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日日是労働セレクト11
 以下に、「日日是労働」のダイジェスト版・第11弾を掲げます。直ぐ下の記事がこの「日日是労働セレク
ト11」の中では最も新しい日付のものです。つまり、読み進めるほど、古い記事になります。ただし、いち
いち明示しませんが、後日に行った加筆訂正を含んだ日があります。日誌ですから、少なくとも後日に加筆
することは御法度であるはずですが、「某月某日」ということもあり、記事内容の充実を優先させました。
ご了承ください。また、頑張って「辛口」の批評を展開しようと務めておりますので、本文に何かと読者の
お気に召さない表現等が散見されるやもしれませんが、特定の個人、団体等を誹謗中傷する目的は一切あり
ませんので、どうぞご理解ください。


 某月某日

 5日ばかりブログを休んだいた間に邦画のDVDを6本観たので報告する。先ず、1本目は『容疑者 室井慎
次』(監督:君塚良一、フジテレビジョン=ROBOT=東宝=スカパー!WT、2005年)である。『交渉人 真
下正義』(監督:本広克行、フジテレビジョン=ROBOT=東宝=スカパー!WT、2005年)よりもさらに通
俗的で、テレヴィ・ドラマとほとんど変らない作品だった。キーパーソンになる若い女性に一捻りほしかっ
たと思う。もっとも、あのような軽薄さが必要だったのかもしれない。
 2本目と3本目は寅さん映画である。最初は、第39作の『男はつらいよ・寅次郎物語』(監督:山田洋次、
松竹映像、1987年)である。テキ屋仲間である「般若の政」の孤児秀吉(寅さんが名付親)を伴って、和歌
山、奈良、伊勢・志摩を行脚するという物語。その子の母親(五月みどり)を探し出すのが目的だが、途中
でマドンナ隆子とも出会うという設定である。隆子役は秋吉久美子。化粧品のセールス・ウーマンである。
寅さんお得意の台詞である「そこが渡世人のつれェところよ」が活きていた。阪和線の熊取駅がアナウンス
されるシーンがあるが、懐かしかった。かつて、某大学の非常勤講師をするために乗降したことのある駅だ
からである。他に、イッセー尾形、笹野高史、関敬六、正司敏江、河内桃子、すまけい、松村達雄らが出演
している。次は、第40作の『男はつらいよ・寅次郎サラダ記念日』(監督:山田洋次、松竹映像、1988年)
である。歌人の俵万智にちなんだ作品で、同時に早稲田大学の宣伝映画にもなっている。小諸で知り合った
老婆(鈴木光枝)が橋渡しとなって、寅さんは当地で女医をしている原田真知子(三田佳子)の知遇を得る。
その姪の由紀(三田寛子)が早稲田大学の学生という設定である。そのボーイフレンドである茂(尾美とし
のり)も絡んで、何となくほんわかした作品である。もっとも、老婆の死や、真知子が夫を喪った経験をも
つ設定など、しんみりした部分もある。ただし、島崎藤村の「雲白く/遊子悲しむ」の「遊子」を「勇士」
と取り違えるところなど、お馴染みのギャグも忘れてはいない。三國一朗が演じる大学の教師の講義に参加
した寅さんが、自ら「講義」するシーンは楽しかった。『男はつらいよ・寅次郎頑張れ!』(監督:山田洋
次、松竹、1977年)のワット君(中村雅俊)の話が出て来る。なお、この作品では、「とらや」が「くるま
や」に替わっている。現実の柴又に突然「とらや」が出現したかららしい。他に、すまけい、笹野高史、関
敬六、奈良岡朋子らが出演している。
 4本目は『すべてが狂ってる』(監督:鈴木清順、日活、1960年)である。松竹のヌーヴェル・ヴァーグ
を意識した作品で、英語の題名の《The Madness of Youth》が示す通り、当時のビート族やフランキー族の
生態を活写した作品である。杉田次郎(川地民夫)という少年がいる。戦後の混乱期からずっと、母親の昌
代(奈良岡朋子)が南原圭吾(芦田伸介)の世話を受けてきたことに対して憤りを感じている。南原は、兵
器産業の三星重工の技師で、次郎の父親が戦死していることも手伝って二重に嫌っているという設定である。
最後に次郎はガールフレンドの谷敏美(禰津良子)とともに自滅するが、観ている者には「仕方がないか」
と思わせる流れになっている。三流新聞の記者役の穂積隆信の、次のような台詞が印象深い。それは、バー
のマダム役の宮城千賀子の「どうせ書くんでしょ」という言葉を受けて吐かれる、「マスコミの命じるまま
にセンセーションにね。恐るべきハイティーン・グループ。暴走するエネルギー。絶望、背徳の少年。エロ
を狙うことも忘れないでね。あるいは、こうも書ける。現代では、人間の間に善意の通じる場所はない。す
べてが狂ってる」という台詞である。なお、盗んだ車のナンバーが「5す4183」から、途中で「5そ6
675」に換わっているのがおかしかった。また、この作品には、吉永小百合がちょい役で出演している。
蛇足ながら、後に川地民夫は『まむしの兄弟』シリーズで、菅原文太(ゴロ政)とコンビを組んで「不死身
の勝」を演じている。
 5本目は『透光の樹』(監督:根岸吉太郎、「透光の樹」製作委員会、2004年)である。高樹のぶ子原作
の大人の恋の物語。富山県の鶴来町を主な舞台にした、テレヴィマンと刀鍛冶の娘との中年の恋である。神
棚の上に位置する天井に張ってある「雲」の文字が印象深い。この字があれば、神様より上で何をしても許
されるというわけである。主演の秋吉久美子がヘア・ヌードを披露している。相手は永島敏行である。二人
が主演した青春もの(『赤ちょうちん』、『妹』、『バージンブルース』、『帰らざる日々』、『サード』、
『遠雷』など)を思えば、あれから幾星霜……という感慨もある。他に、高橋昌也、吉行和子、平田満、寺
田農、田山涼成、森山周一郎、うじきつよし、戸田恵子らが出演している。
 6本目は『笛吹川』(監督:木下恵介、松竹大船、1960年)である。戦国時代の甲斐を舞台にした、ある
百姓一家の年代記である。飯田河原の合戦、上條河野の合戦、富士須走口の合戦、梨木平の合戦、塩尻の合
戦、川中島の合戦、三方が原の合戦、長篠の合戦、高遠の合戦などを経て、武田家が滅亡するまでを描いて
いる。もっとも、華麗なる合戦絵巻が主ではなく、それに翻弄される農民の嘆きがテーマのようである。お
けい役の高峰秀子、定平役の田村高廣は、10代から老人になるまでを演じているが違和感はなかった。さす
がである。他に、加藤嘉、渡辺文雄、荒木道子、山岡久乃、原泉、市川染五郎(現 松本幸四郎)、岩下志
麻、川津祐介、安倍徹、田中晋二、中村萬之助、小林トシ子、市原悦子、大源寺龍介、織田政雄、井川邦子、
中村勘三郎(先代)、松本幸四郎(先代)らが出演している。なお、パートカラー作品であるが、逆効果だ
と思った。


 某月某日

 今朝、関敬六の訃報を耳にした。彼は、渥美清ならびに谷幹一と「スリーポケッツ」というトリオを組ん
だこともある一流のボードビリアンで、浅草軽演劇を支えた人の一人でもある。また、記憶に間違いがなけ
れば、「あどー」という持ちネタで憶えた人である。さらに、寅さん映画の常連で、とくに『男はつらいよ・
寅次郎恋愛塾』(監督:山田洋次、松竹、1985年)におけるポンシュウ役(寅さんのテキ屋仲間)は特筆に
値すると思う。長崎の協会で銀の燭台を盗んだのに神父に赦されるところなど、名作『レ・ミゼラブル』の
ジャン・ヴァルジャンそのものである。あの情けない感じを出せる俳優は、なかなかいないのではないか。
謹んで冥福を祈りたい。
 ところで、話は変わるが、『メゾン・ド・ヒミコ』(監督:犬童一心、アスミック・エース エンタテイ
ンメント=IMJエンタ テインメント=日本テレビ放送網=S・D・P=カルチュア・パブリッシャーズ、2005
年)を観たので、簡単な感想を記しておこう。後半生をゲイとして生きた「卑弥呼」こと吉田照男(田中
泯)とその娘の吉田沙織(柴咲コウ)との交流を主旋律として、父親の若い恋人の岸本春彦(オダギリジ
ョー)などがそれに絡んでくるという展開である。1958年、東京の銀座にゲイバー「卑弥呼」が開店する。
なお、背景音楽として園まりの「逢いたくて逢いたくて」(作詞:岩谷時子、作曲:宮川泰)が流れるが、
これはもっと後の音曲なので(1965年の作品)、選曲が間違っていると思う。ともあれ、初代ママの才覚も
手伝って店は繁昌し、やがて「名店」とまで呼ばれるようになる。1985年、このママが肝硬変のために引退。
そこに突然彗星のごとく現れて店を継いだのが吉田照男というわけである。彼は、仕事を捨て、妻子も捨て
て、この道に飛び込んだという設定である。したがって、娘の沙織には恨まれている。2000年、突然引退。
店も閉めて、「メゾン・ド・ヒミコ」という名前のゲイのための老人ホームを開設、5年後に癌に冒される
という流れである。春彦は一計を案じて(借金で首の回らない沙織を金銭で釣って)、父と娘を対面させる。
死に直面した自分の恋人を励ますためである。やがて、父は穏やかな死を迎え、娘もこだわりから解放され
るという物語である。その他、さまざまな工夫(コスプレなど)が凝らされているので、飽きさせない展開
となっている。もっとも、ルビイ(歌澤寅右衛門)の老オカマぶりを除いて、さしてリアリティがあるとは
思えないが……。
 なお、ゲイに対する周囲の嫌がらせ(たとえば、壁に「変態死すべし!! ホモ全滅!!」という落書をする)
に関して、いろいろ考えさせられた。これらの行為は、英語の《rough music》やフランス語の《charivari》
に当たり、多数派が少数派に対して行う野蛮な振る舞いである。「鍋釜たたき」と訳されることもあるが、
要するに、気に入らない連中(イギリスではとくにホモを嫌う)に対する私的制裁のことである。鍋や釜を
たたきながら非難したことに因むらしい。J.S.ミルは、「不快(displeasure)」ということを理由にして
人の自由を奪うことの愚を非難している(『自由論』)。現在における「愚行権(the right to do what is
wrong)」に当たるだろう。しかし、ゲイは愚行だろうか。論の分かれるところである。沙織の台詞「操なん
て捨てるためにあるんだよ」が、考えるヒントになるのではないか。よく分らない場面(なぜ、ワルガキは
心を入れ替えたのか、あるいは、なぜ沙織は細川専務〔西島秀俊〕に身を任せたのか、など)も多々あった
が、おおむね面白く鑑賞できた作品である。他に、青山吉良(山崎)、柳澤愼一(政木)、井上博一(高尾)、
森山潤久(木嶋)、洋ちゃん(キクエ)、村上大樹(チャービー)、高橋昌也(半田)、田辺季正(淳也)
などが出演している。なお、キャストに関しては〈ウィキペディア〉や〈goo 映画〉を参照した。

 * 後日、配役名などに関して、大幅に改変(訂正)した。

                                                 
 某月某日

 寅さん映画を2本観たので、ご報告。1本目は『男はつらいよ・幸福の青い鳥』(監督:山田洋次、松竹、
1986年)である。マドンナは志保美悦子(美保)、以前岡本茉莉が演じていた旅芸人の座長の娘(大空小百
合という芸名)である。筑豊で訪れた芝居小屋で、座長(中村菊之丞?)が亡くなったことを知った寅さん
が遺児の美保を訪ねるところから話が始まる。彼女は、当地で芸者の真似事をしている。例によって、「困
ったことがあったら柴又を訪ねておいで」という寅さんの言葉を頼りに美保は上京する。そこで知り合った
看板屋(実は、画家志望)の健吾(永淵剛)と恋仲になるまでの物語である。寅さんはもちろん美保に惚れ
ているが、その気持をぐっと抑えて彼女のためにいろいろ面倒を見るというお馴染みの筋書である。小学校
を50回も転校するという美保の経験が語られるが、旅芸人の娘ならばありがちなことなのだろうか。イッセ
ー尾形、すまけいが、この作品から始めて参加してそれぞれの味を出している。他に、桜井センリ、関敬六、
笹野高史、不破万作、有森也実などが出演している。なお、志保美悦子と永淵剛は私生活でも結婚している。
沢田研二と田中裕子のときと同様、寅さん映画は「縁結び」の仕事もしていることになる。
 2本目は『男はつらいよ・知床慕情』(監督:山田洋次、松竹映像、1987年)である。マドンナは2度目
の登場(第32作以来)の竹下景子。前回(備中高梁のお寺の娘)とは別人の役である。なお、竹下景子は、
もう一度またも別人の役で出演している。今回は、知床在住の獣医上野順吉(三船敏郎)の娘である上野り
ん子役である。東京で所帯をもったが、失敗して出戻ってくるという設定である。もともとその結婚は駈け
落ち同然だったこともあり、父親の順吉は無愛想に娘を迎えるが、「寅さんがいてくれてよかった」という
台詞に端的に現れているように、本音は娘の帰郷を喜んでいるのである。寅さんはこの町で人気者になり、
しばらく滞在するが、順吉と以前から彼が惚れていたスナックはまなすの雇われママである悦子(淡路恵子)
とが結ばれるのをきっかけに、知床を立ち去るという流れである。順吉の「日本の農政問題」への言及(た
とえば、牛は経済動物であって、乳量が尽きて300kgを割るとたちまち屠殺される、とか)や、寅さんのショ
ック・アブソーバーぶり(周囲の人々が緊張関係に入ったとき、彼の適切な言動がその緊張を解く)が印象
に残った。思うに、寅さんは、別の造語で言えば「デタント・タレント」なのである。他に、関敬六、すま
けい、イッセー尾形、笹野高史、赤塚真人などが出演している。2作を通じて、すまけいが光っていた。な
お、この作品は映画館で封切のときにも観ているが、順吉と悦子の恋以外ほとんど憶えていなかったので、
再び楽しむことができた。実は、どちらかと言えば、併映の『塀の中の懲りない面々』(監督:森崎東、松
竹映像=磯田事務所、1987年)の方が目当てだったのであるが……。


 某月某日

 『エリ・エリ・レマ・サバクタニ』(監督:青山真治、TOKYO FM=バップ=ランブルフィッシュ、2005年)
を観た。『EUREKA〈ユリイカ〉』(監督:青山真治、電通=IMAGICA=サンセントシネマワークス=東京テ
アトル、2000年)よりもさらに前衛的で、小生にはついていけないものがあった。2015年、世界は「レミン
グ病」(この病気に罹ると自殺したくなる)と呼ばれるウィルスに冒されており、すでにアメリカ合衆国で
は800万人、日本では300万人の人間が自殺しているという設定である。助かる方法として、ミズイ(浅野忠
信)とアスハラ(中原昌也)が創り出した音(二人はステッピン・フェチェットというコンビを組んでいる)
を聴くことが発見される。そこで、すでに息子夫婦をこの病気で喪っている富豪のミヤギ(筒井康隆)が、
発症した孫のハナ(宮崎あおい)に治療を施すため、探偵のナツイシ(戸田昌宏)を伴って、彼らがしばし
ば訪れるレストラン兼ペンションにやってくる。そこには、オーナーのナビ(岡田茉莉子)がいて……とい
った展開である。当初、ミズイはハナの治療を断るが、元恋人のエリコ(エリカ)の自殺(過去のシーンが
現実に絡まる)、相棒のアスハラの自殺などをきっかけにして、ハナの治療を引き受ける。何も視界を遮る
もののない野原でのミズイの演奏は、浅野忠信監督の『トーリ』を連想した。その後、探偵のナツイシも自
殺するが、世界は何も変わらない。最後の場面で、雪が降ってきた外の様子を部屋の中から見ているミズイ
の心には、いったい何が去来しているのだろうか。他に、川津祐介(ミヤザワという町医者の役)、鶴見辰
吾(カゼモトという役人の役)、内田春菊(ハナの母親の役?)などが出演している。
 ところで、この映画の題名は「マタイによる福音書」の27章46節の《Eli, Eli, Lema Sabachthani?》
(神よ、何ゆえ我を見捨てたもうや)から採られているが、この映画に関してだけ言えば、深い宗教的意味
はないと思われる。実は、もう20年以上に亙ってこの言葉の意味を考えているが、今のところまともな答え
は出ていない。小生としては、この言葉そのものにももっと迫って欲しかったと思う。


 某月某日

 小説を原案にして映画を製作することはよくあることだろう。原作とは異なるので、下敷きにされた小説
はあまり表には出てこない。『神々の深き欲望』(監督:今村昌平、今村プロ、1968年)にも、原案にされ
た小説が存在する。1951年(昭和26年)に、宮崎市の同人誌『龍舌蘭』に発表された安達征一郎作「憎しみ
の海」である(『怨の儀式』、三交社、1974年、所収)。この人は一般にはあまり知られている人ではない
と思われるが、直木賞候補にもなったことのある作家である。最近鑑賞した『神々の深き欲望』には、たし
か原作があったはずだという記憶を頼りに、さして多くもない蔵書の中から見つけ出したのである。読んで
みたが、舟による逃亡と追跡が映画に活かされていることが判った。さらに、これも記憶が頼りであるが、
丹羽文雄が主宰していた『文学者』という雑誌の集いで、この安達氏のお話を聴いたことがあるような気が
する。30年以上も前のことなので、思い違いかもしれないが……。
 さて、文学作品を映画化したものは数多いが、未見の作品で一番観てみたいのが『泥の河』(監督:小栗
康平、木村プロ、1981年)である。最近、主演の田村高廣が亡くなったので、追悼番組としてテレヴィで上
映された由。小生は惜しくも観損なったが、またいつか鑑賞の機会もあるだろう。少し悔しいので、原作で
ある宮本輝の「泥の河」を読んでみた。蟹を燃やす話だけは知っていた。誰かから教わったのであろう。


 某月某日

 一昨日のブログで、「敵も味方もつくりたくない」と書いたが、例外がいた。父親である。もっとも、彼
は亡くなったので、これで敵もいなくなったわけである。少し淋しいが仕方がない。なぜ、敵も味方もつく
りたくないのかと問われた場合には、返答に窮するだろう。多分、子どもの頃に身につけた処世術のせいだ
と思う。小学生のときは、周りから浮くことが多かったし、先生にも「スピーカー」とか「誇大妄想狂」と
か呼ばれていたほどなので、遊び仲間はいても誰かととくに親しくなるわけではなかった。もちろん、例外
もいたことはいた。しかし、そんな奴は、小生の他にあまり友だちのできそうもない奴だった。高校生のと
きも、腕力に訴えることが好きな同級生がいて、ほとんどの遊び仲間が彼に殴られた経験をもっていたが、
小生だけは殴られたことがなかった。もっとも、殴る価値があるとは思われていなかったからか、あるいは、
よほど弱そうに見えたからかもしれない。いずれにせよ、小生は、選択的に敵や味方をつくりたくないのだ。
したがって、『どですかでん』のたんばさんに憧れるのである。
 そういうわけであるから、『少年時代』(監督:篠田正浩、藤子スタジオ=テレビ朝日=小学館=中央公
論社=旭通信社=シンエイ動画、1990年)のような映画は苦手である。あまり共感が湧かないのである。お
そらくたくさんの人々を感動させた映画であろうが、小生には少しばかり退屈であった。同監督の『瀬戸内
少年野球団』よりはリアリティがあると思うが……。
 物語は昭和19年の夏、東京に住む風間進二(藤田哲也)という国民学校の5年生が、富山の伯父を頼って
疎開するところから始まる。父親は風間修作(細川俊之)、母親は風間静江(岩下志麻)である。疎開先の
人々として、風間辰男(河原崎長一郎)、風間しげ(三田和代)、風間まさ(鈴木光枝)などが出演してい
る。東京から来たということで、随分と珍しがられると同時に、いじめにも遭う。それを和らげたのが級長
の大原武(堀岡裕二)である。進二が東京からもってきた本などを武に貸したりして、二人は仲良くなる。
しかし、この武は随分と横暴なため、やがて副級長の須藤健介(小日向範威)の画策により、ガキ大将の座
を追われることになる。若いサルに負けたサル山の元ボスザルのようなものである。田辺太(山崎勝久)と
いう少年と、その姉昭子(仙道敦子)なども物語に絡んでくるが、昭子の役はまるでリアリティがなかった。
昭和20年8月2日、富山は空襲される。しかし、幸いなことに伯父の家は無事である。やがて、終戦を迎え、
母親が進二を迎えに来る。武が進二の乗っている汽車に一人で見送りに来るところで物語は終わる。まこと
に平凡な筋書なので、世代を超えて喜ばれる作品なのだろう。非凡さを発揮した役者も皆無だった。唯一、
伯父の辰男が、戦後禁止になった軍歌を少年たちに歌わせるシーンだけが面白かった。なお、人間ドラマと
しては物足りなかったが、風景描写などの映像はとても美しかった。ロケ協力として、大家庄小学校、横山
小学校、重要文化財 武田家住宅、大町エネルギー博物館、大井川鉄道、富山地方鉄道、西日本旅客鉄道の
名前が挙がっていた。


 某月某日

 2本の邦画を観たので、ご報告。1本目は『火火』(監督:高橋伴明、ゼアリズエンタープライズ=バッ
プ=カルチュア・パブリッシャーズ=ヒューマックスコミュニュケーションズ=ブロウアップ=滋賀県映画
センター=アレックスシネマ=オフィスケイツー=ワコー、2004年)である。「ひび」と読ませる。ある女
性陶芸家の半生を描いた作品である。名前を神山清子(こうやまきよこ)という。娘(久美子)と息子(賢
一)がいるが、夫とは離婚している。信楽にある「寸越窯(ずんごえがま)」の窯主であるが、物語が中盤
に差し掛かるまで、信楽の人々は女性窯主を認めない。ここにも封建時代の名残があるが、清子の腕がそれ
をきれいさっぱり洗い流してしまう。「自然釉」を復活させたからである。しかし、貧乏所帯であることは
変わらず、娘の久美子を短大に通わせることにも難色を示したほどである。息子の賢一は高校を卒業した後、
滋賀県立信楽窯業試験場に入り、陶芸家の道を目指す。ここで知り合った恋人もできる。ところが、さっぱ
り上達しないので、気の強い清子は賢一を家から追い出そうとさえする。そこに、降って湧いたような出来
事が生じる。賢一が大病に取り憑かれたのだ。病名は「慢性骨髄性白血病」である。周囲の支援にも拘わら
ず、ドナーの不在や資金繰りの行き詰まりなどで病気の快復は絶望的となる。最後の手段として、適合検査
項目の6つのうち5つが合う叔母の骨髄を移植するが、結局無駄に終わる。しかし、その間、清子などの頑
張りにより、「骨髄バンク」が発足する。それがせめてもの救いになっている。この手の作品の定番といっ
たつくりで新味はないが、丁寧につくっている分、まるで清子のつくった壺のようにしっとりとした作品に
仕上がっている。配役は、神山清子(田中裕子)、神山久美子(遠山景織子)、神山賢一(窪塚俊介)、清
子の先生筋の石井利兵衛(岸部一徳)、叔母の倉垣幸子(石田えり)、賢一の恋人長坂みどり(池脇千鶴)、
清子の弟子の牛尼瑞香(黒沢あすか)などである。なお、黒沢あすかの役は、『嫌われ松子の一生』(監督:
中島哲也、「嫌われ松子の一生」製作委員会、2006年)での配役(AV女優)とは全然違うので、女優の七変
化の面白さを味わうことができた。
 2本目は『どですかでん』(監督:黒澤明、四騎の会=東宝、1970年)である。山本周五郎の『季節のな
い街』から8つのエピソードを抽出し、それをアレンジした作品である。おそらく、5回目くらいの鑑賞で
ある。ほとんどの場面を覚えていたが、鮮度は落ちていなかった。傑作の証拠である。渡辺篤が演じるたん
ばさんに出会う度、こういう人になりたいものだと思う。まあ、なれそうもないけどね。他に、頭師佳孝、
菅井きん、三波伸介、伴淳三郎、丹下キヨ子、下川辰平、田中邦衛、吉村実子、井川比佐志、沖山秀子、松
村達雄、芥川比呂志、奈良岡朋子、三谷昇、根岸明美、ジュリー藤尾、谷村昌彦、藤原釜足、小島三児、園
佳也子、人見明、二瓶正也が出演していることは確認できた。


 某月某日

 「思考の癖」という病に取り憑かれると、つねに結論は同じ方向に固定され、細部の相違はあっても、た
いていは同じような考えしか浮かばないようになる。言い換えれば、「思考のマンネリズム」に陥っている
のである。このような状態にある人と話すのは大変骨が折れる。何を言っても健全な議論に発展することは
なく、反対の立場は一切認められず、賛成するまで許して貰えない。話し合いの平行線を厭うならば、適当
に相槌を打って、その場を誤魔化すしかない。「こういう風にも考えられますよ」とか、「こんな考えをも
つ人もいますよ」とか言えば、たちまち「お前はあんな奴らの味方をするのか」と迫り、自分の味方なのか
敵なのか、旗幟を鮮明にせよと脅すのである。こんなとき、小生はほとほと困ってしまう。なにしろ、「あ
なたの味方でもなければ、彼らの味方でもありません」という言い種は許されないのだから……。小生は、
基本的に自分の味方であろうと努力はするが、人の味方になるとか、まして敵になるとか、そのような発想
はしないことにしている。「味方ならば、必ずそう考えなければならない」などと言われても、困り果てる
だけであるし、敵と目される人にだって学べることは数多あるのだから……。しかし、世の中には、このよ
うな「思考の癖」にとっぷりと漬かっており、しかもその自覚のない人が存外多いものである。あまりにそ
ういう人とばかり交流がつづくと、うんざりして意見を吐く気力がなくなってくる。「白か黒かはっきりさ
せろ」と言いたがる人だって、迷うことはあるだろう。小生はどちらかに傾くぐらいならば、灰色のままに
留まる方を選びたい。つまり、「どっちだって大差はない」と呟きたいのだ。もちろん、これも「思考の癖」
なのだろうが……。


 某月某日

 ここのところ5本のDVDを観たので、それぞれ寸評を記そう。1本目は『故郷』(監督:山田洋次、松竹、
1972年)である。予告篇で、渥美清(この作品では、松下という名前の魚介類の行商人の役を務めている)
のナレーションを中心にこの作品の梗概が述べられているので、それを下に記そう。

  今日は、私の知っている、ある家族の話をしましょうか。広島県安芸郡倉橋町(くらはしまち)、
 大向(おうこう)部落……と言っても分からないでしょうが、広島から電車で20分、大きな工場
 (こうば)の立ち並ぶ呉で降りて、音戸(おんど)の瀬戸を渡り、段々畑の曲がりくねった海岸
 線を、バスに1時間ほど揺られて、やっとたどり着く倉橋島の南の外れにある部落のことなんで
 す。この部落が、この家族の故郷なんです。

 ここで、石崎精一(井川比佐志)と民子(倍賞千恵子)夫婦の台詞が入る。

  精一:民子、船の仕事はエライか。 *「エライ」=「しんどい、つらい、きつい」等々。
  民子:うん?
  精一:石船は辛いかいうて訊いとるんじゃ。
  民子:そりゃあ、楽な仕事とは思うとらんよ。ほいでも、父ちゃんさえよかったら、うちはえ
     えよ。爺ちゃんとちあきとまゆみと、みんなでうちら苦しゅうても頑張るけ。

 再び、渥美清のナレーション。

  そうなんです。石船というのは、山で切った石を積んで、海で捨てる……海のダンプカーみたい
 な船のことなんです。父ちゃんが船長、母ちゃんが機関長、たった13トンのちっぽけな老朽船と、
 狭い段々畑が、言ってみればこの家族の生活を支えているんです。
  えっ、ああ、私ですか? いえ、私は、やっぱりこの島で、魚の行商と言うんですか、それをや
 っとりまして、元々余所から来た者なんですけども、死んだ女房の墓があるもんでして、何となく
 離れられずに、こんな商売やってるんです。朝早くから夜遅くまで、一生懸命働いて、何一つ悪い
 こともしないというのに、どうしてかねぇ。なんで先祖代々住みついたこんなきれいな村を出て行
 かなきゃならないのかねェ。えっ?

 ここで、爺ちゃん(笠智衆)の台詞が插入される。

  ちあき、よう見とけ。これがお前の生まれた島じゃ。お前の父ちゃんや、この爺ちゃんや、爺ち
 ゃんのそのまた爺ちゃんの生まれた島じゃ。これがわしらの島じゃ。

 今度は、精一の台詞。

  精一:民子、大きなもんたァ、何(なん)かいのう。分かんのう。うちには分からんよ。皆言う
     じゃろが。時代の流れじゃとか、大きなもんには勝てんとか、ほじゃが、そりゃ、何のこ
     とかいのう。なんでわしら、大きなもんに勝てんのかいのう。なんでわしら、この石船の
     仕事を、わしとお前で、わしの好きな海で、この仕事をつづけてやれんのかいのう。

 また、渥美のナレーションに戻る。

  そうして、彼らは、この美しい故郷を捨てて、尾道の造船所に行ってしまったんですがね。何だ
 か、掛け替えのない友だちをなくしたような、淋しい気持になってしまったんですよ。

 瀬戸内海の島に住んでいる夫婦が、これまで仕事にしてきた石船が老朽化し、時代の波にも押されて、転
職を余儀なくされ、泣く泣く島を離れるという物語である。船の名前は「大和丸」、昭和28年建造の船で、
これまでの19年間、苦楽をともにしてきたまさに命綱とも言える船である。一般に、石船として使うと10年
くらいしかもたないとされているので、よくもった方である。しかし、修理に100万円以上かかると言われ、
なおかつ新しい船を買えるほどの余裕はない、という状況である。以前は弟の健次(前田吟)とともにこの
仕事をしていたが、やがて健次は陸に上がって勤め人になり、代わって妻の民子が「丙種機関士」の免許を
取得して、夫婦で石船の仕事をしているという設定である。精一は妻の民子を怒鳴りつけ、妻の民子も黙っ
て夫の意向に従うという、封建時代の遺物とも言える「夫唱婦随」ぶりではあるが、二人の間には慥かな絆
がある。このような夫婦が成り立ったのも、この時代がぎりぎりかもしれない。なお、造船所での待遇は、
1日手取り2,400円の日給月給である。給料面だけで判断すれば、石船の仕事よりもはるかに楽かもしれな
いが、前職が独立独歩の仕事だっただけに、「船長さん」でいた方がどれだけよいかしれない。魚の行商人
の松下(渥美清)の「船長さんから労働者になっちゃうんだねェ」という台詞が印象的だった。
 2本目は『十八歳、海へ』(監督:藤田敏八、にっかつ、1979年)である。藤田監督お得意の青春ものだ
が、脚本に無理がありすぎて成功しているとは思えない。海で「死にっこゲーム」を覚え、それが病みつき
になって滅んでゆく予備校生の男女を描いている。永島敏行(桑田敦夫役)、森下愛子(有島圭役)のコン
ビ自体は、『サード』(監督:東陽一、幻燈社=ATG、1978年)でお馴染みなので、しっくりしていた。他
に、五浪生の森本英介(小林薫)、圭の姉有島悠(島村佳江)、金持(小沢栄太郎)、予備校仲間(下條ア
トム)、ホテルの支配人(小松方正)などが出演していた。なお、小林薫は好きな俳優の一人であるが、こ
の時点では平凡な役者にすぎないと思った。
 3本目は『ヌードの夜』(監督:石井隆、ニュー・センチュリー・プロデューサーズ=サントリー、1993
年)である。石井隆監督の作品は観ている者をいらいらさせることに長けているが、この作品もその例に漏
れない出来であった。村木哲郎(竹中直人)と土屋名美(余貴美子)との不可思議な恋がテーマであるが、
それに行方耕三(根津甚八)や、行方の男の愛人仙道達(椎名桔平)などが絡んで、壮絶なドラマが展開し
ている。「何でも代行屋」の紅次郎(くれないじろう)こと村木が、名美に仕事を依頼される。東京の名所
案内である。普段「糞まみれ」の仕事ばかりをしている身にとっては、楽もいいところである。しかし、そ
れからの展開が悪すぎた。名美をホテルに送り届けたまではよかったが、そこで名美は腐れ縁を清算するた
めに愛人の行方を殺し、その死体の処理を紅次郎に依頼したまま姿を消すのである。困り果てた紅次郎(村
木)はドライアイスとともに大きなバッグに行方の死体を収めて、その死体を何とかして探し出した名美に
突き返すのである。それからの物語は割愛するが、何とも救いようのない気分に陥らせる仕組みになってい
る。健三という村木のかつての同級生で、今はいわゆる「おかま」をしている田口トモロヲがいい味を出し
ていた。また、椎名桔平はこの作品をきっかけに売れ始めたそうであるが、いわゆる「悪党路線」を歩いて
きた人なんだね。小生はそうではないと思っていたので、誰かと間違えていたのかもしれない。

 * 後日、<goo 映画>を参照して、配役に関して修正を施した。

 4本目は『鬼婆』(監督:新藤兼人、近代映画協会=東京映画、1964年)である。つい最近観た『悪党』
とは一味違うが、新藤色豊かな時代劇。落ち武者を殺して、その武具や甲冑を売り捌いて凌いでいる二人の
女(姑と嫁)の物語である。乙羽信子、吉村実子、佐藤慶、殿山泰司、宇野重吉などが出演している。
 5本目は『同胞』(監督:山田洋次、松竹、1975年)である。「はらから」と読む。岩手県岩手郡松尾村
で、「統一劇場」という新劇集団のミュージカル「ふるさと」が上演されるまでの、劇団組織部(一般企業
の営業職に当たる)の女性河野秀子(倍賞千恵子)と地元の青年団との交流を描いた佳品である。当時の農
村の実態が淡々と映像化されている。この松尾村は、盛岡から国鉄花輪線で1時間、さらにバスで役場まで
20分のところにある、素朴な農村地帯である。斉藤高志(寺尾聰)の青年団長ぶりもなかなかよかった。他
に、山田組お馴染みの井川比佐志(高志の兄)、下條正巳(町役場の役人)、三崎千恵子(村娘カヨコの母)、
杉山とく子(高志の母)、岡本茉莉(村娘のひとり、高志に仄かな恋心を抱いている)、渥美清(消防団長)
などが出演していた。さらに、大滝秀治(校長先生)、下條アトム(東京で働く村の青年)、市毛良枝(村
娘カヨコ)、赤塚真人(青年団の理事のひとり、ムードメーカー)などが目に付いた。「幸福って、何かに
夢中になることじゃないか」というメッセージが、素直に胸に響く作品である。おそらく、若い頃の小生だ
ったら、劇中劇であるミュージカルを「臭い芝居」としか評価できなかっただろうが、今は少し違う。実際
に観てみたいと思う。彼ら劇団員の活き活きとした表情が、最近では「稀有」とさえ言えるからかもしれな
い。これに対して、東京で働く下條アトムと市毛良枝とが扮している若者は、どこか淋しげである。なお、
本作品に登場する国鉄「岩手松尾」駅は、1988年に「松尾八幡平」駅に改称されており(前年、JR東日本の
駅になっている)、1999年、CTC化により無人化している。


 某月某日

 昨日はシステムがダウンしていたので、このブログもお休みを余儀なくされたが、今日から再開する。さ
て、『神々の深き欲望』(監督:今村昌平、今村プロ、1968年)を観た。今村昌平監督作品は10本以上観て
いるはずだが、これまで鑑賞の機会に恵まれなかった作品の一つである。
 物語は、沖縄周辺の島々の一つを思わせるクラゲ島を舞台に、かの地の共同体における土俗的な因習を描
いている。沖縄研究者にこの映画の話をしたところ、もしかしたら、「沖永良部島」がモデルかもしれない
との由(彼はこの映画を観ていない)。舞台設定から、『さらば箱船』(監督:寺山修司、劇団ひまわり=
人力飛行機舎=ATG、1982年)を連想したが、製作の際『神々の深き欲望』を意識したと考える方が自然であ
ろう。影響関係はあまりないと思うが……。太(ふとり)家という家柄がある。信仰厚い一家であるが、島
民からは「けだもの」とさえ呼ばれることがある。理由は簡単、「近親相姦」の噂が絶えないからである。
この映画における太家の登場人物を挙げておこう。太山盛(嵐寛寿郎)、太根吉(三國連太郎)、太亀太郎
(河原崎長一郎)、太トリ子(沖山秀子)、太ウマ(松井康子)である。根吉は山盛の息子、ウマは同じく
娘、したがって、根吉とウマは兄妹、亀太郎は根吉の息子、トリ子は同じく娘、したがって、亀太郎とトリ
子は兄妹である。さらに幾人かの登場人物が出てくるので、簡単に説明しておこう。この島を仕切っている
人物が竜立元(加藤嘉)、その妻が竜ウナリ(原泉)、島の神話の語り部が里徳里(浜村純)、その妻が里
ウト(中村たつ)、その他の島の有力者として登場するのが麓金朝(小島晋)である。竜立元と里徳里とは
太根吉の戦友という設定。その他、比嘉(殿山泰司)、山城(徳川清)、土持(石神康彦)が島の住民とし
て出てくる。東京から来たギシ(技師のことか?)の役として、島尻(小松方正)、刈谷(北村和夫)、ま
た、物語の終盤で登場する刈谷夫人(扇千景)、東夫人(細川ちか子)などが出演している。
 根吉は島の秩序破壊者で、ダイナマイトで密漁をしたり、人妻にちょっかいを出したり、妹のウマにまで
手をつけたりする、いわゆる「鼻つまみ者」である。そのため、足には鎖の枷をはめられ、外出を制限され
ており、普段は穴を掘って暮らしている。この穴は、津波がもたらした大岩をそこに落として、神の田を復
活させるという使命を担った存在である。根吉がかれこれ20年も掘っている穴である。天地自然一木一草が
神であるこの島の創造神話として、兄妹神話が存在する。ある兄妹が結ばれて、この島ができたとする神話
である。その意味では、根吉とウマとの結びつきは神の領域においてはむしろ自然である。一方、そのウマ
は、神託を述べ伝える巫女役の「ノロ」でもある。このウマを竜立元は世話している。根吉の息子の亀太郎
は土俗的な因習を迷信だと公言しているが、積極的にこれを否定するつもりはない。神域の木を伐採するこ
とができないので、むしろ畏れていると言えるかもしれない。この島の経済はかつて漁と耕作で成り立って
いたが、現在はサトウキビの栽培が主力で、東光悌という実業家によって支配されている。ところが、島の
水源や世界的な砂糖の値下がりの問題があって、このままでは立ち行かなくなっている。ほとんど無能とも
言える島尻というギシの後を受けて、この島に刈谷という新しいギシがやって来る。島ではドンガマ祭が近
づいており、この刈谷の助手として亀太郎が推薦される。推薦者は竜立元で、働きぶり如何によっては、ド
ンガマ祭への復帰を太家に許可してもよい、と言う。つまり、太家は一種の「村八分」にされているのであ
る。この提案に、太山盛は感激する。村の太家への制裁の、事実上の終了を意味するからである。しかし、
山盛と根吉の間には決定的な相違がある。つまり、亀太郎が日当を受けるか受けないかという一点が分かれ
目になっているのである。

 根吉の立場:働けば銭になる。人は銭のために働く。
 山盛の立場:人は神のために働く。したがって、銭を受け取ってはならない。

 村には、「ユイタバ」と呼ばれる「相互労働奉仕」のしきたりがある。屋根葺きなど、大勢の人間の共同
作業を必要とする際の仕事である。山盛は、土持のユイタバに駆り出される。これで、太家の村への復帰が
本格化したわけで、山盛は溜飲の下がる思いで出掛けてゆく。ところが、作業中、屋根から落ちて死んでし
まう。太家の新たなる不幸の始まりである。ウマの濃厚な接待を拒否していた刈谷は、ふとした弾みからト
リ子とできてしまう。このトリ子は発達の遅れている少女で、島の青年の多くと性的関係がある存在である。
刈谷は会社と太家との間で右往左往することになる。サトウキビが頭打ちであることがはっきりしたとき、
この島を観光の島に変貌させる計画が持ち上がる。新たなる経済的発展が約束されたというわけである。し
かし、空港予定地に太家の土地が入っていたのに、根吉はこの土地を売ることはできないと言い出す。例の
大岩が穴に落ちて、神の田が復活したからである。竜立元が説得に当たるが、色好い返事は聞かれない。そ
うこうするうち、竜立元が死ぬ。現場に居合わせた根吉とウマは、手に手を取って船で島を脱出する。ユー
トピアと考えられる、今では日本領ではない無人島を目指したのだ。これは、竜ウナリのアドヴァイスによ
るものだったが、島民に対してウナリは、自分の夫である立元は根吉によって殺されたと虚偽の証言をする。
おそらく、夫の妾同然であったウマに対する嫉妬心がそうさせたのではなかろうか。たちまち、追っ手がか
かる。息子の亀太郎もそのメンバーである。カヌーのような七、八人乗りの手漕ぎボートで追跡を開始する。
一方、根吉とウマを乗せた船はモーターで動くが、そのモーターもやがて動かなくなることによって、追跡
者に追いつかれる。夕日を背景に、面をつけた追跡者は櫂で根吉を制裁し鮫の餌食にする。ウマは帆柱にく
くりつけられて、さらし者の憂き目に遭う。五年後、観光開発が成功したクラゲ島に、刈谷一向がやってく
る。東京に出たはずの亀太郎も戻ってきていて、機関車の運転手をしている。刈谷一向に島の伝説(根吉と
ウマが処刑され、トリ子が恋人の帰りを待ちわびているうちに亡くなったという話)が語られるが、刈谷は
妻たちの手前、惚けるしかない。島の有力者である麓金朝も、島民は昔話と現実を混同していると説明して、
誤魔化す。突然、機関車の前方に死んだはずのトリ子が現れる。亀太郎にしか見えない幻影かもしれない。
このトリ子を機関車は轢いてしまうが、トリ子の死体はどこにもいない。赤い帆の船が海に浮かんでいるシ
ーンで、映画は終わる。
 神と人間との関係、共同体における神話(兄妹相姦による創造神話)、昔ながらの習俗と近代化との葛藤、
掟を破った者に対する苛酷な制裁、人口調節の実態など、いろいろ考えさせてくれる映画であった。映画の
舞台は小さい島であるが、考えれば狭い島の連合体である日本の縮図になっている、と言ってよいかもしれ
ない。


 某月某日

 若い頃、「親子水入らず」とか「一家団欒」とかいう言葉に出会ったとき、とてもいやな気持になった。
小生の解体した旧家族には、そのような雰囲気は希薄だったからである。もっとも、母親の方はそれでも涙
ぐましい努力をしていたと思う。しかし、父親には、家族を向上させるという目的に取り組む粘り強さは皆
無で、何か団欒めいた雰囲気ができそうになると、必ずそれをぶち壊す行為に出た。だから、家族旅行は企
画されても、最後は家族全員が皆不愉快になるというお定まりの成り行きになった。幼い間はいざ知らず、
歳も長けてくると我慢してばかりではいられない。母親も夫に従順であることをいつからかやめたので、家
族全員が互いに激しく意見し合うようになった。一番おとなしかった弟も、次第に自己主張をするようにな
った。後に小生が「罵倒家族」と呼ぶことになった家族のあり方である。もちろん、暗黙の規則があり、そ
れなりの落としどころも自然に決まっていた。虚偽の団欒を構成するよりも、本音を言い合う方が小生の性
に合っているので、相変わらず父親は暴走をつづけていたけれども、家族を重荷に思う感情はだんだんと緩
和されていった。言い換えれば、「どうせなるようにしかならない」と思えるようになったのである。そう
いうわけであるから、小生は家族の多様性を認める世の中を支持したい。たとえイレギュラーな家族であっ
ても、その構成員が互いに納得していれば、それはよい家族の形態の一つに数えることができるのである。
近年の映画である『キッチン』、『きらきらひかる』、『アカルイミライ』、『茶の味』、『落下する夕方』、
『ハッシュ!』、『さよならみどりちゃん』などには、家族のあり方をいろいろと考えさせてくれる仕掛け
が鏤められていると思う。もちろん、過去のイエ制度にも長所はあっただろう。しかし、それだけが家族で
はない。父母を亡くして、つくづくとそう思う。


 某月某日

 いわゆる「青春映画」を2本観たので、感想を少々記そう。1本目は『もっとしなやかに もっとしたた
かに』(監督:藤田敏八、にっかつ、1979年)であり、2本目は『さよならみどりちゃん』(監督:古厩
智之、ビーエス・アイ=藤賀事務所=ハピネット・ピクチャーズ=ティー・ワイ・オー=祭=TBSサービス、
2005年)である。どちらも平仮名だけのタイトルであり、彷徨する若者の精神世界を描いているので、久
しぶりに比較してみよう。この試みは、『赤ちょうちん』(偶然かもしれないが、この作品も藤田敏八監
督)と『下妻物語』との比較以来である。なお、略号として、前者を「もっと」、後者を「さよなら」と
する。

 〔主要登場人物〕

 「もっと」:高木勇一(奥田英二[現 瑛二])、高木君枝(高沢順子)、田口彩子(森下愛子)、
       海野(風間杜夫)、君枝の兄・義博(河原崎長一郎)、勇一の姉(赤座美代子)

 「さよなら」:ユウコ(星野真理)、ユタカ(西島秀俊)、タロウ(松尾敏伸)、マキ(岩佐真悠
        子)、スナック有楽のママ(佐々木すみ江)、ユタカの彼女ミドリ(役者不詳)

 〔人間関係〕

 「もっと」:勇一と君枝は夫婦(ただし、君枝は3年に亙って家出中)。彩子は勇一の居候(彩子
       も親元を離れて家出中。この二人には性的関係がある)。海野は勇一の友人でかつて
       君枝を争ったことがある(海野が君枝を犯す場面もある)。義博や勇一の姉は常識的
       人物。

 「さよなら」:ユウコとユタカ、ユウコとタロウ、ユタカとマキには、それぞれ性的関係がある。
        ただし、いずれも恋人同士というわけではない。ユウコとマキはユタカに好意を寄
        せているが、ユタカはどちらに対しても醒めている。タロウはユウコに好意を寄せ
        ているが、ユウコの目にはユタカしか映らない。マキはユタカに実がないので早々
        と見切りをつけるが、ユウコにはそれができないので、決定的な失恋を経験する。
        スナック有楽のママ(ユウコの雇い主)は気性のさっぱりした大人。ユタカの彼女
        ミドリは風俗嬢らしいが、よく分からないという設定。

 〔共通点と相違点〕

 共通点:「もっと」も「さよなら」も性的に奔放。ただし、前者には「ロマンポルノ」という映画
     製作上の制約があるから仕方がないか。どちらも人間同士の絆が病んでいるが、基本的に
     は皆それぞれの「優しさ」をもっている。つまり、「酷薄」とまでは言えない。ただし、
     「もっと」の海野と「さよなら」のユタカは、身勝手さにおいて張り合っていると言える。
     不思議なもので、海野もユタカも、女にだらしがないと同時に金銭的にもいい加減である。
     しかも、両者ともどこか憎めないキャラクターである。おそらく、両者には「男の色気」
     があり、しかもその効果が女に対してどれだけ働くものなのかを、二人とも自覚している
     節がある。したがって、おしなべて不実なのに、それでも女が彼らに靡くのである。
      「もっと」には父娘近親相姦の話が出て来て、非常に強い禁忌の雰囲気を醸し出してい
     るのに対して、「さよなら」では擬似近親相姦(兄と妹の関係)の話が出て来るにも拘わ
     らず、そこにタブーの気配はない。今寝ようとしている女が妹であるかどうかは関係なく、
     発情しているかどうかが問題なのである。したがって、近親相姦という点では共通してい
     るが、本質的にその観点は異なっている。

 相違点:「もっと」における海野の台詞「くたばれ! ニューファミリー」や「血のつながりなん
     か糞喰らえ」が活き活きとしていたのは、それだけ「旧家族」(地縁血縁に縛られている)
     の勢力がまだまだ根強かったからである。つまり「ニューファミリー」を創造しようとす
     る夢があった時代だからである。もちろん、海野の立場は、旧家族もニューファミリーも
     認めない立場である。これに対して、「さよなら」では、すでにそのようなニューファミ
     リーを構築するという夢は幻となっており、ユウコの思い(互いに好き同士になること)
     はユタカにはまるで通じない。もっとも、ユタカのようなタイプは昔からいたし、今後も
     いなくなるとは思えない。彼らは、遊び人、スケコマシ、女たらし、プレイボーイ、ジゴ
     ロ、ひもなどと呼称される男たちの類で、一生特定の女性を愛することなく過ごす人々で
     ある。海野にもその傾向があるが、ユタカほどニヒルではない。ただし、ユタカには何か
     新しいものを感じるので、そのような類の男たちとはまた別の人格なのかもしれない。も
     う少し考える必要があるだろう。これに対して、海野の方は典型的人物像なので、とても
     分かり易いのである。これも、時代の違いだろうか。
      「もっと」にはまだあった旧社会のしがらみは、「さよなら」ではさらに稀薄になって
     いる。古代ローマや第一次世界大戦後のドイツを持ち出すまでもなく、性的な自由の拡大
     は社会秩序の基盤を危うくする。すなわち、日本という国のこれからのさらなる変化を暗
     示しているのである。「もっと」で揺さぶりをかけられた社会の地盤は、「さよなら」で
     はすでに液状と化している。もう一度大きな揺り戻しが来れば、旧態依然の「家族幻想」
     はひとたまりもなく崩れ去るだろう。ただし、社会の方も黙っているわけではないから、
     ここで強力な楔が入るかもしれない。大正デモクラシー、エログロナンセンスと来て、軍
     国主義に至ったように。

 さて、1970年代の「閉塞感」は、21世紀を迎えて少し薄らいだのではなかろうか。最近、親子間の殺傷事
件が相継いでいるが、ひょっとするとそれは「過渡期」の徴候なのかもしれない。つまり、まだまだ人々に
「家族」というこだわりがあるのだ。このこだわりがなくなれば、親子同士で殺し合う「必要」もなくなる
はずである。淡々と生きるのに必要な関係に留めればそれで済むはずである。「家族はこうあらねばならな
い」とか、「セックスには愛が伴わなければならない」とかの幻想が薄らげば、人々はあまり苦しまなくな
るのでないだろうか。30年が経って、やっと新しい「人間関係」が兆しとして見え始めてきたのである。も
っとも、そのような考えに強い懸念を抱く人も多いだろう。しかし、小生としては、血のつながりを重視す
る人間関係よりも、考え方(生き方)の共通性を重視する人間関係の方が風通しがよいと思っているので、
人々がもっと大人になること(地縁血縁に頼らないこと)を願っている。「もっと」における16歳の彩子や、
「さよなら」におけるだいぶお年を召した有楽のママに、小生は一番の信頼感を抱く者である。彼女らには
妙な甘えが感じられず、孤高にさえ見えることがあるから。
 蛇足を少々。奥田瑛二(この作品では英二)はまだまだ下手であるが、なかなか愛嬌があってよろしい。
この勇一役は、若い頃の小生の行動傾向にも似ていて、少し気恥ずかしかった。高沢順子は「お魚になった
ワタシ」というTOTOの傑作CFガールで、とても懐かしかった。森下愛子も風間杜夫も、さすが生き残る人
は何かが違う。その他、『もっとしなやかに もっとしたたかに』には、梅津栄、真木洋子、加藤嘉、蟹江
敬三、根岸明美、絵沢萌子などが出演していた。また、勇一が勤める運送屋が「ムトウ運輸」というのも、
何か妙な感じがした。さらに、海野は大学院生にしてホスト業を営む青年という設定であったが、持ち歩い
ている本がメルロ=ポンティの『知覚の現象学』というのには笑った。その他、子育ての問題、高齢者介護
の問題など、時代を先取りした問題がこの作品の背景から垣間見えた。なお、勇一は自動車に轢かれて死ぬ
が、それをパトカーに設定したところに藤田敏八の渇いたユーモアを感じた。
 『さよならみどりちゃん』の出演者に関しては、上記の佐々木すみ江しか知らなかった。なお、作品の中
で古いものが顔を出したとき、そこに突然「新しさ」が見えることがある。荒井由実(現 松任谷由実)の
「14番目の月」もその類で、とても新鮮に聴くことができた。これは不思議な現象である。


 某月某日

 邦画のDVDを4本観たので、その感想を少々。先ず1本目は『松川事件』(監督:山本薩夫、松川事件劇
映画製作委員会、1961年)である。 戦後の混乱期、三大鉄道事故として、「三鷹事件」、「下山事件」と並
んで、「松川事件」がある。当該作品はこの事件を正面から扱っており、主として「冤罪」の側面から描い
ている。冒頭で、「全国くまなく集められた松川映画をつくろうという会員券の結晶がこの映画を産みまし
た」とある。1949(昭和24)年から13年にも亙る法廷闘争がこの映画の中心部分をなしている。第一・第二
審で有罪であったが、この映画がつくられた二年後の1963(昭和38)年、最高裁で全員無罪が確定している。
映画の中で事件の概要が語られているので、聞き取った限りを下に写そう。

  昭和24年8月17日未明、福島県松川駅近くで、旅客列車が脱線転覆、乗務員3名が機関車の下敷きに
 なって死亡するという事故が起こりました。午前3時9分頃、東北本線青森発上野行きの旅客列車が、
 福島駅を過ぎて松川駅に近いカーブにさしかかったとき、突然轟音とともに脱線、寸時にして目を覆
 う惨事が繰り広げられました。この事件に対して、翌18日、増田官房長官が記者会見を行い、「これ
 はけして偶然に起きた事故ではない。明らかに計画的に仕組まれた犯罪である。最近、三鷹事件を初
 め、各地において頻々と起きている列車妨害事件と、その思想的底流において同じものである」と発
 言しました。事故直後より、この談話に沿って捜査が行われ、背後関係として、とくに思想関係の追
 及が行われていますが、今後の捜査方針とともにその成り行きが注目されています。この事件は、い
 ずれにしても、脱線の状況から、計画的に集団で行われた犯罪であることは誰の目にも明らかです。

 事実は事実であってそれ以外の何ものでもないが、映画を観ている限り、警察の捜査の杜撰さと検察およ
び裁判所の不手際が目立つようなつくりになっている。たとえば、取り調べに際して、警察、検察ともに、
「拷問」、「誘導」、「強迫」、「甘言」等が幅を利かしていては、不快にならない人は少ないだろう。ま
た裁判官の態度にも問題がある。第一審で判決が言い渡されたとき、5人の被告人が死刑判決だったにも拘
わらず、高倉陪席裁判官はニタニタ笑いを漏らしていたのである。これでは、たまったもんじゃないだろう。
それに比べて、弁護団の颯爽とした答弁と、被告人の真摯な態度が浮き彫りにされている。このようなあか
らさまな対比は、目的が「冤罪」晴らしであるから致し方がないだろう。これを客観的な観点からつくろう
とすることは、どだい神でもない限り不可能だからである。第一審で全員有罪であった20人の被告人のうち、
第二審で3人が無罪になるが、それぞれ第一審では、無期懲役、懲役15年、懲役12年であった。この違いは
どこから来て、どう解釈すればよいのだろう。結局全員無罪になるが、この事件のきわめて特殊な事情がそ
のような成り行きを許したのであろうとしか考えられない。いろいろな発言があったが、その中で大事だと
思われる発言を抜き書きしておこう。脈絡を無視するが、ご海容いただきたい。

  昭和二五年二月十三日
  裁判所は不思議な決定
  をした
  それは被告人赤間勝美
  を他の共同被告人十九名
  から分離した検察官証人
  として喚問するという
  決定であった

 以上のような文字が示された後のいくつかの発言

 「被告人を証人とすることは法律に認められておりません。自分が有罪判決を受ける虞のある場合は、
  証言を拒み得るような、そういう証人の適格のない被告人を証人とするようなことは、これは明ら
  かに脱法行為である。決定の異議を申し立てます」(岡林弁護人の発言)。

 「私は長い間弁護士をやってきましたが、こういう姑息な証拠採用に関係したことがありません。こ
  れは裁判長が真実の発見以外に何か抱いているものと考えます」(弁護団の一人の発言)。

 「たとえそれが共同被告人であっても、事実を知っている限りは、証人適格があるということは、検
  察官従来の主張でありまして、被告人赤間勝美を分離して、証人として取り調べることは許される
  のであります。裁判所がこれを分離されたことは当然であり、異議の理由はないものと思慮します」
  (検事の発言)。

 さらに、以下のような発言が耳に残った。

 「裁判所は議論を致しません」(裁判長の発言)。

 「警察っちゅうところは、ウソをいうためにあるんですか。また、ウソをいわせるためにあるところな
  んですか」、「警察っちゅうところは、人をいじめたり、自分の都合の悪いところは、覚えてないと
  か、忘れたと言って、ウソをつくところですか」(いずれも、被告人赤間勝美の発言)。

 「政治や思想や信仰が違うというだけで死刑にされては、これは実に大変なことでありますから、皆さ
  んの弁護を引き受けることに決心しました」(政治的には保守的立場にある弁護士の、第二審の判決
  が言い渡される日の発言)。

 宇野重吉が岡林弁護人を演じているが、すごい迫力であった。その他、福島警察署の吉田部長を演じた西
村晃や、司検事に扮した多々良純、第二審の藤木裁判長を演じた加藤嘉などが印象に残った。なお、赤間勝
美に扮した小沢弘次も熱演であった。さらに、宇津井健(大塚弁護人)、北林谷栄(被告人武田久の母シモ)、
下元勉(弁護団の一人)、殿山泰司(警察署長)、稲葉義男(刑事)、名古屋章(赤間勝美の兄)、山本学
(冤罪阻止運動を行っている学生)などが出演していた。なお、最後に以下のような文字が示されていた。

  その后検察官が隠して
  いた「諏訪メモ」が発見され
  昭和三十四年八月十日
  最高裁はこの事件を
  仙台高裁に差し戻し
  た. そして
  その判決の日は
  せまっている.

 2本目は『ハッシュ!』(監督:橋口亮輔、シグロ、2001年)である。上記の『松川事件』とは質がまっ
たく違うが、これも重たい映画である。基本的図式としては『きらきらひかる』(監督:松岡錠司、フジテ
レビジョン、1992年)と同じく、男性の同性愛カップルに一人の女性が絡むという筋である。狛江市に住む
歯科技工士の藤倉朝子(片岡礼子)は、端から見ると「自堕落」と看做されかねない日々を送っている。ア
パートの部屋は散らかし放題、男性関係も行き当たりばったりで、これまで二人の胎児を堕ろしている。一
方、何かよく分からない仕事(人工的な波を起こして、その水面に船を浮かべ、何かデータを取っていると
いう仕事)の技師をしている勝裕(田辺誠一)と、犬の美容師をしている直也(高橋和也)との、同性愛カ
ップル(映画の中では「ゲイ」という言葉を遣っている)がいる。ときどきは喧嘩もするが、互いに気を遣
い合っておおむね仲がよい。この三人がそば屋で知り合い、やがて「家族」をつくろうとするまでの物語で
ある。
 子宮に異常が見つかった朝子は、急に自分の子どもを欲しがるようになるが、結婚によって縛られたくは
ない。そこに、女性には興味のないゲイ(勝裕)が現れたことをきっかけに、「この人の子どもを産みたい」
と思うようになったのである。現在、生殖技術の発達によって、配偶者間の人工授精は可能になった。した
がって、形式上婚姻すれば子どもをもつことは可能であろうが、朝子が考えている方法は、スポイトで精子
を採取し、それを膣に注入するという方法である。素人目にも無理なような気がするが、本人は案外真面目
である。しかし、当然のごとく、周囲はこのような発想を許すはずがない。勝裕の義姉(秋野暢子)や直也
の母(冨士眞奈美)などはその急先鋒である。また、勝裕に入れ上げているストーカー女性(つぐみ)など
も絡んで、なかなか困難な状況である。しかし、すべてが反対者ばかりではない。勝裕の兄(光石研)やそ
の娘(役者名不詳)はむしろ彼らの応援に廻っている。最後の方で、この兄は交通事故であっさり死ぬが、
義姉のその後の態度が批判される流れになっている。つまり、映画のメッセージとしては、新しい考え方の
方に軍配を上げていると言えよう。家族観の変遷をつぶさに描いた傑作であると思う。肌理の細かい演出の
できる橋口亮輔という監督に、今後とも注目したい。
 3本目と4本目は定番の寅さん映画。第35作目の『男はつらいよ・寅次郎恋愛塾』(監督:山田洋次、松
竹、1985年)から感想を記そう。マドンナは、長崎県出身の写植オペレーター江上若菜を演じる樋口可南子
である。寅さん自身もこの女性に恋心を寄せるが、後半は彼女に首ったけの司法浪人生である酒井民夫(平
田満)の応援に廻るという筋書である。コメディタッチなので見過ごしやすいが、「純粋な恋は人を死なせ
る場合がある」ことを改めて考えさせられた。また、タコ社長の娘あけみの「人妻になって初めて寅さんの
魅力が分かった」という、次作につながる発言が面白かった。なお、本筋とは直接の関係はないが、若菜の
再就職に絡んで、企業側の女性差別的な面接者が出てくる。彼らの発言を聞いていると、若菜同様不愉快に
ならざるを得ない。学生からの取材によると、いまだにそのような発言をする面接者がいるそうなので、何
か改善する方法はないものか。若菜の祖母役として初井言栄が、民夫の先生役として松村達雄が、それぞれ
出演している。お馴染みの関敬六(ポンシュウという通り名のテキ屋仲間)や杉山とく子(若菜や民夫の住
むアパートの大家)も好演している。
 第36作目は『男はつらいよ・柴又より愛をこめて』(監督:山田洋次、松竹、1985年)である。マドンナ
は2度目の登場の栗原小巻(第4作目以来。このときは幼稚園の先生役で別人)である。真知子という名前
の、離島の小学校の先生役である。物語は、タコ社長(太宰久雄)の娘であるあけみ(美保純)が家出した
ところから始まる。それを寅さんが、昔のダチ公(笹野高史)の力を借りて伊豆の下田で発見する。その後、
直ぐには帰りたくないあけみが、式根島に渡ることを提案する。それに寅さんが従って、二人で島に渡って
からの騒動が本筋となる。いくつかの物語が微妙に絡んで楽しい一篇だった。壺井栄の名作『二十四の瞳』
を上手に取り込んでおり、かつての教え子から自転車を贈られるシーンもあって、松竹の大先輩である木下
恵介に向けた山田洋次のオマージュにもなっている。教え子として、アパッチけん(現在の中本賢)や光石
研らが出演している。なお、だんだんと成長してきた満男の台詞が面白かったので、以下に記しておこう。

 「俺、分かるよ、あけみさんの気持。おじさんのやることは鈍臭くて、常識外れだけど、世間体なんか
  全然気にしないもんなァ。人におべっか使ったり、お世辞言ったり、おじさん絶対そんなことしない
  もんなァ」。

 また、寅さんは真知子に独身であることを見破られ、「本当に若者に見えた」と言われるが、それも彼の
面目躍如といったところだろう。なお、この作品には無骨でぎこちない人物が何人か出てくる。それは、あ
けみに淡い恋心を抱く式根島の青年茂(田中隆三)であったり、真知子を恋い慕い、ついに結ばれることに
なる酒井(川谷拓三)であったりする。こういう山田作品の特徴が、人をほっとさせるのであろう。なお、
これは蛇足であるが、この作品では、ネクタイをした寅さんを見ることができるし(写真姿)、一瞬ではあ
るが、あけみの湯浴み姿にもお目にかかれることを付け加えておく。


 某月某日

 昨日予告篇を書いた『悪党』(監督、新藤兼人、東京映画=近代映画協会、1965年)について感想を記そ
う。物語はきわめて単純で、足利尊氏の執事である高師直(小沢栄太郎)が、侍従[小生の耳にはそう聞こ
えた](乙羽信子)から教わった「顔世(かおよ)」という名前の絶世の美女(岸田今日子)にうつつを抜
かし、その夫(木村功)から奪おうとした顛末を描いたものである。話の筋は全然違うが、『羅生門』(監
督:黒澤明、大映京都、1950年)や『桜の森の満開の下』(監督:篠田正浩、芸苑社、1975年)を連想した。
高師直役の小沢栄太郎は、顔世の湯浴みを覗いたり、恋文を兼好法師(宇野重吉)に書かせたり、顔世の夫
を謀反人に仕立て上げたりして、戎武者の厚顔無恥を演じ切っており、さすがの貫禄であった。顔世の台詞
「女は悲しうございます。主(ぬし)の一存でどちらへでもやりとりされるのですから。自分があってない
ようなもの」や、侍従の台詞「御前(ごぜん)、百万の軍勢で攻めようと、人の魂は取れませんな」が決ま
っていた。それにしても、乙羽信子は化物だね(もちろん、褒めているつもり)。どんな役でも御茶の子さ
いさいなんだから……。


 某月某日

 『悪党』(監督、新藤兼人、東京映画=近代映画協会、1965年)を観ている。「観た」ではないのは途中
で鑑賞を中断したからである。それでは観終わってから感想を書けばいいのであるが、その露払いとして、
物語の背景を記しておいた方がよいと判断したので、そうすることにした。「悪党」のタイトル文字が出た
後、「十四世紀」の文字が浮かび、東野英治郎の声で、以下のような解説が入る。

  日本歴史の中で、この時代は最も意義深い。古いものに新しいものが交替した時代であった。古いも
 の、すなわち、貴族社会の古代秩序に、新しいもの、叢の中から出てきた民衆の活気に満ちたエネルギ
 ーが代わろうとした時代であった。それは権力と抵抗、力と力の激突であった。農民を背景に、下層武
 士階級の「悪党」が澎湃と各地に起こった。打ち続く戦乱、京の都は灰燼に帰して飢餓の巷となる。新
 しい歴史が擡頭を始めたが、乱世はいつ果てるとも知れなかった。朝廷は北朝と南朝に分裂して、激し
 く対立抗争した。南朝は後醍醐天皇を中心に吉野の山深く立て籠もった。権威の失墜を食い止めようと
 する絶望的な行動であった。軍事的にこれを扶けたのは、河内の悪党、楠兵衛之丞正成であった。金剛
 山の麓、赤坂千早の峻険に、少数兵力をもって籠もり、巧みな山岳ゲリラ戦を展開した。足利尊氏は南
 朝に対抗して、北朝を主張した。関東足利から起こった武家の頭領で、新興勢力を推進する指導的中心
 人物であった。彼は鋭く政治を掌握し、執拗に古い秩序に挑戦した。武蔵守高師直は、足利尊氏の執事
 として、まさに幕僚第一級の実力者であった。尊氏を扶けて、関東の叢から兵を起こし、たちまち北条
 の都を戎武者の馬蹄に蹂躙する。一旦破れては九州に下り、再び兵を整えて都に攻め上り、先ず湊川に
 楠正成を伐つ。戦塵をくぐること十数回、まさに乱世が生んだ実戦行動的な軍事家であった。彼はこう
 嘯いた(『太平記』より)。

 「都に王という人間がいて、多くの領地をもち、内裏や院の御所とかいうものをもっているそうだが、
  どしてもなくてはならぬ道理があるのなら、木か金(かね)で人形を拵えておけばよかろう。生き
  ている院だの国王だのは七面倒だから、どこへでも流し捨ててしまおうではないか」。

 さて、高師直を演じる役者は小沢栄太郎である。その恋い焦がれる相手である「顔世」を演じるのが岸田
今日子であり、その他、乙羽信子、木村功、殿山泰司、宇野重吉、高橋幸治などが出演している。谷崎潤一
郎の戯曲「顔世」を脚色した時代絵巻、新藤流「集団創造」の作品である。


 某月某日

 父親が亡くなって一月が過ぎた。この間、彼はどんな人物であったかを度々考えた。小生とは接点の少な
い人で、彼の考え方と合わずに衝突したこともしばしばあった。晩年の衰えゆく姿を見て、少しばかり感傷
も生じたが、基本的には敵対的な関係をつづけてきたと言える。それゆえ、『ブラザーフッド』で描かれて
いるような、麗しい親子関係は小生には無縁である。儒教的な教えが浸透している韓国にあっては、父母を
大事にすることは当たり前なのかもしれないが、小生は父母を特別視することに懐疑的である。たしかに、
家族は大事であろう。しかし、その考えを普遍化してゆくならば、同じ民族同士の殺し合いを肯定すること
はできないだろう。『ブラザーフッド』は、あくまで韓国側の視点から描かれているので、北朝鮮軍はどこ
までも悪者にすぎない。したがって、彼らを殺すことにためらいがないのだ。しかし、殺される者にも家族
はいるのである。家族愛を崇めるとすれば、どうして敵とは言え人を殺すことができるのだろうか。大いな
る矛盾である。小生は今後、父親の魂の救いは何処にあったのかを考えてみようと思っている。それが亡び
た敵に対する礼儀であろう。


 某月某日

 『ブラザーフッド』(監督:カン・ジェギュ、韓国、2004年)を観た。1950年に勃発した朝鮮戦争を舞台
にして、チャン・ドンゴン(ジンテ)とウォンビン(ジンソク)の兄弟愛を謳いあげた作品である。CGを
駆使した映像づくりには迫力があったが、それと同時に映画の限界も感じざるを得なかった。つまり、段々
と白けてくるのだ。もっとも、演技者はそれぞれ上手で、「限界状況」にある人間の表情をこれでもかとい
うばかりに画面に叩きつけていた。ジンテの婚約者ヨンシン(イ・ウンジュ)が殺されて、穴に投げ込まれ
るシーンがあるが、『アマデウス』(監督:ミロス・フォアマン、米、1984年)でモーツァルトが同じよう
にされるシーンを思い出し、何とも悲しい気持になった。死者を物のように扱うことが胸に応えるからだと
思う。ところで、10月から韓国語を学ぶ予定であるが、映画を学習に活用できればよいが、と思っている。

                                                   
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