[SSLの使用について]    ID:  Password: 
ホーム
人間文化学科
国際社会コミュニケーション学科
社会経済学科
人文社会科学科
▼教員一覧
武藤 整司
思想系の学問に興味のある人へ
日日是労働セレクト7
家族研究への布石(映像篇03)
家族研究への布石(映像篇04)
日日是労働セレクト22
日日是労働セレクト26
日日是労働セレクト30
日日是労働セレクト1-3
日日是労働セレクト52
家族研究への布石(文献篇01)
家族研究への布石(映像篇07)
思想系の読書の勧め
日日是労働セレクト63
日日是労働セレクト72
日日是労働セレクト88
武藤ゼミとはどんなゼミ?
日日是労働セレクト100
日日是労働セレクト102
日日是労働セレクト106
日日是労働スペシャル XLII (東日...
家族研究への布石(映像篇12)
日日是労働セレクト112
日日是労働セレクト122
家族研究への布石(文献篇05)
日日是労働セレクト137
日日是労働(臨時版)1703- ...
花摘みの頁<02>
家族研究への布石(映像篇15)
日日是労働セレクト151
日日是労働セレクト155
驢鳴犬吠1812
日日是労働セレクト156
驢鳴犬吠1901
驢鳴犬吠1902
日日是労働セレクト157
日日是労働セレクト158
驢鳴犬吠1903
驢鳴犬吠1904
講義と演習
日日是労働セレクト159
日日是労働セレクト160
驢鳴犬吠1905
驢鳴犬吠1906
日日是労働セレクト161
日日是労働セレクト162
驢鳴犬吠1907
日日是労働セレクト163
驢鳴犬吠1908
驢鳴犬吠1909
日日是労働セレクト164
驢鳴犬吠1910
日日是労働セレクト165
無印良品映画の頁(1)
驢鳴犬吠1911
日日是労働セレクト166
日日是労働セレクト167
驢鳴犬吠1912
無印良品映画の頁(2)
日日是労働セレクト7
 以下に、「日日是労働」のダイジェスト版・第7弾を掲げます。直ぐ下の記事がこの「日日是労働セレク
ト7」の中では最も新しい日付のものです。つまり、読み進めるほど、古い記事になります。ただし、いち
いち明示しませんが、後日に行った加筆訂正を含んだ日があります。日誌ですから、少なくとも後日に加筆
することは御法度であるはずですが、「某月某日」ということもあり、記事内容の充実を優先させました。
ご了承ください。また、頑張って「辛口」の批評を展開しようと務めておりますので、本文に何かと読者の
お気に召さない表現等が散見されるやもしれませんが、特定の個人、団体等を誹謗中傷する目的は一切あり
ませんので、どうぞご理解ください。


 某月某日

 『女ひとり大地を行く』(監督:亀井文夫、キヌタプロダクション=炭労北海道支部、1953年)を観た。
その存在すら知らなかった映画であるが、山田五十鈴主演の人間ドラマである。例によって、今日では不適
切だと思われる表現が出てくるが、ご寛恕願いたい。さて、冒頭のテロップが時代を感じさせる。

  これは北海道の炭坑労働者が一人三十三円づつ出しあってつくった映画である

 ロケ地は主に夕張だそうだが、炭坑を舞台にした映画はそれほどないので、いろいろ勉強になった。物語
は、以下のようなナレーションから始まっている。

  大戦争の後には、必ず経済恐慌が来る。第一次世界大戦のときも、十年経って昭和四年秋、突如、ニ
 ューヨークのウォール街が大混乱に陥った。この世界的不景気は、数日も経たないうちに日本へも押し
 寄せて来た。その上、飢饉に襲われた東北農村一帯では、百姓の出稼ぎや娘の身売りは後を絶たず、夜
 逃げ、首吊りが至るところに起こった。

 秋田県の農民である山田喜作(宇野重吉)は、借金がなかなか払えず、北海道に出稼ぎに行くことを決意す
る。「株式会社大阪屋深田組飯場」という看板が掛かっている、いわゆる「タコ部屋」に、10円札3枚で売ら
れてきたのである。吉行淳之介にこのタコ部屋を扱った作品があるので、もちろんその存在は知っていた。逃
亡は死罪という苛酷さは奴隷労働同然であるが、過去にはそんな飯場がたくさんあったのだろう。映像的には
その苛酷さは伝わってこないが、宇野重吉の無言の抗議にはそれなりの迫力があった。喜作は、この後、炭坑
の爆発事故で死んだと思われたが、物語の終盤で再登場する。したがって、物語の中心はその妻サヨ(山田五
十鈴)に移る。便りの途切れた夫を頼って夕張にやって来るが、彼は死んだと知らされる。悲しみに浸る間も
なく、自らも炭鉱労働者になる。同じ長屋に住むお花(北林谷栄)の励ましも大きかった。北林の巧さは人の
知るところであるが、まさにぴったりの役であった。やがて、二人の息子も大きくなり、戦争も終わってこれ
からというとき、長男の喜一(織本順吉)に裏切られてしまう。しかし、次男の喜代二(内藤武敏)や、その
恋人孝子(岸旗江)などに助けられる。最後は、力尽きてしまうが、満州から戻って来た夫の喜作や、改心し
た長男の喜一らにも見守られて、天寿を全うする。喜代二の台詞「労働の中に生きた学問がある」は、本当に
そうだと思う。後半は左翼の宣伝映画そのものになってしまったが、その点を捨象すると、人間ドラマとして
成功していると思う。『太陽のない街』(監督:山本薩夫、新星映画=独立映画、1954年)や『ともしび』
(監督:家城巳代治、新世紀プロ、1954年)などと同様、働く者の逞しさが爽やかである。


 某月某日

 このところ山田洋次ばかり観ている。心身ともに疲れ切っているからだと思う。寅さん映画をまた2本観
たので、感想を一言。『男はつらいよ・寅次郎と殿様』(監督:山田洋次、松竹、1977年)と『男はつらい
よ・寅次郎頑張れ!』(監督:山田洋次、松竹、1977年)である。1本目のマドンナは真野響子、2本目は
藤村志保である。おとなし目の和風美人が続いたというわけ。前者には殿様が登場し、「アラカン」こと嵐
寛寿郎が演じている、藤堂久宗という名前の伊予大洲のお殿様の子孫という設定である。なお、執事に三木
のり平(吉田)が扮していて、よく似合っていた。堤鞠子役の真野響子は、久宗の反対を押し切って彼の末
の息子と結婚するが死別しているという設定。その鞠子に逢いたいというのが殿様の願い。偶然(こんなこ
とはあり得ないが)、探し当てた鞠子を殿様に引き合わせて感謝されるまでは順調だったが、例によって鞠
子にはあっさりふられてしまう。鞠子は寅さんの気持にさえ気が付いていない様子。「失恋王」寅さんのお
定まりの巻と言ったところか。
 後者はやや複雑。島田良介という名前の口下手な青年(中村雅俊)と秋田出身の幸子(大竹しのぶ)との
恋を寅さんがコーチするという設定。ついでに、長崎の平戸に住む良介の姉(藤村志保)に寅さんは恋をす
るが、あえなく沈没。これに対して、若い二人は恋が実るという巻。寅さんのパチンコをする姿は珍しい。
彼は手打ち台で打っていたが、良介は電動台で打っている。こんなところにも時代を感じる。「アベック」
という言葉が連発されるが、今では死語か。また、随所に細かい配慮が窺える。たとえば、寅さんの台詞で
ある「ああ、空しいねェ、いくら人に尽くしても報われないか」とか「かと言って、若い娘のつくる飯にう
まいもんなんかねえしなァ」などには、寅さんの哀愁がたっぷり詰まっている。また、ハンドルの下側(つ
まりブレーキ用の取っ手)をつかんで自転車に乗っている寅さん、姉の襟をそれとなく直す弟の仕草、タコ
社長の下品きわまる歯の掃除、船長(石井均)と神父(桜井センリ)の横断歩道を渡るときの左右確認など
は、実に「ゲイコマ」だと思った。映像にコクを与えるからである。また、寅さんによる「デートの際の観
るべき映画談義」も楽しい。臆面もなく「和製喜劇」を推奨しているところなど、微笑ましい。それにして
も、石井均を久しぶりに見たが、いい味出してるねェ。
 ところで、小生の記憶では、だいぶ以前に藤村志保が高橋英樹と共演していた任侠映画があったはずだが、
思い違いだろうか。藤村は大映で市川雷蔵と、高橋は日活で和泉雅子と共演しているのならば辻褄が合うが、
この二人が絡む映画は本当に存在しないのだろうか。もしあれば、もう一度観てみたい。そのときの藤村志
保がとても素敵だったから……。

 * 後日、その映画が何であったかが分かった。『東京博徒』(監督:安田公義、大映、1967年)である。
 なお、藤村志保の相手役は田宮二郎であった。


 某月某日

 『みんなの寅さん 「男はつらいよ」の世界』(佐藤忠男 著、朝日文庫、1993年)を読んだ。佐藤氏の著
作はたいへん面白く、この作品もご多分に洩れず痛快極まる読み応えだった。1993年の初版が残っているこ
と自体信じられないことである(小生は、最近初版本を新本で手に入れた)。思うに、映画関係者や映画フ
ァンという種族は、あまり文献には興味がないのではないか。内容については読んでいただくことにして、
単純な間違いだけを指摘しておこう。佐藤氏のような映画博士でも記憶違いがあるというわけで、彼の仕事
を貶める意図はさらさらない。ただ、間違いはやはり間違いなので、こんなブログではあっても、記録して
おく方が親切だろうと判断した。本来ならば編集者が厳しくチェックすべきであるが、仕事が甘いのか、や
すやすと間違いを見逃している。他山の石……自戒すべきである。

 168頁の写真 「第十一作寅次郎忘れな草」になっているが、この写真は「第十五作寅次郎相合い傘」の
       ものである。

 227頁 花子(榊原ルミ)の働きにやってきた場所は「東京」ではなく、「静岡県沼津市」である。

 233頁 寿司屋に行くのは「寅さん」ではなく、「さくら」である。

 238頁 逃げた女は「春川ますみ」ではない。その女は、映画では話が出てくるだけで登場しない。

 239頁 「母親」が相手の男をせめたてたのではなくて、「踊り子(春川ますみ)」がせめたてたので
    ある。後に、この踊り子が赤ん坊の父親(月亭八方)と同棲することになるので、混同したのだ
    ろう。

 240頁 「経営者」ではない。「ただのサラリーマン」である。

 以上は、小生自身の記憶違いでなければ、佐藤氏の思い違いだと思われる。しかしながら、そんな些細な
間違いなど問題にはならないほど、この本は名著だと思う。優れた「倫理」の本と言ってもよいほどである。


 某月某日

 『ダウンタウン・ヒーローズ』(監督:山田洋次、松竹、1988年)を観た。薬師丸ひろ子にお目にかかる
のは『きらきらひかる』(監督:松岡錠司、フジテレビジョン、1992年)以来であるが、彼女の個性が十分
に発揮されている映画だと思った。相手役の中村橋之助も新鮮な感じで、初々しいカップルには違いない。
物語は旧制高校最後の一年を時間軸にして、「蛮カラ」松高生(旧制松山高校生)の青春群像を描いたもの
である。尾美としのり、柳葉敏郎、坂上忍、杉本哲太などが松高生を演じている。小生は、いまだに旧制高
校に憧れているが、やはりあの「破天荒な自由」が眩しいからだろう。警察さえ介入させない自治、「寮雨」
と称する蛮行、やくざと渡り合う蛮勇、思い詰める恋、すべてが青春の特権として輝いている。もちろん、
その舞台には絶対にヒロインが要る。それが薬師丸ひろ子というわけだ。もっとも、だいぶ薄められた世界
であり、役者の顔ものっぺりしていて、小生が抱いている旧制高校生のイメージとはずれていると思った。
40年の月日が風化させたのである。今つくれば、もっとどうしようもない作品になるだろう。教師の中では、
すまけいが光っていた。彼の「《Liberty》を勝ち取れ!」というメッセージは、常に小生の学生に発信して
いるものと同じだからである。


 某月某日

 邦画を4本観たので、感想を綴る。1本目は『バージンブルース』(監督:藤田敏八、日活、1974年)。
野坂昭如の同名の歌を映画化した作品で、いわゆる藤田敏八74年青春三部作(他に、いずれも秋吉久美子が
主演の『妹』、『赤ちょうちん』)のひとつ。小生自身20歳を迎えた年であり、あの頃の雰囲気を実感でき
る。物語は、畑まみという東京在住の予備校生(岡山県出身)18歳(秋吉久美子)と、平田洋一郎という脱
サラ中年男43歳(長門裕之)の珍道中が核になっている。それに、清水理絵、高岡健二、林ゆたかなどの若
者が絡んでいるが、いずれも閉塞し始めた世の中の風通しの悪さに藻掻いているといった風情で、それは中
年に届きかけた平田の妻(赤座美代子)にも窺える。面白かったのは「ハクイ」という当時の若者言葉が遣
われていたことで、懐かしかった。「あれはハクイ女だな」などと遣い、「上玉である」という意味である。
女性限定のやや下卑た形容詞だったと思う。同様の意味で「マブイ」なんてのもあったが、もはやどちらも
死語だろう。劇中、野坂昭如が倉敷でリサイタルを開いているという設定で、ジョニ赤を飲みながら「黒の
舟歌」を歌っているシーンがある。下手だが、ちょっと懐かしかった。なお、当時秋吉は「しらけ女優」と
いうレッテルを貼られたが、あのアンニュイな感じには今でも捨てがたいものがある。
 2本目と3本目は寅さん映画。シリーズの17作目と18作目である。最初に観たのは『男はつらいよ・寅次
郎夕焼け小焼け』(監督:山田洋次、松竹、1976年)であり、マドンナは今は亡き太地喜和子。竜野芸者の
ぼたん役である。題名に「夕焼け小焼け」が入っているのは、播州竜野が「赤とんぼ」の作詞家三木露風の
故郷だからである(作曲は山田耕筰)。日本画壇の大御所という設定(この人も竜野出身ということになっ
ている)の池ノ内青観(宇野重吉)が男のゲストで、その昔の恋人役の志乃に岡田嘉子が起用されている。
寅さんたちが、鬼頭という悪人(佐野浅夫)に金を騙し取られたぼたんのために一肌脱ごうとするが、法律
の壁に阻まれてどうにもならないという物語と、天衣無縫の青観が巻き起こす騒動とが微妙に融合していて、
シリーズ中屈指の作品になっている。なお、宇野の息子の寺尾聰が何とも冴えない若者役で出演している。
 さて、寅さんは鬼頭を懲らしめに勇んでとらやを飛び出すが、行き先が分からないという失態を演じる。
しかし、その気持にぼたんは感激して、騙された金のことなどどうでもよくなる。そのときのぼたんの台詞
はこうである。

 あたし、しあわせや。
 いま、とってもしあわせ。
 200万円なんて、いらん。
 あたし、生まれて初めてや、
 男の人のあんな気持知ったん。
 さくらさん、うれしい。

 きっぷがよく、大輪の花が咲いたようなぼたんにも、弱いところはあったのである。寅さん映画には鬼頭
のような悪人はあまり出てこないが、たまさか出てくると寅さんの侠気が我慢の限界を超える。まるで健さ
んである。もっとも、健さんならば確実に鬼頭をあの世に送るだろうが、幸か不幸か寅さんは歯ぎしりする
ばかりだ。ただ、青観に助っ人を頼んだとは言え、結末は鮮やかである。なお、プロローグの寅さんの夢に
『ジョーズ(Jaws)』(監督:スティーブン・スピルバーグ、米、1975年)のパロディを採用しているが、
鮫に下半身を食いちぎられた源公(佐藤蛾次郎)の死骸には驚いた。また、これも蛇足であるが、鬼頭役の
佐野浅夫は後年TVの水戸黄門を演じている。石坂浩二や里見浩太朗はともかくとして、東野英治郎といい、
西村晃といい、黄門様は悪役で鳴らした俳優の方が味があるかもしれない。
 次は『男はつらいよ・寅次郎純情詩集』(監督:山田洋次、松竹、1976年)である。マドンナは京マチ子、
檀ふみの母娘。寅さんの「ええかっこしい」が無銭飲食となり、さくらが貰い下げに長野の別所温泉に向か
うといったところから物語が始まる。満男(さくら、博夫婦の一人息子)の先生が美人(檀ふみ)だったこ
とから、寅さんがやたらに介入したがり、それがとらやの面々の不興を買う。そのときの博の台詞はこうで
ある。

 そりゃあ、僕は職工です。
 大学にも行けませんでした。
 そんな僕が満男にどれほど夢を託しているか。
 そんなこと、子どもをもったことのない兄さんに
 分かってたまるか。

 いつも控えめな博としては、精一杯の抗議である。ただ、言葉の弾みとは言え、息子に「夢を託す」とい
うのは、小生としてはいただけない台詞である。言うまでもないことであるが、博と満男は異なる人格だか
らだ。親に夢を託されちゃ、子どもはやりきれないからである。なお、ちょっとしたシーンで、工夫が凝ら
されていた。とりわけ、寅さんが鯨尺を売っており、それをお巡りさんに扮した永六輔が怪訝な表情で見て
いるといったシーン(分かる人には分かるだろう)が面白かった。また、「戦争成金」を詰るシーンで、お
ばちゃん(三崎千恵子)が、「そういうのが、終戦後、進駐軍とぐるになって悪いことばっかりしたんだよ」
と、吐き捨てるようにしゃべっている姿が印象深い。さらに、レオナルド・ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」
を寅さんが「最後の晩酌」と言い間違える辺りは、軽いけれども「ゲイコマ」だと思った。吉田義夫、谷村
昌彦(小生の記憶する限りでは、まったく別の役で過去2度ほど出ている)、梅津栄など、ちょい役の脇役
陣もいい味を出していた。
 4本目は『霧の旗』(監督:山田洋次、松竹大船、1965年)である。およそ山田洋次がつくったとは思え
ないほど、どこにも笑いらしい要素のない映画である。すなわち、松竹の「大船調」とはかけ離れた作品と
言える。物語は、無実の罪に問われた兄(露口茂)を獄中死させてしまった妹(倍賞千恵子)が、金銭面と
多忙であるという理由で取り合ってももらえなかった高名な弁護士(滝沢修)に復讐を遂げるというもので、
何とも恐ろしい女だと思わせるつくりである。予告篇でも新しい女性像を強調しており、1965年という年も
意味深い。原作は松本清張、脚本は橋本忍で、それだけでも期待できる。もちろん、面白く観たが、真犯人
をもう少し上手に描くべきだったか。他に、新珠三千代、川津祐介、近藤洋介、内藤武敏などが出演してい
る。案外、山田洋次の本音はこういう作品にこそ現れているのではないか、と思った。ちなみに、後年リメ
イクされている。山口百恵主演の『霧の旗』(監督:西河克己、ホリ企画、1977年)である。残念ながら小
生は未見なので、いつか観てみたいと思う。


 某月某日

 対人関係の絡む仕事は、すべからく相手の身になって温かい気持で接しなければならないと思うが、そう
も言ってられないこともある。たとえば、多忙なとき。今やっている仕事で急いでいるとき、別の仕事が舞
い込んでくると、いけないとは思いながらもうんざりする。当然のごとく、そんな場面は誰にでも訪れる。
数日前の郵便局員もそうだったのだ、と思いたい。忙しくて、いらいらしていたのだ。だから、小生のよう
なノーテンキな客(「機械が対応するよりも人が対応する方が手数料が高いのは何故か」というようなくだ
らない質問を投げかける客)の相手などしたくなかったのだ。しかし、グレシャム(Thomas Gresham)の法
則である「悪貨は良貨を駆逐する」ということもある。悪い対応(郵便局員からすれば、客の方が悪いのか
もしれないが)を蔓延らすと、それが当たり前になってしまう。つまり、説明できないことを平気で実行す
るような組織になってしまう。したがって、これを看過してはいけないのだ。人間が機械だけを相手に暮ら
していたら、きっとおかしくなる。やがて郵便局も人のいない「ムジンクン」になるのだろうか。考えただ
けでもゾッとする。もっとも、このような感覚も普遍性をもたないのかもしれない。つまり、「機械相手の
方が気楽でいい」と考える人が殖えている可能性が高いから。しかし、コンピュータと携帯電話と自動販売
機にしか接することのできない人を殖やしてどうするつもりなのだろうか。「人混みの中の孤独」に狎れた
現代人は、いったいどこに向かおうとしているのだろうか。


 某月某日

 『洗濯機は俺にまかせろ』(監督:篠原哲雄、ボノボ=スターポート、1999年)を観た。小洒落たタイト
ルが気になっていた作品で、期待通りなかなか面白かった。ただ、まだまだ洗練させることのできる余地が
散見できるので、「傑作」の称号は与えにくい。「佳品の上」と言ったところか。物語の趣向は、中古電器
店に勤める青年、その店の「出戻り娘」、昔その店に勤めていたが、今ではタクシー運転手をしている中年
男の「三角関係」(もう一人若い女性が絡むので、「四角関係」とも言える)を中心に描きながら、ほろ苦
い人生の味を垣間見せるといった類のものである。その意味で平凡な物語であるが、丁寧に描いているので
最後まで飽きさせない。タイトルにもある「洗濯機」は、主人公の木崎敏郎(筒井道隆)の修理における得
意分野で、その仕事ぶりを見ていると情熱をもっていることが窺える。ただし、熱血漢のようなタイプでは
なく、女性には優柔不断で煮え切らない面も見せるが、基本的には淡々と物事に対処する堅実派である。た
とえば、かなり高齢の女性(菅井きん)から「年代物(四半世紀以上も前の製品)」とも言える洗濯機を買
い上げ、それを裕福とは言えないサックス奏者の若者(染谷俊)に3,000円で売るところなど、「商いはこう
でなければいけない」と思った。ただ、惜しむらくは、「出戻り」の片桐節子(富田靖子)と「不良中年」
の大紙泰司(小林薫)の絡みにはやや難が見えたし、喜劇の定番とも言える追っかけシーン(警察官が出て
くる辺り)も鮮度に欠けていた。しかし、何度も強調するが、木崎の好青年ぶりは特筆すべきで、それに絡
む節子(ラジオのDJという職業に誇りをもっている)の微妙な女心にも好感がもてた。一方、大紙という中
年男は、いわゆる「金にだらしがない」タイプである。寸借詐欺すれすれの行為は当たり前だし、人の善意
につけ込むこともうまい。しかし、どことなく「憎めない」といった困った存在である。世の中には、「男
女交際にだらしがない」や「酒を飲むとだらしがない」など、「だらしがない」ことを挙げ始めれば枚挙に
遑がないほどであるが、小生も万事だらしがない人間なので恐縮せざるを得ない。せいぜい「人のふり見て
我がふり直せ」を貫くしかないだろう。なお、主人公の友人吉田役で出演している田鍋謙一郎という役者に
は「赤丸付」注意である。この作品でもいい味を出しているが、精進すればさらに味のある役者になると思
う。主人公に気があるパン屋の店員役の百瀬綾乃も、その佇まいが初々しかった。その他の登場人物である、
節子の父(橋本功)、母(入江若葉)、スナックのママ(根岸季衣)なども含めて、皆自分の居場所を求め
て悪戦苦闘しているが、深刻な問題があるわけではない。したがって、それぞれの人生をどれだけ自覚的に
生きることができるのか、それが問題なのだろう。ところで、作品の流れとは直接の関係はないが、離婚寸
前の夫婦の会話が面白かったので、下に記してみる。夫役は鶴見辰吾、妻役は平沢草である。

 妻:そもそも、あなたの一方的な押し付けが私には堪えられない。
 夫:僕はただ帰宅してレトルトのカレーを食べるのが嫌だっただけだ。
 妻:炊事をするのが女の役目だというのは昭和の考え方。
 夫:男がするのが平成の考え方だ、ということもない。
 妻:仕事で帰りが遅いというわりに、クラブ・ピンキーの名刺は持っている。
 夫:接待で貰ったんだから仕様がないよ。
 妻:技術系は接待がないから遅くならない、と結婚前に言ったのはあなた。
 夫:料理教室に通っているので、モンブラン以外は何でも作れますって言ったのは君。
 妻:休みの日は一緒にスーパーに買い物に行こうと言ったのはあなた。
 夫:車の免許を持っているから、毎日送り迎えをすると言ったのは君だ。

 節子がこのやりとりに呆れて勝手に離婚届に押捺するシーンがあるが、二つの判子を同時に朱肉に押し付
けるところは新鮮な映像であった。また、これは蛇足であるが、上で記したように入江若葉が節子の母親役
で出演している。この女優は、中村錦之助主演の『宮本武蔵』五部作(監督:内田吐夢、東映京都、1961-
65年)でお通の役を演じており、実は小生が生まれて初めて憧れた女優なのである。小学校の低学年生で大
人の女性を慕うということは、どういうことだろうか。もっとも、クレヨンしんちゃんの気持が何となく分
かるのだから、さもありなんである。


 某月某日

 郵便局である会の会費を納めようとしたら、「機械で手続きしますと、手数料がお安くなりますが」と言
われた。小生は大の「機械嫌い」だから、当然のごとくそれを断って、「なぜ手数料が違うのか」の説明を
求めた。局員は口ごもったままなので、仕方なく「人を使うとお金が余計にかかるからか」と訊ねた。もち
ろん、そんな質問には答えられるはずもなく、妙な空気が流れた。手続きが済んだ後の局員の最後の言葉が
印象的である。「どうぞ、ずっーと窓口でお支払い下さいませ」だって。開いた口が塞がらなかった。明ら
かに煙たがられたのであるが、この人は、ちょっとした手続きを何でも機械任せにしたがることに、一度で
も疑問に感じたことがないのだろうか。「お安い」と言えば、人は何でも飛びつくとでも思っているのだろ
うか。他山の石……自分自身はせいぜい機械人間にならないように気を付けようと思う。


 某月某日

 『のんきな姉さん』(監督:七里圭、トランスフォーマー=オービー企画=ウォーターメロン、2002年)
を観た。名作を観た直後だったせいか、映画が成立することの困難を改めて感じた。テレヴィの『エンタの
神様』などを観ているとつくづく感じることであるが、面白いことは面白いのだけれども、いかんせんコク
がない。おそらく、素人芸だからである。つまり、伝統芸ではない分「自由」を感じるが、長続きしない。
直ぐに飽きてしまう。次から次へと新しい芸人が登場して、ちょっと売れて、間もなく忘れ去られる、とい
った流れである。この映画も、そのような「哀愁」に満ちている。他に類例を見ないつくりなのだが、成功
しているとはとても言い難い。佐藤允、三浦友和、大森南朋で脇を固めながら、彼らのキャラがほとんど活
かされていない。主演の梶原阿貴や塩田貞治もそこそこの演技をしているのだが、何も伝わってこない。ま
ったく、欲求不満に陥る映画である。物語は、昔話の『安寿と厨子王』をそれぞれのスタイルでアレンジし
た、森鴎外の『山椒太夫』、唐十郎の『安寿子の靴』、山本直樹の『のんきな姉さん』から素材を得たもの
だという。小生は鴎外の作品しか知らないが、唐十郎や山本直樹の名前に惹かれてしまった自分に呆れるし
かない。せめて、もう少しエロティシズムを感じさせるものであったら赦せるのであるが……。細かい演出
もあるにはあるが、いずれも楽しめないし、カメラアングルは平板だし、採光の具合も悪い。監督の七里圭
は猛反省すべきである。少なくとも、お金を取って見せる映画なのだから……。同じ近親相姦を扱ったもの
でも、『三月のライオン』は秀逸だった。どんな人だか知らないが、七里圭よ、もう一度出直してほしい。


 某月某日

 『二十四の瞳』(監督:木下恵介、松竹大船、1954年)を観た。『七人の侍』(監督:黒澤明、東宝)や
『ゴジラ』(監督:本多猪四郎、東宝)などと同様、小生の誕生年の映画なので、それなりに感慨深いもの
がある。壺井栄の原作を読んだわけではないが、物心つく頃から名前だけは知っている作品である。瀬戸内
海で淡路島の次に大きい島である小豆島を舞台に、女先生(おなごせんせい)と十二人の学童との交流物語
というくらいしか予備知識がなかった。実際のところは、『喜びも悲しみも幾歳月』(監督:木下恵介、松
竹大船、1957年)と同じように、昭和3年から21年にかけての18年に亙る年代記で、戦争を抜きにしてはと
ても語れない物語になっている。小豆島の外れの岬にある分教場に、新任の先生がやってくる。女学校を出
たばかりの大石久子先生で、洋服に身を包み自転車に跨って颯爽と登場するのである。しかし、人々の目に
は「お転婆」にしか見えない。小学校1年生の子どもたちからも大石ならぬ「小石先生」と綽名される。そ
れでも、子どもたちは直ぐに打ち解けて、皆彼女を慕うようになる。さらに絆が深まるきっかけとなるのは、
悪童の悪戯のせいで大石先生が骨折したことであった。見舞いに行こうとして二里の道を歩む子どもたちを、
バスに乗っていた大石先生が発見する。感極まって泣き出す子どもたち。大石先生の家に落ちついた子ども
たちは、やっと安心して「きつねうどん」をお代わりしたりする。しばらく自転車には乗れないことになっ
た大石先生は本校に移る。皆悲しむが、5年生になれば本校で会えるじゃないかという励ましの言葉に納得
する。この辺りの経過では、何となく冴えない男先生(おとこせんせい)役の笠智衆との相違が浮き彫りに
されている。面白かったのは、この男先生が「困った」という台詞を吐いたことである。この台詞は、後に
『男はつらいよ』の御前様役で連発される台詞で、まさか先取りをしたわけではなかろうが、笠智衆には実
にお似合いの台詞であった。
 さて、その五年後、いよいよ12人が小学校を卒業して、それぞれの道を歩み出す。その前に修学旅行があ
るが、香川県の金比羅様を参るという設定である。なかでも、遊覧船がすれ違うシーンが微笑ましい。大石
先生の夫(天本英世)が向こうの船の乗組員なのである。ところで、天本と言えば、この数年後に、テレヴ
ィの『少年ジェット』で死神博士の役を演じていたと思うが、「こんなところに顔を出していたんだ」と、
正直驚いた。身体の動きが天本特有の肩に力が入っている感じだったので、余計に興味深かった。この後、
教え子たちは、本意不本意に拘わらず、自分の道を歩むことになる。多くは不本意な道で、修学旅行にさえ
いけない子もいる。貧乏だからである。「将来の希望」という題で作文を書かせたところ、一行も書けない
子もいる。家庭が間もなく崩壊することを知っているので、将来を思い描けないのである。また、松江とい
う子は修学旅行先にある飯屋に奉公していて、偶然彼女を見つけた大石先生が店に入っゆくと、淋しそうな
様子を見せたりする。自分の母が亡くなる頃、百合の花の絵のついたアルマイトのお弁当箱を欲しがった子
である。中学校や女学校に進学する子、丁稚奉公に出る子、立場はそれぞれである。時節柄、大石先生も教
師という職業に嫌気がさして、やめてしまう。その頃の校長(明石潮)とのやりとりを収録してみよう。

 校長:あんた、アカじゃと評判になっておりますぞ。
 大石:えっ?
 校長:気を付けてくれんと困りますよ。
 大石:いったい、それどういうことでしょう。私が何をしたって言うんでしょう。
 校長:わたしゃ、この前にも一遍注意したことがあったが、あんた生徒たちに言っていいことと、悪いこ
    ととありますぞ、教師として。
 大石:さあ、私が何を言ったか知りませんけど、私、生徒に間違ったこと言わないつもりです。
 校長:それがいかん、それが危ないんです。あんたはアカいから、一途に思っていることをべらべらっと
    生徒たちにしゃべってしまうんじゃが、ええ、そ、今の時世にはいかん、そこんとこ、こううまあ
    く言わんと、馬鹿を見るんです。
 大石:うまく言うって、どういうことでしょう。
 校長:とにかく、あんたも知っているように、満州建国以来、ソ満国境の空気は険悪になってきておる。
    こんな島じゃとて、防空演習はちょいちょいやる。国を挙げて、軍備、軍備で騒いでいる最中に、
    あんた兵隊になっちゃつまらんと言ったそうじゃないか。
 大石:いいえ、私はただ教え子の命を惜しんだだけです。
 校長:それがいかん。
 大石:でも、わたし。
 校長:もうあんたは何にも言わん方がいい。見ざる、聞かざる、言わざる、教師はただ、お国にご奉公で
    きるような、そのいう国民に育て上げるのが義務です。

 調子はシリアスであるが、まるで『笑の大学』の検閲官と座付き作者との間のやりとりのようである。ア
カ狩りがどのくらい激しかったのかは知る由もないが、リベラリストも弾圧を受けたらしいから、大石先生
のような反戦思想はたしかに危険だったのだろう。国にとっても危険だし、大石先生の身も危険である、と
いう二重の意味で。
 さらに、八年の歳月が過ぎる。昭和16年、世は軍国主義一色である。男の教え子がすべて出征してゆく。
夫も出征しやがて戦死の知らせが来る。息子の大吉、並木、娘の八津、皆気丈にもそれを乗り越える。軍人
になることしか頭にない息子の大吉に対して「戦死したらつまらん」と言うと、「靖国の母になれなくてい
いのか」と迫られる。それに対して、久子は「靖国の母がそんなにええの。私はお前や並木の母で結構じゃ、
大吉たちにはただの人間になってほしい、命を大事にする普通の人間になってほしい」と訴える。それに対
して大吉は、「そんなことを言う者はおらん」と切り返すが、母の久子は「みんな心じゃそう思っている」
とさらに反論する。そんな彼女に子どもたちは「意気地なし」と浴びせかけるが、久子は動じない。あくま
で反戦を貫くのである。
 さて、敗戦を迎える。大吉は「一億総玉砕じゃなかったのか」と母に当たる。それに対して「とにかく、
戦争は終わった。もう無駄に死ぬ心配は要らない」とばかりに、新しい世の中に早くも期待を寄せるのであ
る。おそらく、暮らしのこともあったのだろうが、大石久子はまた岬の分教場の先生に復帰する。そこで、
かつての教え子たちの縁者(妹や娘など)に出逢う。因果は巡るである。この頃、柿の木から落ちて娘の八
津が落命する。出征した教え子たちも、五人のうち三人が戦死し、一人は盲目になって帰還する。五体無事
なのはたった一人である。子どもの死や、盲目の帰還は、木下恵介の他の作品にもあるモチーフなので、彼
が実際に見聞したことが下敷になっているのではないだろうか。大石先生には、かつての元気がない。むし
ろ、ちょっとしたことで泣いてしまう。新しく出会った子どもたちからも、「泣きミソ先生」と綽名される
ほどである。それでも、生き残った教え子が、大石先生の先生復帰を祝う。祝いの席には、敗戦直後でとて
も手が出なかった新品の自転車が贈り物として供えてあった。このシーンには「はっ」とした。大石先生の
目に涙、教え子の目にも涙である。なお、瀬戸内の自然からは『裸の島』、唱歌が効果的に挿入されている
ところからは『山びこ学校』を連想した。自然と唱歌、実によく似合う。
 さて、話としてはまことにもって平凡な物語であるが、教え子たちの純真さや、大石先生の熱心さには、
心洗われる。主演の高峰秀子の、この次の出演作品は『浮雲』(監督:成瀬巳喜男、東宝、1955年)である
が、およそ対照的な作品である。それら正反対の役柄をこともなげにこなすところに、高峰秀子の凄さがあ
る。ある種の人々にとって、高峰は「お高くとまっている」ように見えるそうであるが、彼女は映画で稼い
だお金で多くの親族を養わなければならなかったそうなので、その辺りを考慮すると、けっしてそのような
尊大な人ではないと思う。『二十四の瞳』の大石久子も、『浮雲』の幸田ゆき子も、高峰秀子の演じ切った
ひとつの女性像であり、生き方はまるで違うけれども、精一杯生きているところに、こころから「喝采」を
贈りたい。


 某月某日

 寅さん映画を2本観たので、ご報告。『男はつらいよ・寅次郎相合い傘』(監督:山田洋次、松竹、1975
年)と、『男はつらいよ・葛飾立志篇』(監督:山田洋次、松竹、1975年)である。両作品の味わいは互い
にかなり異なるものであったが、どちらとも出来のよい方だと思う。前者のマドンナは2度目の登場の浅丘
ルリ子、後者のそれは樫山文枝である。また、マドンナもさることながら、前者には男のゲストとして船越
英二、後者には小林桂樹が出演している。また、後者には当時人気絶頂の桜田淳子も出演しており、配役も
楽しめるようになっている。
 さて、前者であるが、寅さんは、兵頭謙次郎(船越英二)という蒸発男と旅先で道連れとなり、さらに寿
司屋の亭主と別れてまた旅の歌姫をしているリリー松岡(浅丘ルリ子)も加わって、中年三人組の珍道中が
北海道を舞台に繰り広げられる、といった筋である。兵頭は人生に行き詰まってしまってふらっと旅に出る
のであるが、寅さんと出会って息を吹き返す。寅さんは寅さんで大好きなリリーと再会して心を和ませる。
二人は「喧嘩をするほど仲がよい」のであるが、結婚話になるととたんに話を混ぜっ返してしまい、今回も
一緒にはなれなかったのである。浅丘ルリ子はこの映画で「キネマ旬報主演女優賞」を受賞するが、寅さん
との台詞のやりとりが決め手になったのではないだろうか。以下に、その一場面を収録してみよう。正確で
はないし、ニュアンスも伝わりにくいと思うが、あえて記してみる。

  謙次郎の「女一人を幸せにしてやれない自分は情けない」という言葉を受けて、

  リリー「幸せにしてやる……大きなお世話だ。女が幸せになるには男の力を借りなきゃいけないと
      でも思ってんのかい。笑わせないでよ」
  寅さん「でもよ、女の幸せは男次第だって言うんじゃねえのか」
  リリー「へェ、初耳だねェ。あたし、今までに一度だってそんな風に考えたことないね。もしあん
      た方がそゆ風に思ってんだったら、それは男の思い上がりってもんだよ」
  寅さん「へェ、お前も何だか可愛みのない女だなァ、おい」
  リリー「女がどうして可愛くなくちゃいけないんだい。寅さん、あんたそんな風だから、年がら年
      中女に振られてばっかりいるんだよ」
  寅さん「おい、リリー、お前言っていいことと、悪いことあんだぞォ」
  リリー「だって、本当だろう」
  寅さん「じゃあ、俺も言ってやるよ。何だお前、寿司屋の亭主と別れてやったなんて体裁のいいこ
      と言って、本当はテメエ、捨てられたんだろう」
  リリー「寅さん、あんたまでそんなこと。あんただけはそんな風に考えないと思ってたんだけどね」

 説明は要らないだろう。この後、二人の仲はますます深まるのであるが、どうしても男と女の仲にはなれ
ない。因果なものである。リリーがさくらとのやりとりによって寅さんとの結婚を承諾した後で、寅さんの
「冗談だろう」という台詞に対して、間をおいて放った「そうよ、冗談に決まっているじゃないの」という
言葉は実に重い。リリー松岡の素晴らしさがずっしりとこめられている。最近の恋愛はどんどん軽くなる傾
向にあるようだが、このようなどうしようもなく「鈍重な恋」もあることを忘れてはならない、と思った。
リリー松岡(浅丘ルリ子)は、この後2度寅さん映画に顔を出しているので、今から楽しみである。
 後者は、「学問」がキーワードである。考古学を専攻する礼子(樫山文枝)に入れ上げて、自分も学問を
したいと言い出す寅さん。それには伏線があり、学問がないばかりに、人に騙されたり、悔しい思いをした
りした、自分のような学のない者の人生を嘆いたからである。さらにまた、修学旅行の途中、とらやに寅さ
んを訪ねにきた最上順子(桜田淳子)の母親が関わる。寅さんは、十五、六年も前に、お雪さんという人に
旅先でたいへん親切にされたのであるが、そのお雪さんの一人娘が順子だったのである。お雪さんは、二、
三年前に亡くなったという。どうも、昔男に騙されたらしい。山形県までわざわざ墓参りに訪れた寅さんが、
住職(大滝秀治)に出逢い、お雪さんとその娘の経緯を聴いたのである。そこで、学問とは「己を知ること」
だと諭される。柴又に帰った寅さんは、さらに学者の卵の礼子(樫山文枝)に感化される、という流れであ
る。残念ながら、寅さんは学問に打ち込むことにはならなかったが、礼子の考古学の師匠に「師匠」と呼ば
れることになる。このことは、学問を修めることと、人情の機微を弁えることとは、必ずしも一致しないこ
とを伝えている。博覧強記の田所教授(小林桂樹)への、寅さんの「恋愛指南」の一節を下に記してみよう。
実は、この田所教授も弟子の礼子に惚れていたのである。「古臭い」と言って斥けるのもいいが、まあ聴い
てほしい。

 「ああ、いい女だなァ、と思う。その次は、話がしたいなァ、と思う。もうちょっと長く側にいたい
  なァ、と思う。そのうちにこう何か気分が柔らかくなってきてさァ、ああ、もうこの人を幸せにし
  たいなァ、と思う。この人のためだったら命なんかいらない、もう俺死んじゃってもいい、そう思
  う。それが、愛ってもんじゃないかい」

 これも説明は要らないだろう。なお、パスカルの「考える葦」が出てくるが、例によって寅さんは「考え
る足」と取り違える。足が考えるのならば、タコ社長(太宰久雄)は足が8本だからすごいし、ムカデはも
っとすごいという塩梅に話が発展していく辺りは、喜劇として秀逸であると思った。また、学生服姿の寅さ
んも出てくる楽しい一篇でもある。


 某月某日

 小生のことを「お祭り好き」と思ってらっしゃる人がいると困惑してしまう。小生は、幼いときから、あ
の息の詰まる「儀式」が大嫌いで、冠婚葬祭すべて嫌いである。ただ、それを出汁にして酒を飲むとか、ご
馳走をいただくことまで否定するつもりはない。したがって、強い思想性のある主張ではなくて、ただわが
ままなだけである。しかし、小生自身の結婚に際しては、披露宴に当たるものを4回開いている。ごく近い
親族だけで開いた京都の「下鴨茶寮」の宴を皮切りに、大阪の堺(妻の実家が近い)で、東京の実家で、京
都にある楽友会館で、それぞれ開いた宴の都合4回である。お互いの親族の分離開催、親族と友人筋の分離
開催を目論んだからである。お呼びしなければならない方々に遠くまでご足労願うことをためらったからで
あるし、なおまた、初対面の人ばかりで埋まった会場で畏まることを強要することに忍びなかったからであ
る。小生自身、これまでいわゆる「お義理」で5、6度お呼ばれした結婚式に参列しているが、いずれも忍
耐に忍耐を重ねた時間だった。こんなことを書くと招待していただいた方たちにたいへん申し訳ないが、事
実だから仕方がない。また、葬式もこれまた大嫌いな儀式で、できれば欠礼したいのであるが、そうも言え
ないことの方が多い。母のときのお通夜や葬式はことのほか嫌だったが、息子が抜けるわけにもいかず、ひ
たすらぼーっとしていたことしか覚えていない。だいいち、あの参列者の泣き声の合唱が嫌である。死んだ
とたんに、準備をしていたように泣き出す。便利なものだ。もっとも、隣国には「泣き屋」という商売があ
るくらいだから、葬式の添え物として泣くことは不可欠な要素なのだろう。小生はただひたすら呆然とする
だけであるが。もちろん、小生自身泣くこともあるが、泣いている自分が悲しいのかどうかよく分からない。
泣きながら、「人間が死ぬのは当たり前のことなのに」とつい思ってしまう。これはもう性分だから変えよ
うがないのであるが、せいぜい周囲の人の顰蹙を買わないように振る舞うしかない。この血は、おそらく母
親から受け継いだのではないかと思っている。父親はうそ泣きが上手であり、その辺は世間に合わせるから
である。そこへいくと、母親などは、ある葬式の席で眠りこけてしまい、妹(小生にとっては叔母)に叱責
されているのを目撃したことがある。もっとも、彼女本来の剽軽な持ち味が晩年には影をひそめていた。病
気の苦しみが半端じゃなかったのだろうか。


 某月某日

 青春映画を2本鑑賞した。『赤ちょうちん』(監督:藤田敏八、日活、1974年)と『下妻物語』(監督:
中島哲也、アミューズ=TBS=小学館=東宝=TOKYO FM=ホリプロ=博報堂DYメディアパートナーズ=パ
ルコ=小椋事務所、2004年)である。およそ対照的な映画だったので、この列びで鑑賞したことは比較する
のに好都合だった。一言で言えば、前者は「真っ暗」、後者は「メッサ明るい」ということになろうか。以
下、その相違を考察してみよう(略号として、前者は「赤」、後者は「下」を用いる)。なお、後者は学生
ご推奨の映画である。今まで学生から推奨された映画の中でも、最高と言える作品である。

 主人公の名前    赤 霜川幸枝(久米幸枝)            下 竜ヶ崎桃子
 年齢        赤 17歳                  下 17歳
 出身地        赤 熊本                   下 尼崎(兵庫県)
 暮らし向き      赤 貧乏                   下 貧乏(ではない)
 時代        赤 1970年代中頃              下 2000年代中頃
 生活拠点      赤 東京(転々)                下 茨城県下妻(横根)
 趣味        赤 余裕なし(Wベッド)           下 ロココ趣味(ロリータ)
 友人        赤 職場の友人がいることはいる        下 レディースの白百合イチゴ
 彼(夫)       赤 フリーターの政行             下 なし(ただし、磯部社長を神の
                                      ごとく崇拝している)
 精神        赤 同情心に富みすぎる(後、発狂)      下 タフ
 肉体        赤 鳥電感                  下 どこまでもか弱い(と思いたい)
 性格        赤 暗い                   下 明るい
 配役        赤 秋吉久美子                 下 深田恭子

 年齢が共通する以外、ほとんど一致する点がない。かたや東京が中心舞台なのにどこか田舎臭いし(赤)、
こなた地方(SUPER COUNTRY MOVIE)が中心舞台なのに垢抜けている(下)。使われている音楽も「か
ぐや姫」と「ヨハンシュトラウス」では、まさしく月とすっぽんである。前者のメッセージは、

 ボクたちの
 辞書に
 ない言葉は
 ユメ
 キボウ
 ミライ

これに対して、後者のメッセージは、

 人間は大きな幸せを前にすると
 急に臆病になる
 幸せを勝ち取ることは
 不幸に堪えることより
 勇気がいるの

である。どちらが趣味かは人によるが、「重厚長大」よりも「軽薄短小」を好む小生としては、文句なしに
後者を選ぶ。ただし、前者(赤)の、こちらをいらつかせるほどのドツボ・ワールドも捨てがたいから難儀
である。これはもう、両方とも肯定するしかない。ところで、藤田敏八の映画は、ひとつも完成したものが
ない。意味不明の無駄だと思われるシーンもまま散見できる。しかし、その未完成のところがいいのだ。青
春を描くには完成させてはいけない。下手につくることも技なのだ。藤田は青春の本当の哀しさを知ってい
る数少ない監督だと思うので、作品の出来不出来はあまり問題にならないのである。これに対して、中島は
さすがCFで鍛えただけあって、石井克人(『鮫肌男と桃尻女』、『茶の味』)や関口現(『SUVIVE STYLE
5+』)などの味わいと同じものがある。たとえば、アニメを巧みに導入する手法は石井のやり方そっくりで
ある。いわゆる、プロの作品づくりと言えよう。したがって、ほぼ完璧だ。これもどちらがいいかは、その
人の趣味によるだろう。ちなみに、中島のCF代表作は、山崎努と豊川悦司が白熱した卓球バトルを繰り広げ
るもので、ビールのコマーシャルである。小生も覚えている傑作である。
 話は変わるが、樹木希林(悠木千帆)が両作品に出ている。前者(赤)では意地の悪いアパートの管理人
役、後者(下)では主人公の祖母の役である。現在では、彼女のキャラはほぼ固定されているが、TVの『寺
内貫太郎一家』以後のことだと思う。本来、意地の悪い女の役が多かったのであるが、近年ではちょっと癖
のある善人役ばかりになってしまった。本人は満足しているのだろうか、と思った。その他、後者の配役の
中では、土屋アンナ(白百合イチゴ)と阿部サダヲ(一角獣の龍二)が光っていた。宮迫博之(桃子の父親
役)は大好きな芸人であるが、この作品では他の人でもやれる、と思った。前者の映画では、石橋正次(幸
枝の兄役)が懐かしかった。今、何をしているのだろう。
 最後に、ロリータ・ブランド名とレディース名を記しておく。《BABY,THE STARS SHINE BRIGHT》と
「舗爾威帝劉(ポニーテール)」である。その他、桃子の台詞である「裏切りと書いてにんげんと読む」や、
祖母の台詞である「お前じゃなきゃダメっていう場所がきっと見つかるよ」が印象に残った。また、人と人
との出会いの機会が、両作品の間に横たわる30年の間に拡大されて(携帯電話やインターネットなど)、あ
り得ない組み合わせを生むようになった、という点が指摘できるだろう。以前だったら、どうしたって桃子
とイチゴは出会うはずがないのだから。もっとも、以前にテレヴィが伝えていたことであるが、30代半ばの
主婦が、17歳の高校生とインターネットを通して知り合って交際を始めるケースがあるそうだ。この程度の
組み合わせならば、おそらく世間にはいくらでも転がっているのだろう。だとすれば、桃子とイチゴの出会
いはそれほど奇異ではないことになる。いずれにしても、変われば変わるものだ。


 某月某日

 『帰らざる日々』(監督:藤田敏八、日活、1978年)を観た。小生の思春期と重なるだけに、思い当たる
節の多い映画である。したがって、観ていて恥ずかしくなることが屡々だった。物語は、1978年の夏、東京
在住の主人公(永島敏行)が父の死を電報で知らされ、長野県の飯田市に帰郷するところから始まる。しか
しながら、物語の中心はその列車の中での回想シーンにある。回想される年は1972年であり、小生は高校3
年生だった。したがって、この主人公の年齢とほぼ重なるわけである。ちなみに、永島は1956年生まれで、
小生の2歳下である。なお、同級生役を演じる江藤潤は1951年生まれだから、小生は彼らの真ん中というこ
とになる。アリスの感傷的な歌が全篇を通して流れており、それなりに時代を感じる。当時この手の歌謡は
苦手だったが、今聴くとまんざらでもない。年を経て間口が広くなったのだろう。回想シーンは1972年7月8
日の飯田から始まる。いきなり、サンドラ・ジュリアンなど、知っている人が耳にするとニヤッとするよう
な名前が出てくる。もちろん、小生は知っている。また、漫画本の『高校生無頼控』(原作:小池一雄、画:
芳谷圭児)が机の中から出てきたりして、自分の高校時代を観ているような気分に浸ることができた。さら
に、『昭和残侠伝』(東映の人気シリーズ、1965-72年)だと思うが、花田秀次郎(高倉健)と風間重吉(池
辺良)の道行きシーンを映画館で観ている主人公が出てくる。もちろん、例の「唐獅子牡丹」を口遊みなが
ら。このシリーズは全部で9作つくられた由であるが、小生は多分全部観ていると思う。たしか、健さんの
「死んで貰います」は、流行語になったはずである。もう一度観てみたい気がする。江藤潤の従姉役(浅野
真弓)、永島の初体験の相手役(竹田かほり)、主人公の現在の内縁の妻役(根岸とし江=現 根岸季衣)な
ど、魅力的な女優陣が物語を彩っている。ところで、小生は浅野真弓を覚えておらず、初めて観た女優だと
思う。現在は柳ジョージと結婚して引退しているらしい。脇を固めている人も、浅丘雪路、草薙幸二郎、吉
行和子、中村敦夫、中尾彬などであり、皆それぞれ若い。それにしても、中村敦夫の着流しやくざはないだ
ろう、と思った。その点でも面白かった。永島の「結婚か、大変だな」という台詞があるが、その直後に列
車の連結シーンがつづき、思わず笑った。映像の「遊び」として面白いと思ったからである。気怠いような、
甘酸っぱいような、70年代の青春絵巻を観させて貰った気分。今の若い人にはどのくらい通じるのだろうか。


 某月某日

 「寅さん」映画を2本観たのでご報告。1本目は『男はつらいよ・寅次郎恋やつれ』(監督:山田洋次、
松竹、1974年)、2本目は『男はつらいよ・寅次郎子守唄』(監督:山田洋次、松竹、1974年)である。前
者のマドンナは吉永小百合(2度目の登場、歌子役)、後者のそれは十朱幸代(木谷京子役)である。なお、
後者から、おいちゃん(車竜造)役が松村達雄(二代目)から下條正巳(三代目)に変わっている。やっと、
松村おいちゃんに慣れてきた矢先だったのに……。まあ、おいちゃん役の最も長い下條正巳に慣れるのは時
間の問題だろうけれど。もちろん、森川信、松村達雄、下條正巳、それぞれの味わいがある。
 さて、前者の物語であるが、高田敏江(絹代役)が準マドンナを演じており、ひょっとしたら寅さんとの
結婚まで発展したかもしれないが、行方知れずだった夫が帰ってきてその話は水泡に帰すことになる。そこ
で歌子が登場するわけであるが、彼女は夫を亡くしたばかりという設定である。婚家との折り合いはあまり
芳しいとは言えず、結局そこを飛び出して、伊豆大島で障害児の世話をする仕事に就くという流れである。
「未亡人」という言葉が出てくるが、日本語にはこの言葉のマイナス・イメージを払拭する代替語と呼べる
ものはまだないと言ってよいだろう。さくらがこの言葉を嫌がっている場面があるが、もっともだと思った。
夫を亡くした女性として、婚家に対して歌子の取った態度は、『東京物語』の次男の嫁である紀子(原節子)
とは異なるものである。端的に言って、時代的なものに関係しているのだろう。もちろん、当時でさえ紀子
のような女性は少数派であったと思われるし、現代ではほぼ絶滅していると思う。つまり、夫を亡くしてい
るのになお婚家に縛られるなど、あり得ない話になっているからである。もうひとつのテーマは父と娘であ
る。これは以前にも取り上げたが、父親役の宮口精二は寅さんとは対照的な人物である。その彼が寅さんの
人となりに触れて変わる、というところがこの話のミソになっている。なお、これは『男はつらいよ』すべ
てに通じることだと思うが、両篇ともに日本の景色がとても美しい。とくに、前者に登場する津和野が際立
っていた。
 さて、後者の物語は、寅さんにいきなり子どもができるというところから始まっている。もちろん、実子
ではなく、「子どもまでなした女に逃げられた」という設定のお調子者の青年(月亭八方)に押し付けられ
たのである。おばちゃん(車つね=三崎千恵子)が中心になって育てることになるが、結局実の父の元に戻
る。新たな同棲相手の踊り子(春川ますみ)が育てることになるのだが、そのときのおばちゃんの涙が少し
痛々しい。もちたくても自分の子どもをもてなかった女性の感じがよく出ていた。考えてみれば、寅次郎も
さくらも、おいちゃんやおばちゃんに子どもがいないからこそ、あんなに甘えられるのである。さて、寅さ
んの恋のお相手は看護婦(現 看護師)の京子(十朱幸代)であるが、結局彼女に恋慕する青年(上條恒彦)
に周旋してしまう。恋の指南役に回る寅さんの優しさが滲み出ている。なお、踊り子役の春川ますみは、以
前にまったく別の役で出演していたが、この作品の彼女はとくに輝いていると思った。


 某月某日

 「良心的」という言葉があるが、最近ではどうもまともには遣われなくなってきた。もちろん、良心的で
あることに越したことはないが、現代は複雑な世の中なので、文字通り良心的に生きることは困難になって
いる。昨晩観た『ブラックボード』(監督:新藤兼人、地域文化推進の会=電通=近代映画協会、1986年)
という映画も、世間的には良心的な映画なのだろうが、成功しているとは言い難い。新藤兼人の映画を高く
評価しているつもりの小生だけに、少しがっかりした。この映画は中学生の「いじめ」がテーマであるが、
どうにもパンチ不足なのである。善人が映画をつくるとこの手のものは失敗する、というお定まりの流れで
ある。10年ほど以前、「いじめ」問題を真正面から講義で取り上げたことがあったが、学生の関心が大変高
かったことを記憶している。中には、「いじめはもともと楽しいものである」という容認できない意見もあ
ったが、心の奥底にはそのような人間の本音が隠されているのかもしれない。正確には覚えていないが、安
部公房の『密会』に、「弱者への愛には、つねに殺意が込められている」といったニュアンスの文句が冒頭
を飾っていたと記憶するが、まさにそれに近い。ところが、この映画は、いじめが殺人にまで発展してしま
った事実をめぐって、学校と親、そしてマスコミという三つ巴の定型的な構図を示しただけに留まっている。
つまり、いじめをする人間の心が描けていないのである。偏差値のせいで志望校を限定されてしまったこと
から「いじめ」に走るという道筋は見えやすいが、それだけのことならば珍しくもなかろう。大人社会の矛
盾が子どもの世界に反映しているという指摘も陳腐そのものである。出演している役者も、校長役の財津一
郎と息子を殺された母親役の乙羽信子を除いて、さして目を引いた演技はなかった。また、事件の関係者と
マスコミとの間の軋轢という構図も、すでに同監督の『裸の十九才』でも扱っていたので、どうにも二番煎
じは免れない。さて、いじめの方法であるが、失禁するまでトイレに行かせないというやり方はまことに卑
劣そのもので、「陰湿さもここに極まれり」であろう。言い換えれば、生理的な部分を攻めるいじめは、想
像力の欠如では済まされない「人間失格」の様相を帯びていると思う。取って付けたような物言いにしかな
らないが、やはり、誰であれ虐待やいじめの本質をみつめる姿勢を失ってはならない、と思う。要点は、自
分にも加害者の素質があることを忘れないことだ。


 某月某日

 『殺しの烙印』(監督、鈴木清順、日活、1967年)を観た。「わけの分からない映画を撮る奴などいらな
い」ということで、日活を馘首される直接のきっかけとなった作品の由である。たしかに、意味不明の場面
が頻出する。清順は徹底的に「日常性」を嫌うようなので、映像的な遊びが全編に満ちているというわけで
ある。つまり、人がそれをどう捉えるかによって、評価が分かれるのだ。映画のジャンルとしては、いわゆ
る「ハードボイルド・アクション」に属するが、カルト映画に分類されることもある。したがって、ほとん
ど「家族」とは何の関係もないように見えるが、その非家族的なところがかえって家族研究の参考になる。
つまり、「奔放な性と暴力は家庭には似つかわしくない」という常識がここにも生きているからである。も
っとも、だからこそ映画の格好の題材になる。ただし、この映画では、宍戸錠と南原宏治が殺し屋としての
力量を競う場面が見所である。性的な描写は、後に日活が路線として敷いたロマン・ポルノではないので、
あっさりしたものである。それでも、当時では大胆なものだったのかもしれないが。同監督の『ツィゴイネ
ルワイゼン』や『陽炎座』の性描写も奇妙な感じを免れないので、清順ならではの感性なのだろう。主演の
宍戸錠が、DVDの映像特典のインタビューで語っていることであるが、体位などにはどうやらドガの絵が影
響しているらしい。しかしながら、「飯の炊ける匂いがなぜか性的な起爆剤になる」という主人公の性癖に
ついては、一切説明がない。そういうものかと思うしかないのである。真理アンヌが出ているが、懐かしか
った。ちなみに、『ジョゼと虎と魚たち』で、雀荘の客の役で出演している彼女を久しぶりに見かけた。芸
能活動を続けているのだろうか。


 某月某日

 『かあちゃん』(監督:市川崑、映像京都=日活=イマジカ=シナノ企画、2001年)を観た。山本周五郎
お得意の長屋話で、新味があるわけではない。それでも、ほのぼのとした気分に浸りたい人には格好の映画
であろう。監督の市川崑が「キャスティングが演出の70パーセントを占めている」と明言しているが、かあ
ちゃん役の岸恵子はさすがに光っている。ただ、彼女がみすぼらしい長屋にいても、少しも貧乏臭くないの
はどうしたわけか。やはり、パリの香りが漂うのだ。華やかなイメージが消えない分、何とも不思議な柔ら
かみが出ている。長男役のうじきつよしも物腰が柔らかいので、相乗効果をもたらしていると思った。また、
狂言回しの四人組、江戸屋子猫、コロッケ、中村梅雀、春風亭柳昇の面々は、落語の世界から抜け出して来
たような佇まいを見せており、映画の芯になっている。ただ、子猫とコロッケの持ちネタは、お約束とは言
え、いらないと思った。彼らや彼らのファンには失礼。その他、大家役の小沢昭一、易者役の常田富士男が
いい味を出している。主演の岸恵子は、市川作品に八度目の出演の由であるが、小生としては、『悪魔の手
毬唄』(監督:市川崑、東宝、1977年)が最も印象深い。実は、横溝正史原作の金田一耕助ものの中で、こ
の作品が最高傑作だと思っている。ところで、自作の『犬神家の一族』(角川春樹事務所、1976年)を90歳
になる市川崑監督が30年振りにリメイクするそうであるが、観てみたい気がする。金田一耕助役は前作と同
じ石坂浩二、その他、大滝秀治と加藤武は同様の役で再演するそうである。


 某月某日

 昨日のつづき。例によって、今日では問題のある表現を用いるが、歴史的背景をお汲みいただき是非ご海
容願いたい。
 さて、無着先生は、子どもたちにとって修学旅行がいかに大切かを、貧しくて参加できない生徒の家庭に
説いて回る。今日ならば、多分あり得ない家庭訪問であろう。言うまでもなく、「お節介」の部類に入るか
らである。もちろん、説得される父兄もいるが、はなから経済的に無理な家庭もある。しかし、結構教師は
尊敬されていて、無闇に煙たがられるわけではない。彼はその絡みで、女生徒二人と以下のような対話をす
る。修学旅行に際して、学友が新調の着物を誂えるというので、気持が弾まないというのだ。つまり、出し
抜かれたというわけである。

 無着  襤褸や貧乏は文化遺産じゃないものな。でも、君らにとって、一番大切なものは着物か?
 女生徒 勉強だろうか。
 無着  そうだ、人間らしくなるためのな。百姓が襤褸を着なくて済むようになるにはどうしたらいい
    のか、百姓が栄養のあるものを食えるようになるためにはどうしたらいいのか、百姓が新聞や本
    を読む力や暇をつくるにはどうしたらいいのか、みんなで考えてみることだな。
 女生徒 いつも力を合わせていこう。蔭でこそこそしないでいこう。働くことが好きになろう。もっと
    いい方法はないか探そう。喜びも悲しみも一緒にしよう。

 おそらく、女生徒が口にした文句は、いつも唱えているお題目のようなものだろうが、おひかり様のよう
な迷信に満ちた教えに従うよりもはるかに合理的なことは言うまでもない。無着先生は、「人間的なものと
は何か」をいつも問いかけ、それを生徒とともに考えているのである。いわば「手作りの教育」と言えよう
か。
 修学旅行先でもいろいろのエピソードがある。小生が一番驚いたのは、布団にくるまって寝る習慣をもた
ない少年がいたということである。まったく意表を突かれた。布団にくるまって寝るということは、実は贅
沢なことなのである。
 無着先生は生徒たちの学力についても心配する。軍国主義の影がここにも差しているというわけだ。たと
えば、昭和13、14、15年の徴兵検査の際の学科試験の成績によれば、農村の青年なのに肥料の三要素が言え
なかったり、銃や忠義などの字は書けるのに、鎌や鍬の字は書けない者がかなりの数に上ったという。その
ような現実は、その当時もほとんど改善されていないのである。傑作なのは、「空腹」を「そらぱら」と読
んで、「空気の入った腹」の意味であると答えた生徒である。
 暗中模索はどこまでもつづく。彼は月給の大部分を書籍などに遣ってしまい、いくらも残らない。親父殿
(滝沢修)や母御(北林谷栄)に、そのことで小言をこぼされる。しかし、本は教育には絶対に必要なのだ。
その有様を包み隠さず生徒に話して聴かせ、さらに、諸君も生活のありのままを晒し、それを考えてほしい
と訴える。「村はなして貧乏なのか?」、「学校はどのくらい金がかかるのか?」、その他いろいろな問題
を綴方にして、皆の文集をつくることを提案する。事実を知り事実を書くことは、人間を一番強くするのだ、
と。もちろん、周りの者皆が無着先生の考えに賛成なわけではない。綴方よりも葉書の書き方を教えた方が
いい、という意見も挙がる。しかし、無着先生の言いたいことは、生徒たちの技術を向上させることではな
くて、気持を素直に出させることなのである。歴史や社会の中での人間関係を、子どもたちの身近な生活か
ら綴方を通してつかまさせることなのである。そうしなければ、子どもたちの心はどんどん卑屈になってゆ
き、自分のことしか考えない利己主義者になってしまう。子どもたちが落伍しないように、皆で考え皆で力
を貸すことが大切なんだ、と説く。敗戦後、日本人は媚び諂いの笑いを覚えた。泣く代わりに笑う者もいる。
自主性のない笑いだ。しかし、笑いは、常に生活を明るくし、健やかにしてきたことも忘れてはならない。
明るく健やかな笑い、これこそが無着先生が求めてやまないものである。まことにもって前向きな先生では
あるが、今日の荒廃した教育現場を前にして、「よし、頑張って何とかしよう」という気持になれるものだ
ろうか。時代が違うと言えばそれまでであるが、彼のような人が現代にいるとすれば、確実に周りから浮く
と思う。『ともしび』(監督:家城巳代治、新世紀プロ、1954年)の主人公と同様、「出る杭は打たれる」
からである。しかし同時に、社会は第二、第三の、否、無数の無着先生を必要としているのである。なお、
岩波文庫に、無着成恭 編『山びこ学校』がある。


 某月某日

 このブログに間違いを発見したので、そのことから。つい最近、家城巳代治監督の『雲ながるる果てに』
の感想文を綴ったが、その中で1996年版『ぴあシネマクラブ』に掲載されている邦画の評価に触れ、星四つ
の最高評価を二度以上受けた監督は7人であると書いたが、10人の誤りだった。残りの3人を作品名ととも
に以下に記す。

 今村昌平:『ニッポン昆虫記』(日活、1963年)および『神々の深き欲望』(今村プロ、1968年)。
 木下恵介:『お嬢さん乾杯』(松竹大船、1949年)および『二十四の瞳』(松竹大船、1954年)。
 五所平之助:『花籠の歌』(松竹大船、1937年)および『煙突の見える場所』(スタジオ8プロ、1957年)。

 実は、今村昌平監督の『ニッポン昆虫記』を除き他の作品は未見なので(その後、『二十四の瞳』は鑑賞)、
つい間違えたのである。お詫びして訂正したい。

 * 2012年1月現在、『花籠の歌』を除き、残りの作品は鑑賞済み。その後、2016年12月に、この作品も鑑
  賞した(by You Tube)。

 さて、『山びこ学校』(監督:今井正、八木プロ=日本教職員組合、1952年)を観た。このブログでもい
ずれは観たいと書いたことがある作品で、京都の紀伊國屋で見つけて買っておいたDVDによってである。音
声状態があまりよくないので、聞き取れないところもずいぶんあったが、50年以上も前の作品というところ
に配慮すれば、いたしかたないところか。山形県の山村である山元村の中学校教師である無着成恭(木村功)
が企画した「貧乏綴方」を核にした物語である。この村は水田が少なく、蚕(養蚕)・木炭(炭焼き)・木
材・葉煙草・ホップなどが収入源である。暮らし向きはどの家も豊かとは言えず、そのことが無着先生を悩
ませている。もっとも、ただおろおろしているのではなく、何とかして村の発展や子どもの健やかな成長を
促そうと努力している。その努力も深刻なものではなく、できることから着手しようとする実践派である。
詳しくは明日また書く予定であるが、敗戦がかえって日本を明るくした有様を丁寧に描いた作品と言えるだ
ろう。
 ところで、50年を経て、日本は『山びこ学校』の目指した世界から大きく逸れてしまった。たしかに、一
時期だったにせよ、経済的発展を謳歌した時代があったことは否めないが、本当に人々が心から満足した世
界は相変わらず実現したわけではない。50年代の貧困から抜け出したのはいいが、家族を最小単位とする人
間関係は時代を経るに従ってだんだんとその脆弱さを露わにしてきた。たとえば、典型的なバイオレンス映
画である『GONIN』(監督:石井隆、ぶんか社=イメージファクトリー・アイエム、1995年)や、その姉妹
編である『GONIN 2』(監督:石井隆、衛星劇場、1996年)などは、殺伐とした家族の情景や家族崩壊後の
復讐劇を作品に絡ませている。それは、凍えるような映像世界であり、『山びこ学校』の温かさとは対蹠的
な世界と言えるだろう。近年、このような暴力だけを売り物にした映画がかなり目立つが、シャロン・スト
ーン主演の『氷の微笑(BASIC INSTINCT)』(監督:ポール・バーホーベン、米国、1992年)や『硝子の
塔(SLIVER)』(監督:フィリップ・ノイス、米国、1993年)を観たときに感じたような不可解さとやり切
れなさを感じる。何でそんなに暴力に訴えなければならないのだ、と。もっとも、すべては「共同幻想」次
第という観点に立てば、『山びこ学校』の世界だってこれから先復活しないわけではないだろう。

                                                      
***このページは一般に公開されています。リンクアドレスには下記をご利用ください。***
http://souls.cc.kochi-u.ac.jp/?&rf=1848
 Copyright (C) 2005, Kochi University Faculty of Humanities and Economics All Rights Reserved.