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日日是労働セレクト4-6
 「日日是労働セレクト4-6」

 すでにご存知の方もいるかと存じますが、「日日是労働セレクト4」、「同セレクト5」、「同セレクト
6」を消去しました。記事としてまだ残しておきたいものも若干あるので、次のような処理をしました。つ
まり、以下に上記ブログのさらなる「セレクト」版をリリースするという方法です。直ぐ下の記事がこの
「日日是労働セレクト4-6」の中では最も新しい日付のものです。つまり、読み進めるほど古い記事にな
ります。ただし、後日に行った加筆訂正を含んだ日があります。日誌ですから、少なくとも後日に加筆する
ことは御法度であるはずですが、「某月某日」ということもあり、記事内容の充実を優先させました。ご了
承ください。また、頑張って「辛口」の批評を展開しようと務めておりますので、本文に何かと読者のお気
に召さない表現等が散見されるやもしれませんが、特定の個人、団体等を誹謗中傷する目的は一切ありませ
んので、どうぞご理解ください。なお、感想をお寄せいただく場合は、muto@kochi-u.ac.jp 宛でお願いい
たします。


 某月某日

 『雲ながるる果てに』(監督:家城巳代治、重宗プロ=新世紀映画、1953年)を観た。学徒動員の予備士
官たちが特攻隊を志願して戦死するまでの物語である。彼らの手による同名の手記集が原作で、『きけわだ
つみの声』とともに映画化され話題作となった。小生は「戦後の日本人の倫理観の変遷」を研究課題のひと
つにしているが、いまだに何も分かっていないことを実感する。というのも、彼らの気持を十分には理解で
きないからである。しかし、分からないのが当然であろう、20代前半で国家のために死んでゆかなければな
らない若者の気持を。ところで、1996年版『ぴあシネマクラブ』には、この映画の評価が記されている。同
監督の『異母兄弟』とともに、ずばり最高評価の星四つである。最近の同誌はこの星の数による評価をやめ
てしまったが、何を鑑賞すればよいのか選択のための目安になるので、また復活してほしい。それはともか
くとして、同誌において星四つを与えられた映画監督はおよそ20人いるが、二つ以上与えられている監督は
以下の7人である。黒澤明(八つ)、溝口健二(五つ)、小津安二郎(五つ)、成瀬巳喜男(三つ)、大島
渚(三つ)、山中貞雄(二つ)、そして家城巳代治(二つ)である。ここに挙げた監督が錚々たる顔ぶれで
あることは誰も疑うまい。ちなみに、星四つの黒澤作品を挙げてみよう(五十音順)。『赤ひげ』、『生き
る』、『七人の侍』、『椿三十郎』、『野良犬』、『酔いどれ天使』、『用心棒』、『羅生門』の八作品で
ある。観たことがある人ならば、いずれ劣らぬ作品であることが直ぐに分かるだろう。小生もこの評価に異
存はない。黒澤にはこの他にも星四つの栄誉に輝くまでには至らなかった傑作がたくさんあるので、実に驚
くべきことである。さて、『雲ながるる果てに』をこれらの黒澤作品と一緒に並べた場合、素直にこの評価
を認めることができるだろうか。というのも、当該作品が題材の重さに頼ったものであることを否めないか
らである。また、評価する者の思い入れもあるに違いない。事実、なぜ星四つなのか納得のいかない作品も
ないわけではない。また、小生の好きな映画で、星四つを与えてもよいと思っている映画が何本かその選に
漏れている。しかし、別の角度から見ると、この評価は正当であると言ってもよい。それは、この作品の歴
史的重要性である。つまり、生々しいのだ。たとえば、特攻隊を描いた映画は他にもたくさんあり、最近で
も『ホタル』(監督:降旗康男、東映他、2001年)という作品がある。もちろん力作であることは否定しな
いが、どうにも色褪せているのだ。これはどうしようもない。このブログで、『原爆の子』(監督:新藤兼
人、近代映画協会=劇団民芸、1952年)の感想を綴ったときにも指摘したが、やはり生々しいことは何にも
代え難いのである。つまり、「よくぞつくっておいた」という点が素晴らしいのである。いくら美術や大道
具が苦労しても、過去を復元することは非常に難しい。CGを駆使しても、それは同じことである。端的に言
って、時代の雰囲気を蘇らせることが至難の業だからである。また、俳優陣の生の経験も大きく左右する。
たとえば、西村晃が出演しているが、彼が上官に敬礼して踵を返す仕草など、本当に久しぶりにお目にかか
った。小生の小学校時代、軍隊経験のある教師はたくさんいたが、その教師の中にまさしく西村が行ったの
と同じ踵の返し方をしていた教師がいたからである。また、海軍大尉を「だいい」と発音しているところも、
知っている人には懐かしいはずである。言うまでもないことであるが、映画のリアリティは細部から崩れる。
この映画が慥かなリアリティをもつのは、細部がしっかりと描かれているからである。もちろん、「お前の
ような若僧に何が分かる」というお叱りの言葉を賜ることを承知の上で書いているので、その点をご海容い
ただきたい。
 さて、この映画は反戦映画ということになっている。それは、次のような台詞に現れている。予備士官の
ひとりが、酔っぱらって上官の演説の真似事をするシーンである。

 「諸君、全国の学徒諸君、いまや伝統ある帝国海軍の運命は、一にかかって純真なる諸君の双肩にある。
  帝国海軍は諸君の奮起を待っている。諸君、帝国海軍は……」てなことはみんなデタラメだよ。

 また、金子司令(加藤嘉)、片田飛行長(神田隆)、倉石参謀(岡田英次)らの上層部の態度を見ている
と、やはり悲憤を感じざるを得ないように描かれている。たとえば、作戦通りに成果が上がらなかったこと
が明らかになったときの倉石参謀の台詞である「何、特攻隊はいくらでもある」が極めつけであろう。ある
いは、片田飛行長の「お前たちは生きながらすでに神である。何の欲望もないことと思う」なども、型通り
であるとは言え、やはり腹が立つ。「黙って死んでゆく方がよほどおかしい」ということが、誰にも見えな
いのである。もちろん、疑問をもつ者はいる。大瀧中尉(鶴田浩二)の「戦争は理屈じゃないんだ。生命の
燃焼だ。人間の根源的な情熱なんだ。悠久の大義に生きる。個人の生死を超越した民族的な情熱への自己同
一なんだ。元来、俺たちの命は天皇陛下からお預かりしてるんだ」に対する、深見中尉(木村功)の「悠久
の大義で本当に死ねるのか」という返答は重い。しかし、その後、大瀧も心から苦しんでいることを知り、
考えを変える。怪我を押して特攻に参加するというのだ。

  俺は、俺だけがひとりで悩んでいるんだと思ってたんだ。だけど、みんなも、みんながそれぞれの気
 持で苦しんでいることが分かったんだ。俺は、君たちを死なして、俺だけが生き残ろうなどと思っちゃ
 いない。俺は貴様たちと一緒に死にたいんだ。ただそれだけだ。

 これはクライマックス・シーンであるが、ここには悲しくてもどうにもならない空気が流れている。また、
特攻の実際を片田飛行長が説明しているシーンもある。台詞の抑揚がお気楽な調子なので、よけいに腹が立
つ人もいるだろう。

  敵機動部隊は大体において空母を中心としてここに書いてるような輪形陣をとっておる。お前たちの
 第一に狙うのは空母である。だから、いかにすればこの外郭の線を突破できるかということを研究せね
 ばならない。いいか、第一隊は、高高度から垂直に降下突入する。第二隊は海面すれすれの超低空を這
 って、敵艦の土手っ腹に突っ込む。いいか、また万一空母に届かぬうちに被弾したような場合には、躊
 躇なく目前の船に突っ込んでよろしい。これもなるべく大きいものを狙え。それから、突入箇所は煙突
 付近である。これは機関部に通じておるから戦果は大きい。なおまた、お前たち伎倆未熟であるし、腹
 もできておらんから、ぶつかる瞬間において目を閉じたり、失神したりすることも起こり得ると思うが、
 この点今から十分に鍛錬しておくように。分かったか。

 その他、娑婆気を引き抜き海軍魂を叩き込むと称して殴りつけるシーンなどには、「今の若者はどう反応
するのだろうか」と思いながら観ていた。また、川柳や狂歌のような文句がいくつか出てくるので、記載し
てみよう。

 雨ふって/今日一日を/生きのびる

 雨ふって/またも一日/生きのびる

 雨ふって/またまた神様/生きのびる

 散る桜/残る桜も/散る桜

 不精者/死際までも/垢だらけ

 特攻隊/神よ神よと/おだてられ

 この空の/極まる果てに/母ありて/今日の門出を/いかに祭らん

 後から来る消耗品に告ぐ/冥土で待ってるぞ!!

 最後の出撃シーンである。指揮を執る村山飛行隊長(原保美)の言葉も涙なしには聞けない。

  ただいまより、各自故郷の方を向いて家族の者に最後の別れを告げる。黙祷。

 急ぎやって来た大瀧中尉の家族は彼に面会することができなかった。父は「万歳」を叫ぶが、母は「正男」
と息子の名前を呼ぶしかない。最後に、彼の明るい声が響く。

   行ってまいります
   昭和二十年四月十六日
   神風特別攻撃隊第三御楯隊
   海軍中尉 大瀧正男
   身長 五尺六寸
   体重 十七貫五百
   きわめて 健康

 註:上で1996年版『ぴあシネマクラブ』に掲載されている邦画の評価に触れ、星四つの最高評価を二本以
   上受けた監督は7人であると書きましたが、10人の誤りでした。残りの3人を作品名とともに以下に
   記します。

 五所平之助:『花籠の歌』(松竹大船、1937年)および『煙突の見える場所』(新東宝=スタジオエイ
       トプロ、1953年)。
 木下恵介:『お嬢さん乾杯』(松竹大船、1949年)および『二十四の瞳』(松竹大船、1954年)。
 今村昌平:『にっぽん昆虫記』(日活、1963年)および『神々の深き欲望』(今村プロ、1968年)。

 実は、この時点で、今村昌平監督の『にっぽん昆虫記』を除き他の作品は未見でしたので、つい見落とし
たのです。お詫びして訂正します。


 某月某日

 「健さんと寅さん」

 以前に、高倉健と渥美清の役柄を少しだけ比較したが、その続きを企ててみたい。もちろん、思いつきな
ので、さしたる根拠もないし説得力もない。しかし、一応試みてみよう。なお、タイトル付のブログは久し
ぶりである。
 さて、二人の役柄(たとえば、侠客役の健さんとフーテンの寅さん)は大きく異なると考えられる。この
前挙げた要素は、「決まる人」と「決まらない人」、「憧れる人」と「慰められる人」だったが、以下その
例に倣っていろいろと比較を行ってみる。挙げた項目もかなり恣意的なものであることをあらかじめ断って
おく。

 高倉健演じる侠客        渥美清演じるフーテンの寅

  決まる人                決まらない人
  憧れる人                慰められる人
  寡黙                  おしゃべり
  忍ぶ恋                 周りを巻き込む恋
  女性にもてる             女性にもてない
  喧嘩に強い              喧嘩に弱い
  上品                  下品
  行儀よし                行儀わるし
  丁寧な言葉遣い            口汚い
  甲斐性がある             甲斐性がない
  精悍な顔立ち             ユニークな顔立ち
  スマート                少しずんぐり
  服装センスあり            服装センスなし
  かっこいい               ださい
  スポーツマン              運動音痴
  働き者                 怠け者
  性格は暗い              性格は明るい

 おおよそこんな感じか。「どちらの男性になびくか」という究極の選択を迫ったとき、ほとんどの女性が
高倉健演じるところの侠客を選ぶかもしれないが、中にはフーテンの寅さんを選ぶ人もいるのではないかと
思う。どちらも何をしでかすか分からない危うさを秘めているが、フーテンの寅さんと一緒になった場合、
苦労はしても底が知れているからである。健さんの場合は、刑務所に入ったり、死んだりする(健さん演じ
る侠客は死なないことになっているが)確率が高いので、その恋は悲劇になることが必定である。それに比
べて、寅さんとの場合は、どう転んでも喜劇にしかならない。つまり、寅さんが悲劇の主人公になるとすれ
ば、妹のさくらにも見放されたときだけであろう。もし、小生が女だったら、ためらうことなく寅さんを選
ぶ。健さんは危なすぎるから、現実の選択はできないだろう。つまり、夢の中の人でよいのである。こう書
いてみると、案外寅さんを選ぶ人が多いかもしれないような気がしてきた。
 さて、二人に共通の要素は何かというと、「利他主義者」ということに尽きる。基本的に人情家だし、義
理堅く、金銭にも淡泊、しかもそれらが装われたものではなく、本物であるという点も共通する。自分に道
理や権利があるときでも、それを声高に主張することもほとんどない。ただ、人がそういう目に遭っている
ときはそれを看過することができず、感情を爆発させてかえって他者を傷つけてしまうこともある。我慢に
我慢を重ねた上での蛮行三昧というわけである。日本人の男も女も、こういう男性像が好きなのである。た
だ、自分では徹底できないので、二人に夢を託すのである。だいいち、利他主義者は腹の底で何か企んでい
るのではないかという理由で警戒されるが、そうではないことが分かると好かれるのは当然である。ただし、
利他主義者はお人好しではない。お人好しとは、気が弱いだけの人のことが多い。本物の利他主義者とは、
事柄が要請していることをはっきりと読み取り、速やかに実行できる人のことである。『論語』にある「義
を見てせざるは勇無きなり」がこれに当たるだろう。したがって、一面では強い自我の持ち主でもある。健
さんも寅さんもだから人気があるのだ。だから英雄なのである。どちらを取るか、それは好みの問題になる
だろう。


 某月某日

 先日このブログで寸評した映画『流れる』の原作者である幸田文に興味をもったので、彼女の著作を繙い
てみた。『みそっかす』(岩波文庫)という随筆集である。先ず、その瑞々しい文体に圧倒させられた。例
によって自由に抜き書きしてみる。変哲のない文章の背後から、独立心のある一人の女性の息吹が伝わって
くる。なお、文脈を無視しているので、気になる方は原文に当たってほしい。


  私に縁の話があったときには、芸術の世界に身を置く人はなるべく避けたい。心凝れば妻子は無きに
 同じく、心遊べば己れを養うに忙しい。

  天地玄黄宇宙洪荒と、いやな字がしょっぱなから並んでいる。

  子供なんぞは何人あってもその拠って立つところの家の、そのまた動脈たる家事に協力させるべきで、
 もともと能力未発達のものが子供なのだから、それに大人である親たちが規矩を乱されてうだうだして
 いるのは正しき愛情ではない。

  七ッ八ッの小わっぱのくせに、自らをよしとする根性というものは生れながらにして持っているとで
 もいうのか、あきれかえったものである。

  天性おおらかに何のとどまるところなき心の格(夭折した姉に対する言辞)

  幼いものは本能的に父母の和を求め、父母を愛する優しさをもっている。

  子供本来の優しさはあくまで庇ってやってもらいたい、夫婦のためにも親子のためにも。

  気概と教養と誇りを十分に身につけた一種のスタイリストといえるはは[=継母]が、四十を出てか
 ら父のような男と結婚し、結婚は失敗で、深刻ないさかいに明け暮れているさなかである。

  なぜ、大人の世界と子供の心のなかには誤差ができるのだろう。

  お嫁さんに貰い手がない、お婿さんに嫌われるとは、なんという心細いこと、情ないことだったろう。

  早熟でもあったとおもうが、人間が幾百年も幾千年もくりかえし経験してきた感情というものは、機
 会さえあればどんな幼い子供にもちゃんと会得できるものではないのだろうか。

  どんな得意なときでも一言「ままっ子」といわれると、すっと一人ぼっちの感に襲われ、一度にぺし
 ゃっとした。人目につかない処へ逃げて行きたく、癒してくれるものは自分よりほかにないことを知っ
 ていた。

  教室を出たとき私のおぼえていたのは、ほかの子供は一人しか母をもてないのに、私は二人もの母を
 もってしあわせなのだ、「だから立派なままっ子になって見せて頂戴」という先生のことばであった。

  勤倹力行とか刻苦勉励とかなんていうのは私は大嫌いだった、窮屈で苦手だった。

  みそっかすとは、一人前でない、役たたずの、きたならしい、しょうのない残りっかすという意味で
 ある。


 文豪幸田露伴の次女の面目躍如たるものである。


 某月某日

 ニコラウス・クザーヌスの哲学的概念のひとつに「反対の一致(coincidentia oppositorum)」がある。
「コインキデンティア・オポシトールム」と読む。哲学を勉強し始めた頃、この概念に触れて大変喜んだ記
憶がある。どんなに「他なるもの」であっても、絶対的な一性はそれを包含する。たとえば、無限な線は無
限な円を包含するのである。これはいい、何にでも応用が効く。小生は早速、「たとえ今は嫌なものであっ
ても、無限の彼方では手を携えることができるのだ」と読み替えてみた。それは、犬と猿とが抱擁する世界
である。相手を猿と見て喧嘩を仕掛ける犬では所詮駄目なのだ。存在が「猿」に権現しているにすぎないと
看取するのだ。そうなると、人間にはすべての差異を差異のまま包含してしまう剛力がいることになる。生
きるということは、この剛力を養うことではないだろうか。もっとも、この剛力にお目にかかったことなど
ないけれども……。


 某月某日

 昨日のつづき。例によって、今では不適切な表現を用いるが、時代背景上、やむを得ないものと受け取っ
ていただきたい。神楽坂はん子の『芸者ワルツ』が大晦日の紅白歌合戦の演目だったのはいつのことだろう
か * 。おそらく、昭和30年代の前半だったのではないか。40年代に入っても、小生にとって、「芸者」と
いう存在は身近なものだった。もちろん、鑑賞の対象だったにすぎないが……。小生の通っていた中学校は
東京の新橋演舞場の近くにあり、人力車に乗った芸者さんを何回も見ている。今時人力車にお目にかかれる
のは京都嵐山ぐらいだろうが、当時は別に珍しくもなかった。小生は未見であるが、たしか萩原健一が現代
(と言っても、もうだいぶ以前になるが)の人力車夫の役で主演を張ったテレヴィ・ドラマもあったはずで
ある。『流れる』でも人力車が登場するが、まったく違和感がない。戦前に時代設定をしたドラマなどで出
てくる人力車はどこかウソ臭いが、本物はさすがに違う。また、芸者の衣装などの考証も挿絵画家の岩田専
太郎が行っているが、そういうところへの配慮も作品に大いなるリアリティを与えるのである。もちろん、
山田五十鈴の三味線捌きなどは、惚れ惚れするほどである。さて、女優陣で昨日言及しなかった人物につい
て少しだけコメントしておこう。賀原夏子が山田五十鈴の種違いの姉を演じているが、始末屋の面目躍如と
言ったところで、憎らしさもちょうど加減がよい。たしか、『TOMORROW 明日』(監督:黒木和雄、ライト
ヴィジョン=沢井プロ=創映新社、1988年)に、人のよい大酒呑みの産婆役で出演していたはずだが、その
方のイメージの方が強い女優なので、意外な面白さがあった。ちょうど、『肉弾』(監督:岡本喜八、「肉
弾」をつくる会=ATG、1968年)で天使のような老婆を演じることになる、その同じ北林谷栄が、『にっぽん
昆虫記』(監督:今村昌平、日活、1963年)では、色と欲に目がない女を演じているようなものである。化
け方が半端でないところがよい。また、中北千枝子が、肩身の狭い瘤付の女を演じているが、たしか『山の
音』(監督:成瀬巳喜男、東宝、1954年)でも似たような役を振られていたはずである。顔立ちに薄倖の翳
があるからだろうか。男優についても少しだけ。宮口精二がゆすりの役を好演しているが、『七人の侍』
(監督:黒澤明、東宝、1954年)の剣豪久蔵と同一人物とはとうてい思えない。映画の妙と言えようか。

  * 調べてみると(ウィキペディア)、彼女のNHK紅白歌合戦出場歴としては、

      第4回(1953年12月31日、日本劇場)「こんな私ぢゃなかったのに」
      第5回(1954年12月31日、日比谷公会堂)「みないで頂戴お月さん」

   とあり、「ゲイシャ・ワルツ」(題名も、「芸者ワルツ」ではない)は歌っていない。意外であった。
    なお、「日日是労働セレクト94」を参照されたし。


 某月某日

 幸田文原作の『流れる』(監督:成瀬巳喜男、東宝、1956年)を観た。感想を記すに当たって、現代では
不適切な表現を含んでしまうのだが、時代的な背景を汲んでいただき、寛恕を乞いたい。物語は、芸者の置
屋を舞台にした女のドラマである。栗島すみ子の貫禄、山田五十鈴の妖艶、田中絹代の節度、高峰秀子の勝
気、杉村春子の情念、岡田茉莉子の小粋……おそらく、現代ではなかなか見られなくなった花柳界の女の定
番が余すところなく描かれていると思う。もっとも、小生はこの世界を小説や映画などを通してしか知らな
いので、想像の域を出ないことは断るまでもない。この作品を参照したかどうかは定かでないが、『おもち
ゃ』(監督:深作欣二、東映=ライジングプロダクション、1998年)を連想した。深作作品では、山田五十
鈴に当たる役を富司純子が演じている。東京と京都の違いこそあれ、どちらも昭和30年代に時代を設定して
いるが、同時代につくられた成瀬作品には、当然ではあるが圧倒的なリアリティがある。なお、田中絹代の
役はいわゆる「女中」であるが、梨花という本名がありながら「ハル」と呼ばれている。これは、女中を本
名ではなく「ハル」や「マツ」と呼んだ慣習から来ているのだろう。『高知の女性の生活史 ひとくちに話
せる人生じゃあない』(高知の女性の生活史作成実行委員会 編、2005年)にも指摘されていることである。
なお、『異母兄弟』(監督:家城巳代治、独立映画、1957年)で、高千穂ひづるが演じた高知出身の女中も
「ハル」という名前だった。さて、『流れる』であるが、それぞれの女性が男社会の浮き世を一所懸命に生
きており、たとえ不見転芸者でもその点では一緒である。ただ、「芸は売っても……」の気概があるかどう
かには、大きな違いがあるとは思う。情に棹さして流される山田五十鈴と、情を自在に操ることのできる栗
島すみ子との違い、情に溺れる杉村春子と、情を抑えて自立の道を模索する高峰秀子との違いなども見事に
描かれている。なお、岡田茉莉子は、上記の『おもちゃ』にも花柳界の人物役で出演している。また、彼女
は、松本清張原作(『種族同盟』)の『黒の奔流』(監督:渡辺祐介、松竹、1972年)で「情念の女」を好
演しており、印象深い。山崎努に無理心中を仕掛けるシーンを観た男連中は、「女を侮るとこういうことに
なる」という教訓をいやというほど味わえるのではないだろうか。


 某月某日

 『原爆の子』(監督:新藤兼人、近代映画協会=劇団民芸、1952年)を観た。長田新が編集した同名の作
文集(岩波文庫に所収)とはあまり関係がないようである。宇野重吉が出演しているが、血は争えないなァ、
と改めて思った。ちょっとした仕草が息子の寺尾聰に受け継がれているからである。とくに、彼らは、人に
対面するとき眩しいような表情を浮かべることがあるが、その感じが瓜二つに見えた。さて、作品であるが、
例によって佐藤忠男の解説(『日本映画300』)によれば、「アメリカ軍の占領と言論統制が終わるのを、
満を持すように待って製作公開された」由である。原爆をテーマに据えた映画についてはこのブログでも触
れたことがあるが、被爆の年と近いだけに一層生々しい映像を実現している。「ぴかどん」と書かれた看板
のある店(飯屋のように見えた)が出てきたが、あれは一種のブラック・ユーモアか、それとも本当に実在
したのか、その辺りが妙に気になった。物語は平板で、滝沢修が演じる盲目の被爆者岩吉も、熱演ではある
が、どこか紋切り型に見えた。新藤兼人もまだ若かったからだろう。乙羽信子の幼稚園の先生も、善意の押
売をしているように見えなくもない。難しいところである。しかし、映画としては、「本当によくつくって
おいた」と思う。たとえば、『黒い雨』や『TOMORROW 明日』や『父と暮らせば』などは、どこか風化して
いて、現実感に欠ける部分があることは否めないからである。現代人は、黒澤明監督の『生きものの記録』
の主人公(三船敏郎)ほどではないにしても、もっと核時代の危険について敏感になるべきであろう。 な
お、新藤兼人には、『さくら隊散る』という広島の原爆に関わる別作品や、『第五福竜丸』という水爆実験
絡みの映画もあるので、いずれ観てみたいと思っている。


 某月某日

 「もうしばらくするとまったく読まれなくなるのではないか」と思われる作家はたくさんいるが、自らを
マイナー・ポエットと規定する吉行淳之介はどうだろうか。彼が若い頃は売春が合法だったので(もちろん
今は御法度であるが)、いわゆる「娼婦もの」と言われる作品を結構書いている。「娼婦の部屋」が代表作
であろうが、今の若い人で読む人などいるのだろうか。小生はこの人の感性をとても愛しており、実は一番
好きな作家なのであるが、そうなったのにはもちろんきっかけがある。中学か高校のときの国語の教科書だ
ったと思うが、彼の作品である「童謡」が載っていた。娼婦小説を書く作家の作品を中高生の国語の教科書
に載せること自体一種の「快挙」だと思うが、この作品を選んだ人の感覚を小生は称えたい。話は単純で、
病気になった少年が体重を半分に減らし、病気から回復したら前の体重の倍に増え、やがて元の体重に戻る。
しかし、今まで飛べたはずの高さを飛ぶことができず、何かを失ったことに気付く、といった筋だった。体
重が半分に減ったときに少女の見舞いを受け、自分のからだ(彼は、身に区の正字が合成されている字を用
いる。パソコン活字では「躯」としか出ないが、この字は間違っているので遣わない)が、歩行が困難にな
るほど痩せ細ってしまったことを恥じる場面があるが、この場面など秀逸だと思う。わざと(つまり、激変
した様子を見させるために)この少女に自分が入院していることを教えた友人の悪意も、上手に描かれてい
ると思う。子どもの残酷さについては先刻承知の上であったが、繊細な神経の描写として大きな手応えがあ
ったというわけである。小生は、この作品を読んだとき、雷に打たれたような気分になった。こんな世界が
あるのか、こんな世界ならば生きていける、と思ったのである。その後、彼が戦中に取った態度(開戦を喜
ぶ人の輪に加わらなかったことなど)、作曲家のドビュッシーや画家のクレーを好んでいることなどを知り、
ますます傾倒していったことを覚えている。この頃、日本の現代作家では、太宰治、安部公房、大江健三郎、
倉橋由美子、安岡章太郎、石川達三、三浦哲郎、三島由紀夫なども熱心に読んでいたが、淳之介は別格だっ
た。ただ彼の傑作『砂の上の植物群』を同級生に推奨したところ、誰一人として「面白かった」と言ってく
れた者はいなかった。文学上の友人ができなかったのも当たり前である。適度な知性、透明な文体、そよぐ
ような感性、端正な貌、巧みな話術、どれを取っても美しい。ところで、彼の父親も作家であったが(ダダ
の吉行エイスケ)、その友人筋に無頼派の作家辻潤がいる。淳之介は子どもの頃、この辻潤に「詩」を売り
つけられている。こんな詩だった。

 港は暮れてルンペンの
 のぼせあがったたくらみは
 藁でくくった干しがれい
 犬に喰わせて酒を飲み

 少年淳之介は辻潤をどう思っていたのだろうか。子どもの小遣いを巻き上げようとする輩をである。もち
ろん、このような環境が彼を作家にしたわけだから、結果的にはよかったことになるのだろう。吉行淳之介
を読もうとする人は激減してゆくはずである。そして、昭和文学全集の片隅にこじんまりと納まるに違いな
い。しかし、この作家がたしかに棲息したという事実、その人と作品に感動した人が少なくとも一人はいた
という事実は消えることはないだろう。


 某月某日

 スウヴェストゥルの『屋根裏の哲人(UN PHILOSOPHE SOUS LES TOITS, 1850)』という作品をご存知だ
ろうか。この作品は、その英訳である《ATTIC PHILOSOPHER》が早くからわが国に紹介されており、作者
(1806-1854)によれば「感想の暦」の由。産業革命によって変革された社会を、彼の棲む屋根裏部屋の高
みから眺め、見聞したこと、考えたことを誌したものだそうである(『岩波文庫 1927-1996 解説総目録
(中)』より)。小生は先ず、屋根裏部屋というものに惹かれる。独りそんなところで書見に親しみ、考え
たことなどを書き散らしながら暮らしたいからである。モンテーニュの塔暮らしや、兼好法師の庵暮らしに
も通じるが、小生のような半端者には「屋根裏部屋」こそがふさわしいだろう。この作品はだいぶ以前に読
んだ記憶があるが、主人公はさして個性的な人物ではなかったような気がする。「哲人はおおむね変人でな
ければならない」という固定観念に囚われているからだろう。また、エピソードも平板ではなかったか。も
し、人の気を惹く作品だったならば、もっと有名であっただろう。
 さて、小生は、この作品から、『宮本武蔵 五部作』(監督:内田吐夢、東映京都、1961-65)における武
蔵(たけぞう)を思い出す。乱暴者の彼は、沢庵和尚の策略に引っかかり、捕らえられて、お城の天守閣に
ある開かずの間(天井は、過去の惨劇で飛び散った血糊の痕がたっぷり付着している元床だった板でできて
いる)に幽閉される。そこですることもないので、古今の書を乱読して人間的成長を遂げる、という筋書き
があったはずである(例によって記憶頼りなので、間違っているかもしれない)。この映画を観たとき、武
蔵役の中村錦之助(後改名して、萬屋錦之介)や、沢庵役の三國連太郎、お通役の入江若葉、お杉役の浪花
千栄子などが、強烈な印象を伴って小生の脳髄に侵入してきたことを覚えている。件のシーンはことに印象
的で、お通の笛を吹くシーンとともに、激しい殺陣などよりも、よほど小生の眼に好ましく映った。そう言
えば、この頃、『キングコング対ゴジラ』か『百一匹犬(わん)ちゃん大行進』(そんな題名だったはず)
のどちらを観るかで弟と意見が分かれ、兄の特権を活用して後者を観たことを思い出した。両方とも観なか
ったのは、家の経済が許さなかったからであろう。また、別々に観ればよさそうなものであるが、当時は
「兄弟仲良く(実際には兄である小生が威張っていた)」がモットーだったので、あるいは、弟がまだだい
ぶ小さかったので、一緒に観たのであろう。このときの経験は弟に強い影響を与えているはずで、その恨み
は深いと思う。弟よ、赦せ。当時の小生は、血湧き肉踊る活劇よりも、一部の少女が好んで観るような調和
的なファンタジーが大好きだったのだ。なお、その後、弟と一緒に、加山雄三の「若大将」シリーズ(『ア
ルプスの若大将』が一番だろうか)や「怪獣映画」(宇宙怪獣キングギドラを、ゴジラ、モスラ、ラドンが
迎撃する話が一番だろう)を何度も観に行っている。ちなみに、ゴジラは小生と同年生まれであるが、一番
好きなのはラドン。


 某月某日

 西一知氏の「詩を書くことの意味」を読んで、久しく探していた知己に邂逅した気分である。彼は高知に
ゆかりの深い詩人であり、透明で若々しい詩を書く人である。近頃、こんな真っ直ぐな文章を書く人も珍し
くなっている。自戒にするつもりで、抜き書きさせていただく。文脈を無視したかたちになるが、ご容赦を
願う。


  詩とは、書くひとの体内からひそかに立ち昇る息のようなものではないかと、ふと思ったりしている。

  詩人とは、この個が内包する他者(傍点あり)をしっかりと抱きしめ、ほとんど自他の区別もつかぬ
 ままに呼吸し、生きるもののことだろう。

  物欲、金欲、名誉欲、獣欲、安楽欲、優越感、劣等感、長寿欲、これらは古今東西を問わずほとんど
 古典的ともなっている生あるものの願望である。個々人の生の種々相はこれらをめぐって彩られ、形成
 されていく。だが人間の生とは、ただこれらの欲望に閉ざされただけのものではあるまい。

  感覚の世界から想像力の世界へ、未知へ──、真に人間に固有の世界は、詩人がこの想像力の世界を
 生き始めたときに生まれるものではないだろうか。個のなかの他者、この他者の発見もじつは想像力な
 くしてはあり得ないものである。私は、「想像力」を事物、事象へのシンパシー、あるいはコレスポン
 ダンスというふうに解釈している。人への、自然への、宇宙への、絶対的な(あるいは根源的な)真、
 善、美への共感、あるいは感応、合一は、人が想像力世界を生きるところにしかあり得ないことだから
 である。

  自然保護も、ペット愛玩も、自己保存、自己欲望の延長にしかすぎない。それでもなお、彼らは世界
 中の富をあさる。苦しむ人に平安をもたらすはずの教会も社寺も、この富のまえには無力である。この
 とき、ひとり貧しく暮らす人の心の奥底にひっそりと芽生えるものとは何か?

  その吐息を感受するものが詩人であろう。

  詩は、飢えた一人の子を救うことができるか、これはかつてアンガージュマン(社会参加の意味)を
 唱える文学者によって問われたことばだが、詩はたしかに一個のパンにも値しない。それは、政治にく
 らべて無力である。しかし、詩は、人間ひとりひとりの生活の基盤である、その感性、意識、思考の在
 り方を変え得る力をもっている。ひとりからひとりへ、その孤独の部屋に詩はしのび込む。政治は世人
 の生活は変え得ても、人そのものの内奥までも変えることはできない。が、詩人は人を変え得るのであ
 る。

  人のいないところに政治はあり得ない。政治は、人に従属している。人を変え、そしてついに政治を
 変えるもの、それが詩だ、詩の本領だ、といえば、あなたはわらうだろうか。マーテルリンクはかつて
 いった、“私が一篇の詩を書けば、千キロ離れたところの農夫の生活も変わる”と。テレビ以前の時代
 のことばである。


 学生諸君、社会的成功ばかりを追い求めることなんぞ空しいぞ! 諸君のこころを変え得る一篇の詩にこ
そ出逢いたまえ! 是非ともそうしたまえ!


 某月某日

 有名な漢詩を以下に掲げてみよう。

  勧 酒           于 武 陵(うぶりょう)

  勧君金屈巵     君に勧む 金屈巵
  満酌不須辞     満酌 辞するを須いず
  花発多風雨     花発けば風雨多く
  人生足別離     人生 別離足し

 君にすすめる黄金のさかずき、なみなみとついだこの酒を、辞退などするものではないよ。この世の中は、
花が咲けば、とかく風雨が多いもの、人が生きて行くうちには、別離ばかりが多いものだ(さあ、くよくよ
せずに飲みほしたまえ)。

                         『唐詩選(下)』、前野直彬 注解、岩波文庫より

  勧 酒           于 武 陵

  勧君金屈巵     コノサカヅキヲ受ケテクレ
  満酌不須辞     ドウゾナミナミツガシテオクレ
  花発多風雨     ハナニアラシノタトヘモアルゾ
  人生足別離     「サヨナラ」ダケガ人生ダ

                        『厄除け詩集』、井伏鱒二 作、講談社文芸文庫より

 鱒二の訳が自由闊達であることは、直ぐに首肯できるだろう。太宰治の絶筆「グッド・バイ」の「作者
の言葉」にも見える。引用してみよう。

  唐詩選の五言絶句の中に、人生足別離の一句があり、私の或る先輩はこれを「サヨナラ」ダケガ人
 生ダ、と訳した。まことに、相逢った時のよろこびは、つかのまに消えるものだけれども、別離の傷
 心は深く、私たちは常に惜別の情の中に生きているといっても過言ではあるまい。題して「グッド・
 バイ」、現代の紳士淑女の別離百態と言っては大袈裟だけれども、さまざまの別離の様相を写し得た
 ら、さいわい。

                    『人間失格 グッド・バイ 他一篇』、太宰治 作、岩波文庫より

 治は、この作を完成させることなく入水した。まさに「サヨナラ」ダケガ人生ダ、を実践したのである。
それにしても、死の悲しみを越えたユーモアを感じるのは小生だけではあるまい。さて、自身を顧みれば、
詩興と縁遠くなって15年にもなる。つまらない言葉遊びはできても、詩作は夢のまた夢。鱒二の心境は一種
の奇跡と言ってもよいだろう。最後に、何となく可笑しみのある鱒二の訳詩をもう一篇だけ挙げておく。味
わってみよう。

  田家春望          高 適(こうせき)

  出門何所見     ウチヲデテミリヤアテドモナイガ
  春色満平蕪     正月キブンガドコニモミエタ
  可歎無知己     トコロガ会ヒタイヒトモナク
  高陽一酒徒     アサガヤアタリデ大ザケノンダ

                        『厄除け詩集』、井伏鱒二 作、講談社文芸文庫より


 某月某日

 永井荷風の「散柳窓夕栄(ちるやなぎまどのゆうばえ)」に、『偐紫田舎源氏』の作者柳亭種彦やその取
り巻きが出てくるが、天保の改革のあおりを喰らって、天下奢侈の悪弊を矯正される側と看做された者たち
の憂鬱が描かれている。以下は、彼の取り巻きである、笠亭仙果と柳下亭種員(たねかず)とのやりとり。

  「種員さん、いよいよ薄気味の好くねえ世の中になって来たぜ。岡場所は残らずお取払い、お茶屋の
   姐さんは吉原へ追放、女髪結に女芸人はお召捕り……こうなって来ちゃどうしてもこの次は役者に
   戯作者という順取だ。」
  「こうこう仙果さん。大きな声をしなさんな。その辺に八丁堀の手先が徘徊(うろつ)いていねえと
   限らねえ……。」
  「鶴亀々々。しかし二本差した先生(柳亭種彦は幕臣)のお供をしいりゃア与力でも同心でも滅多な
   事はできやしめえ。」と口にはいったけれど仙果は全く気味悪そうに四辺(あたり)を見廻さずに
   はいられなかった。

 戯作者が不安を抱いてどうするんだ、と茶々を入れたくもなるが、戯作者とて人の子、遠島や闕所を嫌が
るのは当然である。したがって、奢侈の片棒担ぐ商売に現を抜かす奴輩ならば、改革の波に呑まれることを
怖れて不安の虜にならざるを得ない。
 さて、鳳凰という鳥は、天下太平の兆(しるし)として舞下がると言われるが、綺麗なもの、手数がかか
ったもの、無益なものが相ならぬ世には、鳳凰も出番を失うしかない。さらに、種員の言い分を聴いてみよ
う。

  「それがで御座りますよ。大きな声では申されませぬが私共の考えますには無益なものに手数をかけ
   て楽しんでいられるようなら此様(こんな)結構な事はないんじゃ御座いませんか。天下太平安穏
   なりゃアこそ楽しんでおられるんで御座います。もしこれが明暦の大火事や天明の飢饉のような凶
   年ばっかり続いた日にゃ、いくら贅沢がいたしたくてもまさかに盆栽や歌俳諧で日を送るわけにも
   行きますまい。ところが当節の御時勢は下々の町人風情でさえちょいと雪でも降って御覧じろ、す
   ぐに初雪や犬の足跡梅の花位の事は吟咏(くちずさ)みます。それと申すも全く以て治まる御世の
   おかげ、このような目出たい事は御座いますまい。」

とまあ、こうである。たしかに、財政が逼迫すれば、勤倹を旨とし、風俗を匡正したがるのもお上の道理。
しかるに、その方法が過激で人情を解さぬならば、大反撥も必至。これもまた道理であろう。種彦は御白州
に罷出る前に卒中で身罷ったが、死に損なうと豪い目に遭いそうである。戯作者たるもの、きちんと死ねる
ように、日頃から心懸けねばなるまい。


 某月某日

 今日は13日の金曜日である。アメリカ映画に文字通り『13日の金曜日』というヒット・シリーズがあって、
小生も何本かは観ているが、最初の鑑賞はテレヴィでだった。高校生の頃だったと思う。なぜかその日は他
の家族が不在で、所在なくひとりでテレヴィを観ていたときのことである。先ず、題名に苦笑した。「マン
マじゃんか」と思ったのかもしれない。ところが、観つづけてゆくうちにぐいぐい作品の中に惹きつけられ
ていったのである。とにかく怖い。観ながら何度も振り返って、小生の頭を目がけて斧を振り下ろそうとす
るジェイソンがいないかどうかをいちいち確認したほどである。もちろん、部屋中の電灯を点けまくったこ
とは言うまでもない。小生は、どちらかと言うとホラー映画は好みではないが、傑作とは付き合ってもよい。
『13日の金曜日』はまさに傑作だった。たしか、低予算で適当につくったのに、嬉しい誤算で大ヒットして
しまったという経緯があったのではないか。その後、小生は、『サイコ』のシリーズや、イタリアのダリオ・
アルジェント監督の一連の作品を愛でることになるが、このときの経験が関係しているのかもしれない。た
だ、日本の怪奇映画にはそれほど関心がない。底が浅い感じがするからだろうか。それとも、もともと肉喰
い種族の欧米人のホラーの方が、より酷薄な恐さがあるからだろうか。


 某月某日

 佐藤忠男 著、『黒澤明作品解題』(岩波現代文庫、2002年)を読んでいるが、大変面白い。もちろん、
黒澤映画をひとつも観ていない読者ならば、それほどではないかと思うが(語っている内容がよく分からな
いだろう)、黒澤映画に馴染んだ読者にとっては、痛快きわまる読後感である。だいいち、この本の著者で
ある佐藤忠男氏の映画に寄せる情熱、的確な解釈、人間味にあふれた描写、いずれを取っても第一級のそれ
である。小生の愛読書のひとつに『日本映画300』(佐藤忠男 著、朝日文庫、1995年)があるが、それ以上
に面白い内容である。小生の記憶違いかもしれないが、以前、佐藤氏は、邦画の傑作をTVが放映した際の解
説者をなさっていたのではなかったか。もう20年くらい前の話であるが……。『あらかじめ失われし恋人た
ちよ』(そんな題名だったか、石橋蓮司や桃井かおりが出演していた作品)という奇妙な映画が印象に残っ
ている。解説は重厚で悠揚迫らぬ態度でなされた。万事軽薄化している現在、あのような生真面目さはかえ
って貴重な気がする。比較的若い人の中から、誰か現れないだろうか。

 註:後日調べたところ、『あらかじめ失われた恋人たちよ』(監督:田原総一朗/清水邦夫、ポール・
   ヴォールト・プロ、1971年)であった。

                                                 
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