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日日是労働セレクト8
 以下に、「日日是労働」のダイジェスト版・第8弾を掲げます。直ぐ下の記事がこの「日日是労働セレク
ト8」の中では最も新しい日付のものです。つまり、読み進めるほど、古い記事になります。ただし、いち
いち明示しませんが、後日に行った加筆訂正を含んだ日があります。日誌ですから、少なくとも後日に加筆
することは御法度であるはずですが、「某月某日」ということもあり、記事内容の充実を優先させました。
ご了承ください。また、頑張って「辛口」の批評を展開しようと務めておりますので、本文に何かと読者の
お気に召さない表現等が散見されるやもしれませんが、特定の個人、団体等を誹謗中傷する目的は一切あり
ませんので、どうぞご理解ください。


 某月某日

 『海は見ていた』(監督:熊井啓、「海は見ていた」製作委員会、2002年)を観た。原作:山本周五郎
(「何の花か薫る」、「つゆのひぬま」)、脚本:黒澤明の時代劇である。深川の岡場所を舞台にした物
語で、遊女の切ない恋が主題である。お新という遊女がいる(遠野凪子)。ある夜、刃傷沙汰を起こして
この岡場所に逃げ込んできた若侍である井原房之助(吉岡秀隆)を匿うところから物語が始まる。菊乃と
いう先輩の遊女(清水美砂)が忠告したにも拘わらず、この若侍に惚れてしまう。どうも惚れやすい女ら
しく、この若侍に振られた直ぐ後にも半端者である良介(永瀬正敏)に同情してしまい、やがて恋に堕ち
る。房之助との恋の時には、同輩(つみきみほ、河合美智子)に熱烈なる応援を受けるが、これは遊女側
のとんだ勘違いで、悲喜劇とも言える結末を迎える。若侍が婚礼を控えているということが分かったとき、
つみきみほが演じている遊女(名前は不詳)が逆上する。お新が弄ばれたと思ったからである。しかし、
それはご隠居(石橋蓮司)の言う通り、遊女たちの勇み足であろう。観ているこちらとしては、どう展開
してゆくのだろうと思っていたが、なるほどそうなるのか、という話の運びであった。その次の恋の相手
は不幸な生い立ちの若者良介で、お新はこの若者に兄の二の舞(職人としてうまくいかず、将来を儚んで
大川に身投げしてしまった)を演じさせないようにといろいろと骨を折り、最後はハッピーエンディング
で幕を閉じる。それを取り持つ菊乃は妙な遊女で、ヒモのような存在であるやくざ者(奥田瑛二)に毟ら
れているが、最後には突き放す。しかし、洪水が始まったとき、このやくざ者は店の金を持ち逃げするこ
ともできたのに、なぜそうしなかったのか。菊乃に未練があったのだろうか。いずれにせよ、その辺りに
リアリティの綻びがあった。ただし、細かいところに少なからぬ面白さがあった。たとえば、遊女たちの
会話を一節書き取ってみよう。

 菊乃:「あたし、女将(おかみ)さんにこの家(うち)預けられたんだから、あたしが女将さんよ。
    あたし、女将さんの通りにやるわよ」
 遊女甲:「はいはい、客を気持好く遊ばせて、深入りさせず」
 遊女乙:「客が惚れても、客には惚れず」「銭金(ぜにかね)きちんと」
 両者揃って:「しまりよく、チントンシャン」

 また、菊乃のヒモ役の奥田瑛二もよかったが、それにもまして遊び客の一人(北村有起哉)がとてもいい
味を出していた。歌舞伎役者のような動きを披露するのであるが、その剽軽さが嬉しい。たしかこの俳優は、
『赤い橋の下のぬるい水』(監督:今村昌平、「赤い橋の下のぬるい水」製作委員会、2001年)に漁師役で
出演していたのではなかったか。このときも「うまい俳優だなァ」と思ったが、この作品で一遍にファンに
なった。赤丸付注目株である。さて、全体評であるが、ずばり「中の上」くらいか。話が少しまとまらなか
ったこと、個々の役者は上手なのだが(菊乃役の清水美砂はもちろんのこと、女将役の野川由美子、ご隠居
役の石橋蓮司なども、安心して観ていられる)、どうも今一つリアリティを感じなかったこと、などが不満
だった。時代劇なのだから、現代人の感覚を無視して、思い切り古風につくるべきではないだろうか。最近
の時代劇は現代劇とさして変わらないところに難点があると思う。


 某月某日

 昨日のつづきを少しだけ。寅さん映画の両作品ともに、マンネリを打ち破ろうとする工夫が見受けられる。
『男はつらいよ・翔んでる寅次郎』(監督:山田洋次、松竹、1979年)においては、「幸福」をめぐって世
代間にわだかまる考え方の擦れ違いが描かれ、『男はつらいよ・寅次郎春の夢』(監督:山田洋次、松竹、
1979年)においては、日米間に横たわる慣習上の相違が浮き彫りにされている。前者には、山の手(たとえ
ば、田園調布)の何の不自由もない生活を「よし」とする木暮実千代の世代と、それを疑問視して自立を図
ろうとする桃井かおりの世代との対立がある。後者には、「以心伝心」を尊ぶ日本人(寅さん)と、「言葉
による意思表明」を重んじるアメリカ人(マイケル)との間に、渡るに渡れぬ暗渠がある。もちろん、互い
の歩み寄りはあるが、双方ともに心から納得してるわけではない。もちろん、強引に合わせたところで、う
まくいきようがないだろう。むしろ、相互の違いを理解し合って、合わせられるところだけを合わせればよ
いのではないか。『社会学入門 ──人間と社会の未来』(見田宗介 著、岩波新書、2006年)にこんな話
が挿入されている。「アメリカ系日本人」を目指して来日していた留学生が、せっかくできた日本人の友人
に「いつアメリカに帰るのですか?」と訊かれるたびに淋しくなったそうである。もちろん、そのことだけ
が原因ではないが、結局彼は日本社会のシステムには受け容れられず、帰国を余儀なくされた由である。し
かも、ここで話が終わっていればまだしも、この本には、「アメリカに帰り、そこで自分の命を絶ちました」
と書かれてあった。何ともやり切れない話である。武力によるテロリズムはもちろん断固阻止すべきである
が、そのような目立つことだけに心を配ればよいわけでもない。「いつアメリカに帰るのですか?」という
何気ない言葉が、相手にはテロリズムと同等のダメージを与えることがあるから。結局、寅さんとマイケル
との間に橋は架からなかった。他方、その日本人同士においても、親の世代と子どもの世代とを結ぶ道路も
不通になりがちである。そう考えれば、両者ともに、「人間同士の意思の疎通を図るために必要なこととは
何か」という難問に挑戦し、悪戦苦闘した作品とも言えるだろう。


 某月某日

 休日に寅さん映画を2本観た。『男はつらいよ・翔んでる寅次郎』(監督:山田洋次、松竹、1979年)と
『男はつらいよ・寅次郎春の夢』(監督:山田洋次、松竹、1979年)である。簡単に感想を記しておこう。
 前者のマドンナは桃井かおり(入江ひとみ役)。ただし、寅さんの恋の対象と言うよりも、恋のアドヴァ
イジーという感じ。彼女の恋のお相手は布施明(小柳邦男役)であり、最初はひとみが邦男との結婚に疑問
を抱いて結婚式場から逃げ出して寅さんを頼るのであるが、結局は邦男の気持を察してハッピーエンディン
グとなる、という筋書である。桃井は「翔んでる女」を演じているわけであるが、今観るとむしろ「古風」
な感じさえ受ける。桃井の灰汁の強さがあまり出ていないからだと思う。したがって、作品としては成功し
ているとは言い難い。寅さんの「てめえ、さしずめインテリだな」という、例のお得意の台詞もあったが、
空回りをしていると思った。なお、喫茶店でひとみと邦男がお茶を飲む場面があるが、青年たちがインベー
ダーゲームをしているらしい音が傍らの席から聞こえてくる。たしか、このゲームは1979年に大ヒットした
はずで、時代を反映していて懐かしかった。また、笠智衆が歌うシーン(結婚式の会場)があり、これは意
外であった。通常、僧侶は「歌舞音曲」の忌避を戒律としているはずだからである。まあ、余興と取るしか
ないか。もちろん、レコード大賞歌手である布施明が歌うシーンも用意されており、さすがの貫禄を示して
いた。また、湯原昌幸が冴えない「スケコマシ」の役を演じている。彼は今頃どうしているのだろう。実は、
1980年代の初頭、テレヴィ局のバイトの関係で喫茶店で直にお話をさせていただいたこともあり、あの気さ
くなキャラは捨てがたいと思うのだが……。ひとみの母絹子役で木暮実千代が出演している。蛇足ながら、
小生の父親の好きな女優である。
 後者のマドンナは香川京子(高井圭子役)であるが、それよりも「アメリカの寅さん」とも言える、アリ
ゾナから来たセールスマンであるマイケル・ジョーダンの方が物語の中心にいる。ハーブ・エデルマンとい
う名前の喜劇俳優がその役を演じているが、なかなか哀愁があってよい。もっとも、この作品でしか知らな
いが……。圭子はいわゆる「未亡人」で、アメリカ帰りという設定である。その娘であるめぐみ(林寛子)
が英会話教室(柴又英会話教室)を開いており、現代的な明るいお嬢さんぶりを発揮している。この後、黒
澤明の息子(黒澤久雄)と結婚し、近年では、堂々とした発言によって貫禄を示す女性として知られている
が、この時点ではその片鱗はまだ現れていない。さて、寅さんはこの娘の母親である圭子に恋をするのであ
るが、この親子をとらや一家が夕食に招待した日の言動が面白い。まだ昼だというのに、寅さんはそわそわ
してまったく落ち着きがない。その辺りの台詞を抜き出してみよう。

 「今日は夜になるの遅いなァ」
 「なんだい、さっきから一時間も待っているのに、時計はまだ五分も経ってねェんだからなァ」
 「おい、源公、おい、お前そんなことしてないで、早めに鐘打って早いとこ夜にしろ、夜に」

 寅さんらしいシュールレアリズムである。なお、並行してマイケル(マイコさんと呼ばれているが)のさ
くらへの恋が進展するが、「インポッシブル」ということが分かったマイケルが何だか哀れである。寅さん
も圭子に恋人らしき人(石油タンカーの船長らしい)が現れてあっさり沈没する。梅野泰靖がその役を演じ
ているが、以前に博の長兄役を演じていたので、少し違和感があった。もっとも、松村達雄も「おいちゃん」
以外の役を何度も演じている(『男はつらいよ・翔んでる寅次郎』にも出演している)ので仕方がないか。
そういえば、以前沼津のお巡りさんの役を演じていた犬塚弘が、この作品では大工の棟梁(寅さんの幼なじ
み)を演じている。その他、今は亡き小島三児や殿山泰司が顔を見せており、それぞれいい味を出している。
寅さんが圭子に福寿草を贈るが、この花は西洋では「アドニス」と呼ばれ、ギリシア神話の二枚目に当たる。
寅さんがこのことを知ると、「今度は三枚目の花を買ってこよう」とのたまう。この台詞はさびが利いてい
てよかった。ただし、寅さんの茶の間における発言はやや浮いており、もっと練り上げる必要があったと思
う。マイケルと寅さんはアメ横で朝まで飲んで騒いでやがてお別れとなるが、最後の上野駅周辺の交差点で
のシーンが感慨深かった。小生も高校生の頃何度も渡った交差点だからである。なお、アリゾナに帰ったマ
イケルが、ガソリンスタンドの店員にさくらの写真を見せる場面があるが、店員がさくらを「インディアン
の娘」と見立てる辺りは、今日ではきわどいか。また、つねの「ノーテンファイラー」という台詞も、今日
では死語だろう。ところで、『男はつらいよ・寅次郎春の夢』は第1作から数えて24本目に当たり、全作品
のちょうど半分を観終わった勘定になる。ただし、そのうち何本かは再度の鑑賞であったが……。あと24本、
慌てず騒がずゆっくりと鑑賞していこうと思う。


 某月某日

 『肉体の門』(監督:鈴木清順、日活、1964年)を観た。例によって歴史的な言葉(つまり、今は問題の
ある言葉)が出てくるが、ご寛恕願いたい。田村泰次郎原作の映画で、何度もリメイクされている。本作品
もリメイク作品のひとつであるが、その評価は高い方らしい。他のリメイク作品である『肉体の門』(監督:
五社英雄、東映京都、1988年)も観ているはずであるが、よく覚えていない。作品の中で、西川峰子(何の
役かは不詳)が私刑にあっていたような気がする。五人の娼婦と一人の復員兵の物語であるが、とりあえず
配役を書き出しておこう。復員兵の伊吹新太郎役が宍戸錠、小政のせん役が河西都子、ふうてん町子役が富
永美沙子、ふうてんお六役が石井富子、ジープのお美乃役が松尾嘉代、そして、ボルネオ・マヤ役が野川由
美子である。石井富子という女優は何度も観たことがあるが、名前を知らなかった。河西都子と富永美沙子
はまったく知らなかった。この作品でしか観たことがないかもしれない。その他、阿部という名前の若い衆
役に和田浩治、阿部の兄貴分である石井役に野呂圭介、彫師の彫留役に玉川伊佐男といったところが馴染み
の俳優陣である。敗戦直後の東京が舞台であるが、リアリズムを追求する作風ではないので、演劇を観てい
るような感じがした。各々の演技が大袈裟だからであろう。一応、ラクチョウ(有楽町)から勝鬨橋までが
縄張りの街娼グループを形成しているという設定である。崩れたビルの瓦礫の中が住まいだが、惨めさは微
塵もなく、むしろ逞しさにあふれている。時代背景を示すための演出も、定番ではあるが清順流のユーモア
が滲み出ている。アメちゃん払い下げのシチューからコンドームが出てきたり、トラックの荷台での集団売
春シーンでトラックの揺れが半端じゃなかったり、牛を殺して食べてしまったり、売春の相場(40円)が牛
肉100匁と同額だったり、蒸かし芋を奪うのに命懸けだったり、新太郎がボルネオ・マヤと結ばれる直前激
しい戦争のシーンが挿入されていたり、両腕に何個も売るための腕時計を巻いている男が出てきたり、強奪
したペニシリン(実はガセネタ)が高額で取り引きされたり、次から次へとアイディアが飛び出してきた。
また、圧巻は次のシーンである。それぞれの娼婦には決まった服色があって(和服の町子を除く)、小政の
せんが「赤」、ふうてんお六が「黄」、ジープのお美乃が「紫」、ボルネオ・マヤが「緑」である。新太郎
をめぐって娼婦たちが牽制し合うとき、それぞれの服色が背景とともにコーディネイトされて、画面一杯に
それぞれの色が拡がるシーンがそれである。さすが「清順美学」とうならせるものがあり、単純ではあるが
効果は絶大であった。また、例によって実際の時空間を無視した映像にあふれており(鬼の面を被った新太
郎が一瞬映るシーンなど)、この種のものがダメな人には違和感を覚えさせられるだろうが、小生は清順と
波長が合うので、実に楽しかった。「みんな呪うんだ」、「色気と食い気のために生き抜くんだ」などの言
葉は少し上滑りしているが、それも愛嬌か。また、チコ・ローランド演じる黒人牧師の位置づけもよく分か
らず、全体の流れにはまだまだ洗練の余地があると思った。なお、隠語が頻出しており、ノビ(忍び込み)、
カツアゲ(恐喝)、ハイクル(自転車のかっぱらい)、タタキ(強盗)等、その他ここに書くことをちょっ
と躊躇わせる物騒な言葉が飛び交っていた。もっとも、ノビやハイクルは初耳であったが……。新太郎がパ
イカン(パイナップルの缶詰)のパイナップルをうまそうに喰らっていたが、小生の父親の大好物でもある
ので、何かあの世代の郷愁を呼ぶ食品なのかもしれない。ボルネオ・マヤ(野川由美子)への私刑シーンは
後の語り草になったそうで、新人女優とは思えないほどの気合が入っていた。宍戸錠も独特の雰囲気を醸し
出しており、それなりによかった。作品全体に当時の流行歌が流れているが、とりわけ「星の流れに」(作
曲:利根一郎、作詞:清水みのる、唄:菊池章子、1947年)が突出している。歌詞を書き出しておこう。

 星の流れに 身を占って
 何処をねぐらの 今日の宿
 荒む心で いるのじゃないが
 泣けて涙も 涸れ果てた
 こんな女に誰がした

 煙草ふかして 口笛吹いて
 当もない夜の さすらいに
 人は見返る わが身は細る
 街の灯影の 侘びしさよ
 こんな女に誰がした

 飢えて今頃 妹はどこに
 一目逢いたい お母さん
 唇紅(ルージュ)哀しや 唇かめば
 闇の夜風も 泣いて吹く
 こんな女に誰がした


 某月某日

 『砕かれた神 ある復員兵の手記』(渡辺清 著、岩波現代文庫、2004年)を読んだ。現在行っている講義   
(「倫理思想史」と「基礎倫理学」)に大いに関係する本で、それなりに勉強になった。戦前の植民地問題、
家族制度問題を考える上で、どうしても「天皇制」に関する考察を避けることはできないからである。戦争
中「天皇の赤子」を自認していた著者の戦後の変貌ぶりをどう考えるかが焦点であるが、その点をゆっくり
と考えてみたい。なお、この著者は小生の父親とほぼ同世代なので、個人的にも無関心ではいられない。ま
た、戦後日本の倫理観の変遷についてもいろいろ刺激になる記述があった。日誌というかたちを取っている
ので、その意味でもごまかしが少なそうである。


 某月某日

 一頃よくテレヴィで放映されていた広告に、「一・二級茶葉のみ限定使用」という謳い文句の烏龍茶の宣
伝があった。これは他社との差異を強調する典型的な広告で、おそらく「高級感」を狙ったものである。し
かも、広告に用いているタレントは知的な二枚目で売っている俳優で、その点でもいわゆる「説得力」があ
ったと思われる。しかし、ここで少し考えてみると、一級の茶葉と二級の茶葉の割合はどうなっているのか、
という素朴な疑問に行き着く。製造元はその点を明らかにしていない。たとえば、その割合が、一級0.5%、
二級99.5%でも、先程の記述に誤りはない。さらに、烏龍茶の等級が一級と二級だけだったら、広告文で述
べられている「限定」という言葉は無意味となってしまう。製造元でもその点を気にしたのか、あるいは戦
略的なものなのか、次の広告コンセプトでは、「一級の茶葉の割合を増やしました」だった。しかし、どの
くらい増やしたのか、まったく明らかにされなかった。つまり、0.05%ほど増やしても、記述に誤りはない
のである。ポッキーの宣伝で、愛想で「0.5ミリ長くしました」というのとはわけが違う。もっとも、この
烏龍茶の広告にはさらに先があって、「一級茶葉のみ使用」というものに変わった。これで初めて紛れのな
いのものとなったのである。しかし、かなり前の話であるが、今でも有名なメーカーの商品に「レモン果汁
100%使用」を謳いながら、その実、すべて化学的な合成物だった、という素直には笑えない商品もあった
ので、この謳い文句も完全に信用することはできない。
 また、ビールに「一番絞り」というのが売りの商品があるが、元々ビールは一番絞りと二番絞りの二種類
しかないのだから、それほど強調することもないと感じる人もいるだろう。もっとも、あの商品は小生もう
まいと思うが……。ビールを例に出したので、ついでに触れるが、Aビールという会社の大ヒット商品であ
る「スーパードライ」に対抗して、Sという会社が「マグナムドライ」という商品を発売したが、いつも自
社の名前を強調するくせに、この商品の場合はそれをしなかった。うがったものの見方をすると、紛らわし
さを狙ったものとしか感じられなかった。しかしながら、Aビールも負けてはいなかった。Sのこれまたヒッ
ト商品である「モルツ」に対抗して「スーパーモルツ」という商品を売り出したのである。これも、紛らわ
しさを狙ったものであろう。今日風に言うと、リベンジというわけである。このように、販売合戦は熾烈を
極めるが、一消費者としては、やはり宣伝文句に惑わされることなく、自分が本当に求めているものを見極
めたいものである。
 また、烏龍茶に関する商品についての話であるが、ある製造元の烏龍茶(今では消えたようである)は、
紙パック製で、昭和60年当時150円であった。そして、表示に、ミネラル・ウォーター使用とあった。同じ
製造元の同じ紙パック製のミネラル・ウォーターも、やはり150円だった。そうすると、お茶代は只という
勘定になるが、これも小生が経験した変な商品の例である。なお、そのメーカーは、いわゆる一流である。
ミネラル・ウォーターで思い出したが、ミネラル・ウォーター使用のシャンプーという商品があったが、
あれなどもなぜミネラル・ウォーターを使用する必要があるのか分からない商品の一つである。何でもミネ
ラル・ウォーター使用と謳えば売れる、と思ったのであろうか。また、さらに、リンス・イン・シャンプー
と、シャンプー・イン・リンスとは、いったいどのような違いがあるのだろうか。単に物珍しさを狙った商
品ということで片付けてよいのだろうか。
 さらに、いわゆる「類似品」についての話を少しだけしてみよう。小生は、ボン・カレーによく似たサン・
カレーという商品を見たことがあるし、グリコのパッケージによく似たゼリコのキャラメルという奴にもお
目にかかったことがある。見るだけなら面白がってそれで終わりであるが、買ってしまってから、有名な商
品に似せた類似品であることに気付いたこともままある。たとえば、ママ・レモンという台所用洗剤の似て
非なるものであるマスマス・レモンというのがそれで、汚れ落ちがすこぶる悪いので、しばらく使っている
うちに気付いた。マスマスの「ス」の字が非常に見えにくいかたちで書かれていたのである。さらに、コカ・
コーラによく似たパレード・コーラという珍品を飲んだこともある。これらは、言葉やその他の特徴の紛ら
わしさを利用しようとした作戦から生まれた商品であろう。かなり以前に、「ベスト・テン」という人気歌
謡番組があったが、それに似せて「トップ・テン」という、やはり同じ歌謡番組をつくった人がいた。きっ
と、その番組のプロデューサーには、類似品販売作戦と似たようなことをしたという自覚があったと思われ
る。以前に存在した「テンベストショー」というのも、歌謡番組ではなかったが、似たようなものであろう。
 また、NTTが、「電話はやっぱりNTT」というテレヴィ・コマーシャルをやっていた頃、「電話設備を全
国津々浦々に至るまで敷設したのはわがNTTである」という点を盛んに強調していたことがあったが、あれ
も視聴者にすれば、「正確に言うとそうじゃないだろう」と言いたくなるような広告だった。というのも、
電話の設備を全国に敷設したのは、半官半民(日本国有鉄道・日本専売公社・日本電信電話公社は、それぞ
れ、JR、JT、NTTに生まれ変わったが、それ以前は、三公社の一つだった。ちなみに、それらと似たような
立場の五現業は、郵政・国有林野・印刷・造幣・アルコール専売の各事業部門である。三公社はすべて民営
化され、アルコール専売は新エネルギー産業技術開発機構に移管された)の「電電公社」であって、けっし
て民間企業になったNTTではないからである。電話敷設には、かなりの額の公金が使用されていることを忘
れてはならないだろう。
 これも。古いCFであるが、「サクロン」という薬の宣伝があった。あのコマーシャルは、出演者の女性が
おかしな論法を用いながら、視聴者にある種の面白さを味わわせてくれた。それは、こういうものである。
「あの薬なんだったけなァ」という男性の言葉を捉えて、薬の名前を教える代わりに、「じゃあ、結婚して」
という条件を女性が出す。ところで、何が「じゃあ」なのだろうか。また、薬の名前はその後も教えられる
ことなどなく、「あの薬なんだったけなァ」と問うたびに、女性の両親との同居、その家の家業(たしかお
風呂屋さん)を継ぐことなどの条件へとエスカレートしてゆくが、最後までこの男性には薬の名前が分から
ない、というものだった。NTTは視聴者(この場合は、小生)を不愉快にさせ、サクロンは愉快にさせたと
いうわけである。この違いはどこから来るのだろうか。
 また、こんなCFがあった。あるファイナンス会社のCFである。たしか、バンクーバーの人口が何万人であ
るという事実を語った後で、「偶然ですが、これは我が社が貸し付けした人の数と同じです」というもので
あった。おそらく、バンクーバーの人口と借金した人の数の因果関係などないと言ってよいだろう。つまり、
これは、バンクーバーの爽やかなイメージを利用した妙なCFなのである。ま、しかし、それを楽しめる余裕
があれば、別に目くじらを立てるほどのことはないかも知れないが……。ところで、最近のファイナンシャ
ル会社のCFが、女性とのデート費用やプレゼント費用を男性に捻出させることを主眼としたものが多いこと
に気付かないだろうか。好きな女性とデートできるならば、借金などものの数ではないということかも知れ
ないが、「貢君」もほどほどにした方がいいと思う。また、ねだる側の女性も、相手の男性が本気だった場
合には気を付けた方がいいだろう。何と言っても、ストーカーに変身されたら、それこそ高くつくから。
 まあ、これは半分冗談であるが、次にこんな表現をどう思うだろうか。ある年(阪神がボロボロだった頃)
のプロ野球のセントラル・リーグを例に取ってみよう。「阪神、輝く六位入賞、それに引き替え、巨人はビ
リから六番目に終わった」という表現である。もちろん、セントラル・リーグが6チームから編成され、巨
人が優勝して、阪神が最下位だったということぐらいは皆知っているから、このようなまやかしの表現に引
っかかって、阪神というチームがなかなか健闘したのに引き替え、巨人は下位に低迷したなどと、勘違いす
る人などいないだろう。なるほど、このような「おふざけ」は愛嬌の部類に属するだろうが、ことが真面目
な報道ということになると、話はまったく違ってくる。
 たとえば、A君が突然B君を殴ったとする。B君は当然A君に抗議する。A君はその抗議を無視してまたB君
を殴ったとする。今度はさすがのB君も腹を立ててA君を殴り返したとする。それに対して、さらにA君が殴
り返したとする。またB君も仕返しにA君を再び殴り返したとする。さらに、これが幾度か繰り返されたとす
る。最初から最後まで現場の様子を見ていた人には、B君の行為はやむを得ないのではないかと判断するの
が穏当だろう。しかし、「昨日、B君は、A君を5回殴った」という報道があったとしても、全面的な誤りで
はないのである。ただ、経緯を正確に伝えていないだけのことである。しかし、この報道では、B君ばかり
が悪者にされて、ことの起こりの張本人であるA君は被害者ということになってしまう。非常に単純な例を
挙げたが、言葉を操作するとはこういうことである。詭弁や欺瞞がお遊びのうちはかえって日常生活を面白
くするが、それが悪質になると、共同体全員の倫理的問題となる。いわば、「洒落にならない」というわけ
である。
 たしかに、世の中は住み難い。しかし、その住み難さを少しでも解消することに努力を惜しんではならな
いだろう。そんな当たり前のことを、少しは真面目に考えてみたい。


 某月某日

 現代は、それぞれの人がさまざまな知識を自分の力で理解し、分析し、吟味して、それを十分に消化し、
自分のものにするという過程を省略する傾向にある。そのような知識は、他者に伝達することが簡単にはで
きないからである。そうではなくて、むしろ、他人の知識を「情報」としてうまく利用すること、自分の専
門外の領域は専門家に任せ切ることによって、あらゆる点で効率を図ることが求められている。つまり、自
分だけに通じる知識は知識ではなくて、他者に伝達可能な知識だけが知識と呼ばれているのである。科学技
術における知識もこのように制約された知識であり、今日では知識の典型のように思われているが、そもそ
もそれはここ数百年の傾向にすぎない。過去においては、知識はむしろ自分でこつこつと積み上げてゆくも
のであり、そのような気の長い修行を通して人格の陶冶を図るものであった。しかしながら、今日ではこの
ような人間の「熟成」を目指すことはなおざりにされている。したがって、人間の「促成栽培」も歓迎され
るところであり、時間をかけずに役に立つ人材を育て上げ、社会に送り出すことが今日の「教育」の目標に
すらなっている。しかし、このようにして企てられた世界は、個性の死骸が累々と積み上げられた世界であ
り、大量に生産された、同じ服、同じ食物、同じ味、同じ家屋、同じ町並みにあふれた世界であり、しかも
その世界の住人は皆同じ顔をしているといった没個性の世界でもある。たしかに、知識の速やかな実用化が
大事な領域もあるだろうが、そうではない知識もあることを忘れてはならない。そのような知識は直ぐには
役に立たない知識であるが、自分で長い時間をかけて練り上げたものであるから、付け焼き刃ではない本物
の知識である。いわば、その本人だけに特有の主体的な知識と言ってよいだろう。これに対して、知識の非
人格化と客体化だけを重視する限り、個性の枯渇につながるのは必然の道と言ってよいだろう。このような
観点からすれば、知識の伝達を自明のものと考えることこそ反省すべき事柄のひとつであることが分かるの
ではないだろうか。


 某月某日

 『娘・妻・母』(監督:成瀬巳喜男、東宝、1960年)で「おや」と思った箇所を寸評しよう。例によって、
時代的な言葉(現代では避けるべき言葉)が出てくるが、ご海容いただきたい。

 1.「戦後、女と靴下は強くなった」という台詞。今の若い人は知っているだろうか。
 2.映画の三本立てという興業形態は、少なくとも小生の子どもの頃は当たり前。たとえば、小生は
  「月島東映」という名前の映画館の常連だったが、他社作品を含めて三本立てが一般だった。この
  映画館には、当時の風物と言ってもよい、便所の臭いや煙草の煙、あるいは「おせんにキャラメル」
  の物売り等が揃っていた。昭和35年頃の中華そばの値段は30円から40円の間だったと思うので、映
  画代55円というのはそれよりも少し高い値段である。ともあれ、映画は庶民の一般的な娯楽だった
  はずである。
 3.「3,000円という香典は派手」という庶民感覚。
 4.女中さんに年齢を尋ねて「24歳」という答えが返ってくるが、これに対して、「あんまりのんび
  りとはできないわね」は、主婦(高峰秀子)の台詞。
 5.四十九日も済まないうちに「実家に帰れ」はひどいと思われる。これは大店(おおだな)の話で
  あるが、今でも通用するのか。
 6.「一軒の家にはしきたりというものがある。結婚したら幼稚園をやめるといったのは誰だ」とは
  姑の台詞。それを鬱陶しく感じる息子の妻(姑からすれば嫁)。姑は杉村春子、嫁は草笛光子。ど
  ちらも譲らない。嫁は別居を望み、それを受けて姑は養老院(老人ホーム)に行けばよいのだろう
  と毒づく。醜い喧嘩であるが、その間で右往左往する息子(小泉博)にはどうすることもできない。
  しかも、教師を職業としている以上、母親を老人ホームに入れては世間に対して言い訳ができない、
  といった台詞もある(これなど、輓近ではどうか)。また、「あれでも、勤評闘争には張り切るん
  だから」と揶揄されている場面もある。息子として、夫として、どうしようもない立場である。
 7.出戻った早苗(原節子)の年齢は34歳。「数えで言えば、36歳」という台詞がある。「数え年」
  など、若者は知っているのだろうか。
 8.「墓参りの帰りに食事をするとは……」とは上の世代(母の三益愛子)の台詞。若い世代(早苗)
  はあまり頓着しない。
 9.「手は人を表す」という説が話題になったとき、三女春子(団令子)が「それじゃ、私の手は」
  と母親に尋ねる。母(三益愛子)は、「裏も表も親不孝の手だ」と笑いながら愚痴をこぼす。春子
  もその通りだと応じる。
 10.「夫婦って陰険」、「夫婦は二世なんてばからしい」の台詞。早苗の「結婚は一度で懲りた」の
  台詞に、春子は「一度だけで?」と応じるが、母が「何度もするもんじゃないよ」と窘める。
 11.劇中、「還暦」の宴だけは和気藹々と催されている。ある講義で、学生に「還暦のお祝いに同席
  したことがあるか」と訊ねたら、「ある」と答えた者が何人かはいた。
 12.「この頃の嫁はお化粧が上手で……」という姑の台詞。「先生のくせに口紅なんか塗って」とい
  う台詞もあった。
 13.早苗の友人戸塚が早苗に対して、「(長男の妻の高峰秀子が)本当の悪人だったら、(早苗を)
  女中部屋なんかには入れない。悪人ならば(出戻り娘を)丁重に扱って、いたたまれなくして追い
  出す」という話をする。戸塚はその話を楽しんでいるようだ。早苗もあまり動じない。
 14.「あちら式」とか「西洋式」とかいう言葉。また、石鹸を「シャボン」と言っている場面あり。
 15.実家と婚家の「味噌汁の味が違う」という事態。結構こたえる。家によって、お茶の淹れ方も異
  なる。
 16.「やさしい≠意気地がない」は女性の男性批判。
 17.「私はファニーフェイス」、「春生まれたから春子だって、ばかにしてる」という春子(団令子)
  の言葉。
 18.「女って自信がなくなるわ、だんだん」という淡路恵子の台詞。
 19.兄弟、親子は他人。本当に他人になれればさっぱりする。
 20.「あなたのお母さんを赤の他人だと思えば、かえってうまくやっていけるわ」は高峰秀子の台詞。
 21.「早苗が一番親不孝」という母の台詞。ただし、裏返しの台詞。それに対して、早苗は、他の兄
  弟姉妹を評して、「正直なのよ、皆」と呟く。
 22.年下の男性(仲代達矢)からのプロポーズに対して、それをやんわりと断る早苗は、「私、くた
  くたになっていたの。のどがからからだったわ。あなたとお付き合いできて、いっぺんに元気が出
  たの。それでたくさんだわ」。端から見ていると、早苗の判断は正しいと思う。しかし、黒木(仲
  代)の気持も分からないではない。
 23.笠智衆の台詞「おばあさんはいい。おじいさんは駄目だ。今日も、息子の嫁に洗濯ひとつできな
  い、と怒鳴られた」が、少し哀しい。なお、高峰の洗濯シーンがあるが、手洗いであり、洗濯機は
  登場しない。ただし、宝田・淡路夫妻のアパートには、電気掃除機があった。
 24.この映画が封切られた年は1960年であるから、いわゆる「60年安保闘争」の年である。映画には
  その気配すら描かれていない。むしろ、見事である。「若き日は美しく 過ぎし日はむなし」や、
  「女の生きるきびしさかなしさをえがく──」が、公約通り実現している。

 さて、小生が若い頃だったら、多分面白いとは思わなかっただろうが、今観ると面白く感じられる。これ
も齢を重ねたからだろうか。


 某月某日

 『娘・妻・母』(監督:成瀬巳喜男、東宝、1960年)を観た。17大スター共演という触れ込みで、それな
りに力が入っている作品だと思う。井手俊郎と松山善三のオリジナル脚本で、細部に精彩があった。その大
スターを列挙してみよう。三益愛子、森雅之、高峰秀子、原節子、団令子、草笛光子、宝田明、淡路恵子、
仲代達矢、加藤大介、上原謙、笠智衆、杉村春子、中北千枝子、小泉博、北あけみ、太刀川寛の17人である。
最後の北と太刀川は知らなかった。大体の役柄を挙げておこう。坂西あき(三益愛子)が「母」であり、長
男が森雅之、その妻が高峰秀子、次男が宝田明、その妻が淡路恵子、長女早苗が原節子(劇中に夫を亡くす)、
次女が草笛光子、その夫が小泉博、その母(草笛から見れば姑)が杉村春子、三女春子が団令子、その恋人
が太刀川寛、高峰秀子のおじ鉄本(伯父か叔父かは不明)が加藤大介、早苗(原節子)にほのかな思いを寄
せる年下の男性黒木が仲代達矢、早苗の友人戸塚が中北千枝子、早苗の再婚相手(五条あるいは五條?)が
上原謙、近所のお年寄りが笠智衆である。北あけみは宝田の写真のモデル役か? 金銭に触れる会話が豊富
に出てくるので、それも記述しておこう。

 映画3本立て55円
 香典500円(相談もしないで派手なことをしたという香典が3,000円)
 三女春子(母、長男夫婦と同居)が入れている生活費が2,500円
 出戻ってきたときの早苗が実家に入れる生活費が5,000円
 早苗におりた生命保険料が1,000,000円
 長男夫婦の子どもが早苗にねだる小遣いが10円
 ボリュームのあるショートケーキが一個80円
 長男が早苗に借りるお金が500,000円
 次女が早苗に借りるお金が200,000円
 粉石鹸が一箱150円
 緑ヶ丘老人ホームの入所頭金が20,000円
 緑ヶ丘老人ホームの月々の払いが6,500円
 近所のお年寄りの子守のバイト代が一日70円
 坪40,000円の土地160坪で6,400,000円
 母の取り分がざっと2,130,000円
 子どもたちの取り分がざっと850,000円

 ……といったところである。子守のバイト代がショートケーキの代金よりも安いというのは泣けてくる。
さて、つづきは明日にしよう。


 某月某日

 「算砂(さんじゃ)の凡夫」という言葉がある。砂を数えるように経論の文字の穿鑿に明け暮れる仏教学   
者のことを指すらしい。哲学学者も似たようなことをやっている。小生も、かつてデカルトの用いた言葉の
穿鑿に明け暮れたことがあった。しかし、「言葉」の研究だけでは駄目だ。せめて「人間」を研究したい。
人間を研究することを通して、人間になりたい。……なんてことを書くと、片腹痛くなる。どうも真っ直ぐ
には歩けない。相当に疲れているのだろう。跛行につぐ跛行、蛇行につぐ蛇行、いわく、行路難!


 某月某日

 自分のゼミを紹介するための頁(学内には公開しているが、残念ながら、一般公開はしていない)に「好
きな○○」というコーナーを設けている。気紛れで更新しているが、その中に「好きな性格」という項目が
ある。たまたまその辺りを見ていたら、「鷹揚雑駁」と出ていた。「鷹揚」という言葉を『広辞苑』で引い
てみると、1.(鷹が空を飛翔するように)何物も恐れず、悠然としていること。2.ゆったりと落ちつい
ていること。大様(おうよう)。「──に構える」……とある。また、「雑駁」を調べてみると、雑然とし
てまとまりがないこと。「──な知識」……とある。自分に当てはめて考えてみると、前者は憧憬、後者は
実態といったところか。そんなわけで、気が付いたら図らずも生まれており、いつの間にか五十路を越えて
いた、という体たらく。このままぽっくりと往きたいところだが、それまで何をして過ごそうか。実は、図
書館で『日本映画史』(佐藤忠男 著、岩波書店)という4巻本を見付けたので、取り敢えずはそれで楽しむ
つもりである。彼はこのブログでも何回か取り上げた映画評論家で、邦画を長篇だけでも7,000本は観ている
そうである。小生はと言えば、ざっと見積もってもその10分の1くらいか。さすがその道のプロは違うね。


 某月某日

 『水のないプール』(監督:若松孝二、若松プロ、1982年)を観た。京都でセルDVDを発見して購入して
おいた作品である。以前からその存在を知ってはいたが、おそらく一生縁のない映画だと思っていたので、
旧作が続々とDVD化される昨今の風潮を喜ばしく思う。考えれば、もう24年も前の作品であり、しかもカル
ト的な映画なので、誰が再び世に出そうと思ったのか。たしかに、いわゆる「ピンク映画」の巨匠(若松孝
二)と、日本ロック界のカリスマ(内田裕也)のジョイント作品なので、それだけでも話題性はある。だか
らこそ、再び日の目を見たのであろうが、「時代の証言」という意味でもまた貴重な作品だと思う。また、
映像特典として、主演の内田裕也のインタビュー(2001年収録のもの)を拝聴することができ、それも楽し
いひとときだった。物語は、クロロホルムを用いて何十人もの女性を襲った男の実話に取材したもので、い
わゆる「性犯罪」が主題ではあるが、性そのものを追求した作品と言うよりも、時代の閉塞性を描いた作品
と言った方がよいだろう。惜しむらくは、共演の中村れい子の演技力が今一つで、主人公の妻役の藤田弓子
が芸達者だけに一層目立ってしまった。また、元ピンクレディのMIEは熱演していたが、タモリ、赤塚不二
夫、黒田征太郎等の素人連中は、やはり浮いてしまう。沢田研二が演じるやくざ者は面白かったが……。も
ちろん、俳優としての内田もさして演技が上手とは言えないが、その存在感が半端ではない。彼の、あの
「反抗に賭ける気迫」は、いったいどこから湧いて出るのだろうか。


 某月某日

 『稲妻』(監督:成瀬巳喜男、大映東京、1952年)を観た。東京の下町の庶民生活を活写した、成瀬監督
の「代表作」のひとつである。戦争に負けてから7年しか経っていないが、世の中はだいぶ落ちついてきて
おり、その傷跡も表面上は窺えない、といった状況である。四人の子どもの父親がいずれも異なる母親おせ
いを浦辺粂子が演じている。いかにも人の好さそうな人物であるが、成り行きとは言え無計画に子どもを産
んでしまった譏りを免れることはできない。事実、末娘の清子(高峰秀子)に、「お母さんがずるずるべっ
たりだから、みんなだらしなくなる。わたし、これまで生きてきて、一度も幸福を感じたことがないわ。正
直言って、産んでほしくはなかった」とまで言われて、「子どもを不幸にしようと思って産んだんじゃない。
ひとりひとりお腹を痛めて産んだんだ」と涙で訴える。「結婚=幸福」という図式に懐疑的な清子ではある
が、それでも恋に対する準備はある。自分の家の下宿人(杉岡毬子)の結婚観(火のような恋愛を経て結婚
したい)を批判するわけではないからである。また、家を飛び出して世田谷に下宿するが、下宿先の上品な
女性(瀧花久子)や隣に住む国宗兄妹(根上淳と香川京子)に親近感を覚え始めており、新しい人間関係を
肯定的に捉えている。もちろん、母親に対しての悪態も心の底からと言うよりも、「愚痴」と言った方が正
確で、母娘で愚痴の言い合いをしていると解釈した方がいいだろう。出演している男性連中、すなわち、清
子の姉である縫子(村田知栄子)と光子(三浦光子)を愛人にし、なおかつ清子にも言い寄る綱吉(小沢栄、
多分後の小沢栄太郎)、長男の嘉助(丸山修)、縫子の夫龍三(植村謙二郎)、それに脳溢血でなくなる光
子の夫(役者不詳)たちは、それぞれ欠点だらけの人物として描かれており、母娘の愚痴も仕方がないと思
わせるようにできている。もっとも、男連中にしても、それぞれ悪人とは言い切れず、たとえば長男の嘉助
にしても、いわゆる「南方惚け」に対して誰も非難することはできないだろう。42発も身体に鉄砲玉を宿し
ていては、ニヒルにならざるを得ないからである。また、綱吉の横暴や龍三の山っ気ですら、許容範囲であ
ろう。尊敬に値するわけではないが、人間なんて所詮そんなものだからである。ところで、中北千枝子が光
子の亡くなった夫の愛人役(田上りつ)を演じているが、どうしてこの人は不幸な(と思われる)境遇の女
性ばかり演じさせられるのか。以前にも指摘したが、顔立ちに「薄幸」が浮き出ているからかもしれない。
ところで、清子は「はとバス」の案内嬢を職業としている。その案内の口上を書き取ったので、下に記して
みる。

  銀座通りは新橋から京橋まで八丁ありまして、これが歌に名高い「銀座八丁」でございます。ここは
 柳の並木で有名なところで、パリのマロニエ、銀座の柳とまで歌われました。嫋々たるしだれ柳は、来
 遊の外人客をして、日本情緒に誘い込むのでございます。昼間は大して美しくはございませんが、夕方
 から夜にかけますと、青い灯、赤い灯が灯りまして、音楽なども聞こえて参りまして、大変楽しい街に
 なるのでございます。

  前方に見えます高い橋が、両国橋でございます。下を流れておりますのは、昔から歌、物語、伝説や
 四季の眺めで知られている隅田川でございます。たまや、かぎやの花火の川開きは、この橋の左右で行
 われるのでございます。

 映画の中では、「イヨマンテの夜」(伊藤久男、1949年)や「越後獅子の唄」(美空ひばり、1950年)が
流れており、時代を感じさせる。この映画は小生が生まれる2年前の作品であるが、遅くとも小生の小学生
の頃までは銀座にはまだ柳があった。学校帰り、よく柳の葉っぱを毟ったものである。ところで、「男は外
が商売だから仕様がない」とか、「だってお前、親類だもの仕様がないじゃないか」などの台詞のうちには、
現代とは異なる様相が見えてくるので、その点で時代の変遷を知るよすがになる、と思った。なお、最後の
「稲妻」のシーンが「変遷」への合図と言えなくもないだろう。その稲妻を眺めている高峰演じる清子とい
う「独立不羈」を目指す女性が、時代を切り開き始める予感がするからである。


 某月某日

 『異人たちとの夏』(監督:大林宣彦、松竹、1988年)を観た。 片岡鶴太郎(原田英吉役)が東京の下
町ムードを醸し出している辺りが見所だが、その他の点ではいろいろ不満が残った。主演の風間杜夫の役で
ある原田英雄(原田英吉の息子)の性格が今一つ見えてこないし、謎の女藤野桂(名取裕子)は最後まで謎
のままだし、永島敏行演じる間宮一郎も、生活感のない人物である。唯一マイペースを保っているのは英雄
の母親役(原田房子)の秋吉久美子で、不思議なお母さんぶりであった。片岡鶴太郎は小生と同年で、しか
も弟の高校(都立竹台高校)の先輩なので密かに応援しているのだが、最近は画伯になってしまって、あの
味を観ることができないのが残念である。TVの『家裁の人』の桑田役が失敗だったからか、少し心配してい
る。さて、幽霊ものはなかなか成功できないが、この作品も評判ほど成功しているとは思えない。同じ大林
の『ふたり』の方が勝れている、と思った。


 某月某日

 『ある殺し屋』(監督:森一生、大映京都、1967年)を観た。知人から紹介された作品である。思いがけ
ず京都でDVDを見付けたので購入し、早速鑑賞に及んだという次第である。この作品が公開された2年後に
癌でなくなった市川雷蔵主演のハードボイルド映画で、シンプルな物語が濃い陰影を刻んでいる。原作は藤
原審爾の「前夜」で、大藪春彦の原作ほどアクションはないが、それなりにシックな仕上がりになっている。
塩沢(市川雷蔵の役名)には、戦争で亡くなった親友たちの思いが重くのしかかっており、親友たちが生命
を賭して守った日本の敗戦後の体たらくに我慢ができない。したがって、社会的に赦すことのできない人物
を抹殺することに辛うじて生き甲斐を見出している。もっとも、だから「殺し屋」になるというのはいかに
も短絡的ではあるが、荒唐無稽な物語としては成立可能であろう。その後、多くのTV作品でもこの手のもの
は量産されており、庶民のせめてもの慰みにはなっている。さて、共演の野川由美子、成田三樹夫、小池朝
雄も個性的で、子どもの頃以来この手の映画(TV作品を含めて)をさんざん観たことを思い出した。表の稼
業は小料理屋の店主、裏の仕事は殺し屋という設定で、今日ではありふれているが、当時はどうだったのか。
同じ年に、邦画の『殺しの烙印』(監督:鈴木清順、日活、1967年)や、洋画の『サムライ(LE SAMOURAI)』
(監督:ジャン・ピエール・メルビル、仏、1967年)が封切られているが、「殺し屋」が流行る理由があっ
たのだろうか。ちなみに、前者は宍戸錠が、後者はアラン・ドロンが主演である。これら三つの作品は突き
抜けた傑作とは言えないけれども、それぞれに独特の美学があり、フィルム・ノワールの定番として捨て去
ることはできない作品群であろう。
 殺し屋は家族をもたない。死刑台には独りで上る。色と仕事を混同しない。無口、周到、完璧。70年代後
半から80年代前半にかけては、松田優作が殺し屋を演じていたが、こちらの方はアクションが売り物だった。
小生も、それなりに愉しんだ記憶がある。『蘇える金狼』(監督:村川透、東映=角川春樹事務所、1979年)
を観たのは新宿の映画館だったか。一度観終わって、さてもう一度観ようとしたとき、「螢の光」が流れて
きてがっかりしたことを覚えている。しぶしぶ館内を見回すと、小生独りであった。おそらく、主催者側が、
1回分早く打ち切ったのであろう。市川雷蔵も松田優作も、不惑に届くか届かぬかの年齢で癌を患って逝っ
てしまった。殺し屋の宿命だったのか。


 某月某日

 連休中は京都でのんびりと過ごした。至福のときだった。さて、その連休中にDVDを6本観たので、報
告しよう。先ず、1本目と2本目は『拝啓天皇陛下様』(監督:野村芳太郎、松竹大船、1963年)、なら
びに、『続・拝啓天皇陛下様』(監督:野村芳太郎、松竹大船、1963年)である。それぞれ主人公は違う
が、いわゆる「天皇の赤子」をもの悲しいトーンで描いている。基本的には喜劇であるが、「面白うて、
やがて悲しき……」の類であった。陸軍のラッパに付ける歌詞が何度か出てくるが(新兵さんは/可哀想
だねェ/また寝て/泣くのかよォ♪ 起きろよ/起きろ/皆起きろ/起きないと/班長さんに/叱られる♪
等々)、小生としては、父親から何度も聞かされているので、まったく違和感はなかった。さて、両作品
ともに主人公は渥美清であり、寅さんの原型とも言ってよい人物(粗暴で学がなく、野暮で図々しく、ま
ともには付き合い切れないのであるが、愛嬌があって憎めない人物)を演じている。普通の人だったら苦
労としか思えない軍隊生活を、実に楽しそうに過ごしている輩である。彼にとっては、衣食住の心配の要
らない、まさに「楽園」そのものなのである。だから、そんな軍隊を除隊しなければならなくなったとき、
天皇に「自分をこのまま軍隊に残してほしい」という直訴の手紙を出そうとまでする(もちろん、未遂)。
とにかく、渥美清の「もさくれ(古年兵なのに、まだ一等兵に留まっているダメ兵卒のこと)」ぶりが実
に楽しく、そして哀しい物語である。ちなみに、孔子の弟子に豪傑子路がいるが、少し似ているかもしれ
ない。
 正編の方では、寅さん映画で言えば、長門裕之が博役で、その妻の左幸子がさくら役、マドンナ役が高
千穂ひづる、と言ったところか。最後に中村メイコと結ばれそうになるが、主人公の山田正助(渥美清)
は交通事故であっさりと死んでしまう。
 続編では、主人公の山口善助(渥美清)の友人役の小沢昭一(華僑の王万林)が光っていた。その他、
マドンナ役として、岩下志麻と久我美子(後者は、『無法松の一生』に設定が似ていた)、小沢の妻役と
して南田洋子、渥美の妻役の宮城まり子(娼婦あがり)などが出演している。さらに、「友春号」という
軍犬も忘れがたい。
 3本目と4本目は寅さん映画。『男はつらいよ・寅次郎わが道をゆく』(監督:山田洋次、松竹、1978
年)と、『男はつらいよ・噂の寅次郎』(監督:山田洋次、松竹、1978年)である。前者のマドンナは木
の実ナナ、後者のマドンナは大原麗子である。助演として、前者には武田鉄矢と竜雷太、後者には志村喬
と室田日出男が出演している。両マドンナともに寅さんとはミスマッチで、作品としても今一つだった。
それにしても、武田鉄矢はキャラが濃いねェ。
 5本目は『張込み』(監督:野村芳太郎、松竹大船、1957年)である。原作:松本清張、脚本:橋本忍、
監督:野村芳太郎の黄金トリオが生んだ作品で、『砂の器』(監督:野村芳太郎、松竹=橋本プロ、1974
年)と並んで、たいへん面白い犯罪捜査映画である。もっとも、犯罪捜査上のミステリー的要素は乏しく、
どちかと言えば「人間ドラマ」と呼んだ方がふさわしい出来である。強盗殺人犯(田村高廣)が、かつて
の恋人(高峰秀子)のもとに立ち寄ることを想定して、二人の刑事、柚木隆雄(大木実)と下岡雄次(宮
口精二)が、7日間に及ぶ「張込み」を敢行するという筋である。当時の佐賀の旅館の料金が一人一泊三
食付きで650円であるとか(ただし、50円引き)、美空ひばりの流行歌「港町十三番地」が流れているとか、
東京と鹿児島を結ぶ急行が佐賀まで20時間以上かかったとか、高峰の夫役(清水将夫)の吝嗇ぶり(「風
呂の水を朝から汲んでおくと、石炭の使用量が少なくてすむ」といった台詞に代表される)とか、細部が
活き活きとしている。ここで、野村監督の言葉を聴いてみよう(DVD所収の「シネマ紀行」より)。

  この映画は、どんな画面にしろ、観客にウソだと感じられたら、面白さが半減する性質のものだ。
 というのは、別に筋が売り物の作品でもないし、キャストで惹きつけようとする映画でもない。あく
 までもリアルな雰囲気が主題の物語であるからだ。

 また、刑事同士の会話にも工夫が凝らされている。

 柚木:女は結婚すると惨めなもんですなァ。
 下岡:うん、そうでもないよ。元来、女は男より辛抱強くできているんだよ。貧乏所帯をやりくりす
    るようにな。だから、女房ってのは、少々手荒く使っても使いべりのしない頑丈な奴を最初に
    ……ハハハ、いやァ、これは冗談だが、まァ、相手次第じゃ、案外、苦労を苦労としないもん
    だよ、女は、ハハハ。
 柚木:相手次第か……。

 ところで、下岡の妻役は菅井きんが演じており、この当時の刑事の妻として典型的な佇まいではなかっ
たか、と思わせる演技をしていた。また、若い柚木刑事は、事件解決後、もやもやしていた結婚問題に結
着をつけるために、恋人(高千穂ひづる)に求婚の電報を打っている。表面的な幸せ(銀行員の妻である
こと)よりもこの一瞬に賭ける女の情念を演じた高峰秀子も、さすがの貫禄であった。刑事物としては、
『野良犬』(監督:黒澤明、新東宝=映画芸術協会、1949年)にも通じる映画であった。
 最後の6本目は、『壬生義士伝』(監督:滝田洋二郎、松竹=テレビ東京=テレビ大阪=電通=衛星劇
場=カルチュア・パブリッシャーズ=IBC岩手放送、2002年)である。吉村貫一郎(中井貴一)と斎藤一
(佐藤浩市)という新撰組の隊士同士の交流を、二人の周辺の人物を絡ませながら描いた作品である。面
白いことは面白いのであるが、「金をかけたテレヴィ・ドラマ」といった感じで、映画らしい雰囲気に欠
けていた。『御法度』(監督:大島渚、松竹=角川書店=IMAGICA=BS朝日=衛星劇場、1999年)の感想
を記したときにも指摘したが、形の上では鬘が気になった。また、台詞の上では、中井貴一の熱演にも拘
わらず、果たして、あんなおしゃべりな武士がいるだろうか、と思った。説明的な台詞も多く、通俗的な
描き方に終始している。テレヴィの悪影響(視聴率を上げるために、想定視聴者層を拡げられるだけ拡げ
る)が出ている、としか言いようがない。だから、小生のようなひねくれ者には面白くないのだ。総じて、
時代劇は大層難しいのである。お気楽喜劇ならばともかく、本格的時代劇を目指すのならば、安易につく
ってほしくはない。

                                                   
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