなく、陸上競技でもどのスポーツでも、「学生競技者」であるかそうでないかはスポーツにとりくむことの本質的な要素ではありません。「中学or高校or大学のときに、こんな大会に出場した、こんな記録を出した、こんな順位にはいった」というのは、たしかに目標となり、励みとなり、まぎれもない競技実績です。でも、それを意識するメンタリティの背景には、「学校スポーツという枠組みにとらわれすぎる」落とし穴があるのではないか、とも思えます。
 学校とスポーツとの関係というのは、教師、指導者だけでなく、(中高生には難しすぎるとしても)「きちんとモノを考えられる大学生=競技者」にも、日本の現状だけでなく、西洋での近代スポーツの展開と日本のそれへの関わり方という歴史的視点も容れながら、ひとしきり考えをめぐらせてほしい問題です。それは、日本のスポーツの将来にかかわるだけでなく、その学生自身の将来にもかかわる問題だと思うからです。
(13Oct2014)

日本インカレ、続報
 9月7日(日)に行われた日本インカレ男子800m決勝で、京都大学陸上競技部の桜井大介くんが優勝しました!私が在籍していた頃(30年ぐらい前)も京大の中距離はめちゃくちゃ強かったですが、日本インカレ優勝というのはなかったですね。おめでとうございます。
 京大から出場したほかの選手、サポートの部員の皆さんも、お疲れさまでした。

 また、この大会には高知大学陸上競技部からも2名の選手が参加、健闘しました。先週から部内の行事などもあって調整には苦心したのではないかと思います。お疲れさまでした。

速報、おしらせします
 9月5日(金)におこなわれた日本インカレ男子10000m決勝で、京都大学陸上競技部の平井健太郎くんが2位に入りました!タイムは28分36秒72、もちろん京大新記録(京大では「蒼穹新」と言います)です。

高知大学陸上競技部創部50周年記念祝賀会に出席しました!
 刈谷先生のご退職(来春)祝賀もかねて8月30日に開催されました。陸上競技部を率いておられる刈谷、駒井、宮本の3先生をはじめ、大勢のOB、OG、現役部員により、盛大に50周年が祝われました。とくに刈谷先生が制作された「部の歴史」DVD(スライド)と先生の講話は、そのあとの歓談の際にうかがったこともあわせて、歴史学者のハシクレとしてとても興味深く拝見、拝聴しました。
 陸上競技部のOBでも顧問でもない私が、このような貴重な機会に同席させていただいたことにたいし、この場を借りて心より感謝申し上げます。
(2014Sept01)

2014年コモンウェルス・ゲームズ
Hampden Park, Glasgow
 コモンウェルス・ゲームズで陸上競技がおこなわれたハムデンパークのスタジアムです。7月27日(日)に訪れたときには、女子400mと女子ハンマー投げの予選、そして男子5000m決勝を見ました。
 陸上競技に詳しい人はに言わせれば、コモンウェルスゲームズにはジャマイカの短距離もケニアの長距離もあるいは他の国も、本当の意味でのトップ選手は出てこないし...この大会のレベルってたかが知れてる、となるでしょう。実際、それは事実です。しかし、各国の競技団体が必ずしもこの大会を邪険に扱っていたり、実施競技から自競技をはずしてほしいと考えている、なんて話は聞きませんから、それぞれの競技なりに実施の意義はあるというべきでしょう。

コモンウェルス・ゲームズ観戦
 イギリスのグラスゴーで開催されたコモンウェルス・ゲームズ(英連邦大会)の陸上競技を現地で観戦しました。会場は、フットボール場を大会期間中だけ陸上競技用に改修したハムデンパークのスタジアムです。私がそこを訪ねたのは競技初日の7月27日(日)と3日目の29日(火)でした。両日とも時間内のすべての競技を見ることはできませんでしたが、国際競技会の雰囲気はじゅうぶんに堪能しました。とくに、メルボルン大会より条件の悪いチケットだったにもかかわらず、主催者側の事情によりそれよりも数倍高い値段のエリアで観戦できたのは偶然とはいえラッキーでした。ただ、ローンボウルズの観戦と時間帯が重なったので、マラソンは観戦しませんでした。
 コモンウェルス・ゲームズは、オリンピックや世界選手権とは異なる単位(地域代表)すなわちコモンウェルス諸国・諸地域(それらをあわせて「参加国」と称します)の選手が参加することから、「国際」競技会の意味を考えるうえで興味深いスポーツ・イベントです。また国ごと、競技ごとに大会参加のスタンスも微妙に異なります。たとえば陸上競技なら、各参加国が最高レベルの選手を派遣するかどうか、あるいは最高レベルの選手がこの大会に積極的に参加しようとするか、という点に、クエスチョンマークはいくつでも付きます。ジャマイカの短距離代表やケニアの長距離代表がベストの顔ぶれにはならない、というのは、陸上通のあいだでは常識です。少なくとも陸上競技に関するかぎり、今回のU・ボルトのような「失言」は世界トップアスリートのホンネかもしれません。
 それでも、この大会がそれなりに盛り上がるのは、やはり「コモンウェルス」というひとつの地球規模での「まとまり」が国際競技会の枠として、一定の意味をもっているからでしょう。それが単純にイギリス帝国の「名残り」「ノスタルジー」というものでないことは、最近刊行された論集のなかの私が執筆した章で示唆したとおりです。陸上競技のようにトップ選手が揃わない競技ばかりではありませんし、どの競技にしてもボルトの失言に共感しない人のほうがむしろ多数派でしょう。今回は目の前で見ることはありませんでしたが、「コモンウェルス記録Commonwealth Record」の更新は、陸上競技と水泳競技のアスリートにとってはひとつの目標となりえます(実際にはさほど重視はされませんが)。
 なによりも、オリンピックに参加する選手団を編成しない地域にとっては、この大会が地域代表選手を派遣する最高レベルの国際スポーツ大会にあたります。ケイマン諸島や英領ヴァージン諸島のようにオリンピックに参加している地域もありますが、ジブラルタル、マン島、ガーンジーといったヨーロッパの諸地域はもとより、フォークランド諸島、ノーフォーク島、モントセラト、ニウエとくると、はたしてどれほど知られているでしょうか?* また、1930年の第1回大会以来、本国からは4つのネーションがそれぞれに選手団を派遣します。このような参加形態は地域アイデンティティやナショナリズムといった議論に結びつけられるいっぽうで、競技に直接関与する人たちの意識や大会参加をとりまく実情はそうした議論の枠に収まりきらないようにもみえます。
 この4年間に世界選手権、オリンピック、コモンウェルス・ゲームズと観戦してきましたが、コモンウェルス・ゲームズにはその他2大会とは異なる種類の「考える手がかり」があるだろう、と思い、とくに注目して追究しています。

*今回、少し意地悪な(?たぶん日本ではありえないような)映像がハムデンパークの競技場内の「余興」で流されました。来場者のなかから家族連れ(小学生2人と両親)が声をかけられて、「30秒間でコモンウェルス・ゲームズの参加国をいくつあげられるか」に挑戦したのです。その家族は10か国の名前をあげました。そのあとすぐに「ロンドン五輪や以前のコモンウェルス・ゲームズの金メダリストである元自転車競技選手クリス・ホイにも同じように挑戦してもらいました」という録画映像が流れました。彼は9つしか答えられなかったのです。まあそんなもんかもしれませんが、グラスゴーの自転車競技ドームにその名がつけられ、メダリストとして「サー」の称号まで得た人が、考え込み、口ごもりながら、たった9つ?と思った次第です。
(01Aug2014;10Aug一部修正)

学生競技者の皆さんへ、考える「ネタ」をひとつ
 京都大学陸上競技部の平井健太郎くんのインタビュー記事(神戸新聞ウェブ版)へのリンクを以下に記します。


 あくまで一般論としてですが(ふだん私の授業でも話しているとおり)新聞記事というのは厳密な意味で本人の意図や言葉遣いが100パーセント正確に表れているとは言えないので、その点は注意して読まねばなりませんが、それにしても競技への取り組み方、勉強との関係への考え方など、参考にすべき部分は大いにあると思います。
 ちなみに、私は大学での勉強と競技はやはり一定の「つながり」をもっていると考えています。同選手の言葉遣いや意識のもちかたに異論を唱えたり、反論する、というつもりはありません。私のほうこそ乱暴な言葉遣いですが、「一人の人間が一日24時間のなかでやっていることをブツ切りにすることはできない」、ただそれだけのことです。気にかかった人は考える「ネタ」にしてください。
(10July2014)

コモンウェルス・ゲームズ観戦
 日本ではほとんど報じられませんが、オリンピックに次ぐ世界的な規模での総合スポーツ大会であるコモンウェルス・ゲームズが7月23日から8月3日までイギリス(スコットランド)のグラスゴーで開催されます。いちおう、その歴史について研究している手前(?)、現在の大会の様子もしっかり観察しよう、ということで、2006年のメルボルン大会以来、2度目の大会訪問予定です。
 メルボルンではMCG=メルボルン・クリケット・グラウンドを陸上競技と開閉会式の会場として(開催中だけ)改修して使用していましたが、今回もサッカー場を一時改修して陸上競技会場にしています。前回はフィニッシュラインから30メートルほどしか離れていない「かぶりつき」の席でしたが、今回はそんなところのチケットは取れませんでした。でも、マラソンは市内コースですから、たぶんあちこちうろうろしてみると思います。
 今回は陸上競技だけでなく、自分自身が本格的に取り組み始めたローンボウルズもじっくりみたいので、なかなか忙しい滞在になりそうです。また専門の授業で「現地からの講義」をやってみようかと考えていますが、まだ実現の可否がわかりません。いざやるぞ、となれば、どこかで広報しますので、興味のある学生は私の周辺の情報をチェックしていてください。
(04July2014)


速報です
 京都大学陸上競技部の駅伝チームが全日本大学駅伝に出場することになったとのニュースがありました。

練習環境と競技力向上
 部活のための学内設備について、最近あらためて考える機会がありました。
 新しい設備や充実した内容の設備が各地の大学、高校、場合によっては中学にもあったりしますが、そういうのでなきゃ競技力向上につながらないという「思い込み」が心のどこかにある人は、それをなんとかして消し去ったほうがいいでしょう。たとえば高知大学の土のトラックは驚異的な水はけの良さと陸上競技部員の日ごろからの丁寧なメンテナンス作業によって、日本の国立大学のなかでも最上位に数えることができる練習施設だと私は思います。全天候トラックをもつ大学は全国にいくつもありますが、高知大のトラックで練習していてもじゅうぶん高いレベルの競技力を身につけることができるとも思っています。
 堅苦しい言い方ですが、「自分たちの置かれた位置や練習環境のありようを正しく認識して、競技力向上のためのメンタルな条件を自ら考え、整える」という、ある意味、知的なレベルでのとりくみが大切でしょう。やや我田引水ぎみですが、そのヒントは、スポーツ系のトレーニング法や学問だけでなく、たとえば私が専門とする人文科学からも得られるはずです。
 なお、古い記事ですが、このコラムのずーっと下のほうにある「ケニアやジャマイカの強さの秘密(3)」というところにも、練習施設に関する私の考えを書いています(同じタイトルの(2)の回の内容に誤りがあったので訂正しておきました)。ご参照ください。
 ちなみに、「最近あらためて部活のための学内設備について」私が考えたきっかけは「うーん、せめて通常レベルの施設は整えていただけませんか」という事例でした。そちらのほうはいずれ「種明かし」します。なんだかすっきりしない締めくくりで、すみません。
(01June2014)

中四インカレ終了
 選手及びサポートの部員の皆さん、お疲れさまでした。結果については、喜ぶべき点、反省すべき点とあるでしょうが、どちらに偏っても「次へのステップ」にはつながりません。良かったことと悪かったことの両方について、冷静に自己分析したり、仲間と話し合ったりしてこそ、「次へのステップ」に活かせるはずです。そうした「アフター」にも気をつけて、さらに上を目指してほしいと思います。
 なお、正式な競技結果は中国四国学生陸上競技連盟の公式ホームページに掲載されるはず?です。詳細はそちらをご参照ください。
(19May2014)
まもなく中四インカレ
 第68回中国四国学生陸上競技対校選手権大会(いわゆる中四のインカレ)が今週5月16日から18日まで島根県出雲市で開催されます。高知大学陸上競技部は、新入生がおおぜい入部したことで部内の雰囲気がもりあがってきているということですし、今大会も優勝や入賞が期待できる種目がいくつもあるようです。私は出張プラス私用で逆方向(関西)にでかけるため、あいにく現地応援には行けませんが、選手、サポート、応援の部員それぞれに最善の状態で最善の結果を残せるよう、頑張ってほしいと思います。
(14May2014)


アンチドーピングに関するニュースから、考えること
 久しぶり?に陸上競技関係の話題です。
 ここ1週間ほどの間に、ドーピング関係の話題があいついで報じられました。ひとつはロシアの女子マラソン選手のドーピング違反のこと、もうひとつはUSAの短距離選手のドーピング違反罰則軽減のニュースです。いずれも、いわゆる世界トップクラスの選手の間にこの手の問題が根強く残っていることを示すニュースでした。
 「そういう違反をするのは一部の不心得者だけだ」ですましてしまえる問題なのか?と思ってしまいます。とくに後者の罰則軽減は、ドーピング撲滅をつかさどるWADA(世界アンチドーピング機構)の新方針と軌を一にする方向性をもった措置です。ここではその詳細を書き記すことはできませんが、私の理解するかぎり「たとえば故意で違反した人であっても、発覚後にドーピング違反に関わる情報をひょいひょいと提供してくれさえすれば、許してあげるよ」というふうにみえます。WADAの関係者さえ、この新方針が物議をかもす性格のものであることは認めているようです。大きな目的のために小さなこと(ホント?)は見逃そう、ということでしょうか。
 このニュースに接して思い出したことが2つあります。ひとつはBBCWorldでかつて放送された公開討論番組で論者のいっぽうが主張していた「WADAによるアンチドーピング運動はアメリカ合衆国が主導するまやかしだ」といった趣旨のこと、もうひとつはこれもやはりWADAの罰則がユルイことについてイギリスの競技団体関係者が不満を表明していたことです。オーストラリアの論者のほうは、その他の主張の部分がちょっと行きすぎかな、と思わせるところがありましたが、イギリスのほうは「違反したら永久追放」という厳罰スタンスからの不平であり、私にも納得できる内容でした。
 ともかく、オリンピック、世界選手権クラスの選手にせよフツーの学生や一般の競技者にせよ、マジメに競技にとりくんでいる人なら、ロシア選手やUSA選手のニュースにバカバカしさを感じずにはいられないでしょう。あるいは、もし「ドーピングうんぬんなんてことは別世界の話だし、自分にはカンケーないよ」と思う競技者がいるなら、それはそれで問題かもしれません。「競技者」ではなく、全くの「余暇の娯楽」「レクリエーション」として走っているだけの人なら、別に無関心でもかまわないと私も思います。しかし「競技者」であれば、そのパフォーマンスを発揮する場や選手資格は地方大会から上位の大会まで階層的・体系的につながっていること、そもそも競技の世界はそうした「仕組み」なのだということを理解しておくべきです。そのうえで今般のドーピング問題を考えれば・・・バカバカしくならないほうが不思議だと私には思えるのです。「そうかなあ」と気にかかる人は、ひとしきり考えをめぐらせてみてほしいと思います。
(05May2014)

ローンボウル、本格始動します
 「走り」から離れた話題ですが、宣伝を兼ねてひとつ。
 学生有志とローンボウルの同好会をたちあげることになりました。結成されれば、中国、四国、九州の大学では初めての学生チームになるはず、いやそもそも「大学」という枠を取り払っても上記3地方では初めての競技団体(ローンボウルズ日本)登録チームになります。
 ここで、一から説明するわけにはいきませんが、いくつか注目点をあげるとすれば、

(1)日本では知名度が低く、競技人口も少ないけど、イギリスでは中世から行われていて、現在も国際的に広がりのあるスポーツ

(2)いわゆる「体育会系のノリ」とは大きくかけ離れていて、「自分はスポーツとは無縁」と思っている人のほうがむしろ意外とイケるかもしれないスポーツ

(3)要するに、いろんな意味で「意外なところで、意外な展開があるかも」というスポーツ

といったところでしょうか。
 大学にフツーにありそうなフツーの同好会とかクラブにはしたくない、とも思っていて、すでに参加表明してくれている学生メンバーといろいろ語り合いながら、競技にとりくみ始めています。さて、どんなチームになるのか、自分で言うのもなんですが、とても楽しみです。

(21Mar2014)

「勝手に応援」継続中
 冬の駅伝、マラソンシーズンも終盤にさしかかってきてます。昨年12月の中四国学生駅伝で好成績をおさめた高知大学陸上競技部の部員も、四国駅伝(11月)、高新駅伝と市町村対抗駅伝(1月)、愛媛マラソンと高知龍馬マラソン(2月)など、各地で活躍しています。最近はぜんぜん応援に行けていませんが、春からトラックシーズンに向けて、さらに力をつけていってほしいと思っています。
(17Feb2014追記)

地元のフルマラソン大会について(追記あり)
 今日の地元紙夕刊の第1面の記事を見て、少なからず驚きました。今月半ばの日曜に開催されるマラソン大会に出場するランナーを歓迎するためにいろいろな企画を準備しているという記事です。さまざまな人たちが工夫を凝らして県外からの参加者をもてなそう、高知を好きになってもらおう、と準備に余念がないということが報じられています。そのなかに「沿道でスイーツを提供する」とありました。

 あるいは覚えている方もいるかと思いますが、前回大会のとき、ちょっとした「事件」がありました(新聞でも小さく報じられました)。優勝選手がゴール手前の道路で沿道で応援する人たちと「ハイタッチ」をしていたことが競技団体サイドで問題視された、というものです。競技規則に通じていないとわかりにくいのですが(私もこの大会の競技規則をきちんと読んだわけではないのですが)、その種の行為は「助力」とみなされうる、もしそうなら失格となる、ということなのです。「ハイタッチ」がどう「助力」になるのか、通常の感覚では理解しにくいところもありますが、「当該競技者が競技を有利に進められるような形で、その身体に触れた」みたいなことだと思います。

 さて、察しの良い方はここで、私が夕刊記事に驚いた理由がおわかりでしょう。「ハイタッチ」が助力となる可能性があるなら、「沿道からケーキ」は「アウト」ではないか、と思ったからです。競技団体に問い合わせるほど「おせっかい」ではありませんので、そんなことはしません。そもそも私の勘違いかもしれませんし、そんなことで大会前の超多忙なスタッフに手間をかけさせるわけにはいきません。ただ、私の知るかぎり、公式の競技会では、給水所の位置はきちんと決められていて、それ以外の場所で勝手にいろいろモノを渡すのは規則に抵触する可能性があるのではないか、と思います(どうしても気になる方は、ご自身で主催者に尋ねてください)。

 むろん、大会参加者を歓迎しよう、もてなそう、と善意から活動しておられる方々には、なんの落ち度もありません。参加者も応援者も、大会に関わる人たちがみな、気持ちよく過ごすことができれば、「イベント」としては大成功です。
 ただ、このマラソン大会だけでなく昨今のマラソンブームに対してずっと苦言を呈してきた私にとって、今日の記事は「このマラソン大会って、いったい何?」という気持ちをあらためてわきたたせてくれました。

 これは「観光イベント」でしょうか、「競技会」でしょうか。いや、両方あわさったものでもかまわないのです。でも両者の相いれない部分がいい加減な形で見過ごされてしまうと、なにものでもなくなってしまいます。

 「二兎を追うもの、一兎も得ず」です。

(04Feb2014)  

(追記)
 陸上競技での「助力」とマラソンなどロードレースでの「給食」について、競技に関する専門知識をもっている知り合いの方に教えていただきました。日本陸上競技連盟の公式ウェブサイトに規則が掲げられています。

 「助力」に関する規定(第144条)

 道路競走での「飲食物供給所」に関する規定(第240条第8項)

 これらを読むかぎり、「ハイタッチ」はよくわかりませんが、「ケーキ」など飲食物は規則にのっとった正式な手続きをふまえた形でないと、ランナーには渡せないようです。
 少なくとも競技団体の登記・登録競技者はこの点には注意しなければなりません。むろん、「高知龍馬マラソン」は公式の競技会として開催される大会ですから、そのあたりは主催者がきちんとした大会運営をされるはずだと思います。

(05Feb2014追記)

世界大会をめざして
 ローンボウルズのジュニア(18歳以上25歳未満)の世界選手権が2014年度からオーストラリアで開催されるようです。先月このページに書き込んだ「高知(大学)から世界大会に出場する」ことがホントに夢ではなくなった、と私は思っています。「予告」でつらつら書いたことを読んでくれた人とか、学生諸君で関心のある人は、まあ「ためしに」でもかまいませんので、ぜひ川本に尋ねてみてください。
(30Jan2014)

C・チャタウェイ氏の訃報
 C・チャタウェイが亡くなった(こないだの日曜=1月19日)ニュースを見落としてました。1954年には、5000mで世界記録をだし、コモンウェルス・ゲームズの同種目でも優勝、また同年にR・バニスターが1マイル4分を切る世界記録を出したときのペースメーカーでもありました。
 いくつかのメディアに追悼記事がでていますが、とりあえずBBCのニュースサイトの記事(2つ)のリンクをつけておきます。


(25Jan2014)

ローンボウルズについて
 あらたなページ「ローンボウルズ情報」をたちあげました。ローンボウルズに関する情報はそちらをご覧ください(ログイン要=学部内限定です)。

ローンボウルズ(Lawn Bowls)を始めます
 練習場所や時間帯についても不確定なので、いろいろ調整しながら、まずは可能な範囲で学内で始めたいと思います。興味のある学生は川本まで連絡ください。
(06Jan2014)

同好会構想について(予告3)
 冬休み中に用具が一揃い入手できる目途がつきましたので、来月(2014年1月)から本格的に練習を始めます(すでに最低限のモノはあるので、今月も数回、学内某所で一人で試してみました)。
 どういう組織にするかは未定(あるいは個人登録もありうる)ですが、ともかく新年度(4月)からは競技団体に登録して公式戦に出場すべく準備を進めていきます。
 ちなみに日本の大学では(体育系の大学も含めて)ほとんど行われていないスポーツなので「希少価値」はありますし、競技者じたいが日本国内にはわずか(しかも年齢の高い人が多数派)なので、技量をあげれば「高知(大学)から世界大会に出場する」こともあながち夢ではない、と私はふんでいます。
(26Dec2013)

中国四国学生駅伝の結果
 12月1日に行われた中国四国学生駅伝で高知大学陸上競技部の駅伝チームが7位にはいりました。久しぶりの10位以内、しかも「圧倒的に抜きんでた一人か二人の選手が順位をひっぱりあげるような形」ではなく、「全区間で各選手がきちんと順位をキープする」という(私の個人的好みですが)理想的なパターンで、目標以上の結果を出したとのことです。
 ちなみに、先着した6校のなかに国立大学は2つ(ともに政令指定都市にある大規模校)だけですから、その点でもすばらしい結果でした。京大同様、学生主体での練習計画・実施と自己管理(しかもこちらは小規模校)でもこうした結果を出せるという、良い例だと思います。
 選手、サポート、応援の皆さん、本当にお疲れ様でした。
(02Dec2013)

学生駅伝のシーズン
 11月24日に行われた関西学生駅伝で京都大学が3位と19秒差の5位にはいりました。ちなみに1位と2位、3位と4位はそれぞれ着差ありの同タイムという大混戦だったようです。選手、サポート、応援の部員の皆さん、本当にお疲れ様でした。
 その京大陸上部長距離パートの春野での合宿練習に参加させてもらった高知大学は、12月1日に中国四国学生駅伝に臨みます。こちらの長距離ブロックも今年ぐんぐん力をつけてきたので、とても楽しみにしています。選手、サポートの部員みなで力をあわせて、ベストを尽くし、悔いのない結果を残してほしいと思います。
(25Nov2013)


同好会構想について(予告2)
 次のような人(すべてに該当する必要はなし)に興味を持ってもらえれば、と思っています。

(1)いわゆる「体育会系」的雰囲気には抵抗感がある。先輩や指導者に厳しく鍛えられる、みたいなことはイヤ(あるいは中高での体験から、もうコリゴリ)。

(2)そうかといって「楽しいだけのお遊び」的なノリも、自分にはしっくりこない。

(3)たいていのスポーツは体格や体力(パワー、スピード、瞬発力、持久力などのいずれか、または複数)が競技力を左右すると思うので、何かスポーツをしてみたいけど自分に向いているものはなさそう。

(4)おおぜいの人といっしょに楽しんだり、チームプレイも嫌いではないが、どちらかというと個人競技で、自分自身が努力して競技力をのばしたことが結果に反映されるような競技のほうがイイ。

(5)「気合いだ!」とか「大声で応援」するなど、騒々しいのはあまり好きでない。静かな落ち着いた雰囲気のなかでスポーツをしたい・・・けど、そんなスポーツなんてあるのか?と思う。

(6)日本の伝統競技系だと「静かな落ち着いた雰囲気」のものもありそうだけど、「精神論」的なものが付いてくるのはちょっと敬遠ぎみ・・・。

とりあえずの「リスト」です。最初に掲げたのを少し修正しました。いずれにしても、他の競技を貶すつもりはありません。いろいろなスポーツがあっていろいろな魅力があるのがイイ。自分の気に入ったスポーツに自発的にとりくむのが大切なことだと思います。

(19Nov2013一部修正)

同好会構想について(予告)

 まだメンバーになってくれそうな学生がいるかどうか、練習場所をどうするか、など全然めどがたっていないので、ちょっと気が早すぎるかもしれませんが、うまくいけば来年(度)からたちあげたいと思っている同好会のコンセプトについて、近いうちにこのコーナーで書き始めることにします。
(今回はその予告だけです。)

「競技としてとりくむランニング」からの撤退と、新たな試み
 年齢的にもひとつの節目を迎えた(まだ「還暦」ではありません)ことや、いろいろ考えるところもあって、高校時代から曲がりなりにも続けてきた「競技としてとりくむランニング」にいちおう終止符を打つことにしました。むろん、近年は全然「競技者」らしい姿をなしてませんでしたし、今後は一歩も走らない、というわけでもありませんので、外見上、何か大きく変わるわけではありません。
 一見、個人的なこととみえることをこのコーナーに書いたのは、別競技への本格的な取り組みを考えているからです。しかも、このコーナーのコンセプトにかなう「カリキュラム外での活動」として(つまり学生をメンバーとする同好会の結成も視野に入れて)の展開も模索したいと考えています。一部の学生には話し始めていますので、興味のある人は私または「川本の言動を知ってそうな学生」に尋ねてみてください。

オリンピック開催地決定(前)報道のよみかた
 2020年のオリンピック開催都市がまもなく決定されます。ニュースは東京(日本)が原発事故の影響について「海外メディア」から厳しい追及をうけていることを報じていますが、「日本の(大手)メディア」がその問題を追及することは全くなく、日本では「東京招致の成功」をほとんどの人が願っているかのような報道しかしていません。「それのどこがおかしいのか?」と思う人(とくに学生も含めて)がけっこう多いんだろうと想像しますが、そういう日本のメディアのありかたは、外国のメディアと比べてみたら、かなり「特殊」であることは知っておいてほしいと思います。お隣の国のように露骨に国家権力が介入するではないにしても、日本のようにコッソリ介入するか、あるいはメディア側が「忖度」して行動するか、という違いだけで、結局は似たもの同士だ、とさえ思えることもあります。
 そんなふうに「社会のからくり」を広い視野から考えに入れたうえで、考え、判断し、行動することは、勉強だけでなく、スポーツにとりくむうえでも、とくに自分の競技力を高めるときにさえ、大切なことだと私は考えます。
(06Sept2013)

「競技としてとりくむランニング」の衰退
 昨今のいわゆる「マラソンブーム」によって陸上競技のなかの長距離種目の「競技レベル」は低下する懸念がある、ということを私は以前から話したり書いたりしています。その先例として1980年代以降のイギリスの話などをしていたのですが、最近また同国の陸上競技専門誌にその線にそった「懸念」を記した記事がありました(Athletics Weekly, 9 May, 2013)。かの国では、いよいよ「ランニング」が、「パーティ」や「クラブ」と同種の「社交機会」になってきている、というのです。いや、たしかにロンドンマラソンでのいわゆるエリートランナーの走りには多くの人が注目しますし、メディアもそれをとりあげます。しかし、報道が伝えるのは、一握りの「エリートランナー」と数万人の「慈善募金ランナー」あるいは「明るく楽しく走るランナー」であり、その中間に位置する(千人余りいるはずの)「一般競技者」がスッポリぬけおちているのです。
 もちろん、チャリティを実践して走る人や友人と楽しく談笑しながら走る人が、ふだんからマジに練習して大会で自己ベストを出そうと精進している「競技者」よりも劣る、というわけではありません(なかには重複している人もいるでしょう)。しかし、マラソン大会のニュースのなかで開催された事実と参加人数しか報じられない(これはすでに日本でも同様の現象あり)とか、「競技として取り組む人」がブームのなかで等閑視されていること、さらには参加者の大多数がたとえば「サブスリー」で走る人を「速い人らやなあ」ぐらいでしか見てないことなどから、同誌記事の筆者は「もはや多くの人にとって「走ることはスポーツではない」のだ」とまで言っています。スポーツと思ってない、とまでは私は言いませんが、その記事が示唆する「競技レベル」低下への懸念には私も同感です。
 「その解決策は容易ではない」と述べたうえで、たとえば主催者が「国内選手限定の賞金」「年代別表彰の充実」「地元トップ選手へのトロフィー」を考えてみてほしい、とその記事は締めくくられています。昨春、私が「高知の新マラソンで県選手権を併催すること」をこっそり新聞投稿したのとアイディアが重なっていて、とても興味深く感じました。
 地道な現場の努力とノウハウからは話がかけ離れているかもしれませんが、将来、何らかの形(典型的には教員、あるいは地域のスポーツ指導者など)で競技振興にたずさわろう(たずさわるかもしれない)という学生には、少しなりとも考えをめぐらせてほしい「課題」だと思います。

四国インカレ(陸上競技)、早くも終了
 選手及びサポートの部員の皆さん、お疲れ様でした。対校得点(対校順位)がかかってるので、ふだん以上に強行軍で出場種目をこなした選手もいますが、結果の反省とともに、十分に休養をとることもぜひ忘れずに。
 それにしても、いつも言っていることですが、「高校時代の有力選手をリクルートして集めているわけではない」、この規模の「地方国立大学」としては、高知大学の陸上競技部はかなりハイレベルだと思います。四国とはいえ、男女とも対校順位2位は立派です(部員の皆さんは1位がとれず悔しかったでしょうけど・・・近過去にもあったはずですし)。

(16June2013)
部活指導の指針について
 文部科学省の有識者会議が学校の運動部活動の指導についてのガイドラインをまとめたことが報じられています。私は、その分野の専門家ではありませんし、現時点で同文書の全文を読んでいないので、確たることは言えませんが、複数の報道機関(新聞とラジオのニュース)が報じた内容を私なりに理解した限りでは、いくつかクエスチョンマークをつけたくなるようなことがあります。それはすでに、このコラムやほかのところでも書いたり、話したりしたことの繰り返しにもなるのですが・・・ともかく、授業では学生の皆さんに「問いかけ」てみたいと考えています。

(27May2013)

 ガイドラインを含む文書本体は文科省の公式HPで入手できました。本省の文書ですから(当然ながら)教育委員会や管理職サイドはこれを伝達して「適正なる指導」を徹底するよう現場の先生方に求める、ということになります。そのこと自体について、今回は(ここでは)とやかく言うつもりはありません。ただ、いろいろ書かれた「文書」ですから、これを基にして現場の先生方の間で「適確な議論と実践」がなされることを期待します。他方、私は私なりに、この「文書」の内容にはいくつも「ハテナ」マークをつけたくなる部分がありますので、学生の皆さんに「問いかけ」ていきます。教育学や学校運営を専攻しているわけではありませんが、教育者の端くれとしてのみならず、一社会人、一スポーツ愛好者、一アマチュア競技者としても、この問題は見過ごすことができないからです。

(28May2013追記)

中国四国インカレ終了
 選手、サポート、運営にかかわった皆さん、お疲れ様でした。良い結果、残念な結果、いろいろあったでしょうが、それぞれの経験を今後に活かしてこそ、競技に取り組む楽しさと充実感がえられるというものです。
 大きな試合の後は、休養もゼッタイに必要です。少し休んで、次に向けて英気を養ってください。

(21May2013)

「考えをめぐらせる」てがかり
 昨日おこなわれた競技会で、高校生短距離走者(男子)がとてつもない好記録を出した、というニュースがありました。100メートル10秒切り目前で、世界の陸上競技界でも屋外シーズンのはじまりに際して大きな注目を集めているようです。
 競技愛好者の一人として私も、こうした若い逸材に注目し、今後の活躍に大きな期待を寄せたくなります。むろん平坦な道ではないでしょうが、これからもどんどん競技力を伸ばしていってほしいと思います。しかし他方で、少し自己矛盾する部分もありますが、こういうニュースに接すると少し距離を置いて考えてみたいという気にもなります。
 ひとつは「記録」の問題です。たしかに「日本人初の(100メートル)9秒台」」は誰か?というのは、この国の陸上競技ファンならとても気になるトピックです。現役の競技者たちが「一番乗り」を目指してしのぎを削ることは、「競技」である以上、当たり前のことですし、非難するにはあたりません。しかし、扱われ方、報じられ方という点でいうと、世界の陸上競技界を見るかぎり、「***(国)人で初めて***という記録を出した」ということに大きな注目が集まる国はもはや少数派だと私には思えます。その理由の一端は、しばしば問題視されるように、「国籍」変更による移動が日本人の日常的感覚よりもはるかに容易に行われるようになっていることにあります(この「問題」については、「プラスティック・ブリッツ」を扱った私のSOULSページ内の別コラム「走るイギリス史」の「走り雑感(45)」をご覧ください)。アフリカ出身の長距離走選手が国籍取得して欧米諸国の選手として新記録をうちたてる、といった話はいくらでもありますが、そのときに「アフリカ人だから・・・」というような「日本では、何の気なしに語る言い方」をすれば、「人種偏見」「差別的発言」だともとられかねません。つまり、「***人初の***」というとらえ方や語りは、もはや時代遅れ、へたをしたら「不適切な思考・発言」とみなされうる状況にあることは正しく認識しておくべきです。
 ふたつめは「部活指導者と(中高生)競技者」の問題です。これについては、正確な情報をじゅうぶんに入手しているわけではないので、これ以上つきつめた話はここではできません。ただ、当該高校生が指導者の処分後も真摯に努力を重ねトレーニングを実践して好記録を出したということは立派なことだと思いますし、記録よりもむしろその過程での工夫や努力こそが評価されるべきことだと思います。そして、一言だけ、あくまで一般論として言いたいのは、「どんなに優れた選手をてがけ、育てたとしても、体罰をふるう者は競技指導者としてふさわしくない」ということです。「体罰の撲滅は容易ではない」と競技団体首脳が明言するくらい、この国の状況は深刻です。体罰容認から抜け出せない「年寄り」(とその信奉者=追従者)をあてにしていてはもうダメです。強い意思と能力のある若い競技者にこそ「体罰撲滅への道」を均していってもらいたいと思います。
 以上のべたことは、私が担当している授業の内容に直接かかわることではありませんが、学生の立場から「考えをめぐらせる」てがかりとなるので、あえて(学外編ではなく)SOULS版のほうに書き込みました。なお、体罰に関してはすでに共通教育科目「西洋史研究の基礎」で論じています。また、じつのところ、ここに書いたことのほかにも「論点」がいくつかあります。それについては機会があれば授業のなかでも話すつもりです。いずれにしても、私の授業の受講生で有る無しにかかわらず、「少し距離を置いて」考えてみることをお勧めします。

(30Apr2013)

連休です
 大学の授業はカレンダーどおりです。休日に試合やレースもあります。残念ながら、私は今は試合やレースに出られる状態ではないので、もっぱら練習(ジョグ)と観戦です。
 休み中に生活のペースや体調をきちんと整えることが、よりよいパフォーマンスにつながる大切な心がけだと思います。いつもの繰り言ですが「陸上競技は個人競技」ですから、自分がきちんとするかしないかが、自分にそのままはねかえってきます。私もあらためて自分に言い聞かせたいと思います。

「勝手にプロモーション」です
 新入生(あるいは2年生以上でもいいと思います)の皆さんで陸上競技に興味のある人は、ぜひ一度、高知大学の陸上競技部を訪ねてみてください。新聞や雑誌などマスメディアにじゃんじゃん出るような派手さはないですが、地道に堅実に競技に取り組んでいる部員(競技者及びマネージャー)がたくさんいます。
 ちなみに、このコラムのところどころに大学の陸上競技についてもいろいろ書いてますので、読んでもらえるとうれしいです。

(注)私は顧問ではありませんので、ここに書いてあるのはあくまで私の個人的な意見であって、高知大学陸上競技部の運営方針などとは無関係です。ご了承ください。

(23Apr2013)

(追記)今年の春休み、春野(高知市)に合宿に来ていた京都大学陸上競技部と高知大学の長距離ブロックの部員が合同練習を行いました。京大の選手は、先日おこなわれた関西インカレのロードの部(ハーフマラソン)で見事な優勝をはたしました。両大学の陸上競技部とも、学生主体の部運営で、なおかつ競技実績もあげています。競技結果の良し悪しはともかく、自分としての最高のパフォーマンスをみせる、自分のベストを尽くす、という点で、高大も京大に負けないくらい、頑張ってほしいと思います。

(25Apr2013)

ヒソカに「勉強会」の提案
 これくらいの英文だと大学生にもわかりやすい(?)ので、陸上競技に興味を持つ学生(陸上部員であるか否かを問わない)と読んであれこれ議論してみる、というのをやりたいんですけど、残念ながら、なかなかイイ機会がありません。


 とはいえ、もし興味のある学生がいるようでしたら、川本まで遠慮なく連絡ください。なにかしら機会を作ってみようと思います。

(21Apr2013)

スポーツに関する残念な話(追伸)に付けたし

 付け加えるなら、自分が今いる立場(社会、境遇)を、時間的(歴史的)・空間的(地理的)にとらえる方法を身につける練習をしてみよう、ということです。それは今の自分だけでなく、高校までの自分に対しても少し距離をとってみる方法を身につける練習をしてみよう、ということです。

(21Apr2013)

スポーツに関する残念な話(追伸)

 かえって話を混乱させてしまうかもしれませんが、私は「ルールやマナーをただ盲目的に守り通す」というのにも、若干の不安感、場合によっては恐怖心を覚えます。じつは、それこそ「スポーツをやっている人」にありがちだと思われます(むろん「スポーツをやってない人」にも、そういう人はいます)。西洋史的なネタで言えば、ナチス政権下のドイツにおけるユダヤ人らに対する迫害、あるいは南アフリカのアパルトヘイト体制をはじめ、(むろん違法行為もないまぜであったものの)残虐な制度や行為が「法令」で定められ、それに忠実に従った人がいたのです。
 ここではイイ意味での「想像力」を働かせなければなりません。猛烈に反発・抗議して弾圧された(命を落とした)人はもちろんいましたが、全体からみればそういう人の数は多くありません。他方で、抗議しなければと思いながらも踏み切れずに悩んでいた人はそこそこの数いたかもしれません。ひょっとすると、マズイなあと思いながら、「やむなく」見てみぬふりをしていた人がもっとも多かったようにも思えます(「やむなく」の程度は人さまざまでしょうが)。しかし、私がもっとも恐ろしく思うのは、そうした法令に積極的に従っていた人や(逆に)ほとんど何も考えていなかった人の存在です。
 「それは昔の(外国の)話だろう」と思う人がいるかもしれませんが、今の日本はどうでしょうか。
 大学とは、そういうことに考えをめぐらせてみる場所であり、大学生とはそういうことに考えをめぐらせてみる「人生のなかのステージ」だと、私は考えています。スポーツをやっている学生もスポーツとは無縁の学生も「考えて」ほしいと思っています。

(20Apr2013)

スポーツに関する残念な話

 今日、仕事が終わって自宅近くの幅広の歩道をジョグしていたら、正面から部活(体育系)の荷物を積んだ数名の自転車高校生が横3列で走ってきて、わたしが通る余地をほとんど空けず、あやうくぶつかるところでした。
 じつは、これが初めてではありません。とくに記憶に残っていることですが、十年ほど前、列車内で某球技系部活の高校生が暴れまわっている(ふざけて走り回っている)のに閉口したこともあります。大げさに言うと、人生数十年の見聞と実体験から(そしてささやかな自省もこめて)「スポーツをやると、ルールやマナーをきちんと守る子供が育つ」というのは「大ウソ」だと私は思っています。「集団」で傍若無人な振る舞いをしてはばからない、という点では、むしろたちが悪いかもしれません。
 正直なスポーツ指導者なら「スポーツをやると、ルールやマナーをきちんと守る子供が育つ」とはおっしゃらないでしょう。なぜなら、指導者のみているところとみていないところで生徒の態度が違うことは、指導者自身がもっともよく知っているはずだからです。むろん生徒全員がそうだというわけではありませんが、スポーツをしていない生徒と比べてどうか?というのは、はなはだアヤシイと思っています。だから私は「スポーツをとおして、ルールやマナーをきちんと守る子供を育てます」というふうに「目標」を口にされる方のほうが、率直で誠実な指導者だと思います。ただし実際には、その点を勘違いしている人、つまり「スポーツをやらせれば、良い子になる」と思っている人が多いように思います。
 かつて、永井洋一著『スポーツは「良い子」を育てるか』(2004年)を読んだときに、著者の主張に「まったくもって、そのとおり」と共感したものでした。著者自身が述べておられるように、そのように考える人はかの世界(スポーツ界)はもとより、この日本社会ではマイノリティであるようです。私自身、スポーツ愛好者の一人として、全くもって残念でなりません。

(19Apr2013)

ボストンマラソンでの事件について(続)

 ボストンマラソンでの事件はたいへんショックでした。犠牲者や負傷者の方、ご家族、関係者の方には心よりお悔み、お見舞い申し上げます。この手の事件はもちろん、許されざる犯罪ですし、犯人は法に則って厳正に裁かれるべきだと思います。
 ただ、それとは別に、今回の事件には直接間接に関わらなかった、うちの学生さんたちに、そして国内でブームとなっているマラソン大会に出場している人たちにも、こうした機会にあらためて「テロ」をとりまく世界のさまざまな問題にも考えをめぐらせてほしいと思います。
 2001年の同時多発テロを知らない人はいないでしょうし、ロンドンでも2005年7月に爆破事件がありました。犠牲者、遺族、被害者の悲しみ、苦しみは計り知れませんし、その手の犯罪に対しては大きな怒りを感じます。しかし同時に、「テロ対策」「テロリスト掃討」という大義による軍事行動などでもって、それ以上の「悲劇」が積み重なっています。
 そうしたことまで考えをめぐらせて、「今、競技に取り組める」幸せな境遇にある自分が、世界の問題、「悲劇」に対してどう考え、どう行動するのか、というのが大切だと思います。私も「一競技者」として、ずっと考え、微力ながら自分にできることを少しずつやってみています。

(16Apr2013)

ボストンマラソンでの事件について

 犠牲者に哀悼の意を表するとともに、負傷された方、家族や知人など関係する方々に心よりお見舞い申し上げます。

卒業生を送り出して

 ここに書くか、「走るイギリス史」に書くか、はたまたトップページあたりに書くか、迷いましたが、「走る論」にも通じる「大学生活」にかかわる話なので、ここに書きます。

 今日(3月22日)、今年度の卒業式がありました。卒業生の皆さん、おめでとうございます。西洋史ゼミの卒業生も、それぞれに新たな世界へ旅立って行きました。
 今年度4年生だった学年のゼミ生は、例年にもまして個性の強い人間ばかりで、とてもイイ集まりだったと私は思っています。個性の強さが際立つと良い面とともに悪い面も際立ちます。でも、このゼミ生たちは、各人それぞれが「打ち込めること」や「自分なりの思い入れ(場合によっては「思い込み」)」をもちながらも、ほかの人たちが何をやっているか、どう考えているか、あるいは「この世の中って、いったい何なんだ?」という「批判的な視点」をもって行動していました。そのことが私が「イイ集まり」だったと思える最大の理由です。
 おそらく、勉強・研究活動にしても、競技に取り組むにしても、同じことだろうと思います。自分なりの思い入れをもちながら、周りもしっかり見回す、ただしたんに周りに合わせたり、大勢に流されたり、「有名どころ」だけを追っかけたりするのではなく、「なんだ、これは?」的なスタンスをもって、考えながら取捨選択して、自分の進路を定める・・・そうした「技」を習得できれば、たんに知識が増えたとか、なにかで好成績を収めたとかいうことをしのぐ、大きな糧を手に入れたことになるでしょう。
 そうした糧を手にして旅立つ卒業生にはこれからも頑張ってほしいと思いますし、在学生にもそうしたイイ集まりのなかで仲間と交流し、イイ経験を積んでいってほしいと思います。私も、授業や授業外の活動をとおして、より良い糧を得てもらえるようにサポートしていきたい、と今日は気持ちを新たにしました。

(22Mar2013)

2013年度の新たな試み

 授業では、2013年度からいくつかの新たな試みを実践してみようと考えているところですが、授業とは別に「カリキュラム外の活動」でも、なにかしら新しいことを始めてみたいと考えています。まだ具体的なプランはまとまっていないのですが、とりあえず、次のいずれかにあてはまるような学生さんに協力してもらう、あるいは興味を持ってもらえそうなことを考えています。

(1)中学・高校時代に体育系の部活をやっていたが、大学では続けていない(続けるつもりがない)、しかし今でもどちらかというと気楽な「遊び」よりも「競技」に関心がある人
(2)スポーツには興味があるし、自分でもけっこう真剣にやってみたい(やっている)が、体育系の部活には所属したことがない(所属していない)し、どちらかというといわゆる「体育会的ノリ」には抵抗感がある、という人

このブログ「勝手に走り論」を読んでくれている方であれば、上のような条件に合致する人をつかまえて私が何をしようとしているかは、ある程度ご想像がつくかもしれません。もちろん、煮て食おう、焼いて食おう、というわけではありません(当たり前)ので、また今後、機会をみつけてお願いしていこうと思っています。

(27Feb2013)

「体罰」問題について

 めったにみないTV番組(NHK地上波)をみたら、たまたま(というか、お約束どおりというべきか)「体罰」問題をやってて、かえって頭が混乱してしまいそうだったので、自分なりに論点を整理してみました。
 なお、ネット上での議論は私自身苦手で、きちんとした議論はできないと考えているので、あくまで「論点整理」ということでとらえてください。あくまでこれを読んでくださった皆さんがそれぞれに周りの人たちとじかに話し合うときのヒント(あるいは議論のたたき台)にしていただければ幸いです。
(「こういう場所に書く以上、言いっぱなしはダメ」と考える人や、このような私の前置きが「一方的だ」「言い訳がましい」と思う人は、以下、読まないでください。むろん、特定の個人や団体を非難するようなことは書いていません。そういう最低限のマナーだけは守っています。)

(1)「体罰」というふうに言われてるが、少なくとも今「体罰事件」としてもちだされている事案は「罰」にはみえない、ほとんどすべて「暴力事件」であり「暴行」「傷害」の罪に問われるのではないか。

(2)仮に緊急避難的に「物理的強制力」をもって対応しなければならないような深刻な事態が生じている現場があるとしても、それと「部活の指導」で振るわれた「暴力」事案とは全く別の話ではないか。むろん「だから暴力は必要」とか「仕方ない」というつもりは毛頭ない。

(3)「勝利至上主義」が元凶のようにマスコミでは言われているようだが、いわゆる「容認」論者はたいてい「勝利よりも人格形成を重視している」(指導者)とか「自分はたたかれたおかげで人間として正しく成長できた」(受けた経験者)とか言ってるので、両者の議論はかみあっていない。「勝利至上主義」だけが問題の元凶ではない、ということまで考えなければ、結局、話は平行線のままで、よりよい展開はないのではないか。

(4)「体罰を容認する世間の雰囲気」の問題もある程度は指摘されているが、案の定、教員や教育現場の「閉鎖性」や「偏狭さ」のほうがより問題視される傾向があるように思う。もちろん教員側にもいろいろ問題はあるが、仕事量や責任が増えるばかりで、マジメな人ほどしんどくなるという教員側の「実情」があまりに軽視されてはいないか。たとえば(少し話が込み入りますが)「開かれた学校」「開かれた教育現場」がよいとされるが、現在の人員体制や責任体制のままで「開かれたー」を進めるのは、じつは学校側にさらなる「負担」を押しつけ、本末転倒になりうる、ということも考えに入れなければならないのではないか。

(5)あらためて(もちろん私自身も含めて)学校の外側にもある「間違い」と責任を考え、各人が行動を変えていかなければならないのではないか。

 私は子供のころから、学校で暴力をふるう教員をみると「あの教員はバカだ」と思い、自分はそういう教員と関わりあわないようにしてきました(自分が「平穏な恵まれた環境」におかれていた幸運もあったかもしれません)。それが高じて、スポーツで秀でた人、学校、チームに対しても、「暴力の気配」あるいはなんらかの「強制」が察知される場合(誤解もあったかもしれませんが)は、それを毛嫌いしてきました。それが、優れた競技成績を残したものであれ、周りの人が「あの選手・チームは素晴らしい」と言っているものであれ、です(そのせいで同じ趣味をもつ人と話が合わない部分も多いです・・・)。
 この齢になると、私自身のそうした振る舞いさえ、必ずしも正しくない(なかった)かもしれない、とさえ思ってしまいます。今後そんなことも考えながら学生や周りの人たちと接していきたいと思います。

(02Feb13)

年間ランキングから「みえるもの」と「考えたこと」

イギリスの競技専門誌Athletic Weekly(2012年12月20日号)に2012年シーズンのイギリス国内ランキングが載りました。そのなかから一部種目(男子)を私の個人的関心でもって選び、その1位と50位の記録を抽出してみます。

        1位   50位
100m    10"02   10"60
400m    44"92   47"98
1500m   3'34"66  3'45"47
5000m   12'56"98 14'20"95
10000m  27'30"42 31'19"3
走幅跳   8m35   7m10(室内)
やり投げ  82m15   59m15
十種      8102点  4131点
ハーフマラソン  61'00  67'17
フルマラソン  2:13:41  2:29:12

 これが、近代スポーツとしての陸上競技発祥の国、先のオリンピック陸上競技で6つのメダルをとった国(日本は室伏広治選手の銅だけです)、世界的にみても生活水準が高く、ゆとりある暮らしをする人も多い「先進国」(人口は日本の約半分)イギリスの今年のリザルトです。日本の例と比較して、あるいは自分が身近に知っている記録の例と比較して、どう思われるでしょうか?

 国によって盛んな種目とそうでない種目がいろいろ違うものだな、という感想をもつ人は少なくないでしょう。ただし、いうまでもなく、イギリス人だから日本人だからということで、生まれついて、生理学的、生物学的に得手不得手があるわけではありません。少なくとも国によって異なるのは、指導者や組織的支援体制のありかたをはじめとする、競技をとりまく社会的な諸条件だと私は考えます。

 そうした私の考えを裏付ける一例が競歩です。
 歴史をひもとけば、19世紀イギリスにはペデストリアンという超長距離(プロ)競技が盛んに行われ、近代オリンピックの競歩でも多くのメダルをとった(とくに第2次大戦前には計10個)のがイギリスという国です。
 ところが、男子20km競歩の2012年ランキングトップは1:24:49で同10位は1:53:11、50km競歩に至ってはリストに3人しか記録があげられてなくて、それぞれ4:06:34 4:20:49 4:41:38です(1位のD・キング選手のロンドンオリンピックでの「歩き」は私もバッキンガム宮殿前で観ました)。

 もちろん、イギリス人は競歩の適性がない、というわけではありません。要するにrace walkに取り組む人が極端に少なく、日本陸連のような特別な強化策もとっていない、という現状です(なお、参考までに女子競歩のほうをみると、20kmで2012年ランキング1位が1:35:25、同10位が2:16:05です)。

 興味深いことに、競歩の競技会はひょっとすると日本より多いかもしれません。イングランドの競歩専門団体The Race Walking Associationのウェブサイトをみれば、今の時期、競技会が毎週のように開催されていることがわかります。そうした大会をとおして少しでも競技者の掘り起こしを図ろうとしているようです。ただ、統計としての競技記録をみれば、上に述べたような状況だということです。

 このようなイギリス競歩界の現状は、一見すると「残念な状況」ではありますが、必ずしも「間違った状況」でも「怠惰な状況」でもないと私は思います。なぜなら、スポーツとは文字どおり余暇の「気晴らし」であって、マスメディアがいろんなビジネスとむすびつけて大宣伝したり、国家や地方行政体が音頭をとりカネと時間と労力を注ぎ込んで「強化」したり、自発的にやる気持ちのない人間になだめすかしてムリヤリやらせたりするような類いのものではない、と思うからです。

 現在のスポーツは、青少年の健全育成や社会の雰囲気を明るくして経済を盛り上げる、といった面で、社会的に重要な役割を果たしている・・・それはたぶん事実でしょう。だから政策としてスポーツ振興は大切だし、公的な資金や人材も手厚く措置すべきだ、という意見も強く、また正しいのかもしれません。それにここ数年、大災害に見舞われた被災地の支援に「継続的に」取り組んでいる多くのスポーツ選手の皆さんを私は心底、尊敬します。

 それでも、やはり基本的には「スポーツは気晴らし」なのです。それはゼッタイ忘れてはいけない「基本」です。ケタ外れの額の公金を使った商業化された巨大イベントはそうした「基本」を揺るがしかねない、「別の時期ならともかく、今の日本でそんなイベントってどうなのよ?」ということをあえて言えるような「スポーツ人らしい勇気と謙虚さ」が大切なのではないか、と私は思います。

(05Jan13)


高知大の長距離を「勝手に応援」するワケ

 前回の「Kyo大の長距離が強いワケ」に書いた内容は、10数年前に高知大学に赴任して以来、アマチュア競技者の一人として、本学陸上競技部の活動を見聞きし、先生方や部員の皆さんと接し、お話をうかがってきたなかでまとまってきた考え、と言っても過言ではありません。もう少し正確に言うと、Kyo大で自分が経験し、卒業後もOBとしてみてきたことはあくまで「Kyo大の話」にすぎないのですが、そこにさまざまなところから得た知見(高知大のことだけでなく、他大学の様子も含めて、直接間接に見聞きしたこと)を加え、積み重ねることで、少しは一般性をもった「勝手に走り論」(形容矛盾ですが)になっただろう、というところです。

 じつは高知大学陸上競技部を「勝手に応援」している理由も、そこで述べたことと密接に結びついています。この大学の陸上競技部は、「競技に取り組んでみよう」という人間が「自然に集まっ」ている点と、「練習メニューの作成を含めて、部活動の運営がほぼ完全に学生のみの手でおこわれる」点がKyo大と同じです。それだけなら、フツーの大学陸上部としては、さほど珍しいことではないかもしれません。それに加えて、「さまざまな能力や競技歴をもった者がいて、ハイブリッドな状態になっていること」と「競技に取り組む姿勢が真面目であること」も重要なポイントです。

 率直に言って、ヒトとカネをつぎ込んで充実した競技指導体制と部活動支援体制を備えた大学にいろんな面でかなわないのは、否定すべくもありません。部員たちも、ある意味フツーの学生ゆえ、そうした有名な大学の陸上競技部のほうが何かと優れていると思っているのではないか、とみうけられることもあります。ですから、私の「勝手に応援」とは、「高知大の陸上競技部が真の意味でのアマチュア競技者たるに必要な知識・態度・実践力を身につけるにふさわしい場であること」を「耳を貸してくれる学生にささやいてみる」ことです。「真の意味でのアマチュア競技者」という部分は、競技愛好者としての自分自身のささやかな経験と、本業である「(日本だけでなくイギリスおよびイギリス帝国の)歴史を研究する者」としての知見もあわせて、自分自身もその真髄を日々追求しているので、学生にその一端を伝えたいという意図もあります。

 秋の大会シーズンも本番にさしかかってきました。日本では良くも悪くも記録(タイム)を意識しすぎる傾向があります(このことについても、以前このコーナーに日英(日欧)比較を書きました)が、持ちタイムを他大学の選手やチームと比較してどうこう言うよりも、部員それぞれが「自分自身にとって最高のパフォーマンスができる心身の状態をつくりだすこと」に専念することが肝心です。初冬の学生駅伝へ向けて頑張ってほしいものです。私も引き続き「勝手に応援」したいと思います。

(21Oct12)

Kyo大の長距離が強いワケ

 卒業して以来初めて、自分の出身大学(Kyo大)の陸上競技部が昔からもっとも力を入れている(ということになっている)対抗戦「T大戦」を見に行きました。4回生のとき5000mを出場回避(臆病だったもので・・・)して以来20数年ぶりでして、「今年は何かきっかけがあったのか」と尋ねられても「ちょっとした出来心で」としか言えません。それにしても、たいへん見ごたえのある、いい試合でした。中長距離走種目はKyo大の圧勝、そして試合全体としてもKyo大の圧勝でした。

 ところで、知り合いの方から「Kyo大の長距離はなぜ強いのか?」と尋ねられたので、いい機会ですから「勝手に走り論」的な独断と偏見による考えを書き連ねてみたいと思います。

 まず、身も蓋もないことを言えば、「大学の規模が大きくて、いろんな学生がたくさんいる」ので「長距離走に秀でていて、陸上競技部に入って走ろう」と思う人間も多い、ということです。競技実績のある高校生をスカウトしたり優遇して入学させたりする仕組みがない大学で、自然に集まる学生だけからなる陸上競技部の場合は、大学の規模が大きいほど優秀な競技者がいる可能性が高い、それはある程度はあたりまえのことです。

 ここで重要なポイントの一つめをあげるとすれば、「陸上競技部に入って競技に取り組んでみよう」という人間が「自然に集まった」陸上競技部である、ということです。競技指導の話で近年よく言われるのは、競技者の「自主性」やら「自発性」を活かしてトレーニングの実効性や試合でのパフォーマンスを上げる、ということです。しかし、私には、実際に行われているのは(むろん全部がそうだとは言いませんが)「自主性」や「自発性」の「押し付け」のような気がしてなりません。「自分で考えて自発的に取り組むようにしないと強くなれないぞ!」というのは、その意味を正確に理解できるレベル以上の生徒に対してでないと「押し付け」に他ならないと思います。「自主性」や「自発性」を「押し付け」るというのはナンセンスです。

 ちなみに世間では、親や先生などが強く勧めることもあって中学から高校へ(あるいは高校から大学へ)進学しても競技を続ける、というパターンはいくらでもありますが、ホントにやりたいのか?というレベルのところで、クエスチョン・マークがつく人は潜在的にけっこうな数いるだろうとも想像します。そういう点でKyo大陸上競技部の部員は(調査したわけではないので100%とは言い切れませんが)「かなり純然たる自発性をもって競技に取り組んでいる」はずです。

 2つめに言えるのは、一定程度以上の知的水準に達する学生が相当数いる、ということです(この点は下手な書き方をすると誤解されそうなので慎重に書きます)。国内外のトップレベルになると素人考えでは及ばない高度な専門性が必要でしょうが、長距離の走力を「ある程度のところまで伸ばす」ためには、実際そんなに難解な専門知識や特殊な伝授法は不要だと私は思っています。練習の組み立て、試合前の調整の仕方、故障予防や故障時の対応などは、いくらか勉強(あるいは経験)すれば素人でも会得できる部分は大きいということです。たとえば球技スポーツのようにチーム構築法やら戦略やらという複雑な知識が要るわけでもありません。駅伝ではしばしば「戦略」的なことが言われますが、あれも基本的な理屈はけっこう単純で、「チーム編成の秘策」みたいに言われるものは一種の「マインド・コントロール」的な部分があるだろうと私は思っています。

 学歴や偏差値で決めつけることはナンセンスですが、それでもいわゆる進学校的なところだと、自分が興味のあるスポーツについて知識をもっている者の比率やその理解度は平均的にみて高いだろうと思われます。要するに、競技に関する話をどれくらい正確に理解できるか・・・これは大学に限らず学校教員にはわかっていただけるでしょうが、話を聞いたり読んだりしたときの呑み込みの良い悪いって、明らかに生徒それぞれ個人差がありますよね。繰り返しますが、偏差値や勉強の出来不出来とスポーツ(部活)についての知識量や理解度は必ずしも比例するわけではありません。加えて、スポーツでは知識量や理解度ではなく、スポーツならではの感性やセンスも重要です。それでも、感性やセンスの足りない分を理解力や実践力で補っていく、という余地もある、むしろ長距離走はその余地は大きいといえると思います。

 ちなみに(この段落は余談です)いわゆる「学校での勉強」や「受験勉強」と「長距離走の競技力を高める」ことにはシンクロする点がいくつもあります。たとえば、集中力と切り替えの速さがスポーツでも受験勉強でも重要なポイントでしょう。また、チームプレイは人との連携でプレイが成り立ちますが、個人競技は「自分さえ、ふだんの生活をきちんと組み立て、自分に合ったレベルの練習をしっかり積めば、強くなる」ものです。生徒が「個人主義」に偏りすぎないように中学や高校の指導者が「チームの大切さ」を強調することは、「教育」としては全く正しいと思います。でも、実際には「個人競技」はあくまで「個人競技」です。そしてそれは、物事の性格としていわゆる「勉強」にきわめて近いのです。しかも、走り込みで時間を取られるように思われがちな長距離走の練習でさえ、他の球技スポーツと比べれば練習時間は短いほうでしょう。いわゆる現在の日本の受験社会において長距離走は勉強と両立しやすいスポーツ種目であるともいえるでしょう。そうしたことも、競技をとりまく背景として重要だと思います。

 話を元に戻して、3つめのポイントですが、「組織として定まったコーチや指導者がいない」すなわち「練習メニューの作成を含めて、部活動の運営がほぼ完全に学生のみの手でおこわれる」ことが明らかにプラス要因だと私は考えています。ただし、これは先に述べた「一定程度以上の知的水準に達する学生が相当数いる」ことが前提です。いろんな競技歴、競技力の学生が集まっていて、それぞれがそこそこの知識と「呑み込みの良さ」をもってますから、ハイブリッドな状態が出現します。また、最近、とくに高校・大学などの世代でしばしばいわれている「ピア」の重要性、つまり教員や指導者が上の立場から何か言うよりも同じ年齢層同士のほうがよく話せる、よく聞ける、通じあえる、ということがここでも当てはまると思います。しかも学生はどんどん入れ替わっていきますから、長年にわたって競技(トレーニング)スタイルや部内の雰囲気を固めてしまっているような人間もいません。変動にはプラスマイナスがつきものですが、前後数年の学年の人間はつながっていますから、長い目で見てもさほど大きなアップダウンはなく、「良好なハイブリッド状態」が長らく保持される、ということです。

 以上のような状況と条件をまとめなおしてみると、そこそこの力(競技力だけでなくいろいろな意味での「能力」を含みます)のある者が、誰に押し付けられることもなく全くフリーな状態で自発的に競技に取り組む、しかも部員のなかに指導者顔負けの競技専門知識を持つ者や競技実績の高い者が存在する(トラック・フィールドあわせれば、インターハイや国体に出た・入賞した・優勝したという選手が毎年のように入ってきます)ことによって、一定程度の専門的知識やノウハウがもたらされるとともに、彼らや大学で急速に力を伸ばした者による「ロール・モデル」効果も起こる、それによって特定の指導者やコーチはいないことのプラス面も活かせる・・・と、かなりおおざっぱなスケッチですが、そんなふうになります。

 ここまで思いつくままに書き連ねてみました。この理屈だと「T大も同じじゃないか」となるでしょう。実際、そうだと思います。では今年の対抗戦で大差がついたのはなぜか?それはご想像どおり、とても単純かつ基本的な理由、「自然に集まる部員だから、時期によって強くなったり弱くなったりする」だけのことです。

 それよりも、私の理屈にもっと深刻な欠陥があるとすれば、「じつはKyo大陸上競技部の実態はそんなふうではない」かもしれません。白状すれば、私はここ20年近く、部の内情を知りませんので、そういう指摘は甘んじて受けたいと思います。正確に言えば、ここで書いたことは、私の知っている時期の同部の姿をもとにしつつ、「想像図」を描くとこうなるだろう、というものです。

 あるいはKyo大陸上競技部のありかたを「美化」しすぎだと読まれる向きもあるかもしれません。それについて弁明すると、今回書いたのは「なぜ強いのか」に対する私の見解なので、批判的なことや否定的なことは書いていないだけです。実際、私は同部をとりまく状況について批判的な意見ももっています(それはけっして現役部員に対してではありませんし、内容的にも一般性の低いきわめて個人的な意見です)。
 言葉足らずの部分はいろいろあるでしょうが、また機会があれば書き足したり、必要とあれば訂正したりしたいと思います。

(10Oct12)

ロンドン・オリンピック考(1)

 人生で初めてオリンピックを現地で観戦しました。過去のロンドン・オリンピックを題材にした歴史学関係の先行研究をひととおりみていたこともあって、21世紀初頭のオリンピックがどんなものか、開催地を訪ねるのはとても楽しみでした。
 競技会場が散在する街にはイベント色がそこかしこに感じられました。あちらこちらにイベント関係の表示があふれ、IDを首から下げた関係者や各国のデザインシャツを着た人を多く目にすると、街の雰囲気はいやおうなくイベントに染められます。おそらくオリンピックを意に介しない人や開催に批判的な人も少なからずいるはずですが、メディアが大会報道を中心に据えることもあり、よかれあしかれ、大都市で巨大イベントが開催されるときの雰囲気のつくられかたがとてもよくみてとれました。
 競技を観戦したのは陸上競技最終日だけでしたが、陸上競技に親しんできた者の一人として、期待を裏切らない大満足の競技観戦でした。ただ、国際大会を観戦した過去の体験とあわせて、いくつか考えることもありました。
 そのひとつは、大観衆の大半が「ふだんから陸上競技に親しみ、観戦している」わけではないだろうことを理由とする、ちょっとした違和感です。実際「イギリス選手以外を無視する」「トラック競技のスタート時に静かにしない」といった観戦マナーの悪さを指摘するスポーツライターのツイートもありました。私が観戦した最終日に関して言えば、それほどひどくはなかったように思いましたが、ツイートの指摘どおり、マナーの悪さの一端も感じとりました。
 実態はわかりませんが、おそらく観客の多くは「陸上競技」を直にみたのは初めてだったのではないでしょうか。この国の陸上専門誌には、チケット入手の困難さから、「ふだんから陸上競技に親しみ、観戦している」人がせっかくの世界レベルの競技を直に目にすることができないことを憂える記事もありました。むろん、陸上競技(経験)者を優位において、そうでない人たちを排除しようとか、見下そうとかいうつもりはありません。しかし、いわゆる国際グランプリ戦、世界選手権、オリンピック、と大会の知名度が高くなるほど、「ふだんから陸上競技に親しみ、観戦している」人が観衆に占める比率が下がるであろうことは容易に想像できます。
 私には「初めてのオリンピック現地観戦」だったので、今回のロンドンが過去のオリンピック開催地と比べてどうだったのかは判断のしようがありません。最近の例として、北京、アテネ、シドニーがどんなふうだったのか、とても興味がありますが、比較考量する材料をもちあわせていません。私が参照できるのは、コモンウェルス・ゲームズ(メルボルン2006年)と世界選手権(大阪2007年とテグ2011年)です。
 私が初めて10万人近い規模の観客がいる陸上競技を観戦したのが2006年にメルボルンで開催されたコモンウェルス・ゲームズです。やはりオーストラリア選手への声援が極端に大きかったのを覚えていますが、他国選手を無視するなど観戦マナーが悪かったかどうかはあまり記憶に残っていません。むしろ、たまたまですが、自分の目の前で1500m優勝者(ニュージーランドのN・ウィリス)の友人らしき若者が3人、とても熱心に応援していたので、むしろ「ふだんの競技会」に近い雰囲気を感じました。また会場全体の雰囲気で印象的だったのは、オーストラリア選手の次に大きな声援を向けられたのがイングランド選手だったことです。さすが「旧宗主国」とのつながりの強さか?と思ったものです。
 世界選手権の観客はコモンウェルス・ゲームズやオリンピックのそれよりは陸上競技通の比率が若干高い可能性があります。むろん大阪でもテグでも、おもに午前中のセッションを中心に児童・生徒の団体観戦(空席の穴埋めも兼ねた動員)が行われていましたが、いっぽうで観客の「誘導」(手拍子や静粛の要請がスクリーンに頻繁に表示される)が念入りに行われていたことと、それに従う「集合心性」が両国とも強いこともあって、観戦マナーは概してよかったという印象があります。
 陸上競技は複数の種目が同時進行で行われます。TVであれば画面はひとつなので「ただ見ていればいい」のですが、競技場で見るのは「なじみのある人」でないと戸惑うところがあるでしょう。大きな競技会では場内アナウンスで相当くわしく競技進行状況を語り、巧みに観客を「誘導」するので「見やすい」はずですが、それでも大観衆となれば、どうしても限度があります。8万人のうちの(大半とはいわないまでも)相当数の観客は、いわば「女王在位60周年記念イベントでバッキンガム宮殿前に集まる人」と同じ種類の人たちです。観戦の作法を教えなければ適切にふるまうことはできないでしょう。しかしそのような「おせっかい」に意を尽くすことは、日本や韓国ならともかく、イギリス社会ではなかなかありえないと思います。
 結局のところ、自分自身の観戦体験が乏しいために、今回のオリンピックの観客についてどうだったかについて結論らしきものを導き出すことはできません。もっとも、閉会式の日に行われた男子マラソンを沿道で観戦したときの率直な印象は「ほとんどの観客が最後のランナーまでしっかり応援していた」というものだったので、さほどひどい状況ではなかったのかもしれません。いずれにしても、こうして世界トップレベルの競技を見た人が、その競技に今後もどれだけ関心を持ち続けるのか、また主催者が繰り言のように言う「大会が後世に残すもの」が何たるかは、未来の歴史学者に考察をまかせてみたいと思っています。
(14Aug2012)

(追記)
 今日(8月14日)は朝からBBC1(地上波TV)のニュースでオリンピックの「効果」に関する世論調査の結果を何度も報じています。結果は「想定の範囲内」という気もしますが、ひとつ確実に言えるのは、これらの調査結果が何を反映しているかはもっと時間がたたないとはっきりしないだろう、つまりこれも未来の歴史学者の考察対象のひとつになるだろう、ということです。

(ウェブサイトでも同じ内容がアップされています。)


言い訳とささやかな予告

 様々な瑣事に紛れて、このコーナーの更新を長らく怠ってしまいました。すでにロンドン・オリンピックも中盤にさしかかり、陸上競技も始まりました。書きたいことが大量に溜まった分、整理するのが困難になって、なおのこと筆が鈍りそうですが、オリンピックの最後のあたりは現地に出かけますので、そこでの見聞もあわせて近日中にこのコーナーの更新も再開したいと思います。
(04Aug12)

アベベ・ビキラに関する読書から
 次の二書を一気に読みました。

  山田一廣『アベベを覚えてますか』筑摩書房、1992年。
  T・ジェーダ(秋山勝訳)『アベベ・ビキラ』草思社、2011年。

 正確に言うと、後者を先に読み、その訳者あとがきに勧められていた前者を続けて読みました。前者はもともと1984年に刊行されたものに最終章などが加筆された文庫版で、後者の原著は2008年の刊行ですから、執筆・刊行に四半世紀ほどの時間差がありますが、両書ともに多くの貴重な話が盛り込まれています。とくに私が日頃から関心を抱いているスポーツと社会、国家、文化、「ふつうの人びと」の日常生活との相互関係、あるいはメディアとスポーツとの関係、それらをとおして我々が抱くさまざまな「イメージ」について、考えさせられる部分がたくさんありました。
 細かい話はやめにして、全体として強く心に残ったのは、さまざまな意味での「ギャップ」でした。アベベにせよ、彼を支えた人びとにせよ、メディアによってつくられた「イメージ」と真の姿が大きく異なっていたことはジェーダによる抑制のきいた、しかし説得力のある語り口で明らかにされます。スカンディナヴィア諸国とエチオピアの関係、「冷戦」体制、帝政と革命などといった国内外のさまざまな局面は、いずれもエチオピアの長距離界の展開に深く関わり合っていました。それらを考えあわせると、現在のエチオピアのトップレベルの選手たちとアベベの時代に世界大会で活躍した選手たちの間には、とても大きな違いがあるようにも思えます。
 20世紀後半にエチオピアが経験した混乱、窮状、悲惨さについて思考をめぐらせてこそ、この国の長距離界の歴史と現状がもつ「重み」を感じとることができるのかもしれません。

(08Jan12)
中国四国学生駅伝競走大会
 12月4日(日)に中国四国学生駅伝競走大会が山口市で開催され、高知大学陸上競技部チームは15位でした。率直に言って、今回はメンバーの人数がぎりぎりに近い状態で、厳しいレースとなりましたが、各選手は最善を尽くしたのではないかと思います。反省点や今後の課題についてはしっかり分析して、今後に活かしていってほしいと思います。
 競技結果(順位)の点では残念でしたが、選手を中心に、サポート及び応援の陸上部員と卒業生も一体となった、とても良い一日でした。
(05Dec11)
ケニアやジャマイカの強さの秘密(5)
最後、5つめです。一部省略して引用します(字義どおりの抄訳です。眠いので少し乱れているかもしれません)。

(5)身近にいる「世界レベルの選手」
 多くのジャマイカ人が1996年アトランタ五輪の女子400メートルハードルで金メダルを取ったデオン・ヘミングスが表彰台で胸に手を当て、オリンピック・スタジアムに上がるジャマイカ国旗を見て涙を流しているシーンを思い浮かべることができる。なぜなら、この表彰式の映像は、その後8年間、ジャマイカ国内の映画館では必ず上映前に国歌とともに流されていたからである。
 もし必死に努力したらどんな人になれるか、もし自分が勝利したら自国にはどんな意味があるのか、それを何度も見せられる子どもや若者にはどのような効果が表れるか、想像してみるとよい。
 ロール・モデル(模倣や学習の対象となる人物)を設定するという手法は、世界に通用する競技力を身につけようという気持ちを起こさせる方法としては王道と言えよう。そうした人物は我々のアイデンティティを他の人と結びつけるし、次のような明確な反応を呼び起こす。「かれらがやりとげたのだから、あなたにもできるはず。」
 同じ効果はケニアにいるときも感じ取った。イテンに来て2日目の早朝、とても驚くことがあった。その日の最初の練習として走りに出たときのことだ。とても気分良く、動きもよかったが、それでもケニア人の一団にはどんどん抜かれていった。
 抜かれたことに驚いたわけではない。驚いたのは、抜いていった顔ぶれについてである。最初が五輪1500メートル金メダルのアスベル・キプロプ、続いてリネト・マサイ、そしてメアリ・キタニーとフロレンス・キプラガトであった。
 まもなく気づいたのは、それが特別なことではなく、ごくふつうの朝の出来事だということだった。朝5時半から7時の間に30分ジョグに出れば、その途中で世界チャンピオン4人に会うのはふつうのことなのだ。イテンでは、世界で活躍するスーパースターが将来の活躍を期待される若者のすぐそばで練習している。しかもエリートランナーがどんな練習をしているかを見るだけでなく、かれらが苦しんでいるところも見る。若者たちは、世界トップクラスの選手がつねにベストであるとは限らないし、自分たちと同じ人間だ、ということも知る。エリート選手が何を犠牲にし、どれだけ自分を追い込んでいるかなど、すべて目の当たりにする。そして若者たちはこう考える。「彼もわたしと同じような一人の人間だ。彼にできるならわたしにもできる。」
 ロール・モデルは、意欲をひきだすうえでもっとも効果的な火付け役を果たす。それが引き金となって「夢」に火がつくのである。ロール・モデルは目標を設定してくれる。姿がよく見えるくらい身近にいて、同じ人間だと感じられる存在であるほど、桁違いの強さのウラにある人間性も明らかになる。そして、かれらは「君にもできるよ」と言うのである。
(抄訳ここまで)

(以下、川本のコメント)
 今日(11月20日)おこなわれた国際女子マラソンで優勝した選手(高知大にも同じ出身高校の部員がかつていました)は、両親がそろって陸上競技(中長距離)をやっていたということを報道を知りました。ほかにも親子でトップクラスの競技者であるという人がいることはわざわざここに書くまでもないことです(個人的な知り合いでも、高い競技力をもった親子がいます)。
 親子の場合は、身体的(生理学的)な遺伝形質によるところも大きいでしょうが、それだけでなく、意識やメンタル面での効果も無視できないと私は思います。親・祖父母・兄弟・親戚にそういう人がいれば、上の記事でいうような「ロール・モデル効果」があるかもしれない、というのは容易に想像がつきます。むろん、みんながみんな必ずそうなるわけではありません。あくまで「本人がその気になること」が重要でしょうし、ほかにもさまざまな条件はあると思います。
 例によってちょっと意地悪なことを言えば、日本の高校・大学・実業団に所属して競技に取り組んでいるケニアやエチオピアの選手が世界トップクラスの選手になるという例はしばしばあるのに、どうして彼らが日本人選手のロール・モデルにならないのでしょうか。「そりゃ、日本人とケニア/エチオピア人という国籍や民族の違いがあるからだ」という意見は少なくないでしょうし、もっと露骨に人種差別的な意見もありうるでしょう。しかし、「世界のマラソンから後れをとってしまった」「もっと世界に通用する選手を育成せよ」と言うのならば(ちなみに私個人はそんなことはどうでもいいと思っています)、まず日本に来てくれている東アフリカの人たちを「同じ人間だ」と思えるように日本人(選手だけでなく指導者も含む)側の思考や感性を変えていくべきでしょう。もし「国や民族の枠を壊すことなんかできない!」と言うのであれば、話はそれで終わり、そういう人たちにはこの狭い日本でチマチマと頑張ってもらうことにしましょう。ホントの意味で世界を目指すというなら、それくらいの意識変革がないと無理だと私は思っています。

(付言)この文章を読んでいるはずもないであろう、スポーツ界のお偉方のなかでも目先の利く人は、日本のスポーツ界(選手及び指導者)の「相変わらずの閉鎖性」を問題視して久しいはずです。

(20Nov11;21Nov11一部字句訂正)
ケニアやジャマイカの強さの秘密(4)
4つめです。

(4)徹底的な「走り」中心の生活
 ふつう東アフリカの選手の成功はハード・トレーニングの賜物だと説明されるが、私(著者アンカーセン)はもうひとつの大切な要因として「疲労回復」があると信じている。この点こそ、かれらが中長距離走で世界を席巻している理由を考えるときに、もっとも見逃されているところである。
 私がイテン(ケニア・リフトバレーのトレーニング地として有名=訳注)に滞在していたとき、そこで合宿しているヨーロッパ選手と頻繁に話をしたが、かれらはここへ来るたびに力がつくとずっと言っていた。その理由は、きつい練習やいつもと違った練習をするからではなく、ケニア選手と同じ生活スタイルで過ごすからなのだ。その生活スタイルとは、練習、睡眠、食事、それだけ!の暮らしである。
 世界ハーフマラソン大会を三度制したローナ・キプラガト曰く、「激しい練習をする期間は、一日16時間寝ていました。西洋諸国では、気を散らす事柄やストレス要因がはるかに多いので、そのような生活スタイルを実践するのは困難でしょう。携帯電話、テレビ、インターネットは、走ることへの集中力を削ぐモノのほんの一例にすぎません。」
 実際、2002年までイテンの人たちは携帯電話を持っていなかった。今日でさえ、100人に一人しかテレビを持ってないし、インターネットのことは「聞いたことがある」という人さえほとんどいない。しかも、そんな質素な生活を完遂することを求められるとすれば、西洋諸国にいてそれを実践することはきわめてむずかしい。イテンであれば、1週間2ドルで暮らせるのだから、そうした生活は誰でもできる。
 言い換えれば、ケニアのランナーは、西洋人にはほとんどできないようなやり方で「走り」に専念する機会に恵まれているということだ。だから、イテンには14才から40才までの走る以外にやることがないという人間があふれているのである。彼らは、得るモノはたくさんあれども、失うモノはほとんど何もない。スイスの長距離ランナー、クリスチアン・ベルツは言う。「私にとって競技生活を送ることは経済的なリスクを伴うが、ケニア選手にとってそれは人生のチャンスなのだ。」
(抄訳ここまで)

(以下、川本のコメント)
 以前、この雑誌の別の記事で次のような言葉を見かけたこともあります(私なりに言葉遣いを変えています)。

 強くなりたいと思うとき、素人ランナーは「練習方法」を気にするが、プロのランナーは「休養方法」を気にする。

 トップアスリートは適確な休養をとるように練習メニューを組んでいるはずですが、それでもオーバーワークで故障する選手は後を絶ちません。ギリギリのところで勝負する「プロ選手」はそれもやむをえないでしょう。しかし、しばしば中高大生(ひょっとすると小学生も?)の「オーバーワーク」や「燃え尽き」が問題になるのは残念なことです。もちろん、子どもたちに責任はなく、指導者やそれを支持する保護者の問題です。自戒を込めて言うなら、大人自身もまた、ちょっとスポーツに入れ込んでいると、練習量を上げることに気を取られ、休養がおろそかになりがちです。真剣に取り組むのであればなおのこと、休養することの大切さや自分の体調を適確にとらえて練習と休養をいれることに細心の注意を払うべきでしょう。
 話は変わりますが、私は合宿が大好きでした。所属した部活がいわゆる「体育会の悪習」のかなりの部分を免れていたということもあって、練習する、食べる、寝る、余力があれば本を読むなり部員同士で遊ぶなりしゃべるなり、というだけで一日が終わるなんて、今でも(今ならなおさら?)夢のように幸せな日々だと思い返します。ちょうど1年前、上の記事に出てきたイテンにある、ローナ・キプラガトが運営するトレーニング・センターでの合宿ツアーの記事を雑誌で見つけたときは、仕事の予定表を繰ってみて「行けないだろか?」と本気で考えました。
 それはともかくとしても、やはり「質素な暮らし、禁欲的な態度がハングリー精神を生み、高い競技力につながる」といった安易な美化・称賛からは一歩下がって考えたいと思います。これはアフリカが長らく苦しんできた貧困問題であり、歴史的にも考え、解決策を模索し続けなければならない深刻な問題の一局面だと言えるでしょう。むろん、ケータイやインターネットの普及率が高ければいいとか、物質的豊かさが達成されればいいとかいう意味ではありません。ただ、もしかれらが「その日の暮らしにも困るような状態」にあって「そうした貧困から抜け出す道がきわめて少ない」「その数少ない道のひとつが走ることである」「それゆえ走るしかない、ただ走るだけだ」とすれば、日本に住んで余暇の楽しみとして走ってるわれわれ(私もその一人です)は、ケニアやエチオピアのランナーの「強さ」をどう受けとめればいいのか。そんなことを考えるのも、この国で陸上競技に親しむ者として、大切なことだろうと思います。
(18Nov11)
ケニアやジャマイカの強さの秘密(3)
昨日の続き、3つめです。

(3)厳しい環境・簡素な施設
 ジャマイカの首都キングストンにも出かけた。私(著者アンカーセン)に言わせれば「世界で最も成功している陸上競技クラブ」であるMVPトラック・アンド・フィールド・クラブを訪ねるためである。北京五輪でメダル9個をもぎとったクラブである。
 私は今もMVPのトレーニングセンターに着いた朝のことをはっきり覚えている。「ホントにここか?」世界記録保持者や五輪優勝者が練習で使っているトラックと思しき場所にいたはずが、目の前にあるのはカラカラに乾いた草地だけだった。ハイテクの機材も最新鋭のフィットネス・センターもない。それどころか競技用トラックさえない。積み置かれたコーン、ストップウォッチ、錆びた器具があるだけのエアコンのないボロボロのウェイトトレーニング室があるだけだった。
 大成功にもかかわらず、ヘッド・コーチのスティーブン・フランシスは何も変える気はなかった。彼は簡素な施設でもって、短距離選手のハングリーさを試していたのだ。「競技環境が居心地よく設計されていなければならないと考えるのは大きな間違いだ」と彼は言う。「練習施設というのは猛練習できるように設計されるべきなのだ。設備を質素にしておくことによって、最も大切なことに注意を向けられる。その結果、良いスプリンターかもしれないけど能力を高めたいという意志よりもお気に入りの施設、名声、居心地良さのほうに動かされる選手だな、という短距離走者を自動的に見分けて排除できる。」
 このことは現代の欧米の考え方に真っ向から挑戦するものだ。西洋諸国では、われわれは直感的に、手入れの整った競技場、トップレベルのテクノロジー、居心地よい環境・・・というふうに考え、求めてしまう。次のような重大な問いにどう答えるか。「優れた、魅力ある、使い心地の良い施設のほうが競技力が高められるのか?それとも世界で最も成功した陸上競技クラブでスティーブン・フランシスが主張するように、素朴で質素な条件の下で練習するほうが有利だと考えたほうがいいのか?」おそらく、実際には、世界トップレベルまで競技力を高めるためには後者のほうが完璧な設備なのだ。なぜなら、そこで彼らは、肝心なことに集中する意志が選手たちにあるかどうかを見きわめると同時に、世界トップレベルへの道は簡単でもラクチンでもないということを選手たちにはっきりと伝えることができるのである。おそらく、恵まれた練習環境では、選手は努力しなくなってしまうのだ。
(抄訳ここまで)

(以下、川本のコメント)
 ジャマイカの競技施設や練習環境は、私も衛星放送などで映像をみたことがありますが、たしかにここに描かれたような様子でした。文中にあるような「質素な設備と最新鋭の設備のどちらがいいのか」という問いには、それぞれを支持する理屈があるでしょう。世界トップの選手を続々と輩出するジャマイカに「真実」があるからといって「日本にもそれを導入しよう」というのはあまりに短絡的な考え方にちがいありません。
 それでも「どちらが練習環境として理想的か」と問われれば、私はS・フランシスの考え方に賛成です。つまり「向上心」が「最新設備」よりも大切だと思います。昨日の(2)にもあったように、最新設備や科学的な測定機器は、メンタルな意味でもネガティブに作用することも少なくないように思います。
 フランシスの主張は昔から日本のスポーツ界にありがちな「精神論」とも似ているように見えます。しかし、社会の中での「自分を律する個人」のありかたが欧米と日本では異なるので、内容的に似た話であってもその社会的な意味合いは全く異なるでしょう。しばしば「精神至上主義」のような「勘違い」がいまだに蔓延しているところがあって、残念ながら日本のそれには私はどうしてもなじめません。
 最後に、次のことを(宣伝も兼ねて)強調しておきたいと思います。高知大学には、サッカー部をはじめとして、全国レベルから見たら「貧相」ともいえるような設備でそれぞれに高い競技レベルを維持しているクラブがいくつもあります。たとえ日本や世界のトップ・アスリートにはなれなくても、「競技に取り組むうえで大切なモノ」「それを大学を出たあとの人生に活かしていくためのヒント」を確実につかめるという点で、最新の設備をもった学校よりも高知大学ははるかに優位に立っている、と私は考えています。

(17Nov11) 
ケニアやジャマイカの強さの秘密(2)
昨日の続き、2つめです。

(2)「有機走法」
 私(著者アンカーセン)は欧米の実験室よりもケニアやエチオピアで見聞きした「走り」からのほうが学ぶことが多いと思う。しかし、科学者はつねに「科学的に「正しい」方法に従って走れば、東アフリカ(ケニアやエチオピアを指す)の選手ももっと速く走れるはずだ」と主張する。
 言い換えれば、もしもケニアのマラソン・ランナーであるマーティン・レルがアメリカ合衆国で生まれてたなら、彼はウェイト・トレーニング室に送り込まれてただろう(いわゆる西洋流のトレーニング法を意味する)ということだ。実際、彼はジムになんか行くことなく、ロンドンで3回、ニューヨークで2回、優勝した。東アフリカのランナーは科学的ではない。かれらは天性の、自然のままのランナーであり、最大酸素摂取量や乳酸や身体構造については知らなくても、「走り」と潜在的な身体能力については多くのことを知っているのである。
 優れたランニング・コーチであるコーム・オコンネルは私にこう語った「15年前、私はスウェーデンの研究者から心拍計をもらった。それは今も自室の箱に入ったままだ。ここでは心拍計なんぞ誰も要らないのだ。」
 東アフリカの選手が成功している重要な鍵はこの単純さなのだ。ケニアとエチオピアに滞在している間に経験したすべてのことに、身体的なことだけでなくメンタルなことも含めて、思い当たる節がある。西洋諸国の選手は情報過多になりがちだ。そうした情報は「信念」をぶちこわしてしまう。ケニアでは、誰も最大酸素摂取量なんぞ測らない。ただ周りの人を見て、こう思うだけだ。「かれらにできるなら、私にできないはずがない。」
(抄訳ここまで)

(以下、川本のコメント)
 表題は"Organic Running"、有機農法ならぬ有機走法です。実のところ、ここでの内容は人文科学の観点からは眉唾モノの部類に入ります。なぜなら(私の誤訳でなければ)ここでの描写はまさしく「アフリカ人=天性のランナー」という「創られたアフリカ人イメージ」の典型であるからです(この「イメージ」あるいは「偏見」について考察した学術論文も存在します)。ただ、その部分は差し引いて考えるとして、私が注目するのは「西洋諸国の選手は情報過多である」「ケニアでは誰も最大酸素摂取量なんぞ測らない」というくだりです。単なる「科学の否定」ではありません。科学的データや手法にどうしても頼りすぎになってしまうことによって、競技に取り組むうえで重要な「何か」を失ってしまっている西洋(ここでは日本も含まれると考えるべきでしょう)の選手と指導者に対する注意喚起である、と私は読みます。
 ちなみに、コーム・オコンネルとは、リフトバレーのイテンにあるセント・パトリック高校の校長を務め、P・ロノやW・キプテケルなど多くのケニア代表選手を育てたことで有名な、コーチ、教員、カトリック聖職者です。彼自身は、競技経験はなく、あくまで教育の一環として陸上競技を生徒に教えてみた、というだけのようです。その点でも自身の競技経験や競技に関する専門知識の習得が重視される「西洋」の指導者とは一線を画す人物です。
(17Nov11)
 この記事を書いて1年以上あとに、コーム・オコンネルは「聖職者」ではない、ということで、この記事を書いて1年以上あとに自分の誤りに気づきました。いまさらですが、訂正します。すみません。
(01June14)
ケニアやジャマイカの強さの秘密(1)
 デンマークのノンフィクション作家R・アンカーセンが、ケニアとジャマイカの強さの秘密を現地取材して探ったという本が来年出るようです。その抄録がAthletic Weekly誌の8月25日号に「魔法の公式」というタイトルで掲載されました。そこには両国の強さが「5つのポイント」にしぼってまとめられていたので、これから順次、抄訳してコメントを付していってみます。まずはひとつめです。

(1)自分を信じること
 ケニアでランナーを取材して印象に残ったのは、みな自分の力や可能性を信じて競技にとりくんでいることであった。ランナー誰もが世界記録を出したい、主要マラソン大会で優勝したいと考え、しかもそれが実現可能なことだと信じ込んでいるのである。
 ケニアの女子ランナーは出産後も世界のトップクラスに戻れると考えている。セリナ・コスゲイは、最初の出産の後、競技に復帰し、2009年のボストンで優勝した。この20年あまりケニアの選手が金メダルをとったという話をしょっちゅう聞いているので、かれらは自分たちの能力に揺るぎがたい自信をもっている。
 2005年の世界選手権5000メートルで優勝したベンジャミン・レモの話はこうだ。1988年、彼がラジオをつけるたびに「ケニア選手が金メダル」というニュースが流れてきた。そこで彼は、自分がすべきことはオリンピックに出場して優勝することだ、と確信したのである。この種の「洗脳」はこれまでほとんど看過されてきた。ケニア選手は、ただ「自分たちはけっして負けない」と思いこんでいる。ケニアでは自分自身を信じられない人は他人からも信じてもらえない。信じることにはなんの犠牲も要らない。誰にでもできることだ。
(抄訳ここまで)

(以下、川本のコメント)
 5つのポイントの最初は「自信」でした。何に取り組むにも、自分を信じることはたしかにとても大切なことです。ただし、ここではあえて2つ、警句を発しておきます。
 ひとつは、かれらの「自信」がほんとうにかれらの幸福につながっているかどうかは微妙かもしれない、ということです。この手の話でつねに注意しなければならないのは「成功者はこうだった」の実例がずらっと並べられて目眩ましを食らいかねないということ。一握りの成功者の陰には、同じようにしていたのに"loser"で終わってしまった人が何百倍、何千倍、ひょっとして何万倍という人数いることは、ちょっと常識があれば想像できることです。「自信」の強さや質(?)の優劣が競技力の優劣と一致するかというと、局所的にはそういう事例もあるかもしれませんが、全体としてはそんなはずはないでしょう。人間の力はそんなに単純なモノではありません。
 他方で、たとえ"loser"であっても「不幸」にならなかった人たちもいるはずだということも言えます。そういう人たちは「自信」を心の拠り所としながら、自分に適確な思考と行動を実践しただろうことは想像に難くない、ということです。ただやみくもに「自信」ばかり突出させていてもダメでしょう(世の中の「勘違い野郎」にありがちなパターンです)。そうではなく、揺るぎがたい自信をもちながらも、ときに熱くときに冷静に自分が為すべきことをしっかりこなしていった、そうすれば、たとえ結果が「成功」でも「失敗」でも、その人の(さらには周囲の人たちの)人生には必ずや意義深いものがもたらされるはずです。

(15Nov11)
大学駅伝から考える、この国の長距離走競技の現状と将来
 11月6日に「秩父宮賜杯第43回全日本大学駅伝対校選手権大会」いわゆる全日本大学駅伝が開催されました。上位にはいる大学や注目される選手については、マスコミにたくさんとりあげられ、多くの人が語っているのでそちらに譲るとして、例によって、ここではそれらと異なる、私なりのいつもの視角から書いてみます。
 今回の大会では国立大学が3校出場しました。また、学連選抜チームにも国立大学の選手が入っていました(私と同じ高校出身の選手もいました)。自分も国立大学出身で国立大学で仕事をしていますから、そうしたチームが全国大会に出場することはうれしいことだと思います(むろん、ここでいう「国立大学」は、日本代表選手となるような競技者を養成するような特別な専攻や体制をもたない、「フツウの国立大学」です)。競技力の点で国立大チームは明らかに上位の大学に水をあけられていますが、個々の選手が最善を尽くした点では劣ることはないはずです(記録的に遜色ない選手もいたようです)。どの国立大のチーム、選手とも、これからもますます頑張ってほしいと思います。
 それにしても、あらためて深刻な問題として懸念するのは「関東一極集中」状態です。この大会もかつては関東以外の大学が優勝することがあったのに、もうそんなことは起こりそうもないような状況になってしまいました。そもそもこの大会の開催日程が「箱根優先」のとばっちりをうけて翻弄された「過去の話」も知る人ぞ知るとおりです。
 私に言わせれば、「関東一極集中」ないし「箱根至上主義」は、日本の長距離走競技界の「ガラパゴス化」を進めるばかりです。「日本独自の陸上競技文化」という意味では世界的にも価値が出るかもしれません(相当なイヤミです)が、この状態で世界に互して戦うことは根本的に無理でしょう。むろん、十数年(数十年?)に一度は「特別に秀でた選手」が出るかもしれませんが、それは「箱根のおかげ」ではないでしょう。
 正直なところ、「世界」で戦える選手を製造する「国家的システム」を作るという発想自体、恐ろしいことなので、世界的選手が出るかどうかなんぞ、問題ではないのです。そうではなく、今の状況のままでは、トップアスリートを育成できないばかりか、全てのレベルにおいて競技に真剣に取り組み、いろんな意味で充実した人生や社会生活を送るような人さえ育てられなくなってしまうのではないか、というのが不安なのです。こういう言い方は現場で真剣に仕事をしている指導者や選手には失礼かもしれませんが、今の状態は「ホントにまずい」と思います。私が生きている間は大したことはないかもしれません。ただ、将来的に中長期的に、陸上競技が歪められ、結果的には衰退していってしまうかもしれない、そうなるのは悔しいのでぶつぶつ言って(書いて)いるのです。
 関東も含めた全国各地の大学が競い合う形で競技振興やレベルアップを図ることこそ、時間的・空間的に大きな展望で、つまり日本全体を視野に入れて長い目でみて考えた、最適の方向だと私は考えます。状況をそうした方向へ動かすための変化の糸口やその担い手は地方国立大学にある(いる)、というのが私の思いであり、信念です。
 だからこそ、今日の駅伝で頑張った国立大の選手や関係者、それを見聞きして「次は自分がやるぞ!」と奮い立った他の国立大学の人たちに期待し、また応援したいのです。
(06Nov11)
追記 大学駅伝とは無関係ですが、東京出張のおりに入手したいくつかのスポーツ関係の資料で「我が意を得たり!」的なものが複数、目にとまりました。在校生の皆さんには近日中に授業や雑談でお話ししていきます。
嬉しいニュース
 世界選手権の観戦記を書くと言ったきり、何も書かずに10月が終わってしまうのが惜しいので、嬉しいニュースをひとつ。
 高知大学陸上競技部のOBである黒岩海志郎選手(高知陸協)が10月30日におこなわれた全日本50Km競歩高畠大会で7位にはいりました。高知県新記録でした。
 現役部員も県内外の大会でそれぞれに頑張っています。応援にも行けず、結果を細かくフォローすることもできなくて、これまた悔しく思っています。しばらくは無理ですが、今後、機会があれば紹介していきたいと思います。
(31Oct11)
世界陸上観戦(言い訳)
 マヌケなことに、「世界陸上観戦(1)」というのをひとつ書いただけで、もうとっくに世界陸上は終わってしまいました。大会後半は現地で観戦してましたので書きたいことはたくさんあるのですが、観戦以外の時間をテグ内外をあちこち見学してまわることに注ぎ込み、さらに大会終了ごろに起こった紀伊半島での災害に意識が向いてしまったために、いろいろ見たこと、考えたことを「発信」する準備がいまだにできていません。
 少しタイミングがずれてしまいますが、近日中には観戦記の続きをアップしていきたいと考えています。
(09Sept11)
 
世界陸上観戦(1)
 始まりました。男子10000mのM・ファラーは「惜しかったなー」と思わずにはいられないレースでした。それにしても期待に違わぬ走りは見事です。女子400m予選は思いがけないハプニングでしたが。
 一般的には、もっとハプニングは男子100mだったかもしれません。
(28Aug11)

追記 イギリスでの報道では、やはりファラーのレースと銀は、ボルト失格に勝るとも劣らぬ大きな扱いでした。本人もラスト500mで「勝った」と思ったようですが、未知の相手の力が読み切れなかったふう。先日のアジア選手権でも見られたように、長距離走ではよくある話です。(29Aug11)
政府や公的機関によるスポーツ支援
あわてて書いたので、誤字や説明不足の部分がありました(読み直して、自分が書いたと思えない部分もあり)ので、大きな文脈は変更ありませんが、気になる部分を加筆・訂正しました。

 女子サッカーの国民栄誉賞のニュースとイギリスの五輪向け強化策の記事が地元の新聞に載ってました(ともに8月2日付高知新聞夕刊)。同じ紙面(ページは別)に載っていたことが最近考えていることと見事に共鳴したので、例によって微妙な意見ですが、ここに書くことにしました。(追記:とした部分は翌日加筆しました。)

 日本政府は女子サッカーを含めた女子スポーツ振興のためのお金を増額する方向で措置していく方針だそうです(高新では女子サッカーのみが対象のように報じられましたが、他社報道によると女子スポーツを対象とするとのこと)。他方、イギリスの記事でとりあげられていたのは、五輪で活躍が期待できる競技に「極端に集中配分」する、という強化策についてでした。どちらも政府や公的機関による補助金の話です。

 たしかに女子サッカーの活躍は見事というしかない「快挙」でした。授賞について政治的思惑うんぬんをいう向きもあったようですが、これまでの「栄誉賞」がどうだったか振り返ることなくあげつらっても仕方ないでしょう。わたしは「栄誉賞」に値するチームとその業績だと思いますし、受賞を素直に喜んでいいと思います。(追記:「栄誉賞」そのものの是非や意義について、ここでは意図的に議論を回避しました。実際、わたし個人はその賞の価値を必ずしも全面的に肯定評価しるわけではありません。)
 ただ、わたしが今ひとつすっきりした気持ちにならないのは、やはり「お金」のほうの問題です。女子スポーツ振興そのものに異を唱える気はまったくありませんが、今の日本の状況との「ちぐはぐ感」がどうしてもぬぐえません。「こういう状況だからこそ、「勇気と希望を与える」スポーツの活性化に力を注ぐべきだ」という声は容易に想像できます。でも、とくに「国の財布」に関してはとてもじゃないが「そういう状況じゃない」というのがホントのところではないでしょうか。拡がり続ける放射能汚染の補償や震災復興支援は何よりも優先すべき喫緊の課題であること、そのこともあって「国の財布」が異常なほどの危機的状況にあることは、金融や財政の専門家ではないわたしにも容易に理解できます。今回の話は必ずしも「国の財政負担の増大」を意味するわけではないかもしれませんが、この状況下で「お金でのスポーツ振興」といういつものパターンを繰り返すのは、スポーツ好きのわたしにとっても、さすがに重苦しい気持ちになります。

 他方、イギリスの話はそれと直接関わりがあるわけではなく、五輪開催国なのに補助金ゼロの競技がある、という話です。補助金無しで競技に取り組む女子バレーや卓球の選手や関係者の話が出ています。彼らの怒りや不満はもっともですし、イギリスの極端さは日本に住む多くの人の感覚では受け容れがたいレベルだと思います。
 ちなみに、陸上競技はそれらの競技よりもはるかに優遇されています(自転車競技より補助金が少ない、と記事では引き合いに出されていましたが)。ただ、その陸上競技でさえ、イギリスでの公的助成の条件が厳しいのはこのコラムでも触れたことがあるとおりです。競技専門誌を読んでいても、選手や関係者の不満はしばしばあらわに出てきます。しかし、それらをこえて見通せるのは、そうして不満を口にしながらも、競技への熱意が冷めることはない「真摯な姿勢」です。(追記:もっと言うと、より多くの公的支援を「とってくる」ことが「競技振興に力を尽くした」ことに読み替えられる日本のような雰囲気は、そもそもイギリスには存在しません。)

 ここで再び、日本に話を戻します。俗に言う「日本的美学」に従うなら「選手自身は不平・不満を口にしない」のが褒められるべき、となるのでしょうが、日本の女子サッカー選手がこれまでの「不遇」に愚痴をこぼさないとしたら、それは「美学」ではなくホントの「ホンネ」なのだろうと思っています。先日のラジオ番組で、「仕事をフルにして、それから練習」という生活リズムが当然になってしまっている、だからそうした自分たちの境遇が恵まれていないなどとは思わない、という趣旨のことを女子サッカーの元選手が話していました。スポーツに真剣にとりくんでいるアマチュアなら誰でも、そうした取り組み方は容易に想像できるはずです。

 率直に言って「国からの支援」はしばしば「余計なお節介」になりかねません。残念ながら、この国は「国民の血税に助けてもらって競技する」ことのしがらみを感じずにスポーツに取り組める国ではないからです。それは、周りで支えてくれる人たちへの感謝、という話とも次元が別の話です。(追記:身近な人たちからの直接的な支援と異なり、「国からの支援」は「国への恩返し」というワケのわからない返礼を陰に陽に強要してくるので、タチが悪いのです。)
 自分なりの生活ペースのなかで、主体性を失わず、競技に対する真摯な気持ちをもって、スポーツに取り組んでいけること、それがアマチュア・スポーツの真髄だと思います。歴史研究者のはしくれとして厳密さを期すとすれば、たとえ歴史的に言ってそれが「真髄」ではなかったとしても、それを「真髄」らしきものに仕立てていくことはけっして的はずれでない、とわたしは思っています。国の補助の有る無しや大小にかかわらず、そうしたスポーツへの取り組みが可能な社会を作っていくことに少しでも関わりあうことができればいいな、と考えています。

(02Aug11)
(03Aug11追記、一部字句修正)
梅雨の晴れ間に
 この5月から7月にかけて(高校生に関して言えば8月初旬まで)陸上競技をはじめ、大きなスポーツ大会が目白押しです。日本の梅雨は1年のうちの特定の1カ月半ほどなので、そこを避けるという発想はありえないのかな?となんとなく思ったりもしますが、夏は夏で厳しいですし、昔からそういう年間スケジュールなので、仕方ないのでしょう。きわめて特異な例として、全日本大学駅伝が1月から11月に移動したというのがありますが、この件について語り出すとまた厄介(?)なので、今回はパスします。
 とにかく梅雨は練習しにくい時期ですが、次の大会をひかえている人たちはぜひ最善を尽くして頑張ってほしいと思います。わたしも自分の走りのほうはまだまだ道のりが長そうなので、まずは次の観戦を大学の試合(四国インカレ)の応援か、あるいはアジア陸上か、と悩んでいるところです(両方とも行くのは時間のやりくりが困難なため)。
 ところで、いつの頃からか「勇気と感動」といった紋切り型の言い回しがスポーツについてまわるようになりました。当事者はとても素直な気持ちで使っているのでしょうから、イチャモン的なことは言いたくないのですが、正直なところ、ときどき違和感を覚えることがあります。それは「勇気と感動を与えたい」というのを聞いたときです。スポーツを観戦する側が「勇気と感動をもらった」というならまだしも、選手の側が「与えたい」というのはいささか不遜な感じがします。プロの場合は、「ビジネス」ですから、自分のプレーを商品とみなして「うちの製品はこんなに優れていますよ」と売り込むのはいいとしても、アマチュア選手が言うのは「なにか勘違いしてないか?」とつっこみたくなります。
 繰り返しますが、真摯な気持ちで語っている人をけなすつもりはありません。ただ、いろんな意味で「言葉」が軽んじられてるといわれる今の日本ですので、「言葉」についてちょっと気になったことを書いてみました。ちなみに、このことについてわたしの心の底にある気持ちの一端は、このコラムで3カ月ほど前(31Mar11)に書いたこととも通じています。
 とにかく、みんな、今の自分にできることに最善を尽くしてほしいと思います。わたしも頑張ります。
(23June11)

 どうでもいいことですが、「夢と感動」のほうがスポーツネタとしてはありがちでしょうか?
 さらに(記憶が曖昧ですが)何かの駅伝大会の中継放送でインタビューを受けていた区間賞の高校生が「自分がやるべき仕事をしっかり果たしました」というふうに一度ならず何度も「仕事」「仕事」と繰り返していました。むろんひとつの表現方法、比喩的な物言いだとわかってはいますが、「駅伝での走り」を「仕事」「仕事」と高校生に繰り返されては、どうしても違和感が増幅してしまいます。あくまでわたしの印象論にすぎませんが。
(25June11追記)
競技者とのかかわりかた
 今年度からいよいよ、本職の一部としてスポーツ史に関する研究にも本格的に取り組み始めました。そこで読んでいた本に、生態系や環境にかかる科学者として著名なN・マイヤーズの書いたものがありました。彼は、生態系ホットスポット(NHKで関連番組を放送中)とか気候難民という用語を提唱して、その分野では世界的にも有名な人ですが、実は日本の女子マラソン界でも有名な(わたしのsoulsコラムにもしばしば登場してきた)イギリスの選手M・ヤマウチの父です。以下に紹介するわたしが読んだ文章も、生態系ないし環境問題ではなく、ケニアの陸上について語ったものです。

N. Myers, 'Foreward', in Y. Pitsiladis, et.al., (eds.), East African Running: towards a Cross-Disciplinary Perspective, London, 2007.

 ヤマウチ選手が自己紹介で「子ども時代はケニアに住んでいた」というとおり、父マイヤーズはオクスフォード大学を卒業後すぐから、ケニアで調査・研究にとりくんできたのですが、大学時代の競技経験を活かしてケニアでも陸上競技に関わっていたようです(イングランドのクロスカントリー走で鍛えた走力はフィールド調査でも活用されたようです)。彼がケニアで関わりを持った国際級の選手として、メキシコ五輪(1968年)10000m優勝のN・テムやローマでの世界選手権(1987年)マラソンで優勝し今も日本でいろいろな仕事をしているD・ワキウリといった人の名前も出てきます。
 ただ、彼はコーチングの認定証は持ちながらも、ふつうのコーチング・スタイルはとらなかったと言います。上記の選手を含めて、頻繁かつ定期的に選手を指導・助言していたわけではない、と率直に述べています。彼が語るところを一部引用してみます(一部、意訳した部分もあります)。

 彼ら(ケニアのランナーたち)は、単に「楽しいから」走っていたのであり、「自分に可能なことや自分のやりたいことは他人にはわかるものではない」と感じるから走っていたのである。ほんとうに質の高いトレーニングやその成果としてのレース法がなんたるかは、彼ら自身にしか心に描けないのだ。「全力を出し切ること」を理解し、把握し、実践できるのは選手自身のみである。このことは、わたしのコーチングに対する考えに合致していた。競技者が信頼できる真のコーチとは、競技者が見る鏡の中に立っているものである。その日にもっとも効果の上がるトレーニングを真の意味で遂行できるのは選手自身だけなのだ。選手自身以外の人間(コーチも含む)は、選手に対して大局的な観点からのアイディアを提示し、さまざまなサポートを行うことができる、ただそれだけのことなのだ。(前掲書、xxiiページ)

 わたし自身、コーチングの専門知識をもっているわけではないので、マイヤーズの言にきちんとしたコメントができるわけではありませんし、その含意を正確に理解できているかどうかもわかりません。しかし、ここで述べられていることは、おそらくわたしが日頃から考えていることに馴染む考え方であり、スタンスであるように思います。
(04June11)
オリンピック3題話
 2012年のロンドンオリンピックのチケット申込が先月おわりに締め切られました。申込数よりも販売割当数のほうが多いセッションのチケットはそのままゲットできますが、人気の高いチケットは抽選で購入者が決まります。180万人から計2000万口の応募があり、とくに男子100メートル走決勝のあるセッションは100万口の申込があったという話です(同セッションの販売割当数は4万とのこと)。
 人気が高いのは否定すべくもありませんが、この桁外れの申込数は「インターネット」ならではの数字だと私は思います。そうした推測があながちハズレでなさそう、というレポートが先日のBBCニュースサイトにありました。「申し込んだチケットが全て当たって、代金が引き落とされることになったら、あなたの銀行口座の残高は大丈夫?」というものです。当然みんな「購入代金が6月24日までに引き落とされる」ことはわかって申し込んでる「たてまえ」ですが、100メートル走決勝のセッションが10万円、開会式は30万円近い値段のチケットですから、幸運にも大当たりの人がいたら、数十万円が一気に引き落とされるわけです。インターネットだからけっこう安易にポチッとしている人もいるはずで、だから申込数が莫大なのでしょうが、支払いは大丈夫ですかね?ということです。

 また、昨日、ロンドン五輪の聖火リレーの日程とルートとなる都市も発表されました。ちょうど1年後の来年5月19日にイングランド西端のランズ・エンドからスタートして、グレートブリテンと北アイルランドにマン島やチャネル諸島も加えた各地を縦横に巡るようです。国内しかまわらないというのは、2016年からの要領を先取りしたということです。かなり慎重に計画したという話ですが、それでも「あの町に来るのに、うちの町はどうして素通りなんだ!」みたいな不平もあるかもしれません。

 3つめは少し残念な話です。北京五輪男子マラソン金メダリストが亡くなったというニュースがありました。かつて日本で高校生ランナーとしても活躍した選手だったので、金メダルを取ったときにはとくに大きく報じられましたが、その後いろいろトラブルめいたこともあって、競技面での華々しい時期はとても短かったように思います。プライバシーに関わる問題なので無責任なコメントはできませんが、あえて言えば、これはけっして「特異な事件」ではないような気がします。スポーツをとりまくいろいろな世の中の仕組みやカラクリについて、競技者とか指導者とかそのほか関係する人たちがそれぞれに、ちょっと立ち止まって考えをめぐらせるべき「悲しい出来事」ではないか、と思います。

(20May11)
日本代表選手のニュースをきいて
 恒例のロンドンマラソンやボストンマラソンが行われ、その結果もうけて、今夏の世界選手権のマラソン日本代表選手が決まったというニュースがありました。日本のトップアスリートの情報には疎い(言い訳ですが、とくに長距離は選手層が厚いので、情報収集力と記憶力が追いつかない)のですが、今回の代表には出身県がわたしと同じ選手が2名いることに気づきました。正直なところ、奈良県は長距離やマラソンが盛んだと言えるような県ではありませんから、ほかにいくらでも中学・高校・一般と頑張っている都道府県もあるのに、ちょっと面白いことだな、と思ったりもします(けっして「悪意」や「侮蔑感」はありませんので、誤解なきよう)。また、これは先に大きく報道されましたが、実業団に所属しない一般の陸協登録選手も代表入りしました。ノルディック・スキーの経験者でマラソン競技に転向した人もいるという話も驚きました。これには、以前このコーナーに距離スキーの話を書きましたが、少し複雑な思いもあります(これもけっして「悪意」ではなく、距離スキーの選手も頑張れ!という気持ちです)。
 いずれにしても、さまざまな競技歴、さまざまな境遇の人たちが代表選手になること(なれること)はとても良いことだと思いますし、どの選手にも頑張ってほしいと心から思っています。
 ただ、今回の顔ぶれをみて、中高生(へたをすると小学生)時代からシステマティックに「選手強化」みたいなことをするのは果たしてうまくいくのかな(現にうまくいってるのかな)?という、いつも思っている「疑問」もますます強くなりました。もちろん、今回の代表選手個人とは全く無関係な話ですし、現場で頑張っておられる指導者の非をあげつらうわけでもありません。わたしが言いたいのは、あくまで「システム」の問題です。
 中学や高校のときに強豪校、有名校で猛烈な練習(最近は猛烈ではない、ほとんど「マインド・コントロール」的なものもあるかもしれません)を経験して、大学入学後「もうたくさんだ」という気持ちになってやる気を失う、あるいは競技から離れるという話をそこかしこに聞きます。競技スポーツである以上、より高いレベルを目指すことは当然ですが、継続的かつ主体的に競技にかかわっていくにはどのような取り組みかたが良いのか、今あらためて考え、よりよい方向に向けて実践していかないと、中長期的には「レベル・ダウン」あるいは最悪「競技の衰退」という結末が待っているかもしれない、とわたしは思っています。
(25Apr11)
競技が続けられなくなった方々への想い
 今回の地震、津波、原発事故で被害にあわれた方々には心よりお見舞い申し上げます。正直なところ、自分自身は何も被害に遭っていないのに、言葉を失ってしまうほどのショックを受けています。
 いろいろ書きたいことはあります。今回の表題とて大きすぎるかもしれませんが、今とにかく書きたいことを書きます。
 新聞報道のなかに、被災地でトレーニングを再開した高校生の陸上部員(長距離)の話をみつけました。辛い体験や境遇を乗り越え、目標に向かって努力する意志と姿勢はすばらしいものですし、ぜひとも頑張ってほしいと思います。
 ただ、わたしがそのように頑張る競技者以上に、もっと応援したいのは、どうしても競技を断念しなければならなくなった人たち、あるいは競技を続けることが絶対に無理というわけではないけど相当迷い悩んだ末に競技を断念することを決心した人たちです。これだけの災害ですから、陸上競技がホントに大好きで、心から真剣に取り組んでいたのに、もう続けられなくなってしまった(亡くなられた人もいるでしょう)、あるいは続けることにはあまりに負担や困難が伴うので断念せざるをえなかった、という人がきっと大勢いるはずです。わたしはそうした人たちに対してこそ、大きな敬意を(そして亡くなられた方には心から弔意を)表したいと思います。
 競技を継続すること、困難を乗り越えて目標を目指すことも立派です(けっして皮肉ではありません)。でも、競技を続けなかった人が頑張って続けた人よりも劣っている、ということはけっしてありません。勝負事である以上、スポーツでは勝者により明るい光があたります。でも、スポーツに対する気持ちや思い入れは競技力や競技結果と比例するわけではありません。スポーツに取り組みたい、スポーツが好きだけど、いろんな事情があって、取り組むことができない人、あるいは自分の考えで取り組むのを断念した人に対しても、(どれだけ可能かはわかりませんが)想いを馳せ、陰ながら応援していきたいと私は思っています。
(31Mar11)
来年に向けて
 年の終わりにこのコーナーに書いてきたことを振り返ってみました。できるだけ慎重に書いてきたつもりですが、そもそも門外漢が印象論に拠って書いているので(素人=アマチュアの立場からの意見ということで書いていますから)いろいろ浅はかな部分があるのは仕方ないとしても、もっと深刻かつ基本的な問題点として、「批判めいたことが先行するばかり」という点は自分で読み直しても見苦しい気がします。
 じっさい、わたし自身も迷いながら書いています。「問題点を指摘する」とか「批判する」というのを避けたがる日本社会の特徴に対しては「気を遣ったり媚びたりして、問題点に真正面から向き合わないのはダメじゃないか」という反発心がある一方で、「言葉を選ばないでズケズケものを言う人」をヘンに持ちあげるような昨今の風潮も行き過ぎだと感じています。また、わたし自身も日々仕事をしている身ですから、どんな世界でも「現場の人の声」が軽視できない「重み」をもつことは理解していますが、その一方で、「現場」にこだわることでかえって見えないモノがあるのではないか、個々の現場だけでなくもっと大きな観点からモノを考えないといけないのではないか、という局面もあるように思えてなりません。そんなこんなで、自分がものを書くときにも、どうしても中途半端になるのです。
 来る2011年は、わたしも、「いちゃもん」をつけて「批判する」ばかりではなく、積極的に何かをつくりだすような「陸上競技への関わり方」を実践してみたいと思っています。もちろん、「「現場」のありようを重視しつつも、それらばかりにとらわれることなく、広い視野から陸上競技を考えてみる」という基本姿勢は来年も保っていきたいと思います。
(30Dec10)
駅伝チームのつくられかた
 駅伝シーズンまっただなかです。今月は月初めに高知大学も出場した中国四国学生、月後半には実業団女子や全国高校がありましたが、来月は実業団、関東学生、都道府県対抗とたてつづけにテレビ放送もあります。若い頃は(そもそも生中継が少なかったですが)全部、終始みていましたが、最近はちらちらみたり、最後だけみたりという、ふまじめな見方しかしなくなりました。その理由について書き始めると長くなるので、それはまたの機会に譲ります。
 今回書きたいのは「チームづくり」に関わる話です。高校、大学ともにみられますが、全国大会に出てくる、あるいはその上位に入るような有力校(チーム)は、しばしば部員・選手が「共同生活」を送っています。高校であれば監督の自宅(あるいは敷地内の別棟など)に住む、大学であれば駅伝チームや陸上競技部員がまとまって寮生活を送っている、などです。いずれも日本では古くから見られるシステムなので、どこから始まり、どう拡がったのか、スポーツ史やスポーツ社会学あたりで研究されているかもしれませんが、わたしはその歴史的経緯を正確には知りません。でも、少し考えてみれば、戦前からの書生とか寮生などにルーツがありそうですし、そこから派生して、現在でも自宅を離れて遠方から来た生徒や学生を教員などが預かるようなしくみや合宿所での集団生活というものが全国各地に存在するのでしょう。
 そうしたやり方できちんと選手を育てている指導者は、たんに競技のうえでの好成績を残すだけでなく、人間的にも立派に成長した教え子を上位の学校や社会におおぜい送り出しているのでしょう。ただ、他方で、わたしの心の中には、そういうやり方に対する素朴な疑問もあります。失礼を顧みずくだけた表現を使って言うなら、「そういうふうに特別な世界っぽいのは、ホントのところ、どうなのか?」という感覚です。何をどう言おうとも、そうした部員や選手が世の中の大多数の生徒や学生とは異なる「特別な環境」で暮らしていることは紛れもない事実であり、それが果たして、個人の人格形成や社会のなかのさまざまな局面でどういう意味、位置づけ、影響があるのか。これも社会学か心理学あたりで研究があるのかもしれませんから、可能ならば少し勉強してみたいとも思うところです。
 さらにつけ加えると、「そうしたやり方をとらない学校(チーム)が、もっと目立ってほしい」という願望もあります。これは例によって身びいきな発想から出たもので、多くを語るまでもありませんが、付言すれば、高校よりもむしろ大学や社会人に関してですが、四六時中集団を意識して行動するような形ではなく、集団とつかずはなれず自律的に行動するような形で競技に取り組むスタイルがもっと発展して拡がっていってほしい、ということです。
(30Dec10)
「意外な展開」の予感
 日本ではここ数年いわゆるランニング・ブームの異常な高まりに見舞われています。「見舞われている」という言葉づかいで察せられるように、わたしは何事も「ブームはしょせんブームにすぎない」という冷ややかなスタンスなのですが、このランニング・ブームに関しては、自分の長年の趣味ということもあって、少し気にしながら考えをめぐらせています(余談ながら、もっと長い趣味である「鉄道」もここ数年、ヘンな盛り上がりをみせているようです)。
 考えていることの一例をあげると、わたしは「今回のブームは従来にはなかったような類の変化を日本の陸上競技に引き起こすかもしれない」という予感がしています。もっと具体的に言うなら、いわゆるエリート・ランナーの層は薄くなっていくんじゃないかということです。
 「おまえの言ってることは逆じゃないか」と思われるかもしれません。「ランニングに親しむ人が増えれば、相対的には競技志向の人も増えるだろう」ひいては「トップクラスの競技者たちのレベルも上がるだろう」と考えるほうがふつうじゃないか、という見方です。でも、わたしはそうはならない、ヘタをする(?)と逆になるかもしれない、と思っています。
 そう思う理由を手短に語るのはむずかしいのですが、あえて要点だけを書いてみます。まず、ブームが社会に影響力をもつとすればそれはあくまで「誰でも楽しめるランニング」の拡がりであろうということ、むろん全国レベルや世界レベルの大会で競えるよう厳しいトレーニングを積むような「競技としてのランニング」に(メディアによる誘導でもって)関心を向ける人がこのブームを通じて増えるかもしれないが、みずからそれに挑もうとする人が増えるとはかぎらないだろうということ、さらには、そういう競技界に惹きつけられ、それに挑もうとする人がたとえいくらか増えたとしても、そのことは「最上級レベルの競技者たちの競技力」のめざましい向上には必ずしも結びつかないだろう、ということです。
 それぞれの論点について適確な論拠を提示しなければなりませんが、ここで手の内を明かすより、来年以降、大学での授業その他の機会をとらえて話してみたいと思っています(そうしたことも「入試」の関門をくぐりぬけて「授業料」を払って本学に来てくれている学生に限定した「(カリキュラム内外での)教育機会の提供」の一つだと考えています)。
(24Dec10;25Dec10字句修正)
追記 「教育機会の提供」というところを、なにかヘンな理屈を教え込む(吹き込む)というふうに誤解されてはいけないので書き足します。それはつまり、わたしの考えを述べ、学生の皆さんに考えてもらって、自分の意見を述べてもらう、それが討論や考察につながる、という、ごく当たり前のことを想定しているだけのことです。
(25Dec10)
「駅伝の功罪」論議
 ここ数年、日本の陸上競技、とくにトップレベルの長距離に関して、「世界レベルでのマラソン競技での日本人選手の不振」と「国内の駅伝大会の過熱」がつなげて論じられることがあります。本格的に検討を加えるには、本1冊書くぐらいの議論を展開しなければならないでしょうが、ここでは無理なので、議論の根幹に関わる部分について私見を述べてみます。
 それは、「最近のマラソン不振は駅伝が悪い」「いやそうではない」というときに、双方の論点がかみあっていないのではないか、ということです。たとえば、かつて(1950年代から80年代)世界のマラソンで活躍した日本人選手は、みな国内では駅伝で活躍して力をつけ、世界に進出していったではないか、という形の「駅伝擁護論」もあるようです。その当時も「駅伝」は大勢の人びとの注目を集めていたのであって、その意味で駅伝とそこで活躍するランナーに「熱い視線」が注がれていたことは今も昔も変わらない。だから「駅伝が悪い」とは必ずしも言えない、ということのようです。しかし、「駅伝が悪い」というとき(そういう全ての人がそうだ、とは言えませんが)、それは「現在の駅伝」のありかたについて言っているのであって、「駅伝という競技」そのものが悪い、というわけではないように思います。そもそも「駅伝が長距離走競技の人気アップ、普及、強化にとても大きな役割を果たしている」ことを否定する人はほとんどいないでしょう。
 ストレートに言ってしまえば、マス・メディアが駅伝大会の報道のみならず運営にまでかなりの影響力を直接間接に及ぼすように近年なってきたことは周知のとおりであり、その結果として生じてきた「弊害」といえるであろう種々の問題を真正面からとりあげないと議論がかみ合うはずはない、ということです。しかし、ある意味、当たり前のことですが、当事者たち、たとえば正月に行われる某地区大学駅伝に関わる人たち(とくに競技指導者)は、たとえいろいろな問題や難儀を認識していても、それについて自由にモノを言うことはできません。私個人はそうした人たちと直接面識あったり話をきいたりするわけではないので、あくまで想像に過ぎませんが、ときに目にする新聞、雑誌、ネット上のインタビュー記事などの行間には、そうした人たちの「内に秘められた困惑」を読みとれるような気もします。
 大きな流れに逆らっても仕方ない、そういう社会の風潮だから仕方ない、と言ってしまうのは悔しい気がします。とても由々しいことだと思うのは、そうした「長い物には巻かれろ」的な雰囲気に、年寄りやいい歳したオトナだけでなく、20歳前後の若い人たちが大勢まきこまれていることです。大学生として陸上競技にとりくもうというからには、できるだけ広い視野をもって、競技をとおして社会を見つめ、考えるようなこともときにはあってほしいと思います。
(15Dec10)

 やはり、限られたスペースで走り書き的に書くと、自分で読み返しても、言葉が足りなかったことに気づいてしまいます。上に述べたなかで「マス・メディアが駅伝大会の報道のみならず運営にまでかなりの影響力を直接間接に及ぼすように近年なってきた」と書きましたが、駅伝大会の開催にマス・メディアが深く関わっているのは「近年特有の現象」ではありませんから、この書き方は正確ではありません。わたしが「近年」意識しているのは、マス・メディアの関与とそこに直接間接に関わる「お金の動き」(「期待感」も含む)が絡まりあった現状がはらむいろいろな「問題」の存在です。今日の駅伝に「悪弊」があるとすれば、そうしたいろいろな「問題」がその元凶だろうと考えています。
(追記、17Dec10)
中四学生駅伝
 第54回中国四国学生駅伝競走大会が山口市で開催されました。高知大学陸上競技部の駅伝チームは13位でした。選手、サポート、応援のみなさん、お疲れさまでした。
 来年の全日本大学駅伝地区予選に出場するための条件である10位以内には残念ながら入りませんでしたが、各人が最善を尽くしたという達成感と次のステップに向けて進むための材料は得られたものと思います。私は今回は現地応援はできませんでしたが、部員の皆さんのいろいろな感想や考えをまたの機会に聞かせてほしいと思っています。
(08Dec10)
練習と練習場
 高知大学朝倉キャンパスにある400mトラックが陸上競技部員の手によって整備され、たいへん良好な状態を保たれていることは、以前にも書きました。この週末は春秋恒例の記録会や陸上教室が開催されるので、とくに念入りに整備されています。
 自分たちの練習場(あるいは何かを修得しようとする場所)を大切にすることというのは、学校の体育系部活動にかぎらず、社会のさまざまな場面で「一番最初に身につけるべき心得」として語られることだと思います。高知大学の陸上競技部のメンバーもまさしくそのことを実践しているわけです。話がとびますが、少し前に甲子園で連続優勝した野球部監督の話を新聞記事で読んだことがあります。その監督がその高校に赴任した(まだ強豪校ではなかった)とき、グラウンドにはゴミが散らかった状態だったので、まず部員に掃除することを徹底した、というふうな話だったと記憶しています。
 わたしも基本的には練習場を整備することの大切さを強調することには賛成です。ただ、わたしには、そこでいくらかつけ加えて言いたいこともあります。もし指導者や先輩が厳しく言うからそれに従順に従って掃除・整備する、というだけなら、たぶん「しごき」や「根性論」と大差ない、と思うのです。目上の人の言うことに機械的に従うことを身につける、ということではダメだ、というのは、以前紹介した永井洋一氏の考えとわたしの考えの共通する部分です。
 自分の練習場であるトラックやフィールド(競技場)を大切にする気持ちと、自分がそこで練習メニューをこなすときの気持ちが、「自分の中で直結する」ことが肝心だと思います。指導者や先輩がそうしろと言うから、あるいは言われないけどそうしたら指導者や先輩によく思ってもらえるだろうから、というふうなことでなく、自分のなかで競技(練習)と競技場(練習場)がしっかり結びついている、そういう真摯な気持ちがあれば、そこでのトレーニングを通して得られる糧はとても大きいはずです。
 その点、高知大学の陸上競技部員は、かなり「いい線をいっている」と思います。いや、わたしの感覚で言うと、本人たちはそのことを自覚していない部分があるかもしれない、もっと自信を持っていいのではないか、とも思えます。たとえば、残念ながら、せっかく整備されているトラックが部外者に荒らされるようなことなども、しばしば見受けられます。そんなとき、部員よりわたしのほうが腹を立てているように思えるのは、彼ら彼女らの謙虚さなのか、たんにわたしが子供じみているのか、と自省することがあるくらいです。
(06Nov10)
新「勝手に応援」、その1
 第79回日本学生対校選手権を観戦しました。高知大学陸上競技部からは4名、わたしの出身陸上競技部からは2名(まちがってたら、ごめんなさい)が出場しました。選手各人にとっては必ずしも満足いかない結果だったかもしれませんが、たとえそうであっても、いろいろな条件のなかで努力してきて、かつ試合当日に最善を尽くしたのであれば、今回はそれでよしとすべきでしょうし、その経験を次に活かしていってほしいと思います。
 それにしても、競技場では「日本の陸上競技」を象徴するかのような光景が繰り広げられます。あの場にいた大半の人びとにとっては見慣れた光景なので、誰も何とも思わないかもしれません。でも、さまざまな外国の大会を観戦した経験のある人や、ちょっと繊細な(?あるいは、なにかと物事を斜に構えて見るわたしのような?!)人間には、ストレートに言ってしまえば、「異様」とも思えるでしょう。もう少し穏当な表現をとるなら、日本の学生スポーツ独特の雰囲気を味わわせてくれる、ともいえます。
 もってまわった言い方はやめましょう。要するに「集団パフォーマンス」的な応援のことを言っているのです。トラック競技で走者が走っている最中の集団応援や、投擲種目での気合いのこもった応援のかけ声、ジャンプ系で選手が手拍子を求め、応援席がそれに応じること・・・そういったものにはほとんど違和感ありませんし、むしろ気持ちよく感じます。わたしが「異様」とまで言うのは、今あげたもの以外、別のタイミングでおこなわれる「シュプレヒコール」?、「歌」(部歌や学歌ではない)、「踊り」のことです。
 むろん、それ自体は良い悪いの二元論で語れるようなものではないし、やっている学生をバカにする気はありません。でも、わたしには、個人競技である陸上競技にも「組織の巨大な力」が働いているという現実を強く感じさせる、やはり「異様」な光景なのです。実のところ、「組織の巨大な力」が働いているのは日本の学生スポーツや陸上競技界だけではなく、世界レベルのスポーツでもそうです。でも、おもしろいのは、日本では、それが独特の表現形態でもって、公衆の眼前にさらされる形で表現される、というところです。
 実際は、それほど大げさなことではなく、たんに「個人的な好み」レベルの話かもしれません。ちょっと理屈を端折りすぎているので誤解されるかもしれませんが、このままの文章でアップロードします。ともかく、競技は競技として、心から楽しんで観戦しました(そのあたりがわたしのイイカゲンなところです)。はるばる応援にかけつけた高知大学の部員や卒業生がたくさんいたこともあって、とてもいい試合観戦でした。
(14Sept10)

追記 私見の方向性を示せる話題をひとつみつけました。世界選手権のハードル種目メダリストがスポーツ選手のセカンド・キャリアを支援する団体をたちあげたというニュースです(2010年9月11日、高知新聞夕刊2版、3頁)。そのメダリストのように、自律的に考え行動する個人として、スポーツ選手のおかれている状況と自分に何ができるかを考え、ほかの個人や組織にも働きかけ、協力をとりつけて、自分の構想を実現させていく、という姿勢や能力、実践力が、「一定以上のレベル」でスポーツに取り組む人には大切だと、わたしは考えています(わたし自身は何も行動していない点が「引け目」ですが)。そうした見地からすれば、「組織」はけっして敵や悪者ではありません。「組織」も「組織の枠にとらわれる人びと」も、「自律的な個人」と手を組んでよりよい世の中のシステムをつくっていくパートナーとなりうるのです。そして、とくに陸上競技は、そうした「自律的な個人」がとりくむ、あるいはそうした自律性を育む、最適のスポーツだと思っています(やや思い入れが強すぎ)。
競技場日英2題
 朝早くから運動することが身体的につらいこともあって、若いときから「朝練」は苦手でしたし、今も朝から走ることはありません。しかし、イギリス滞在中は、たいてい仕事の関係で夕方に時間を取りにくいことや、時差による「理屈」(イギリスでは、朝6時が日本の午後2時または3時だが、夕方は日本の夜中過ぎだから、朝のほうが体に無理がかからないはず)を自分の体におしつけて、早朝にジョグしています。自己暗示もバカにならないもので、たまたま仕事が早く終わった日に朝は走らなかったからと思いたって夕方に走ってみたら、超スローペースなのにふらふらになってしまいました。
 今回、ヒースロー空港の近くに泊まった宿のそばにある公園と草地(外周を回れば1キロはあるでしょう)をジョグしたのですが、原っぱのなかに忽然とトラックが現れ、びっくりしました。6レーンのタータントラック、朽ちはてた障害走用ハードルと水壕(第3から第4コーナーのフィールド内)、支柱が曲がった投擲ゲージ、小さな6基の照明灯がありましたが、「犬を入れるな」という表示以外には、スタンドらしきものはおろか、計時台も器具庫もなく、どういう施設で誰が管理者かを示す看板もみあたらず、なんとも不可解でした。タータンの具合から推測して10数年は経っているでしょうか。SC用の障害は木の部分が腐って砕けていましたので、もっと古いかもしれません(追記参照)。
 わたしの高校時代、奈良県で県規模の競技会が行われる競技場はシンダー・トラックでした。隣の和歌山県がたしかアンツーカーでしたが、ほかの近畿の府県にはすでにタータンがありました。シンダーというのはひょっとすると全国の都道府県でも奈良県が一番最後くらいだったかもしれません。つまり奈良の選手は近畿大会に進出して、ようやく全天候トラックで走れたのです。それから30年も経った今では、日本でもイギリスでも老朽化してボロボロになった全天候トラックさえ珍しくありません。そんな妙なところにも時間の流れを感じます。
 ところで、高知大学グラウンド(陸上競技用トラック)は土の6レーン・トラックですが、少なくとも次の3点ぐらいについて、全国にも誇れるトラックだと日頃から思っています。ひとつは驚異的な水はけのよさです。高知でありがちな強い雨が降っても、止んでから丸一日たてばほぼふつうに使える状態になります。二つめはアウトレーンまで雑草もなく見事に整地されていることです。雑草の成長がこれまた驚異的にはやい高知にあって、トラックに草が生えていないというのは、日本のあちこちにある土のトラックを知っている人なら驚くはずです。これは、ほかでもない、陸上部員が丁寧に整備作業をしているためで、まさしく不断の努力のたまものです。三つめは、アウトレーンの外側に芝同然の草地があることです。わたしがそこを好んでジョグしているのは、トラックをできるだけ荒らさないようにするためと自分の脚を守るためです。
 とくに長距離走については、脚への過重な負担の観点からすると、全天候トラックよりも土のトラックのほうが練習に向いているだろうし、個人的には周囲の草地も重宝しています。こうした高大グラウンドの優れた特徴は、日本の他の大学にはさほど類例をみないのではないでしょうか。たまに、降雨直後のぬかるんだ状態でつけられたとみられる靴跡や自転車や自動車の「轍」を見つけたりすると、わがことのようにショックを受けます。ある意味で全天候トラックよりもはるかにスグレモノの施設であることを、もっと周知する必要があるかもしれません。また、そうした施設の価値を認識し、大切にしていくことが、まわりまわって競技力向上や競技振興につながるだろうとも思います。

 追記:上記のイギリスの競技場はヒースロー空港の南の方にあるフェルタム駅の近くにあります。ネット検索で探ってみたところ、1980年代半ばに造られたもので、かつては地元の陸上競技クラブの本拠でもあったのが、現在はそのクラブも他クラブに統合されてしまい、競技場は放置されたままになっているようです。

(01Sept10)
ごく最近の読書から
 「走り論」として書きたいことが頭のなかに大量に溜まっているのですが、それをきちんと整理して文字に起こすのには相当時間がかかりそうです。本業も遅々として進まないのに、余技の話なんぞいつになったら書けるのか、見当がつきません。
 そこで、せめてわたしの「走り論」の方向性を推し量っていただくために、わたしが共感を持って読んだ(現在進行形も含む)好著を紹介します。じつのところ、今月に入って刊行された二書がとても刺激的だったので、そのことを書きたくなった、ということです。

永井洋一『賢いスポーツ少年を育てる』大修館書店、2010年。

 永井氏の著書は以前にも読んだことがありました(『スポーツは「良い子」を育てるか』NHK出版、2004年)。わたしのような門外漢ではなく、スポーツ指導の「現場」で仕事をしていて、このような主張をしている人がいるということは大きな驚きでした。なぜなら、永井氏のように「ホントのこと」をズバリ言ってしまう人は、今の日本のスポーツ指導の「現場」ではまともにとりあってもらえない、つまり仕事をさせてもらえない、とわたしは思っていたからです。
 永井氏が一連の著書で主張していることはきわめて的を射たものだと思います。そして、わたしがスポーツとりわけ陸上競技に長らく親しみながら、さほど同趣味の人とのつながりを拡げられない理由の一端は、この部分(永井氏の指摘や主張の核心にあたる部分)で多くのスポーツ好きの人と相容れないこと、そしてそれを適当にやりすごせない自分の性格のためだと、自己分析しています。
 でも、できることならば、せめてふだん直接話す機会のある人たちとは、なにかきっかけさえあれば、この手の話を率直にしたいし、議論してみたい、とも、つねづね思っています。

内田樹『街場のメディア論』光文社、2010年。

 メディアとスポーツのつながりは社会学や歴史学の研究でもさかんにとりあげられてきましたが、あらためてメディアのほうの話を勉強するのに好適な一書が出ました。じつはこちらはまだ「ざっと読み」の段階なのですが、著者は「武道家」でもあるので、そちらの分野について論じた著書(『私の身体は頭がいい』文春文庫版なら2007年)もあわせて読むと、考えをめぐらせるいろいろなタネがたくさん見つかることでしょう。

 少し長めの夏休みを断続的にとりました。とても有意義でした。今週からは本業のほうが慌ただしくなります。

(23Aug10)
ひとりで練習してみる時期
 最近の大学のスケジュールは8月にはいってからもまだ授業や試験があります。わたしが学生のときは、7月なかばごろには授業は終わって、同月下旬に(知る人ぞ知る)全国規模の対校戦があって、そのあと続きで長距離パートだけの合宿をしたときもありましたので、今はずいぶん変わってしまいました(以前、ここに書いた、いわゆる「授業の免除」じゃなくて、ホントに授業がなかったのです)。
 それでも、今ごろだと、さすがにどの学校も授業も試験もおおかたおわって、合宿したり、強化練習をしたりしているところも多いと思います。合宿は、走ること中心の生活になりますから、わたしは大好きでした。もっとも、それは、高校のときは指導者(先生)に恵まれ、また大学のときは学生主体の部活動だったから、「理不尽なつらさ」がなかったから、とも言えます。「理不尽なつらさ」は強くなるために必要だ、という考え方もあるでしょうが、わたしはそれに同意しません。もっと正確に言うなら、選手のやる気を失わせるようなたぐいの「理不尽さ」は選手の成長とはまったく無縁なものでしょう。合宿の練習がラクチンだったわけではないし、ヘトヘトになるまで追い込んでました。でもそれを「理不尽なつらさ」とは感じなかった、高校の先生の指導が的確であり、大学のときの学生主体の運営が見事だった、つまりはそういうことです。
 さて、なかには、当面のところ合宿も合同練習もなく、帰省先や大学に残って個人で練習している学生もけっこういると思います。それはそれで、また貴重な日々(時期)だとわたしは考えます。ふだんの合同練習やスケジュールにおわれたなかでの練習では、どうしても「流れ」に任せる部分が出てきます。ちなみに、ここでいう「流れ」には、ほかの練習仲間や指導者の指示など、自分の外部にあって自分を後押ししてくれる、いろんなものを含みます。「流れ」に助けられることは大いにありますし、「流れ」は大事かもしれませんが、「流れ」に頼ってばかりでは本当の実力はつかないとも言えます。むしろ、練習するもしないも、どんな練習をするかも、自分の好きなようにできるときこそ、自分の気持ちや体と素直に向き合うことができるはずです。そうすると、自分のなかで「走り」をきちんととらえ直すことができるはずです。
 もし調子が良ければ、調子に乗って(乗り過ぎには要注意ですが)走りまくるもよし、もし不調な部分が体にあるならそこをしっかり治すのもよし、気持ちの面で「迷い」があるならそれを整理するもよし。ここでじっくりと自分の走りをみつめなおし、いろいろ考えをめぐらせて次の目標も定めて、英気を養っていけば、遠くの涼しいところまで出かけて合宿しなくても、じゅうぶん次のステップに進む体勢は整えられるはずです。
 わたしも暑いところで、ぼちぼちと走り続けます。
(12Aug10)
「県の代表」の重み
 わたしは高校から陸上競技を始めました。中学のときは野球部でした。まじめに練習していたのですが、とにかくへたくそで、練習試合も含めて1度も試合には使ってもらえませんでした。そこで高校では「部内で選ばれなくても大会(要するに記録会)に出られる」陸上競技部に入ったのです。
 幸い、というか全くの予想外なことに、先生の指導と良い仲間に恵まれたこと、そしてまじめに練習した甲斐もあってか、「部内で選ばれて」駅伝メンバーに入りました。しかも、わがチームは体育科のある(それゆえ中学時代からの有力選手も擁する)高校にも勝って県2位になりました。元野球部の補欠以下の人間が競技開始半年で近畿大会に出られるという、自分でも驚くべき展開になったのです。
 年をとると若い頃の自慢話が増えるので、自分でもイヤなのですが、このへんからは今日の話題にもっていきましょう。わたしはけっして「長距離走に向いた素質を持っていた」わけではありません。上に書いた駅伝のことはあくまで「チームとしての成果」です。個人では近畿大会には行けませんでしたし、個人記録では県高校10傑には入りませんでした(30年前の奈良県ですから、レベルは推して知るべしです)。でも、そういうレベルの競技者でしたから、「県の代表」になるということには特別な意識を持っていました。
 国体選手は遠すぎましたし、もし都道府県対抗男子駅伝が当時あったとしても候補に入るか入らないかの瀬戸際だったでしょう。当時のわたしに想定可能な「県の代表」は県選手権で6位以内に入ることでした。幸い、その目標は高校卒業後に達成することができました。むろん、近畿選手権では、競技進行を遅らせることのないよう、周回遅れになりながらも必死で完走するのがせいぜいでしたが。
 ところで、現在の競技者にとって「県の代表」というのはどんな感じなのでしょうか。国体選手は一握りの競技者しかなれないので、今でも重くうけとめられているでしょう。都道府県対抗駅伝もかなり限定されますからそれに近いと思います。しかし、私の現住地である高知で言えば、四国選手権や四国駅伝(男子の4県対抗)に「県の代表」として出場するというのはどうなのでしょうか。
 高知県からの四国選手権への選手派遣のシステムは昔の奈良県の例とは異なっているようです。しかも、漏れ聞くところでは、四国選手権も四国駅伝も県上位の選手が出場を辞退する、ということも少なからずあるようです。「県の代表」って今の人たちにとってそんなに重い意味はないのかな?いや、わたしが知らない様々な事情がきっとあるのだろう、と勝手に想像するばかりですが、どう考えてみても、正直なところ、わたしには解せない部分はあります。わたしが「県の代表」に特別な思い入れを持ちすぎなのかもしれませんが、そんな個人の感情レベルではなく、地域の競技振興という大きなレベルで考えても、「県の代表」は重要な位置を占め続けているはずだと思うのですが、どうなのでしょうか。
 今回はあまり深い事情を知らないままに書き連ねましたので、批判めいた論調に読めるかもしれませんが、わたしの本心は、誰かを批判するということではなく、ただ素朴な疑問として「どんななんだろう?」という気持ちです。近いうちに、機会があれば、どなたかにお願いして実情を教えていただこう(そして、わたしの誤解があれば、それを解いていただこう)と思っています。また、訂正すべき点があれば、このコーナーに書きます。
(04Aug10)
クーラーの効きが悪い場所で過ごそう
 自分の好みに合わせてエアコンを調節できる環境(仕事場)で昼間の大部分をすごしているわたしは、ほんとうに恵まれていると思います。というのも、実際、エアコンがあるのですが、ほとんどつけずに、扇風機(正確にはサーキュレーター)で風をおこしているだけです。実際、外から帰って廊下から室内にはいるとむわっと感じることさえあります。来訪者は明らかに「この部屋はなんだ?」という表情を隠せないようです(その心境はわかります)。全館冷房ではないものの、廊下や建物内は屋外よりは温度が下がっているので、それよりわたしの仕事場が暑いのはたしかです。寒暖計はありませんが、たぶん30度前後だろうと思います。
 室内では当然汗ばみます。しかし、その体にわずかであれ風が当たると、ご存じのとおり気化熱というやつで、けっこう涼しく感じるのです。むろん、水分はそこそことっています。
 なぜそんなことをしているかというと、たんに「クーラー嫌い」で意地を張ってるのではなく、わたしの体にはとても負担が軽いのです。何よりも、(昼間もそうですが、とくに夕方以降に走りに)外に出たときに「涼しく(少なくとも「暑くなく」)感じて、ラクチン」なのです。クーラーが体に悪いのは、冷えすぎ、足元と頭部の温度差、そしてなにより外気温とのギャップの大きさ、だと素人なりに考えています。だから、それを回避することでわたしは猛暑による体へのダメージを小さくしようとしています。
 とはいえ、学生やふつうの勤めの皆さんはそうそう勝手に自分の都合で空調の設定を変えることはできないでしょう。社会人の方には申し訳ないですが、ここではふつうの学生競技者向けにお勧めをひとつ。それが今日のタイトルです。試験・レポート期間の勉強や夏休みにはいって過ごすとき、自分で環境をコントロールできない場合は、クーラーの効きの悪い場所を探しだしましょう。そうしたちょっとした工夫と努力が体調の管理に意外と有効なのです。
 わたしはクーラー絶対ダメ!と言ってるわけではありません。人工的な熱源も加わった現代社会の暑さですから、ある程度の室温調節は必要です(実際、わたしもある条件の下ではクーラーを使っています。その話はまたの機会に)。ただ、わたしの経験からして、まず例外なく、公共の場所(建物、交通機関その他)のクーラーは競技者にとっては明らかに効きすぎです。なんとかそれを逃れる工夫をしてみてください、というのが今回のわたしからのアドバイスです。
(30July10)
学生競技者と授業・学業
 今回は、陸上競技の話ではなく、学生のスポーツと学業にかかわる話です。大げさに言うとわたしの「教育方針」の一端が現れてますので、そのつもりでお読みください。
 先日、日本で最初にできた国立大学(そんな遠回しな言い方しなくてもいいですけどね)のあるスポーツ競技の選手が全日本学生の大会で2連覇を果たしたという新聞記事を読みました。その記事のなかに「体育会に所属しても授業の免除がないので、練習時間が他大学の(同レベルの)選手の半分以下」という趣旨の一節がありました。わたしは「おおっ!?」と思ったのですが、事情を知る人には何の違和感もないのでしょう。何が「おおっ!?」かというと、その一節の前半部分です。「授業の免除」って何?そんなものがあるの?ということです。
 本学には、一定の条件の下で競技会などに参加するための授業欠席を「期末試験の受験資格に影響しない特例欠席」として認める制度があります。しかし、それも「欠席」が「欠席」でなくなるわけではありません。つまり、「特例欠席」した分はなんらかの形で埋め合わせなければ、授業にはついていけないということです(たまに誤解している学生もいますが)。そのような本学にも、地区大会や全国大会で活躍する学生が現に存在します。
 じつのところ、体育会に所属する学生が授業を免除されるような制度を備えた大学がほんとうにあるのかどうか、わたしは知りません。たとえあったとしても、大学設置基準や関係諸法令に反しないかぎり、各大学はそれぞれの教育方針や理念を実践する自由がありますから、それを部外者がとやかく言うことはできないでしょう。また、優れた選手の競技力を伸ばすという意味での競技振興のためには、さまざまなサポートが必要だという理屈は(ある程度は)わたしも理解できます。
 それでも、わたしは本学の現在のやりかた、おそらく多くのふつうの国立大学がやっている(はずの)ような制度のほうが自分の考え方にしっくりきます。それは、今の自分の立場ゆえの考え方でもありますが、大学では「授業が基本、学業が基本」だと考えるからです。そうでないと、「大学生であり、かつ競技者である」ことの本質的な意味が失われるような気がするのです。
 しつこく断り書きを書きますが、けっして(もしあったとして)「体育会学生の授業を免除する」制度をもつ大学やそこに所属する学生を批判するつもりはありません。どのような大学に所属する競技者であっても、学生自身がまじめに競技に取り組んでいるのであれば、所属する大学によって競技者としての資質や品格に優劣がつく、なんてことはけっしてないと思っています。
 ただ、もしあなたが学生競技者なら、試合で競い合う他大学の学生はどんな環境・境遇・制度のもとで競技に取り組んでいるのか、自分の所属する大学のやりかたはほかの大学と比べてどんなふうに違うのか、そのような制度はどんな歴史的・社会的背景をもっているのか、そもそも学生のスポーツ(あるいはあなたの取り組んでいる競技)が歴史的にどんなふうに展開してきたのか・・・など、機会があれば考えたり、本を読んだり、人に尋ねたりしてほしいです。もしあなたの指導者が「競技と直接関係のない、そんな余計なことに時間と労力を費やす必要はない!」と一喝するような人の場合も、めげずにこっそり実践してください。それは、学生競技者としてのみならず、卒業後の一社会人としても、あなたを高めることにつながるはずです。
(28July10)
はじめに
 「走るイギリス史」でイギリス史に関係のない話が増えてきたので、イギリスよりももっぱら「走り」に重点を置いた話をここに書いていきます。あらかじめ使用上の(=読む上での)注意を書いておきます。

(1)わたしはあくまで一アマチュア競技者です。一般人向け、専門家向けあわせていくらかの文献を読んではいますが、スポーツや体育に関して体系だった学術的トレーニングをうけたことはありません(今後、受ける機会があるかもしれませんが、これを書いている時点では「ない」ということです)。

(2)たいへんありがたいことに、本学の陸上競技部の先生方とときどきお話をさせていただき、また部員の諸君にも親しくしてもらっています。ただし、わたしは公的には部活動とは無関係ですし、わたしがここに書いていく「走り論」は本学陸上競技部の運営やら活動理念やらとは無関係です。一見、関係ありそうに読める場合でも、それはわたしの一方的な「思い入れ」だったり「感想」だったりするとお考えください。その点、読者の方々には誤解されることのないよう、お願いします(むろん、誤解を招くことがないよう、わたしも細心の注意を払います)。

 前置きが長くなりました。更新頻度は不定ですが、よろしければおつきあいください。

(27July10)
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