[SSLの使用について]    ID:  Password: 
ホーム
人間文化学科
国際社会コミュニケーション学科
社会経済学科
人文社会科学科
▼教員一覧
武藤 整司
思想系の学問に興味のある人へ
日日是労働セレクト7
家族研究への布石(映像篇03)
日日是労働セレクト16
家族研究への布石(映像篇04)
日日是労働セレクト20
日日是労働セレクト26
日日是労働セレクト30
日日是労働セレクト1-3
日日是労働セレクト52
家族研究への布石(映像篇07)
思想系の読書の勧め
日日是労働セレクト63
日日是労働セレクト72
日日是労働セレクト88
武藤ゼミとはどんなゼミ?
日日是労働セレクト100
日日是労働セレクト102
日日是労働セレクト106
日日是労働スペシャル XLII (東日...
家族研究への布石(映像篇12)
日日是労働セレクト112
日日是労働セレクト122
家族研究への布石(文献篇05)
日日是労働セレクト137
日日是労働(臨時版)1703- ...
家族研究への布石(映像篇15)
日日是労働セレクト151
驢鳴犬吠1901
驢鳴犬吠1902
日日是労働セレクト157
日日是労働セレクト158
驢鳴犬吠1903
驢鳴犬吠1904
講義と演習
日日是労働セレクト159
日日是労働セレクト160
驢鳴犬吠1905
驢鳴犬吠1906
日日是労働セレクト161
日日是労働セレクト162
驢鳴犬吠1907
日日是労働セレクト163
驢鳴犬吠1908
驢鳴犬吠1909
日日是労働セレクト164
驢鳴犬吠1910
日日是労働セレクト165
無印良品映画の頁(1)
驢鳴犬吠1911
日日是労働セレクト166
日日是労働セレクト167
驢鳴犬吠1912
無印良品映画の頁(2)
驢鳴犬吠2001
日日是労働セレクト168
驢鳴犬吠2002
日日是労働セレクト169
日日是労働ファイナル(2002)
日日是労働セレクト16
 以下に、「日日是労働」のダイジェスト版・第16弾を掲げます。直ぐ下の記事がこの「日日是労働セレク
ト16」の中では最も新しい日付のものです。つまり、読み進めるほど、古い記事になります。ただし、いち
いち明示しませんが、後日に行った加筆訂正を含んだ日があります。日誌ですから、少なくとも後日に加筆
することは御法度であるはずですが、「某月某日」ということもあり、記事内容の充実を優先させました。
ご了承ください。また、頑張って「辛口」の批評を展開しようと務めておりますので、本文に何かと読者の
お気に召さない表現等が散見されるやもしれませんが、特定の個人、団体等を誹謗中傷する目的は一切あり
ませんので、どうぞご理解ください。


 某月某日

 小生がコーディネーターを務めさせていただいた、高知市民の大学第60期総合講座「こころ」は、関係者
の皆様のお蔭で何とか恙なく終了した。受講生に修了証書を渡し終えたとき、安堵感が広がった。しかし、
配布したプリントの出来の方は別問題で、簡単なギリシア語のアクセントの位置が間違えていたりして、少
し後悔した。デカルトの言う「枚挙の規則」を軽視した結果、罰が下ったのであろう。時間がなかったとは
言え、ケアレス・ミスであった。レジュメ作成の際には十分に時間を取る必要があることを、身に沁みて了
解した次第である。


 某月某日

 『お父さんのバックドロップ』(監督:李闘士男、シネカノン=スラップ=リーライダーす=衛星劇場、
2004年)の原作は、中島らもの同名作品(短篇小説)であることはすでに述べたが、映画とはだいぶ異なっ
ている。先ず、映画独自のキャラクターが多く、牛之助の父、焼肉金剛園の女将英恵、その息子、理髪店カ
ミキリ虫の店主、新世界プロレスのマネージャー菅原進、シャーク斉藤、ダイナマイト松山、ドラゴン井上、
「社長」と呼ばれる一雄(原作ではカズオ)の同級生など、すべて映画独自のキャラクターである。また、
原作では新世界プロレスではなく東洋プロレスだし、ロベルト・カーマンではなくボブ・カーマンである。
さらに、原作では牛之助の妻は元気に生きているし、菅原の役はジャイアント古葉(もちろん、ジャイアン
ト馬場がモデル)が担当している。
 なお、主人公の「下田牛之助」という名前は、「まだら狼」こと「上田馬之助」のパロディであることは
言うまでもない。彼は日本のプロレス界においてトップヒールとして永らく君臨していたが、交通事故で脊
髄損傷の大怪我をして引退を余儀なくされている。ちなみに、得意技は、凶器を用いる反則攻撃の他に、コ
ブラクロー、クロスチョップ、ダブル・リストロック(逆腕固め)で、バックドロップではない。


 某月某日

 DVDで3本の邦画を観たので簡単に報告しよう。1本目は『お父さんのバックドロップ』(監督:李闘士
男、シネカノン=スラップ=リーライダーす=衛星劇場、2004年)である(なお、「リーライダーす」の
「す」はママ)。故 中島らも原作の「父子もの」である。妻早苗(奥貫薫)を亡くした下田牛之助(宇梶
剛士)は、全盛期を過ぎた中年プロレスラーである。どうやらローマオリンピックの銀メダリスト(グレコ
ローマン)らしく、バックドロップを得意技とするベビーフェイス(プロレスにおけるヒーロー役)である。
ただし、所属する新世界プロレスのマネージャーである菅原進(生瀬勝久)から、ヒール(プロレスにおけ
る悪役)に転向することを勧告され、思い切って転向している。新世界プロレスの経営が芳しくないからで
ある。同団体のエース級レスラーであるシャーク斉藤(AKIRA)とともにタッグを組み、それなりの活躍をし
ている。しかし、息子の一雄(神木隆之介)には疎まれており、学校でも自分の父がプロレスラーであるこ
とを明かそうとはしないので、尊敬の対象からは程遠い父親であった。そんな折、降って湧いたようなビッ
グ・ファイト(異種格闘技世界最強決定戦)に出場することになる。相手は極真空手の世界チャンピオンで、
ロベルト・カーマン(エヴェルトン・テイシェイラ)という。かたや27歳の新進気鋭、こなた43歳の峠を越
した中年レスラー、これでは戦う前から勝負は見えている。しかし、下田は敢然と挑戦し、そして奇跡の逆
転勝ちを収めるのであった。この勝利は、あんなに嫌っていた父やプロレスを見直させ、幼くして母を亡く
した一雄の胸に光をもたらしたのである。なお、舞台は1980年当時であり、細かいギャグ(「丹下(段平)
拳闘倶楽部」の貼紙など)も楽しめた。他に、南方英二(牛之助の父)、南果歩(焼肉金剛園の女将英恵)、
田中優貴(英恵の息子、一雄の友人)、中島らも(理髪店カミキリ虫の店主)、コング桑田(ダイナマイト
松山)、荒谷清水(ドラゴン井上)、新屋英子(近所の老婆)、笑福亭鶴瓶(電気屋)、清水哲郎(「社長」
と呼ばれる一雄の同級生、中島敦彦)などが出演していた。
 2本目は『月曜日のユカ』(監督・中平康、日活、1964年)である。主演の加賀まりこ(ユカ役)の魅力
が縦横無尽に炸裂する作品である。ユカは性的に奔放な女という設定で、「パパ」と呼ぶ中年の船荷会社社
長(加藤武)と、ユカと一緒になりたいと思っている青年修(中尾彬)との間を行ったり来たりしている。
母親(北林谷栄)が永らく娼婦をしていたらしく、その影響だと思われるが、とにかく男を喜ばすことが生
き甲斐なのである。ただし、その思いは打算的な男どもには通じず、ユカの回りの男は皆破滅してゆくので
ある。「誰とでも寝るが、キスはさせない」という設定になっているが、それは幼い日に母親と黒人との接
吻を垣間見たことに由来しており、今風に言えば「トラウマ」か。ところで、この映画が製作された時代に
は、敗戦直後の進駐軍将兵と日本女性との間に生まれた物語が背景を彩ることが多いのではないか。いくつ
か例を挙げておこう。『浮雲』(監督:成瀬巳喜男、東宝、1955年)。『ゼロの焦点』(監督:野村芳太郎、
松竹大船、1961年)。『にっぽん昆虫記』(監督:今村昌平、日活、1963年)。『野獣の青春』(監督:鈴
木清順、日活、1963年)。『肉体の門』(監督:鈴木清順、日活、1964年)、などである。もっとも、若い
人にはピンとこないかもしれない。なお、監督の中平康は、傑作『狂った果実』(日活、1956年)の監督で
もある。またさらに、デビュー作がF.トリュフォーの絶賛を受けたこともあるそうである。全体に斬新な工
夫が凝らされており、当時としてはかなり「進んだ」映画だったのではないかと思わせる。他に、フランク
と呼ばれる元恋人(梅野泰靖)、クールな奇術師(波多野憲)、巡査(日野道夫)などが出演している。
 3本目は『ターン』(監督:平山秀幸、「ターン」プロジェクトチーム[バンブーピクチャーズ=衛星劇
場=テレビ東京=アスミック・エース エンタテインメント]、2001年)である。北村薫の同名小説の映画化
であり、原作を読んでいる小生としては安心して観ていられる映画だった。とにかく、無難にまとめている
と思う。メゾチントの銅版画、マダカスカル原産の扇芭蕉、サモア島の歌、虫の声のCDなど、小道具に妙味
のある映画だった。主人公の銅版画家森真希に牧瀬里穂、装丁家の卵泉洋平に中村勘太郎、音楽の教師をし
ている真希の母に倍賞美津子、幼女誘拐犯の柿崎清隆に北村一輝、泉の上司に柄本明、隣家の主婦に松金よ
ね子が扮していた。コンピュータを使った映像上の処理が命の映画でもある。だから、こんな映画(無人の
街角が頻出する)もつくることができるようになったのである。


 某月某日

 『兵隊やくざ』(監督:増村保造、大映京都、1965年)の感想を記そう。1960年代の大映を支えた俳優と
して、勝新太郎の名前は市川雷蔵とともに燦然と輝いている。彼が主演をして大当たりを取ったシリーズは、
『悪名』(61-74)、『座頭市』(62-89)、『兵隊やくざ』(65-72)の三つである。そのほとんどを観て
いると思うが、小生の一番のお気に入りは『兵隊やくざ』である。子どもの頃、映画館(小生は「月島東映」
という名前の3本立て映画館[大手各社の映画が上映されていた]の常連であった)やTVで、何度も観てい
る。昔は、プロ野球の試合が雨天中止になると代わりに映画が放映されたものであるが、怪獣映画などとと
もに、『兵隊やくざ』シリーズもその陣容に入っていたのではなかったか(記憶違いかもしれない)。ある
いは、日曜日の夕方の中途半端な時間や深夜などに流されていたのかもしれない。とにかく、『兵隊やくざ』
がかかっていると必ず観たものである。多分、今ではこの映画をTVで流すのは困難になっていると思うが
(表現上、いろいろと問題がある)、小生の子どもの頃にはそんな配慮などなかったのである。したがって、
以下の記述において、現代では不適切と考えられる表現を用いるかもしれないが、歴史的背景を考慮に入れ
ていただいて、どうぞご寛恕願いたい。
 何がそんなに小学生だった小生の心を惹きつけたのかを考えてみると、直ぐに思い浮かぶことは、主人公
の大宮貴三郎(勝新太郎)の「横紙破り」である。ルール無視、上官を上官と思わず、タフで喧嘩が滅法強
いのだが、どこかに彼なりの正義感があったところに魅力を感じたのであろう。また、相棒のインテリ有田
上等兵(田村高廣)との絡みも抜群で、大宮の暴力と有田の知力を合わせれば、まさに鬼に金棒という感じ
だった。ちなみに申し添えておくが、小生は実際の暴力は大嫌いで、未だかつて人を殴ったことは一度もな
い。もちろん、殴られたことは何度もあるが……。そんな人間が大宮に惹かれるのは、やはり暴力の向こう
に垣間見える義侠心だと思う。
 物語は、昭和18(1943)年早春、中国東北部のソ連国境に近い孫呉の丘に聳え立つ関東軍兵舎から始まる。
すでに、日本軍は、ミッドウェー海戦で破れ、ガダルカナル島で苦杯を嘗め、同年5月にはアッツ島の守備
隊が玉砕するといった状況であった。孫呉の第九八一部隊は、4万の兵力を誇る大部隊で、ちょうどこの頃、
400名の初年兵を迎えていた。彼らは12の中隊に分けられ、6っつの内務班に配属された。その中に、大宮
二等兵がいたのである。入隊前は浪曲師崩れのやくざの用心棒だったらしく、札付のワルという触れ込みで
あった。中沢准尉(内田朝雄)は有田を呼び出し、彼の教育係を命じる。有田は大学出の3年兵であるが、
わざと幹候試験に落ちて上等兵にとどまっているという設定であった。入隊早々、大宮は大立ち回りを演じ
る。風呂場で、砲兵の連中と取っ組み合いの喧嘩をしたのである。砲兵を束ねる石上軍曹(早川雄三)が間
に入ってその場は納められたが、尾を引くことは必至の状況であった。案の定、大宮の噂は広がり、目の敵
にされる。たとえば、物干場(ぶっかんば)で洗濯物を干していた大宮に、敬礼をしなかったと因縁をつけ
る上官がいた。黒金伍長(北城寿太郎)である。呼び出された大宮は、初めのうちこそ黒金の制裁を黙って
受けていたが、彼が拳闘家であることを知ると、同席していた有田の指嗾もあって、反対に黒金を叩きのめ
したのである。結局、初年兵にやられたことなど周囲に言えるはずもなく、黒金は泣き寝入りをするのであ
った。
 大宮は見るからにタフな感じの男であるが、持久力はあまりない。したがって、師団演習の強行軍には顎
を上げていた。なにしろ、完全軍装で、八貫目の荷物を背負って、3日間に70里あまり、300キロ近くを歩き
通すのである。人間の能力・体力を超えた殺人的強行軍であった。有田の申し出で休むことを許された二人
は、近道をして夕方には野営をしている本隊に追いつく。休んでいる間、大宮の身の上話が出てくるが、人
を殺した経験(身代わりに監獄に入った男がいる)や、女を犯した経験を淡々と語る場面があるが、大宮の
野獣性を伝える必要があったからだろう。ただし、身代わりになった男の家族の面倒を見るつもりでいると
ころは、さすが元浪曲師である。
 さて、話は、決着をつけるための黒金や石上たちとの死闘、初年兵の脱走とその後の自決、大宮や有田と
慰安婦音丸(淡路恵子)との交流、大宮のかつての師匠桃中軒梅竜(山茶花究)との再会、大宮の南方送り
ならびにその中止と続くが、やがて大団円を迎える。部隊に移動命令が出たのである。南方への移動が決ま
ったのである。戦死は必至である。事実、彼らが現に所属し、その後南方に送られた部隊は、レイテ島で全
員戦死している。これではたまらない。営倉に入れられていた大宮は、彼のために食事を運びに来た有田を
誘って脱走を企てる。それがまんまと成功する。初年兵野本(役者、不詳)は荒野に逃げて失敗した。飢え
死にか、凍死か、狼に喰われるか、自決しか道がなかったからである。同じ轍を踏むわけにはいかない。ネ
タバレになるので結末は割愛するが、痛快な結末であった。まさに、有田の言葉「弱い奴は死ぬ、強い奴は
生きる」そのものだったのである。他に、成田三樹夫(憲兵)、滝瑛子(みどりという名前の慰安婦)など
が出演していた。なお、江守徹の名前もあったが、どこに出ていたか分らなかった。


  某月某日

 本日は、2本の戦争映画についてのコメントを少々。先ず1本目は『きけわだつみの声 日本戦歿学生の
手記』(監督:関川秀雄、東横映画、1950年)である。『雲ながるる果てに』(監督:家城巳代治、重宗プ
ロ=新世紀映画、1953年)と同様、学徒動員の後、戦場に散った学生兵士への鎮魂劇である。両作品ともに
ベストセラーとなった手記に基づいている。かたや家城作品は神風特別攻撃隊を描いたものであり、こなた
関川作品はビルマのインパール作戦後の無残な敗走を描いたものである。物語の劈頭、以下のような文字が
銀幕に浮かぶ。

      死んだ人々は還ってこない以上
      生き残った人々は、何が判ればいい?
      死んだ人々は慨く術もない以上
      生き残った人々は、誰のこと
      何を慨いたらいい?
      死んだ人々はもはや黙って居られぬ以上
      生き残った人々は沈黙を守るべきか?

 多少とも傲慢なことを言わせていただければ、稚拙な詩句である。しかし、その稚拙さが返って事柄の深
刻さを直截伝えてくる。小生のような「戦無派」が何を語っても、実際の戦争を知っている人にとっては幼
い意見にしか見えないかもしれない。しかし、戦争を知らないからこそ、想像力を最大限に働かせて、戦争
の苦しさ、悲しさ、虚しさを叫び続ける必要があるのではないか。ところで、この映画は50年以上も前に製
作されたものなので、さすがに出演者で知る者は少ない。わずかに、信欣三(入隊前は大学で仏文学を講じ
ていた、落伍兵である大木二等兵)、花澤徳衛(同じく落伍兵鶴岡)、原保美(岸野中尉)、佐野浅夫(精
神がおかしくなる兵士)、高原駿雄(兵士)、杉村春子(一兵士の母)ぐらいか。沼田曜一という俳優も出
演しているはずだが、誰かは同定できなかった。小生にとって最も印象が強い場面は、大木助教授(後の二
等兵。おそらく補充兵として召集されたものと思われる)が、学徒動員前の学生とともに最後の演習を行う
場面である。演題はモンテーニュで、彼の「死の哲学」が俎上に載せられている。以下に引用するルカーヌ
ス(暴君ネロに死を賜ったローマの詩人)の詩(『エセー』第二巻・第八章「父の子どもに対する愛情につ
いて」、参照)が重い。

      魂が真の目標を持たない時
      如何に偽(いつわり)の目標に
      その激情を注ぐことか

 大東亜戦争に突っ走った当時の日本が、「偽りの目標」に激情を注いだことを、暗示的に語っている場面
である。言い換えれば、日本は、そして日本人は、悪夢のような戦争に魂を預けてしまったのである。大木
二等兵は、戦場で偶然再会したかつての教え子とともに戦死するが、その脳裏には、「哲学をすることは死
ぬことに親しむことである」という、ギリシア以来の伝統が現実に活きていた16世紀(モンテーニュの生き
た時代)の言葉が浮かんでいたのではないか。それがわずかな救いか。軍医に病名は何かと訊かれた傷病兵
が「戦争栄養失調症」と答えている場面や、隊長の乗っていた馬を食べてしまい、その墓標に「馬頭観世音
菩薩」と刻んだりする場面は、「黒い笑い」を誘った。「転進」(日本軍は「退却」という言葉を知らない)
が決定したとき、重患兵は捨てられた。一人に一個自殺用の手榴弾を渡されて……。小生は『きけ わだつみ
の声』(日本戦没学生記念会 編、岩波文庫)を読んだことがないので、今年こそは繙いてみようと思う。
 2本目は『陸軍残虐物語』(監督:佐藤純彌、東映東京、1963年)である。陸軍内務班の非道ぶりを描い
た作品であるが、「残虐」は少し大袈裟か。小生は、若干の戦争映画や、野間宏の『真空地帯』、堀田善衛
の『広場の孤独』、大岡昇平の『野火』、安岡章太郎の『遁走』、古山高麗雄の『プレオー8の夜明け』、
黒島伝治の『渦巻ける烏の群』などの戦争文学を通してしか軍隊という組織を知らないが、この映画で描か
れている世界はほとんど既知のことに属していた。その意味で、「残虐」は大袈裟だと思うのかもしれない。
なお、地理学者の飯塚浩二に『日本の軍隊』(岩波現代文庫)という名著がある。小生は、この本で東条英
機の度外れた「精神主義」(彼によれば、敵の飛行機は「弾」で落とすのではなく、「精神」で落とすのだ
そうである)の実質を知った。
 さて、物語であるが、昭和19年(1944年)の春、乾四四九一部隊から、犬丸二等兵(三國連太郎)と、戦
友の鈴木一等兵(中村賀津雄/現・嘉葎雄)が脱走するところから始まる。直接の原因としては、不寝番を
していた犬丸二等兵が逆上して、用足しに起きてきた亀岡軍曹(西村晃)を厠で刺殺したからである。亀岡
軍曹の所業に耐えかねた末の犯行であるが、鈴木はこの行為に同情して、一緒に脱走したのである。もちろ
ん、鈴木にも個人的な理由があったが、それは後述する。鈴木は直ぐに逮捕されるが、犬丸は逃げ延びる。
しかし、結局実家で自決するのである。
 映画は、犬丸の回想シーンと逃走シーンが交互に展開してゆくという構成になっている。犬丸は、動作は
のろいが誠実な性格で、彼には周囲の反対を押し切って結ばれた恋女房のウメ(岩崎加根子)がいる。彼女
は、舅(加藤嘉)と姑(沢村貞子)とに仕えて、犬丸の除隊をひたすら待ちわびている、という設定である。
周囲に祝われて入隊した犬丸を待っていたものは、理不尽な陸軍内務班のしきたりであった。押川兵長(南
道郎)が新兵を集めて演説をするが、そのときの彼の台詞を収録してみよう。音声から拾ったので間違いも
あるだろうが、その際はご寛恕されたし。

 「軍の主とするところは戦闘にある。そこで、日常の起居動作、ものの名称、すべてが地方と違ってく
  る。地方とは兵営外の一般社会をいう。これは股引ではなく、袴下(こした)という。これをシャツ
  ではなく、これをジハン(襦袢のことか)、ズボンのことを軍袴(ぐんこ)または袴(はかま)、上着を
  上衣または軍衣、ポケットを物入という。そしてこれはカラーではなく襟布(えりふ)という。では、
  今から自分が着てみせるから、皆も私物の服を脱いで軍服に着替える。……注目。皆軍服に着替終っ
  たな。つまり、正式に皇軍の一員になったわけである。お前たちの中には、地方で相当の地位の者や
  学問のある者もいるだろう。しかし、軍服を着た以上、そんものは一切関係がなくなる。一様にちょ
  ん星(一つ星の意味か)の陸軍二等兵である。お前たち以外の者は、すべて上級者であるからして、
  命令には絶対服従しなければならない。分ったな」。

 かくして、犬丸彌七は陸軍に入隊したのであった。犬丸は人並み外れて体力はあるのだが、要領が悪いの
で「いじめ」の対象になる。しかし、それによく堪えていたのである。下着を盗まれていたぶられたときも、
先輩の鈴木一等兵に「軍隊では盗る者よりも盗られる者の方が悪い」(いわゆる「員数合わせ」が何よりも大
事)と言われる始末である。しかし、彼の誠実さは段々と鈴木の心に沁みてきて、そこに友情が芽生え始め
る。ところで、犬丸と同期の二等兵に矢崎(江原真二郎)がいた。この兵隊は大学出で、要領よく立ち回っ
て幹候(幹部候補)試験を受験したいと思っていた。亀岡軍曹に取り入ってうまくいきかけたが、「饅頭事
件(犬丸の饅頭を盗んで食った)」の発覚をきっかけにその夢も潰えてしまった。鈴木が見咎めて、白日の
下に晒されたからである。鈴木にさらなる屈辱的な思いをさせられた矢崎は、彼に復讐するつもりで、彼の
銃の撃茎を厠の糞溜に投げ捨ててしまうのである。そして、自分は指を落とそうとするが、失敗して医務室
に仰臥している。そこに亀岡軍曹がやってくる場面が興味深い。亀岡軍曹の台詞を書き記してみよう。

 「矢崎、そんなら俺に教えろ。鈴木の撃茎を抜いてどこやった。分っているんだぞ、俺には。幹候を受
  験できなくなって、軍隊に嫌気が差した。兵役免除になるために指を切ろう。だが、その前に鈴木に
  報復したい。そこで撃茎を抜き取る。どうだ。軍隊の中のことなら裏の裏まで見通しだ。お前なんか
  にごまかされやせん」。

 なお、その際、亀岡軍曹が「陸軍刑法第二編 罪、第三章 辱職ノ罪」に言及している。以下に引用して
みよう。

 「第五十五条 従軍ヲ免レ又ハ危険ナル勤務ヲ避クル目的ヲ以テ疾病ヲ作為シ、
  身体ヲ毀傷シ其ノ他詐偽ノ行為ヲ為シタル者ハ左ノ区別ニ従テ処断ス
  一 敵前ナルトキハ死刑又ハ無期若ハ五年以上ノ懲役ニ処ス
  二 戦時、軍中又ハ戒厳地境ナルトキハ六月以上七年以下ノ懲役ニ処ス
  三 其ノ他ノ場合ナルトキハ五年以下ノ懲役ニ処ス」

 矢崎の行為は、この第五十五条違反だというのである。さらに、撃茎を粗末に扱ったのは、「軍用物損壊
未遂」というわけである。軍法会議にかけられることを恐れた矢崎は、亀岡に何もかも打ち明けて、助けて
くれと懇願する。亀岡にとってみれば、撃茎が出てこなければ班長たる自分の責任にもなるので、必死で矢
崎を説得し、これが功を奏したのであった。撃茎の在り処が判明したので、早速亀岡は糞溜浚いを鈴木に命
じる。結局、撃茎が発見される。協力を申し出た犬丸が見つけ出したのである。しかし、進んで自ら糞溜に
入ったのが裏目に出て、無実の犬丸が犯人にされてしまうのだった。まことに理不尽極まるが、この程度で
話が終わるわけではない。さらに、後日面会に来たウメを、亀岡軍曹は言葉巧みに河原に誘き出して、これ
を犯してしまうのである。実は、亀岡自身も地主に妻が犯されて泣き寝入りした過去をもっている。したが
って、女一般に対して憎悪を抱いているという設定である。なお、二人を見つけた鈴木がこれを告発すると、
亀岡のみならず上官までもが揉み消そうとするだけなのであった。このことが伏線になっており、やがて夜
が来る。不寝番の犬丸に向かって、亀岡軍曹は「お前のかあちゃんはお前にはもったいないぞ」といったか
らかいの言葉を投げつけたのである。この言葉で、犬丸の堪忍袋の緒が切れる。有無を言わせず刺殺に及ぶ
のである。犯行後、鈴木に促されて脱走するが、結局実家で縊死したウメの姿を見出して、もはやこれまで
と自決するのである。捕まった鈴木は中隊長(中山昭二)の罵声を浴びるが、ふてぶてしくうそぶく。「ふ
ん、帝国軍人、隊長当番として信頼……。手前(てめえ)の下男か奴隷のつもりでいやがったくせに」、と。
実際、鈴木は中隊長の家で、「隊長当番は上等兵候補だ」などとおだてられて、薪割り、洗濯、風呂の焚き
つけと、こき使われていたのである。私的制裁も私的雑用もすべて「公務」扱いされては、兵隊は身が持た
ないし、だいいち精神衛生上も悪いに決まっている。軍隊内部の腐敗は、こういうところから始まるのであ
る。最後は、激戦中ということもあって、罪一等を免じられた鈴木が前線に送られる場面で終わっている。
まことに救いのないドラマであるが、下士官仲間の大谷伍長(今井健二)が殺された亀岡に向かって吐く、
「この男も軍隊がつくったんだ」という台詞が印象深かった。
 もう1本、『兵隊やくざ』(監督:増村保造、大映京都、1965年)についてもコメントを述べようかと思
ったが、本日はもう遅いので後日回しにする。


 某月某日

 さて、今日は、戦争映画についてのコメントを2本。ところで、昨年の暮れ、来年度の「倫理思想史」の
テーマは「結婚」にしようと思って、テキストもB.ラッセルの『結婚論(Marriage and Morals,1929)』
(岩波文庫)に決めていたのであるが、どうも当該テキストが品切れらしく、急遽テーマを変更せざるを得
なかったのである。そこで浮かび上がったのが、加藤尚武氏の『戦争倫理学』(ちくま新書)をテキストに
して、戦争について学生とともに考えてみるという企画だった。結婚から戦争へというわけであるから、見
かけ上は大転換であるが、本年度の「倫理思想史」のテーマが「ポストコロニアリズム」だったことを併せ
考えれば、結婚よりも戦争の方が連続性があると判断した。もっとも、本年度受講した学生が来年度も受講
する確率は低いが……。そういう事情であるから、当面の映画鑑賞の主軸を戦争映画にしようと思う。なお、
歴史的作品が多いので、現代では不適切な表現が多数出てくるが、時代を枉げるわけにもいかないので、か
なり荒っぽい言葉を遣う場合がある。あらかじめご寛恕を乞う。
 さて、『独立愚連隊』(監督:岡本喜八、東宝、1959年)を観たのでその感想を記そう。荒木という毎朝
新聞の従軍記者(佐藤允)が縦横無尽に活躍する戦争活劇である。岡本喜八の名前を高めた記念碑的映画で、
実はだいぶ以前から機会があれば観たいと思っていた作品である。舞台は敗戦間近の北支(中国東北部)戦
線で、とある守備隊をめぐる物語である。先に挙げた荒木は、実は脱走した陸軍軍曹で、本名を大久保とい
う(鬼久保という異名をもつ)。見習士官だった弟(上村幸之)が不可解な心中事件で死んだことを耳にし、
真相を確かめるために従軍記者に化けているのである。まるで西部劇における流れ者のガンマンのように、
ふらっと児玉[兒玉]部隊にやって来た大久保は、山岡少尉(瀬良明)の紹介で副官の藤岡中尉(中丸忠雄)
と面会する。藤岡中尉はちょうど八路軍(中国共産党軍。「パーログン」と発音している)のスパイを射殺
しようとしているところで、大久保はその行為に疑義を挟む。憲兵立会いの下での銃殺でなければ、「暇潰
し」と看做されて、貴殿の考課表に響くというわけである。この言葉で鼻白んだ藤岡にさらに追い討ちをか
けるように大久保は拳銃の腕を披露する。百発百中、素晴らしい腕前である。この噂は直ぐに周囲に伝わり、
たちまち注目の的になる。しかし、彼が謎の人物のままであることには変わりがなかった。ただし、一人だ
け彼の正体を知っている女がいた。慰安所立花の慰安婦トミ(雪村いづみ)であった。彼女は元従軍看護婦
で、実は大久保と夫婦約束をしていた仲であった。北京の病院で知り合ってトミは妊娠したが、弟の訃報を
耳にした大久保は、トミを置き去りにして各地を転々として児玉部隊に辿り着いたのであった。外地で婚外
の妊娠をした大和撫子がどうなるかは、トミのその後の境遇を見れば分る。同じ慰安婦仲間のハナコ(中北
千枝子)に危うく助けられたが、彼女も生き抜くためには慰安婦にならざるを得なかったのである。さて、
危険を察知する能力(危険が近付くと掌がむず痒くなるという、ほとんど超能力)をもつ大久保は、さして
危ない目に遭うこともなく弟の所属した部隊を突き止める。それは、本隊からだいぶ離れた位置に駐屯する
「独立第九○小哨(ドクリツダイキュウマルショウショウ)」という、各部隊から屑ばかりを集めて編成さ
れた、人呼んで「独立愚連隊」であった。大久保と、そこの小哨長を務める石井軍曹(中谷一郎)とのやり
とりもこの映画の見所だろう。実は、この石井軍曹は元毎朝新聞記者で、発行部数(公称80万部)すら知ら
ない大久保(荒木)を、始めから弟の心中事件を調べに来た人間(ただし、この時点では実の兄だというこ
とは知らない)だということを見抜いていたのである。ところで、心中事件の真相はこうである。先に挙げ
た藤岡中尉が、指揮班班長酒井曹長(南道郎)や慰安所の経営者立花(谷晃)と組んで、軍の給与を横流し
して、私腹を肥やしていたのである。この事実を知った大久保見習士官が、大隊長である児玉大尉(三船敏
郎)に意見具申書を提出しようとするが、それが発覚して謀殺されるという経緯であった。児玉大尉も城壁
から突き落とされて頭を打ち、少し精神的におかしくなって病院送りになっている。その際の具申書の一部
を以下に転写してみよう。なお、正字が遣われているが現行の漢字に改めた。


       意見具申書

       兒玉大隊長殿

                 第九○小哨長
                   大久保見習士官

     一.一部将校下士官ニ依ル不正ノ件
      副官藤岡中尉、指揮班班長酒井曹長
      民間人ノ立花ハ各人ノ地位ヲ利用、公金ヲ
      隠匿、為ニ各警備隊ノ給与ハ日ヲ追ツテ悪
      化ス、更ニコノ間ノ不正ヲ感知シ、些カタリト
      モ指摘弾劾ノ挙ニ出ズル時ハ、前記両名ノ
      当第九○小哨、他ノ危険地帯ニ配属本部
      軍の中核タル本部指揮班ノカゝル状態ニ
      アルコトハ、兵ノ士気ヲ消沈スルコト
      著シク、大隊長殿ノ善処サレンコトヲ
      切望ス

 結局、大久保は復讐を遂げるが、トミは迫撃砲(「ハク」と呼ばれている)によって、命を落としている。
彼女の墓標には、「大久保トミ」と書かれていた。冥土で夫婦になるつもりであろう。他にも面白いエピソ
ードが満載の痛快娯楽戦争活劇であった。出演者としては、他に、鶴田浩二(馬賊のヤン亜東)、上原美佐
(その妹)、夏木陽介(軍旗旗手丹羽少尉)、江原達怡(独立第九○小哨下士官中村)、ミッキー・カーチ
ス(運転手)、ジュリー藤尾(「豪気節」を歌う兵隊)、塩沢とき(立花の慰安婦)などが出ていた。
 ところで、この映画は『日本のいちばん長い日』(東宝、1967年)や『肉弾』(ATG=肉弾をつくる会、19
68年)などとともに、岡本喜八の代表的戦争映画である。当時の映画製作費に言及すると、キリとしては2,0
00万円くらいだった由。当該映画は3,000万円をかけているので、中程度だという。なお、当時の映画館の入
場料は100円だったので、今だったら3億円くらいか。
 予定では『きけわだつみの声 日本戦歿学生の手記』(監督:関川秀雄、東横映画、1950年)の感想も記
すつもりだったが、本日は大変疲れているので、さらに後日に。


 某月某日

 さて、3本の邦画をDVDで観たので報告しよう。1本目は『パラサイト・イヴ』(監督:落合正幸、フジ
テレビジョン=角川書店、1997年)である。原作の瀬名秀明は、この作品で、第2回日本ホラー小説大賞を
受賞している。原作はすでに読んでいたが、だいぶ印象が違う出来であった。主人公の永島利明(三上博史)
は、国立生化学大学(学会の司会役の大杉漣が彼の教え子の所属大学をそう紹介していた)に勤務する生化
学者であり、ミトコンドリアの研究に没頭しているという設定であった。彼によれば、正常なミトコンドリ
アを細胞ごと培養して、それを糖尿病や肝硬変の患者の患部に入れてみる。そうすると機能が回復して、病
気が治る可能性があるそうだ。これは、上記の病気が、ミトコンドリアの異常によって起きている例がかな
りあるかららしい。ミトコンドリアは、10億年も前の昔、われわれがまだ微生物だったころ、われわれに寄
生した。しかし、いつからかわれわれが活動するためのエネルギーを生産してくれる重要な存在者になった
のである。つまり、「寄生」というよりも「共生」しているというわけである。また、ミトコンドリアは母
親のものしか遺伝しない。このことを頼りにイヴは誰だったかを探索して、ついに20万年前のアフリカに行
き着く。この女性を「ミトコンドリア・イヴ」と呼んでいるそうである。さらにミトコンドリアと人間との
関係について、リン・マーグリスの説が紹介されている。それによれば、ヒトの細胞の中にいるミトコンド
リアの遺伝子の数は、一つの生物としては少し足りない。ミトコンドリアが、自らの遺伝子をヒトの細胞の
核に送り込んだからである。つまり、人間の細胞の核の遺伝子の一部は、もともとミトコンドリアのものだ
ったというわけである。このような物語の前提を、永島が講義をする市民講座や、彼と教え子の大学院生の
浅倉佐知子(中島朋子)とのやりとりなどを通して鑑賞者に伝えられる。
 そして、おもむろに物語が始まるのである。永島の妻である聖美(葉月里緒菜)が交通事故に遭う(これ
は突発的な事故ではなく、聖美の細胞内に潜むミトコンドリアが仕組んだものである)。結婚記念日当日で
ある。事故に遭う前、聖美は利明に「待ってた、あなたをずっと」という台詞を吐くが、これは聖美が利明
の仕事が終わるの待っていたというふうにも受け取れるが、実は聖美をコントロールし始めていたミトコン
ドリアの台詞でもあった。つまり、ミトコンドリアが、人類の細胞の核内で共生を始めてからの10億年を待
っていたという意味である。物語を知っている小生には自明であるが、原作を読んでいない人には、ここに
含意されている二重性を見過ごすかもしれない台詞である。さて、重態に陥った聖美は、やがて脳死状態に
なる。その間、担当医(渡辺いっけい)によって、臓器コーディネーターの小田切(萬田久子。なお、原作
では織田あずさとあるが、なぜ他の配役は原作のままなのに、この臓器コーディネーターだけが名前を取り
替えたのか、よく分からない)が紹介される。元気だった頃ドナー登録をしていたからである(これもミト
コンドリアの企み)。聖美の父親(河原崎建三)は本人の意思を尊重したいと語るが、利明は承知しない。
まだ、聖美は生きている、と言うのである。ここで、レシピエント側の医師吉住貴嗣(別所哲也)が登場す
る。その患者である安斉麻里子(大村彩子)のために腎臓をくれと懇願するのである(おそらく、現実には
ありえないシーン)。最初は固辞する利明だったが、しばらくしてあっさりと承知する。ただし、それには
奇妙な条件が付帯していた。聖美の肝臓をくれと言うのである。
 さて、その後の物語は割愛するが、本当にこの映画は脳死や臓器移植に関して正確に実態を伝えているの
だろうかと、甚だ疑問に思える箇所も散見した。一番の疑問は、聖美から臓器を取り出す医師団(先の別所
哲也に加えて、稲垣吾郎がもう一人の医師役を演じている)と、臓器を移植する医師団が同一であるという
ことである。小生の知る限りでは、別の医師が執刀に当たらなければならないはずである。もし実際と異な
っているとすれば、一般人に重大な誤解を与えることになり、とても問題だと思った。また、麻里子が入院
している病院があまりにも古臭く、それにしてはコンピュータによる監視装置や防火シャッターが完備され
ており、この点だけから言ってもバランスを欠くと思った。さらに、葉月里緒菜の着ている奇妙なボディス
ーツ(?)も滑稽だったし、人の身体が燃えるシーンも不自然だった。だいいち、結末の利明とイヴ(聖美)
とが合体した挙句の火柱はいったい何だったのか。ミトコンドリアは、10億年の沈黙を破って、人類に叛乱
を企てたのではなかったのか。前半のサスペンスが、後半ではいかにも安直なドラマに成り果てていた。こ
れは、とても残念なことだった。他に、永島の主任教授(三谷昇)、麻里子の父親(深水三章)などが出演
していた。
 2本目は『独立愚連隊』(監督:岡本喜八、東宝、1959年)、3本目は『きけわだつみの声 日本戦歿学
生の手記』(監督:関川秀雄、東横映画、1950年)であるが、本日はもう時間がないので後日に。なお、後
者は、家城巳代治監督の『雲ながるる果てに』(重宗プロ=新世紀映画、1953年)とともに、学徒動員の後
に戦死した若き魂への鎮魂映画である。


 某月某日

 『ソナチネ』(監督:北野武、バンダイビジュアル=松竹第一興業、1993年)を観た。『その男、凶暴に
つき』(松竹富士、1989年)、『3ー4×10月』(バンダイ=松竹富士、1990年)と併せて、北野武初期暴
力映画三部作の完結編に当たる。やくざ者の村川(ビートたけし)は、北嶋組の配下にあり、北嶋(逗子と
んぼ)が羨むほど羽振りがよかった。それを妬んだ北嶋は、沖縄の中松組と阿南組の抗争を利用して、村川
のシマを取り上げようと画策する。村川は、片桐(大杉漣)やケン(寺島進)を始め、十人ほどの部下を連
れて沖縄に乗り込む。しかし、収束を迎えていた抗争が東京者の出現で再燃し、村川の部下が何人も死んで
しまう。残った片桐、ケン、さらに、中松組配下の上地(渡辺哲)、良二(勝村政信)とともに、海辺の隠
れ家で数日間を過ごす。そこでの日々において、やくざ同士の殺し合いとは対蹠的な世界が繰り広げられる。
それは、紙相撲であったり、落とし穴であったり、花火を用いた戦争ごっこだったりする。ただし、すべて
が牧歌的な世界ではない。ロシアン・ルーレットのシーンはそれなりの緊張を鑑賞者に強いるし、強姦シー
ンやその強姦魔を村川が射殺するシーンなども挿まれる。そのときの村川の力強い姿に惚れた幸(国舞亜矢)
の出現も物語に陰影をつけている。北嶋は、直属の配下であり村川の兄弟分でもある高橋(矢島健一)を使
って、中松組の壊滅を図る。そこで登場する殺し屋(南方英二)によって、先ず、中松(小池幸次)が二人
の組員とともに殺され、次にケンが殺される。さすがにこの頃になると、北嶋の陰謀に村川側が気付き、沖
縄のホテルに滞在しているらしい高橋を探索する。この映画のクライマックスシーンとも言える、エレベー
タ内での銃撃戦が始まる。片桐がやられ、上地がやられ、高橋側の殺し屋がやられる。生きたまま捕らえた
高橋を村川が良二とともに車で海辺に運ぶ。そこで、拳銃で脚を射抜きながら、北嶋の策略を高橋に白状さ
せる。それによれば、北嶋は阿南組と手を組みたいが、それには兄弟分の中松が邪魔である。これをなきも
のにする際に村川を使い、ついでに羽振りのよい村川のシマも奪おうとする算段であった。高橋は白状した
後、良二によって米軍から不法に手に入れた手榴弾によって車ごと爆殺される。後は、破門にされた村川の
復讐劇が残されているだけである。復讐を終えた村川は車の中で拳銃自殺を遂げるが、それも必然の流れな
のだろう。他に、木下ほうか、津田寛治、森下能幸などが出演している。渇いた暴力を淡々と描いている点
で、北野武の才能をはっきりと刻んでいる映画である。細部にも行き届いた演出が施されており(小生にと
っては、とくに寺島進と勝村政信の遣り取りがよかった)、散々だったらしい興行成績を埋め合わせている。
流行る映画がよい映画ではないのである。ともあれ、北野武への小生自身の偏見が幾分か解消される思いが
したことは間違いない。


 某月某日

 『スローなブギにしてくれ』(監督:藤田敏八、角川春樹事務所、1981年)を観た。藤田作品を鑑賞する
のは『十八歳、海へ』(にっかつ、1979年)以来だと思う。このブログでも何度か取り上げている監督であ
るが、今回の作品が一番心に沁みた。これまでは、『もっとしなやかに もっとしたたかに』(にっかつ、19
79年)が最高であったが、それを上回る完成度であった。藤田作品は、佐藤忠男氏の『日本映画300』に
1本も取り上げられていないので少し気の毒であるが、たしかに彼の作品は完成度という点からすると、や
や難があると思われる。しかし、この『スローなブギにしてくれ』は、構成もしっかりとしており、出演者
の演技も過不足がない。だいいち、主演の浅野温子(小林さち乃役)の魅力が満載されているという点だけ
で、十分に鑑賞に値する作品だと思う。藤田監督は、秋吉久美子、森下愛子、浅野温子といった、キュート
で小悪魔的な雰囲気を醸す女優を育てあげただけで、日本映画史に残る人だと思う。もちろん、俳優として
の藤田敏八(とくに『ツィゴイネルワイゼン』)も捨てがたい存在ではあるが……。
 物語は猫の視線から始まる。その猫を拾った横浜在住の高校生であるさち乃は、ムスタングを乗り回す中
年男(山崎努)に今度は自分が拾われる。しかし、ちょっとした諍いから、第三京浜国道で猫もろとも車外
に叩き出される。それを助けたのがライダーのゴロー(古尾谷雅人)である。帰るところのないさち乃は、
このときを契機にしてゴローの部屋で同棲することになる。一方、ムスタングの男は、宮里輝男(原田芳雄)
と敬子(浅野裕子)夫妻とともに、福生の旧米軍ハウスに3人で暮らしている。敬子には幼児がいるが、こ
の男の子か輝男の子かは分からない。ジョギングに出かけた輝男が、心臓発作で急死する。やがて、お葬式
の場面である。輝男の両親が息子の死を理不尽だと思っている。父親(浜村純)は、「破廉恥」という言葉
さえ遣っている。男二人に女一人の共同生活が、この父親の理解を超えていたのである。
 さち乃はゴローの部屋に居つき、今ではスナック「クイーン・エリザベス」のお手伝いとして働いている。
元GSのメンバーで作曲経験もあるマスター(室田日出男)の好意からである。一方、牛丼屋でアルバイト
をしていたゴローだったが、おかまの店長とやりあって馘になり、さち乃のヒモのような存在になる。ある
日、ハーレーを乗り回す女性ライダー(宮井えりな)に身体を売ったゴローと、さち乃は諍いを起こす。
 他方、さち乃の財布を拾ったムスタングの男が、その財布に入っていた生徒手帳からさち乃の住所を知り、
そこへ訪ねて来る。さち乃の母(春川ますみ)が応対するが、彼女に財布を渡したりはしない。実家を飛び
出したさち乃と縁が切れてしまうからである。ゴローと仲違いしていることもあって、さち乃は彼女を探し
当てたムスタングの男と自動車旅行に出かけ、高原にあるホテルで二人は結ばれる。しかし、この中年男の
生活態度(離婚に絡むゴタゴタや娘に対する未練がましい姿など)にうんざりしたさち乃は再びゴローの元
に戻る。ある日、何となく帰りそびれたさち乃が、自動車に乗った二人組の男(作家の高橋三千綱と映画監
督の和泉聖治)に輪姦される。それを聞いたゴローが逆上して仇を討つが、さち乃の気持を無視した行動で
あった。なお、ゴローが輪姦した連中を探索するシーンで、画面が四分割にされるが、とても新鮮な試みに
見えた。ある日、ゴローが叩きのめした件の連中にお礼参りを食らう。たまたまそこにいて、止めに入った
ムスタングの男が刺されて重症を負う。入院している中年男を見舞うさち乃であったが、ここでも男に悪態
を吐かれて自棄になる。一時、一緒に暮らしたこともあるハウスに戻って、部屋の中を滅茶苦茶にする。や
がて、クイーン・エリザベスに戻るさち乃。ゴローと結ばれるために。そこで、レコードが回る。「スロー
なブギにしてくれ」(南佳孝)である。この後、後日譚が描かれるが、少し蛇足だと思った。中年男と若者
との間で揺れ動く女心を、全身で表現した浅野温子の熱演が光る。70年代後半から80年代前半にかけての風
俗も懐かしく見えた。藤田監督の主人公は、家族と何らかの軋轢があって苦悩するが、それなりの居場所を
発見していると思う。つまり、そこに救いがある。他に、竹田かおり(敬子の妹由紀江)、赤座美代子(ム
スタングの男の妻)、伊丹十三(弁護士)、岸部一徳(クイーン・エリザベスの客)、鈴木ヒロミツ(同)、
石橋蓮司(刑事)などが出演していた。


 某月某日

 「アイルランドの梟」という言葉をご存知だろうか。小生も中野武志氏の同名の長篇小説(『アイルラン
ドの梟』、中野武志 著、竹林館、2005年)を繙くまでまったく知らなかった言い回しである。これ以上の余
計な前置を省略して、主要な箇所だけ引用してみよう。

   しばらくしてJがいう。
   「その、なんていうか、本質か。本質的とか、真に大事なことって」言葉を切って、「いったい
   なんなのだ。ウエダのいう本質なんてそれこそアイルランドの梟ではないか」
   ふん、と思って男は黙っている。
   「……アイルランドの梟。知らないか」
   不機嫌が広がる。
   「アイルランドには梟について大変な調査書があるんだ。アイルランドに生息する梟について、
   その種類から、種類ごとの生態ーその一生から一日の、一年の生態。食べ物、巣作り、つがい、
   雛育て、縄張り、泣き声とその意味、習性に特徴。それだけではなく、人間との交流、民話やお
   とぎ話、格言、逸話。実に細かく、見事な調査報告がなされていて、誰だって『へー、アイルラ
   ンドの梟ってそんなに人に身近なのか』と、あたかも親しい隣人のような気がする」
   そこでJは言葉を切った。黙って聞く以外出来ることはなにもない。
   長い、と思われる時間をおいて「はっは」と軽いJの声がした。
   「ところが、実は」
   「……」
   「アイルランドには梟はいないんだよ。……そういうことなんだ。うん、いないんだ。……つま
   りこの話はここがポイントだ。つまりだな、あれだけアイルランドの梟について、誰もがその実
   在を疑い得ないほど詳細に語られているのに、実はアイルランドにはそんな鳥はただの一羽もい
   ないんだ。面白いじゃないか。……いや、本当かどうか俺は知らんよ。だが、少なくとも俺の読
   んだ本にはそう書いてあった。誰だったか忘れたけれど。実在しないものについて延々と、さも
   実在するかのように語ること一般を、それ以来“アイルランドの梟”と呼ぶようになったと……」

 実在しないものを思索するとはいかなる事態か。まして、それを記述するとはいかなることなのか。簡単
に答えることはできないが、われわれを取巻く言説の多くが、この「アイルランドの梟」である可能性は常
にある。それを承知で芝居を打つか、誠実さに拘って沈黙するか、危険を顧みずに「王様は裸だ」と叫び出
すか、それは本人の自由に属することであろう。いずれにしても、アイルランドの梟に振り回されずに生き
ることが大切なのは、言うまでもない。もっとも、この言説自体、アイルランドの梟ではない保証はまった
くないのである。


 某月某日

 『恍惚の人』(監督:豊田四郎、芸苑社、1973年)を観た。1972年に有吉佐和子が発表して一大センセー
ションを巻き起こした小説の映画化である。小説が派手に騒がれたわりには、映画は地味に仕上がっている。
もっとも、出来が悪いと言うわけではなく、じわじわと心に沁みてくる作品と言えるだろう。小説の方は発
表当時に読んでいるが、主人公の茂造が煮物を鍋一杯食べてしまうエピソードの印象が強かったことを覚え
ている。この插話は映画でも冒頭の方で描かれているが、少し小説の設定とは違っているような気がした。
記憶違いだろうか。『複合汚染』もベストセラーになったが、有吉佐和子のような社会派作家は、最近では
目立たなくなった。あまりにも現実の社会に問題が噴出しているので、まさに「事実は小説よりも奇なり」
を地で行っているからかもしれない。つまり、小説が現実に追い越されているのである。なお、『恍惚の人』
という題名であるが、作者が頼山陽の『日本外史』を読んでいるとき、三好長慶が松永大膳に滅ぼされるく
だりに、「三好長慶老いて病み恍惚として人を識らず」と書いてあり、これは「耄碌」だということで、タ
イトルに決めた由である。
 さて、物語であるが、立花茂造(森繁久彌)の妻が急死するところから始まる。そのショックからか、茂
造は、嫁の昭子(高峰秀子)以外の人を認知できなくなる(当時は、「老人性痴呆症」と呼ばれていた病気。
現在の「認知症」)。昭子の夫でもある息子(田村高廣)やその妹である娘(乙羽信子)も分からない。さ
らに、孫(役者不詳)も分からないという状態である(茂造は、その後、この孫を自分の父親と誤認してい
る)。いわゆる「ボケ」がきたというわけである。それも、時にはまともなことも言うので、「マダラボケ」
の状態である。これまで、茂造の妻が被っていた身の回りの世話が、嫁の昭子にのしかかってくる。茂造も
何かにつけて「昭子さん、昭子さん」とうるさくつきまとうようになる。しかも、彼女は専業主婦ではない
ので、勤めもあり、夜中に何度も起こされては身がもたない。また、夫も息子もそのような彼女の立場を気
の毒にこそ思うが、具体的な手助けをすることもなく、逃げ腰である。「長生きも考え物」、「病院でどう
して殺してくれないんだろう」、「あれはもう人間じゃないな」などの言葉も飛び交うようになる。やがて、
徘徊を始め、不可解な行動(食事をした直ぐ後に空腹を訴える、便器を取り外す、息子を暴漢呼ばわりする、
亡妻の遺骨を食べようとする、昭子を自分の妻にしようとする、排泄物を障子になすりつける、等々)がエ
スカレートする。当然のごとく、昭子は茂造の犠牲になることを拒否するが、昭子の不注意から茂造が風呂
で溺れそうになってからは、昭子の態度が変わる。昼間茂造の面倒を見る約束で部屋を貸した学生夫婦の親
切もあって、最晩年の茂造はいっそ幸せにさえ見えた。雨の中、彷徨する茂造を探し当てて抱擁する昭子に
は、もはや欲も得もない気持になっていたのではないか。夫も息子もそれなりに茂造のことを案じており、
周囲の者のほとんどはやさしさをもった人物として描かれているので、救いのあるドラマに仕上がっている。
しかし、その分、現実から懸け離れた「きれいごと」に見えないこともなかった。また、演出も少し大袈裟
だし、茂造の人格形成にもまったく触れられていない(戦争で苦労したらしいことだけが例外)、その点が
惜しまれた。他に、篠ヒロコ、中村伸郎、浦辺粂子、吉田日出子などが出演している。なお、これは蛇足で
あるが、小生の父も最晩年の2年間を「認知症」として過ごしたので、心に応える映画である。惚けても生
きていた方がよかったのか、それともそうなる前に死んだ母親の方がよかったのか、簡単には答えが出せな
い。もちろん、建前だけを言えば、生きていることそのものが大事なのであるが……。


 某月某日

 これから「地獄の季節」を迎える。準備こそできていないが、気構えはできているつもりである。おそら
く新学期までノン・ストップで走らなければならないが、息切れしないように気を付けたい。もっとも、昨
年度は集中講義を2本もこなしたことを思えば、今年度は大分楽なはずである。しかし、油断は禁物。何が
あるか分からないので、体調の維持だけは死守したい。
 『空中庭園』(監督:豊田利晃、リトルモア=ポニーキャニオン=衛星劇場=カルチュア・パブリッシャ
ーズ=アスミック・エース エンタテインメント、2005年)を観た。2度目の鑑賞なので、主人公(小泉今日
子)の思いもその母親(大楠道代)の気持もよく分かった。以前、このブログにおける感想に「品が悪い」
と書いたが、今回はそうは思わなかった。むしろ偽善を取り払った世界がよく描かれていると思った。また、
娘(鈴木杏)を誘惑する少年(瑛太)の存在もある程度納得がいった。ただ、少し思わせぶりな部分も目に
付くので、やはり傑作とは言い難いが、それでも十分に楽しめる佳品だと思う。
 ところで、台詞の中の若者言葉について少しだけ記しておこう。たとえば、娘の真奈の言葉。

 「きしょ」:「気色悪い」の短縮語。類語に「きも」がある。これは「気持悪い」⇒「きもい」の短縮語。
 「しにてぇ」:「死にたい」の変化語。
 「やば」:「やばい」の短縮語。「おいしい」などの好ましい意味でも遣われることがある。

 真奈のボーイ・フレンドの言葉。

 「まじ」:「本当」と同意語。「真面目」から派生したのか。反対語は「うそ」。
 「すげぇ」:「すごい」の変化語。
 「だっせい」:「ださい」の変化語。「うっぜい」(「うざい」)とともに、頻出語である。

 さらに、一般的に、「ばか」、「しね」、「ころす」は常套語である。そう言えば、コンパの最中、自分
が憎んでいる人物に言及して、「しね」(「死ね」)を連発していた学生がいた。よほど、ストレスが溜ま
っていたのであろう。なお、この言葉は、母の絵里子も用いている。ところで、過去に「三語族」という言
葉があった。「ふろ」、「めし」、「ねる」の三語のことである。もちろん、会話のなくなった夫婦におけ
る夫の言葉である。これでは建設的なコミュニケーションを築くことは不可能だろう。やがて、「三語族」
は「濡れ落ち葉族」に姿を変えたが、当然の帰結である。そう考えると、「ばか」、「しね」、「ころす」
ではどうにもならないことに気付かざるを得ない。
 他に気付いた言葉としては、「さくっと」(「軽く」という意味か)がある。これも絵里子が遣っていた。
「がっつり」(「しっかり」という意味か)とともに、最近知った言葉である。なお、絵里子の母のさと子
は、さまざまな新語にトンチンカンな反応を示していた。たとえば、「シュール」(「常識を超えている」
の意味か)を理解できなかったし、「ファック」を「ファックス」と取り違えたりしていた。さらに、「セ
フレ」(「セックス・フレンド」の略語)をフランス人の名前と思ったりしている。しかし、これは仕方が
ないことなのだろう。それにしても、感情むき出しの言葉が多く、映画が下品に感じられるのも当然であろ
う。極めつけとして、思慮の足りない若い娘に対する「脳味噌炭酸女」というのもあった。総じて、現代の
罵倒語を集めてそれを分析すれば、一冊の本になるのではないだろうか。


 某月某日

 DVDで『小早川家の秋』(監督:小津安二郎、宝塚映画、1961年)を観たので、感想を記そう。監督の小津
安二郎は、撮った映画のほとんどを松竹で製作しているが(50本はあるのではないか)、3本だけ別の資本
で撮っている。当該作品の他に『宗方姉妹』(新東宝、1950年)、『浮草』(大映東京、1959年)がある。
松竹で撮った作品との違いを詳細に説明することはできないが、やはりどことなくいつもの小津作品とは雰
囲気が違う映画である。
 さて、物語であるが、造り酒屋の隠退した大旦那の浮気話が芯になっており、それに長男の嫁や娘の縁談
が絡むといった筋書である。まことに他愛のない物語であるが、大旦那の小早川万兵衛を演じた中村鴈治郎
の飄々とした立居振舞が何とも痛快で、家父長制家族の終焉を見事に描いていると思う。もはや、消えてな
くなった世界であるが、小生にもその雰囲気は少しは分かり、その長所にも捨てがたいものがあることに気
付かされる。たとえば、概して小津作品には「品」があり、もはや失われてしまった日本人の節度が息づい
ているが、そんなところに微かな郷愁を感じるのは、小生だけではあるまい。唯一、団令子が演じる佐々木
百合子(大旦那の昔の愛人の子)だけがモダンであるが、それとてももはや古臭く感じられるほどである。
ところで、長男(すでに死亡している)の嫁である秋子(原節子)の「品行は直るが、品性は直らない」と
いう台詞に、面白みを感じた。見合いの相手が鉄工所を営む磯村英一郎(森繁久彌)だったからかもしれな
いが、いかにも少しばかりお高くとまったかのように見える女性の言いそうな台詞である。もちろん、森繁
久彌がやや下品な男を演じさせると抜群の味を出すので、原節子の台詞が活きてくるのであろう。万兵衛の
お相手(戦争を挟んで一時期縁が切れていたが)の佐々木つね(浪花千栄子)は、いつもより控えめの演技
をしている。本宅に気を遣う「妾奉公」を意識してのことか。父親が誰なのかを気にする娘の百合子に対し
て、「そんなことはどうでもいいではないか」という辺りは、この女のしたたかさがよく表れていると思っ
た。さて、万兵衛の娘の文子(新珠三千代)であるが、惣領の貫禄を示しており、養子で夫の久夫(小林桂
樹)を圧倒している。それどころか、父親の放蕩にも真っ向から文句をつけており、さすがの万兵衛もたじ
たじである。妹の紀子(司葉子)は普通のお嬢さんという感じだが、好きになった男性である寺本忠(宝田
明)を札幌まで追いかけていこうとする辺りは現代的か。他に、万兵衛の義弟の北川弥之助(加東大介)、
その妻照子(東郷春子)、文子たちの叔母である名古屋在住の加藤しげ(杉村春子)、叔父の林清造(遠藤
辰雄)、紀子の会社の同僚の中西多佳子(白石由美)、番頭の山口信吉(山茶花究)、事務員の丸山六太郎
(藤木悠)、平山医師(内田朝雄)、農夫(笠智衆)、その妻(望月優子)などが脇を固めている。とくに、
山茶花究は久し振りに見たが、いい味を出していた。なお、蛇足であるが、小早川は「こはやかわ」と読み、
濁らない。また、佐々木宅で万兵衛が酒のつまみとしてキャビアを食する場面があるが、「鮫の子」と紹介
されている。たしかにチョウザメ(蝶鮫)の卵の塩漬であるが、「鮫の子」と言われるとあまり食指が動か
ないのはどうしたわけか。


 某月某日

 年末年始に10本のDVDを観た。他に10話もののTVドラマも観たが、こちらの方は割愛する。したがって、
鑑賞した映画に関してのみ簡単に報告しておこう。うち2本は洋画である。こちらの方から記しておこう。
最初は、『サスペリア PART2(Profondo Rosso)<完全版>』(監督:ダリオ・アルジェント、伊、1975年)
である。おそらく10回ぐらい観ているが、完全版を観たのは初めてである。ピアニストのマーク・デリー
(デビッド・ヘミングス)と、新聞記者のジャンナ・プレッツィ(ダリア・リコルディ)の関係が曖昧だ
ったが、完全版には二人の肉体関係に言及する場面があるので、やっと納得がいった。およそ30年ぶりに
疑問が氷解したというわけである。物語は隅々まで知っているのに鮮度は落ちておらず、女の性の悲しさ
に改めて思いが及んだ。アルジェントの作品はやはり娯楽を超えている、と思った。なお、イタリア語版
なので、言葉を理解できるわけではないのに、その雰囲気を楽しむことができた。これも収穫であった。
 2本目は『アンダーグラウンド(Underground)』(監督:エミール・クストリッツァ、仏=独=ハンガ
リー、1995年)である。2度目の鑑賞。ユーゴスラビアの50年に及ぶ悲劇を描いているが、どこかユーモラ
スでもある。ただし、「車椅子の丸焼けシーン」は涙なしで観ることはできない。マルコ役のミキ・マイノ
ロヴィチの顔は一度見たら忘れられない顔であるが、そのくさい演技には一層忘れがたいものがある。なお、
この映画は、カンヌ映画祭でパルムドール大賞を受賞している。
 さて、邦画に移ろう。1本目は『サンダカン八番娼館 望郷』(監督:熊井啓、東宝=俳優座、1974年)
である。以前から観たいと思っていた作品であるが、戦前のいわゆる「からゆきさん(海外売春婦)」を描
いている貴重な作品である。若い頃のおさきを高橋洋子が、歳を取ってからのおさきを田中絹代が演じてい
るが、どちらも熱演であった。他に、語り部役の三谷圭子に栗原小巻が扮しており、これも好演であった。
気付いたところでは、水の江瀧子(おきく)、田中健(おさきの初恋の相手)、小沢栄太郎(太郎造という
名前の娼館のオーナー)、中谷一郎(ボルネオにおける圭子の世話人)、岩崎加根子(おさきの母)、浜田
光夫(おさきの兄)、山谷初男(圭子に夜這いをかける男)、砂塚秀夫(呉服屋)、江幡高志(写真屋)、
梅野泰靖(女衒)、信欣三(華族)、菅井きん(元からゆきさん)などが出演していた。
 2本目は『姑獲鳥の夏』(監督:実相寺昭雄、ジェネオン エンタテインメント=電通=日本ヘラルド映
画=東急レクリエーション=小椋事務所、2005年)である。「姑獲鳥」は「うぶめ」と読む。京極夏彦原
作の推理劇であるが、細部に凝っているわりには、話の運びに陰影がなかった。ただし、京極堂(中禅寺
秋彦)に扮している堤真一は堂々としていて、好感がもてた。他に、永瀬正敏(関口巽)、阿部寛(榎木
津礼二郎)、宮迫博之(木場修太郎)、原田知世(久遠寺梗子/涼子)、恵俊彰(牧朗)、いしだあゆみ
(久遠寺菊乃)、すまけい(久遠寺嘉親)、田中麗奈(中禅寺敦子)、清水美砂(中禅寺千鶴子)、篠原
涼子(関口雪絵)、堀内正美(菅野)、松尾スズキ(内藤)、寺島進(原澤伍一)、三谷昇(紙芝居屋)、
原千佐子(沢田富子)、荒川良々(薔薇十字探偵事務所の助手)などが出演している。なお、「呪いとは
脳に仕掛ける時限爆弾である」という惹句には、もう少し捻りを入れてほしかった。
 3本目は『3ー4×10月』(監督:北野武、バンダイ=松竹富士、1990年)である。北野映画の2作目。
あまり褒めたくはないが、やはり面白い。それにしても、ビートたけしとして出演している梅原というや
くざは、何を目的に生きているのだろうか。舎弟(渡嘉敷勝男)を犯す際に「いろいろ考えてんだよ」と
いう台詞を吐くが、文字通りいろいろ考えているのだろう。井川比佐志とベンガルがやくざに扮している
が、本当にそう見えるから不思議である。他に、ダンカンやガダルカナル・タカなどのたけし軍団の面々、
小野昌彦、石田ゆり子、豊川悦司、ジョニー大倉などが出演している。
 4本目は『道頓堀川』(監督:深作欣二、松竹、1982年)である。宮本輝原作の「大阪もの」である。貧
しい画学生である邦彦(真田広之)と、お妾のまち子(松坂慶子)の恋が一方で進み、政夫(佐藤浩市)と
その父親(山崎努)とのビリヤードをめぐる葛藤が、他方で絡むという構成である。どちらも中途半端な話
となってしまい、最終場面での邦彦の死に至って、がっかりしてしまった。深作流の演出なのだろうが、小
生には好ましくは映らなかった。ただし、劇中のさとみ(古館ゆき)の素裸での踊りは潔くてよかった。こ
の女優はこの作品以外では知らないが、演技も上手だったと思う。他に、渡瀬恒彦、加賀まりこ、柄本明、
カルーセル麻紀、名古屋章、安倍徹、大滝秀治、片桐竜次などが出演していた。
 5本目は『カミュなんて知らない』(監督:柳町光男、プロダクション群狼=ワコー=Bugs film、2006
年)である。柳町監督は『さらば愛しき大地』の監督でもあるので、観る前から少し期待していた。率直に
言って、両者は色合が異なる作品だと思う。ともあれ、『さらば……』にはとうてい及ばないが、この作品
もそれなりに面白かった。とくに、最後の老婆殺しのシークエンスは、作中劇なのか、そうではないのか、
とても微妙に描かれており、この辺りは『さらば……』を髣髴させた。なお、映画のタイトルであるが、か
つて小生は、アルベール・カミュに関して「昨今の学生は名前すら知らない」とエッセイで書いたことがあ
るので、さもありなんと思った。吉川ひなの、本田博太郎、山谷初男、田口トモロヲは出演を確認できたが、
この時点で他の俳優は知らなかった。ただし、皆うまい。
 6本目は『江分利満氏の優雅な生活』(監督:岡本喜八、東宝、1963年)である。何とも古臭い映画であ
るが、当時の雰囲気はよく描かれていると思う。戦中派の心情にはまことに哀切がこもっているが、同時に
戦後を貪欲に生きるバイタリティがある。主人公には小林桂樹が扮している。他に、新珠三千代(主人公の
妻役)、東野英治郎(主人公の父役)、横山道代、太刀川寛、平田昭彦、中丸忠雄、天本英世、二瓶正也、
砂塚秀夫、ジェリー伊藤、松村達雄、塩沢ときなどが出演していた。なお、主人公が学徒動員を語る場面で、
「青春の晩年」という言葉を遣うが、改めて戦争の不条理に思い当たった。
 7本目は『大誘拐 Rainbow Kids』(監督:岡本喜八、喜八プロ=ニチメン=フジエイト、1991年)であ
る。奇しくも、同じ岡本作品をつづけて観ることになったが、映画のスケールははるかにこちらの方が大き
い。「誘拐」という卑劣な犯罪行為を、ユーモアにまで昇華させた手腕は並大抵なものではない。主人公の
柳川とし子(広大な山林を所有する一家の刀自)を演じている北林谷栄なくしてはとても成立しなかった映
画でもある。誘拐犯は、虹の童子の「雷」こと戸波健次(風間トオル)、同じく「風」こと秋葉正義(内田
勝康)、同じく「雨」こと三宅平太(西川弘志)である。三人とも気のいい「悪者」を演じている。捜査の
陣頭指揮を執る和歌山県警本部長の猪狩大五郎には緒形拳が扮している。他に、神山繁(とし子の次男)、
水野久美(とし子の次女)、岸部一徳(とし子の四男)、樹木希林(元女中頭)、嶋田久作(東京から転勤
してきた警部補)、天本英世(串田支配人)、奥村公延(柳川家の運転手)、常田富士男(叩き上げの刑
事)、竜雷太(上級警察官)、橋本功(捜査一課長)、中谷一郎(テレビ局社長)、上田耕一(テレビ局幹
部)、ヘリコプターのパイロット(本田博太郎)などが出演していた。イラストレーターの山藤章二や、今
は亡き作家の景山民夫なども顔を見せている。なお、誘拐時に使用した自動車の車体番号が「姫路56 ひ
5963」だった。もちろん、「ご苦労さん」のもじりであろう。
 8本目は『月の砂漠』(監督:青山真治、WOWOW=ギャガ・コミュニケーションズ=ランブルフィッシュ=
吉本興業=レントラックジャパン=サイバーエージェント、2001年)である。同監督の作品はこれで3本目
の鑑賞になるが、小生にはこれが評価一番。病める家族を丁寧に描いている。主人公の永井恭二には三上博
史が扮している。他に、とよた真帆(恭二の妻アキラ)、柏原収史(キーチ)、國村隼(野々宮)、萩原健
一(社長)、秋吉久美子(キーチの客)、夏八木勲(ツヨシの父)、碇由貴子(恭二の娘カアイ)、細山田
隆人(ツヨシ)、生瀬勝久(市山)、ピエール瀧(榊)、村上淳(白木)、江角英明(鶏屋)などが出演し
ていた。なお、キーチを演じている柏原収史は『カミュなんて知らない』にも出演していたが、有望株では
ないだろうか。目に力がある。最後になるが、この映画で、携帯電話を清流に投げ捨てる場面があるが、き
ちんと回収しているのだろうか。それとも、実際には投げ捨ててはおらず、画面上で処理しているにすぎな
いのだろうか。少し気になった。

                                                                                                 
***このページは一般に公開されています。リンクアドレスには下記をご利用ください。***
http://souls.cc.kochi-u.ac.jp/?&rf=2632
 Copyright (C) 2005, Kochi University Faculty of Humanities and Economics All Rights Reserved.