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花摘みの頁<02>
【新選】昭和日本映画百選
【新選】平成日本映画百選
日日是労働セレクト1-3
 「日日是労働セレクト・セレクト」改メ「日日是労働セレクト1ー3」

 すでにご存知の方もいるかと存じますが、「日日是労働セレクト1」、「同セレクト2」、「同セレク
ト3」を消去しました。記事としてまだ残しておきたいものも若干あるので、次のような処理をしました。
つまり、以下に上記ブログのさらなる「セレクト」版をリリースするという方法です。直ぐ下の記事がこ
の「日日是労働セレクト1ー3」(「日日是労働セレクト・セレクト」改メ)の中では最も新しい日付の
ものです。つまり、読み進めるほど古い記事になります。ただし、後日に行った加筆訂正を含んだ日があ
ります。日誌ですから、少なくとも後日に加筆することは御法度であるはずですが、「某月某日」という
こともあり、記事内容の充実を優先させました。ご了承ください。また、頑張って「辛口」の批評を展開
しようと務めておりますので、本文に何かと読者のお気に召さない表現等が散見されるやもしれませんが、
特定の個人、団体等を誹謗中傷する目的は一切ありませんので、どうぞご理解ください。なお、感想をお
寄せいただく場合は、muto@kochi-u.ac.jp 宛でお願いいたします。


 某月某日

 現代は「洗練された野蛮(sophisticated barbarism)」の時代ではないだろうか。表立って人を攻撃す
ることは滅多にないが、その分感情が内向して、陰険の度合が増している時代と言ってもよいだろう。ま
た、表向きのマナーばかりに注意が向いて、内面の洗練がなされないまま放置されている時代と言い換え
ることもできる。したがって、そのような時代の申し子は実にお行儀がよい。しかし、内面は夜叉である。
他者に対して気は遣うが、それは他者のためではなく、自分自身の体面のためなのである。だから、心は
氷のように冷たい。そのような人を何人も見ているうちに、時代の特徴ではないかと思うようになった。
服装や立ち居振る舞いは洗練されているが、それに伴う自己省察が足りないのである。これは、本人にと
っても辛いことではないのか。もっと傍若無人に振る舞ってもよいのではないか、という逆説さえ心に浮
かんでくる。洗練された野蛮は、洗練されていない野蛮よりも質が悪い。そういう確信があるが、それを
どう表現したらよいか思案中である。


 某月某日

 また、開戦の日が来た。アジア・太平洋戦争(大東亜戦争)の意味すら曖昧で、小生の頭の中の戦争の
イメージは、日々のほほんと生きる自分にほとんど何のインパクトも与えはしない。しかし、ひとつだけ
言えることは、いかなる事情があったとしても、人あるいは人の居住する場所に向けて火器を使用するこ
との狂気を、たとえ一瞬であっても肯定してはいけないということだ。洋画の『機械仕掛けのオレンジ』*
(そんな題名だったはず)で、野蛮な精神を矯正するために、これでもかというばかりにさまざまな暴力
場面を被矯正者に無理やり見させるシーンがあったが、あれは逆効果ではないのか。嫌悪の対象も、見馴
れれば何も感じなくなる虞がある。たとえば、色褪せた戦争の映像は、嫌悪の対象にはならない。場合に
よっては、何か祭礼の日の花火のような印象すら与えかねない。また、映画『地獄の黙示録』におけるワ
ーグナーの尊大な音楽がヒュンヒュンとわななく中での出撃シーンは、人をすこぶる興奮させる。少なく
とも、小生を興奮させた。つまり、善悪の彼岸にあっという間に連れて行かれるのだ。戦争の記憶を折あ
るごとに点検し、その圧倒的な野蛮を何度でも認識し直さなければならない。人間の心の中には、つい戦
争を肯定しかねない迷妄が潜んでいるのだから……。
 とは言うものの、こんな文章を書きながら、本気で戦争について考えているわけではないのだ。まさか、
自分の身に戦争の火の粉が直接降りかかることなど死ぬまであり得ないだろう、と高をくくっているから
である。日常に埋没するというのは、まさにそういうことだ。本当は、このような「精神の弛緩」こそが
戦争を呼び込むというのに……。村上龍の小説『半島を出よ』の中で、たったひとりで処刑の中止を叫ん
で排斥される老医師が登場するが、「はたして、この人のような気概が自分にはあるだろうか」と自問し
たとき、「残念ながらない」という答えが小生の頭の中で空しくこだまする。そうすると、一体、自分は
何を守っているのだろうか。保身以外にあり得ないとすれば、もはや何をかいわんや、である。

 * 最近(2010年の暮れ)、再びこの映画を観た。『時計じかけのオレンジ(A Clockwork Orange)』
  (監督:スタンリー・キューブリック〔Stanley Kubrick〕、英国、1971年)である。


 某月某日

 文学について先輩と話していて、「今の若者はわれわれの世代の読んだ作家の名前すら知らないねェ」
ということになった。たとえば、講義中、キリスト教との関連で、トルストイ、ドストエフスキー、アン
ドレ・ジイド、三浦綾子、遠藤周作の名前を挙げても、誰も知らないというのである。たしかに、生協書
籍部の人に漏れ聞いた情報によれば、現代の人気作家の本を置くようになって、少し売り上げが伸びるよ
うになった由である。つまり、いわゆる定評ある古典作品はほとんど売れないそうである。そう言えば、
何年か前に、学生から「古典を読んでいます」という近況を報告されたとき、『源氏物語』でも読んでい
るのかと思ったら、何と太宰治だったという笑い話(若い人はなぜこの話が「笑い話」なのか分からない
かもしれない)もあった。もちろん、「古いから名作である」という図式はもはや成立しない。古典落語
がよい例であろう。そこに出てくる言葉を理解できないからである。理解できないものを頑張って理解し
ようとするには、根気よく勉強する必要がある。しかし、忙しい若者には、勉強してまで古典を読もうと
するモチベーションはない。したがって、安直な現代作品に目がいく……こんな流れではないだろうか。
時代はどんどん変わってゆく。したがって、新しい傑作が次々に生まれればよいのである。新作に負けな
い古典作品は、細々とは言え必ず残るはずである。残らないものは名作ではないのだ。そう思えば、漱石
も荷風も、たしかに永遠に触れているので、若者に読まれようが読まれまいが、それはどうでもよいこと
なのだ。


 某月某日

 「荷風抜書」

 新しい形式の祭には屡々政治的策略が潜んでいる。

 祭と騒動とは世間のがやがやする事に於いて似通ってゐる。

 わたしは三十八年の真夏東京市の市民がいかにして市内の警察署と基督教の教会を焼いたか、又巡査が
いかにして市民を斬ったか其等の事は全く知らずに年を過ごした。

 わたしは自ら文学者たる事について甚しき羞恥を感じた。以来わたしは自分の芸術の品位を江戸戯作者
のなした程度まで引下げるに如くはないと思案した。その頃からわたしは煙草入をさげ浮世絵を集め三味
線をひきはじめた。わたしは江戸末代の戯作者や浮世絵師が浦賀へ黒船が来ようが桜田御門で大老が暗殺
されようがそんな事は下民の与り知った事ではない──否とやかく申すのは却て畏多い事だと、すまして
春本や春画をかいてゐた其の瞬間の胸中をば呆れるよりは寧ろ尊敬しようと思立ったのである。

 此の官僚的指導の成功は遂に紅粉売色の婦女をも駆って白日大道を練行かせるに至った。

 然し詩興はもとより神秘不可思議のもの。招いて来らず叫んで応えるものでもない。

 教育の事業をまるで商店か会社の経営と心得てゐるらしい。

 江戸名所に興味を持つには是非とも江戸軽文学の素養がなくてはならぬ。一歩を進むれば戯作者気質で
なければならぬ。

 然し彼等は他人の私行を新聞に投書して復讐を企てたり、正義人道を名として金をゆすったり人を迫害
したりするやうな文明の武器の使用法を知らない。

 およそ近世人の喜び迎えて「便利」と呼ぶものほど意味なきものはない。

 新時代の建築に対する吾々の失望は啻に建築の様式のみに留まらず、建築と周囲の風景樹木等の不調和
なる事である。

 眼前の利にのみ齷齪して世界に二つとない自国の宝の値踏をする暇さへないとは、あまりに小国人の面
目を活躍させ過ぎた話である。

 世の中はどうでも勝手に棕櫚箒。

 われ等の意味する愛国主義は、郷土の美を永遠に保護し、国語の純化洗練に力むる事を以て第一の義務
なりと考ふるのである。

 名月や銭金いはぬ世が恋し。


 某月某日

 「漱石降板」(「文学の大罪」改題)

 このブログにタイトルを付けるのは月末のソネットもどきに限っていたので、おそらく、初めてのタイ
トル付日誌ということになる。過日にも書きはじめたのであるが、夢中になりすぎて時間オーヴァーとな
り、文章が消えてしまった。したがって、日を改めての挑戦である。ただ、テンションがかなり下がって
しまったので、あまりノリはよくない。
 さて、最近、日本銀行券の刷新があった。一万円札の福沢諭吉は続投であったが、五千円札の新渡戸稲
造と千円札の夏目漱石は降板となり、それぞれ樋口一葉、野口英世がリリーヴァーに選ばれた。このとき、
ははあ、国は科学・技術立国を謳っているから、文学を軽視した措置を取ったな、と思った。もちろん、
樋口一葉が選ばれており、しかも五千円札なんだから、むしろ「ブンガク」は昇格したんじゃないか、と
反論する向きもあろう。しかし、その反論はいただけない。一葉を採ったのは、「男女共同参画社会」を
推進する上で必要だったからだろう。それならむしろ、与謝野晶子か平塚雷鳥の方がよかったのではない
か。また、使用機会が断然多いので、影響力の点では五千円札よりも千円札の方がはるかに大きい、とい
う点に注目しなければならない。とくに、少年層への影響は甚大である。毎日のようにお目にかかれば、
漱石を読んでみようという奇特な考えに至る若者も稀ではないだろう。少なくとも、野口英世と親しんで、
科学を勉強し始めようと思い立つ少年よりは多いのではないか。さらに、一葉文学と漱石文学の影響力を
考えた場合、後者の方が何倍も大きいことを否定する人はいないだろう。つまり、漱石を煙たがって降板
させたのではないか、という勘繰りが生じるのだ。もちろん、それは「下種の勘繰り」の類かもしれない。
しかし、高校の教科書から漱石文学が消えたらしいという点を併せて考えてみると、まんざら「邪推」と
切って捨てるわけにもいくまい。もちろん、野口英世に対して特段の思いがあるわけではない。彼は、幼
い頃ひどい火傷を負ったけれども、頑張って医学者への道を進み、梅毒スピロヘータの純粋培養に成功し、
最後はアフリカで黄熱病の研究中それに感染して斃れた、いわゆる「偉人」として典型的な人物というこ
とになろうか。シュヴァイツァーと異なり、とくに独特の思想をもった人という印象もない。つまり、科
学・技術立国の象徴としては格好の人物なのである。これに対して、漱石の方はどうであろうか。
 彼の『坊ちゃん』の冒頭の一節は、漱石その人の性癖をいくらか表現していると思われる。いわく、無
鉄砲、反骨、負けず嫌い、強情っ張り、等々。学問をするようになっても、その傾向はいささかもやんで
いない。『野分』の白井道也や『三四郎』の「偉大なる暗闇」こと広田先生は、漱石の分身とは言えない
までも、大いに精神を共有する人であろう。
 かつて小生は、三四郎と広田先生のやりとりに痺れたことがある。それは有名な次のくだりである。

  「しかしこれからは日本も段々発展するでしょう」と弁護した。すると、かの男(=広田先生)
 は、すましたもので、
  「亡びるね」といった。

 広田先生は、日露戦争の祝勝気分に水をかけるような素っ気ない返事をしたのである。このような感性
は芸術家に多い感性と言える。たしか、永井荷風もそんな態度を取っていたはずだ。人々が興奮して騒い
でいるのに、ひとり醒めた顔でぼそっとそのような喧騒を嘲罵するのである。このような輩は、当局には
あまり好かれない。むしろ、「危険分子」扱いされるかもしれない。
 道也先生も生意気である。いわゆる「黄白万能主義」(今日では、「拝金主義」に当たるか)を攻撃し
てやまない。しかし、直ぐに反撃を喰らう。

  垢光りのする背広の上へ蒼い顔を出して、世の中がこうの、社会がああの、未来の国民が何のか
 のと白銅一個にさえ換算出来ぬ不生産的な言説を弄するものに存在の権利のあろう筈がない。権利
 のないものに存在を許すのは実業家の御慈悲である。無駄口を叩く学者や、蓄音機の代理をする教
 師が露命をつなぐ月々幾片の紙幣は、どこから湧いてくる。手の掌をぽんと叩けば、自ずから降る
 幾億の富の、塵の塵の末を舐めさして、生かして置くのが学者である。文士である。さては教師で
 ある。
  金の力で活きておりながら、金を誹るのは、生んで貰った親に悪体(ママ)をつくと同じ事であ
 る。その金を作ってくれる実業家を軽んずるなら食わずに死んでみるがいい。死ねるか、死に切れ
 ずに降参をするか、試して見ようと云って抛り出された時、道也は又飄然と九州を去った。

 漱石はこんなことを書く人である。これでは、やはり有罪の疑い大だ。他の箇所を見てみよう。

  「学問をするものの理想は何であろうとも──金でない事だけは慥かである」
  五六ヶ所に笑声が起こる。道也先生の裕福ならぬ事はその服装を見たものの心から取り除け
 られぬ事実である。
  (中略)
  「先達て学問を専門にする人が来て、私も妻をもろうて子が出来た。これから金を溜めねば
 ならぬ。是非とも子供に立派な教育をさせるだけは今のうちに貯蓄して置かねばならん。然し
 どうしたら貯蓄が出来るでしょうかと聞いた。
  「どうしたら学問で金がとれるだろうと云う質問程馬鹿気た事はない。学問は学者になるも
 のである。金になるものではない。学問をして金をとる工夫を考えるのは北極へ行って虎狩を
 する様なものである」
  満場は又一寸どよめいた。

 これでもう、ほぼ決定的だろう。「ぎるてぃ! です、ばい、はんぎんぐ」である。かくして、漱石は、
「文学の大罪」ゆえに、栄えあるお札の肖像の座を降ろされたのである。
 ところで、一万円札の御仁である福沢諭吉は、『学問のすゝめ』の中で、「実学」を指して、いわゆる
「読み書き算盤」に加えて、「地理学」、「究理学(=自然科学を含めた、広い意味での哲学)」、「歴
史」、「経済学」、「修身学(=道徳、倫理学)」のことである、と記している。今日では、「実学」と
いうよりも「教養」のことを指しているようである。ただし、文学だけは「実がない」として斥けている。
 蛇足ながら、最近読んでいる小説(村上龍、『半島を出よ』)の中にこんな一節を見付けた。

  でもね、あいつら(=侵攻軍)そのうち必ずボロを出すよ。教養がないからね。ポル=ポトも
 ナチスも最後は教養がなくて負けたんだから。

 果たして、文学は教養なのだろうか。それとも罪悪なのだろうか。


 某月某日

 「先生はなぜフィクションを研究材料として取り上げるのですか」と学生に訊かれることがある。その
ような質問の裏側には、事実を扱わなければ「倫理の実相」は見えてこないのではないですか、という批
判が含まれていると思われる。小生はこのような批判に以下で反論を試みたい。
 ところで、『茶の味』(監督:石井克人、レントラックジャパン=クロックワークス、2003年)の「ア
ヤノ」役を演じている浅野忠信にこんな台詞がある。「なぜミキサー(音楽においてミキシング、すなわ
ち、複数の音源の音を相互にバランスをとったり、組み合わせを変えたりして一つの信号にまとめる操作
をする技師)やってるのって訊かれるけど、俺に言わせれば、なぜミキサーやらないの、って感じ」(正
確ではない)。この台詞に仮託すると、「なぜフィクションを研究材料として取り上げるのって訊かれる
けど、俺に言わせれば、なぜフィクションを研究材料として取り上げないの、って感じ」となる。十分で
はないかもしれないが、お答えしよう。
 先ず、生(なま)の材料、すなわち、いわゆる「事実」と言われる事柄には、1.接近が難しいこと、
2.仮に接近に成功したとしても、倫理的な事柄を探求しようとすると、相手の生活を乱す元凶になるこ
と、3.相手の生活を脅かさなかったとしても、「私事」を他人が軽々しく扱ってはいけないということ、
などの障礙があって、事実は非常に扱いにくいのである。また、「事実は小説より奇なり」という諺があ
るが、4.そのように「奇なる」事実など、日常にはそうそう転がってはいないということも挙げられる。
 これに比べて、フィクションには次のような利点がある。1.接近がきわめて容易であるということ。
たとえば、塩煎餅をかじりながらでも「殺人事件」の謎解きを楽しむことができる。2.完全に事実と乖
離した物語は理解されないので、何らかのかたちで事実とつながっているということ。3.自分は常に享
受する世界の外にいるということ。つまり、いわゆる「安全圏」にいられるということ。4.一人の人間
には一生かけても経験できない多くの事柄を、登場人物を通していくらでも疑似体験できるということ。
5.基本的に誰も傷つけないし、誰からも傷つけられない。ただし、作品の毒にかぶれることがあるが……。
6.そもそも、小生は、「事実」と言われることどもを疑っており、そんなものはない、つまり、すべて
の事象には人の解釈が入るので、生(なま)の事実などはない、という立場に立っており、それならば、
最初から「虚構」の方が受け容れやすいのである。
 厖大な数の小説、映画、漫画、演劇などを通して浮かび上がってくる世界には、そうそうリアリティの
あるものはない。つまり、傑作は寡ないのである。しかし、堆く積まれた凡作の頂点には、奇跡のような
傑作もないわけではない。そのような作品は、当然のごとく小生に衝撃を与える。そして、何らかの思索
の種を与えてくれるのである。その種が自分の中で醗酵するまで、どのくらいの時間がかかるかは自分で
も分からない。種のまま忘れ去られてしまうかもしれない。小生は、それでもよい、と思っている。した
がって、どんな作品であれ、できるだけ丁寧に鑑賞したいと思う。作者の意図を誤解することがほとんど
だとは思うが、たまには正確に読み取ることもあるだろう。そうすれば、自分自身の精神の糧にできるだ
ろうし、より深い人間理解に近付けると思うから……。
 「人間を知りたい」、これが小生の古くからの野望である。


 某月某日

 「歌は世に連れ、世は歌に連れ」という言葉があるが、映画も世相を反映するという点で、同様のこと
が言えるのではないだろうか。たとえば、映画を分析する場合、その製作された時代背景も重要な要素と
なる。たとえば、『曼陀羅』(監督:実相寺昭雄、実相寺プロ=ATG、1971年)や『竜馬暗殺』(監督:
黒木和雄、映画同人社=ATG、1974年)には、明らかに70年安保闘争前後の雰囲気が持ち込まれている。
また、政治的な着色はほとんど施されてはいないが、『書を捨てよ町へ出よう』(監督:寺山修司、人力
飛行機舎=ATG、1971年)、『旅の重さ』(監督:斎藤耕一、松竹、1972年)、『津軽じょんがら節』
(監督:斎藤耕一、斎藤プロ=ATG、1973年)、『田園に死す』(監督:寺山修司、人力飛行機舎=ATG、
1974年)、『八月の濡れた砂』(監督:藤田敏八、日活、1974年)などには、いずれもはけ口を求めて彷
徨する若者の暗い情念が描かれている。多くはアート・シアター・ギルド(ATG)が関わっているが、偶然
ではないだろう。筆者の世代の一部には(もちろん、筆者も含む)、ATG 絡みの映画を必要以上に評価す
る傾向があるから……。ちなみに、その十年前の60年安保闘争のときには、『日本の夜と霧』(監督:大
島渚、松竹大船、1960年)が公開されているが、この映画は、興行的失敗を理由に三日で上映を打ち切ら
れたといういわくつきの作品である。筆者もヴィデオで鑑賞したことがあるが、薹が立った佐藤慶や戸浦
六宏の学生服姿での議論の、何とも言えない強烈な違和感が印象深い。つまり、『日本春歌考』(監督:
大島渚、創造社、1967年)などと同様、台詞が生硬なせいか、あるいは、筆者のような「遅れてきた世代」
にとって現実感が乏しいせいか、素直には入って行けないものを感じる。
 また、『ウホッホ探検隊』(監督:根岸吉太郎、ニュー・センチュリー・プロデューサーズ=ディレク
ターズ・カンパニー=日本テレビ、1986年)、『木村家の人々』(監督:滝田洋二郎、フジテレビジョン、
1988年)、『キッチン』(監督:森田芳光、光和インターナショナル、1989年)などには、バブル経済崩
壊前夜の、何とも裕福で、それでいて腑抜けな情景が展開している。製作母体が揃ってカタカナなのも、
あの時代を映している気がしてくる。
 さらに、この二つの時代をつなぐ70年代後半から80年代前半にかけては、『祭りの準備』(監督:黒木和
雄、綜映社=映画同人社=ATG、1975年)、『愛のコリーダ』(監督:大島渚、アルゴスフィルム=オセア
ニック=大島渚プロ、1976年)、『青春の殺人者』(監督:長谷川和彦、今村プロ=綜映社=ATG、1976年)、
『鬼畜』(監督:野村芳太郎、松竹、1977年)、『復讐するは我にあり』(監督:今村昌平、松竹=今村
プロ、1979年)、『ツィゴイネルワイゼン』(監督:鈴木清順、シネマ・プラネット、1980年)、『遠雷』
(監督:根岸吉太郎、にっかつ=ニュー・センチュリー・プロデューサーズ=ATG、1981年)、『ガキ帝国』
(監督:井筒和幸、ATG=プレイガイドジャーナル社、1981年)、『泥の河』(監督:小栗康平、木村プロ、
1981年)、『蒲田行進曲』(監督:深作欣二、松竹=角川春樹事務所、1982年)、『戦場のメリー・クリス
マス』(監督:大島渚、日・英・ニュージーランド合作、1983年)、『家族ゲーム』(監督:森田芳光、に
っかつ=ニュー・センチュリー・プロデューサーズ=ATG、1983年)、『魚影の群れ』(監督:相米慎二、
松竹、1983年)、『お葬式』(監督:伊丹十三、伊丹プロ=ニュー・センチュリー・プロデューサーズ、19
84年)、『逆噴射家族』(監督:石井聰亙、ディレクターズ・カンパニー=国際放映=ATG、1984年)、『さ
びしんぼう』(監督:大林宣彦、東宝=アミューズシネマシティ、1985年)、『それから』(監督:森田芳
光、東映、1985年)などの問題作が次々と発表されており、映画が単なる娯楽のための産物ではないことが
よく分かる。少なくとも、上で挙げた作品の多くは「上質な娯楽」と呼べる作品群である、と仮に言い切っ
たとしても、異論はそれほど出ないだろう。
 1990年代以降の映画は、その前の時代の遺物と少しずつ交替しながら、新しい波を呼んでいる。もっとも、
映画監督自身はそれほど若くはないので、完全に新しいものが出てくるのは、2020年頃ではないかと踏んで
いる。平成元年生まれの人が30歳を越える頃である。もし、その頃にも小生に生命があったなら、「生きて
いてよかった」と思われる映画に出会いたい。浅野君は50歳少し前になっているはず。どんな成長を遂げて
いるか、ちょっと楽しみ。松田優作のように、死ぬなよ。


 某月某日

 過日、《broken family》について書いたが、補足しておきたい。映画を観ていて、まったく「家族」が
絡まない作品は少ない。もちろん、「家族」を真正面から主題的に取り上げた作品はそれほど多くはないが、
どんな作品にも副次的に「家族」の問題が顔を出している。中でも、『積木くずし』、『誰も知らない』、
『害虫』などは、深刻さの度合が高いと思われる。何とか「家族」を維持している作品でも、さまざまな
問題を抱えている。そのうち、一次産業(ここに、鉱業を含める)が背景の一つとなっている作品は、何
故か人のノスタルジーを刺激するようである。後継者がいないので、高齢化している。自然相手なので、
月給取りとは異なり所得が不安定。基本的に、3K仕事である。嫁の来てがなかなかない、などいろいろ
大変である。都会から田舎に移り住んで、漁業や農業に商売替えをする人もちらほら出てきた(筆者の知
人に、大学の教員をやめて漁業に転職しようとしている人がいる)。成功譚でいいから、そのような人々
の生活を丹念に描いた映画があってもよいと思う。そのような映画を観て、自分の人生の指針になる人も
いないわけではないだろう。それでは、一次産業絡みの作品にはどんなものがあるだろうか? 直ぐに思
いつく作品を挙げてみよう。

 水産業:『第五福竜丸』、『津軽じょんがら節』、『魚影の群れ』、『赤い橋の下のぬるい水』、
     『ホタル』、『海猫』、『蟹工船』(新旧、2作あり)、『あれが港の灯だ』、『新網
     走番外地・さいはての流れ者』、『ジャコ萬と鉄』、『人魚伝説』、『執炎』、『月の
     下まで』。
 農林業:『ともしび』、『警察日記』、『続・警察日記』、『裸の島』、『野菊の如き君なりき』、
     『武器なき斗い』、『橋のない川(第一部)』、『橋のない川(第二部)』、『七人の
     侍』、『荷車の歌』、『みんなわが子』、『白昼の通り魔』、『楢山節考』(新旧、2
     作あり)、『息子』、『遠雷』、『瀬降り物語』、『落葉樹』、『さらば愛しき大地』、
     『同胞』、『越後つついし親不知』、『気違い部落』、『東京ロマンス 重盛君上京す』、
     『草を刈る娘』、『家路』、『ふるさと』、『曼陀羅』(産業というよりも、伝統的な
     農耕)、『ニッポン国古屋敷村』[筆者、未見]、『1000年刻みの日時計 牧野村物語』
     [筆者、未見]、『遥かなる山の呼び声』(酪農)、『男はつらいよ・寅次郎忘れな草』
     (酪農)、『希望の国』(酪農)、『銀の匙』(酪農)、『山びこ学校』(農林業)、
     『鉄<TEKKEN>拳』(林業)、『WOOD JOB! 神去なあなあ日常』(林業)、『キツツキと
     雨』(林業)、『清作の妻』(畑作)、『キクとイサム』(養蚕と畑作)。
 鉱業から畜産業へ:『家族』。
 農漁村(半農半漁):『米』。

 意外に少ない。所詮、映画は都会のものなのか。おそらく、上辺しか撮れないのならば、最初から撮ら
ない、というのが映画人のスタンスなのであろう。最近の作品でも、自然描写の優れた作品(『夢』、
『茶の味』、『阿弥陀堂だより』など)はあるけれども、そこには厳しい生活の匂いはない。しかし、
一次産業を背景にした物語はたくさんあるはずである。描かない、あるいは、描けないだけである。日本
人の古い生活が滅び去る前に、国は積極的にそのような映画製作を助成すべきだと思う。もっとも、映画
人には反逆児が多いので、「けっ」と言われるかもしれない。


 某月某日

 「ニュー・ファミリー」(もはや死語か?)を描いた邦画には、次のような作品がある。

 『逆噴射家族』、『家族ゲーム』、『木村家の人々』、『ひき逃げファミリー』、『エバラ家の人々』
 [筆者、未見]、『渋滞』、『ホーム・スイートホーム』、『カタクリ家の幸福』、『静かな生活』、
 『家族シネマ』(正式には、韓国映画)、『茶の味』、『キッチン』、『ウホッホ探検隊』、『きら
 きらひかる』、『お引越し』、『卓球温泉』、『折り梅』、『沙羅双樹』、『わたしのグランパ』、
 『珈琲時光』、『空中庭園』、『ビジターQ』、『悲しくなるほど不実な夜空に』、『蛇イチゴ』、
 『ゆれる』、『ぐるりのこと。』、『酒井家のしあわせ』、『歩いても歩いても』、『幸福な食卓』、
 『大阪ハムレット』、『東京タワー オカンとボクと、時々、オトン』、『トウキョウソナタ』、
 『なくもんか』、『松ヶ根乱射事件』、『紀子の食卓』、『冷たい熱帯魚』、『家族X』、『そして
 父になる』、『家路』、『そこのみにて光輝く』、『しあわせ家族計画』、『捨てがたき人々』、
 『俺はまだ本気出してないだけ』、『ドライブイン蒲生』、『かぞくのひけつ』、『初夜と蓮根』、
 『渇き。』、『海街diary』、『岸辺の旅』、『ROLLING ローリング』、『たみおのしあわせ』、
 『莫逆家族(バクギャクファミーリア)』、『怒り』、『悼む人』、『ぼくたちの家族』、『0.5ミリ』、
 等々。

 これらの邦画の一部に、奇妙な共通項を発見した。それは、『逆噴射家族』、『ひき逃げファミリー』、
『ホーム・スイートホーム』、『カタクリ家の幸福』、『茶の味』、『松ヶ根乱射事件』に共通する項目で、
いずれも同居の家族の中に鰥の祖父がいるということである。例外の一つは『折り梅』であり、寡婦の祖母
がいる。また、山田洋次が描いた『家族』(この邦画は「ニュー・ファミリーもの」とは言い難い)にも当
てはまる事項である。さらに、『わたしのグランパ』にも、鰥同然の祖父が出てくる。念のために、祖父役
(一部、祖母役)の役者名と寸評を添えておく。

 『逆噴射家族』
  植木等(やたらと元気がよい元軍人)
 『ひき逃げファミリー』
  仲谷昇(頼りないが、熔接にかけてはプロはだし)
 『ホーム・スイートホーム』
  神山繁(「認知症」気味の元オペラ歌手)
 『カタクリ家の幸福』
  丹波哲郎(前向きな性格で、くよくよしない)
 『茶の味』
  我修院達也(元アニメーターにして怪人)
 『松ヶ根乱射事件』
  榎木兵衛(認知症であることで存在感抜群)
 『折り梅』(祖母という点で、例外)
  吉行和子(アルツハイマーだが、絵の才能が発掘される)
 『家族』(ニューファミリーではないという点で、例外)
  笠智衆(こころ優しき大人)
 『わたしのグランパ』(実際には鰥ではないという点で、例外)
  菅原文太(昔風の任侠道を追求する時代の超越者)

 疑問点としては、「なぜ祖母ではないのか?」もしくは「なぜ祖母はいないのか?」が挙げられる。特
長としては、「普段は他の家族から浮いているが、肝心なときには光彩を放つ」が共通している。祖母だ
と家事など使い勝手がよいために(潰しが効くために)家族に溶け込んでしまって、その分物語が平凡に
なってしまうからか(ただし、『折り梅』の祖母は、作品の後半に至るまではかなり厄介な存在として描
かれている)。また、隠退の身なれど、昔取った杵柄が見え隠れするほど、物語に含みをもたせることが
できるからか。大島渚の『儀式』に出てくる家父長(佐藤慶)とは、およそタイプの違う高齢者たちであ
る。ともあれ、夫婦のうち、男が生き残る方が悲劇性があるらしい。『息子』や『生きたい』(ともに、
三國連太郎が主役)の男鰥はうらぶれた感じを醸し出しているが、『阿弥陀堂だより』(北林谷栄)や
『午後の遺言状』(杉村春子)の寡婦役には、ともに逞しささえ感じる。この辺りに何か秘密がありそう
である。


 某月某日

 人間社会には「禁忌(taboo/tabu)」がたくさんあって、その最たるものが、「人肉食」、「近親殺」、
「近親相姦」であろう。現在、「家族」を研究する一環として、邦画のDVDを大量に鑑賞しているとい
うことはこのブログでも報告済みであるが、上記の三つのおぞましいテーマも、予想通りではあるにせよ、
さまざまなかたちで取り上げられていることが分かった。そもそも映画は日常の文脈からかなり離れたと
ころに成立しやすいので、それもやむなしであるが、現実の暗部を映す鏡としての役割は果たしていると
言えよう。以下に、上記のテーマが取り上げられている映画を紹介してみよう。

 「人肉食」 『野火』(1959年)、『人間』、『ひかりごけ』、『ゆきゆきて、神軍』、『きけ、わだ
       つみの声 Last Friends』、『追悼のざわめき』、『HOUSE ハウス』、『マリアの胃袋』、
       『女囚さそり・けもの部屋』、『深い河』、『野火』(2014年)、『軍旗はためく下に』
       [筆者、未見]、『聖母観音大菩薩』(言葉の上だけ)、『スタア』。
 「近親殺」 『青春の殺人者』(両親殺し)、『イズ・エー』(父殺し)、『田園に死す』
       (母殺し)、『鬼畜』(子殺し)、『妹』(夫殺し)、『死んでもいい』
       (夫殺し)、『うなぎ』(妻殺し)、『半落ち』(妻殺し)、『SURVIVE STYLE
        5+』(妻殺し)、『PiCNiC』(姉の妹殺し)、『顔』(姉の妹殺し)、『双生
        児』(男の双子同士の殺し合い)、『OUT』(夫殺し)、『妻は告白する』
       (夫殺し)、『女囚さそり・第41雑居房』(子殺し)、『IZO』(母殺し)、
       『追悼のざわめき』(兄の妹殺し、および、妹の兄殺し)、『閉じる日』(父殺し)、
       『狂走情死考』(夫殺し)、『肌の隙間』(息子の母殺し)、『17歳の風景』(息
       子の母殺し)、『北陸代理戦争』(妹の兄殺し)、『新・女囚さそり701号』(妹の
       姉殺し。ただし、冤罪)、『冷たい熱帯魚』(夫の妻殺し、妻の夫殺し)、『みな殺し
       の霊歌』(妹の兄殺し)、『ヒミズ』(父殺し)、『セイジ -陸の魚-』(両親殺し)、
       『共喰い』(夫殺し)、『約束』(夫殺し)、『凶悪』(家族の父〔夫〕殺し)、
       『ルームメイト』(娘の母殺し)、『唐獅子警察』(腹違いの兄弟同士の殺し合い)、
       『今日子と修一の場合』(息子の父殺し)、『子宮に沈める』(母の子殺し)、
       『パズル』(息子の父殺し)、『白夜行』(息子の父殺し)、『悼む人』(夫殺し)、
       『カインの末裔』(息子の母殺し)、『いのち・ぼうにふろう』(息子の母殺し)、
       『絞殺』(娘の義父殺し、実父の息子殺し)、『暴力』(娘の養父殺し)、『薔薇の
       葬列』(息子の母殺し)、『グラスホッパー』(息子の父殺し)。
 「近親相姦」 『祭りの準備』(母と息子)、『音楽』(兄と妹)、『悪魔が来りて笛を吹く』
        (異腹の兄と妹)、『津軽じょんがら節』(兄と妹)、『三月のライオン』(兄
        と妹)、『無常』(姉と弟)、『妹と油揚』(兄と妹)[筆者、未見]、『嗤う
        伊右衛門』(兄と妹、もしかすると、母と息子も)、『のんきな姉さん』(姉と
        弟)、『神々の深き欲望』(兄と妹)、『もっとしなやかに もっとしたたかに』
        (父と娘)、『さよならみどりちゃん』(擬似的、兄と妹)、『沙耶のいる透視
        図』(母と息子)、『告白的女優論』(継父と娘)、『水で書かれた物語』(母
        と息子、および、異母兄弟)、『愛しき日々よ』(母と息子)[筆者、未見]、
        『女囚さそり・第41雑居房』(父と娘)、『女囚さそり・けもの部屋』(兄と妹)、
        『追悼のざわめき』(兄と妹)、『閉じる日』(父と娘、および、姉と弟)、
        『狂走情死考』(義姉と義弟)、『さらば愛しのやくざ』(擬似的、異母兄妹)、
        『蔵の中』(姉と弟)、『ビジターQ』(父と娘)、『肌の隙間』(叔母と甥)、
        『壁の中の秘事』(姉と弟)、『全身と小指』(兄と妹)、『天城越え』(母と
        叔父、つまり姉弟か)、『愛のむきだし』(義兄妹)、『幸福』(兄と妹) 、
        『くりいむレモン』(義兄妹)、『奇妙なサーカス』(父と娘)、『地下鉄
        (メトロ)に乗って』(異母兄妹)、『腑抜けども、悲しみの愛を見せろ』
        (異父兄妹か、あるいは、血縁関係のない兄妹)、『凶弾』(近親相姦を疑わ
        れる姉弟。姉のために弟は殺人事件を起こしている)、『競輪上人行状記』
        (義理の父と娘)、『そこのみにて光輝く』(呆けた父と娘)、『私の男』
        (父と娘)、『コクリコ坂から』(兄妹ではないかという疑惑が生じたが、実
        際には違った)、『さまよえる脳髄』(母と息子)、『バブルへGO!! タイム
        マシンはドラム式』(父と娘。時空を超えたニアミス)、『パズル』(父と娘)、
        『聖母観音大菩薩』(誹謗中傷の言葉としてだけ)、『湯殿山麓呪い村』(兄
        と妹)[筆者、未見]、『地獄』(1979年、異母兄妹)、『絞殺』(義父と娘、
        母と息子[未遂])、『任侠外伝 玄界灘』(父と娘)、『薔薇の葬列』(父と
        息子)。

 実際におぞましい映像があるもの、ないもの、観念上のもの、さまざまであるが、それぞれ暗いテーマ
を懸命に描いていると思う。さすがに、筒井康隆ばりに「近親人肉食」を扱った映画を観たことはないが、
小生が知らないだけで、世の中にはそのような試みもあるかもしれない*。いずれにしても、「家族」と
いう密室は倫理を考える上での宝庫であると同時に、窺い知れない闇でもある。

 * 後日追加した『追悼のざわめき』には、まさに「近親人肉食」が描かれている。

                                                 
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