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思想系の学問に興味のある人へ
 再び、この「思想系の学問に興味のある人へ」を一般公開します。

                                                   
思想系の学問に興味のある人へ
                                                 

 「思想系の学問に興味のある人へ」


 はじめに

 思想系の学問を学ぶことの愉しさについて、四っつの項目に分けてお話したいと思います。それぞれ、
人間の行為に関わる動詞をそのまま題名にしました。第一節は「生きる」、第二節は「読む」、第三節
は「考える」、第四節は「表す」です。思想系の学問にとって、それぞれとても大切な事柄と言えるで
しょう。それでは、第一節に入っていきましょう。


 (1)生きる

 さて、私たち人間のことを考えてみましょう。「人間とは何か」という問いは、意外に難しい問い
です。たとえば、「人間とは理性的動物である(=ロゴスをもつ動物。中世に定式化され、animal
rationale と表現された)」という、アリストテレース(B.C.384-322)の有名な定義がありますが、
それだけで人間を知ったことになるのでしょうか。たとえ、何となく了解しているとしても、さらに、
「理性的とは何か」、あるいは、「動物とは何か」という新たな問いに答えなければなりません。こう
して、際限なく問い続けていっても、元々の問いである「人間とは何か」は、おそらく分からないまま
でしょう。しかしながら、何となく了解していることも否定できない事実です。
 ところで、私の基本的立場は、「人間を定義することは不可能である」という立場です。というのは、
そもそも人間を規定することは困難であり、人間を必要以上に限定することにつながると考えているか
らです。言い換えれば、人間の「可塑性(元の意味は、固体に圧力を加えたとき形がかわり、圧力を取
り去っても元の形にもどらない性質のこと。粘土やプラスティックなどの性質)」を否定すれば、人間
という存在者を一定の枠組に押し込んでしまうことになりかねないからです。諸君も、「お前はこれこ
れの人間である」と他から決めつけられれば、きっと反論したくなるでしょう。つまり、私たちは、実
に移ろいやすい存在者なのです。
 先ほど述べたように、アリストテレースの「理性的動物」という言葉も、人間を十全に言い尽くして
いるわけではありません。それでは、人間を規定する言葉には、他にどんなものがあるのでしょうか。
ざっと挙げただけでも十指にあまるほどです。

 homo erectus(直立二足歩行人)
 homo sapiens neanderthalensis(ネアンデルタール人)
 homo sapiens sapiens(現生人[現生人類])
 homo loquens(言葉を操る人)
 homo utens igne(火を用いる人)
 homo faber(工作人:B. フランクリン/ベルクソン)
 homo socialis(社会を営む人)
 homo ludens(遊ぶ人:ホイジンハ)
 homo a(e)stheticus(美を感じる人)
 homo religiosus(宗教を信じる人)
 homo ridens(笑う人)
 homo demens(錯乱した人)
 homo communicans(交易する人:今村仁司)
 homo polemicus(抗争する人:今村仁司)
 homo patiens(病む人)
 homo curans(心配する人)

 このように、人間の特徴を捉えて人間を規定する言葉はたくさんあるのです。もちろん、いずれも
「言い得て妙」であり、このような規定そのものを否定するつもりは毛頭ありません。しかしながら、
このような規定だけが人間を捉えていると言い切れば、やはり問題があります。人間はつねに変化を
遂げてゆく存在者ですから、このような規定からはみ出す部分を見逃すことになるからです。
 また、いわゆる「線引問題(demarcation problem)」との絡みで、人間をめぐる政治的・倫理的問
題もあります。端的に言えば、「どこまで人間で、どこから人間ではないのか」という問いは、非常に
微妙な要素を含んでいるのです。私たちの日常においては、「人間」と「人間ではないもの」とを簡単
に区別しています。しかし、世の中には、その区別が困難な場合も多々あり得るのです。たとえば、
「チンパンジーは人間ではない」という言明には、わりあい説得力がある(ただし、そうは考えない類
人猿学者もいます)と思われますが、「胎児」や「認知症に陥った人」や、「脳死者」などは、「人間
ではない」と言えば、ずいぶんと物議を醸すことになるでしょう。歴史を振り返ってみれば、インディ
アスを破壊したかつてのスペイン人や、ナチスのユダヤ人絶滅政策などは、わずかな差異を根拠にして、
人間を人間扱いしなかったところから起きた悲劇です。さらに、今もくすぶる「民族紛争」などのよう
に、一つ間違えば、互いを人間扱いしない事態が生じかねないことも、まさに人間界の実相と言えるで
しょう。
 以上述べたことがある程度真実ならば、人間を自分に都合よく規定して、それでよしとする態度は改
めなければならないことが分かるはずです。チューインガム会社のオーナーは「人間とはチューインガ
ムをかむ存在者である」と規定するかも知れませんが、それではあまりに狭く、しかも恣意的な人間の
規定となってしまうでしょう。売り上げを伸ばそうとするオーナーの一途な気持は分らないではないで
すが、チューインガムをかむことが人間にとって重要かどうかを、人類全体が肯定するとは限らないか
らです。
 そもそも、私たちが「人間とは何か」などという問いを発すること自体、人間的であることに気付か
なければなりません。犬や猫が、「犬とは何か」、「猫とは何か」などの問いを発しているとは思えま
せん。そのような問いを発しなくとも、生きていけるからです。すなわち、習性が本能によってある程
度決定しているからです。犬や猫の行動を観察していると、品種の違いはあっても、東京のそれであれ、
高知のそれであれ、あるいは外国のそれであれ、ほとんど区別がつかないくらい似通っています。たと
えば、猫族の仕草を観ていると、憎らしいぐらい毅然としています。もっと、人間に阿ったらいいのに
と思うのですが、よほどおなかが空いているとき以外は知らんぷりです。犬は犬で、餌を与えて安心さ
せると、猫とは違って直ぐ忠犬になってしまいます。ときには猫のごとく、ときには犬のごとく、とは
いかないようです。
 人間も、同じように見えますが、知性を発達させてしまったので、とても多様になってしまいました。
16世紀のフランスのモラリストであるモンテーニュ(M.de Montaigne, 1533-1592)は、「動物と人間
との違いよりも、人間同士の違いの方が大きい」と語っています。多少割り引いたとしても、ヨーロッ
パ世界が開けつつあった当時の人間の感想として、かなり本音に近いものだったと思います。
 また、フランスの実存主義者ジャン=ポール・サルトル(J.P.Sartre, 1905-1980)によれば、「実存
は本質に先立つ」とされます。たとえば、ペーパーナイフはそれをつくる職人の頭にある形相を実現さ
せることによって本質が規定される存在者(すなわち、本質が実存に先立つ)ですが、これとは対照的
に、人間は自らを企投することによって本質を創造してゆく存在者(すなわち、実存が本質に先立つ)
なのです。換言すれば、「人間は自由という刑に処せられている」というわけです。
 私たちは、このようにして、自らの行動を自ら選び取って生きています。この「自由意志」こそが私
たちを他の動物から分かつ大きな指標なのです。したがって、そこに道徳の問題が顔を出すというわけ
です。なぜなら、もし私たちに自由がないとすれば、行為のすべてが必然的な枠組の下で行われるわけ
ですから、一切の責任は生じようがないからです。言い換えれば、人間以外の存在者は、すべて「道徳
的に無記(amoral)」なのです。人間だけが道徳の主体となるのです。
 さて、自分の経験ほど、それがどんなに辛いものであれ、過ぎ去ってみれば、どこか懐かしく、親し
く感じられるものはありません。失恋であれ、落第であれ、破産であれ、大病であれ、そのときは、と
てもこの世に身を置くことができないと感じたとしても、少しばかり生き延びてみれば、ほろ苦いとは
言え、良い思い出となり得るものです。
 誰でも経験するでしょうが、若い頃は、精神的危機を迎えやすいものです。出口なしという状況が数
年続き、その期間を「ああでもないこうでもない」と悩むわけです。しかし、そのように悩むことによ
って、かえって生き延びるための方策を見つけることもあるでしょう。生は、死を意識して初めて生き
生きしてくるものかもしれません。とにかく、何であれ、対象を徹底的に考え抜く時期が若者には必要
ではないでしょうか。それを怠ると、中年期に憂鬱症に取り憑かれることもあるようです。
 さて、思想系の学問(哲学)は、それを学ぶと何か得をするとか、職業的に有利な能力が身に付くと
か、異性にもてるとか、お金が儲かるようになるとか、そういうことは全然期待できない学問です。世
俗の善、すなわち、名誉、富、健康などとは、一切関係のないところに、哲学は成立するのです。した
がって、それらの世俗の善を求めて哲学の道に入った場合、大きな失望を感じるでしょう。哲学するこ
とだけが目的で、哲学が三度の飯より好きという人にこそふさわしい学問なのかもしれません。今日で
は、「実学」の向こうを張って、「虚学」と呼ばれることすらあります。
 それでは、なぜ「哲学する心」が芽生えるのでしょうか。その根本には、驚きがあると思われます。
誰しも、子どもの頃にはさまざまな疑問を抱きます。私は、なぜ生きているのだろう。生きている意味
などあるのだろうか。死んだらどうなるのだろう。宇宙の果てはどうなっているのだろう。もちろん、
もっと具体的に、人には言えない家庭の事情とか、人間関係のこととか、誰でもいろいろ悩むことはあ
ります。しかしながら、自分自身の存在そのものに関する疑問の不思議さほど、人を驚かせるものはな
いでしょう。私は、なぜ存在するのか。言い換えれば、この唯一無二の私は、なぜこの世に生まれてき
たのか。
 しかし、そのうちに、これらの疑問は、いくら問い続けても答えは得られないということに気付きま
す。しかし、同時に、問い続けずにはいられないのです。生涯に、一度も、このような問いを立てたこ
とのない人は少ないのではないでしょうか。とすると、誰もが子どもの頃は、哲学する者だったわけで
す。「哲学する」ことは、人が思っているほど、そんなに難しいことではありません。誰もが、それと
知らずに、哲学することを始めているからです。
 けれども、大人になって、雑事に忙殺されるようになると、そのような問いを問い続けることは、閑
人の愚行であるように思えてきます。第一、どこまで問い続けても答えの得られないような問いにどん
な意味があるのだろうか。そのような問いは、実生活においては無意義なのではないか、というわけで
す。そうして大人の知恵を身に付けたのが、ハイデガー(M. Heidegger, 1889-1976)の語る、「世人
(das Man)」です。彼らは、好奇心から人の噂話や悪口に熱中します。しかも、人間にとってもっと
本来的な事柄には目もくれず、日常の中に埋没しているのです。
 上で述べたように、哲学は「驚き〈タウマゼイン〉」から始まると言われます。夜空に輝く星を眺め
て驚くというのが、哲学の始まりなのです。鏡に映る自分が気味の悪い存在に見えたときから哲学が始
まる人もいるでしょう。とにかく、そういう意味では、哲学者は永遠の少年少女と言えるでしょう。大
人の知恵を身に付け、すべてのことが日常の生活秩序の中で見事に配列されており、世の掟に従って、
それに何の不思議も感じずに、無気力に規則正しく生きることが大人になることだとすれば、それは何
と退屈で、無意義な人生でしょう。世間では当たり前と考えられていることに一つ一つ疑問を抱き、も
っと違った生き方、新しいものごとの見方があるのではあるまいかと考える人は、前進してゆくことが
できます。自分の創意工夫で、新しいものごとの見方、考え方を編み出してゆくことができるのです。
 日常の只中にあって、与えられたものを、たとえそこにいかなる不合理があろうとも素直に受け容れ、
世の慣行に唯々諾々と従ってゆくことができる人が、世間では歓迎されやすいものです。しかし、それ
では、現状を打破し、新しい生のあり方を自分自身で選び取ってゆくことはできません。何ごとにも疑
問を抱き、これはちょっとおかしいのではないかと思う感受性をもつ人が、世の中を変えてゆくことが
できる、一歩先に行った人です。言い換えれば、何ごとにも不思議を感じ、果たしてこれでいいのかと
疑問を抱くことのできる人が哲学的精神をもつ人です。したがって、思想系の学問を学ぶことの愉しみ
は、実にこの一点にあります。つまり、理不尽な人生の秘密を、少しでも暴いてやろうという点にある
のです。


 (2)読む

 思想系の学問は、「読む」ことから始められるのが常です。昔の日本人は、四書五経の素読をやらさ
れました。「読書百遍、意自ずから通ず」というわけです。『論語』第二為政篇に、「子曰わく、學而
不思則罔、思而不學則殆」という文句があります。つまり、勉強はよくできるけれども、自分で考えよ
うとしない人は、他者の考えをただ蓄積しているだけの愚者だし、いろいろ考えるのだけれども、全然
他者の考えを受け付けない人は、この世を己だけで生きていると勘違いしている点で、やはり愚人なの
です。知は己で生み出すものであるのと同時に、他から伝達されるものなのです。物品ならば、人に渡
せば手元にはなくなりますが、知識や知恵は、人に伝えることができれば、二倍にも三倍にも殖やすこ
とができます。それどころか、人類全体の財産になることさえあり得るでしょう。つまり、知は死蔵さ
れれば知ではないのです。
 さて、私は、三つの読書法を学生諸君に勧めています。一つは「濫読」、手当たり次第に興味の湧き
そうな書物を手に取って、貪欲に知識を吸収するための読書です。もう一つは「精読」、気に入った本
を徹底的に、それこそ嘗めるようにして読むことです。その内容が自分の血肉にならなければ、精読し
たとは言えないでしょう。三番目は「積読(つんどく)」、買うだけで読まないことをそう呼びますが、
いつかは読もうと思うことが大切です。また、私には、30年以上も前に購入した文庫本を気紛れに読み
始め、面白くなってそのまま読了してしまうことすらあります。ところで、思想系の学問の読書で一番
大切なことはどれかと言うと、ずばり「精読」することです。また、できれば翻訳ではなく、原文に当
たってみることです。それでは、なぜ精読する必要があるのでしょうか。私たちの時代は「情報化時代」
と呼ばれています。情報に関して言えば、とにかく早く消化して自分のものとし、その情報をいち早く
活用する必要があります。その作業が少しでも遅れれば、その情報はすでに古いものとなり使えなくな
ります。たとえば、2017年の日本シリーズを制した球団は福岡ソフトバンクホークスであって、シーズ
ン3位ながらクライマックス・シリーズを勝ち抜いて、19年ぶりにセ・リーグの代表として日本シリー
ズに進出した横浜DeNAベイスターズの日本一とはなりませんでした。ベイスターズが阪神や広島を破っ
たクライマックス・シリーズは、泥臭くも見事なものでした。日本シリーズでも、3連敗の後2連勝し
て、第6戦を惜敗しなければ、2010年の千葉ロッテマリーンズ以来の下剋上制覇もまんざらあり得ない
ことではなかったと思います。第6戦9回裏の内川の同点本塁打は、彼が元同僚だっただけに、因縁め
いたものを感じました。2018年の日本シリーズがまったく興醒めだったので(ホークスやカープのファ
ンの方、ごめんなさい)、2017年の日本シリーズが際立っているというわけです。しかし、その情報を
今ごろ知っても手遅れです。たとえば、「讀賣巨人軍はどうなったの」などと口に出せば笑われるのが
落ちでしょう。情報はその場の話題になれば用済みで、素早く忘れ去り、新しい情報に喰らいつく必要
があるからです。つまり、情報の扱いに失敗したら、文字通り「後の祭り」というわけです。新聞は、
ホットなうちは「新聞」ですが、日が経てば、ただの「新聞紙」となってしまうというわけです。ある
いは、世には儲け話がごろごろ転がっているようですが、世間が騒ぎ出したころには、もうすべては終
わっている、と言っても過言ではないでしょう。おいしいところは食べ尽くされているからです。
 これに対して、思想系の学問においては、情報は問題にはなりません。より普遍的な要素をいかに読
み取り、それを自分の血肉にするかどうかが問われます。したがって、涌いては消えてゆく現代の思想
潮流を追いかけてばかりいる人は、思想に振り回されているだけで、「哲学」をしているとは言えない
でしょう。「マルクス主義こそ世界を救う道だとか、民主主義こそ王道だとか、実存主義はもう古い、
これからは構造主義だとか、構造主義はもう古い、ポスト・モダンだ、脱構築だ」などと、20世紀には、
いろいろな思想が百花繚乱のごとく咲き乱れました。私も若いころは、友人に勧められてミッシェル・
フーコーなどを読んでみましたが、分かったような分からないような、何か非常に頼りない感じに陥り
ました。そんなときです。私の先生のお一人が、「若いときにはいろいろ本を読むのは結構なことだが、
さまざまな思想に対してストイックになるべきだ」と言われたのです。直ぐに何かの思想にかぶれて熱
中し、また直ぐに冷めて他の思想を漁ることの愚を諭して下さったのです。そこで私は考えました。私
たちの生きている現代は、近世の枠組の中にあり、そしてその行き詰まりの世界を苦悩しているのであ
る、と。私は、デカルトを読むことに決めました。というのも、近世の枠組の作り手の一人はデカルト
だったからです。はじめは面白くありませんでした。ラテン語やフランス語の勉強もほとんど無味乾燥
で、辞書を引く作業が苦痛だったこともあります。しかし、そうやって少しずつ読んでゆくうちに、だ
んだんと面白くなっていったのです。たしかに、デカルトを読んでいると、実に用意周到であることが
分かります。簡単には反駁できないな、と感じます。あるいは、危ういバランスの下に成立しているこ
とが分かってきます。こうして、デカルトが私の哲学のベースキャンプになったのです。
 もっとも、大学で哲学を専攻することに決める前は、文学をやろうと思っていました。フランス文学
か、国文学か、という選択肢です。いっそロシア文学をやろうか、と考えたこともあります。またとき
には、中国哲学に魅力を感じていた時期もありました。しかし、最終的に哲学を選択したのは、不遜に
も文学は独りでもできると勘違いしたからです。しかも、哲学をやるにしても、あくまで文学の肥やし
にするつもりでした。そうこうしているうちに、ミイラ取りがミイラになってしまった、というわけで
す。ただし、いまでも文学は私の心の支えです。とくに短篇小説が好きで、10代後半には、小説を一万
篇読んでやろうと志したほどです。いまでは、その計画にこだわってはいませんが……。
 さて、「読む」という作業は、思想系の学問にとって不可欠の要素ですが、読むと同時に、メモを遺
しておくことをお勧めします。読み放しでも構いませんが、本気で何かの本に食らいつくためには、や
はり、ノートを取りながら読んだ方が効果的です。対象が哲学の本だったならば、その注釈を作るつも
りで読んでゆくことが理想です。そして、少しでも疑問が涌いた箇所は、分かったつもりにならないで、
粘り強く問題の本質に迫る努力を惜しんではなりません。読み、調べ、考え、再び読み、さらに考え、
また読む、という作業の繰り返しです。研究の王道は、やはり、この「読む」ことにあります。きちん
と読まずして理解したつもりになることが、一番危険なのです。そうやって営々と読んでいるうちに、
いままで見逃していたことに気付くことがあります。そのときこそ、読書の醍醐味を味わえるのです。
あるいは、何のことだか分からなかったことが分かったときの喜びは、経験した者にしか実感できない
ことでしょう。読む楽しみ、それは、発見(あるいはすでに漠然と知っていたことの再発見)にあるの
です。
 なお、以下に、私が書いているブログの記事を引用しておきましょう。

  沙漠にもオアシスというものがあることを思い出した。以下に引用させていただくような文章に
 接すると、渇き切った喉が久々に潤うような気がするからである(『図書』699号(岩波書店)、
 巻頭エッセーより)。


             舐めるように読む           川本皓嗣

          近ごろ読んでいる数冊の本が、異口同音に強いメッセージを
         発している。偶然の一致かもしれないが、こちらが知らず知ら
         ず、そういう本に引き寄せられているようでもある。
          吉川幸次郎は『本居宣長』(一九七七)で、当時の錚々たる
         宣長論者たちに苦言を呈している。宣長が『古事記』の「一一
         の文章」を細大漏らさず「感性でうけとめ、理性で分析した」
         主著である『古事記伝』を、なぜ読まないのかと。それどころ
         か、「『古事記伝』の一一の細部を咀嚼玩味しての議論」抜き
         で、『うひ山ぶみ』や『石上私淑言』など使いやすい「大ざっ
         ぱな総合」の書ですませている人々を、なんと「お素人として
         はなかなか」と、からかってさえいる。
          次に、木田元の『ハイデガー拾い読み』(二○○四)。日本
         のギリシア哲学研究者のなかには、ハイデガーの古代哲学論を、
         実存哲学者の「怪しげな素人談義」程度に思っている人がいる
         そうだ。だが「忘れてもらっては困る、(…)ハイデガーだっ
         てアリストテレス研究者から出発した本格的な哲学史家である。
         (…)ハイデガーはアリストテレスのテキストをそれこそ舐め
         るように読んでいる。ギリシア語だって、たぶんあなた方より
         はるかによく読めたと思うよ」。そして、テリー・イーグルト
         ンの How to Read a Poem(二○○七)。文学理論が粗雑な抽
         象論で精読の習慣をぶち壊したというのは大嘘で、実は「理論
         の大物」はみな「細心周到な精読を行っている」という。
          バフチンがラブレーを、ベンヤミンがボードレールを、デリ
         ダがルソーを精読した、などなど。言われてみれば、まさにそ
         の通り。「舐めるように読む」、すべてはそこから始まるとい
         うメッセージである。

                (かわもとこうじ・大手前大学・比較文学)

  下手なコメントは不要であろう。とにかく、「はっ」となったことを記しておこう。

 「舐めるように読む」などという文字を見ると、若い人など怖気づくかもしれません。まさに「オタク」
を連想して、変人扱いしたくなるからです。しかし、何ごとかに心底打ち込むためには、周囲の圧力を気に
して、怯んでいてはいけないのです。諸君の琴線に触れる著述家に邂逅したら、寝食を忘れてその世界に没
頭しましょう。思いもかけない「新世界」が拡がるかもしれません。


 (3)考える

 読むことの意味をある程度お話しましたので、今度は「考える」ことに移りましょう。実を言えば、
思想系の学問にとって「読む」こと以上に大事なことは、この「考える」である、と言っても過言には
ならないでしょう。「思想」を意味する英語の《thought》も、独語の《Gedanke》も、仏語の《pensee》
(最後から2番目の e の部分にはアクサン・テギューが付く。しかし、文字化けするので、e のままに
しておいた)も、それぞれ、「考える」という動詞から派生した言葉です。したがって、「思想」の根
本にあるものは、この「考える」ことなのです。あるいは、「哲学する」と言い換えてもよいでしょう。
 たとえば、デカルトの『哲学の原理』の仏訳序文に、こんな文章が載っています。

 「ところで、哲学することなしに生きてゆこうとするのは、まさしく、目を閉じてけっして開こう
  としないのと同じことです」。

 ここで語られる「哲学すること(philosopher)」とは、一体何でしょうか。一応の定義を与えると
すれば、「従来の伝統的権威に隷従することなく、敢えて自らの理性に基づいて物事を根本から考え直
すこと」です。また、カントによれば、「哲学(die Phirosophie)」を学ぶのではなく、「哲学する
こと(philosophieren)」を学ばなければならないのです。これは、「思想(考えられたもの)」とい
う名詞(静的)と「考える」という動詞(動的)との違いであると理解することも可能でしょう。他者
の思想をいくら覚えても(たとえば、カントの『純粋理性批判』をすべて丸暗記したとしても)、それ
だけで当人がその思想を生きていることにはならないでしょう。それらの思想を自らの血肉として、さ
らに自ら考えることが必要でしょう。上で述べたように、「思想」を意味する欧米語(英 thought、独
Gedanke、仏 pensee〔後から2番目の e にはアクサン・テギューが付く〕)は、それぞれみな「考える」
という動詞(英 think、独 denken、仏 penser)から派生しています。つまり、静的な(もはや固まっ
ている)「思想」よりも、動的な(どんどん発展してゆく)「考える」がより重要なのです。
 デカルトが「哲学すること」は生きてゆく上で必要不可決なほど大切であると考え、カントが、個々
の「哲学」よりも、「哲学すること」の意義を語ったのには、もちろんそれなりの理由があります。私
たち人間は、ともすれば楽をしようとして、速断や偏見に身を任せ、それ以上思索することをやめてし
まう傾向にあります。なぜなら、「生き馬の目を抜き、生き牛の目を抉るような」現代社会にあって、
思索ばかりに現つを抜かしていたら、世の儲け話を聞き損ない、大損をしてしまうと考えられるからで
す。もちろん、たいていの場合、大雑把な世界観・人生観をもっていればこの世を渡っていくことはで
きます。個人個人の人生哲学さえあれば、それで生きてゆけるというわけです。加えて利に敏ければ、
十分に現世的な幸福を得られるのです。何を好き好んで、改めて哲学などする必要があるのでしょうか、
出来合いの人生哲学で十分にこの世を渡っていけるのに……。
 しかし、そのように営々と生きてきて、中年を過ぎ、老年に至って、ふと自らを振り返ってみると、
何もしていないことに気付き、あるいはしないで済んだことの多いことに気付き、愕然とする人もまた
数多います。なぜでしょうか。人は必ず死ぬという厳然とした事実に直面するからです。いくら金儲け
をしても、必ず死ぬ。いくら異性にもてたとしても、必ず死ぬ。どんな快楽を味わったとしても、必ず
死ぬ。この死というものから逃れる術はありません。そういった現実に気付くと、人生の意味が朦朧と
してきます。他人を蹴落としてまで生き抜いてきた自分の人生が、何やら薄汚れたものに思えてくる人
もいるでしょう。宗教に救いを求める人もいるでしょう。芸術やさまざま趣味に打ち込む人もいるでし
ょう。あるいは、酒やギャンブルや薬に溺れる人もいるでしょう。しかし、それでも癒し切れない心を
もつ人も、また、非常に多いのです。老年に至って、なおも「苦」の虜になったとすれば、何のための
人生だったのでしょうか。パスカルは、人間を「考える葦(roseau pensant)」に譬えました。私たち
は、非常に脆い存在者です。しかし、そのことを自覚できるがゆえに、人間には尊厳があるのです。
 考えて、考えて、考えて、少しでもましな人生を歩む工夫をしなければ、生まれてきた甲斐がありま
せん。したがって、思想系の学問の愉しみの一つは、この「考える」ことにあると言ってよいでしょう。


 (4)表す

 最後の第四節は「表す」です。思想系において「表現」といった場合、先ず第一に挙げられるのが「文
を書く」という行為でしょう。もっとも、「表す」には、「書く」以外に、「絵を描く」、「語る」、
「歌う」、「楽器を奏でる」、「踊る」、「芝居を演じる」等々、さまざま形態があります。しかしな
がら、思想系に最も馴染むのは、やはり「書く」でしょう。したがって、以下で、少しばかり「書く」
についてお話しましょう。
 先ず何を書くか。自分自身の力で捉えたことを、何とかして人に伝えようと思ったとき、本当に「書
く」ということの意味が見えてきます。諸君はリポートや試験の答案などで、いわば「書く」ことを強
制されていますが、これらの「書く」はまだ本物ではありません。なぜなら、動機が外在的(外圧的)
だからです。もし本当に「書く」ことがあるのならば、人に言われたから「書く」ではないはずです。
つまり、内発的な動機に支えられた「書く」でなければ、その作業はあまり楽しくありません。私は十
代のころ、心に浮かんだことを日記風にノートに記していたことがあります。その頃は純粋だったのか
もしれません。なぜなら、自分一人のために書いていたからです。いまではその純粋さは薄れてしまい
ました。論文を書くという作業も、職業になったのであまり面白くありません。しかし、「書いたもの
は残る(Scriputa maneant.)」という言葉もありますので、それを励みにしていることも否定できま
せん。もちろん、生んだ子どもはみな愚息でしかありませんが、それなりに可愛いものです。さらに、
書くことで自分が少し見えてくることもあります。「俺はこんな風に考えていたのか」ということに気
付き、愕然とすることもあります。したがって、思想系の学問を楽しむ一つの方法は、何かを書いてみ
ることにある、というわけです。現在の私が最も書くことに力を入れているのは、実はあまり大きな声
では言えないのですが、「日日是労働」という実に野暮な名前のブログです(中心記事は邦画の感想文
〔セレクト〕と震災・原発事故関連記事〔スペシャル〕です)。なお、「日日是労働スペシャル」の方
は、現在では「驢鳴犬吠」という通称を用いています。このブログを一般公開しておりますが、誰が読
んでおられるのか分らないというところがスリリングです。なお、「何でそんなものを書いているのか」
と訊かれた場合には、「もちろん、モンテーニュの『エセー』の物真似です」と答えることにしていま
す。言うまでもないことですが、『エセー』のような立派なものではとうていありませんが、私として
は「自分自身の判断力の錬磨」のつもりで書き続けています。また、最近になって、詩作を試みており
ます。10代から30代にかけて、詩もどきを書き散らしていました。就職した後、絶えてその手遊びから
遠ざかっていたのですが、50代半ばをすぎて、またぞろ詩などをものしてみようか、という気になって
います。奇妙なペン・ネームを用いて(その名前は内緒)、奇妙な詩(かどうかは判然としないもの)
を書いています。詩の朗読ライヴや版画家とのコラボの企画も実現しました(2011-2014年、2016-
18年)。さらに、流矢馬骨(ながれやばこつ)という号をつけて、川柳を吐いてみることにしました。
死ぬまでに千句が目標です。
 さて、書くことの苦手な人は、他の表現手段を模索してみるのもよいでしょう。たとえば、私はすで
に還暦を迎えてしまいましたが、きっかけさえあれば映画に出演したいと思っています。できれば高利
貸しの役で、ちょっとした因業な振舞と台詞があれば最高です(世の映画監督さん、私を起用してくだ
さい、少しなら献金もします〔笑〕)。また、パンク・ロック・ライヴで、若者に混じって踊りまくる
こともありました(過去形にしたのは、現在のところあまりに忙しくて、踊りに行く暇がないからです)。
ダンスとはとても言えないただの運動ですが、ダンシング・ハイを感じることもありました。踊ること
はダイエットとしても少しだけ有効で、始めてから3キロ体重が減りました(しかし、踊ることができ
なくなってから、何と15キロ体重が増えました。反動は恐ろしい!)。ラッパー・デビューを目論んで、
ラップの作詞をぼちぼち手掛けたこともありました(これも過去形にせざるを得ません。作詞どころか、
癒しのための音楽を聴くことも稀になっています)。さらに、たまにですが、ジョギングもしています
(これは辛うじて現在形で書くことができます。ただし、今年に入ってからは、一度もありません)。
カラオケで下手な歌をがなることもあります(これは、今でもたまにあります)。これらはすべて私な
りの「表現」です。幸いなことに、高知大学には「よさこい」関係のサークルがあるはずです。そこで、
踊ってみるのも一興でしょう。諸君の内面で、何かが変わるかもしれません。
 上で読書の大切さを挙げましたが、さらに二つの事柄に言及してみましょう。これは一般的な意味で
の「表現」とは異なるかもしれませんが、広い意味での「活動」なので、あえて挙げてみたいと思いま
す。ひとつは、「旅」です。旅行とは異なる意味での旅です。たとえば、私は、デカルトを「旅人」と
看做しておりますが、この言葉には二つの読み方が考えられます。ひとつは、普通に「たびびと」と読
みますが、もうひとつは、あえて「たびにん」と読ませます。時代劇の股旅物に出てくる侠客や、『男
はつらいよ』の主人公であるフーテンの寅さんを思い浮かべてください。デカルトのいでたちが、マン
トに鳥の羽をあしらった帽子で描かれている絵画がありますが、私の目には、縞の合羽に三度笠と大し
て変わらないよう見えます。つまり、デカルトは一種の「侠客」だったと言えないこともありません。
こんなことを書くと、真面目な人たちからきついお叱りを受けるかもしれませんが、デカルト哲学の源
泉を「旅」に求めることは、まんざら見当違いなことではないと愚考します。当てのない旅に出て、何
事かを体験することが、いかにその後の人生に大きな影響を与えるか、それは経験したことのある人に
とっては自明なことでしょう。私の教え子に、突然ベトナムに出かけてゆき、一皮むけて帰って来た学
生がいます。また、私のゼミ生ではありませんが、インドで行き倒れの人たちの世話をして来た学生の
言葉は、実に重みのあるものでした。どこに出かけるかはあまり問題ではないでしょう。大事なのは、
ここより他の場所を求めることです。
 もうひとつは、生涯を通してこころの交流をはかれる友人をもつことです。もちろん、同性でも異性
でも構いませんが、相手が異性だと妙にそのことを意識してしまう傾向があり、むしろ異性の友人をも
つことは難しいかもしれませんが……。ともあれ、友人として選ぶべき相手は、自分に対して迎合的な
態度で接する人よりも、むしろ批判的な姿勢で向かってくれる人ではないでしょうか。互いに、相手の
言行の鏡になれれば、文字通り「切磋琢磨」が実現するでしょう。
 自分を生きなければ、本当に生きたことにはならないと思います。是非、「自分」を十分に表現しな
がら生きていきましょう。Bon voyage!


 おわりに

 さて、とりとめのないことを話してきましたが、そろそろまとめに入りたいと思います。思想系の学
問に携わる人々の特徴を挙げてみたいと思います。

 ○ ロジオやロジコ
  思想系の学問を好む人は理屈っぽい。
 ○ 遊び人、アマチュアリズム
  思想系の学問を好む人は功利に関心が薄い(そのくせ、大儲けをたくらむこともある)。
 ○ 知的ストーカー 
  思想系の学問を好む人はかなりしつこい。
 ○ スキゾフラニー型(ただし、正反対のパラノイアー型もいる)
  思想系の学問を好む人は飽きっぽい。
 ○ よく言えば「唯我独尊」、悪く言えば「自分勝手」
  思想系の学問を好む人は他者によって縛られるのが大嫌い。
 ○ ひねくれ者
  思想系の学問を好む人は物事に対して「斜に構える」ことを喜ぶ。

 さて、思想系の学問を好む人の特徴を挙げましたが、実は、すべて私自身の特徴です。本当のところ
は、私のような不良品ではなく、まったく異なる文字通り立派な人もたくさんいます。諸君は、いま述
べた特徴にいくつ当てはまりますか。三つ以上あったら、迷うことはありません。思想系の学問が口を
開けて待っています。

 参考文献:『人間の輪郭 共生への理念』、拙著、不二出版、2004年。
                                                     
                                                     
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